この初冬
宮本百合子



        鏡


 父かたの祖母は晩年の僅かをのぞいて、生涯の大半は田舎住居で過ごしたひとであった。よく働いた人であった。何番目かの子供を生んで、まだ余り肥だたないうちに昔の米沢のどういう季節の関係だったのか、菜をどっさりゆで上げなければならないことがあった。大釜にクラクラ湯を煮立てて、洗った菜を入れては上げ、またあとからと入れながら、竈の火をいじっているうちに段々顔が火照って来て、かあっと眼のなかで燃え立つ思いがしたと思うとそのまま気を失った。それが始まりで、祖母は火鉢の火でも炉の火でも、からでおこっている火の色を見ていると気分がわるくなる癖があった。しかめた顔をそむけるようにして、何か掛けろっちゃ、と米沢の言葉で云った。足の裏の気持がわるいと云って、夏でも足袋はいて、草むしりしたりしていた。

 少し大きくなってから私は夏休みを此の祖母のところで過ごし、そういう時は、私に髪を結わせるのが祖母の楽しみらしかった。髪と云っても切下げ髪であった。それをよく櫛で揃えてとめるだけだったけれど、祖母の頭には一つ割合大きい疣があって、とかくそれが櫛の歯に当って、大変気持がわるかった。それへひっかけないようにそこで一寸櫛の歯を浮かす、その呼吸がのみこめた時分にはそろそろ私のかえる時が迫った。祖母の鏡立ては木目のくっきりした渋色の艷のある四角い箱のようなものであった。鏡は妙によく見えなくて、いくら拭いても見えないことには変りがなかった。

 父が何年も何年も前に一つの鏡を私にくれた。古風な唐草模様のピアノの譜面台らしいものに長方形の鏡をはめこんだもので、今だにそれを箪笥の上に立てかけて使っている。この鏡と手鏡だけが、私の朝夕の顔、泣いた顔、うれしそうにしている時の顔を映すものなのだが、考えてみれば姿見だの鏡台だのというものがその部屋に目立たない女の暮しの数も、この頃は見えないところで随分殖えて来ているのではないかしら。見えないところでというのは、婦人雑誌の口絵などでは、やっぱり三面鏡のついた化粧台が若い女性の憧れの象徴のように出されたりしているのだから。

 女が鏡に向うと誰でもいくらか表情をかえるのは面白いと思う。瞬間つい気取るようにして、眼のなかには自分を調べる色がきらめくのである。ビルの昼の休みの洗面所の鏡の前に若い女事務員たちが並んで、顔をいじりながら喋る時の独得の調子で、盛んに喋っているのも面白い。

 ベルリンで或る洒落た小物屋の店へ入って、むこうにも面白いハンド・バッグの並んだショウ・ケイスがあるからそちらへ行こうとして爪先を向けたら、いきなり鏡にぶつかった時にはほんとにおどろいた。


        自動車の運転


 日本ではまだ女のひとの生活に自動車を運転するということが普通になっていない。自動車が家にある女のひとが自分で動かせるようになりたいと思う気持はその人としては自然なのだろうが、抑々うちに自動車があるということが、日本の市民生活にとってあたりまえのことではないのだから、はたの心持もおのずから複雑にうごくと思われる。

 先年或る実業家の夫人が子供をのせた車を自分が操ってある避暑地から東京へのかえりがけ、誤って崖から墜落した事故があった。そのとき新聞は、夫人が操縦していたということにいくらか刺戟的なものをふくんだ見出しをつけて書いた。あぶない真似をしないがいいのに、そういう感じがその記事を書いたひとの感情であったと思う。

 ダットサンが、若い女のひとをつかってデモンストレーションしたことがあった。今でもつづけて行われているかどうか知らないけれども、それはやっぱり女の仕事として爽快なものとは云われない感じがあった。ダットサンぐらいは女でも自由に動かして然るべきものという心持の上に立てられた企画ではなくて、ダットサンに手が出したい階級の興味、目新らしさの要求へ、女がもって行って飾られたように見えた。そういう女のひとをのせたダットサンが街角で故障をおこして困っているところを、お手伝いしましょうか、とよって行って、動けるようになったら、ありがとう、であっさり別れず、それから細君を加えない一種の交際がはじまるというような現実もあるらしかった。そういう風に嬌態化された女の技術と生活とのありようはここでも佗しく表れているのであった。

