花嫁の訂正
──夫婦哲学──
渡辺温



 1


 二組の新婚夫婦があった。夫同士は古い知己で隣合って新居を持った。二軒の家は、間取りも、壁の色も、窓も、煙突も、ポオチもすっかり同じで、境の花園などは仕切りがなく共通になっている。

 一週間経つと花嫁と花嫁とも交際をはじめた。

「──お隣の奥さん、今日も一日遊んでいらしたのよ。」

 そうAの細君が、勤めから退けて来たAに報告おしえるのであった。

「二人で、どんな話をして遊ぶんだい?」

「あの方、それぁ明けっぴろげで何でも云うの。あたし、幾度も返事が出来なくて困ったわ。」

「たとえば?」

「あのね。……あなたの御主人は、朝お出かけの時、今日はどのネクタイにしようかって、あなたにおききになる? なんて訊くの。」

「返事に困る程でもないじゃないか。」

「それから、あなたが泣くか、っても訊いたわ。」

「僕が泣くか、だって?」

「ええ。あたし、だから、未だ一ぺんもAの泣いたのなんか見たことがありませんて、そう云ったの。」

「してみると、Bの奴女房の前で泣くのかな。──あんな本箱みたいな生物学者を泣かすなんて、どうも偉い細君だな。いやはや。」

 Aは煙管の煙に噎ぶ程哄笑ったが、哄笑いながら、細君の小いさなギリシャ型の頭を可愛いくて堪らぬと云ったように撫でてやった。

「お前も、ちっと位僕を泣かしてくれたっていいよ。」と彼は云った。


 次の土曜日の夕方だった。

 Bの細君が、帝劇にかかったニナ・ペインのアクロバチック・ダンスの切符を二枚もってAの細君を誘いに来た。

 だが、生憎Aの細君は、歯医者へ行く旁々かたがた街へ買物に出たばかりで留守だった。帰るのを待っている程の時間がなかった。

「B君は行けないのですか?」と、一人で蓄音器を鳴らしていたAが訊き返した。

「調べ物が忙しいし、それにあんまり好きじやありませんの。」

 Bの細君は、派手な大きな網の片かけの房につけた鈴を指さきで、ちゃらちゃらさせながら、鳥渡考えてから云った。

「Aさん、あなた御一緒して下さらなくて?」

 Aは多少極まり悪そうだったが、切符を無駄にするのは勿体ないと云うので、お供をすることにした。

「本当は僕だって、切符を買うつもりだったんですが、女房がちっとも賛成してくれないもんだから……」

 Aは、いそいそと上衣を着換えると、細君へ一言書き残した紙片を茶卓の上へ置いて出かけた。

 帝劇の終演はねが思いの外早かったので、彼等はお濠ばたを、椽の並木のある公園の方へ散歩した。アアチ・ライトの中の青い梢が霧に濡れていた。誰も彼等と行交わなかった。彼等はお互の腕を組み合わせて歩いた。

「他人が見たら、御夫婦と思うでしょうね。」と云ってBの細君が笑った。

「僕の女房は、こんな風にして歩きませんよ。」

 Aは、そう答えて、振り返った拍子に、彼女の耳飾りを下げた耳の香水を嗅いで、胸を唆られた。

「おとなしくて、いい奥さんね。あなた、随分長いこと愛していらしゃったんでしょう。」

「ええ、子供の時分から知ってたんです。」

「その間、ちっとも浮気をなさらなかったの?」

「勿論、僕は、ひどく何て云うか、ガール・シャイとでも云うんですかね、他の女はみんな怖かったんです。」

「まあ。」

「あなた方は如何だったんです?」

「たった一日恋人だったの。スケート場の宿屋で泊ったのよ。その話は御存知なんでしょう?」

「Bは何とも云いませんでした。」

「フィギュアをやってる時、あの人と衝突して、あたし仰向に倒れて気絶しちゃったの。そうして、介抱して貰ったの。あの人は、とても親切にしてくれましたわ。でも今考えてみると、その女があたしじゃなくてよかったのですわ。」

