白藤
宮本百合子



 夢で見たような一つの思い出がある。

 小さい自分が、ピアノの前で腰かけにかけている。脚をぶらぶらさせて、そして、指でポツン、ポツンと音を出している。はにかんで、ほんとうに弾けるようには指を動かさないで、音だけ出しているのであった。

 わきに、一人の若い女のひとが立っていた。ふっくりした二枚重ねの襟もとのところが美しい感じで印象されているが、顔だちや声やは思い出せない。何を話したのだろう、それも忘れてしまっている。ただ、若い女のひとの、幼い自分により添って立っていたほのあたたかさ、ゆたかに美しかった襟もとの感じばかりがのこされている。

 何年かたった。初めて小説が発表された。それについては、嬉しいこと、いやなこと、訳の分らないことが重って十八歳の自分に折りたたまって来たのであったが、そういう頃の或る日、母が、

「古田中さんのところで、お前をよんで下さったよ」

と云った。古田中さんと云われて、わたしにすぐ見当がつかなかった。

「お孝さんさ。うちへ来なすったこともあったじゃないの」

「そうだったかしら」

 どうもはっきりしないまま、その日は夕方から母に連れられて、俥に永いこと乗って古田中さんのお家へ上った。芝の清正公のそばの二階のあるお家であった。

 初冬の時節ででもあったのではなかったろうか。二階のお座敷は賑やかで、夫人のほかに、若い男のひとも何人か居合わせ、小さいお嬢さん坊ちゃんも、そこの襖から出入りした。勿論御主人も居られた。歓待して頂いた。若い娘らしくそれを十分に感じ、くつろいだ、なついた調子で、啄木の歌がすきだというようなことまでお話しした覚えがある。

 その晩も、母がそのお座敷で、私が幼い記憶にあるお孝さんと現在の古田中夫人とを結びつけかねている可笑しさを話し、一座の人々は笑いながら、無理もない、という風に私の味方をして下すった。自分も笑い出しながら、改めてそっとお孝さんのお顔を眺め、ふくよかな全体の感じにあの美しい襟もとと共通なものを知りながら、其でもやっぱり、あのひとがとりもなおさずこの方という工合にはぴったりと会得出来ず、今の姿で、環境で初対面の思いがするのを不思議に考えるのであった。


 私たち中條の子供たち、特に上の二人にとって、西村の伯父様という名は、特別に親しみがあった。その伯父様はいつも、品川の伯父さんと母に呼ばれ、明治三十七年頃から数年間父が外国暮しをしていた間、若い母は子供三人、義妹義弟との生活のなかで、少なからず、「品川の伯父さん」に心だよりを感じていたらしく思われる。

 母の父、私たちにとって西村のおじいさんになる人は、明治三十五年ごろに没していて、向島の生家には、祖母と一彰さんと龍ちゃんという男の子がいた。

 風呂場のわきにかなり大きい池があって、その水の面は青みどろで覆われ、土蔵に錦絵があったり、茶の間にはお灸の匂いが微かにのこっているという風な向島の家は、陰気でいつもいろいろのごたごたがあった。

 向島のおばあさんと母とが、林町のうちの長火鉢の前で二人とも涙をこぼしながら何か云いつのっているのを、小さい私が雪どけ水の落ちる軒下で龍の髯をぬきながら、困惑した気持できいていたようなこともある。

 たった一人の妹とも、母は苦しい縺れのまま生涯過した。

 小さい娘に母は品川の伯父さんが、明治の日本へ初めて近代の皮革事業をもたらした見識を賞讚してきかせた。

「謙吉さんが生きていてくれて、品川の伯父さんと一緒だったら、お母さまもどんなに安心だったかしれないのにね」

とも云った。

 謙吉さんというのは母の長兄で、アメリカへ行っていて、帰ったら程なく気が変になった。田端の白梅の咲いている日当りよい崖の上に奥さんと暮していて、一日じゅう障子の前に座り、一つ一つと紙に指で穴をあけて、それを見て笑っているという気違いであった。そして遂に正気に戻らず亡くなった。

