夏遠き山
宮本百合子
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今日も雨だ。雨樋がタンタンタラ・タラタラ鳴っている。ここ(那須温泉)では殆ど一日置き位に雨が降る。雨の日は広い宿屋じゅうがひっそりして、廊下に出ると、木端葺きの湯殿の屋根から白く湯気の立ち騰るのや崖下の渡廊下を溜塗りの重ね箱をかついだ束髪の菓子売りが、彼方の棟へ渡って行くのなどが見える。私の部屋は四階の隅だ。前の廊下を通る者はなく、こうやって座っていても、細い鉄の手摺り越しに遙か目の下に那須野が原まで垂れた一面の雨空と、前景の濃い楢の若葉、一本の小さい煙突、よその宿屋の手摺りにかかった手拭などが眺められる。濡れて一段と美しい楢の若葉を眺めつつ私はこの景色の中では木端屋根がなかなかよい、調和し落付いた風景の一部をなしているなどと思う。この辺は風も強い。三月頃まで家を揺って強風が吹きまくるので、瓦屋根には出来ない。それでどの家も細かく葺いた木端屋根なのが、粗く而も優しい新緑の下で却って似合うのだ。裏通りなど歩くと、その木端屋根の上に、大きなごろた石を載せた家々もある。木曾を汽車で通ると、木曾川の岸に低く侘しく住む人間の家々の屋根が、やっぱりこんな風だ。早春そこを通ったので雪解の河原、その河原に茂っている多分河楊だろう細かく春浅い枝をひろげた灌木、山又山とほんのり芽ぐみつつまだ冬枯れの密林が連った光景、そこへそのような屋根を点々と、如何にも山村浅春の趣が深かった。葉をふるい落した樹木の線の実に卓抜した美を感じたのもここを通った時の獲物だ。
那須には、そんな一種繊細なところのある風景は尠い。然し何と重厚に自然は季節を踏んで行くことだろう。先月二十七日に来た時、東公園と呼ばれる一帯の丘陵はまだ薄すり赤みを帯びた一面の茶色で、枯木まじりに一本、コブシが咲いていた。その白い花の色が遠目に立った。やがて桜が咲いて散り、石崖の横に立つ何だかわからない二丈ばかりの木が、白い蕾を膨らませ始める。──五月の緑の間に咲く白い花を私は愛する。東京を立って来る前、隣りの花園で梨の花が咲いた。もう葉桜だ。その木の間がくれに見える白い梨花、春の嵐が来て空は今にも大雨を降らしそうな鉛色で鈍く暗く、光る。その下にねっとり白く咲く梨の花の調子は、不安なポプラの若葉の戦ぎと伴って、一つの音楽だ。熱情的な五月の音楽だ──何の花だろう。何の花だろう。朝起きるとその木を見る。女中に訊いても樹の名を知らぬ(大体、田舎でも樹木の名など知らない人が多いのは意外だ。却って田舎の人が自然と絶縁して暮している)或る朝、ところが、一番日当りよい下枝の蕾が開いた。その清らかに爽やかな初夏の贈物に向って心が傾きかかった。日ごとに白い花の数は増して、やがて恰好よい樹がすっかり白い単弁の花と覗き出した柔い若葉でつつまれた。幾日かかかって花は満開になったのだ。その満開のまま今度は更に幾日も幾日もある。那須山麓のことだから、その間一日おきに雨が降る。細かい雨、横なぐりなザンザ雨、または霧、この間は家根をも剥しそうな大風が吹いた。硝子が鳴り、破れそうで眠れない程であった。起きて廊下から瞰下すと、その大風に吹き掃かれる深夜の空には月が皎々と照り、星が燦めいている。丁度、月の光りに浸された原野の真上のところに、二流れ黒雲があった。細く長く、相対して二頭の龍が横わっている通りだ。左手の黒龍の腹の下に一点曇りなき月が浮かんでいる。やや小ぶりな右手の龍が、顎をひらき、その月を欲して咬み合う勢を示した。左手の龍は憤り、ドーッ・ドーッ風の吹く毎に体を太く太く膨らかして来る。南方に八溝連山が鮮やかに月明に照されつつ時々稲妻を放つ。その何か奇異な深夜の天象を、花は白く満開のまま、一輪も散らさず、見守っている。──
この花ばかりではない。第一には若葉のひろがりにしてもそうだ。この山名物のつつじにしてもそうだ。北方の春は短かく一時に夏景色になるわけなのに、この高原では、すべて徐々に、すべて反覆しつつ、追々夏になって来る。東京で桜が散った後は、もう一雨で初夏の香が街頭に満つが、ここでは、こうやって今日一日降りくらす、明日晴れる、翌日は又雨で、次の日晴れる──ああ、何か一種異様の愛着をもって自然が推移するのだ。それ故、一月近くいて見ると、ここを去るのが変にのこり惜しい。いつか四周の自然に暗示されて、何か見るべきものの終りを見ずに去るような感情さえ起させるのだ。こんなことも、××屋主人にとっての何と天恵であろう! この宿には一年以上滞在する客が珍しくないということだ。本当に、活動から遠のく不安さえ感じなかったら、この自然とともに根気よく、一年でも二年でも落付いていられるだろう。硫黄泉のききめばかりではない。××屋×太郎君が、楢木立の奥の温泉神社へ「報神恩」という額を献納したのも、当を得たことだ。然し(山の神様笑いながら仰云った。この額はちっと手軽るすぎるね)。
