祖母のために
宮本百合子



 十二月の中旬、祖母が没した。八十四歳の高齢であった。棺前祭のとき、神官が多勢来た。彼等の白羽二重の斎服が、さやさや鳴り拡がり、部屋一杯になった。主だった神官の一人がのりとを読んだ。中に、祖母が「その性高く雄々しく中條精一郎大人うしの御親としてよく教へよく導き」老いては月雪花を友として遊び楽しんだというような文句が頻りにあった。長寿を完うした人であったし、困窮の裡に死んだ人でもなかったから、神官も他の文句を考えられなかったのだろう。けれども、私は、朗々と其等の文章が読み上げられたとき、明に一種の不愉快を感じた。のりとが余りとおり一遍で、嘘だという気が切なく湧いた。正直に訊いたら、列坐の親戚達も皆そう感じたと答えたと思う。祖母は、そんな堂々たる、同時に白々しいのりとなどにはまるで向かないたちの人であった。一生じみに、小さく暮した人であった。周囲に在る幸福や悦びを進んで心に味うようなことのなかった人であった。それ故、私どもに、祖母は何処やら気の毒な、必要以上にいつも勤勉な人として感じられていた。若しのりとの形式がどうにでもなるもので、親しく話すような調子で「貴女の苦労の多かった一生も先ず終りました。これからは安心して悠くりお休みなさい。本当に貴女はゆとりのない人であった。」と読まれたら、私は恐らく悲しさと一緒に身も心も溶けるような寛ろぎを感じて彼女のために泣いただろう。祖母の名は、運といった。

 祖母は、九月の下旬から、福島県下の小さな村の家に行っていた。祖父が晩年を過したところで、特徴のない僻村だが、家族的に思い出の深い家があった。七八年前まで、彼女は独りで女中を対手にずっとそこで暮していた。東京の隠居所へ移ってからも、祖母は春や秋になると田舎を懐しがった。あっちには、彼女が苗木の時から面倒を見ていた桐畑、茶畑があった。話対手の年寄達もいるし、彼女達を聴手とすれば、祖母は最新知識の輸入者となれた。行きたくなると、彼女は、息子や孫のいるところで、思いあまったように呟いた。

「おりゃあはあ、安積あさかへでも行こうと思うごんだ」

(祖母は米沢生れで、死ぬまで東京言葉が自由に使えなかった。)

 余り思い入った調子なので、皆は不安になって祖母を見た。

「どうして? おばあさま」

 祖母は、赤漆で秋の熟柿を描いた角火鉢の傍に坐り、煙管などわざとこごみかかっていじりながら云う。

「近頃ははあ眼も見えなくなって、糸を通すに縫うほどもかかるごんだ。ちっとは役に立ちたいと思って来たが、おれもはあこうなっては仕様がない。──今年はあぶない。安積で死ねば改葬だ何だと無駄な費をかけないですむから、おりゃあ……」

「いやなお祖母様!」

 私が無遠慮に、祖母の言葉を遮るのが常であった。

「そんなことをおっしゃると、みんな心持がわるくなってよ。ただおりゃあ安積へ行きたくなったごんだとおっしゃいよ。──そうでしょう? 私も行っても悪くないごんだから、ついて行って上げるわ。それでいいでしょう?」

 祖母は、いいともわるいとも云わず、暫く黙り、また云う。

「百姓どもははあ、一寸でもよけい畑作ろうと思ってからに、桐の根まで掘り返すごんだうわ、それでいて芽を一本かいてくれない。それも心配だし、御不動様へつぶも上げなきゃあなるめえし」