 イヤハート夫人の「最後の飛行」を読むと、或る年の誕生日のお祝いに彼女のお母さんが一台の中古の飛行機をくれたことから、彼女の婦人飛行家としての出発が始まったことが語られていて、そういう日常の感情をこしらえた条件としてアメリカにフォードが行きわたっているということの文化上の意義を、まざまざと感じたことがあった。

 この間、或る人が岩手県の方へ旅行したら、その町ではバスの運転手が若い娘さんになっていたそうである。その話をきいて私は何かしら新鮮な感動を覚えた。ここには自動車をうごかす女の生活としてこれまでにはなかったものがあらわされている。その地方の男の手不足のひどさが語られているとともに、バスの車掌さんではなく、運転手となった娘さんたちは、どんな一生懸命な責任を負った心持でハンドルにつかまっていることだろう。新らしい仕事でひどく気づかれしながらも、よろこびや誇りは秘かに感じているであろう。戦地からかえって来て、町の×子がそうやってバスを動かしている姿にヤアと目を瞠る青年たちの顔々も見えるようだ。だけれども、男手が再び出来たとき、今バスを運転している娘さんたちの暮しは、どんな形でそこから更に変化してゆくのであろうか。


        乱菊


 近所の住っている友達のところへ行った帰り、つれ立って市場へ買ものにまわろうとして来たら、角のトタン塀の高いところに板がうちつけてあって、そこに菊花鉢ありと書いてある。附近一帯の大地主である××では、石塀をめぐらした主家のまわりに、米やと花卉栽培とをやる家があって、赤いポストが米屋の前に立っている。そこでは、切手も売るのであった。札のかかっている横を入って菊畑へ行ってみたらば、そこの棚にのって飾られているのはどれも懸崖であった。綺麗にちがいないのだけれど、竹を添えられ、強いてもためられている花の姿は窮屈である。あたり前に咲いているのはないのかしら。そんなことを云いながら、ぶらりと椎の大木の下にある門をくぐって別の庭へ歩みこんで、私共は急にばつのわるいような顔つきを合わせた。春の頃は空の植木鉢だの培養土だのがしかし呑気に雑然ころがっていた古風な大納屋が、今見れば米俵が軋む程積みあげられた貯蔵所になっていて、そこから若い棕梠の葉を折りしいてトロッコのレールが敷かれている。台の下に四輪車のついたものが精米をやっている米屋の裏の方へつづいているレールの上に置いてある。米俵はそれで運搬されている様子である。米のことが皆の心配の種になって、来月から七分搗と云われていた時、この米屋の前を通ると夜十二時頃でも煌々と電燈の光を狭い往来に溢らせていた。モーターが唸って、小僧は真白けになって疲れた動作で黙りこくって働いていた。ズックの袋に入れて札をつけた白米が店の奥に山とつまれた。馬力で米俵が運ばれて来たりした。東京市内だけでも一日に何軒とかの割合で米屋が倒れて行く。そういう話がある折であったから通りすがりに見るこの米屋の大活況は何となし感じに来るものがあるのであった。そこは朝夕郊外からの勤人が夥しく通る往来でもあったから、そういう男の人たちはどんな感情でこの米屋の店の有様を見て通るのだろうか。そんなことも思った。菊につられて何心なく裏庭まで入ってしまって、目の前に荒っぽいレール敷の米俵の山を見て私たちは、その米屋にかかわりはないのだが興醒めた気分になって出て来た。

 豊島日の出と云えば、小学校の子供が厭世自殺をしたことで一時世間の耳目をひいた町である。そこの、米の桶より空俵ばかりが目立つような米屋の店頭に、米の御注文は現金に願います、という大きい刷りものが貼り出された。

 それは近日来のことである。

 うちでは炭がなくて困っている、石炭屋へハガキを出しても音沙汰なしである。きのうの朝早く外へ出てすこし行ったら炭俵を一俵ずつ両手に下げた厚司前垂の若衆がとある家の勝手口へ入った、もしや、と思って待っていたがなかなか出て来ないし、こちらに時間があるので歩き出したら、角の電柱のはずれから可愛い茶色の朝鮮牛が無邪気な鼻面をのぞけている。見れば、その牛車一杯に炭俵が積んで来てある。男はそれを運びこんでいるのであった。又何をか云わんや、という表現はこんな場合の実感を伝え得るのである。

〔一九三九年十二月〕

底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社

   1981(昭和56)年320日初版発行

   1986(昭和61)年320日第4刷発行

底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房

   1953(昭和28)年1月発行

初出:「中外商業新報」

   1939(昭和14)年12月2、3、5日号

入力:柴田卓治

校正:磐余彦

2003年915日作成

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