長崎の印象
(この一篇をN氏、A氏におくる)
宮本百合子



 不図眼がさめると、いつの間にか雨が降り出している。夜なか、全速力で闇を貫き駛っている汽車に目を開いて揺られている心持は、思い切ったような陰気なようなものだ。そこへ、寝台車の屋蓋をしとしと打って雨の音がする。凝っと聴いていると、私はしんみりした、いい心持に成った。雨につれて、気温も下り、四辺の空気も大分すがすがしく軽やかになったらしく感じる。──一人でその雨に聴き入っているのが惜しく、下に眠っているYにも教えたいと思った位。

 大体、私共は旅行に出てから十日余、天気の点では幸運であった。京都にいた間、また、九州に来てから別府、臼杵などにいた間、塵をしずめる打ち水となる程度の降雨に会っただけで、ために予定を変えるような目には遭わなかった。日向で青島へ廻った日、鹿児島で一泊したその翌日、特に快晴で、私達は、世にも明るい日向、薩摩の風光を愛すことが出来た。五月九日という日づけにだまされ、二人とも袷の装であった。鹿児島市中では、くすのきの若葉の下を白絣の浴衣がけの老人が通るという夏景色であった。反射の強い日光を洋傘一つにさけて島津家の庭を観、集成館を見物し、城山に登る。城山へは、宿の横手の裏峡道から、物ずきに草樹を掻き分けじ登ったのだから、洋服のYは泰然、私はひどく汗を掻いた。つい目の先に桜島を泛べ、もうっと暑気で立ちこめた薄靄の下に漣一つ立てずとろりと輝いていた湾江、広々と真直であった城下の街路。人間もからりと心地よく、深い好意を感じたが、思い出すと、微に喉の渇いたような、熔りつけられた感覚が附随して甦って来る。そこを立って来た夜半に、計らず聴いた雨の音故一きわすがすがしく、しめやかに感じたということもあろう。鳥栖とすで、午前六時、長崎線に乗換る時には、歩廊を歩いている横顔にしぶきを受ける程の霧雨であった。車室は、極めて空いている。一体、九州も、東海岸をずーっと南に降る線、および鹿児島から北に昇って長崎へ行く列車など、実に閑散なものだ。窓硝子に雨の滴のついた車室にいるのは、私共と、大学生一人、遠くはなれて官吏らしい男が二人乗り合わせているぎり。海岸に沿うて、汽車は山腹を潜っては出、潜っては出、出た時にやや荒れ模様の海の景色が右手に眺められる。私共は、今日雨降りで却ってよかったと思った。南風崎はえのさき、大村、諫早いさはやと通過する浜の黒々と濡れた磯の巖、灰色を帯びた藍にさわめいている波の襞、もやった舟のほばしらが幾本となく細雨に揺れながら林立している有様、古い版画のような趣で忘られない印象を受けた風景全体の暗く強い藍、黒、灰色だけの配合色は、若し晴天だったら決して見られなかったに違いない。

 長崎のステイションも、夜来の雨で、アスファルトが泥でよごれている。僅かの旅客の後にき、私共は漠然期待や好奇心に満ちて改札口を出た。赤帽と、合羽を着た数人の俥夫が我々をとり巻いた。

「お宿はどこです」

「お俥になさいますか」

「──ふむ──まだ宿をきめていないんだが、長崎ホテル、やっていますか」

「あすこはもう廃めました」

 すると、俥夫達の背後に立ち、頻りにYを観察していた大兵の青帽をかぶった詰襟の案内人が、

「上海へおいでですか」

と訊ねた。我々は苦笑した。長崎というと、私共は古風な港町を想像し、古びながら活溌に整った市街の玄関を控えていると思っていた。降りて見ると、改札口につきものの嫌な宿引きさえ一人もいない。それは心持よいが、タクシーもなく、激しい速力で昨夜から、長崎へ、長崎へと、駛りつづけて来、緊張した神経が突然無風帯に落ちこんだような緩慢さを感じた。ゆっくり問答した結果、私共は二台の俥に乗った。長崎唯一のホテルであるジャパン・ホテルに先ず行って見ることになったのだ。日本風の宿屋は二三、名を調べてあった。然し私共は京都を出たばかりから、美味い紅茶やバターの味の欠乏を感じていた。長崎ではホテルに泊るというのが、楽しみの一つでもあった。

