硯友社の沿革
尾崎紅葉
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夙て硯友社の年代記を作つて見やうと云ふ考を有つて居るのでありますが、書いた物は散佚して了ふし、或は記憶から消え去つて了つた事実などが多い為に、迚も自分一人で筆を執るのでは、十分な事を書く訳には行かんのでありますから、其の当時往来して居つた人達に問合せて、各方面から事実を挙げなければ、沿革と云ふべき者を書く事は出来ません、
其に就て不便な事は、其昔朝夕に往来して文章を見せ合つた仲間の大半は、始から文章を以て身を立る志の人でなかつたから、今日では実業家に成つて居るのも有れば工学家に成つて居るのも有る、其他裁判官も有る、会社員も有る、鉄道の駅長も有る、中には行方不明なのも有る、物故したのも有る、で、銘々業が違ふからして自から疎遠に成る、長い月日には四方に散じて了つて、此方も会ふのが億劫で、いつか〳〵と思ひながら、今だに着手もせずに居ると云ふ始末です、今日お話を為るのは些の荒筋で、年月などは別して記憶して居らんのですから、随分私の思違ひも多からうと思ひます、其は他日善く正します、
抑も硯友社の起つたに就ては、私が山田美妙君(其頃別号を樵耕蛙船と云ひました)と懇意に成つたのが、其の動機でありますから、一寸其の交際の大要を申上げて置く必要が有る、明治十五年の頃でありましたか東京府の構内に第二中学と云ふのが在りました、一ツ橋内の第一中学に対して第二と云つたので、それが私が入学した時に、私より二級上に山田武太郎なる少年が居つたのですが、此少年は其の級中の年少者で在りながら、漢文でも、国文でも、和歌でも、詩でも、戯作でも、字も善く書いたし、画も少しは遣ると云つたやうな多芸の才子で、学課も中以上の成績であつたのは、校中評判の少年でした、私は十四五の時分はなか〳〵の暴れ者で、課業の時間を迯げては運動場へ出て、瓦廻しを遣る、鞦韆飛を遣る、石ぶつけでも、相撲でも撃剣の真似でも、悪作劇は何でも好でした、(尤も唯今でも余り嫌ひの方ではない)然るに山田は極温厚で、運動場へ出て来ても我々の仲間に入つた事などは無い、超然として独り静に散歩して居ると云つたやうな風で、今考へて見ると、成程年少詩人と云つた態度がありましたよ、其が甚麼機で相近く事に成つたのであるか、どうも覚えませんけれど、いつかフレンドシツプが成立つたのです、
尤も段々話合つて見ると、五六才の時分には同じ長屋の一軒置いた隣同士で、何でも一緒に遊んだ事も有つたらしいので、那様事から一層親密に成つて、帰路も同じでありましたから連立つても帰る、家へ尋ねて行く、他も来る、そこで学校外の交を結ぶやうに成つたのです、
私は程無く右の中学を出て、芝の愛宕下町に在つた、大学予備門の受験科専門の三田英学校と云ふのに転学しました、それから大学予備門に入つて二年経つ迄、山田とは音信不通の状で居たのです、其には別に理由も何も無い、究竟学校が違つて了つた所から、お互に今日あつて昨日も明日も無い子供心に、漠然と忘れて了つたのです、すると、私が二級に成つた時、山田が四級に入つて来たのです、実に這麼意外な想をした事が無い、第二中学に居た時は私より二級上の山田が、予備門では二級下の組に入つて来たのでせう、私は何為た事かと思ひました、然し、実に可懐かつたのです、顔を見ると手を把つて、直に旧交が尋められると云ふ訳で、其頃山田も私も猶且第二中学時代と易らず芝に住んで居ましたから、往復ともに手を携へて、議論を上下するも大きいが、お互の談も数年前よりは真面目に成つた、さて話をして見ると、山田は