「何故ですか?」

「だって、あの人、近頃ではあたしの性分があんまり好きじゃなさそうなんですもの。Aの奥さんみたいになれって、毎日あたしを叱るのよ。」

「そりゃあ好かった。家の女房ならば、Bの為事しごとの助手位はやるでしょう。何しろ、自然科学にかけては、僕の十倍も詳しいと云う女ですからね。」

「あたしは頭脳が悪いから駄目。──あたし、いっそBと別れちまおうかしら。……」

 Bの細君は、そこで大きな溜息を吐いたが、Aは何とも返事をしなかったので、ちょっと両肩をすくめると、口笛を鳴らしはじめる。

 折から通りかかったタクシーを、Aがステッキを上げて停めた。

 家へ帰ると、Aの細君は寝室の水色のシェードをかけた灯の下で、宵に街から買って来た絹糸でネクタイ編みながら未だ起きていた。

「ごめんよ。さびしかったろう?」

「いいえ……Bさんが鳥渡遊びにいらっしったわ。」

「Bが?」

「怖そうな人ね。それに、まるでだんまりやよ。」

「うん。あれでなかなか気の好いところもあるんだがね。僕たちのことを何も云ってやしなかったかい?」

「別に、でも、一言二言皮肉みたいなことを云ったわ。」

「何て?」

「あなた、気を悪くするかも知れないの。」

「何て云ったい?」

 細君は、編みかけの赤とオリイヴ色とが交ったネクタイをいじりながら返事をしなかった。

「ねえ、本当に何て云ったんだ?」Aは、飲みかけの紅茶をさし置いて追及した。

「あのね、こんなネクタイを編ませたりするAの気が知れない。こんなものは、街へ行けばもっと安く、手軽に買えるじゃありませんか、って。」

 Aは苦笑した。

「フム、学校で生物学の講義でもしていると、どんなことでもそんな風にしか考えられなくなるんだよ。……自分の細君のことは何とも云わなかったかい?」

「──いない方が、邪魔にならなくていいんですって。それに、僕の女房は僕に、A君が気に入っているのだし、A君とならよく似合うから恰度いいだろうって仰有ったわ。」

「下らない! 変な冗談を気にかけちゃいけないよ。僕はBの細君なんかと一緒に行ったって、ちっとも楽しくなんかなかった。本当に、悪かったら、勘弁しておくれ。」

 Aは細君をやさしく抱いた、すると彼女は身をかたくした。

「なぜ、そんな風に仰有るの?」

「莫迦! 泣く奴があるもんか」

「だって、あなたが、そんなことを仰有るからよ……」

「これから、決してお前ひとり置いて行ったりなどしないよ。……いい子だ、いい子だ。」

 Aは細君の泪に接吻してやった。


 2


 併し、Aと、B夫人との間はそれから加速度的に接近して行った。

 夫の仕事の邪魔になるからとか、学校の研究会で帰りが遅くなって、一人でいるのは淋しいとか、いろいろな口実のもとに、Bの細君はAの家に入り浸った。

 一度なぞは、Aの役所の退け時に、さも偶然らしく役所の前を通りかかって、一緒に散歩してお茶を飲んだり、自動車に乗ったりして帰って来た。尤も、その時はAも表面で全く成心なさそうに振舞ったが、併し家へ帰ると、二人ともそのことを内秘にしていた。

 またBの細君はタンゴ・ダンスがうまかったので、A夫婦にも教えることにした。けれども、Aの細君の方が何時も気のすすまない顔をしていたので、大ていAばかりを相手にして踊った。Aは彼女と四肢を張り合わせるようにくっつけて、客間の中を引っぱり廻された。そして女の体を胸の中に抱きかかえる姿勢のところに来ると、自分の細君の方を振り返って赧くなるのだが、だんだん狎れると、一層赧い顔をしながら、そっと両腕に力を入れた。

「ごめんなさい、奥さん。──」とBの細君は、Aの細君へ彼女の夫の腕の中に身をたおしたまま声をかけるのであった。すると蓄音器係のAの細君が

「どうぞ。──」と冷かにそれに答えた。

 結婚して三週間経つか経たない中に、Aは新妻を裏切ってしまった。

 或る晩、矢張りタンゴを踊っていたのだが、Aは細君が退屈そうに脇見をしている隙を覗って、素早くパアトナーの唇に接吻した。そして、彼女が帰る時にも、わざわざポオチまで送って出て、そこの藤の緑廊パーゴラの蔭で長い接吻をしたのである。

 だが、その後で彼は直に家の中へ飛び込んで行って、すっかり細君に白状した。彼女も遉にびっくりして泣いた。

「あたし、何だか、そんなことになるのが前から判っていたような気もするの……」と彼女は泣きじゃくりながら云った。

「そう薄々感づいていながら、平気でいたお前にだって責任の一半はある。」Aは我儘な子供のように焦れったがった。

「あなた、なぜ、あたしを捨ててしまおうとなさらないの?」

「僕はお前と別れようなんて夢にも考えてやしないよ。……お前が、お前一人で、僕を堪能させてくれなかったからいけないのだ。結婚したばかりで、妻が夫の心の全部を占領していないなんて間違いだと思う。」