 停車場前の広場から大通りに出ると、電車の軌道が幌から見える。香港、上海航路廻漕業の招牌が見える。橋を渡る。その間に、電車が一台すれ違って通った。人通りの稀な街路の、右手は波止場の海水がたぷたぷよせている低い石垣、左側には、鉄柵と植込み越しに永年風雨に曝された洋館の閉された窓々が、まばらに光る雨脚の間から、動かぬ汽船の錆びた色を見つめている。左右に其等の静かな、物懶いような景物を眺めつつ、俥夫は急がず膝かぶを曲げ、浅い水たまりをよけよけ駈けているのだが──それにしても、と、私は幌の中で怪しんだ。何故こんなに人気ない大通りなのであろう。木造洋館は、前庭に向って連ってい、海には船舶が浮んでいるが、四辺人の声というものがしない。遠方の熾んな活動を暗示するどよめきさえ、昼近い雨あがりのその辺には響いて来ない。商館の番頭、小荷揚の人足も、長崎では今が昼寝の時間ででもあるのだろうか。一つの角を曲る時、幌の上を金招牌が掠めた。黒地に金で〝Exchange. Chin Chu Riyao.〟然し、ここでも硝子戸の陰に、人の姿は見えない。


 五月の『文芸春秋』に、谷崎潤一郎さんが、上海見聞記を書いておられる。なかに、ホテルについて、マジェスティックが東洋第一といいながら、ボルト酒のよいのを持たない、「長崎のジャパン・ホテルにだって一九一一年のブルガンディー酒があるくらいだのに」云々とある。読んだ時、私は思わず頬笑んだ。秘密な愛すべき可笑しさが、ジャパン・ホテルにだってという四字からひとりでに湧き上って来るのだ。

 今もいった通り、異様に森閑とした波止場町から、曲って、今度は支那人の裁縫店など目につく横丁を俥は走っている。私は、晴やかな希望をもって頻りにその町のつき当り、小高い樹木の繁みに注目していた。外でもない。我等のジャパン・ホテルは確にそこに在るらしかった。緑の豊かな梢から、薄クリーム色に塗料をかけた、木造ながら翼を広やかに張った建物が聳え立っている。そのヴェランダは遠目にも快活に海の展望を恣ままにしているのが想像される。大分坂の上になるらしいが、俥夫はあの玄関まで行くのであろうか。長崎名物の石段道なら、俥は登るまいなど、周囲から際立って瀟洒でさえある遙かな建物を眺めていると、私は俥の様子が少し妙なのに心付いた。俥夫は、駈けるのを中止した。のたのた歩き、段々広くもない町の右側に擦りよって行く。曲角でも近いのかと、首をさし延し、私は、瞬間、自分の眼を信じ得なかった。ジャパン・ホテルは、彼方の丘のクリーム色の軽快な建物などであるものか。つい鼻の先に横文字の招牌が出ている。而も、その建物を塗り立てたペンキの青さ! 毛虫のように青いではないか。私の驚きに頓着せず俥夫は梶棒を下した。ポーチに、棕梠の植木鉢が並べてある。傍に、拡げたままの新聞を片手に、瘠せ、ひどく平たい顱頂に毛髪を礼儀正しく梳きつけた背広の男が佇んでいる。彼は、自分の玄関に止った二台の車を、あわてさわがず眺めていたが、荷物が下り、つづいて私が足を下すと、始めて、徐ろに挨拶した。

「いらっしゃい」

 ホールへ入りながら、そして、外側はあんな青虫のように青かったのに、内部一面は見渡す限り茶色なのに、また異った暑気を感じながら、私は、

「一寸お昼がたべさせて欲しいのだが……」

と告げた。──これは予定の行動であった。若し第一瞥が余り思わしくなかったら、お昼だけに仕て置こうという停車場での相談を、私は適宜に運用したに過ぎない。

「どうぞこちらで暫くお待ち下さい」

 番頭が、ホールの隣の戸を開けた。

 南欧風に、中庭を囲んでぐるりと奥ゆきある柱廊づきの二階が建廻されている。やはり緑色ペンキ塗の大きい部屋の鎧戸は閉り、中庭に咲き盛っている躑躅つつじの強烈な赤い反射が何処となくちらついているようだ。私は、必要な場所場所を探険して、戻った。Yは、明治十七八年頃渡来したまま帰るのを忘れた宣教師の応接間のような部屋で、至極安定を欠いた表情をして待っている。

「──支那的ね」

「この位の規模でないと遣って行けないんだな、長崎というところは……」

「──駄目でしょう?」

「どんなだった?」

 勝気な女らしく潔癖なYが、気味わるげに訊くので、私はふき出し、少し揶揄からかいたくなった。

「そんなじゃあないわ。支那へ来たと思えばよすぎる位よ。──でも──いそうね」

「何が」

「なんきんむし」

「御免、御免! 風呂とはばの穢いのだけはかなわない」

 ──どうもホテルにいるという気分がしない。すると、幾許もなく、建物の一隅から素晴らしい銅鑼の音が起った。がらんとした建物じゅうにはびこる無気力な静寂を、震駭させずには置かないという響だ。食事の知らせである。

