くちなし
宮本百合子



        童心


 うちから二人出征している。一人は世帯持ちであるがもう一人の方はひとり者だから、手紙をうち気付でよこす約束にして出発して行った。

 行ったきり永い間何のおとさたもなかった。四ヵ月ほどして、ハガキが来た。部隊の名と自分の姓の下に名を書かないで少尉としてあった。そういう書式があるということはそのときまで知らなかった。ハガキをうちかえして眺めながらこっちからやるときは名まで書いてやれることを胴忘れして、もし同じ部隊に同じ苗字のひとが二人いたらどうするのだろうかと不図懸念したりした。

 一枚のハガキが来たきりで、又暫く音信が絶えていたところ、先日不意に航空郵便が来た。白い角封筒で、航空便として軍事郵便である。何かあった。直覚的にそう思われた。だが、その手紙は私あてではないのである。受けとる筈のものはそのとき家にいなかった。もう少しで開けて読もうかとまで気がせいたが、何かあったとしたら猶更その手紙を書かれている当人が直接自分で第一に知りたかろうと、電話をかけた。

 航空便はやはり特別な手紙であった。負傷の知らせであった。不具になる程のことはなかったが、眉間と額との傷はのこるだろうと書いてあり、治療所のベッドから書かれたものであった。そして、その負傷のしかたが、突撃中ではなく、而もいかにもまざまざと戦地の中に置かれた身の姿を思い描かしめるような事情においてであった。謂わば平凡な文字の上に、暗い河北省の闇とそこに閃く光が濃く且つ鋭く走ったような事情である。

 あの顔に向う疵では、間の抜けた丹下左膳だねと笑いながら、すぐ註文の薬品その他を揃える仕度にとりかかった。

 今年四つになる男の児がいて、その児は河北の夜に倒れたものの又従弟とでもいうつづきあいにあたっている。慰問袋を女が三人あつまって拵えているわきでその児が見物していたが、やがて、それなんなの、ときいた。「アア坊知ってるだろう、ヤーホーじちちゃん。」「知ってるよ。」「ヤーホーじちちゃんがね、支那の兵隊さんにコツンやられて痛々いしたから、お薬送ってあげるのさ。」「フーン。」男の児は両方の白眼を凝らすように気をいれて何か考えている風だったが、やがて、オリーヴ色のスウェタアから出ている小さな頭をふって、ちがうよ、と云った。ちがうじゃないか、ヤーホーじちちゃんが支那の兵隊さん、コツンしたんだよ。と云った。その児の母親もそこにいて、そうじゃないんですよ、と罐づめを袋にいれながら教えた。ヤーホーじちちゃんが痛々したんですよ。すると男の児は、殆ど泣きそうに力を入れて、ちがうったら違うよ! と強情にその反対を主張するのである。

 手紙を貰って心痛をしている若い叔母が、愉快でない面持で、妙な小僧! と云った。いやに訳が分らないんだね。本当にね、どうしたんだろうと子供の母親も考えていたが、何かに思い当ったようなばつのわるい表情になり、目にとまらないほど顔を赧らめた。そして誰にともなく、余りいつも負けるのは支那の兵隊さんときめて遊んだりばっかりしているからなんだわ、きっと、と四つの子供心に植えこまれている偏見について説明した。


        婦人画家


 茶の間で、壁のところへ一枚の油絵をよせかけて、火鉢のところからそれを眺めながら、画中のドックに入っている船と後方の丘との距離が明瞭でないとか、遠くの海上の島がもう一寸物足りないとか素人評をやっていると、女ながらもそういう画材を勉強している友達が、考えると船なんてぼろいなあ、と百円の絵一つをさばきかねる婦人画家の生活を比較した。

 現在はまだ所謂有名になっていないでも、これはと目星をつけた男の画家の絵を、コレクションとして買っている人は決して無くはなかろう。あとで価が出るからと買うのだが、価が出るということには、現在の社会のくみ立てにしたがえば、それだけその画家の芸術が成長するだろうという卑俗ながらも期待がこめられている訳である。

 婦人洋画家として今日著名なひとは既に何人かある。その制作を系統だてて蒐集しているという人が果してあるだろうか。女の画家は、画壇で統領となれないから売れないと云われるが、画壇で統領になれないのは、現在の社会へ女が入ってゆくためには、門が限られているということの一つの反映でもある。画壇政治をぬいて考えて、或る婦人画家の芸術的な発展のあとに感興を覚えて、買い集めようとする人の尠い、殆ど皆無らしいことには何か私たちを考えさせるものがある。

 事情にくわしくないから間違っているかもしれないが、婦人画家は良人が画家である場合、画面に手を入れて貰うことを余りこだわって考えていないという話を聞いた。絵のことを云っている人が、婦人画家の芸術は相手によってひどく変るし、良人のいるときは却って良人よりいい絵を描くと思われた人が、良人と別れたり死なれたりするとパッタリ駄目になるということをあげていた。