 憐れな祖母は、これぞという用事もなしに、田舎へ往復してはいけないと感じているらしかった。彼女の癖がのみこめないうち、よくこの陰気っぽい話の切り出しかたで、皆が滅入った。父や母は特に感情上複雑な理由でも潜んでいるのではないかと案じたらしい。しかし、祖母は、そういう朗らかでない生れつきであったのだ。損な人であった。多くの場合逆に感情を表した。私を愛していてくれたのに、顔を見ると、「お前は子供のうちはめんごかったのになあ」と云った。また、すきな物を召上れと云われ、実に嬉しいに違いないのに、「おらあ子持の時分から、腹の減るということを知らなかった女だごんだ」と云うように。後では、時節がよく成ると、皆の方から、田舎に行って世話をやいて来て下さいと云った。去年も五月に、私が頼んで一緒に行って貰った。夏は東京に帰って過し、秋、私と入れ違いに再び田舎に行ったのであった。

 十一月二十日すぎに、英国から従弟の一人が帰朝した。祖母とは特別深い繋りがあった人なので、寒くもなるしそれをよい知らせに迎いが立った。従弟の歓迎の意味で近親の者が集って晩餐を食べた時、私は帰ってから始めて祖母に会った。子供のように、赤いつやつやした両頬で、楽しそうにはしていたが、二三ヵ月前に比べると、ぐっと老耄したように見えた。弱々しいあどけなさめいたものが、体の運び方に現れた。私は、思わず、

「おばあちゃん、いかがでした、安積は」

と云った。御祖母様という言葉に暗示される威厳、構えというようなものが、自然とれていたものと見える。そのとき祖母は、賑やかに揃っている連中を見渡しながら、巾着を何処へやったか判らなくなって困る困るとこぼした。

 数日後の或る朝のことであった。電話が掛って来た。私は友達の家にいた。電話口に出て見ると、母の声で、祖母が四五日前から腸をこわし、昨夕から看護婦をつけている。見舞いに来るように、ということだった。──電話を切りながら、安心のような不安心なような不確な心持になった。母自身もどの程度まで大事に考えてよいのか見当のつかない口ぶりであった。私は、途中で平常祖母の好きな謡曲のレコードを買って行った。

 祖母は、几帳面なたちであったから、隠居所はいつもきちんと片づき、八畳の部屋も広々としていた。祖母は、そこに寝ているのだが、派手な夜具の色彩や看護婦や枕元の小机などで、部屋は狭く活気満ちて見える。私は美しいオレンジ色の毛布から出ている祖母の顔付を見ると、例え四五日でも知らずにいたのをすまなく感じた。祖母は想像して来たより遙に衰えていた。入れ歯をとっているせいもあったろう。口元など、別人のように痛々しく皺みくぼんでいる。息が抜けるので一層弱い声で、祖母は、

「なしてこげえな病気になったろう。……早く死にたいごんだなあ」

と訴えた。彼女は、病気より何より自分で厠に行けないのを苦にやんだ。一寸気を許すと、夜なかでも独りで立って行こうとするので困ると、看護婦が説明した。私は無頓着な元気な風で、祖母の一克さを笑った。そして、乱れた白髪を撫でつけてあげながら少し大きな声で、

「おばあちゃま、謡の種板を買って来たのだけれど、おききになりますか」

と訊いた。祖母は、暫く考えていたが、穏やかな口調で、

「謡はいいなあ、おら地言じごと(文句)は判らないでも、音をきくだけで、気までしゃんとするごんだ」

と答えた。私は重ねて、

「おききになる?」

と尋ね、合点するのを見て悦びを感じた。友達は、数年前に母を失った経験を持っていた。彼女は、恢復力のない病人は、音楽などをいやがるようだと話した。祖母が、蓄音器を聴こうというのは、よい徴候だ、大丈夫だと、私は嬉しく思ったのであった。

