三鞭酒
宮本百合子
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土曜・日曜でないので、食堂は寧ろがらあきであった。我々のところから斜彼方に、一組英国人の家族が静に食事している。あと二三組隅々に散らばって見えるぎりだ。涼しい夏の夜を白服の給仕が、食器棚の鏡にメロンが映っている前に、閑散そうに佇んでいる。
「──寂しいわね、ホテルも、これでは」
「──第一、これが」
友達は、自分の前にある皿を眼で示した。
「ちっとも美味しくありゃしない。──滑稽だな、遙々第一公式で出かけて来て、こんなものを食べさせられるんじゃあ」
「食い辛棒落胆の光景かね」
「いやなひと!」
三人は、がらんとした広間の空気に遠慮して低く笑った。
「寂しくって、大きな声で笑いも出来ない。いやんなっちゃうな」
「まあそう云わずにいらっしゃい、今に何とかなるだろうから」
時刻が移るにつれ、人の数は殖えた。が、その晩はどういうものか、ひどくつまらない外国の商人風な男女ばかりであった。
「せめて、視覚でも満足させたいな。これはまあ、どうしたことだ」
「──お互よ、向うでも我々を見てそう云っているに違いないわ」
陽気になりたい気持がたっぷりなのに、周囲がそれに適せず、妙にこじれそうにさえなった時であった。我々はふと、一人の老人の後について、一対の男女が開け放した入口から食堂に入って来るのを認めた。三人連れかと思ったがそうでもないらしい。老人は、彼等のところからは見えない反対の窓際に一人去った。二人は一寸食堂の中央に立ち澱んで四辺を見廻した後、丁度彼等の真隣りに席をとった。二人とも中年のアメリカ人、やはり商人だということは一目で判ったが、同時に彼等は何となく人の注意──好奇心を牽くところを持っていた。男の方はざらにある、ずんぐりで、年より早く禿が艷と面積とを増したという見かけだ。女は──これも好奇心を呼び起す或る原因だったと云えるが──割に、夜化粧することの好きな外国婦人としては粗末な服装であった。男の小指にはダイアモンドが光っているのに、連の女性は、水色格子木綿の単純な服で、飾花だけぱっと華やかな帽子をつけている。白粉が生毛にとまっているのも見える。まあ金がないというだけの理由でかまわない装をやむなくしている女に思える。連の男が、とびぬけて気品あるのでもないから、彼が、あんなに大切そうに、大仰に、腰をかがめんばかりにして対手を席につけてやらなかったら、我々は、横浜辺の商人夫婦として、簡単に観察を打ち切ってしまっただろう。結婚生活者としては、余り仰山な何かがある。
「──何だろう」
「──そう、夫婦じゃあないわ」
「──そろそろ愉快になって来るかな」
古典的な礼儀からいえば、これは紳士淑女のすべき会話ではない。然し、寛大な読者諸君は、何故都会人がホテルの食堂へわざわざ出かけて、鑵詰のアスパラガスを食べて来たい心持になるか、ただ食べたいばかりではない。同時に食欲以上旺盛な観察欲というものに支配されているのだということを御承知である。
計らずその欲求を刺戟するものに出会ったので、我々は尠からず活気づいた。見るともなく見ていると、彼等は輝く禿と派手な帽子の頂とをつき合わせて睦じく献立を選んだ。一礼して去った給仕は、やがて、しゃれた脚立氷容器に三鞭酒の壜を冷し込んで運んで来た。私は、それを見ると、感じの鋭い小説家ででもありそうに自信をもって、二人の仲間に云った。
「私にはもうちゃんとわかってよ」
「早いな、云って御覧」
「なんなの」
──私は、サラドを口に運びながら、もがもがと呟いた。
「恋人たち」
思わず、嬉しげな好意ある微笑が皆の顔に燦きわたった。ああ、人生はまだまだよいところだ。あのような禿でも、あのように恋愛が出来る!
「何故断言出来るの」
「だって……氷の中のは三鞭酒よ。──十人の中九人まで、若しかすれば十人が十人、細君と夕飯を食べるからって三鞭酒を気張りゃあしないことよ」
水色格子服の女性は、若い女のように小指をぴんと伸して三鞭酒盞を摘みあげた。男も。乾杯。
三鞭酒は、気分に於て、我々の卓子にまで配られた。少し晴々し、頻りに談笑するうちに、私は謂わば活動写真的な一場面を見とめた。事実黄金色の軽快なアルコオルが体内に流れ込んだのだから、隣の食卓の一組は食堂に来た時より一層若やぎ恍惚として来たらしい。男は今、つれの婦人のむきだしの腕を絶えず優しく撫でさすりながら、低声に顔をさしよせて何か云っている。婦人は、平静に母親らしい落付きを保とうと努めながら、愛撫や囁きやアルコオルのため兎角ぐらつきそうになる。映画では大抵若い役者の役割であるラブ・シーンが、このように禿げた男、このように皮膚が赧らみ強ばった女によって現実になされるのを目撃するのは、何か、一嗅ぎの嗅ぎ煙草でも欲しい心持を起させるものだ。私は氷菓を一片舌にのせた。その途端、澄み渡った七月の夜を貫いて、私は何を聞いたろう! 私は、極めて明瞭に男の声を鼓膜から頭脳へききとった。
「アイ、ラヴ、ユー」
──困ったことに、私の腹の底から云いようない微笑が後から後から口元めがけてこみあげて来た。
「何? どうしたの」
「何でもないの」
云うあとから、更に微笑まれる。私は、字幕でなく、人間の声で「アイ、ラヴ、ユー」
というのをきいたのは、生れてそれが始めてであった。そして、そんなにも、何だか傍の耳へは間抜けな愛嬌に充ちて響くものだということをおどろいた。
私は、程なくひどく可笑しい、然し、蚊の止った位馬鹿らしいような悲しさも混った心持で食堂を出た。
底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
1981(昭和56)年3月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
1953(昭和28)年1月発行
初出:「婦人倶楽部」
1927(昭和2)年5月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
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