拊掌談
芥川龍之介
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名士と家
夏目先生の家が売られると云ふ。ああ云ふ大きな家は保存するのに困る。
書斎は二間だけよりないのだから、あの家と切り離して保存する事も出来ない事はないが、兎に角相当な人程小さい家に住むとか、或は離れの様な所に住んでゐる方が、あとで保存する場合など始末がよい。
帽子を追つかける
道を歩いてゐる時、ふいに風が吹いて帽子が飛ぶ。自分の周囲の凡てに対して意識的になつて帽子を追つかける。だから中々帽子は手に這入らない。
他の一人は帽子が飛ぶと同時に飛んだ帽子の事だけ考へて、夢中になつてその後を追ふ。自転車にぶつかる。自動車に轢かれかかる。荷馬車の土方に怒鳴られる──その間に帽子は風の方向に走つてゆく。かう言ふ人は割合に帽子を手に入れる。
しかしどちらにしろ人生は結局さううまく行くものではないらしい。余程の政治的或は実業的天才でもなければ、楽々と帽子を手に入れる様な人は恐らく居ないだらう。
不思議一つ
安月給取りの妻君、裏長屋のおかみさんが、此の世にありもしない様な、通俗小説の伯爵夫人の生活に胸ををどらし、随喜して読んでゐるのを見ると、悲惨な気がする。をかしくもある。
「キイン」と「嘆きのピエロ」
最近輸入された有名な映画だと云ふ「キイン」と「嘆きのピエロ」の筋を聞いた。
筋としてはキインの方が小説らしくもあり、面白いとも思ふ。大抵の男はキインの様な位置には割になれ易いものである。大抵の女は、キインの相手の伯爵夫人の様な境遇には置かれ易いものである。
嘆きのピエロ夫妻の様な位置には、大抵の人達は、一生に一度もなり憎い事である。まして虎に咬みつかれる様な事は、自分自分の一生を考へてみた所、一寸ありさうもないではないか。これが若し虎ぢやなしに、犬だつたら兎に角。
映画
映画を横から見ると、実にみじめな気がする。どんな美人でもぺチヤンコにしか見えないのだから。
又
映画はいくら見ても直ぐにその筋を忘れて仕舞ふ。おしまひには題も何もかも忘れる。見なかつた前と一寸も変りがない。本ならどんなつまらないと思つて読んだものでも、そんなにも忘れる事はないのに、実に不思議な気がする。
映画に出て来る人間が物を云つて呉れたら、こんなに忘れる事はあるまいとも考へて見る。自分がお饒舌だからでもあるまいが。
犬
日露戦争に戦場で負傷して、衛生隊に収容されないで一晩倒れてゐたものは満洲犬にちんぼこから食はれたさうだ。その次に腹を食はれる。これは話を聞いただけでもやり切れない。
「辨妄和解」から
安井息軒の「辨妄和解」は面白い本だと思ふ。これを見てゐると、日本人は非常にリアリスチツクな種族だと云ふ事を感じる。一般の種々な物事を見てゐても、日本では革命なんかも、存外雑作なく行はれて、外国で見る様な流血革命の惨を見ずに済む様な気がする。
刑
死刑の時絞首台迄一人で歩いてゆける人は、殆ど稀ださうだ。大抵は抱へられる様に台に登る。
米国では幾州か既に死刑の全廃が行はれてゐる。日本でも遠からず死刑と云ふ事はなくなるだらう。
無暗と人を殺したがる人に、一緒に生活されるのは、迷惑な話ではある。だがその人自身にとつて見れば、一生を監禁される──それだけで、もう充分なのだから、強ひて死刑なぞにする必要はない筈である。
又
囚人にとつては、外出の自由を縛られてゐるだけで、十二分の苦しみである。
在監中、その人の仕事迄取りあげなくともよささうなものである。
仮に僕が何かの事で監獄にはいる様な事があつたら、その時にはペンと紙と本は与へて貰ひたいものだ。僕が縄をなつてみたところではじまらない話ではないか。
又
学校にゐた頃の事、授業が終つて二階から降りて来た。外にはいつの間にか、雨がざあざあ降つてゐた。僕は自分の下駄を履く為に下駄の置き場所へ行つたのである。そこにはあるべき下駄がなかつた。いくら捜してもない。僕は上草履をはいてゐた。外には雨がひどく降つてゐる。
全く弱つて仕舞つた。併しそこには僕のでない汚い下駄は一足あつたのである。それを欲しいと思つた。とりたいと思つた。
結局その時はその下駄をとらなかつたが、あの場合あの下駄をとつたとしても、それは仕方のない事だと思ふ。
底本:「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集第四巻」筑摩書房
1971(昭和46)年6月5日初版第1刷発行
1979(昭和54)年4月10日初版第11刷発行
入力:土屋隆
校正:松永正敏
2007年6月26日作成
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