文章を以つて立たうと云ふ精神、私も同断だ、私の此志を抱いたのは、予備門に入学して一年許過ぎての事であるが、山田は彼の第二中学に居る時分から早く業に那様了見が有つたらしいのです、一年前に其志を抱いた私は未だ小説の筆は仇つて見なかつたのであるが、恐る可き哉、己より三歳弱い山田が既に竪琴草子なる一篇を綴つて、疾から価を待つ者であつたのは奈何です、然云ふ物を書いたから、是非一読して批評をしてくれと言つて百五六中枚も有る一冊の草稿を私に見せたのでありました、其の小説はアルフレツド大王の事蹟を仕組んだもので文章は馬琴を学んで、実に好く出来て居て、私は舌を巻きました、なか〳〵批評どころではない、敬服して了つたのです、因で考へた、彼が二年晩れて予備門に入つて来たのは、意味無くして遅々して居たのではない、其間に余程文章を修行したものらしい、増上寺の行誡上人や石川鴻斎翁の所へ行つたのは総て此間の事で、而して専ら独修をした者と見える、何でも西郷隆盛論であつたか、遊二松島一記であつたか鴻斎翁が始て彼の文章を見た時、年の若いに似合はぬ筆つきを怪んで、剽窃したのであらうと尤めたと云ふ話を聞きましたが、漢文も善く書いたのです、
次に硯友社の興るに就いて、第二の動機となつたのは、思案外史と予備門の同時の入学生で相識つたのです、其頃は石橋雨香と云つて居ました、是は私の竹馬の友の久我某が石橋とはお茶の水の師範学校で同窓であつた為に私に紹介したのでしたが、其の理由は第一私と好を同うするし、且面白い人物であるから交際して見給へと云ふのでありました、是から私が又山田と石橋とを引合せて、先づ桃園に義を結んだ状です、
其内に山田は芝から一ツ橋まで通学するのは余り遠いと云ふので、駿河台鈴木町の坊城の邸内に引越した、石橋は九段坂上の今の暁星学校の在る処に居たのですが、私は不相変芝から通つて居た、山田と益親密になるに就けて、遠方から通ふのは不都合であるから、僕の家に寄宿しては奈何です、と山田が云つてくれるから、願うても無き幸と、直に笈を負て、郷関を出た、山田の書斎は八畳の間でしたが、其に机を相対に据ゑて、北向の寒い武者窓の薄暗い間に立籠つて、毎日文学の話です、此に二人が鼻を並べて居るから石橋も繁く訪ねて来る、山田は出嫌ひであつたが、私は飛行自由の方であるから、四方に交を結びました、処が予備門内を普く尋ねて見ると、なか〳〵斯道の好者が潜伏して居るので、それを石橋と私とで頻に掘出しに掛つた、すると群雄四方より起つて、響の声に応ずるが如しです、是が硯友社創立の導火線と成つたので、
さて其頃の三人の有様は如何にと云ふに、山田は勉強家であつたが、学科の方はお役目に遣つて居て、雑書のみを見て居た、石橋は躰育熱心の遊ぶ方で、競争は遣る、器械躰操は遣る、ボートは善く漕ぐ、水練は遣る、自転車で乗廻す、馬も遣る、学科には平生苦心せんのであつたが、善く出来ました、試験の成績も相応に宜しかつた、私と来ると、山田とも付かず石橋とも付かずでお茶を濁して居たのです、其頃世間に持囃された読物は、春のや君の書生気質、南翠君の何で有つたか、社会小説でした、それから、篁村翁が読売新聞で軽妙な短編を盛に書いて居ました、其等を見て山田は能く話をした事ですが、此分なら一二年内には此方も打つて出て一合戦して見やう、而して末には天下を…………などゝ云ふ大気焔も有つたのです、
処へ或日石橋が来て、唯恁して居るのも充らんから、練習の為に雑誌を拵へては奈何かと云ふのです、いづれも下地は好なりで同意をした、就ては会員組織にして同志の文章を募らうと議決して、三人が各自に手分をして、会員を募集する事に成つた、学校に居る者、並に其以外の者をも語合つて、惣勢二十五人も得ましたらうか、其内過半は予備門の学生でした、