 がっしり天井の低い低い茶っぽい食堂の壁に、夥しく花鳥の額、聯の類が懸っている。棚には、紅釉薬の支那大花瓶が飾ってある。その上、まだ色彩の足りないのを恐れるかのように、食卓の一つ一つに、躑躅、矢車草、金蓮花など、一緒くたに盛り合わせたのが置いてある。年寄の、皺だらけで小さい給仕が、出て来た。空腹ではあったし、料理は決して不味くはなかった。けれども、何といおうか、このごたごた種々な色ばかり目につく食堂に物を食べているのは、我々ただ二人ぎりだということは、食うという動作に妙な自覚を与えられる──つまり、その感じを少しつきつめて行くと、度はずれな人気なさと錯雑した色彩の跳梁とで何処やらアラン・ポウ的幻想が潜んでいそうな室内で、顎骨を上下させ咀嚼作用を営んでいる孤独な自分等が、変に悲しいということになるのだ。味覚から来る美味いという感覚は私共を頻りに陽気にさせようとする。けれども、周囲の雰囲気は、嗜眠病のように人を滅入らせる。──

 互に居心地わるく思っていると、もう食事の終りかけに、やっと一人、若いアメリカ人が入って来た。私共は本能的な人なつかしさで、彼が椅子の背を掴んで腰かけるのや、テーブルの下で長い脚を交互に動かしたりするのを眺めた。衝立の陰から、前菜の皿を持って給仕が現れた。辞儀をする。腸詰やハムなどの皿を出す。若いアメリカ人はそれを一瞥したが、フォークを取り上げようともせず、いきなり体じゅうで大きな大きな、涙の滲み出すように大きな伸びをした。

「──ああ、ねぶたいです……」

 眠たいのはもう馴れているとでもいうように、給仕は心得た顔つきで前菜をすすめなおした。

 ──ああ、ねぶたいです……

 私共は、一時間ばかりで、また荷物を持ち、ジャパン・ホテルを出た。


 一風呂浴び、三十分程仮寝をすると、Yは、

「ああ、やっとせいせいした」

と云いながら元気に目を覚した。その声で、私も目を開いた。時間にすれば、僅三時間足らずの前に経験したばかりのことだのに、この福島屋の長崎港を見渡す畳の上で目がさめた瞬間、ジャパン・ホテルに行ったのが、いつか遠い昔のような気持がした。Yも、同じような気持がしたらしい。

「三菱造船所が見えるね」

と、手摺のところにいたが、

「一体、あのホテル、どの見当なんだろう。ここから……」

 女中をよんで地図をとりよせた。

「さて、そろそろ研究にとりかかるかな」

 生来地図好きなYは、新しい町に到着し、先ず其処の地図を拡げる時、独特な愉快を感じるらしい。今度、長崎に来たのだって、謂わばYのこの地図に対する情熱が大分原因となっていた。最初、私共は、小石川老松町の家にいて、四月二十七日に自分達が東京駅から九州へ出発しよう等と夢にも考えていなかった。三月初旬に、Yは大腸カタールをした。家にいては食物の養生が厳格に行かない。「病院へ入る方がいいのよ、」と私が云った。「そう──だが温泉に行きたいな。」この一言が、我々を九州まで運ぶ機縁になろうと誰が思いがけよう。「温泉て──何処?」「別府どんなだろう。」「いやよ、駄目でしょう、あんな処! 俗地らしくてよ。」四月十五日過、二十日過、Yの或る仕事のきりがつく見込みがついたら、私共は遂に自制力を失った。仕様がない、何処から旅費が出るのよ、と困りつつ、嬉しさ一杯で私達が神戸迄の切符を買ってしまった。紅丸で別府へ行った。ここは予測の通り余り気に入らず、豊後の臼杵へ廻った。臼杵から先、中津の自性寺を見、福岡の友でも訪ねるか、いずれにせよ、軽少の財嚢に準じて謙遜な望みしか抱いていなかった。臼杵の、日向灘を展望する奇麗な公園からK氏の別荘へぶらぶら帰る時であった。Y、「どうする? やはり中津へ廻る?」「──ふうむ……」二人ながら進まない気持がある。天然痘がひどいのが一つ、小杉未醒氏の「大雅堂」によって、幾分自性寺の所蔵品に対する考えの変ったのが第二。「先刻地図を見たら、南を廻って長崎まで行くのも、小倉の方から行くのも大して違わないらしい。──折角来たんだから、どう? 一廻りしちゃおうじゃあないか」それこそ素敵だ! Yは、卓越したパイ焼職人のように、上手に地図と時間表とを麺棒に使い、貧弱な旅費の捏粉を巧に長崎まで延して来たのであった。

