点心
芥川龍之介
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御降り
今日は御降りである。尤も歳事記を検べて見たら、二日は御降りと云はぬかも知れぬ。が蓬莱を飾つた二階にゐれば、やはり心もちは御降りである。下では赤ん坊が泣き続けてゐる。舌に腫物が出来たと云ふが、鵞口瘡にでもならねば好い。ぢつと炬燵に当りながら、「つづらふみ」を読んでゐても、心は何時かその泣き声にとられてゐる事が度々ある。私の家は鶉居ではない。娑婆界の苦労は御降りの今日も、遠慮なく私を悩ますのである。昔或御降りの座敷に、姉や姉の友達と、羽根をついて遊んだ事がある。その仲間には私の外にも、私より幾つか年上の、おとなしい少年が交つてゐた。彼は其処にゐた少女たちと、悉仲好しの間がらだつた。だから羽根をつき落したものは、羽子板を譲る規則があつたが、自然と誰でも私より、彼へ羽子板を渡し易かつた。所がその内にどう云ふ拍子か、彼のついた金羽根が、長押しの溝に落ちこんでしまつた。彼は早速勝手から、大きな踏み台を運んで来た。さうしてその上へ乗りながら、長押しの金羽根を取り出さうとした。その時私は背の低い彼が、踏み台の上に爪立つたのを見ると、いきなり彼の足の下から、踏み台を側へ外してしまつた。彼は長押しに手をかけた儘、ぶらりと宙へぶら下つた。姉や姉の友だちは、さう云ふ彼を救ふ為に、私を叱つたり賺したりした。が、私はどうしても、踏み台を人手に渡さなかつた。彼は少時下つてゐた後、両手の痛みに堪へ兼たのか、とうとう大声に泣き始めた。して見れば御降りの記憶の中にも、幼いながら嫉妬なぞと云ふ娑婆界の苦労はあつたのである。私に泣かされた少年は、その後学問の修業はせずに、或会社へ通ふ事になつた。今ではもう四人の子の父親になつてゐるさうである。私の家の御降りは、赤ん坊の泣き声に満たされてゐる。彼の家の御降りはどうであらう。(一月二日)
夏雄の事
香取秀真氏の話によると、加納夏雄は生きてゐた時に、百円の月給を取つてゐた由。当時百円の月給取と云へば、勿論人に羨まれる身分だつたのに相違ない。その夏雄が晩年床に就くと、屡枕もとへ一面に小判や大判を並べさせては、しけじけと見入つてゐたさうである。さうしてそれを見た弟子たちは、先生は好い年になつても、まだ貪心が去らないと見える、浅間しい事だと評したさうである。しかし夏雄が黄金を愛したのは、千葉勝が紙幣を愛したやうに、黄金の力を愛したのではあるまい。床を離れるやうになつたら、今度はあの黄金の上に、何を刻んで見ようかなぞと、仕事の工夫をしてゐたのであらう。師匠に貪心があると思つたのは、思つた弟子の方が卑しさうである。香取氏はかう病牀にある夏雄の心理を解釈した。私も恐らくさうだらうと思ふ。所がその後或男に、この逸話を話して聞かせたら、それはさもあるべき事だと、即座に賛成の意を表した。彼の述べる所によると、彼が遊蕩を止めないのも、実は人生を観ずる為の手段に過ぎぬのださうである。さうしてその機微を知らぬ世俗が、すぐに兎や角非難をするのは、夏雄の場合と同じださうである。が、実際さうか知らん。(一月六日)
冥途
