小景
──ふるき市街の回想──
宮本百合子



 その街は、昼間歩いて見るとまるで別な処のように感じられた。

 四方から集って来た八本の架空線が、空の下で網めになって揺れている下では、ゲートルをまきつけた巡査が、短い影を足許に落し、鋭く呼子をふき鳴しながら、頻繁な交通を整理している。

 のろく、次第にうなりを立てて速く走って行く電車や、キラキラニッケル鍍金の車輪を閃かせ、後から後からと続く自転車の列。低い黒い背に日を照り返す自動車などが、或る時は雲の漂う、或る時は朗らかに晴れ渡ったその街上に活動している。

 やや蒲鉾なりの広い車道に沿うて、四方に鋪道ペーブメントが拡っていた。

 東側の右角には、派手なくせに妙に陰気に見える桃色で塗った料理店の正面。左には、充分光線の流れ込まない、埃っぽく暗い裁縫店の大飾窓。板硝子の上の枠に、ボウルドフェイスの金文字で、YAMAZAKIと読めた。

 西角は、ひどく塵のたかった銀行の鉄窓と、建築にとりかかったばかりの有名な時計屋の板囲いとに、占められている。

 晴やかな朝日は、そのじじむさい銀行の鉄窓の棧と、板囲いのざらざらした面とを照した。午後になると、熟した太陽の光は微に濁って向い側の料理店の柱列や、裁縫店の飾窓に反射した。一層悲しげに見える料理店の桃色の窓枠の間々には、もう新鮮さを失った飾花や、焼きざましのパイの大皿や青いペパミントのくくれた罐などがある。

 鋪道には、絶え間なく男や女が歩いていた。が、どの歩調も余り悠長ではなかった。

 折鞄を小脇にかかえた日本服の商人、米国風の背広を着た男達。彼等は車道のすぐ傍を、同じように落付かない洋服姿の男等が膝かけなしで俥に乗り、カラカラ、カラと鈴をならして駆けさせるのを見ないふりで、速足に前へ前へと追い抜いて行く。

 女は、一目で、此界隈の者が多いのを知れた。種々な種類の彼女等は、装こそ違え、全く同じような歩きつきを持っていた。顔だけはぬけ目なく並んだ店舗の方にむけているが、足は飽きることない好奇心とは全然無関係な機械のように、足頸を実に軟くひらひら、ひらひらと、たゆみなく体を運んで行くのだ。

 合間合間に、小さい子供が一輪車に片脚をのせて転って行った。女の子達が、毬を持って、街路樹のかげで喋っている。子守女のぶらぶらする様子や、店頭でこごんでたたきを掃いている小僧の姿などが、一瞥のうちに、暖い私的生活の雰囲気を感じさせた。

 私は、大抵のとき、前に云った建築敷地の板囲いの前に自分を現した。山の手の住居の方から来る電車の停留場が其処にあった。

 段々速力をゆるめて赤い柱の傍に来、車掌が街角の名を呼ぶと、どんな時でも少くとも三四人の者が、俄に活々した表情を顔に表して座席を立った。私もその裡に混り前後して降るのだが、又いつもきまって、後をふりかえり自動車が来ないか注意しているひまに、偶然の連れの姿は見失ってしまう。

 私は、新聞売子が広告をはりつけた燈柱の下に立って、暫く四辺を見た。

 時によると、さっさと車道を横切って彼方側、裁縫店の大飾窓の前に行く。或る日は、降りた側で左か右に方向をきめる。それは、私が其処に現れた時候と時間とによった。私は、顔の正面から日光に照りつけられては、半丁も楽に歩けないので、時に応じて日かげの側が選ばれるのであった。