 宿を出、両側、歩道の幅だけ長方形の石でたたんだ往来を、本興善町へ抜け、或る角を右にとる。町家は、表に細かい格子をはめた大阪風だ。川がある。柳の葉かげ、水際まで石段のついた支那風石橋がかかっている。橋上に立つと、薄い夕靄に柔められた光線の中に、両岸の緑と、次から次へ遠望される石橋の異国的な景色は、なかなか美しかった。

 崇福寺は、黄檗宗の由緒ある寺だが、荒廃し、入口の処、白い築地の崩れた間を通って行くようになっている。龍宮造りの山門を潜り石段を登ると、風化作用によって一種趣のついた石欄がある。奥に、朱塗の唐門があり、鍵の手に大雄宝殿──本堂となっている。古色を帯びた甃の上の柱廊を以て、護法堂その他の建物が連絡されている。総て朱塗だ、新に余り品質のよくない塗料で修繕した箇処もある。歴史的に古く、特別保護建造物となっているのだが、私共は大して心を打たれなかった。後に迫って山を負っているため、陰湿だ。それに昔の支那──明人の建築には思いがけず木材など細いのが使用されてい、こせつき、複雑で、悠暢としたところがない。建物と建物とをつなぐ甃の柱廊は、美観の上で実に重大な役目を持つものと思う。崇福寺の建物は、狭いところに建てられている故か、大切な柱廊が、その通景に余韻を生ぜしむるだけ堂々と伸びやかに横わっていない。浅く、ただ礼拝する寺で、精神の活躍する場所として必要な底強いゆとりが建築上欠けているという印象である。木材が一面朱塗だということもその感じには関係があるらしい。

 住職がばたばた扉を閉めて行った本堂前の、落葉のある甃を歩き廻りながら、私共は、懐しく京都の黄檗山万福寺の境内を思い出した。去年、始めて私は観たのだが、彼処はよかった。全くよかった。ちょうど今より数日遅いやはり晩春であったが、山門の左右の聯の懸った窟門から、前庭の松花を眺めた気持。多分天王殿の左翼からであったろう。竹林の蔭をゆるやかな傾斜で蜒々と荒れるに任されていた甃廻廊の閑寂な印象。境内一帯に、簡素な雄勁な、同時に気品ある明るさというようなものが充満していた。建物と建物とを繋いだ直線の快適な落付きと、松葉の薫がいつとはなししみこんだような木地のままの太い木材から来る感銘とが、与って力あるのだ。

 黄檗の建物としてはどちらが純正なものなのか。或は唯造営者の気稟の相異だけでこうも違うのか。私共は解答者を得ない疑問を持ち合ったまま、再び山門を出た。唐門の剥落した朱の腰羽目に、墨でゴシック風の十字架の落書がしてあった。木庵の書、苑道生の十八羅漢の像などを蔵しているらしいが時間がおそくそれ等は見ず。

 片側には仏具を商う店舗、右は寺々の高い石垣、その石垣を覆うて一面こまかい蔦が密生している。狭い特色ある裏町をずっと興福寺の方へ行って見た。もう夕頃で、どの寺の門扉も鎖されている。ところどころ、左右から相逼あいせまる寺領の白い築地の間に、やっと人一人通れる位の壊れた石段道が、樟の若葉からしたたる夕闇がくれ、爪先のぼりに風頭山へ消えているのが眺められた。

 雨あがりの日であったためか、長崎の街は、同じものさびるにしても、奈良、京都などとは趣を異にしていたのを感じた。奈良などの建物が古びたのは、あの乾燥した日光と熱とに照りつけられ徐に軽いさらさらした塵と化すといった風の古びかただ。長崎のは湿っぽい。先ずくろずみ、やがては泥に成るというように感じられる。重い。そして、沈鬱だ。


 昨夜深更まで碁を打っていた隣室の客、もう朝飯を食べている声がする。Y、切なそうな顔つきで枕についたまま、

「──あなた一人で行って」

と云う。私が服装を整えたり、食事をしたりするのを、片寄せた床の中から、風邪引きの子供のように眺めた。

「こんなものさせるから、痛い目をしたり不愉快な思いをする──と、じゃ誰もしないじゃないの」

「──我慢していらっしゃい、いい子だから。大痘痕あばたになるところを助ったんじゃあないの」

 これは、種痘問答である。私共は別府にいる時既に知人から流行の天然痘予防の注意を受けていた。臼杵へ行くと、そこでは全町民強制種痘をしたという。まして、長崎へ行くのなら危険此上ないというK氏の言葉で、計らず臼杵町費の一端を掠め、S氏の種痘を受けた。私のは一日痒くそれきり。Yのは、吸収がよく怪しいと思っていると、十四五年ぶりの植疱瘡では無理もない、鹿児島の市を歩いている頃からそろそろ妙になって来た。Y、繃帯の上からたたきながら「大丈夫、何でもない、ね、ね」と気休めを求めていたが、昨日は気分悪く、目が醒めたら発熱していた。K氏からの紹介で、長崎図書館長、永山時英氏を訪ねる予定なのであった。私は独り俥で出掛けた。