「──別れるの可哀相だから嫌だと云うだけでしょう?」

 彼女は泣くのをやめて、ぼんやり考え込んだ。

「しばらく海水浴にでも行って、二人きりで暮そうじゃないか。」とAが急に思いついたように云った。「明日の朝、出発しよう。……お互にしっかり隙のない生活に嵌り込むことが必要だ。」

 翌朝、役所へだけ届けをして、B夫婦には断らずに、海岸へたった。


 ところが、一日置いて、海岸のAの細君から、Bの細君へ宛てて手紙が来た。

 ──突然ここの海辺へやって来ました。お驚きになったでしょう。だしぬいて驚かしてやろうとAが主張したのです。ごめんなさいね。

 此処の海は人があんまり入りこまないので、水が澄んで底の方まですっかり透き通って見えるし、それに何時でも潟のように穏かです。

 Bさんも、もう学校がお休みでしょう。あたし共ばかりでは、淋しくて困りますから、Bさんに願って、お二人連れでいらっしゃいませんか。──


 Bの細君は、昨日からA夫婦の突然の行方不明が気懸りでならなかったのだが、この手紙で一先ずほっとしたわけである。そしてBにもこれを読ませると、Bは何時になく気軽にそこの海岸へ、夫婦のあとを追って海水浴に行くことを賛成した。

 二三日して、学校の暑中休暇が初まると早々出発した。

 途中の汽車の中で、Bはと、細君に向って、こんなことを云い出した。久し振りで不精髯を剃ったので、平生より余計蒼白く骨ばった顔をしたこの生物学の教師は、支那人のように無愛想な笑いを浮べながら、

「Aの細君は、お前たちのことを、やっと今になって感づいたのかな?」

 Bの細君は忽ち蒼ざめてしまった。

「あたしたちのことを

「そんなに吃驚するところを見ると、お前は僕迄騙していたつもりらしいが、実を云えば、僕なんか、或はお前たち自身よりも、もっと早くお前たちの今日を気がついていたかも知れないのだ。」

「まあ、何てひどい!」と彼女は、泪を流して、併し人目を憚って泣声を噛み殺しながら云った。

「あなたは、あたしを罠に落そうとなさるんですか? どんなに確かな証拠があって──」

「そう、たった一ぺん、こないだの晩、Aの家のポオチでお前たちが接吻し合っているのを見たきりだが、併し、Aが自分の女房よりお前の方を余計愛していることや、お前が僕よりAを愛していることは、そんな他愛もない証拠などを云々する迄もなく、誰でもお前たちの様子を一目見さえすれば納得が行くに違いない。」

「…………」

「そして、誰だって無理はないと思うことさ。だが、僕をごまかして置こうなんてのは沙汰の限りだ。」

「ああ! あたし、どうすればいいのでしょう。どうしても誘惑に打ち勝てなかったのです。……でも、もういくら悔んだところで、追い付かないことだわ。」

「今更、なまじ後悔なんかされると、恋の神様が戸惑いなさるよ。矢鱈に後悔したり、詑びたりし度がるのは、悪い癖だ。」

「──ごめんなさい。」

「僕は昔からAの性質を知っているが、彼奴は見かけだけ如何にも明快そうにしていて、その実ひどく卑怯な性質だ。気がいいと云えば云えないこともないが、それだからと云って、僕の生活までが、そんな被害を甘んじてうけ入れていられるものではない。」

「あなた、それを承知で、これから乗り込んで行って、どうなさるおつもりなの?」

「適当に自分の決心を実行するだけだ。僕は科学者だから、何時だって冷静に計画を立てることが出来る。」

「決心って、どんなことをなさるの?」

「歯には歯、眼には眼さ。──だがA夫婦と会って見た上でなければ判らない。」

「ねえ、お願いですから、あたし一人、さきにAさんと会わせて下さい。」とBの細君は歎願した。

「いいとも。そして、Aに決意をすすめるがいい。出来るだけ、自分の浅はかさを手厳しく感じさせてやりたまえ。尤も、僕はAのために、一時間だって待って遣るわけにはいかないがね。──だが、細君は、若しかすると未だ何も判っていないのかも知れないのだから、兎に角細君の前では出来るだけ何気なく振舞わなければいけない……」