 溢れるような日光が硝子や招牌、旗などの上に漲っているのを一方に眺めながら、身は薄らつめたい、堅い、日かげの鋪道を歩いて行く心持よさは、何に例えよう。

 私は、心持がすがすがしければすがすがしい程、先をせかなかった。

 ずらりと並んだ商店の飾窓から二三尺の距離を保って、森の中でも散歩するような暢やかさで、眺め眺め進む。

 余り奇麗な布地でもあると、私は呉服屋の前に立った。

 異国風な豊麗さで細々化粧品や装身具などを飾った窓に来かかると、私は、堪能するまで其等の一つ一つを眺める。

 本屋の前に出ると、私の眼には、微に意志の光めいたものが浮んだ。表の新着書籍を見わたし終ると、私は、内へ入って行った。丁度、燕が去年巣をかけた家の軒先を、又今年もついとくぐるような親しさで。

 台から台へと廻って歩き、懐が許せば一箇の茶色紙包が、私の腕の下に抱え込まれるだろう。けれども、その楽しい収穫がいつもあるとは定っていない。三度に二度は、空手で出る。欲しい本がなかったか、私の小さい紫皮の財布に、電車の切符しか入っていなかったかの理由で。──

 然し心配はいらない。私は、一冊本が買えても買えなくても、多くの場合、同じように愉快であった。彼処に、あの煉瓦の建物の中に、彼那にぎっしり、いろいろの絵と文字で埋まった書籍がつまっているのだ。それを知っている丈でも、豊かなよい心持でないか。

 幸福な、而も田舎の子供のようにしかつめらしい顔をした私は、次に工事を終ったばかりの京橋を渡り、第一相互館の宏壮な建物の下に出る。

 そこに、私のフェイボリットが二つあった。

 一つは、電気器具販売店、一つは、仏蘭西香水の売店。

 どちらも一階の往来に面した処にあった。真鍮の太い手摺にぴったりよって立ち、私は、ぼんやり空想の世界に溶け込む。

 ああ、あの高貴そうな金唐草の頸長瓶に湛えられている、とろりとした金色の液を見よ。揺れると音が立ち、日が直射すると虹さえ浮き立ちそうな色だ。

 彼方の清らかな棚におさまっている瀟洒な平瓶。薄みどりの優雅な花汁。

 東洋趣味と鋭い西洋趣味との特殊な調和を見せている黒地総花模様の飾瓶などを眺めていると、私の胸には複雑な音楽が湧いて来た。

 亢奮が、私をじっとさせて置かない。

 声にならない音律に魂をとりかこまれながら、瞳を耀かせ、次の窓に移る。

 その間にも、私の背後に、活気ある都会の行人は絶えず流動していた。

 通りすがりに、強い葉巻の匂いを掠めて行く男、私の耳に、きれぎれな語尾の華やかな響だけをのこして過る女達。

 印袢纏にゴム長靴を引ずった小僧が、岡持を肩に引かつぎ、鼻唄まじりで私の傍によって来た。どんな面白いものを見ているのか、と云う風で。

 彼は、一寸立ち止る。じろりと見渡す。何処も彼処も、彼には一向面白可笑しくもないラムプスタンドばかり並んでいるのを認めると、忽ち、「なあんだ!」と云う表情を、日にやけた小癪な反り鼻のまわりに浮べる。

 もう一遍、さも育ちきった若者らしく、じろりと私に流眄ながしめをくれ、かたりと岡持をゆすりあげ、頓着かまいのない様子で又歩き出す。三尺をとっぽさきに結んだ小さい腰がだぶだぶの靴を引ずる努力で動く拍子に、歌い出した鼻唄が、私の耳に入って来る。

 私は、思わず微笑する。

「小僧さん。ただ見たばかりじゃあ勿論詰らないさ。一寸、あの青珠の下った、雲の天蓋のような色をしたスタンドを真中にして絵を画いて見給え。中に灯がついたらどんな明りがさすだろう。繞りに置いてある花や、男のひと、女の人の顔にどんな影がつくだろう。──夏の夜のようかな。それとも、暖炉でポコポコ石炭が燃える冬や、積った雪に似合わしいか? そう思って見るから、実は私も飽きないのさ。」

