雲母片
宮本百合子
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わかい、気のやさしい春は
庭園に美しい着物を着せ
──明るい時──
林町の家の、古風な縁側にぱっと麗らかな春の白い光が漲り、部屋の障子は開け放たれている。室内の高い長押にちらちらする日影。時計の眩ゆい振子の金色。縁側に背を向け、小さな御飯台に片肱をかけ、頭をまげ、私は一心に墨を磨った。
時計のカチ、カチ、カチカチいう音、涼しいような黒い墨の香い。日はまあ何と暖かなのだろう。
「ああちゃま、まだ濃くない?」
母は、障子の傍、縁側の方に横顔を向け、うつむいて弟の縫物をしていた。顔をあげず、
「もう少し」
丸八の墨を握ったまま、私はぴしゃ、ぴしゃ硯を叩いて見た。自分の顔は写らないかと黒い美しい艷のある水を覗いた、そしてまた磨り始める。
何処かで微かな小鳥の声。
見えないところに咲いている花の匂いが、ぽかぽかした、眠くなる春の光に溶けて流れて来るようだ。
彼方側の襖の日かげがゆれて母が立って来た。
「もういいだろう?」
私は、墨で硯の池の水を粘らせて見た。
「どろどろでなくっていいの?」
「この墨は、灰墨じゃあないから、そんなにどろどろにはならないよ。半紙は?」
「ここ」
私は、七歳で、真白い紙の端に墨の拇印をつけながら、抓んで半紙を御飯台の上に展げた。母は、傍から椎の実筆を執り池にぽっとりした! 岡でくるくる転して穂を揃えた。その筆を持って、小さく坐っている私の背後に廻った。
「さあ筆を持って。──そうじゃあなく、その次の指も掛けて、こう」
「こう?」
「そうよ。いいかえ。一番先にいろはと書いて見よう、ね。よく見ていて、次には一人で書くんだよ」
母は、生れて始めて筆を握った私の手を上から持ちそえ、
「ほら、点。ズーッと少しまげて、ちょん。これで片方。こっちは、やっぱり始めに力を入れて、外へふくらがして──ちょん。」口でいいながら、三寸四角位の中に一ついの字を書いた。
指の覚えもなく、息を殺して白い、春の光に特に白い紙の面を見つめていた私は、上から自分の手を捕まえた母の力がゆるむと、溜息をついた。
黙って字を眺め、首をねじ向けて後に中腰をしている母の顔を仰見た。
母は、私のおかっぱの頭越しにやはり字を見、
「──変な形に出来たこと」と独言した。
「さあ、今度は百合ちゃんの番。書いて御覧。下手でもいいのよ」
私は、体じゅう俄に熱くなり、途方に暮れながら、被布の房を揺すって坐りなおした。筆を握ったが、先の方が変にくたくた他愛がなく、どんな風に動かしていいかわからない。正直にいえば、母が、どっちから、どう書き出したかも、余り珍しく熱心に気をとられているので判らない。
暫く躊躇した後、私は思い切って力を入れ、硯に近い右の方から、ぐっと棒を引いて先をはね、穂先もなおさず左側に向い合ってもう一本の棒を引いた。
ひどく力を入れた上に、墨がつきすぎていたので、見る間に紙ににじみ、折角書いたところは、一面真黒な墨のぬかるみになってしまった。──部屋にさす日の光はいよいよ明るい。母は、
「まあいやだ!」といって、楽しそうに笑った。
「どうしたの? これは字じゃあない。たどんじゃあないの。たどんやさん! さあ、もう一遍。今間違ったよ。そっちからではなく、こっちから。この棒の方から。さあ始めて」
半紙の下には、六つに仕切った罫の下敷があった。筆を握って瞬きもせずそのはっきりした四角な区切りを見つめていると、ひとりでに手が動いてどうしても右から先に落ちる。はっとする間もなく、私は次の一字も右側から先に書き出してしまった。
後から覗いていた母は、黙って、私の手を肩越しに掴んだ。そして、力を入れ、先刻の言葉がまた聞えるように思う程、はっきりはっきり定りどころをきめて、もう一度、いの字を書いた。そして、たった一言いった。「さあ。」
私は、すっかり上気せあがり、胸がどきどきしてよく眼が見えないようになった。母の心持が押しかぶさるようにこわく、苦しく、重く迫って来た。母が心の中で怒り、何故書けないのか、馬鹿さん、と思っているのはよくわかる。上手に書きたく、褒められたいのだけれども、筆というものは、何という手に負えないものか。その上、私の心には字というものの感じがはっきり写らず、母の書いてくれるいの字も、いという音には相違ないのだけれど、眼で見れば、少し真中で曲った蟹の鋏形の二本の棒としか見えない。それが、どうして、私共の喋る言葉のいなのか。大切な、間違えてはいけない字だと、凝っと見れば見る程不可解な、まごつく、奇怪な二本の棒になって来る。而も、私がこんなものさえ上手に書けなくては、学校へなど到底行けないとおっしゃったではないか。ああ、あんなにいい袴や草履が出来たのに!
私は、涙を出し、がむしゃらになって、この変ないを組伏せそうに、ぐっ、ぐっと筆をこじった。今度もやっぱり我知らず右の方から。母は、背後から傍に来、坐ってじっと私の顔を眺めた。
見ると、母の眼も、明るい日の中であやしく閃いている。
「どうしたの? 百合ちゃん。お前そんなに馬鹿なの? どうしてちゃんといの字位が書けないのだろう」
母の沈んだ、恥しそうな情けなさそうな声をきくと、私は堪らなくなった。私は、筆を紙の上に放り出し、始めはしくしく、やがて声を出して泣き出した。
私は、馬鹿と乞食とが世の中で一番いやな、恥しいものだと思っていた。もうじき学校に行くそのお稽古に書く字が、どうしてだか書けない。字の書けないのはきっと馬鹿だろう。自分もその馬鹿であったのかと、絶望しきって涙の止め途がなかったのであった。
明治三十九年の春、児童心理学をまるで知らない若い感情家の母と、幼い未開人めいたその娘とは、暖い十畳の日だまりで、神の微笑そうな涙を切に流した。
霜のない地面から長閑な陽炎が立つ。
雀が植え込みの椿の葉を揺るささやかな音。程なく私は縁側に出、両脚をぶら下げて腰をかけた。膝には赤い木皿に丸い小さいビスケットが三十入っている。
柱に頭をもたせかけ、私はくたびれてうっとりとし、ぼんやり幸福で、そのビスケットを一つ一つ、前歯の間で丹念に二つにわって行った。
底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
1981(昭和56)年3月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
1953(昭和28)年1月発行
初出:「女性改造」
1924(大正13)年3月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
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