今日になつて見ると、右の会員の変遷は驚く可き者で、其内死亡した者、行方不明の者、音信不通の者等が有るが、知れて居る分では、諸機械の輸入の商会に居る者が一人、地方の判事が一人、法学士が一人、工学士が二人、地方の病院長が一人、生命保険会社員が一人、日本鉄道の駅長が一人、商館番頭が築地(諸機械)と横浜(生糸)とで二人、漁業者と建築家とで阿米利加に居る者が二人、地方の中学教員が一人、某省の属官が二人、大阪と横浜とで銀行員が二人、三州の在に隠れて樹を種ゑて居るのが一人、石炭の売込屋が一人、未だ〳〵有るが些と胸に浮ばない、先づ這麼風に業躰が違つて居るのです、而して、後〻硯友社員として文壇に立つた川上眉山、巌谷小波、江見水蔭、中村花痩、広津柳浪、渡部乙羽、などゝ云ふ面々は、此の創立の際には尽く未見の人であつたのも亦一奇と謂ふべきであります、
因で其の雑誌と云ふのは、半紙両截を廿枚か卅枚綴合せて、之を我楽多文庫と名け、右の社員中から和歌、狂歌、発句、端唄、漢詩、狂詩、漢文、国文、俳文、戯文、新躰詩、謎も有れば画探しも有る、首の方には小説を掲げて、口画も挿画も有る、是が総て社員の手から成るので、其の筆耕は山田と私とで分担したのです、山田は細字を上手に書きました、私のは甚だ醜い、で、小説の類は余り寄稿者が無かつたので、主に山田と石橋と私とのを載せたのです、此の三人以外に丸岡九華と云ふ人がありました、此人は小説も書けば新躰詩も作る、当時既に素人芸でないと云ふ評判の腕利で、新躰詩は殊に其力を極めて研究する所で、百枚ほどの叙事詩をも其頃早く作つて、二三の劇詩などさへ有りました、依様我々と同級でありましたが、後に商業学校に転じて、中途から全然筆を投じて、今では高田商会に出て居りますが、硯友社の為には惜い人を殺して了つたのです、尤も本人の御為には其方が結搆であつたのでせう、
それで、右の写本を一名に付三日間留置の掟で社員へ廻したのです、すると、見た者は鉛筆や朱書で欄外に評などを入れる、其評を又反駁する者が有るなどで、なか〳〵面白かつたのであります、此の第壱号を出したのが明治十八年の五月二日です、毎月壱回の発行で九号まで続きました、すると、社員は続々殖ゑる、川上は同級に居りましたので、此際入社したのです、此人は本郷春木町に居て、石橋とは進文学舎の同窓で、予備門にも同時に入学したのでありましたが、同好の士であることは知らなかつたと見えて、是まで勧誘もしなかつたのでありました、眉山人と云ふのは遥か後に改めた名で、其頃は煙波散人と云つて居ました、
此の写本の挿絵を担当した画家は二人で、一人は積翠(工学士大沢三之介君)一人は緑芽(法学士松岡鉦吉君)積翠は鉛筆画が得意で、水彩風のも画き、器用で日本画も遣つた、緑芽は容斎風を善く画いたが、素人画では無いのでありました、
さて我楽多文庫の名が漸く書生間に知れ渡つて来たので、四方から入会を申込む、社運隆盛といふ語を石橋が口癖のやうに言つて喜んで居たのは此頃でした、一冊の本を三四十人して見るのでは一人一日としても一月余かゝるので、これでは奈何もならぬと云ふので、機も熟したのであるから、印行して頒布する事に為たいと云ふ説が我々三名の間に起つた、因で、今迄は毎月三銭かの会費であつたのが、俄に十銭と引上げて、四六版三十二頁許の雑誌を拵へる計画で、猶広く社員を募集したところ、稍百名許を得たのでした、此時などは実に日夜眠らぬほどの経営で、又石橋の奔走は目覚しいものでした、出版の事は一切山田が担任で、神田今川小路の金