 Bはそう答えると、外景の夕暮れた窓に向って、ガラスの中に映った自分の不機嫌な顔を瞶めるように、むっつりと口を鎖した。

 細君は大きな不安に怯えながら、泪を乾して思案に暮れた。


 3


 B夫婦が、A夫婦の泊っている海岸の宿屋についたのは、もう大分遅かったので、四人は極く短い時間を談笑してからそれぞれの部屋に寝た。

 翌朝、起き抜けに、Bの細君はAに案内を頼んで、浜辺へ散歩に出た。

 濃い朝霧の中に、上天気の朝日のさしている砂丘に並んで腰を降ろして、Bの細君は昨日の汽車の中のことをすっかり話した。

 Aは果して狼狽した。

「僕は、もう当分あなた方に会うまいと思って此処へ来たのだったに!」

「奥さんは、御存知なのですか?」

「僕が残らず喋ってしまったんです。けれども、彼女は何もかも仕方がないと云ってゆるしてくれました。そして、此処へ着くとすぐ自分が勝手にあなた方へ手紙を書いたのです。」

「お互に覚悟を決めようじゃなくって? あたしあなたとなら海へ飛び込むことも出来ますわ。」

「Bは僕を卑怯者だと云ったのですか?」

「あの人は、少しでも曲ったことを許して置けない性分なの。それに、冷静に計画を遣り遂げることが出来ると云っていました。」

「僕は、これ以上卑怯者とそしられないために、もう逃げ隠れはしません。Bが僕に復讐を決心したのなら、平気でそれを受けて見せます。」

「──あたしたちは、お互に、未だ結婚してから一月と経たないのよ。それだのに!……なぜ、神さまは、最初にあたしとあなたとを会わせて下さらなかったのでしょう。……」

 二人は抱き合って、今更ながら余りに理不尽と思える運命のからくりを嘆いた。それから昔のけなげな恋の受難者たちのように、最後迄勇気を失さぬことを誓い合って、砂丘を降りた。

 朝食が済んだ後で、霧がはれて、海がギラギラ青い鋼鉄はがね色に煌きはじめると、二組の夫婦はそろって海水浴に出かけた。

 Bは何事も云い出しそうな素振りを見せなかった。むしろ、皆の中で一番気楽そうに振舞った。それでも、他の誰とよりも、やはりAの細君と口数多く喋った。

「Bさん、お家にいらしても、こんなにお元気? Aをごらんなさい。どうしたわけか、あんなに悄げています。まるであべこべね……」

 そう云ってAの細君が笑った。

「Aは屹度海が怖いのでしょうよ。」とBが答えるのであった。

「尤も、僕なんかでも、ひどく自然の姿に恐怖を感ずることがありますがね。人間の卑屈な知恵や小力が、どう悪あがきしても侮り難い強大な意志に圧迫されるのでしょうな。……」

 Aは、それを聞いて苦笑いをしたが、直ぐに歯をギリギリ音を立てて噛み鳴らした。

 やけた砂の上に足を投げ出しながら、Bは自分の細君に何気ない調子で訊ねた。

「Aに、例のことを話したのかね?」

「ええ──」Bの細君は思わず頬を硬ばらせた。

「ふむ──」

 BはそこでAの方を振り向いて云った。

「A。君とはあんまり泳いだことがないが、どの位泳げるんだ?」

「そうだな。子供の時分なら相当泳げた方だが、併しそれも大てい河ばかりで泳いだものだ。」

「それなら確だ。どうだ、一つ遠くへ出て見ようじゃないか?」

「うむ。──」

 Aが応じて立ち上がりかけると、その途端にAの細君の足がAの目の前に延びた。Aは彼女の白い足裏に、焚火の残りの消炭か何かで黒く、(アブナイ!)と書かれてあるのを認めた。だが、彼は躊躇してはいなかった。

 二人は肩をそろえて沫を切りながら、沖を目がけて泳いだ。やがて安全区域の赤い小旗の線を越した。沖の方の水は蒼黒く小さい紆りを立てていて、水温も途中から俄かに変って肌がピリピリする程だった。Bは脇目もふらずに無表情な頤を波の上につき出して進んで行った。Aは実際は、それ程水練に熟練していなかったので、間もなく手足に水の冷たさがこたえた。そして、だんだん草臥れて、息が乱れて来るのがわかった。だが、弱音を吐かずに我慢しなければならなかった。初めの中こそ二人並んでいたのだが、直きにBは可なりの距離を残してAの先に立った。決して、蒼ざめ果て顔を引歪めているAの方を振り返って見なかった。Aはその中に、幾度か塩水を飲み込んで噎せた。そして到頭、右の脚をこむら返りさせて、ぶくぶく沈みはじめた。

