私の覚え書
宮本百合子
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九月一日、私は福井県の良人の郷里にいた。朝は、よく晴れた、むし暑い天気であった。九時頃から例によって二階と階下とに別れ、一区切り仕事をし、やや疲れを感じたので、ぼんやり窓から外の風景を眺めていると、いきなり家中が、ゆさゆさと大きく一二度揺れた。おや地震か、と思う間もなく、震動は急に力を増し、地面の下から衝きあげてはぐいぐい揺ぶるように、建物を軋ませて募って来る。
これは大きい、と思うと私は反射的に机の前から立上った。そして、皆のいる階下に行こうとし、階子口まで来はしたが、揺れが劇しいので、到底足を下せたものではない。田舎の階子段は東京のと違い、ただ踏板をかけてあるばかりなので、此処に下そうとするとグラグラと揺れ、後の隙間から滑り落ちそうで、どうにも思い切って降りられない。私は、其儘其処に立ち竦んで仕舞った。
階下では、良人が「大丈夫! 大丈夫!」と呼びながら、廊下を此方に来る足音がする。私共は、階子の上と下とで、驚いた顔を見合わせた。が、まだ揺れはひどいので、彼が昇って来る訳にもゆかず、自分が降るわけにも行かない。ゆさゆさと来る毎に私は、恐ろしさを堪えて手を握りしめ、彼は、後の庭から空を見るようにしては、「大丈夫、大丈夫」を繰返す。揺り返しの間を見、私は、いそいで階子を降りた。居間のところへ来て見ると、丁度昼飯に集っていた家内じゅうの者が、皆、渋をふき込んだ廊下に出て立っている。顔を見合わせても口を利くものはない。全身の注意を集注した様子で、凝っと揺れの鎮るのを待っている。階下に来て見て、始めて私は四辺に異様な響が満ちているのに気がついた。樹木の多いせいか、大きなササラでもすり合わせるような、さっさっさっさっと云う無気味な戦ぎが、津波のように遠くの方から寄せて来ると一緒に、ミシミシミシ柱を鳴して揺れて来る。
廊下に立ったまま、それでも大分落付いて私は、天井や壁を見廻した。床の間などには砂壁が少し落ちたらしいが、損所はない。その中、不図、私の目は、机の上にある良人の懐中時計の上に落ちた。蓋なしのその時計は、明るい正午の光線で金色の縁を輝やかせながら、きっちり十二時三分過ぎを示している。真白い面に鮮やかな黒字で書かれた数字や、短針長針が、狭い角度で互に開いていた形が、奇妙にはっきり印象に遺った。驚いて、一寸ぼんやりした揚句なので却って時計の鮮明な文字が、特殊な感銘を与えたのだろう。
知ろうともしなかった此時間の記憶は後になって、意外に興味ある話題になった、何故なら、東京であの大震は十一時五十八分に起ったと認められている。ところが当時大船のステーションの汽車の中にい、やっと倒れそうな体を足で踏張り支えていた私の弟は、確に十二時十五分過頃始ったと云う。鎌倉から来た人々もその刻限に一致した。其故、私の見た時計に大した狂いのなかったことを信ずるなら、東京に近く、震源地に近い湘南地方の方が逆に遅れて、強く感じたと云うことになるのである。
その日は、一日、揺り返しが続き、私は二階と下とを往来して暮してしまった。一度おどかされたので、又強くなりはしまいかと、揺れると落付いていられない。皆も、近年にない強震だと愕いた。けれども、真逆東京にあれ程のことが起っていようとは夢想するどころではなかった。何にしろ福井辺では七月の下旬に雨が降ったきり、九月一日まで、一箇月以上一度の驟雨さえ見ないと云う乾きようであった。人々は農作物の為めに一雫の雨でもと待ち焦れている。二百十日が翌日に迫っていたので、この地震は天候の変化する前触れとし、寧ろ歓迎した位なのであった。果して、午後四時頃から天気が変り、烈しい東南風が吹き始めた。大粒な雨さえ、バラバラとかかって来る。夜になると、月のない闇空に、黒い入道雲が走り、白山山脈の彼方で、真赤な稲妻の閃くのが見えた。
夜中に、二度ばかり、可なり強い地震で眼を醒された。然し、愈々夜が明けると、二百十日は案外平穏なことがわかった。前夜の烈風はやんで、しとしとと落付いた雨が降っている。人々は、その雨の嬉しさにすっかり昨日の地震のことなどは忘れた。彼等は楽しそうに納屋から蓑をとり出した。そして、露のたまった稲の葉を戦がせながら、田圃の水廻りに出かける。夕方になると、その雨もあがった。