玉出版会社と云ふのに掛合ひました、是は山田が前年既に一二の新躰詩集を公にして、同会社を識つて居る縁から此へ持込んだので、此社は曩に稗史出版会社予約の八犬伝を印刷した事が有のです、山田は既に其作を版行した味を知つて居るが、石橋と私とは今度が皮切なので、尤も石橋は前から団珍などに内々投書して居たのであつたが、隠して見せなかつた、山田も読売新聞へは大分寄書して居ました、私は天にも地にも唯一度頴才新誌と云ふのに柳を咏じた七言絶句を出した事が有るが、其外には何も無い、
扨雑誌を出すに就ては、前々から編輯の方は山田と私とが引受けて、石橋は専ら庶務を扱つて居たので、此の三人を署名人として、明治十九年の春に改めて我楽多文庫第壱号として出版した、是が写本の十号に当るので、表題は山田が隷書で書きました、之に載せた山田の小説が言文一致で、私の見たのでは言文一致の小説は是が嚆矢でした、
此の雑誌も九号迄は続きましたが、依様十号から慾が出て、会員に頒布する位では面白くないから、価を廉くして盛に売出して見やうと云ふので、今度は四六倍の大形にして、十二頁でしたか、十六頁でしたか、定価が三銭、小説の挿絵を二面入れました、之より先四六版時代に今一人画家が加りました、横浜の商館番頭で夢のやうつゝと云ふ名、実名は忘れましたが、素人にしては善く画きました、其後独逸へ行つて、今では若松の製鉄所とやらに居ると聞いたが、消息を詳にしません、
四六版から四六倍の雑誌に移る迄には大分沿革が有るのですが、今は能く覚えません、印刷所も飯田町の中坂に在る同益社と云ふのに易へて、其頃私は山田の家を出て四番町の親戚に寄寓して居ましたから、石橋と計つて、同益社の真向に一軒の家を借りて、之に我楽多文庫発行所硯友社なる看板を上げたのでした、雑誌も既に売品と成つた以上は、売捌の都合や何や彼やで店らしい者が無ければならぬ、因で酷算段をして一軒借りて、二階を編輯室、下を応接所兼売捌場に充てゝ、石橋と私とが交る〴〵詰める事にして、別に会計掛を置き、留守居を置き、市内を卸売に行く者を傭ひ其勢旭の昇るが如しでした、外に類が無かつたのか雑誌も能く売れました、毎号三千づゝも刷るやうな訳で、未だ勉めて拡張すれば非常なものであつたのを、無勘定の面白半分で遣つて居た為に、竟に大事を去らせたとは後にぞ思合されたのです、今だに一つ話に残つて居るのは、此際の事です、何でも雑誌を売らなければ可かんと云ふので、発行日には石橋も私も鞄の中へ何十部と詰め込んで、而して学校へ出る、休憩時間には控所の大勢の中を奔走して売付けるのです、其頃学習院が類焼して当分高等中学に合併して居ましたから、此へも持つて行つて推売るのです、学生時代の石橋と云ふ者は実に顔が広かつたし、且前に学習院に居た事があるので、善く売りました、第一其の形と云ふものが余程可笑い、石橋が鼻目鏡を掛けて今こそ流行るけれど、其頃は着手の無いインパネスの最一倍袖の短いのを被て雑誌を持つて廻る、私は又紫ヅボンと云れて、柳原仕入の染返の紺ヘルだから、日常に出ると紫色に見える奴を穿いて、外套は日蔭町物の茶羅紗を黄に返したやうな、重いボテ〳〵したのを着て、現金でなくちや可かんよとなどゝ絶叫する様は、得易からざる奇観であつたらうと想はれる、這麼風で中坂に社を設けてからは、石橋と私とが一切を処理して、山田は毎号一篇の小説を書くばかりで、前のやうに社に対して密なる関係を持たなかつた、と云ふのが、山田は元来閉戸主義であつたから、其の躯が恁云ふ雑務に鞅掌するのを許さぬので、自から遠かるやうに成つたのであります、
