わが父
宮本百合子



 二月二日に父の葬儀を終り、なか一日置いた四日の朝、私は再びそれまでいた場所へ戻った。初めてそこへ行った時と同じ手続で或る小部屋へ入り自分の着物は一切脱いで、肌へつける物から洗いさらした藍い物ずくめになり、沢山並んで夫々番号のついている扉の一つの中に入って坐った。

 私が、全く突然、父の死を知らされたのは一月三十日の午後三時頃のことであった。遮断されていた生活からいきなり激動の三日間を暮し、再び切れ目のない単調な寒さの中にかえって来て縁のない畳が三枚しいてあるところへ坐ると、堪え難い疲労が襲って来た。張りつめた寒さと痺れるような睡たさとで、私は坐ったまま居睡りをし始めた。丁度その時分から雪が降り出し、私が何かの物音で薄目をあけ、ついでそういう生活の条件の裡ではいつとなし習慣となっている動作で左手の高い窓を見上げると、細かい金網の網目のむこうで雪は益々盛に降りしきっている。次の日とその次の日、私は寝床についた。夜と昼との境もなく眠りつづけて、眠る間に目がさめて窓を見るといつ見ても金網のむこうでと雪が降っている。父の真新しい墓標の上にもこの雪が降りつもっている、私は麻痺した頭でそう考えた。中條精一郎墓と書かれた墓標をめぐって、ここで見上げていると同じに雪片が絶え間なく舞い飛ぶ有様がまざまざと目に泛び、優しい、悲しい、同時によろこばしいような感動が鋭く、滲みとおるように胸にひろがった。ひどく降るのが二月の勢のいい雪であることが、何だか大変父の生涯や互に持っていた愛情に似つかわしく思われるのであった。

 一週間程経つと、私は日常のこまこました行事に適当の注意を払って生活出来るだけ疲れを恢復した。友達たちから、一枚一枚、悔みの手紙が届くようになった。或る時はそれを受とりに立ったままの姿勢で、或る時は板壁に向って作りつけてある小机に向い、それ等の一枚一枚を私は貪るように繰返し読むのであったが、文面に真心をこめてのべられている弔辞と、自分の胸に満ちている情感とにどこか性質の違うところがあるのを感じ、特にそのことは公衆電話のボックスのような窮屈な箱に入って悔みに対する返事の手紙を書こうとする時、一層つよく自覚されるのであった。

 いかにも父の亡くなりかたは急であった。父自身死ぬとは思っていなかったろう。一月九日に父は妹娘をつれて箱根の富士屋ホテルにいたのだそうな。そこで血尿の出るのを見つけて、慶応義塾大学病院へ電話をかけ、そのまま東京駅から真直ぐに小旅行の手鞄をもって入院した。父は休養のつもりであった。腎臓に結石のあることを診断した医師達も、そう急変が起りそうな条件は見出していなかった。六十九歳まで生きた父がもう生き続けていられなくなった生命の不調和は、亡くなる日の午後まで元気とユーモアに充ちていた丸々した体内に震撼的に現れたのであった。

 私は一月の半ばごろ面会に来た妹から極く手軽い口調で父が入院したことを知らされた。妹は背後からさす鈍い逆光線の中にコートを着た胸から上を見せて立って、いくらか寒そうな白い顔に持ち前の安らかそうな微笑をたたえながら、わざわざ、