 翌日、祖母は鉢の木や隅田川など、満足した顔付で聴いた。傍で、把手ハンドルを廻しながら彼女の楽しむ様子を眺め、私はレコードを買って来てよいことをしたと思った。昔から祖母は謡曲好きなのに、近頃若い者達の買いためるレコードは、皆西洋音楽のものであった。それらもすきでききはしたが、時々思いついたように、謡のは無いかと云い出した。田舎に出かける数日前の夜も祖母は私にそれを云い出した。私は、彼方此方捜して見た。長唄はあるが謡は無い。祖母はもう聴かれるものと思い、わざわざ椅子の上に坐って待ちかまえている。私は、素気なくありませんと云えなくなった。仕方なく、度胸を据えて、長唄の石橋をかけた。祖母は、それとは知らず、掛声諸共鼓が鳴り出すと、きっちり両手を膝につっかい、丸まった背を引のばすようにして気張った。その姿は、滑稽でもあり、また気の毒至極であった。実際聴きわける耳もないのに謡と思うとああいう風に気を張るのかと思うと、暗い一念、という印象が強く私に遺されていた。先ず本ものの謡がきかされてよかった。

 腸の方は、少しずつよい方に向い、祖母は甘酒を頻りに啜った。食慾は余りつかない。そのうちに父が九州まで出張しなければならなくなった。用事は彼を待っているが気が進まず、やっと、医師の保証で出立した。出立の夕方父は、隠居所に行った。

「一寸用で国府津まで行くと申上て来たからその積りでいてくれ。遠くだと落胆なさるといけないから」

「そうお、私困ったわ、父様が九州へいらっしゃると云ってしまってよ、もう」

「変だね、始めて聞くように云っていらしったよ」

「じゃあお忘れになったのよ、却ってよかったわ」

 父の旅行先には、毎日夕刻「ハハカワリナシ」と電報を打った。祖母は、父の多忙のため、幾日も顔を見ないことに馴れていた。旅行については何もきかず、蜜柑の汁、すっぽんのスープ、牛乳、鶏卵などを僅に飲みながら、朝になり夜になる日の光を障子越しに眺めている。口を利くのは、まだ起きてはいけないかという質問と、何故こんな病気になったろうという述懐の時だけである。私の友達が綺麗なカアネーションを持って見舞に来てくれた時、祖母は始めて、病気を訴える以外に口を利いた。

「美しい花だことない、こんな花は日本で咲きますか」

 繰返し繰返し名を訊き、飽かず眺めた。祖母は一体に風流心のない人であった。部屋でも、塵なく片づいてさえおれば堪能しているのに、この時三輪の花に示した優しさは、前例ないことであった。祖母は御愛素でなくその華々しい薄桃色の草花を愛した。後で、種々枕元に飾ったがどれもそのカアネーション程は気に入らなかった。そして、不満そうに、

「あのお友達の下すった花はよかったなあ」

と呟いた。

 四五日退屈な日が過た。医者は、段々祖母の食慾不振を不安がり始めた。生活力が洩れる水のように、絶えず目立たず、然し恐ろしい粘り強さで減退し始めた。一昨年の大震災当時祖母は過度な苦労をした。実の娘と孫とを失った。以来、衰えが目についた。病気そのものはもう癒ったのに、恢復する力が足りないのだ。祖母自身、生きたがらない。うっとりと死にたがっている。そういう病人を見ているのは不思議であった。激しい病と戦う若者を看護するような意気込みが無い。何でも活かそうという熱が湧かない。「どうだろう、」──漠然とした恐怖のない心配があるだけだ。

 或る日、私は看護婦の入浴の間、祖母の傍にいた。火鉢の火が少くなって来た。台所に行ってガス火起しを見つけているうちに、私はふと何ともいえず胸を打ったものを見出した。硝子戸棚の下の台に、小さく、カンカンに反くりかえったパンが一切、ぽつねんと金網に載せたまま置いてある。眼を離そうとしても離れず、涙であたりがぼうっと成った。祖母の仕業だ。祖母は朝はパンと牛乳だけしか食べない。発病した朝焼いたまま、のこしたのだろう。捨てることを誰も気がつかなかったのだ。涙組みながら、私は自分の涙を怪しんだ。奇妙ではないか、祖母は決してこのパンばかりしか食べるものが無かったのではない。美味いものがいくらも食べられた人だ。それだのに、この古パンの一切れを見ると、云いようなく哀れで、彼女の全生涯が、忘れられてカンカラに乾からびたこの一切のパンの裡に籠っているように感じるのは、どうしたことだろう。台所はからりとして明るく、西日が、パンの載っている金網の端に閃いていた。