 図書館は、諏訪公園の中に在る。グラント将軍が来朝した時建てた交親館を改造した小ぢんまりした建物だ。館長室に故渡辺与平の油絵と、同じ人の墨絵の竹の軸がかかっていた。永山氏は、長崎史研究者として知られている。その節、永山氏も云われたことだが、長崎は、日本文明史に重大な関係を有す特別な都市でありながら、未だ博物館を持っていない。種々の研究材料は、切支丹に関するもの、海外貿易に関するもの、その他、皆散在している。舶来された芸術品など、極めて立派なものが箇人の蔵にしまわれている由。それ故、長逗留をし、縁故を辿って気永く研究しようとする篤志家は兎も角、私のように貧しい予備知識と短い時間しか持ち合わせず、而も、過去の長崎が経験した文化史的活動の実証を一瞥したい者は、永山氏を訪問するらしい。その数は一年を通算すれば決して尠くないことも事実らしい。図書館は小規模の博物館を兼ねているのだ。豊富な資料を各箇人が持ち合わせながら、組織立った博物館にして見る気にならない長崎人の心持も、私は興味を以て感じた。ざっと見ただけだが、その気分を、集成館によって代表された薩摩人の気質と比べると感興深い。薩摩の人々は、シャヴィエル渡来当時から、一貫した自己の生活意識、価値批判とでもいうべきものを持して、或る点理智的に海外文化を、古来の伝統と対立させていた。持ち前の進取の気風で、君主がローマ綴で日記をつけ、ギヤマン細工を造り、和蘭オランダ式大熔鉱炉を築き、日本最初のメリヤス工場を試設したが、その動機には、外国の開化を輸入して我日本を啓蒙しようとする、明かな受用の意志が在る。長崎の人々が南蛮、明の文化に接した工合は全然違う。薩摩人が或る距離を置いてそこに視たものを、長崎港の住人は体中に浴びた。水と一緒に腹の中に飲んだ。薩摩人にとって知識としてのみ存したものが此方では日常生活の中に血に混じて流れるものとなり、箇人の感情や気質の一部をなすに迄融合してしまったのではあるまいか。私共は自分の背中を、あることは明に知っているが、他人の容貌ほど対象として意識し難いように、長崎の穏やかな市民は、第三者が当然爾あるべしと予想するだけ充分史価を客観し難いのではあるまいか。

 やがて、書庫に導かれた。窓際の硝子蓋の裡に天正十五年の禁教令出島和蘭屋敷の絵巻物、対支貿易に使用された信牌、航海図、切支丹ころびに関する書類、有名なフェートン号の航海日誌、ミッション・プレス等。左の硝子箱に、シーボルト着用の金モウル附礼服が一着飾ってある。小さい陶器のマリア観音、踏絵、こんたすの類もある。ミッション・プレス、その他切支丹関係の書類は、歴史的に興味深いばかりでなく、芥川氏が数篇の小説中に巧に活用し、その芸術的効果を高めているような一種独特な用語、文体で書かれているため、文学的な面白さも充分ある。「あるじぜすきりしと」「びるぜんまりや」「あんじよ」「はらいそ」「いんへるの」古めかしい平仮名でねんごろに書かれたそれ等の文句には、微に詩情を動かすものさえある。けれども、私がたんのうする迄いるには、案内役に立たれた永山氏が多忙すぎる。数日の中にジャヷに出発されるところなのだ。福済寺、大浦、浦上天主堂への紹介を得、宿に帰った。

 独りで待たされていたY、退屈しぬき、私の顔を見るといきなり云うことには、

「──どうだった? プティ・ペダント」


 二時頃から小糠雨が降り出す。長崎に切支丹伝道が始って間もなく建った、とーどのさんた寺の跡だという春徳寺や、怪談の絡まる切支丹井戸の在る本蓮寺などへ行って見る予定を変え、悠くり家居することにした。宿の高い欄干から外を眺めると、雨にけむる湾内の景色が見渡せる。眼下は、どこか人家の背戸だ。荒壁のうしろに、小さい一枚畑があって蔬菜が作ってある。手拭をかぶった女子が、雨にかまわず畝のところにかがんで何かしている。それがいつまでも遙か下の方に小さく見えた。