漣山人は此頃入社したので、夙て一六翁の三男に其人有りとは聞いて居たが、顔を見た事も無かつたのであつた所、社員の内に山人と善く識る者が有つて、此人の紹介で社中に加はる事になつたのでした、其頃巌谷は独逸協会学校に居まして、お坊さんの成人したやうな少年で、始て編輯室に来たのは学校の帰途で、黒羅紗の制服を着て居ました、此人は何でも十三四の頃から読売新聞に寄書して居たので、其の文章を見た目で此人を看ると、丸で虚のやうな想がしました、後に巌谷も此の初対面の時の事を言出して、私の人物が全く想像と反して居たのに驚いたと云ひます、甚麼に反して居たか聞きたいものですが、ちと遠方で今問合せる訳にも行きません、
巌谷の紹介で入社したのが江見水蔭です、此人は杉浦氏の称好塾に於ける巌谷の莫逆で、其の素志と云ふのが、万巻の書を読まずんば、須く千里の道を行くべしと、常に好んで山川を跋渉し、内に在れば必ず筆を取つて書いて居る好者と、巌谷から噂の有つた其人で、始て社に訪れた時は紺羅紗の古羽織に托鉢僧のやうな大笠を冠つて、六歩を踏むやうな手付をして振込んで来たのです、文章を書くと云ふよりは柔術を取りさうな恰好で、其頃は水蔭亭主人と名宣つて居ました、
扨雑誌は益〻売れるのであつたが、会計の不取締と一つには卸売に行かせた親仁が篤実さうに見えて、実は甚だ太い奴であつたのを知らずに居た為に、此奴に余程好いやうな事を為れたのです、畢竟売捌の方法が疎略であつた為に、勘定合つて銭足らずで、毎号屹々と印刷費を払つて行つたのが、段々不如意と成つて、二号おくれ三号おくれと逐れる有様、それでも同益社では石橋の身元を知つて居るから強い督促も為ず、続いて出版を引受けて居たのです、此の雑誌は廿一年の五月廿五日の出版で、月二回の発行で、是も九号迄続いて、拾号からは又大いに躰裁を改めて(十月廿五日出版)頁数を倍にして、別表紙を附けて、別摺の挿画を二枚入れて、定価を十銭に上げました、表紙は朱摺の古作者印譜の模様で、形は四六倍、然して紙数は無かつたけれど、素人の手拵にした物としては、頗る上出来で、好雑誌と云ふ評が有つたので、是が我楽多文庫の第四期です、
第三期に小説の筆を執つた者は、美妙斎、思案外史、丸岡九華、漣山人、私と五人であつたが、右の大改良後は眉山人と云ふ新手が加つた、其迄は川上は折〻俳文などを寄稿するばかりで、とんと小説は見せなかつたのであります、所が十三号の発刊に臨んで、硯友社の為に永く忘るべからざる一大変事が起つた、其は社の元老たる山田美妙が脱走したのです、いや、石橋と私との此時の憤慨と云ふ者は非常であつた、何故に山田が鼎足の盟を背いたかと云ふに、之より先山田は金港堂から夏木立と題する一冊を出版しました、是が大喝采で歓迎されたのです、此頃軟文学の好著と云ふ者は世間に地を払つて無かつた、(書生気質の有つた外に)其処へ山田の清新なる作物が金港堂の高尚な製本で出たのだから、読書社会が震ひ付いたらうと云ふものです、因で、金港堂が始て此の年少詩人の俊才を識つて、重く用ゐやうと云ふ志を起したものと考へられる、此時金港堂の編輯には中根淑氏が居たので、則ち此人が山田の詞才を識つたのです、其と与に一方には小説雑誌の気運が日増に熟して来たので、此際何か発行しやうと云ふ金港堂の計画が有つたのですから、早速山田へ密使が向つたものと見える、
此方は暢気なものだから那様事とは些も知らない、山田も亦気振にも見せなかつた、けれども前にも言ふ如く、中坂に社を設けてからは、山田は全く社務に与らん姿であつたから、社の方でも山田の平生の消息を審にせんと云ふ具合で、此の隙が金港堂の計を用る所で、山田も亦硯友社と疎であつた為に金港堂へ心が動いたのです、当時は実に憤慨したけれど、考へて見れば無理の無い所で、而して此間の事は硯友社のヒストリイから云ふと大いに味ふ可き一節ですよ、