この頃内田百間氏の「冥途」(新小説新年号所載)と云ふ小品を読んだ。「冥途」「山東京伝」「花火」「件」「土手」「豹」等、悉夢を書いたものである。漱石先生の「夢十夜」のやうに、夢に仮託した話ではない。見た儘に書いた夢の話である。出来は六篇の小品中、「冥途」が最も見事である。たつた三頁ばかりの小品だが、あの中には西洋じみない、気もちの好い Pathos が流れてゐる。しかし百間氏の小品が面白いのは、さう云ふ中味の為ばかりではない。あの六篇の小品を読むと、文壇離れのした心もちがする。作者が文壇の塵氛の中に、我々同様呼吸してゐたら、到底あんな夢の話は書かなかつたらうと云ふ気がする。書いてもあんな具合には出来なからうと云ふ気がする。つまり僕にはあの小品が、現在の文壇の流行なぞに、囚はれて居らぬ所が面白いのである。これは僕自身の話だが、何かの拍子に以前出した短篇集を開いて見ると、何処か流行に囚はれてゐる。実を云ふと僕にしても、他人の廡下には立たぬ位な、一人前の自惚れは持たぬではない。が、物の考へ方や感じ方の上で見れば、やはり何処か囚はれてゐる。(時代の影響と云ふ意味ではない。もつと膚浅な囚はれ方である。)僕はそれが不愉快でならぬ。だから百間氏の小品のやうに、自由な作物にぶつかると、余計僕には面白いのである。しかし人の話を聞けば、「冥途」の評判は好くないらしい。偶僕の目に触れた或新聞の批評家なぞにも、全然あれがわからぬらしかつた。これは一方現状では、尤ものやうな心もちがする。同時に又一方では、尤もでないやうな心もちもする。(一月十日)
長井代助
我々と前後した年齢の人々には、漱石先生の「それから」に動かされたものが多いらしい。その動かされたと云ふ中でも、自分が此処に書きたいのは、あの小説の主人公長井代助の性格に惚れこんだ人々の事である。その人々の中には惚れこんだ所か、自ら代助を気取つた人も、少くなかつた事と思ふ。しかしあの主人公は、我々の周囲を見廻しても、滅多にゐなさうな人間である。「それから」が発表された当時、世間にはやつてゐた自然派の小説には、我々の周囲にも大勢ゐさうな、その意味では人生に忠実な性格描写が多かつた筈である。しかし自然派の小説中、「それから」のやうに主人公の模倣者さへ生んだものは見えぬ。これは独り「それから」には限らず、ウエルテルでもルネでも同じ事である。彼等はいづれも一代を動揺させた性格である。が、如何に西洋でも、彼等のやうな人間は、滅多にゐぬのに相違ない。滅多にゐぬやうな人間が、反つて模倣者さへ生んだのは、滅多にゐぬからではあるまいか。無論滅多にゐぬと云ふ事は、何処にもゐぬと云ふ意味ではない。何処にもゐるとは云へぬかも知れぬ、が、何処かにゐさうだ位の心もちを含んだ言葉である。人々はその主人公が、手近に住んで居らぬ所に、惝怳の意味を見出すのであらう。さうして又その主人公が、何処かに住んでゐさうな所に、惝怳の可能性を見出すのであらう。だから小説が人生に、人間の意欲に働きかける為には、この手近に住んでゐない、しかも何処かに住んでゐさうな性格を創造せねばならぬ。これが通俗に云ふ意味では、理想主義的な小説家が負はねばならぬ大任である。カラマゾフを書いたドストエフスキイは、立派にこの大任を果してゐる。今後の日本では仰誰が、かう云ふ性格を造り出すであろう。(一月十三日)
嘲魔
一かどの英霊を持つた人々の中には、二つの自己が住む事がある。一つは常に活動的な、情熱のある自己である。他の一つは冷酷な、観察的な自己である。この二つの自己を有する人々は、ややもすると創作力の代りに、唯賢明な批評力を獲得するだけに止まり易い。M. de la Rochefoucauld はこれである。が、モリエエルはさうではない。彼はこの二つの自己の分裂を感じない人間であつた。不思議にもこの二つの自己を同時に生きる人間であつた。彼が古今に独歩する所以は、かう云ふ壮厳な矛盾の中にある。Sainte-Beuve のモリエエル論を読んでゐたら、こんな事を書いた一節があつた。私も私自身の中に、冷酷な自己の住む事を感ずる。この嘲魔を却ける事は、私の顔が変へられないやうに、私自身には如何とも出来ぬ。もし年をとると共に、嘲魔のみが力を加へれば、私も亦メリメエのやうに、「私の友人のなにがしがかう云ふ話をして聞かせた」なぞと、書き始める事にも倦みさうである。殊に虚無の遺伝がある東洋人の私には容易かも知れぬ。L'Avare や École des Femmes を書いたモリエエルは、比類の少い幸福者である。が、奸妻に悩まされ、病肺に苦しまされ、作者と俳優と劇場監督と三役の繁務に追はれながら、しかも猶この嘲魔の毒手に、陥らなかつたモリエエルは、愈羨望に価すべき比類の少い幸福者である。(一月十四日)
