俳画展覧会を観て
芥川龍之介



 俳画展覧会へ行つて見たら、先づ下村為山しもむらゐざんさんの半折はんせつが、皆うまいので驚いた。が、実を云ふと、うまい以上に高いのでも驚いた。もつともこれは為山ゐざんさんばかりぢやない。諸先生の俳画に対して、皆多少は驚いたのである。かう云ふと、諸先生の軽蔑けいべつするやうに聞えるかも知れないが、決してさう云ふつもりぢやない。それよりむしろ、頭のどこかに俳画と云ふものと、値段の安いと云ふ事とを結びつけるものが、あらかじめ存在したと云つた方が適当である。

 但し中には画そのものがくだらなくつて、しかもすこぶる高価なものも全くなかつたわけじやない。が、あれは余りまづすぎるので、人に買はれると、しうを後世に残すから、わざと誰も買はないやうな、高い値段づけをつけたんだらうと推察した。唯、さう云ふ画が二三点すで売約済ばいやくずみになつてゐたのは、誰よりも先づいた人自身が遺憾ゐかんだつたのに違ひない。

 それから句仏上人くぶつしやうにんが、画をかせてもやはり器用なのに敬服した。上人は「勿体もたいなや祖師そし紙衣かみこの五十年」と云ふ句を作つた人である。が、上人の俳画は勿論祖師でもなんでもないから、更に紙衣かみこなんぞは着てゐない。皆この頃の寒空を知らないやうに、立派りつぱな表装を着用してゐる。

 その次に参考品の所で、浅井黙語あさゐもくご先生の画を拝見した。これは非売品だから、値段におどされないだけでも、甚だ安全なものである。が、そんなことを眼中に置かないでも、鳳凰ほうわう羅漢らかんなんぞは、至極しごく結構な出来だと思ふ。あの位達者で、しかもあの位気品きひんのある所は、それこそ本式に敬服のほかはない。

 最後に夏目漱石なつめそうせき先生の南山松竹なんざんしようちくを見て、同じく又敬意を表した。先生は生前、「おれは画でも津田つだに頭を下げさせるやうなものをいてやる」とりきんでゐられたさうである。そこで津田青楓つだせいふうさんに御相談申し上げるが、技巧はかくも、気品きひんの点へくと、先生の画の中には、あなたが頭を御下おさげになつても、恥しくないものがありやしませんか。これはわたし自身が頭を下げるから、さうして平生あなたがかう云ふ問題には公明正大な事をよく承知してゐるから、それでうかがつて見たいと思ふ。

 前に書き忘れたが、鳴雪翁めいせつをうの画も面白く拝見した。昔、初午はつうま稲荷いなりくと、よく鳥居をくぐるみち地口ぢぐち行燈あんどんがならんでゐた。あれはその行燈の絵を髣髴はうふつさせる所が甚だ風流である。

 まだいろいろ思ひついた事があるが、目下もくか多忙の際だから、これだけで御免ごめんかうむりたい。

(大正七年十一月)

底本:「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集第四巻」筑摩書房

   1971(昭和46)年65日初版第1刷発行

   1979(昭和54)年410日初版第11刷発行

入力:土屋隆

校正:松永正敏

2007年626日作成

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