 雨中、福済寺を見る。やはり黄檗宗で、明の帰化人、陳冲の子頴川藤左衛門が尽力して盛大ならしめた寺だ。門前で俥を下り、高い石段を登りつめて甃の道を左に数歩行くと、大観門から左右に廻廊のある青蓮堂が眺められる。黒い甃と朱の建物が、明るい細雨に濡れて一種の美しさを漂わせていた。私共は大庫裡の森とした土間に立って案内を乞うた。二声三声呼ぶと、ことこと階子を下りて来る子供の跫音がする。家庭的雰囲気を感じ、頬笑んだ我々の前に現われたのは、十ばかりの洋服を着た女の子、赤ちゃんを重そうに抱いている。その赤ちゃんが、居留地の西洋の嬰児が着る通り裾の長い、白い洋装に纏まれている。女の子は、私共を見ると、直ぐ引かえして行った。

「お父さん、お客さまあ」

と、晴やかな声が聞える。──三浦実道氏に、永山氏からの名刺を出した。

 崇福寺などと同様、この福済寺も朱塗で、大棟に鯱や宝珠のついた明風建築だが、崇福寺よりは規模も大きいし、見た目に幾分厳正な感じを与えられる。青蓮堂の軒に、紫檀を枠にした古風なぎやまん細工の大燈籠が吊並べてあるの等、地方色豊かだ。青蓮堂に藤左衛門の像、護法堂の有名な彫塑大布袋、大方丈の沈南蘋の牡丹の絵などを見せて貰った。けれども、私共に最も感銘を与えたのは、大観門前に佇んで、低い胸欄越しに、模糊とした長崎市を俯瞰した時の心持だ。左手に、高くすっきり櫓形に石をたたみ上げた慈海燈を前景とし、雨空の下にぼんやり遠く教会堂の尖塔が望まれる。櫛比した人家の屋根の波を踰え、鈍く光りつつ横わっている港の展望、福済寺は、長崎港の一番奥、東北よりの丘陵の上に位している。埋立地もなかった昔の浜辺から此処迄は近かったに相違ない。海路平安という文字を刻された慈海燈は、唐船入津の時、或は毎夜、一点の光明を暗い夜の海に向って投げかけた。海上から、人の世の温情を感じつつその瞬きを眺めた心持、また、秋宵この胸欄に倚って、夜を貫く一道の光の末に、或は生還を期し難い故山の風物と人とを忍んだだろう明人の心持。……茫漠として古寂びたノスタルジヤが昼の雨に甦って来るように感じた。

 福済寺から受ける全印象は、この寺が、嘗て僧院として存在したというより、明人及長崎先覚者等の間に倶楽部のような役目をつとめていたらしいことだ。広大な方丈に坐って点滴の音を聴いていたら、今日は沈君の絵を一つ見ようと思って、などと談笑しながら幾人もの支那人が畳を踏んで来た気勢を感じるようであった。


 毎日よく雨が降ることだ。名物の紙鳶揚も春とともに終った長崎の若葉を濡して、毎日雨が降る。Yは、哀れな、腕が痛く心が重いので、雨を冒してまで方々を歩き廻る気になれず、従って私も部屋で、宿から借りた長崎風土記など読む。可愛く若い福島屋の細君が、

「──鶴の枕でも、御覧になりませんか、何でも、楊貴妃が使ったものなんでございますって。頭をのっけると鶴の鳴声が致しますんだそうです」

 頼山陽が、その鶴の枕を鳴して見て、出来た詩がその家の宝になって有る由。

 ──長崎というところは、然し不思議なところだ。鹿児島から着いた時、ジャパン・ホテルにいた数時間、実に堪え難い程町じゅうにはびこる物懶さ、眠さ、不活溌を感じたが、一日一日、滞在の日が重るにつれ、逆に快い落付きを感じて来た。降りこめられ、宿の三階で午後を暮しても、そこが旅先の泊りであるという遽しさ、寥しさなどちっとも感じない。町の空気に、それ位ひろい伝統的な抱擁力がある証拠と思う。

 いよいよ今日は立たなければならないという日。雲は断れたが、強い風が出た。すっかりれ上ったというのでもない。思い出したように大粒な雨が風と一緒に横なぐりにかかる。

 Y、

「──だから、貧乏旅行はいやさ」

 苦笑せざるを得ない。自動車で大浦天主堂に行く。松ケ枝川を渡った山手よりの狭い通りで車を下り、堂前のだらだら坂を登って行く。右手に番小屋が在る。一人の爺さんと、拝観に来たらしいカーキの兵卒がいる。私共は、永山氏からの名刺を通じた。