 品川の伯父さんは、良人が留守な姪の子たちを丈夫にしてやろうと、大磯の妙大寺(ほんとはどんな字を書いたのかしら、わからないが)という寺の座敷を一夏借りて、皿小鉢のようなものまで準備された。

 西村の祖母、母、子供三人の同勢はそこへ出かけて、子供らは、生れてはじめて海岸の巖の間で波と遊ぶ面白さを味った。

 お寺の座敷の横は深い竹藪であった。裏に蓮池があった。蓮の実をぬいて喰べることをお寺の小僧から習った。雨が降ると、寺の低い方にある墓場で、火が燃える。夜になると雨戸のところから其が見えると、ぞくぞくすることを教えたのも、その小坊僧さんであった。

 子供らにとって、新しい冒険と面白さの尽きない夏がはじまった。祖母と母も、新しい鰺を美味しがって、涼しい一夏を送れそうに見えた。ところが、妙なことが起って、匆々そうそうにここは引上げる始末となった。

 竹藪の方から、泥棒がみんなの借りている座敷のあたりを狙いはじめた。子供らは、何にも知らず眠るのだが、起きると、大人たちが、昨夜も貝がらを踏む跫音がした、そこの板じきに足跡がついていると、物々しいことになった。和尚さんが、いくら呼んでも起きてくれなかったと、若い母が憤慨していることもあった。

 十日ほど、そんなことが続いた揚句、一同は又来たときの行列で東京へ帰って来た。その夏、品川の伯父さんは、子供らにとってごく身近で、大磯のどこかにも来ていられるのかもしれないような塩梅だった。それでも、お目にかかったことは一遍もなかった。

 中條の子供は、どういう工合でだったか一人も、西村の伯父上にお目にかかったものがないまま、遂に没せられたのであった。

 お孝さんは、この西村の伯父さんの娘さんであった。母とはいとこ同士で、向島で暮した娘時代共に寝起きしたお登世さんという従姉をのぞいて、おそらく母が誰よりも親しんだ女いとこの一人ではなかっただろうか。

 その家の若い令嬢として、お孝さんは、私たち子供連のことも、おそらくは大磯のことも、きっと茶話に出て知っていられたことだろうと思う。

 十八九の娘にとって、十以上も小さい子たちは、何と稚いものに映ることだろう。反対に、七八つの女の児の目に年ごろの女のひとは、何と大人に思え、更にその児が成長してももうそのときは子供二人三人の母となっている年上のひとは、やはり全く別の世界にいる大人として思える。

 母がお孝さんと近くに呼ぶひとを、私はそういう心理から、古田中さんという学生っぽい呼びかたで呼び、格別お宅を訪ねるということもなく、親切なことづけを母からきいているばかりで、何年も経た。

 考えてみると、母は風変りめいたところがあっと思う。私たち子供らは、小さい時から親戚へ連れられて行くというようなことが実に少なかった。すこし大きくなっても、それは同じであった。母とお孝さんのところへ上ったのも、思えば、芝のおうちが一度ぐらいのことではなかったろうか。

 大正の中頃から昭和へかけての時分、母はお孝さんに誘われて沢田正二郎の芝居を見物するようになった。

 比較的芝居は観る方で、演芸画報をかかさずとっていたが、有名な沢正を観たのは、お孝さんのすすめによってであった。帰って来て、

「あれは、どうして熱がある。あの男は相当のものだ」

と云ったりしていた。

「あの熱のあるところが、お孝さんの気性に合うのだね。ただの役者じゃないよ」

 そして、感慨ふかげであった。

「お孝さんも熱情家だからね、品川の伯父さんの娘だけあって、あらそわれないところがある」

 シラノ・ド・ベルジュラックを白野弁十郎として演じたのは、沢正一代の傑作であり、特質を全幅に活かしたものであったろうが、母もその頃は、お孝さんの傾倒に十分の同感をもつようになっていた。

