十年の思い出
宮本百合子



 文芸のような無限の仕事をするものにとって、十年という月日は決して長いものではありません、考えように依ってはほんの僅かな一瞬間に過ぎないのに。そればかりのことをいかにも大そうらしく、十年の思い出などといわれることが私はほんとに嫌いです。それに私は文壇というようなことを、余り意識に置いておりませんし、一時かなり長く仕事から遠ざかっていましたから、格好なことは何にもないのです。

 私は幼い時分から、本を読むことや、ものを書くことが好きだったので、今のように専心文学をやることになった初めも、いつの間にか自分の好きな道へ進んできたというだけのことで、一度志を立てて、などいうことは少しもないのです。ですから、どういう気もなく随分早くから書いたものも相当沢山ありました。そのうちから処女作として発表されたのがあの「貧しき人々の群」でした。私が未だ女学校にいる時に書いたもので、何といっても十八の少女でしたから、自分には何が何だか、唯夢中で書いた、いわば子供の自由画と同じことなのです。勿論、子供ですからいわゆる心境物なんてことはあり得ませんし、材料は自分が見聞きしたことを色々集めて、それを克明に書いただけのものでした。これが大正五年の『中央公論』で、引つづいてぽつぽつ外国へ行くまでに六つ位発表したと思います。どれもなかり枚数の多いもので、殆んど『中央公論』が主でしたが、中には『東京日日新聞』に載せた「三郎爺」などというのもありました。

「三郎爺」は軽いユーモアの味を持たせようとして、それがちっとも現れていないようなところがあって、処女作と一緒に今でも思い出して、何だか可愛らしい気がします。

 それからたしか大正八年に米国へ行ったのでした。行く時は父や、父の知人と一緒でしたが、向うへ着いてからは一人残って寄宿舎へ入りました。そして、見たり聞いたり、遊んでばかりいて、勉強なんて少しもしませんでした。あちらにはまる一年位いただけですが、それからずっと、日本へ帰ってからも、全体で四五年は仕事らしいこともしませんでした。別段怠けていたというのではありませんが、家庭を持つと、女の人はどうしても、生活が二つに分かれることはまぬがれないようです。そのために力の入れ方が鈍って、自然弱められるのでしょう。私の知っているどの女の方にも、そういうところがあります。野上さん(彌生子)などにしても、もっと仕事のお出来になる筈の方なのに、やはり子供の世話や、家庭のことに、半ばはとられて、ただ、仕事の方により力の重心の傾く場合と、家事の方に傾く場合とは、間断なくあるでしょうが、どうしても力の入れ方がちがってくるのだと思います。これはまた一面人々の性格にも依ることで、そうはっきりも決められることではありませんが、今の世の中で、自分の仕事を仕ようとする女の人は、必ずどちらかを犠牲にしなくてはならないようです。特に一つのものに力を集中しなくてはいられないところのある私の場合、あんな風に不幸な家庭生活の終りをきたしたわけです。

 そして今ちょうどその総決算をしているようなものです。一昨年の秋、初めて『改造』へ発表した「聴き分けられぬ跫音」がその最初をなすもので、それからずっと近頃のものまで、連作の形をとっているのです。つまり、「崖の上」「白霧」「苔」と順々に発表してきましたが、此の秋『改造』へ載せるので、それも一落着きになるつもりです。これはまるで、五年間の家庭生活に、はたきを掛けたり、拭いたり、お掃除をしているようなもので、これが済んだら、気持の上にも一段落ついてきっと何か新らしいところへ出られるだろうと思っています。まだはっきりした形をとらない未知のものに対して、楽しい期待を抱いています。


 総じて私は気持のきっかけや、変化を主にして、考えたり記憶したりする癖があるので、時日や、時日の長さなどは、随分矛盾したり、間違えたり、忘れたりして、少しも正確ではないのです。そういう意味での不正確さは、時日のことばかりに限らず、本を読む上にも、仕事をする上にも、私の生活全体の上に、あるのかも知れません。

 私が一番初めに読んだのはポーの小説でした。誰も傍から教えてくれたり、系統だててくれたりするような親切な人を持たなかった私は、手近に手にとれるものから読んだのでした。その次には、ダヌンチョオ、ワイルドという順でした。それは私が十三四歳の時分で、その頃非常にダヌンチョオが流行っていましたので、かなり沢山読みました。ロシヤの作家のものは全体に好きですけれども、やはりこの人のものだけというようなことはありません。私はまだ誰の作を読んでも、全体的に感心したり、好きになったり、無条件でその人のものを読むようなことはありませんでした。以前ロマン・ローランの「ジャン・クリストフ」を読んでかなり感心したことがありました。そしてまた今、「マソー・レンチャンテッド」(訳名アンネットとシルビー)を読んでおりますが、まだほんの初めですから、はっきりしたことはいわれませんが、私はこの作者の見方や、感じ方についても、或る疑いを抱いております。

 私は小説を書くことが好きでもあり随分根気のいい方ですから、幾度も書き直しもします。誰でもいうように初めの書き出しは一番苦心します。百枚以上のものでしたら、初めの二十枚位、短かいものでも三四枚は、やはりその一篇の足場になるところですから、書き出しの具合でどうにも筆が伸びなくなることもあります。しかし、いわゆる文章(描写?)には余り拘泥しません。私のはいつも、ある材料について、その対象をいかに巧く書くかというのではなく、いかに見、いかに感じたかということが主眼なのです、そして表現は自らそれに伴なってくるものという考え方です。そういう点、里見さんの「内容と表現」というあの言い方がうなずけます。つまり才能的な技巧的な文章でなく、その人の持つ本質的な文章という意味です。

 今のところいわゆる心境的なものばかり書いておりますが、或る時期がくると、戯曲など書いてみたくなりはしないかと思います。そういうのは極めて自然な気持で、人生に対する見方や、気持の上に、あるいい意味での余裕ができた時に、そういう興味が起るもののような気がします。自分にもいつかそんな時がくるかも知れないし、やってみる場合があるかも知れないと思われます。

 最近二三、顔を出しましたけれど、私は余り会合などに出る方ではありません。大概どこの会でも男の方と、女の方とがすっかり別々にかたまり合ってお話していて、そのどちらかへ一人でも男の方か、女の方かが入ってくると、妙に取澄ましてしまうという風で、実際変に窮屈な気ばかりして、つい出席することが嫌になるからです。もっとああいう場合、男と女とが、自由な気持で話の交換ができたらといつでも思います。単に会合というような機会だけに限らず、お互が心置きなく雑談できるような小さいグループもできれば結構だと思います。私など小説を書いているというだけで、文壇的な交際というものは殆んどありません。女の人では野上さんとか、網野さんとかいう方がありますけれど、そして、私が強いて求めない気持もありますけれど、男の方としては一人もないといっていいと思います。

 旅行は大好きですからよく一人で出かけます。ずっと以前、まだ結婚しない時分はたびたびしましたけれど、やはり家庭を持っていた時は何彼につけて不自由で、つい余り出ませんでしたが、この頃はまた時々、参ります。先日も九州まで行ってきましたが、旅の楽しさはまた格別です。

〔一九二六年八月〕

底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社

   1981(昭和56)年320日初版発行

   1986(昭和61)年320日第4刷発行

底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房

   1953(昭和28)年1月発行

初出:「文章倶楽部」

   1926(大正15)年8月号

入力:柴田卓治

校正:磐余彦

2003年915日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。