「日本のお方か、西洋のお方か、どちらへやるかね」

「どちらでもいいのです。──拝観出来れば……」

 すると、爺さんは名刺をそのまま私にかえしながらいった。

「拝観なら、わしでええ、今、葬式で誰もいなさらん。そこの右の方から入って見なさい。柵の中へさえ入らんけりゃどこでも見なすってええ」

「──勝手に拝見してもわかりますか」

「儂はな、もう年よりで病気だから、行ってもええが説明は出来んの、ここが苦しいから」

 彼は胸のところを抑えて見せた。

「──ただ見るだけ……」

 折角来たのに失望も感じたが、爺さんの眼付と言葉は朴直を極め、強いてそれ以上何と云う余地もない。

 私共は左に花壇のある石段を登り、日本信徒発見記念のマリヤ像の立っている正面玄関の右手扉を云われた通りに押して見た。開かない。ぐるりと裏に廻ると別に入口があり、ここは易々と開いたが、司祭の控室らしく、白い祭服のかかっている衣裳棚などがある。第一、塵もない木の床を下駄で歩いては悪そうだし、困って私は彼方此方を見渡廻した。樟の木蔭に、附属家屋のペンキを剥して、職人が一人働いている。私はその男に尋ね、灌木の茂みをわけて通じる石段を更に半丁ばかり登った。頂上で土地が展け、中央に十字架の基督像を繞って花壇がある。雲の断れ目から照り出した初夏の日光に、ゼラニュウムや蔓薔薇の紅の花が、純白な大理石の基督の肌と、つよい対照で目を射た。人気ない。陰気な程深い張出しつきの教師館を修繕中で、朽ちた床板がめくられ、湿っぽい土の匂がする。テニス・コートらしい空地で、緑の草を女がむしっている。私はやっと、御堂内では一切穿物を許さないということだけを知り得、荒れた南欧風の小径を再び下った。御堂の内部は比較的狭く、何といおうか、憂鬱と、素朴な宗教的情熱とでもいうようなものに充ちている。正面に祭壇、右手の迫持の下に、聖母まりあの像があるのだが、ゴシック風な迫持の曲線をそのまま利用した天蓋の内側は、ほんのり黄がかった優しい空色に彩られている。そこに、金の星がちりばめてある。星は、嬰児が始めて眼を瞠って認めた星のように大きい。つつましい冠をいただいた「いと貞操なる御母」まりあは、その稚い美感の制作である天蓋に護られ、献納の蝋燭の焔に少しばかりすすけ給うた卵形の御顔を穏かに傾け佇んで在られる。祭壇の後のステインド・グラスを透す暗紅紫色の光線はここまで及ばない。薄暗い御像の前の硝子壜に、目醒めるようなカリフォルニヤ・ポピーの一束が捧げてあるのが、いじらしい。隅に、紅金巾の帷を垂れた懺悔台がある。私共が御堂内にいる間に、女が二人参拝に来た。祭壇に近い柱のかげに坐り、包みから白い布を出してヴェイルとする。その被衣姿、二十六聖徒殉教図などに描かれているままであった。

 同じ日に浦上の天主堂も観た。大浦天主堂は日本最古の建築、浦上のは最大の建物だ。浦上の切支丹信徒が経験した受難の種々は世に知られている。この建物も、始め起工した時から近年完成する迄には数十年を閲し、信徒の中には、自分の息子を大工、左官に仕立てその労力を献じて竣工させたという話も聞いた。御堂の大さは確に、大浦天主堂の数倍あるであろう。合唱台もあるらしかった。けれども、建物ががらんとし過ぎ、明るすぎ、正面祭壇の白亜壁の前の巨大な花瓶に、厚紙細工らしい大棕梠の飾が立ててあるのなど、アフリカの沙漠を連想させた。ここには、それに大浦のようなピューがない。一面滑らかな板敷で、信徒は皆坐るものと見える。壮大な柱の根もとに穢い木綿坐布団が畳んでつくねられてあるのを見ると、異様に未開な感じがした。未開な、暗い頭脳が一むきに、ぜすきりしとを信奉し、まことに神の羊のように一致団結して苦難に堪えて来た力は、驚くべきだ。公平な立場から書かれた歴史を読むと、私共はシャヴィエル、ワリニヤニ等初期の師父──伴天連バテレン達が、神の福音をつげるに勇ましかったと同時、なかなか実際処世上の手腕をも具備していたことをしる。当時、その師父等と交誼のあった日本の君子等は、勿論知識と信仰とに呼醒されたこともあったに違いないが、純粋にその渇仰のみによってそうだったのだろうか。日本に於ける基督教布教史は当時乱世の有様に深く鋭く人生の疑問も抱いた敏感な上流の若い貴公子、女性などの無垢な傾倒と、この浦上の村人のような幼児の魂を持った人々の献身とによって、如何に美しく、如何に悲しくされているかしれないと思う。数多く来た伴天連の中には、これ等の人々のゆるがぬ信仰の殆んど神秘的な力をまのあたり見て、自分の信仰をも高めた者が一人もなかったと、どうして云えよう。それにしても、切支丹宗のどの福音がこんなに久しい伝統となるまで強く村人を捕えたのか。そして現在一九二六年の生活と信仰とはどんな工合に関係し、調和し、生きているのだろうか。この疑問は、天主堂から出て帰り途、若い二三人の娘が揃って御堂への坂を登って来るのに出会って一層はっきり私の心に起った。本願寺という寺の広間はこうもあろうかと思われる浦上天主堂の板の間の大柱の根に、薄穢く極りわるげにつくねられていた座布団どもの恰好を思い出すと、私の胸にはアナトオル・フランスの一つの物語が自然に浮んで来る。その題は、聖母の曲芸師。


