行方不明の処女作
宮本百合子
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活字となって雑誌に発表された処女作の前に、忘れることの出来ない、もう一つの小説がある。
私は小学校の一二年の頃から、うちにあった小さいオルガンを弾きおぼえ、五年生時分には自分の好きなのは音楽なのであろうと思っていた。ところが、段々文字がよめ、文章を書くことに興味を覚えてから、音楽もすきだが文学はもっと身近いものとして感じられるようになって来た。そして、恐らくは誰でも一度経験するであろう濫読、濫写、模倣の時代がはじまった。
母が読書好きであった関係から、家の古びた大本箱に茶色表紙の国民文庫が何冊もあって、私は一方で少女世界の当選作文を熱心に読みながら、ろくに訳も分らず竹取物語、平家物語、方丈記、近松、西鶴の作品、雨月物語などを盛によんだ。与謝野晶子さんの現代語訳源氏物語が出版されたのは、正確にはいつ頃のことであったか。今はっきり思い出せないが、私はそれを真似て、西鶴の永代蔵の何かを口語体に書き直し、表紙をつけ、綴じて大切に眺めたりした覚がある。
小学校六年の夏休みのことであった。母が嫁入りの時持って来てふだんは使われない紫檀の小机がある。それを親たちの寝所になっていた六畳の張出し窓のところへ据えて、頻りに私が毛筆で書き出したのは、一篇の長篇小説であった。題はついていたのか、いなかったのか、なかみを書く紙は大人の知らない間にどこからか見つけ出して来て白い妙にツルツルした西洋紙を四六判截ぐらいに切ったものを厚く桃色リボンで綴じ、表紙の木炭紙にはケシの花か何かを自分で描いた。ペンにインクをつけて書くことは私の時代の小学生は知らなかった。女学校に入ってからそれは覚えたので、私はその時大いに意気込んだ心持を毛筆に托して、下書もせず、下書をするなどということさえ知らず、その小説を書き出したのであった。
或る午後、私が蝉の声をききながら、子供らしくボーとなったり、俄にませた感情につき動かされたりしながらその小説を書いているところへ、何かの都合で母が来た。そして、書いているものを見つけ、
「それ、百合ちゃん、お前が書いたの?」
というからそうだと答えたら、母は、
「まあ、何だろ!」
と、一種の表情で云い、その場でとりあげたのであったかどうか、ともかくそれっきり、その桃色リボンで綴じた小説は私の前から消えてしまった。夏の海辺の夜の中を若い男と女とが散歩をしている。女は白い浴衣で団扇をもち、漁火が遠く彼方にチラチラ燦いているという極めて風情のあるところで、肝心の帳面ぐるみ、小学生作家の空想は明治時代らしいモラリストである母によって中断されてしまったのである。
ずっと後になってから私はその頃のことを思い出し、母にきいたが、母は一寸ばつのわるいような笑いかたで、へえそんなことがあったかしらと云い、もう自分がそれをどう始末したのか思い出すことも出来なかった。
読めばふき出すようなことが書かれているのに違いないから、それは、その帳面を母がとりあげたことも、無くしたことも残念とは思っていないのであるが、今日の心持でこの些細な事件を回想すると、そこに自ら大人の生活と子供の生活との関係というものがはっきり現れていて、寧ろその点が非常に興味ふかく思われるのである。私の育ったような中流の環境にあっては、子供は大人の知らないうちに、大人の知らないことを、大人の心づかない場所で知って、育って来ている。壮年の父と母が所謂建設期の熱をもって、活々と精力的に生活を運転している中に子供もあって、しかもそういう親達の社会的な利害打算とは無関係に子供は子供で、自身の世界をつくって行く。謂わば、大人の知らないうちに子供は大きくなっているのである。
私のその小学生の恋愛小説にしろ、決して親たちにかくれて書いていたのではないし、母もきっと毎日何度かその座敷をとおるたびに、六七寸高くなった一畳の張出しのところで鏡台と並べて私が母の小机を据え、その前に坐っているところは見かけていたであろうと思う。だが母はまた母の関心事があって、いつもそういう私の元禄袖の後姿だけは見て、座敷を出ればもう忘れて立ち働いたりそれなり外出したりしたのだろうと想像される。
小学校に入れた時からもう六年になるのを心待ちにし、小学でも出たらこうと一家の生計と結びつけて、その子の身のふりかたを考え、成長を見守っている勤労者の家庭の中での大人と子供との関係と違うところがそこにある。私は、その点に今は社会的な意味を見出し、回顧するのである。
『中央公論』に処女作として発表された「貧しき人々の群」は、十七から十八にかけて書かれたものであり、私はそれを書いていた時、それを活字にするなどということについては思ってもいなかった。祖母が福島県の寒村に住んでいて、私は殆ど毎年夏休みはそちらで、裸足で、どこの百姓家の土間へも、鶏にくっついて入って行くような暮しかたをした。その間に見た農村の生活が強烈な印象を与え、自然発生的に書いたのであった。はじめ「農村」という題で三百枚ほど書き、例によって手製の表紙をつけて綴じて持っていたのを、また気のむくままに書き直した。最後の一句を書き終ったのは、夜更けであったが、私は自身の感動を抑えることが出来ず、父と母とが寝ているところへ原稿をもって侵入して行った。そして、母に読め読めと云い、それを読み了ったら母も涙をこぼしたのを覚えている。雑誌には周囲のものの意志で載るようになった。原稿料をもらった時は、どちらかというとびっくりした。自分が原稿料等というものをとれると思っていなかったのであった。
処女作が発表された当時、年はひどく若いし、当然小説そのものにしろ自然発生的にしか書けない時であったから、いろいろに云われ、注目されるのが苦痛であった。特に、自分としては心にもないポーズを、母などが対外的にやるようなことが起って、嬉しさより苦痛と不安とが次第に加わった。
当時私は文学的な影響としては最も多くトルストイの翻訳から学びもし、模倣もしていた。「コサック」や「アンナ・カレニナ」など、今日思出しても新鮮な熱情をもってよんだのであったが、ここに一つ実におかしいことがある。私の公的処女作というべきその「貧しき人々の群」の中には、ところどころで作者がやみ難い人道主義的感激を「子供等よ!」という農民への呼びかけで表現している。また「わが兄弟」という言葉でも呼んでいる。それは、まさしく当時の私の心魂をつかんで燃え立たしていたトルストイの翻訳の中にある文句なのであったが、それから十数年後、ソヴェト同盟へ行って見たら、どうだろう! 直訳文のままながらも私の感情を表現するものとして役立っていたその「子供等よ!」という呼び声が溌溂としたコムソモーレツの喉から、労働者の口から、愛する今日の仲間への呼び声としてやはり高々「レビャータ!」と叫ばれているではないか。私は自分の幼い「貧しき人々の群」を思いおこし、ああこの「レビャータ!」という親愛のこもった呼び声こそ「子供等よ!」であったかと、嬉しく懐しく心をうたれたのであった。
底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
1981(昭和56)年3月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
1953(昭和28)年1月発行
初出:「婦人文芸」
1935(昭和10)年3月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
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