池西言水
「言ひ難きを言ふは老練の上の事なれど、そは多く俗事物を詠じて、雅ならしむる者のみ。其事物如何に雅致ある者なりとも、十七字に余りぬべき程の多量の意匠を十七字の中につづめん事は、殆ど為し得べからざる者なれば、古来の俳人も皆之を試みざりしに似たり。然れども一二此種の句なくして可ならんや。池西言水は実に其作者なり。」これは正岡子規の言葉である。(俳諧大要。一五六頁)子規はその後に実例として、言水の句二句を掲げてゐる。それは「姨捨てん湯婆に燗せ星月夜」と「黒塚や局女のわく火鉢」との二句である。自分は言水のこれらの句が、「十七字に余りぬべき程の多量の意匠を十七字の中につづめ」たとするには、何の苦情も持つて居らぬ。しかしこの意味では蕪村や召波も、「十七字に余りぬべき程の多量の意匠を十七字の中につづめ」てはゐないか。「御手打の夫婦なりしを衣更へ」や「いねかしの男うれたき砧かな」も、やはり複雑な内容を十七字の形式につづめてはゐないか。しかも「燗せ」や「わく」と云ふ言葉使ひが耳立たないだけに、一層成功してはゐないか。して見れば子規が評した言葉は、言水にも確に当て嵌まるが、言水の特色を云ひ尽すには、余りに広すぎる憾みはないか。かう自分は思ふのである。では言水の特色は何かと云へば、それは彼が十七字の内に、万人が知らぬ一種の鬼気を盛りこんだ手際にあると思ふ。子規が掲げた二句を見ても、すぐに自分を動かすのは、その中に漂ふ無気味さである。試に言水句集を開けば、この類の句は外にも多い。
御忌の鐘皿割る罪や暁の雲
つま猫の胸の火や行く潦
夜桜に怪しやひとり須磨の蜑
蚊柱の礎となる捨子かな
人魂は消えて梢の燈籠かな
あさましや虫鳴く中に尼ひとり
火の影や人にて凄き網代守
句の佳否に関らず、これらの句が与へる感じは、蕪村にもなければ召波にもない。元禄でも言水唯一人である。自分は言水の作品中、必しもかう云ふ鬼趣を得た句が、最も神妙なものだとは云はぬ。が、言水が他の大家と特に趣を異にするのは、此処にあると云はざるを得ないのである。言水通称は八郎兵衛、紫藤軒と号した。享保四年歿。行年は七十三である。(一月十五日)
托氏宗教小説
今日本郷通りを歩いてゐたら、ふと托氏宗教小説と云う本を見つけた。価を尋ねれば十五銭だと云ふ。物質生活のミニマムに生きてゐる僕は、この間渦福の鉢を買はうと思つたら、十八円五十銭と云ふのに辟易した。が、十五銭の本位は、仕合せと買へぬ身分でもない。僕は早速三箇の白銅の代りに、薄つぺらな本を受け取つた。それが今僕の机の上に、古ぼけた表紙を曝してゐる。托氏宗教小説は、西暦千九百有七年、支那では光緒三十三年、香港の礼賢会(Rhenish Missionary Society)が、剞劂に付した本である。訳者は独逸の宣教師 Genähr と云ふ人である。但し翻訳に用ひた本は、Nisbet Bain の英訳だと云ふ、内容は名高い主奴論以下、十二篇の作品を集めてゐる。この本は勿論珍書ではあるまい。文求堂に頼みさへすれば、すぐに取つてくれるかも知れぬ。が、表紙を開けた所に、原著者托爾斯泰の写真があるのは、何となしに愉快である。好い加減に頁を繰つて見れば、牧色、加夫単、沽未士なぞと云ふ、西洋語の音訳が出て来るのも、僕にはやはり物珍しい。こんな翻訳が上梓された事は原著者托氏も知つてゐたであらうか。香港上海の支那人の中には、偶然この本を読んだ為めに、生涯托氏を師と仰いだ、若干の青年があつたかも知れぬ。托氏はさう云ふ南方の青年から、遙に敬愛を表すべき手紙を受け取りはしなかつたであらうか。私は托氏宗教小説を前に、この文章を書きながら、そんな空想を逞しくした。托氏とは伯爵トルストイである。(一月二十八日)
