百銭
宮本百合子
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或る洋画家のところへ、来月お金が入ることになった。ふだんその人は真面目に勉強しているのだが、或る理由からお金がちっともとれず、一緒に暮している女のひとと生活する必要のためには、夜、餉台の上まで低く電燈を引っぱり下してその下で、細かい細かい面相で芥子粒位のものを描く仕事をしなければならない。細かいその仕事は金粉や銀粉をつかってする仕事だから、たった一つの電燈の光でも四畳半の穢い部屋の中では随分美しく、立派に光りさえもするが、何にしろそういう仕事で食って行かなければならない。その中へ、来月纏ったお金が入る。お金が入ったら、何と何と買おうと思っているかということを、その人はそれは楽しげに話した。
「先ずこのひとに靴を一足買ってやってね、羽織も拵えようっていうんです──着物なんぞ、まるでないんですからね。私も羽織は一枚いる。──それからオーヴァが欲しいっていうけれどとても駄目だから、一つ布地で買おうっていっているんです──ね、自分で縫うね」
「もち! 縫うわ、×子うまいもんよ」
「ハハハ、手袋はもう買ったからいいね」
「ええ結構!」
「──私は貧乏になれて一人だと平気で金のことなんぞ忘れているんだが、このひとが来てから少しそんなことも考えなければならなくなった」
一緒にいる若い女のひとは小猫のような感じで、甘え切って合点合点をし、ぱっと睫毛の反った眼で人々を見廻している。対手が、そのひとの全存在を心の上にたっぷりと抱きかかえ、実に混りけない歓びで愛す者に買ってやれる品々を話しているのを聞いていたら、何だか彼が持とうとしている金は、世間に通用するただの金ではないような気持がして来た。彼の心持には金そのものが儲かるという世俗な利慾の跡などは微塵もなく、さあこれで買って遣るぞ! という明るい濃やかな勢こんだ生活の嬉しさがキラキラ燦き渡っているのだ。金がただの金というだけでない、彼のその女のひとに対する愛が金までを一種独特な優しさ、可愛さ、真心あるものに感じさせたのだ。彼の純粋なよろこびは、ききてに忘れ難い感銘を与え、思い出すたびにこの世には祝福された金というものも間々あることを嬉しく心に味わわせる力を持っている。
金のことについて話すのをきき、こんな感銘を与えられたことは珍しいことであった。
この印象からいろいろ思い出すことがあった。全然わけは違うが、やはり金ならぬ金とでもいうような連想の一つとして──
六つか七つ時分、祖母が田舎に一人暮していて、時々上京して来る。いつも急に思い立って来るらしかった。大抵早朝上野についた。そこから札を買って乗る人力車で家まで来る。その知らせで母が驚いて起きて来、祖母に挨拶がすむと、
「一寸電報でも前もって下さればようございましたのに、いつも不意でお迎えも出ません」
とやや気むずかしげにいう。祖母は、やっと火が入ったばかりの火鉢の前へコートを着たまま坐ってい、煙草を吸いつけながら、
「おれも来る気なんぞ昨日までなかったが、急に考えるとはあ眠られないようになって出て来たごんだ」
と、内心の訴えを間接に表わす。どちらも、笑顔で最初の一言をきき合うというようなことはなかった。その点祖母も母も不幸な廻り合わせで一生過してしまったわけだが、その祖母が秘蔵なのは私であった。少し大きくなってから、夏休みなど飯坂や五色温泉に連れて行ってくれた。これはその前のこと、そうやって祖母が出て来ると、お土産にきっとお金をくれた。一円くれるのであった。
「おら田舎婆さまで今時の子供は何が好きか分らないごんだ。お前好きなものこれで買え」
その一円は五十銭の銀貨二枚か札かであった。母は子供が金を持つことは悦ばない。然しこの場合は黙って見ている。
ふだん金というものを持たないから一円貰ったのは嬉しかった、自分のお金がある──いい心持だ。けれども、一円が沢山なのは分るがどの位沢山なのか、買うとしたら何が買えるか、見当はつかず困ったような気になる。一先ずその金を母にあずけて置く。幾日か経って、
「あのお金ある?」
ときいた。
「ありますよ」
「だして見て」
「どうするんだい」
「どうもしないけど、出して見てよ」
さあ、と母が出したのは、あずけた時のままの銀貨二枚でなく、殖えていた。母は大人の感情で一円だけの金高を他の銀貨をまぜて揃えたのであった。
金の分列というか、そうやって同じ一円をいろいろの銀貨や白銅でいろいろの数に多くしたり少くしたり、それでつまり一円に出来る面白さが強く子供の心を捕えた、ものを買える買えないはどうでもよくなった。たった二つのお金が、二十銭や十銭の銀貨まぜると四つになった。二十銭だけにすると、五つになる。ほう! そして、母にたのんで十銭銀貨だけにして貰えば一円が十の小さい銀貨に代ってしまう。
「ね、ああちゃん、これもっと違ったお金になる? え? え?」
「そりゃなるよ」
「じゃあ、して」
「ほら」
母さえ幾らか打ち興じて、テーブルの上に大きい厚い五十銭銀貨を一枚先頭に置いて次にそれより小さい二十銭の銀貨、ちびな十銭、白銅が二枚、でっくりの二銭銅貨、一銭、あとぞろりとけちな五厘銅貨を並べた。
「ふーむ」
到頭一円を、百銭にしてしまった。
玄関の横に、三畳の茶室があった。茶をする人がいなかったから、永年その部屋はつかわれず、朝夕雨戸のあけたてをするだけだ。一畳が床の間で、古びた横ものが壁と見境のつかない煤けた色でかかっていた。小さい変な台の上に、泥をこねて拵えたような頸長瓶があって、炉のところには竹を集めた蓋がしてある。狭い狭い場所であった。隅に、客間に使う座布団が置いたりしてある。
茶室へは誰も来ない。そこへ入るだけが、もう気分がどきどきする物珍しいことだ。庭に生えている木賊の恰好や色と云い、少しこわいような、秘密なような感情を起させる。積んである座布団に背を靠せて坐り、魔法の占いでもするように、私は例の百銭をとり出す。それを一つずつ、薄すり塵の沈んだ畳の上に並べたり、ぐるりと畳の敷き合わせに沿うて立たせて見たり転したりするのだが、手に握っているうちに銅貨が暖まって来る工合、暖まった金属から発する微かな一種の匂いなど、妙に生きもの的な心持を起させた。憎らしいような面白いような気がこみ上げて来、盛りあげた銅貨をわざと足で崩す。
飽きると、私はその百銭を再び袋にしまい、歩調に合わせて膝にぶっつけザックリ、ザックリ鳴らしながら廊下を歩いた。その時はもう一人ではない。毛糸の手編靴下をはいた弟が二人、
「軍艦・軍艦・グンカノヘー。グンカン・グンカン・グンカノヘー」
と声高らかに合唱しつつ跟いて歩む、日露戦争が終ったばかり頃のことであったから。その百銭は、そうやって持って歩いて鳴らしているうちに、いつかどうかして失くなってしまうのが常であった。暫く忘れていてふと思い出し、いくら考えてもどうなったのか分らず袋のかげさえ見当らない。どうしただろうと母に訊くことさえ忽ちまた何かに紛れて忘れてしまうという工合であった。
底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
1981(昭和56)年3月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
1953(昭和28)年1月発行
初出:「不同調」
1927(昭和2)年1月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
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