「でもね、決して心配なさらないようにね。お父様御自分だって却ってよかったって云っていらっしゃる位なの。退院したら浜名湖へ行くんだって楽しみにしていらっしゃるわ」

とつけ加えた。三尺ほどの距りをおいて此方側に立ってその話をきいた私は、

「それがいい、それがいい」

と、いつもいろいろと計画してそれを楽しんでいる父の様子を髣髴させつつ賛成した。

「お父様は気が若いからね、入院でもなさらなければ休養なんか出来っこないんだもの。結局よかったわ。くれぐれよろしく、ね。お大事に、って、ね」

 そのときは、もう私の調べがはじまりかけていた。後一ヵ月ほどで終りそうなことがわかった。そのことも父に言伝して、夜電燈が暗くて本の読めない刻限になると、私は様々な考えの間にさしはさんで、さて来年父の七十歳の誕生日にはどんな趣向でよろこばせたものかなどと頻りに考えた。また、もし父が退院する時分私の方でも生活の条件が変ったとしたら、父はさぞ私にも一緒に何処へか行けと、云うことであろう。例によって私は行きたいような心持であり、行きたくない心持でもあるそんなときの親密な父娘問答を想像し、つまりは妹でも一緒について行くことになるのだろう、と、考えは初めに戻って、七十の誕生日には、と私は思を描くのであった。

 父はこの三四年来特に、私と一緒にいられる時は十分思いのこすところないだけ楽しく仲よく過すという心持になっていた。父と娘という互の心持から云えば考えることも出来ないような力が否応なく外から働きかけて来て、自由に会えなくなったりすることのあるのを私たちは一九三二年の春このかた知った。父独得の自然でこだわらない性格から、こういうことのさけがたさ、やむを得なさとを会得し、同時にそういうやむを得ない中断によっても変えることの出来ない父娘の愛情を極く自在な形でたのしむ術をも会得して行ったのであった。

 一年前の五月九日、翌る朝から自分の境遇が激変するとも知らず、私は午後から本郷の父の家へ遊びに行った。一昨年母がなくなってからここには父と弟夫婦と妹とが暮している。生れて半年ばかりの赤坊もいて、お祖父さんになった父は私を自分の隣りに坐らせて大賑やかに晩食をした。九時頃になったとき、私は自分宛に来ていた雑誌などを帛紗ふくさに包みながら、

「さあ、そろそろ引上げようかしら」

と云った。父は、渋い赤がちの壁紙を張った食堂の隅の安楽椅子にくつろいで、横顔をスタンドの明りに照らし出されていたが、

「なあんだ、泊って行くんじゃなかったのかい」

と如何にも不本意げに云った。

「帰ったって誰もいやしないじゃないか。泊っといで! 泊っといで!」

 手をのばして、椅子のわきに立っていた私の手を執った。

「真暗なところへ帰ったってしようがないだろう?」

「うん──でもね、明日の朝までに書いてしまわなけりゃならないものがあるの」

 手を執られたまま私は椅子をまわって父の足もとにあった低い足台に腰かけた。薄綿のどてらを着た父の膝に半ばもたれるように腕をおき、しばらく喋って私は、

「じゃまた十三日にね」

と今度こそ帰る気で立ち上った。母の命日が六月十三であった。一家揃って食事をする好い機会として父と私、そして家じゅうの者が毎月十三日、夜か昼かにきっと時間をあけておくようにしているのであった。

 父は、十三日にねという私の挨拶には直ぐ答えず、口を大きくへの字形にして悲しそうな八の字に房毛の出た眉毛を顰めながら頭をゆるくふり動かした。これは父の特徴ある身振りの一つで、気の毒な話を聞いたとき、悲しいような心持になった時、よくやるのであった。今の場合、その表情に半分のふざけた誇張が混っているのはよくわかって私は笑いながら、

「駄目よ、駄目よ」

 あわてて拒絶する恰好をした。そして一寸真面目な親しさにかえり、

「お父様だって私ぐらいの時分は、やっぱり仕事、仕事だったにきまっているくせに──」

 そして、改めて、

「左様なら」

 私はお辞儀の代りにまだそこに腰かけたままでいる父の八分どおり白い髪の毛で縁どられた頭に軽く自分の頬をふれた。父の頭は大きくて、暖かく禿げていて、体温にとけ和らげられたオー・ド・キニーヌの匂いがいつも微かにしているのであった。