「西洋の民は自由を失つた。恢復の望みは殆ど見えない。東洋の民はこの自由を恢復すべき使命がある。」これは次手に孫引きにしたトルストイの書簡の一節である。(一月三十日)
印税
Jules Sandeau のいとこが Palais Royal のカツフエへ行つてゐると、出版書肆のシヤルパンテイエが、バルザツクと印税の相談をしてゐた。その後彼等が忘れて行つた紙を見たら、無暗に沢山の数字が書いてあつた。サンドオがバルザツクに会つた時、この数字の意味を問ひ訊すと、それは著者が十万部売切れた場合、著者の手に渡るべき印税の額だつたと云ふ。当時バルザツクが定めた印税は、オクタヴオ版三フラン半の本一冊につき、定価の一割を支払ふのだつた。して見ればまづ日本の作家が、現在取つてゐる印税と大差がなかつた訣である。が、これがバルザツクがユウジエニエ・グランデエを書いた時分だから、千八百三十二年か三年頃の話である。まあ印税も日本では、西洋よりざつと百年ばかり遅れてゐると思へば好い。原稿成金なぞと云つても、日本では当分小説家は、貧乏に堪へねばならぬやうである。(一月三十日)
日米関係
日米関係と云つた所が、外交問題を論ずるのではない。文壇のみに存在する日米関係を云ひたいのである。日本に学ばれる外国語の中では、英吉利語程範囲の広いものはない。だから日本の文士たちも、大抵は英吉利語に手依つてゐる。所が英吉利なり亜米利加なり、本来の英吉利語文学は、シヨオとかワイルドとか云ふ以外に、余り日本では流行しない。やはり読まれるのは大陸文学である。然るに英吉利語訳の大陸文学は、亜米利加向きのものが多い。何故と云へばホイツトマン以後、芸術的に荒蕪な亜米利加は、他国に天才を求めるからである。その関係上日本の文壇は、さ程著しくないにしても、近年は亜米利加の流行に、影響される形がないでもない。イバネスの名前が聞え出したのは、この実例の一つである。(僕が高等学校の生徒だつた頃は、あの「大寺院の影」の外に、英吉利語訳のイバネスは何処を探しても見当らなかつた。)向う河岸の火の手が静まつたら、今度はパピニなぞの伊太利文学が、日本にも紹介され出すかも知れぬ。これは大陸文学ではないが、以前文壇の一角に、愛蘭土文学が持て囃されたのも、火の元は亜米利加にあつたやうだ。かう云ふ日米関係は、英吉利語文学が流行しないだけに存外見落され勝ちのやうである。偶丸善へ行つて見たら、イバネス、ブレスト・ガナ、デ・アラルコン、バロハなぞの西班牙小説が沢山並べてあつた為め、こんな事を記して置く気になつた。(二月一日)
Ambroso Bierce
日米関係を論じた次手に、亜米利加の作家を一人挙げよう。アムブロオズ・ビイアスは毛色の変つた作家である。(一)短篇小説を組み立てさせれば、彼程鋭い技巧家は少い。評論がポオの再来と云ふのは、確にこの点でも当つてゐる。その上彼が好んで描くのは、やはりポオと同じやうに、無気味な超自然の世界である。この方面の小説家では、英吉利に Algernon Blackwood があるが、到底ビイアスの敵ではない。(二)彼は又批評や諷刺詩を書くと、辛辣無双な皮肉家である。