東京から一人新しい連れが加ったりしたので、十六日の快晴を目がけ、塩原まで遠乗りした。緩くり一時間半の行程。皆塩原の風景には好い記憶をもっていたのでわざわざ出かけたのであったが、今度は那須と比較して異った感じを受けた。箒川を見晴らせるところというので清琴楼に一泊した。いい月夜で、川では河鹿が鳴く、山が黒く迫って、瀬の音が淙々と絶えない。燈を消し、月あかりで目前の自然を眺めていると、余り所謂いい景色という型に嵌っていて、素直に心にうけとれない。妙な心持であった。子供の時分、幻燈で白い幕の上に映して見た月夜のどこかの景色、水も山も蒼い光に包まれたところがまるでその朧な思い出のうちにある、幻燈の通りだ。この月夜の景は現実のものか、それとも一つの幻像か。自分が椽近く座っている、その位置の知覚が妙に錯倒する心持がした。金色夜叉の技巧的美文が出来ざるを得ない自然だ。──都会人の観賞し易い傾向の勝景──憎まれ口を云えば、幾らか新派劇的趣味を帯びた美観だ。小太郎ケ淵附近の楓の新緑を透かし輝いていた日光の澄明さ。
然し、塩原は人を飽きさす点で異常に成功している。どんな一寸した風変りな河原の石にも、箒川に注ぐ瀧にも、すべてに名所らしい名称があって、そこには一々立札が立っているというのは、何と五月蠅いことであろう。塩原温泉組合は、遊山人のために何一つ発見すべきものを残して置かない。山歩きをしているうちに、偶然見つけた素晴らしい木蔭、愛すべき小憩み岩、そんなものは先へ先へと何人かの足が廻って既に札を建ててしまう。その癖、今、都会人が散策する山径が、太古は箒川の川底に沈んでいただろう水成岩であること、その知識によって自然力の微妙さ永遠さを感じさせる手段は一つも講じてない。
近頃熾に東京日日新聞で、日本新八景の投票を募っているが、あれなど、どういう眼目で新八景を選出しようというのか。那須も塩原も、十位の外に洩れまいとして滞留客へまで帳面を廻し、ハガキ百枚、二百枚と寄附して貰い、三井さんが一万枚寄附して下すったという騒ぎだ。塩原では、臨時事務所のようなところが出来て、そこでは屈強な若者が十数人鉢巻をして、山積したハガキを書いている。通行人の寄附を待つためだろう。往来に机まで出し、選挙事務所のような有様だ。日日は、頻りに投票ハガキの多いこと、為に中央郵便局の消印機が過熱して使用に堪えぬとか、コンクリートの五階が潰れるとか、センセーショナルな記事をかかげる。都会に起ることは知識階級の注意を呼び醒し易いが、この新八景投票のように地方を中心としている現象は、案外多くの弊を生じつつ黙過され勝だ。芸人の投票を昔小新聞がしたように、投票者が実在してもしないでもよい、数さえあれば──つまり運動費が最後の勝を占めるという風なやり方は、果してどれだけ意味があることだろうか。新聞の広告法だ。同時にそれぞれの地方の或る程度の宣伝にはなるが、このことを目撃し、助力した多くの青年、少年達は、投票ということに対して、どのような観念を得るか。時代は投票の純潔さを益々必要とするのに、実際は、公機であるべき新聞が先棒でその逆が勝利を占めることを実地教訓する。──これは一つの苦々しき滑稽だ。新聞が、いかに理想低き一営業に過ぎないかを表白している。この精神的影響の上に数万円のハガキ代と、運動費、夥しい労力の消耗との結果、新たに八つの俗地が提灯持ち的に紹介されるに過ぎず、結局日日新聞の広告が全国的に最も有効に行われた事実に帰着するのみだとすると、抜け目なき脳味噌よ、悪魔に喰われろ、と云いたいような気がすることではないか。広告心理研究の、これは、積極的手段の一例、愛郷心及営利心を利用する方法の実例として好箇のものであるに違いない。──
雨がやんだ。靄が手摺の下まで迫って来た。今にもう少し暗くなると、狭い温泉町の入口に高く一つ電燈が点る。特に靄のこめた夕暮、ポツリと光る孤独な灯の色はその先に海岸でもあるような心持を抱かせる。北の荒れた漁村でもあるような風景を描く。
おおこれは。──深い靄だ。晴れた黄昏にはこの辺を燕が沢山翔ぶのだが。
底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
1981(昭和56)年3月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
1953(昭和28)年1月発行
初出:「大調和」
1927(昭和2)年7月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
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