 Aの叫び声を聞いて、たちまちBは引き返して来ると、浪の下にもみこまれているAの腕を危く掴まえて浮んだ。そして折よく近くにい合せた小舟に救い上げてもらった……

 Aが、宿屋の床の中で、はっきり吾に返った時、枕元について看護していたのは、Bの細君一人だけだった。

「僕は、どうして助かったのですか?」

「Bが助けました。」

「…………」

「Bは大へん心配していました。あなたに、人のいないところで泳ぎながら、あのお話をするつもりだったのですって。」

「うちの女房はどうしたでしょう?」

「奥さんは何も御存知ないの。あなた方が泳ぎはじめると、直ぐに『眩暈がする』と仰有って、宿に戻ったのですけれど、それっきり皆を置いてきぼりにして家へ帰ってしまったらしいの。帳場で聞いたら、ただあなたに『急に思い出したことがあるから──』と云うお言伝だったそうです。」

「Bは?」

「自分の部屋にいます。」

「呼んで来てくれませんか。」

 Bの細君は、Bを呼びに立ったが、直き一人で、右手に黒いガラスの小壜を持って引返して来た。

「Bも帰ってしまいました!──」と彼女は震え声で、やっとそれだけ云った。

「何とも断らないでですか?」

 彼女は點頭うなずいて、黒いガラス壜を差し出して見せた。小いさな髑髏どくろの印のついたレッテルに、赤いインキで(空虚の充実。お役に立てば幸甚!)と書かれてあった。

 二人は容易にその意味を理解した。そしてその夜、壜の中の赭黒い錠剤を一個ずつ飲んで、天の花園へ蜜月旅行に旅立つために、二人はあらためて、花嫁となり花婿となった。……だが、何時間経っても、ただ一度Aが苦い噯気を出した以外に、薬の効き目はあらわれなかった。夜が明けかけても、二人の男女は少しも悪い容体にならずに、現世このよながらえている。Aは到頭我慢が出来なくなって、もう一度薬を飲むことにした。併し、三錠目は壜の中にパラフィン紙がつまっていて、なかなか出て来なかった。マッチの棒を使って漸くパラフィン紙ごと出してみると、今度は白い錠剤だった。

「これが本物らしい。屹度、さっきのは解毒剤だったのかも知れませんね。」と男が云った。

 女は白い錠剤を手の掌に載せて眺めていたが、やがて長い溜息と一緒に首を振った。

「ここにアスピリンと書いてあってよ──」

 こころみに噛んで味ってみる迄もなく、なる程アスピリンに違いなかった。Aは偶と、パラフィン紙の皺を伸ばしてみた。すると、それには鉛筆でこう書いてあった。

「──刃物、縊死、鉄道往生、その他いろいろ自殺の方法を、このあまりに感情的だった動物は考え出した。だが、まあ、君たちが飲んだ亜刺此亜アラビヤ風の薬の効き目はあらたかだったに違いないと信ずる。……さあ、直ぐに君たちの祝福された住居へ帰って来たまえ。(ねつさましなど飲む必要はないよ。)」


 4


 半信半疑の気持で、二人が帰ってみると、先に帰っていた二人が仲よく肩を押し並べて彼等を迎えた。

「ねえ、Aの奥さん。あなた方の新家庭の飾りつけは、もう今朝の中に、あたし共がして置きましたわ──」とBの細君に向って、Aの細君が云うのであった。

「まあ!」

 Aの家の中には、これ迄そこに見慣れた女主人の持ち物と入れ代りに、もとBの家に飾ってあった女の道具が残らずキチンとそれぞれの場所に、新しい女主人を待ち受けていたではないか。

「ねえ、Aの奥さん。うちの先生はあなたとAさんと、タンゴ・ダンスを踊るのが見たいんですって?」

「まあ、いやですわ。Bの奥さんたら。あたしたちこそ、あなたの先生の優しい助手振りを拝見させて頂きたいものよ。」

 と云う工合に、彼女たちの接頭詞が互に入れ違ってしまったのである。

「どうだね、これで魚は水に、蝶は花に棲めるわけだ。君も満足だろう。」とBは親しげにAの肩を敲いて云った。

「ああ! 君には何とお礼を云っていいのかわからないよ。」Aは古い友人の親切に全く感激していた。「こんな僕の我儘をこれ程まで寛大に許してくれるなんて!」

「我儘を許す? 莫迦云っちゃいかん。これが正しい生活さ。我々は、ちょっとした間違いでも、気がついたなら即座に訂正しなければならないのだ……」

 彼等は、さてそれから、楽しい新婚祝賀の晩餐会を開いて、夫々の新しい幸福の永遠性を祈った。

底本:「アンドロギュノスの裔」薔薇十字社

   1970(昭和45)年91日初版発行

初出:「新青年」

   1929(昭和4)年9

入力:森下祐行

校正:もりみつじゅんじ

1999年914日公開

2008年14日修正

青空文庫作成ファイル:

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