 これが最後で、会わない八ヵ月の後、父は不意に、しかも日頃私が一番心配し、また避けたく思っていた事情の下で生涯を終った。母を一昨年失った時にも、私は不自由な生活に置かれていた。しかし、母のときと、今度父に死なれたのとでは、私の心持に大変ちがいがある。そのことは惶しい葬儀の取込みの間にも実にはっきり感じられた。母のとき、私は何よりも父を落胆させまいとして、始終気を張り、心臓に氷嚢を当てながらも喪の礼装を解かずにがんばり通した。当時私の心持を支配する他の理由もあって、私は涙も出ず、折々白いハンカチーフで洟をかむ父の側にひかえていた。

 一月三十日の夜かえって、人出入りのはげしい二階座敷に、父がふだん寝ていると余り違わない様子で黒羽二重の紋服をさかしまにかけられて横わっている顔を眺めた時、やっぱり私には涙が出なかった。けれども、棺をいよいよ閉じるという時、私は自分を制せられなくなって涙で顔じゅうを濡らし激しく慟哭した。可愛い、可愛いお父様。その言葉が思わず途切れ途切れに私の唇からほとばしった。どうも御苦労様でした、そういう感動が私の体じゅうを震わすのであったが、物々しい儀式の空気に制せられてそれは表現されなかった。

 父は建築家としての活動にまめであった。且つ、建築家という一つの専門技術家の立場を、今日の社会の組立ての中で出来るだけ高めて行こうとする努力においてもまめであった。それらのことは父の葬儀の式場で、弔辞としても読み上げられた。併しながら、父が一人の父として、燦きのある暖い水のように豊富自由であり、相手を活かす愛情の能力をもち、而もそういう天賦の能力について殆どまとまった自意識を持たなかった程、天真爛漫であった自然の美しさについて、心から讚歎を禁じることの出来ないのは恐らく我々肉親の子ら、その中でも最も複雑微妙な情愛に結ばれて、謂わば諸共に人生の幾峠かを踰え終せたような娘の一人である私の心持ではないであろうか。ただ可愛がられる娘、父を慕う娘、そういう関係は永い歳月のうちに次第に変化もし、成長した。この三四年間には父と一緒に過す楽しい数時間、或は真面目に落着いた短い会話が、揺がぬ充実感で互を満すところまで高まっていた。言葉で云いつくせない人間としての信頼が互を貫いていた。

 父に死なれて、私は初めて此の世に歓喜に通ずる悲しみというものも在り得ることを知った。本当に私は悲しい。しかし、その悲しさはいかにも広々としており透明で、何とも云えぬ明るさ温さに照りはえている。その悲しみがそんなだから、その悲しさではどう取乱すことも出来ず、またどう心を傷つけ歪めることも出来ない。そんな風に感じられる。生活が避けがたい波瀾を経験するようになってから、私は自分の愛する父と、たとえいつ、どこで、どのような訣れかたをしようとも、万々遺憾はないように、そういう工合に暮して置こうと心がけていた。その気合いは父にも通じていた。それにしても、その互の心持はまことに、こうもあるものか。おどろきの深い心持がある。このおどろきの感情が脈々と私を歓喜に似た感情へ動かしたのであるが、今年の二月・三月は春になってからの大雪で、私が生活していた場所の薄暗く曲った渡り廊下の外の庇合には、東京に珍しく堆たかい雪だまりが出来たりしていた、その光景は変化のない日常の中で不思議な新鮮さをもって印象にのこったが、折から目に映じるそういう荒々しい春の風物と、新しく私のうちに生じて重大な作用を営みはじめた悲しみが歓喜に溶け込む異常な感覚とは、互に生々しく交りあって波動するようで、雪だまりがやがてよごれて消えるのもなかなか忘れ難い時の推移であった。

 父と私との情愛が、独特な過程をもっていて、理窟ぬきの、黙契的な然し非常に実践的な性質を持つようになったことには、私たちの母であった人の性格が大きい関係を持っていたと考えられる。