其内に金港堂に云々の計画が有ると云ふ事が耳に入つた、其前から達筆の山田が思ふやうに原稿を寄来さんと云ふ怪むべき事実が有つたので、這は捨置き難しと石橋と私とで山田に逢に行きました、すると金港堂一件の話が有つて、硯友社との関係を絶ちたいやうな口吻、其は宜いけれど、文庫に連載してある小説の続稿だけは送つてもらひたいと頼んだ、承諾した、然るに一向寄来さん、石橋が逢ひに行つても逢はん、私から手紙を出しても返事が無い、もう是迄と云ふので、私が筆を取つて猛烈な絶交状を送つて、山田と硯友社との縁は都の花の発行と与に断れて了つたのです、刮目して待つて居ると、都の花なる者が出た、本も立派なれば、手揃でもあつた、而して巻頭が山田の文章、憎むべき敵ながらも天晴書きをつた、彼の文章は確に二三段進んだと見た、さあ到る処都の花の評判で、然しも全盛を極めたりし我楽多文庫も俄に月夜の提灯と成つた、けれども火は消えずに、十三、十四、十五、(翌二十二年の二月出版)と持支へたが、それで到頭落城して了つたのです、此の滅亡に就いては三つの原因が有るので、(一)は印刷費の負債、(二)は編輯と会計との事務が煩雑に成つて来て、修学の片手業に余るのと、(三)は金港堂の優勢に圧れたのです、それでも未だ経済の立たんやうな事は無かつたのです、然し労多くして収むる所が極めて少いから可厭に成つて了つたので、石橋と私と連印で、同益社へは卅円の月賦かにした二百円余の借用証文を入れて、それで中坂の店を閉ぢて退転したのです、
此の前年の末に私を訪ねて来たのが、神田南乗物町の吉岡書籍店の主人、理学士吉岡哲太郎君です、私が文壇に立つに就いては、前後三人の紹介者を労したので、其の第一が此の吉岡君、則ち新著百種の出版元です、第二は文学士高田早苗君、私が読売新聞に薦められた、第三は春陽堂の主人故和田篤太郎君、私の新聞に出した小説を必ず出版した人、其の吉岡君が来て、毎号一篇を載せる小説雑誌を出したいと云ふ話、そこで新著百種と名けて、私が初篇を書く事に成つて、二十二年の二月に色懺悔を出したのです、私が春のや君に面会したのも、篁村君を識つたのも、此の新著百種の編輯上の関係からです、それから又此の編輯時代に四人の社中を得た、武内桂舟、広津柳浪、渡部乙羽、外に未だ一人故人に成つた中村花痩、此人は我楽多文庫の第二期の頃既に入社して居たのであるが、文庫には書いた物を出さなかつた、俳諧は社中の先輩であつたから、戯に宗匠と呼んで居た、神田の五十稲荷の裏に住んで、庭に古池が在つて、其畔に大きな秋田蕗が茂つて居たので、皆が無理に蕗の本宗匠にして了つたのです、前名は柳園と云つて、中央新聞が創立の頃に処女作を出した事が有る、其に継いでは新著百種の末頃に離鴛鴦と云ふのを書いたが、那が名を成す端緒であつたかと思ふ、
武内と識つたのは、新著百種の挿絵を頼みに行つたのが縁で、酷く懇意に成つて了つたが、其始は画より人物に惚れたので、其頃武内は富士見町の薄闇い長屋の鼠の巣見たやうな中に燻つて居ながら太平楽を抒べる元気が凡でなかつた、
広津と知つたのは、廿一年の春であつたか、少年園の宴会が不忍池の長酡亭に在つて、其の席上で相識に成つたのでした、其頃博文館が大和錦と云ふ小説雑誌を出して居て、広津が編輯主任でありました、乙羽庵は始め二橋散史と名つて石橋を便つて来たのです、其時は累卵之東洋的悲憤文字を書いて居たのを、石橋から硯友社へ紹介して、後に新著百種に露小袖と云ふのを載せました、