 私の祖母に対する感情は変った。考えて見ると、私と祖母とは、仲のよいような悪いような複雑な間であった。祖母は概して無智で、押しが強く、ごくの実際家であった。昔の女らしく、一種の陰険さもあり、見識がないから下らない気兼苦労をする人であった。私は、彼女の総てに朗々としないのが大嫌いであった。妙なことに拘わって、忍耐強い性格のまま執念くやられると、私は憎しみさえ感じた。そして、怒った。怒りながら、私は祖母のために、編ものをした。細かい身の廻りのことにおのずから気がついた。

「いやなお祖母様。この装でお出かけになる積り? 駄目! 駄目!」

 祖母は、ちゃんとした服装を一人でととのえることを知らないらしかった。手荒いように、然し念を入れて、私が襟元などをよくなおした。祖母と私とは、そういう心持のいきさつなのであった。変に哀れっぽい乾からびたパンを見てから、私の裡に在る真実が自分でも判らない一杯さで心に溢れて来た。いやなおばあちゃんという点は依然としてあるが、厭でもよいというような気持、ただ可哀想という心持。──

 父は急いで九州から戻った。帰った日から祖母の容態が進み、カムフル注射をするようになった。十中八九絶望となった。祖母は、心持も平らかで、苦痛もない。私は、父の心を推察すると同情に堪えなかった。父は情に脆い質であった。彼にとって、母は只一人生き遺っていた親、幼年時代からの生活の記念であった。兄や弟、妹たちは皆若死をした。母がなくなれば、妻子を除いて、父は独りぼっちだ。父も若くない。寂しく思うだろう。私は自分が子としての立場にある故か、父を愛し愛している故か、それがひどく父の身に代って思い遣られた。

 十六日の晩、私は息抜きという心持で外出し、外で夕飯をたべた。帰って夜中祖母の傍についていた。翌朝五時頃眠って午後起き、また病室に行った。看護婦の数が殖え、医師のいる時間が延び、家中の生活に昼夜の境がぼやけ始めた。その恭々しい混雑の裡で、動かず、静かにしているのは、祖母だけだ。けれども、凝っと脈搏に注意したり息の音にきき入っていると、祖母はこれまでの祖母とはまるで違い、ひっそりした内密の魂の何処かで、いそがず綿密に何かの準備をしている人のように思えた。手落ちない、この世の最後の仕度にとりかかっているような。傍の私などに窺い知れない内部的なものが生じたようでさえあった。

 臨終は、ごく穏やかであった。細る呼吸に連れて生命が煙のように立ち去った。体は安らかで知覚なく、僅に遺った燼のように仄温いうちに、魂が無碍に遠く高く立ち去って行く。決して生と死との争闘ではなかった。充分生きた魂の自然な離脱、休安という感に打れた。八十四歳にもなると、人はあのように安らかに世を去るものなのだろうか。

 私は、これまで弟妹や外祖母、叔父などの死に会っていた。その経験から、この祖母の死も冷静に受けられると思っていた。年に不足はないのだし、苦痛ない往生を遂げたのだから。けれども、この予想は誤っていた。祖母の臨終の時から、一種異様な寥しさが私の心の底に食い入った。死なれて見て、祖母と自分との絆が如何に深いものであったかを知った淋しさとも云える。何だか淋しい。心持の上で、祖母は死んでこの世から消滅し切ったものとは思えず、芝居でする遠見の敦盛のように、遙か彼方で小さく、まざまざと活き動いているのが見えるようだ。祖母の姿や声もはっきりしている。ふと、

「おばあちゃん」

と呼びかけたいような気持になる。然し、祖母は、もういない人だ。二度と会えない。どんなに思っても私の生涯に再び会える時は無くなったのだ。こんなに鮮やかに、こんなに微細な髪のくせまで判っている彼女の全存在が、只私の心にだけ止っている影像に過ないとは、何という不思議だろう!

