狭い一側面
宮本百合子
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私が、初めて瀧田哲太郎氏に会ったのは、西片町に在った元の中央公論社でであった。大正五年の五月下旬であったろうか、私は坪内先生からの紹介で二百枚ばかりの小説を持ち、瀧田氏に面会を求めて行ったのです。
留守かと思ったら、幸い社におられた。小さい木造洋館の石段から入った直ぐのところに在る応接室で待っていると、程なく二階から狭い階子を降りて一人の男の人が出て来た。体じゅうの線が丸く、頬っぺたがまるで赧い。着流しであった。紺足袋に草履ばきで近づき、少し改った表情で挨拶された。
「私が瀧田です」
言葉の響の中に、つよい北方の訛があった。その訛が、顔や体に現れる微細な動き、調子とひどく調和してい、一種性格的なものを感じさせる。──私は、この特徴に富んだ人をどう理解してよいのか分らなかった。赧い赧い頬、それと極めて鮮やかな対照をなしつつぽやぽやっと情熱的にほやついている漆黒な髪、特色ある早口、時々私を視る眼光の鋭さ。生活力の横溢が到るところに感じられた。同時に、単純でない何ものか──謂わば狷介というようなものをも一面感じられる。──
私は、自分からは、どう出てよいか分らず、瀧田氏から訊かれることだけを答えた。忘れたが、きっと、いつからものを書いているか、というようなことであったろう。原稿は置いて帰ることになった。どういうきっかけからだったか、瀧田氏はその時、
「あなたは、一生本当に文学をやって行く気ですか」
と訊いた。私は、その質問を寧ろ意外に感じた。勿論その積りなこと、そうでなかったら始めから来はしなかったろうという意味を答えたのを覚えている。
──初対面の時の、この一口で云えない瀧田氏の印象は、今も猶そのままに遺っている。然し、氏がどんなに中央公論を愛しているか、ジァーナリストとしての仕事を愛しているか、そればかりは当時の私にでもはっきりと分った。氏が雑誌につき、計画について話す調子には、いつも見えざる焔があった。知らず識らずの間にその熱が聴手にも移った。瀧田氏は瀧田氏で雑誌について喋っているのだが、聞いているうちに聴手は聴手で、また、聴手自身の仕事に一種の張合や熱中を感じて来る──そんな傾向があるのであった。論文でも、文学的作品でも、よいのが集まると、氏は、実に悦んでそのことを話した。瀧田氏のそのよろこびは、単に、雑誌の編輯者という立場からばかりでは決してなかった。氏自身、芸術鑑賞上一見識を持ってい、芸術愛好者としての純粋な亢奮が伴うのであったらしい。氏が、ジァーナリストとして他と違っていた大きな点はここにもあった。よい芸術品を得たい熱情が、編輯者としての利害と結びついた形であった。
瀧田氏に会うのは、一年に僅か数度であったが、その時分、氏はいつも、奥ゆきのたっぷりした俥に乗って来られた。羽織、袴であった。そして、早いうちから、まだ夏になりきらないうちから、勢よく扇を使い使い話す。田中王堂氏の原稿は、書き入れ、書きなおしで御本人さえ一寸困るようだとか、多分藤村氏であった、有名な遅筆だが、(鵠沼の東屋ででもあったのだろう、)おくれて困るので出先まで追っかけて、庭越しに向い合わせの座敷をとって待つことにした。さて藤村氏の方はどんな工合に行っているかと硝子障子のところから見ると、一字書いては煙草を吹かし、考え、考え、やっと一字書いたが、消す。煙草、煙草、また一字、という風で、自分まで実に辛かったとか。そんな断片的な話をよくされた。二十前の小娘を相手では瀧田氏もその位の話題しか見出せなかったのだろう。丁度、田村俊子氏の生活が動揺し始めた頃であったと見え、非常に疲労の現れた作品を送ってよこしたということも聞いた。素木しづ氏も存生で、一人お子さんが生れた当時であった。生活が楽でなく、困り抜いた揚句であったろう。深夜、一台の俥に脚の不自由なしづ氏と赤ちゃんが乗り、良人であったU氏が傍について西片町の瀧田氏を訪ねて来られたのだそうだ。金策の相談があった。けれども、瀧田氏は、誰でも知るあの言葉つきで、
「断りました」
と云った。
「なぜ?」
「私は一さい情実に捕われないことにしています……書いたものを買うなら別だが」
一つの插話にすぎないが、私は、氏の編輯者道とでもいうべきものの一端を見るように思った。
大正九年の初夏に一度、西片町の家を訪ねたことがあった。二階の部屋に通された。そこには、氏の特に愛蔵する夏目漱石氏の書、平福百穂氏の絵などが豊富に飾られてあった。別に、鴨居から一幅、南画の山水のちゃんと表装したのがかかっていた。瀧田氏は、ぐるぐる兵児帯を巻きつけた風で、その前に立ち、
「どうです、これはいいでしょう」
と云った。筆の細かい、気品のある、穏雅な画面であった。
「誰のです」
「それが、私は(確な名を忘れた)××だと思うんですが、落款がないんです、手に入れた時、夏目さんに見せたら、こりゃあいいと云っていた」
書斎の方に座って、陶器の話などした。私の父がこの頃少し凝りかけていたので、自然そんな方面に向ったものと見える。そんな時も、氏は元気よい話手であった。そして、日本画壇の、所謂大家というものに対して、率直な不満を洩した。平福氏の画が好きなのは、その人格がすきだという話も聞いた。画壇に於てばかりでなく、各方面に、そういう、或る見識に立脚した批判と選択を持った人であった。
考えて見るのに、私は、瀧田氏の極小部分しか知らない。而も、その小部分によほど、弱音器がかけられていると思う。大人は子供に水を割った葡萄酒を飲ませる。──そんな意味で、ひとりでに、極自由な、溌溂と全幅の真面目を発揮する氏の風貌に接する機会のなかったのは残念であった。
底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
1981(昭和56)年3月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
1953(昭和28)年1月発行
初出:「中央公論」
1925(大正14)年12月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
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