葡萄棚の下に拵えた私共の涼台に、すぐ薄縁の敷るほどの雨量しかなかった。其れにしても、久しぶりで雨あがりの爽やかさに触れたので、皆な活々とした。そして、涼台に集って雑談に耽っていると八時頃、所用で福井市に出かけていた家兄が、遽しい様子で帰って来た。私共の呑気な「おかえりなさい」と云う挨拶に答えるなり、彼は息を切って、
「東京はえらいこっちゃ」
と云った。
私共がききかえす間もなく、
「一日に大地震があった後に大火災で、全滅だと云うこっちゃが」
彼は、立ったまま、持って来た号外を声高に読み始めた。この時初めて、私共は、前日の地震が東京からの余波であったことを知った。号外によれば、一日の十二時二分前、東京及び湘南地方に大地震があり、多くの家屋が倒壊すると同時に、四十八箇所から火を発し、警視庁、帝劇、三越、白木屋、東京駅、帝国大学その他重要な建物全焼、宮城さえ今猶お燃えつつある。丸の内、海上ビルディング内だけでも死者数万人の見込み、東京市三分の二は全滅、加えて〔四字伏字〕、〔五字伏字〕が大挙して暴動を起し、爆弾を投じて、全市を火の海と化しつつあると、報じてある。そのどさくさ紛れに、〔四字伏字〕の噂さえ伝えられている。
余り突然の大事なので、喫驚することさえ忘れて聞いていた私は、「為めに全市に亙って戒厳令を敷き」と云う文句を耳にすると、俄かにぞっとするような恐怖を感じた。五つか六つの時、孫の薬とりに行った老婆が、電信柱に結びつけられ兵隊に剣付鉄砲で刺殺されたと云う、日比谷の焼打ちの時か何かの風聞を小耳に挟んで以来、戒厳令と云うことは、私に何とも云えない暗澹と惨虐さとを暗示するのだ。私は、一時に四方の薄暗さと冷気が身にこたえる涼台の上で、堅唾をのんで、報道を聞いた。どんな田舎の新聞でも、戒厳令を敷いたことまで誤報はしまい。そうすれば、どんなに軽く見積っても、昨日の十二時以後東京はその非常手段を必要とするだけ険悪な擾乱にあることだけは確だ。
私の思いは、忽ち父の上に飛んだ。父の事務所は、丸の内の仲通りにある。時刻が時刻だから多忙な彼は、どんな処にいて、災害に遭ったか知れないのだ。心を落つけ欹てるようにし、何か魂を通りすぎる感じを掴もうとしたが、一向凶徴らしいときめきは生じない。次に、弟はどうしたろうと思った。彼は夏休以前から病気で、恢復期に向った為め、小田原か大磯、或は鎌倉に行っていたかもしれない。其等の地方は、この号外によれば津波で洗われ、村落の影さえ認め得ない程になっているらしいのだ。けれども、是も、理性に訴えて考えて見た結果として感じる心配以上、鋭く心に迫るものがない。私はこれで、二人は命に別条なかろうと云う確信に近いものを持ち得た。私と彼等二人との心の繋りは深くおろそかなものではない。万一彼等の生命に何事かあったのなら、昨夜、あんなのびやかな眠りは決して得なかったに違いない。
ほんの瞬をする間に此等のことを考え、安心すべき明かな理由のある他の家族のことを思い、少し、心が冷静になった。それにつれて、号外の全部に対し、半信半疑な心持になった。全市の交通、通信機関が途絶してしまった以上、内部の正確な報知を、容易に得られない訳だ。〔四字伏字〕行方不明〔四字伏字〕、〔六字伏字〕と云う諸項が、特に疑いを生じさせた。丁度政界が動揺していた最中なので、余程誇大されているのではあるまいかとは、誰でも思うことだ。私は、
「少し大袈裟ではないこと? 何だか、何処まで本当にして好いかわからないようだけれども」
と云った。それは皆同意見であった。少し号外の調子がセンセーショナルすぎることを感じたのであった。然し、どっち道、全市の電燈、瓦斯、水道が止ったと云う丈でも一大事である。真暗な東京を考えるだけで、ふだんの東京を知っているものは心は怯える。
人々は、口々に、「此方に来ていてよかった。運がよかった。まあ落付くまでいるがよい」と云われる。女のひとなどは、おろおろして、私の手を執る。けれども、私はまるであべこべの心持がした。それだけの恐ろしい目に会わなかったことを実に仕合わせに有難くは思うが、万事が落付くまで、生れた東京の苦しみを余処にのんべんだらりとしてはいたくない。大丈夫だろうとは思いながらも、親同胞、友達のことを案じ、一刻も早く様子を見たい心持が、まるで通じないのが歯痒く、やや不快にさえ感じた。