 心の中で愉しい独りごとを呟きながら、もう姿も見えない小僧の跡をたどって、私もそろそろもと来た方に還り始める。──


 それにしても、このような空想的遠征エクスピディションを、旧銀座通りの白昼にしたのは、私ばかりであったろうか。

 身なりもかまわず、風が誘うと一枚の木の葉のようにあの街頭に姿を現し、目的もなく、買う慾もなく、ただ愉しんで美を吸い込んで歩いたのは、貧しい一人の芸術愛好者、私ばかりであったろうか。

 ──そうは思われない。

 私の眼が、一人の仲間を見た憶えがある。

 或る晩春の午後であった。

 私が独りで、ぶらぶら白く埃の浮いた鋪道ペーブメントを京橋の方に歩いていると、前後して一人の若者が通りすがった。同じ方向に行く。これぞと云う定った目的はないらしく、彼は絵ハガキ屋のスタンド迄のぞいて、殆ど私と同時に一軒の花屋の前に立ち止った。

 広い間口から眺めると、羊歯しだ科の緑葉と巧にとり合せた色さまざまの優しい花が、心を誘うように美しく見えた。花店につきものの、独特のすずしさ、繊細な蔭、よい匂のそよぎが辺満ちている。私は牽つけられるように内に入った。そして一巡して出て来て見ると、若者はまださっきから同じところに立ったまま身動もしずにいる。

 彼は、往来を歩いていたときとはまるで違うなごやかな、恍惚とした風で魅せられたように一つの鉢を見入っているのである。

 それは、今を盛に咲き満ちた見事な西洋蘭の一鉢であった。

 鮮やかな形のうちに清い渋みをたたえたライラック色の花弁は、水のように日を燦かすフレームの中で、無邪気な、やや憂いを帯びた蝶が、音を立てず群れ遊ぶように見えた。

 飴緑色の半透明な茎を、根を埋めた水苔のもくもくした際から見あげると、宛然さながらそれ自身が南洋の繁茂した大樹林のように感じられた。

 想像の豊かな若者なら、きっとその蔭に照る強い日の色、風の光、色彩の濃い熱帯の鳥の翼ばたきをまざまざと想うことが出来るに違いない。

 そう思って見れば、これ等の瑞々しい紫丁香花むらさきはしどい色の花弁の上には敏感に、微に、遠い雲の流れがてりはえているようではないか。

 私は、つむりを一方に傾け我を忘れて佇んでいる青年のわきを、そっとすりぬけて街路に出た。

 少し猫背の、古びた学生服の後姿を見て、誰が、あの軟かく溶け輝いて花の色を映していた二つの瞳を考えることが出来よう。

 私は、ぼんやり飾窓の前に立って何かに眺め入っている自分やこの若者やの後姿が、行人の或る者にどんな印象を与えるか、よくわかっている。

 自動車の厚い窓硝子の中から、ちらりと投げた視線に私の後姿を認めた富豪の愛らしい令嬢たちは、きっと、その刹那憐憫の交った軽侮を感じるだろう。彼女は女らしい自分流儀の直覚で、佇んでいる私の顔を正面から見たら、浅間しい程物慾しげな相貌を尖らせているだろうと思うから。又、黒衣黒帽のストイックは、其処に恐ろしい現代人の没落と地獄的な誘惑とを見たと思うまいものでもない。

 彼には、うつつをぬかして眺めている私の様子がこの上もなく危険に思えるだろう。何故なら、彼那に見ている以上欲しいのに違いない。が、あの身なりで其は覚つかない。慾しい慾望と不可能と云う事実との間にどう心を落付けるかと云うところまで、推論して行く几帳面さを彼は持っているから。

 ところが、率直に云って、どれも私の心持には当っていない。私や、私のような無籍者の美術批評家達は、ちっとも憐れまれる必要もなければ、あぶなかしがられるにも及ばない。

 私共は、始めから何も買う気などはないのだ。美しいもの、愛らしいもの、珍しいもの、そう云う限りない都会の美的富の種々を自由に、負担なく眺め、其等の形、色、線と音との微妙な錯綜から湧き出て心の裡に流れ渡る快感、空想、美の又異った一つの分野の蓄積が、何より嬉しい私共の獲物なのだ。