それから一時中絶した我楽多文庫です、吉岡書籍店が引受けて見たいと云ふので、直に再興させて、文庫と改題して、形を菊版に直しました、是は新著百種の壱号が出ると間も無く発行したので、我楽多文庫の第五期に成る、表画は故穂庵翁の筆で文昌星の図でした、是が前の廃刊した号を追つて、二十二号迄出して、二十二年の七月廿三号の表紙を替へて(桂舟筆花鳥風月の図)大刷新と云ふ訳に成つた、頻に西鶴を鼓吹したのは此の時代で、柳浪、乙羽、眉山、水蔭などが盛に書き、寒月露伴の二氏も寄稿した、而して挿絵は桂舟が担当するなど、前々の紙上から見ると頗る異色を帯びて居ました、故に之を第六期と為る、我楽多文庫の生命は第六期で又姑く絶滅したのです、二十二年の十月発行の廿七号を終刊として、一方には都の花が有り、一方には大和錦が有つて、いづれも頗る強敵、吾が版元も苦戦の後に斃れたのです、然し、十一月に又吉岡書籍店の催で、柳浪子を主筆にして小文学と云ふ小冊子を発行した、是とても謂はゞ硯友社機関でありました、抑も九と云ふ数は硯友社に取つては如何なる悪数であるか此小文学も亦九号にして廃刊する始末、(二十三年四月)廿二年の十二月でした、篁村翁が読売新聞社を退いたに就いて、私に入社せぬかと云ふ高田氏からの交渉でしたから、直に応じて、年内に短篇を書きました、翌廿三年の七月になると、未だ妄執が霽れずして、又々江戸紫と云ふのを出した、是が九号の難関を踰へたかと思へば、憐むべし、其の歳の暮十二号にして、又没落、之が為に無けなしの懐裏を百七十円ほど傷めて、吽と参つた、仮に小文学をも硯友社の機関に数へると、其が第七期、是が第八期で、未だ第九期なる者が有る、
余り人は知らぬが、千紫万紅と云つて、会員組織にして出した者で、硯友社の機関と云ふのではなく、青年作家の為であつたから、社名も別に盛春社として、私の楽半分に発行した、是は廿四年の六月が初刊であつたが、例の九号にも及ばずして又罷めて了つたのです、小栗風葉は此の会員の中から出たので、宅に来たのは泉鏡花が先ですが、私が文章を扱つたのは風葉(其頃拈華坊)の方が早い、
廿四年中に雑誌編輯の手を洗つてから、茲に年を経ること九年になります、処が此の九の字が又不思議で、実は来春にも成つたら、又々手勢を率て雑誌界に打つて出やうと云ふ計画も有るのです、第九期まで有つて十期の無いのは甚だ勘定が悪いから、是非第十期を造りたいと云ふ考も有るので、
段々追想して見ると、此の九年間の硯友社及び其の社中の変遷は夥しいもので、書く可き事も沢山有れば書かれぬ事も沢山ある、なか〳〵面白い事も有れば、面白くない事も有る、成効あり、失敗あり、喜怒有り哀楽ありで、一部の好小説が出来るのです、で又今後の硯友社は如何と云ふのも面白い問題で、九年の平波に掉して居た私の気運も、来年以後は変動を生ずるであらうと念はれるのです、
硯友社の沿革に就いては、他日頗る詳しく説く心得で茲には纔に機関雑誌の変遷を略叙したので、それも一向要領を得ませんが、お話を為る用意が無かつたのですから、這麼事で御免を蒙ります、
底本:「明治の文学 第6巻 尾崎紅葉」筑摩書房
2001(平成13)年2月20日初版第1刷発行
底本の親本:「紅葉全集 第十巻」岩波書店
1994(平成6)年11月
※佃速記事務所員筆記
※文字遣い・仮名遣いの誤用・不統一は底本のままとしました。
入力:門田裕志
校正:多羅尾伴内
2004年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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