 小説と絵とのちがいどころでもあろう。けれども、そういうような便宜な習慣とでも云える仕来りのために、婦人の洋画家の芸術成長の可能性やそれに対する期待が一般にひくめられているとすれば、やっぱり残念だと思う。まして、大局ではマイナスの作用をしつつ、目前ともかくプラスである協力者をもたず、或は良人と自身との画境をはっきり弁えて自力の成熟をしようと心がけている若い少数の婦人画家たちは、現在の常識ではどっちを向いても損であり苦しいということになる。

 日本ではマダムの道楽も、大体は未だ少女歌劇の女優をひいきにするに止っているのであろうか。


        波間


 東海道線を西の方から乗って来て、食堂などにいると、この頃の空気が声高な雑談の端々から濛々とあたりをめている。儲けたり、儲けそこなったりの話である。

 或るカイタイ会社が北海道のどこかで暗礁にのりあげて三年の間ゆらゆらしていた五千トンの船を二万円で買った。ドックに入れて、四十万かけて底をはりかえた。そして、二十万円に売った。

 ドック料が一日五千円ばかりで、ドック側から云えば、なるたけ頻繁に船の出入りがある方がいい。ところが、その船の修繕には二ヵ月もかかって、その冬期は見す見す何杯かのがしてしまったが、手間どったには理由があった。

 話はヨーロッパ大戦当時にまで遡る。当時そこへ新たにドックをこしらえて儲けた某という人物があった。大戦終局とともに持ちきれなくなって、O・Tに売ることになり、O・Tから某の友人であった二人が専務として入った。その一人は技術家である。某はこの技術家と特に親交があって、将来はこの人に経営させる口約もしたのだそうである。

 最近資本系統が代って、その技術家はやめることになり、退職金を半分貰ったきりなので、愈々そのドックをやりはじめたいと、O・Tと交渉したが、某は既に没しているので、裁判沙汰となった。書類というものはなかったから、どうも技術家の不利である。そこで、もう一人の専務が羽織を一着に及んだ乾分をO・T社長宅へやった。行った人間は、白鞘をすこしのぞかせたそうだ。裁判は急転直下、有利に解決し、今度は乾分をやった方の男が音頭をとって経営しはじめたが、この男は満州へばかり度々出かけるし、濫費するので、遂に専務をやめざるを得なくなった。

 ここへ別の一人物が登場して来る。某大銀行の持っているドックで働いている人で、自分のものが時節柄欲しくなったのであろう。ごたついているところに目をつけて、例の満州へよく行く人物を、技術家の代理と称さして、先代と口約を交してあった後継息子のところへ株を貰いにやった。頼まれた人物は創立当時の価格でそれをうまく受けとって、現価で依頼人に売った。そのことは、半ヵ月も経って初めて技術家にわかった。技術家はそのようにして、今日二十年来の資産の大半を失ったのである。

 こういう有様で、その四十万円の修繕をやるにつけても、ドック会社は現金欠乏であった。そこで会社は材料を持つだけにして、労働者の方は、夫々の組から入れさせることにした。組が入れた労働者には、工場法が適用されない。そのこともあるのであった。

 会社のやりくりがうまくゆかないときには組が賃銀を立てかえる。急な設備がいるとなると、これまた組がやることになる。重り重った借金を会社は株で払うしか方法がなかったので、昨今の景気は或る組を相当な株主にしてしまった。仕事があっても、これでは儲けが皆組へ行ってしまって、会社は益々貧血するので、あるところに廃工場となっていたのを復活させて、それを組にやって、吸血をまぬかれたというのである。組の現場監督の下の親父と、その下につかわれている労働者たちとの関係は、親父が社宅をぶらりぶらり見てまわって、そこに作ってある野菜なんか、一声かけて、さっさと気に入ったのを抜いてゆくという風であるそうだ。親父の息子と喧嘩すると、その子の親たちは顔色をかえる。娘やおかみさんとしてはそのほかになかなか安心ならない親父対女の事情まである。

 直接この話と関係はないが、先達て汽車の中で隣席の男が大きな声で、いやア、あの男はやりおる。何しろ君、工場の主だった者あ毎晩のように芸者買いさせとるんだから、と云った。するとその連れが、疑わしげにニヤニヤしながら、土台本人が好きなのさ、と云った。そして、そういうことをする者があるから、はたが困るよと云いながら、どういうわけか、頻りに腹がわるいんならこれに限ると紙コップについだビールを対手に押しつけてすすめていた。

〔一九三八年一月〕

底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社

   1981(昭和56)年320日初版発行

   1986(昭和61)年320日第4刷発行

底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房

   1953(昭和28)年1月発行

初出:「中央公論」

   1938(昭和13)年1月号

入力:柴田卓治

校正:磐余彦

2003年915日作成

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