 人間の推移する興味を素早く見てとる商人達は、飽るまで仮令その商品がどんなに尊いものであろうと、彼等の飾窓には出して置かない。程よく、斬新な色調の織物、宝石の警抜な意匠、複雑な歯車、神秘的なまで単純な電気器具、各々の専門に従って置きかえる。

 それ等の窓々を渡って眺めて行く私共は、東京と云う都市に流れ込み、流れ去る趣味の一番新しい断面をいつも見ているようなものではないだろうか。受身に私共の観賞を支配される形ではあるが、一都市が所有する美の蔵の公平な認識者、批評家として、趣味の浮浪人は暗黙の裡に重んぜられる当然の運命をもっている。何故なら、必要、不必要、自分に似合う似合わない、その他多くの購買者が必ず持つ私的条件を全く超えて、全くそのもののよしあし、価値を見極めようとするから。そして又、少し眼の肥えた観賞者なら、そう何から何までに感服はすまい。美しいものをしんから愛するものは、或る場合痴人のように寛大だ。然し或る時は、狂人のように潔癖だ。そして変な物を並べる商人を何かの形で思い知らせる。


 のどかな漫歩者の上にも、午後の日は段々傾いて来る。

 明るく西日のさす横通りで、壁に影を印しながら赤や碧の風船玉を売っていた小さい屋台も見えなくなった。何処からとなく靄のように、霧のように夕暮が迫って来た。

 舗道に人通りがぐっと殖え、遙か迄見とおしのきいていた街路の目路がぼやけて来た。

 空気の裡には交響楽のクレッセンドウのように都会の騒音が高まる。遽しく鳴らす電車のベルの音が、次第に濃くなる夕闇に閉じ罩められたように響き出すと、私の歩調は自ら速めになった。もう私の囲りでは、誰一人呑気に飾窓などを眺めている者はない。何処からこれ程の人々が吐き出されて来たか、大抵一人で、連があっても男は男同士、女は女づれの群が、四隅に離れて立った赤柱の下に数団、待ち遠しげな眼つきで自分の乗ろうとする電車の来る方角を眺めている。

 ほんの一時間半も経てば、此十字街の有様はまるで変るだろう。如何にも東洋の夜らしく鋪道の傍に並んだ露店を素見しながら、煌らかな明りの裡を、派手な若い男女の組、幸福らしい親子づれがぞろぞろ賑やかに通るのだが、今は、一とき前の引潮だ。道傍で生れた浮浪人さえ此世には無い自分の家を慕わせる逢魔が時だ。

 シャンシャン、シャンシャン。夕刊売の鈴の音が、帰心にせかれる行人の心に、果敢はかない底さむさを与える。

 ぽつり、ぽつり、彼方此方に瞬き始めた街燈の蒼白い光とともに、私は、いよいよいそいだ。が、目ざして行く停留場から、半丁程も手前に来た時、不図或るものを見つけ、私はそれとない様子で鋪道からそれた。

 隙を見て雑踏する車道を突きり、例の桃色塗の料理店の下に立った。電車はまだ彼方の遠い角にも姿を現わさない。

 群集の間から、私は、自分がそれて通った彼方側の街頭を眺めやった。

 小刻みに上下に揺れ揺れ流れ動く人波の上に、此処からでも、婦人帽の白い羽毛飾が見えた。黒繻子の頂や縁も。

 然しそれは、鋪道一体の流れに沿うて前か後に進みきる様子はなく、距離にしたら五六間もない空間で、前後左右に漂っている。

 渦にでも捲かれているように、人波に逆らい七八歩も黒い頂を傾け浮いて行ったかと思うと、ひらりと白羽毛飾を向き更らせ、皆の来る方に動いている。が決して、十字街の此方に車道をえようとはしなかった。暫く鋪道の端れの一箇処で羽毛飾が揺れると見ているうちに、再び、気をとりなおしたように、痛々しく帽子の大きな縁をかしげて群集の間を新たな力で溯り始めるのだ。