 段々接触が多くなるにつれ、お孝さんは母のいいところも至らぬところも理解されたらしいし、母もお孝さんの裡に、自分の血管のうちに流れている一種の激しい、しかも正直で術策のない、ロマンティックな要素も多い熱血を感じとったらしく思われる。

 私は、漸く人間の心持の曲折や、ことには女の生活の明暗が、いく分身にひき添えてわかる時代に入って来た。

 母の生活にあらわれる光りと翳を、女性のその時代、その年頃の生命の波だちとして感じられるようにもなり、ひいてそのことは、日本の世間のしきたりや女の暮しとして定められている形と女性本然の生活への翹望というものが、時にどんな形で相搏つものかということについて、深く心をうたれる場合を多くした。

 古田中夫人の性格というものが、徐々に一つの力をもって私にかかわるものとなって来た。

 この時分、どういう折のことだったろう。夫人は私に一つ指環を下すった。お孝さんはなかなか趣味家で、指環にも趣好があるらしいよ、というようなことを、母からきいていた。いつも、さっぱりと一つほど、気にかなった指環をして居られて、それはどれも仰々しいところのない、親愛な気分のものだった。

 私に下すったのはイタリーのカメオが金の台にとりつけられている、極くさっぱりとした品であった。柔かみのある灰色地に白で肖像のついているカメオを、装飾のない金の座で単純にとめてある。其は、母が哀慕していた謙吉さんという人が、アメリカ土産にお孝さんにあげたものだったそうだ。妹の長女である私は小さいとき、謙吉さんから養女にもらわれかかったことがあったという話も、いつか夫人につたわって、その指環をいただくことにもなったと思われる。七つ位の時、父から貰ったオパールの三つついた指環と、この指環と、二つが、きょう私のもつ指環のすべてとなっている。

 夫人と私との間に、女同士らしい話がとり交わされるようになり、私に対してもっていて下さる関心の並々でないねうちも知ったのは、更にそれから数年経って、昭和七八年頃からのことであった。

 昭和七年に、私が結婚して本郷の動坂町に家をもった。そのとき、夫人は大変よろこんで、実に美事な白藤の大鉢を祝って下すった。

 房々と白い花房を垂れ、日向でほのかに匂う三月の白藤の花の姿は、その後間もなく時代的な波瀾の裡におかれた私たち夫婦の生活の首途かどでに、今も清々として薫っている。

 その時分、古田中さんのお住居は、青山師範の裏にあたるところにあった。ある夏の夜御飯によばれ、古田中氏も微醺を帯びて、夫人の蒐集して居られる大小様々の蛙の飾りをおもしろく見たこともある。このお宅の頃は、数度上った。そして、何ということもない雑談の間に、夫人が西村家の明治時代らしく、大づかみで活溌な日常生活の中で成人された幼女時代の思い出や、妻となり母となってからの生活の感想を理解するようになった。

 母が、お孝さんは熱情家だ、と云った言葉は、おおざっぱではあるけれども、当っていると思った。

 少くとも、孝子夫人は、自分としての性格をもって居られた。その性格は、或る強さと純粋さとをもっていて、腹のきれいなと云われる人柄であったと思う。まめな、体も感情もよく働いていとわない、自分とひととの間に活々とあつく流れるものを感じていたい、そういう女性の一人であり、日々の生活をとおして、いつも溌溂と人生を感じ味おうと願っている女性の一人であったと思う。

 孝子夫人は人生の感動を、生活の中に求めるひとであったのではなかったろうか。

 多くの女性は、人間らしいこの欲望を、三十前後に失ってしまう。孝子夫人は、終生自分なりの形でそれをもちつづけた女性であった。この人間としての宝は、しかし、現実のなかでそのもち主たちを決して小さな安住の中にとどめておかないものである。さりとて日本の習俗のなかでは、闊達自在の表現で、その情熱を情熱のなりに発露させることもむずかしい。そのような社会の伝統に生まれた私たち日本の女性が、その情熱の翼さえ、おのずから短くさずけられて、重い日常から高く翔ぶにしては、未だ十分の羽搏きをし得ないという事実も、思い合わされる。