 浦上は、今長崎市から電車で僅三十分ばかりの郊外である。市中との間は、都会の外廓につきものの雑然さの中にある。私共は大浦の天主堂にいるうちに、天候が定ったらしいので俄に思い立ち、大浦停留場から電車に乗ったのであった。

 終点から、細い川沿いに、車掌の教えてくれた通り進んだが、程なく二股道に出た。一方は流れに架った橋を越して、小高い丘の裾を廻る道、一方は真直畑を通る道。何しろ烈しい風の吹きようだ。真正面から吹きまくられて進むことは、二人とも寸時も早く免かれたい。彼方から女学校一二年らしい少女とその弟らしい子が連立って来かかった。私はすぐ、

「天主堂へは、どっちの路が近いでしょう」

と訊ねた。少女は、困った表情で私を見、自分の弟の顔を見た。

「さあ──私存じませんが……」

 が、頓智で、

「御堂ですよ」

と、註釈を加えた。──少女は育ちのよい娘らしく、わだかまりない容子で、

「ああ、御堂!」

と叫んだ。御堂なら、橋を渡った方が近いのだそうだ。

 赤土の泥濘を過ぎ、短い村落の家並にさしかかった。道のところどころに、雨あがりの大きい泥たんこが出来ている。私共二人、もう行手の丘の上に天主堂の大きく新しい城のような建物を望み何心なく喋りながら、一軒の床屋の前に通りかかった。床屋の前の床几に五六人、七つ八つから十三四までの男の子が集っている。ちょうどあった泥たんこを、私共は左右によけて一二歩歩いたと思うと、不図背後で何か気勢がした。Yが反射的に後を振かえった。私も。子供を背負った一番大きい男の子が急いで床几に戻った刹那であった。Yの靴下から、服、ケープの肩のところまで、泥の飛沫が一杯ついている。Y、つかつか床几の処へ行った。

「何した」

「──」

「こんな悪戯する奴があるか」

 悪童は、すっぱりと一つ喰らわされた。Yの洋装に田舎の子らしい反感を持ったのと、手下どもに己を誇示したかったのとが、偶然この少年をして「殴られる彼奴」にした原因だ。帰り、天主堂の坂下にその少年、他の仲間といたが、Yを認めると背中に括りつけられた隠し切れない旗じるしをひどく迷惑に感じるらしい。何とも曖昧な薄笑いを浮べながら、こそりと崖のくぼみに引とった。笑い、私共、歩きながらも笑った。


 出島跡を歩いて、私共自身への土産に些細な買物をし、長崎を立ったのはその夜十一時であった。前後たった四日の滞在であったが、その間Y、始終腕の腫れに悩まされ通しではあったが、楽しかった。大体、九州の旅行全体が楽しかった。九州は旅行するに変化ある。一つの盛沢山な前菜皿のようだ。陸の境界をそれぞれの山で区切られている国々は、大分にしろ、宮崎にしろ、特色をはっきり保有している。鹿児島と長崎など、ただ一夜汽車に乗るだけで、見ぬものにこうも違おうとは考えられまい。私の願いは、いつかもう一遍、これ等の国々を、汽車の線路よりは少し自由に奥まで彷徨さまよい歩いて見たいことだ。どうぞその時までには、編輯者諸君が沢山私の稿料をくれますように、ペダントリーの種がますように。そして、愛するYが、時間と金とを魔術のように遣り繰る技能に、一段の研磨の功を顕しますように。

〔一九二六年八月〕

底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社

   1981(昭和56)年320日初版発行

   1986(昭和61)年320日第4刷発行

底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房

   1953(昭和28)年1月発行

初出:「改造」

   1926(大正15)年8月号

入力:柴田卓治

校正:磐余彦

2003年915日作成

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