 その婦人帽の動作には、何とも云えず看る者の心を打つものがあった。苦しい程熱心な、疲れても疲れてはいられないと云う悲しい張が、特に、再び人群を溯ろうとし始める瞬間、私の心まで刺すのであった。

 あの帽子の下には、恐らく一つの外国婦人の顔があるのだろう。何か売りでもしているらしい。

 らしいと云うのは誤りだ。私は、すっかり知っているのだもの。

 彼女は露西亜人だ。それも小露西亜の農民らしくがっしり小肥りな婦人ではなく、清げに瘠せた体に、蒼白い神経質な顔、同じように鋭い指。それに写真画帖のようなものを持ち、

「お買い下さい。いりません?」

 買いと云う字に妙なアクセントをつけながら、笑顔とともに遠慮深く、一級の売ものをすすめているのだ。

 見ていると──ほら、一人の鳥打帽の男が不自然な弧を描いて、一層低く彼の上に傾いた白羽毛飾の傍からどいた。次の通行人に頼んでいる。頼まれた若い女は顔を赧らめて断った。見なさい、男が二人、狡く露西亜婦人の背後をすりぬけた。彼女が声をかけようとした三人めの紳士は──。ほう何と云う素ばしこさ! するりと忽ち群集の中に紛れ込んでしまった。(彼方を向いてはいるが、私は彼女の唇に浮ぶ頼りない苦い微笑が見えるようだ。)が、それではいけない。彼女は気をひき立てる。又そろそろと、辛い頬笑みを用意する。

 私がほんの子供の時、父が一冊の歌の譜を買ってくれた。百、英国の子供達が普通唱う唱歌を集めたものであったが、中に「私の奇麗な花を買って頂戴な」と云う歌謡があった。

  きらきら瓦斯燈の煌く下に

  小さい娘が 哀れな声で

  私の奇麗な花を買って頂戴な と

  呼びながら立っている。

 歌詞の細かなところは忘れた。けれども、絶間ない通交人は、誰一人この小さい花売娘に見向きもしないで通りすぎる。それでも、未だ彼女は、

  輝く瓦斯燈の下で

  呼びながら立っている

  私の奇麗な花を買って頂戴な と。

 深い夕靄の空に広告塔の飾光イルミネーションがつややかに燦くにつれ、私の胸の中にはその謡の幼い、単調な、其故却って物悲しい音律が、ロシア婦人の帽子の動きに縺れて響いて来た。

 其位なら何故、私は、彼女のそばによって、一つの銀貨と引かえに、不用な画帖を受けとってやらなかったか? 私は、先一度そうした。そして、もう二度とは繰返すまい感銘を受けたのであった。

 彼女が、愛嬌に薄い頬につくる微笑が、どんなにその唇の隅で震えているか、私は目で見た。

 背の低い私にかがみ込んで画本を示した彼女の眼が、どんなに飢えた、求める、人間ばなれのした光をもって私の瞳をのぞき込んだか。全体の上品な顔だちの中で光った眼の色は、殆ど私を恐れさせた。その眼色、その引つった唇が、僅か二十銭で変る、変りかたを見て愉快に思うには、私は少し多くの神経を持っているのだ。

 憂鬱な気持になり、私は一二台、電車をやり過した。

 都会の雑音は愈々膨れ拡った、荒々しい獣のように、私の目先を掠めて左右に黄色い電車や警笛をならす自動車が入り乱れて馳せ違う。ぱっと、一時に向う角の裁縫店の大飾窓に灯がついた。前に溜っていた群集は、俄に、見わけのつかない黒影のかたまりにとけ込んだ。

 白い羽毛飾ばかりは、まだその中でも、今燈火の海に燦めき、忽ち人ごみの闇にまぎれて、見えがくれしている。まるで巣を失った鷺のように。──


 ああ、その街は昼間歩いて見るとまるで別な処のように感じられた。

〔一九二三年十二月〕

底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社

   1981(昭和56)年320日初版発行

   1986(昭和61)年320日第4刷発行

初出:「八つの泉」

   1923(大正12)年12月発行

入力:柴田卓治

校正:磐余彦

2003年915日作成

青空文庫作成ファイル:

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