 あれやこれやの理由から、孝子夫人の資質を貫く熱い力は、よりひろくひろくと導かれ得ないで、日常身辺のことごとと対人関係の中で敏感にされ、絶えず刺戟され、些事にも渾心を傾けるということにもなったのではなかったろうか。

 二昔ほど以前の生活の環境であったらば、夫人の気質は、所謂江戸子の張りある気象と一致して放散されたものだったかもしれない。けれども大正の末、昭和へと生活は全く複雑になり、情熱のよりどころも見やすくはないものとなった。

 まことに女らしい天性によって、孝子夫人の情熱の主題は、日常生活の中での人と人との間の愛と信義、心意気と好みとの上にあつめられていたと思うのは誤りだろうか。孝子夫人は、何につけても本当に心のたっぷりさを愛していた方だと思う。自分も心のたけ、ひとも心のたけで尽し合う人間交渉を求められた。だが、遑しくなりまさる営みの間で、孝子夫人のその願いは一度二度ならず傷けられたことと思う。

 元来、品川の伯父さんと呼ばれた方が、事業上の熱意のほかにどんな趣味をもって居られたかは知らないが、孝子夫人の母上、現子夫人は、今日高齢にかかわらず、猶読書が唯一のたのしみとなっている方である。兄上の谷口辞三郎氏は、早い頃フランス文学を日本に紹介した方であるし、兄上の一人の河野桐谷氏は、日蓮の研究家、文筆の人として活動された。孝子夫人が文学について趣味の深いことは、血統のおくりものと云えるのかもしれない。

 その上に、孝子夫人の生れ合わせが、生活の間に消されてしまわない熱さで人生を求めていたとすれば、文学への好みも、内面にひとかたならぬ、きずなをもっていたわけである。

 孝子夫人は率直な方であった。それにもかかわらず、自分の詠まれた短歌、その他については、はにかみ深くて、決してひとに示したり、そういう話題を選ぶことをされなかった。

 古田中正彦氏は、文学への愛好が深く、やはり短歌に蘊蓄が浅くない上、著書も持って居られる。長女の峰子さんも、歌のことでは夫人のよい伴侶らしかった。

 私が短歌については知ることが少なかったことも、お話の出なかった一つの原因であろうと思う。

 やがて、孝子夫人にとって、多くの忍耐と勇気とを求める闘病の時期がはじまった。新宿の病院にいらっしゃる頃は、思いながらつい折を得なくて、お会いしたのは、田園調布へ移られてからであった。

 永年糖尿病をもって居られ、そこから生じた複雑な病症で、経過は困難であった。おうちの方々は実に母さん孝行で、峰子さんなどは、自分の家庭とお母さんの看病と、おどろくばかり献身された。長男の鉄夫さんが花嫁をもらわれ、勝彦さんが出征され、松の茂った丘や玉川へ向う眺望のよい病床も多端であった。

 その前ごろから、孝子夫人はラグーザ玉子の絵をいくつか集めて居られた。額のかかっている応接間まで歩いて来られ、ラグーザ玉子が、老年なのに心から絵に没頭していて質素な生活に安らいでいることや、孝子夫人の心持をよろこんで、会心の作をわけたことを快よさそうに語られた。

 ラグーザ玉子の画境は、純イタリー風で、やや古典的な確かな技法とともに、こまやかな味、平和な趣の作品が多く、それはこの老婦人画家の心の景物を示すとともに、孝子夫人の求めていられた和らぎにこたえたのであろう。

 二度目に上って、すこし時間があったとき、孝子夫人は執拗な咳こみに苦しんで居られた。その間に、わきにいる私が気味わるくないかと頻りに気をつかわれた。どうして気味などわるかろう。私は母と同じ種類の宿痾からそうやって苦痛と闘っていられる姿を全くひとごとならず感じた。