 母は情熱的な気質で、所謂文学的で多くの美点を持っていたが、子供達に対する愛情の深さも、或る時は却ってその尊ぶべき感情の自意識の方がより強力に母の実行を打ちまかすことがあった。私はそういう母の愛についての理窟には困った。父もまた良人又は父親として、そういう点の負担を感じる機会が少くなかったであろうと思う。父と私とが永い変化に富んだ親子の生涯の間に、殆ど一遍も理窟っぽい話をし合ったことのないのは興味あることだったと思う。

 父は明治元年に米沢で生れた。十六の年初めて英語の本というものを手にとったが、絵のところが出て来て始めてそれまで其の本を逆さまにして見ていたことが分った。俺の子供の時分はひどいものだった、そんな話の出たこともあった。大学生時代、うちの経済が苦しくて外套は祖父のお古を着ていたが一冬着ると既にいい加減参っている裾が忽ちボロボロになる。すると、おばあさんがそこだけ切って縫いちぢめて、次の冬また着せる。二年、三年とそれを着て、結婚の話が起るようになって、見合いの写真をとったのが今もあるが、少し色の褪せかけた手札形の中で、角帽をかぶり、若々しい髭をつけた父が顔をこちらに向けて立ち、着ているのは切れるだけ切りちぢめて裾が膝ぐらい迄しかなくなったそのお古外套なのであった。そうと知らずに見ればハイカラだと私たちは大笑いした。

 青年時代に日清、日露と二つの戦争を経て、日露戦争前後にはイギリスに数年暮したりした父は、過去六十九年間の日本の経済の発展、変遷と歩調を合わせて、建築家としての経歴を辿って来た。大学を出て役所に入ったのを自分から罷めて、民間の一建築家として活動しはじめた四十歳の父の心持や、その頃の日本の経済的、文化的雰囲気などというものも、私として或るところ迄推察されないこともない。いつの晩だったか、やはり父が安楽椅子に、そして私がその足許にくっついて喋っていたような時、

「だってお父様、日本倶楽部だの何だのでそういう話なんかなさらないの? みんなお歴々なんじゃないの?」

と、訝しく思って訊いたことがあった。その夜の夕刊に出た何か政治的のことであった。

「そりゃそういう人もあるだろうが、俺はきらいだ、面倒くさいよ」

 父はこういうたちであった。自身は淡白に、無邪気に建築家という技術を唯一の拠りどころとして生き通した。専門が違い、細かいことは分らないながら、私は世の中での父の仕事というものを幾分観ていたから、父が一箇の建築家から曾禰達蔵博士と共同の建築事務所の経営者としての生活に移って行く意味深い歴史の変化も、恐らくは父の知らなかったに違いない関心で眺めていた。

 去年、まだ寒い時分の或る夕方のことであった。林町へ出かけて行って何心なく玄関をあけたら厚い外套を着た父が沓脱石の上に立っていて、家のものがスパッツのボタンをはめてやっているところであった。わきに、もうすっかり身仕度のすんだ一人の青年紳士が帽子を手に持って待っていて、出かけるばかりのところである。私は、覚えず少しがっかりした調子を声に出して、

「お出かけ?」

と云いながら近づいて行った。

「ほう、来たね」

 父はいかにも上機嫌な歓迎の表情で顔をあげた。

「ゆっくりしといで」

「きょう、来て下すったんだって?」

 朝のうち出かけて帰って来たら、生垣の向うから隣りの奥さんが声をかけて、お父様がいらしったようでしたよ、頻りに百合子、百合子って、大きな声で幾度もお呼びんなっていましたよ、と教えてくれた。私はそれをきいて、朝からしめっぱなしの家の雨戸をそのまんま、やって来たところなのだった。

