わからないこと
宮本百合子
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時々考えると疑問になることがある。それは、男性の創る芸術的作品──文学でも美術でも──の中には、夥しく女性に対するアドレイションが表現されている。それだのに、女性の作品には、何故同じような男性に対するアドレイションが現されないのだろう、と云うことだ。
勿論女性に対する愛重といっても、現わされる形は多様で決して中世の騎士的崇拝、または宗教的霊化に限っていない。チェホフのような態度、モウパッサンの視野、ストリンドベルク、ゲエテ、イプセン、片仮名でない名で見出せば西鶴、近松、近く夏目漱石、皆、それぞれのテムペラメントに従って、女性を愛している。或る者は、幾分当惑げな寛大さと興味深げな観察眼を以て、或る者は、女性の盲目的な熱情、素晴らしい肉体、小さい頭に絶望的な腹立ちや、驚歎や悲しみ、同情を感じながら。ルノアルの描く女性は何と愛らしいだろう。彼女達は、皆膨っ面をしている時でも、決して憎らしいとは思われそうもない単純さ、優しい暖かさ、生活の耀きにかこまれている。オーギュスト・ロダンが、無比の天才で、精神にも肉体にも力溢れ漲る女性を再誕させたことは誰でも知っている。
それに対して、女性の芸術家は、どんな男性を、彼女等の作品の中に産み出しているだろうか。美術史に遺っている著名な女流画家──ロザ・ボンヌールは何を描いた? 一生、動物を描き通し、傑作は馬だ。マリー・ローランサンは、彼女の幻想の花や少女を独特の灰色、白、桃色、黒緑で、粋に病的に描く。二流、三流の通俗画家が、凡庸な構図とあり来りな解釈とで、神話の男神、アポロー、パンまたは、キリスト教の聖徒などを描いた他、或る女流画家の特殊な稟性によって、ユニクな属性を賦与された男子の肖像が在るだろうか。私は自分の狭い知識では不幸にして一つの例も知らない。文学的作品に於ては、もう少しは希望がある。東西の傑出した女性の作家は、兎に角彼女等の芸術家的客観性によって、男性を描写してはいる。然し、それは往々余り冷静すぎ、傍観的態度でありすぎ、または、道徳上の批評を多く加えてとりあつかわれている。何だかたっぷりしない。色彩の豊富な活きた印象が乏しい。私共は親しい源氏物語の光君は持っているが、彼とても、彼と交渉を持った数多い女性達の優婉さ、賢さ、風情、絵巻物風な滑稽等の生彩ある活躍にまぎれると、結局末摘花や浮舟その他の人物の立派な紹介者というだけの場合さえあるようだ。種々な作品を一般にいうと、女性の作家は何かの形でいつも「女としての」何ごとかを世間に向ってクレイムしていると思うのは私の誤だろうか。そういう相対的な観念を躍り越え、いきなりぐっと生のままの男性に迫り、深い理解、観照を以て心や体を丸彫りにする場合は尠い。理解や観照は対象を愛することから生ずる。好奇心を刺戟されることから起る。そして見ると、女性は、男性が女性を愛すように男を愛さないということになるのだろうか、と私は不思議になるのである。
本当に、女は男を愛さないのだろうか? それとも余り愛しすぎるので恥しがって愛さないようなふりをするのだろうか? 女性の芸術家が、男を充分視、自分のものとして活々扱わないのは、種々微妙な原因がありそうに思われる。第一、概して云って、女性は昔から受け身に愛されて来た。愛した女性は尠い。第二に、いつの時代からか、男ばかり主の社会となり、女性は陰で苦しい思いや不都合や云いたくても云えない思いを胸一杯にして生活していた。それ故、確りした、ものの云える(筆でも何でも)女性は、我知らず女全体の代弁者的立場に自分を置き、冷静に批評した男性を作中に描いた。(こんな変な、勝手な男性を、まあ自分達はどうしてこのように大切にするのだろうかと怪しみ愕きながら)第三には、女性が、多く、性慾と愛との区別さえも自覚しない精神力の軟さを持つ点にも関係がありそうに思う。男性に対する時、大抵の女性は彼女の官能全部にぱっと、男性を感じる。そして、我知らず、恐ろしいほどたっぷり女性の中にある順応性によって、対象を観察するより速い直覚的順応作用を起す。けれども、それ等の自分の内部外部の経過をちっとも明瞭に意識しないように出来ている、或は癖のついている女性は、従ってその現象に自分ながら感歎することもなく、更に従ってその原因である男性をつくづく味い、眺め、探求し、抽象することがないのが普通だ。随分頭の進んだ女性にとっても、男性は自分と性的交渉を持つか──良人や恋人として──持たないかというだけで存在価値をきめられる場合がある。即ち自分の満足する良人や恋人が身辺にあれば、世界中のどんな男の存在も見えず興味を牽かず、注意をひかないというような単純さだ。作家ではあっても、女性である場合、このような一種異様な軟かさから、すっかり自由になり切れないのではあるまいか。心理的にも複雑なことだから、こんな不用意な疎雑なことで完全に説明されるとは思わないが、兎に角、女性の芸術的作品に、晴々強く箇性的な男性への愛重が現れ難いのは、公平に云って女が救いようのない偽善者だからでも、石女だからでもないと思われる。何時も、男性を敵手と思うからでも無いだろう。寧ろ、生理的にだか伝統によってだか女性全般に共通なあの奇妙な渺茫さ、どこやら急処でもう一息というような生活意識の不明瞭さ、それ等が少くとも原因の一部なのではないのだろうか。
底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
1981(昭和56)年3月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
1953(昭和28)年1月発行
初出:「不同調」
1925(大正14)年7月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
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