 それは、青葉の美しくなりはじめた季節で、病室からの広闊な谷間の眺めは極めて印象的であった。孝子夫人はそのとき、布団の上に坐って、燦とした緑色の外景に目をやりながら、もう数年の間病床についている妻として、御良人の生活に対する微妙な思いやりを語られた。病む妻としての苦痛や良人への同情、苦慮が溢れていて、相談のかたちで語られたそれらの言葉は私を感動させた。

 女であってみれば、孝子夫人の苦衷は十分思いやられた。御良人の語られない不如意の大さも、諒察された。けれども、私たち女が、或るひとの妻として生きることと、そして、或る人が、一人の女の生涯を妻としてわが生涯に織りあわせて生きる互の結ばれの深さは、はじめから便利、不便利を超えたことと思われる。妻の患いによっておこるさけがたい多くの不如意、それによって良人が時々挫がれそうに見えても、やはり猶もちこたえて正々堂々とその不如意に耐えようとしている心の態度こそ、妻から真直に応えられ尊敬されるべきものであり、夫婦の生活の礎と思われた。

 私なりの考えかたかもしれないが、そこを、卑俗に先走って、便宜的にすりぬけたとしたら、夫婦のよさはどこにあろう。生涯を倶にする者同士の信頼は、何を根として保たれよう。そう思えた。

 私はそのままを話し、夫人も同感のようであった。

 おそらく御良人も、何かの折にふれては、孝子夫人の痛々しいばかりなそこまでの心のうごきを、知って居られたにちがいないと思う。

 昭和十六年という年は、日本じゅうが大きい変動にめぐり会った年であった。私ひとりの身の上にも様々のことがあって、二十年ぶりで林町の家へ引越して来たり、その夏の苦しい気持は、もう引越すばかりになっている家の物干にせめては風知草の鉢でもと、買って来て夜風に眺めるほどであった。

 秋になって落ついたらばと思っているうち、はや冬となった。十二月になって八日にアメリカとの戦争が開始された。

 孝子夫人の訃報を、私はごみっぽい板じきの室に立ったままで語る妹から、伝え聞いたのであった。

 この十年の間に、私はまず母を、次いで父を喪った。いずれも只一夜の看病さえ出来ない状況の下で。そのことは一応悲しい訣れのかたちであるけれども、思い沈めて考えると、私にとっては却って我々親子の縁というものがどんなに深いかを知らせることになった。二親たちの生涯の延長として、その延長されたいのちが遭遇する歴史の姿として、私がこれらの愛するものの傍で、よしや薬をのませることさえ出来なかったとしても、私たち親と子は正真正銘親と子で、どんな力も其をさえぎることの出来ない、いとしい世代の流れをうけついだものと思われるのである。

 孝子夫人の訃報をしらされた時、私は、思わず「ああ」と声に出した。「到頭!」

 又もや、ここで、私は最も親愛なひとの一人を喪った。強くそう感じた。そして、自分のなかに、孝子夫人の俤と、様々な女性としての悲喜にみたされた生活とが、まざまざと甦った。その俤には、稚いこころに印された、ふくよかに美しい二枚重ねの襟元と、小さい羽虫を誘いよせていた日向の白藤の、ゆたかに長い花房とが馥郁として添うているのである。

 孝子夫人と母と、この二人の女いとこは、溌溂とした明治の空気のなかから生れ出て、それぞれに精一杯の生きようをした女性であった。そのことのまじりけなさの故にこそ、私たちが血縁をもって結ばれているという事実も人間史の鏡に映って云うに云えない味いに満ち、愛着の新鮮な泉をも絶やすことがないのであると思われる。

〔一九四四年十二月〕

底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社

   1981(昭和56)年320日初版発行

   1986(昭和61)年320日第4刷発行

初出:「孝子の俤」

   1944(昭和19)年12月発行

入力:柴田卓治

校正:磐余彦

2003年915日作成

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