 何だか、じゃあまた来直おそうという気もしないで、賑やかに幾分仰々しい出仕度を眺めてそこに立っていた。すると父は自分の方を人まかせにしながら、

「ああ紹介しよう」

と、こちらは××の誰さん、

「娘です」

と云った。私はその人と改めて挨拶をした。父はそのとき少し浮立って見える程であった。そして、××君とその客の名を呼びかけ、二言、三言今は思い出せないが何か単純な冗談めいたことを云った。父は自分から興にのってそれを云ったのだけれど、当の若い客の方は、いかにも長上に対する儀礼的な身のこなしで片足を引きつけるようにして、無言のまま軽く優雅に頭を下げることでその冗談に答えた。

 些細な場面であるが、ふだんそういう情景から離れて暮している私にとっては、胸にのこされるものがあった。その若い客が本来父に対してもっている顔付、感情はそのひとが下を向いていた瞬間だけその顔に閃いたことを父はまるで心付いていなかった。自分とその客との間にある内面的な距離等と云うことには一向頓着しない晴々した陽気さで、返事をされない冗談を云いながら父はその客と連立って夜の自動車で出て行った。

 活気のある無頓着さで、父は晩年になっても身なりなどちぐはぐの儘でいた。私や妹等がお父様折角この服を着たのならネクタイはああいう色だといいのに、と云ったりした。お前たちは、さすが俺の子だね。なかなか趣味がいい。そう云って大層御機嫌であるがネクタイの方は大抵そのままであった。忘れた時分に、百合子、お前三十五銭のネクタイというのを知っているかい、などと云って得意であった。

 父は腕時計をつかわず、プラチナの鎖つきの時計をもって歩いていたが、胴の方はクロームであった。最後に、箱根から慶応病院まで父の体について行った時計も恐らくはそれだったのではないかしら。この胴がクロームという時計については、忘られない話がある。余程古いことになるが或る時、林町へ遊びに行った私に、父がふっと、

「お前、俺の折りたたみナイフを持ってって使っているかい」

と訊ねた。父が初めてイギリスへ行った時買って来たもので、七つ道具が附属した便利な品であった。

「ああ、つかっていてよ」

「──時計も持ってったかい?」

 一寸声をおとすようにして、私にだけ聴えるように父はそれを云った。

「時計って──」

 我知らず私も声を低め、

「どんな?」

「プラチナの懐中時計が二つとも見えなくなっているから、お前が持って行ったのかと思っていたよ」

「知らないことよ。……本当に見えないの?」

 びっくりして私は少し高い声を出した。父には私のびっくりした表情が意外だったらしく、

「お前じゃなかったのか」

と、私の顔を見直した。

「私じゃないわ……いやだわ、お父様ったら! お盗られになったのよ」

「……ふうむ。……お前じゃなかったのか。俺はまた可愛いお前がそんなに貧乏して俺にも云えないでいるのかと思った……あれは、どっちも蓋の裏に字が彫ってあるんでね、そこまでは、どうせ気がつかないだろうと思って実は心配していたよ」

 父はいかにも気が楽になったという顔つきで私の手を自分の手の中へとった。そして情をこめてもう片方の手で上からそれをたたくようにした。

「どうもそうわかって見ると俄かに惜しくなって来た。どいつが盗ったのか、怪しからん奴だ」

 その二つの時計は父が畳廊下の小物箪笥の引出しに入れておいたのを、いつの間にか誰かに持ち出されてしまっていたのであった。今だに誰の仕業だか分らない。時計は正確ならそれで十分だと云って、父はそれから無事にのこったプラチナの鎖の先にクロームの胴をくっつけて使っていたのであった。

 私が林町で父と最後にわかれる一月ばかり前、珍らしく国府津にある小さい家で父と数日暮したことがあった。母が亡くなり、弟夫婦が林町に住むようになった当時、父は自分の居り場所がきまらないような心持であったらしく、私に向かって幾度かお前と国府津で暮そうかと云った。お前の勉強する場所がいるなら拵えてやるよと云ってもくれたが、出入りにそこが不便なばかりでなく、仲よい父娘の一方は妻に先立たれ、一方は良人と引離されている、その一対がそんな海辺の小家で睦じく生活する日々の美しさなどというものは、或る状態の気分のときの空想にはたのしく描かれるかもしれないが、けれども現実に動く生活を必要とする自分たちのような父娘には実際問題としてなりたたないことと思えた。