 物静かなこの淋しさは、私に種々のことを思わせた。特に、将来自分がいつかは経験しなければならない愛する人々との別離に対してどんな用意があるだろうか、ということが考えられた。祖母との訣別は思いのほか強く私を打った。祖母でさえそうだ。まして、自覚し思い込んで愛している幾人かの愛する者との別れが、不意に来たら、自分はどうするだろう。この恐怖は、祖母の葬送前後著しく私を悩した。それを考えると、自分の健康なのが却って重荷のようで、涙が出た。私が先に死ぬのであったら、一番よい。愛する者を次々に送って、最後に自分の番になる寂寥を思うと殆ど堪え難く成った。

 日数が経つと、そんな感情の病的に弱々しい部分は消えた。私は再び自分の健康も生も遠慮なく味い出した。私はやはり日向で、一寸したことに喜んで、高い声をあげてはあはあと笑う。

 祖母は、水に棲む貝で例えれば蜆のような人であった。若し蜆が真珠を抱くものとすれば、それは私に対して持ってくれた一粒の愛だ。

 通夜は賑やかであった。私は眠れず、二晩起き通した。人々は、種々雑談した。自分も仲間に成って話しながら、そこに祭られている当の祖母について誰一人何の思い出らしいものをも話さないのを侘しく感じた。祖母は全然逸話を持たない人であった。私の心に甦って来る事々も、皆、祖母自身から聞かされた、第三者には何の興味もない世帯の苦労話ばかりだ。例えば、祖母の右の腕は力がなく重い物が持てなかったその訳とか、姑で辛い思いを堪えた追憶だとか。出入りの者などはそれさえ知るまい。ただ、丹精な、いつも仕事をしていた御隠居という印象が、大した情も伴わずあるだけなのだ。

 二日目の通夜が、徐々朝になりかけて来ると、私は今日限りの別れが云いようなく惜まれて来た。早朝の寒い空気の中で御蝋燭を代え、暫く棺を見守り、父の処へ行った。私は疲れていたので、桐ケ谷には行かない予定に成っていたのだ。私は父に自分も先方まで送りたい願いを伝えた。願いは叶い、私は父と二人きりで祖母を最後の場所まで送った。棺は恐ろしく手早に火葬竈に入れられ、鉄扉が閉った。帰りの自動車の中で、涙が流れて仕方なかった。私はすぐくっついて腰かけている父に気づかれまいとして、そろそろ灯のつき始めた街路の方に顔を向け、涙を拭きもせず黙っていた。父は、少し来てから、親切に、

「寒くはないかい」

と訊き、膝かけの工合をなおしてくれた。父の声もうるんでいる。そしてやはり窓の外ばかり見ている。やがて、明に私の気を引立たせる積りで、彼は、飛び過て行く道路の上で目についた些細なことを捕えて活溌に喋り出した。間に軽い諧謔さえ混ぜる。おどけながら、父は頻りに手巾を出して鼻をかんだ。その度に、やっと笑っている私は、幾度か歔り上げて泣き出しそうに成った。

 翌日、御骨は羽二重の布に包まれて戻って来た。それを広間の祭壇に祀り、向い合って坐っているうちに、私は生きている祖母と隠居所ででもさし向いでいるような、親しい暖かさが、胸に充ち拡るのを感じた。背後には、午後の冬日がさしている。畳廊下の向うの硝子に、祭壇の燃える蝋燭の二ツの焔が微に揺れながら映っていた。二本の燭はこれも一隅が映っている白い包みを左右から護って、枯れた辛夷こぶしの梢越しに、晴れやかに碧い大空でゆらめいているように見えた。

〔一九二五年三月〕

底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社

   1981(昭和56)年320日初版発行

   1986(昭和61)年320日第4刷発行

底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房

   1953(昭和28)年1月発行

初出:「文芸春秋」

   1925(大正14)年3月号

入力:柴田卓治

校正:磐余彦

2003年915日作成

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