愛と平和を理想とする人間生活
宮本百合子
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芥川さんでしたか「私達の生活の側に天国をもって来るとしたら、きっと退屈してしまって、死んでしまいたくなるだろう」って云われたように覚えてますが、それは私も同感に思います。ですから理想などというものは、実現されるまでのその間が楽しいものであって、充されてしまったら存外つまらぬものかもしれません。けれどもどんな人にも慾望や理想はいくらかずつは持っていましょうし、またそこに人生の面白味があるのではないでしょうか。
私のえがいているもの──そうですね、私は慾張りの方ですから、随分いろいろな慾望がありますけれど、日常の生活でいえば、さしあたり静かなところへ旅行したいと思っています。同じ旅行でも関西方面より北の方がいいと思います。大阪、京都などのような都会は、違った文化が見られて悪るくはないと思いますが、旅として見て、東海道あたりの海が見え、松があるといった美しいだけで、唯長々と眠につづいている整然とした風景よりも、変化のある北の方が好ましいと思います。
旅行では一人旅よりも、気の合った友達と行くのが好きです。展開されゆく道中の景色を楽しく語合うことも出来ますし、それに一人旅のような無意味な緊張を要しないで気安い旅が出来るように思います。煩いのない静かなところに旅行して暫く落ちついてみたい──こんな慾望を持っていますが、さて容易いようで実行できないものですね。住いですか? これには面白い話しがありますのよ。今いる家は静かそうに思って移ったのですが、後に工場みたいなものがあって、騒々しいので、もう少し静かなところにしたいと思って先日も探しに行ったのですが、私はどちらかというと椅子の生活が好きな方で、恰度近いところに洋館の空いているのを見つけ私の注文にはかなった訳ですが、私と一緒にいる友達は反対に極めて日本室好みで、折角説き落して洋館説に同意して貰ったまではよかったのですが、見たその洋館というのが特別ひどいところだったので、すっかり愛想をつかされてしまいました。仕方がないから両様の好みを入れて一軒建てようということにして設計までいたしておりますが、これも今のところ私達の理想に止まってなかなか実現されそうにありません。こうした些細な慾望や、理想は兎も角として、この地上に誰れもが求め、限りもなくのぞむものは平和と愛ではないでしょうか。各々もとめるところの形は皆ちがいましょうけれど、私達の理想とするものは、愛と平和の融合を措いてこの世の楽園は考えられないと思います。然し常にこの世に争闘が絶えないと同時に、それは実現し難いものだと思います。例えば親子間の愛──この世にたった一つしかないいきさつですらも、どれだけ円満にいっていましょう。愛と平和──それは今の経済学、哲学とかの学問で説明したり、解剖したりする論理としての論理でなく、皆の分かり切った常識として、人間の生活に自由なものとなって来たら、愉快なことだと思います。
底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
1981(昭和56)年3月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
1953(昭和28)年1月発行
初出:「婦人画報」
1925(大正14)年6月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
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