 父もその時は久しぶりの国府津であった。私達は薪を燃した大きい炉の前で波の音をききながらいろいろのことを話した。父の祖母に当るお俊というひとが一風ある婦人であったということもきいた。息子である父の父親が開墾事業に熱中しながら薄茶を大変好んでいたのをそのお俊という大祖母さんがおこり、薄茶立てたて開墾が出来るかと、それを封じてしまった。ところが、この祖父は僅か六十一歳で没した。その時お俊お婆さんは涙をこぼしながら、こんなに早く死ぬのだったら薄茶ぐらい飲ませてやればよかった、お運、立ててやれと、嫁である祖母に云って供えさせたそうだ。父は、このこわかったが物わかりはよかった祖母さんに、精一郎はお皿だ、と批評されたことがあったとその晩笑って云った。

「間口がひろくて、浅いところは我ながら成程適評だと思うね」

「──でも、お父様は小皿じゃないわ。かなりなお皿よ、深い大きい壺もその上にのせることの出来る皿だわ」

 そんな話もした。それから別の夜であったが何かの拍子で、母が父と結婚の式をあげた夜、襖ぎわまでころころころころ、ころがって行ってしまって夜じゅうそこから到頭離れずじまいだったという話が出た。私には父のその話し方がいかにも気に入った。父も母も愛らしく思いやられた。

「それでお父様はどうなすって?」

「どうするって……困ったようなものだが、つくづく無理もないと思ったね。何しろいきなり見ず知らずの家へ連て来られて、これが亭主だと云われたところで──困ったんだろう」

 母の存命中、二人は率直な性質から誰の目にもわかるような口争いをよくしたが、亡くなった後は、常に尊敬をもって母のことは語っていた。林町の家で何か持って歩きながら、思い出したように、

「可愛い細君だった」

と云っていたことがあった。父は母の若い頃の辛抱に対して、自身の晩年の忍耐を捧げていたのだと思われる。

 父は自分達の永い結婚生活の回想から、おのずと私の身の上に思いが向かったらしくて、

「それにつけても実にお前は可哀そうだと思うよ」

と云った。

「よくそうやって、いつもにこにこしていられる」

 私は何と答えたらいいのだろう。暫く黙っていたが、

「だって、ここにはこういう相当なお皿があるでしょう?」

 半ばふざけにまぎらして私は、大きい長椅子の上に向い合って足をのばしている父をさし、さて、

「あっちには」

と、本当の方角はどこか分らないが東京らしい方角をさした。

「ああいう人がいるでしょう? 私は或る意味で娘冥加だし女房冥加だと云えると思っているのよ」

 父が亡くなって通夜の晩、妹が、今お姉様とても読む気がしないかもしれないけど、お父様がお姉様にあげるんだって病院でお書きになった詩があるのよ、と云った。父はその英語の詩を書いてどうせ私に読めないだろうから、そこに使ってある字へ皆すじを引いた字引も一緒に入れてやれと云ったそうであった。私は妹にその詩というのを出して貰って見た。小判の白い平凡な書簡箋に見馴れた父の万年筆の筆蹟で、ところどころ消したり、不規則に書体を変えたり、文句を訂正したりしながら二十行の詩が書かれているのであった。

 六十九歳の父が最後のおくりもの、或は訴えとして娘の私にのこしたその詩の題は The Flower King of Honour と云うのであった。

〔一九三六年六月〕

底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社

   1981(昭和56)年320日初版発行

   1986(昭和61)年320日第4刷発行

底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房

   1953(昭和28)年1月発行

初出:「中央公論」

   1936(昭和11)年6月号

入力:柴田卓治

校正:磐余彦

2003年915日作成

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