現にレジンスキイと云ふ、確か波蘭土系の詩人の如きは、彼の毒舌に翻弄された結果自殺を遂げたと云はれてゐる。が、彼の批評を読めば、精到の妙はないにしても、犀利の快には富んでゐると思ふ。(三)彼は同時代の作家の中では、最もコスモポリタンだつた。南北戦争に従軍した事もある。桑港の雑誌の主筆をした事もある。倫敦に文を売つてゐた事もある。しかも彼は生きたか死んだか、未に行方が判然しない。中には彼の悪口が、余りに人を傷けた為め暗殺されたのだと云ふものもある。(四)彼の著書には十二巻の全集がある。短篇小説のみ読みたい人は In the Midst of Life 及び Can Such Things Be ? の二巻に就くが好い。私はこの二巻の中に、特に前者を推したいのである。後者には佳作は一二しか見えぬ。(五)彼の評伝は一冊もない。オウ・ヘンリイ等に比べると、此処でも彼は薄倖である。彼の事を多少知りたい人は、ケムブリツヂ版の History of American Literature 第二版の三八六─七頁、或は Cooper 著 Some American Story Tellers のビイアス論を見るが好い。前に書くのを忘れたが、年代は一八三八─一九一四? である。日本訳は一つも見えない。紹介もこれが最初であらう。(二月二日)
むし
私は「龍」と云ふ小説を書いた時、「虫の垂衣をした女が一人、建札の前に立つてゐる」と書いた。その後或人の注意によると、虫の垂衣が行はれたのは、鎌倉時代以後ださうである。その証拠には源氏の初瀬詣の条にも、虫の垂衣の事は見えぬさうである。私はその人の注意に感謝した。が、私が虫の垂衣云々の事を書いたのは、「信貴山縁起」「粉河寺縁起」なぞの画巻物によつてゐたのである。だからさう云ふ注意を受けても、剛情に自説を改めなかつた。その後何かの次手から、宮本勢助氏にこの事を話すと、虫の垂衣は今昔物語にも出てゐると云ふ事を教へられた。それから早速今昔を見ると、本朝の部巻六、従鎮西上人依観音助遁賊難持命語の中に、「転て思すらむ。然れども昼牟子を風の吹き開きたりつるより見奉るに、更に物不レ思罪免し給へ云々」とある。私は心の舒びるのを感じた。同時に自説は曲げずにゐても、矢張文献に証拠のないのが、今までは多少寂しかつたのを知つた。(二月三日)
蕗
坂になった路の土が、砥の粉のやうに乾いてゐる。寂しい山間の町だから、路には石塊も少くない。両側には古いこけら葺の家が、ひつそりと日光を浴びてゐる。僕等二人の中学生は、その路をせかせか上つて行つた。すると赤ん坊を背負つた少女が一人、濃い影を足もとに落しながら、静に坂を下つて来た。少女は袖のまくれた手に、茎の長い蕗をかざしてゐる。何の為めかと思つたら、それは真夏の日光が、すやすや寝入つた赤ん坊の顔へ、当らぬ為の蕗であつた。僕等二人はすれ違ふ時に、そつと微笑を交換した。が、少女はそれも知らないやうに、やはり静に通りすぎた。かすかに頬が日に焼けた、大様の顔だちの少女である。その顔が未にどうかすると、はつきり記憶に浮ぶ事がある。里見君の所謂一目惚れとは、こんな心もちを云ふのかも知れない。(二月十日)
底本:「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集第四巻」筑摩書房
1971(昭和46)年6月5日初版第1刷発行
1979(昭和54)年4月10日初版第11刷発行
入力:土屋隆
校正:松永正敏
2007年6月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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