然し東海道線は不通になっている。その混乱の裡に、用意なしには戻れない。入京は非常に困難らしいが、幸いなことに、私共は四日の午後に、何がなくとも、福井を出発する準備をしていた。米原から東京駅までの寝台券も取ってあった。それを信越線迂回に代えて貰うことは出来よう。私共は、翌三日にそれ等の準備をし、予定通り四日に東京に向うことに定めた。出発までは、出来るだけ落付いて、自分等の務めを続けると云う約束で。
三日の朝、早く起き、朝飯を終ると、私はわざわざ借りて来てある『大阪毎日』も見ず、二階にあがった。そして、机に向い、ペンをとり、仕かけの書きものを続けた。一晩寝て目を醒すと、昨夜は割合にはっきり安心のついていた人々のことが、却って腹の底から不安になって来ていた。気分が、陰鬱になった。どんな不運な機会で、私の愛する多くの人々が死んでいまいものでもない。会うまでは生死のほどもわからず、私としては、最も悪い場合に処しても我を失わない丈の考慮、覚悟は持っていなければならない。ふだんは、何となくぼやけ、人と人との感情問題等もそう切迫してはいないが、左様な大事に面し、其れがどう展開して行くか。自分の運命の在り場所が、深い、宏い海の底を覗き桶で見るように、私にわかった。遙かな東京の渾沌、燼灰、死のうとする人々の呻きの間から、私は、何か巨大な不可抗の力を持ったものが犇々と自分に迫って来るように感じた。その気持を、ぐっと堪えながら、自分のすべきことは忘れまいとするのは、努力であった。
午後から良人は福井市に出、大宮までの切符と持って行くべき食糧の鑵詰類を買い入れて来た。役場から、入京に必要だと云う身分証明書を貰った。そして、四日の午後四時五十七分、総ての荷物を郷里に遺し、ただ食糧だけを二人で背負う振り分けの荷に作って、福井を出発した。福井市の彼方此方では、当局者の所謂流言蜚語が、実に熾んで、血腥い風が面を払うようであった。もう二三十分で列車が出る時になっても、家兄は私の体を案じ、止ることをすすめた。私は、半分冗談、半分本気で、
「大丈夫よ。私はちっとも可愛くないから、これで髪をざんぎりにし、泥でも顔へぬれば、女だと思う者はないでしょう」
と、笑った。
七時五分、金沢駅のプラットフォームに降ると、私は、異常な光景に目を睜った。もう此処では、平常の服装をした人などは一人もいない。男は脚絆に草鞋がけ、各自に重そうな荷と水筒を負い、塵と汗とにまびれている。女の数はごく少く、それも髪を乱し、裾をからげ、年齢に拘らず平時の嬌態などはさらりと忘れた真剣さである。武装を調えた第三十五連隊の歩兵、大きな電線の束と道具袋を肩にかけた工夫の大群。乗客がいつもの数十倍立てこんだ上、皆な気が立った者ばかりだから、その混雑した有様は言葉につくせない。誰も自分の足許をしっかり見ているものなどはなく、又、押し押され、おちおち佇んでもいられない。上野行の急行に乗込む時は、人間が夢中になって振り搾る腕力がどんな働をあらわすか、ひとと自分とで経験する好機会であったと云うほかない。
列車は人と貨物を満載し、膏汗を滲ませるむし暑さに包まれながら、篠井位までは、急行らしい快速力で走った。午前二時三時となり、段々信州の高原にさしかかると、停車する駅々の雰囲気が一つ毎に、緊張の度を増して来た。在郷軍人、消防夫、警官などの姿がちらつき手に手に提灯をかざして、警備している。福井を出発する時、前日頃、軽井沢で汽車爆破を企た暴徒が数十名捕えられ、数人は逃げたと云う噂があった。旅客は皆それを聞き知ってい、中にはこと更「いよいよ危険区域に入りましたな」などと云う人さえある。
五日の暁方四時少し過ぎ列車が丁度軽井沢から二つ手前の駅に着く前、一般の神経過敏をよく現した一つの事件が持ち上った。前から二つ目ばかりの窓際にいた一人の男がこの車の下に、何者かが隠れている。爆弾を持った〔二字伏字〕に違いないと云い出したのであった。何にしろひどいこみようで、到底席などは動けないので、遠い洗面所その他はまるで役に立たない。その人は、窓から用を足したのだそうだ。そして、何心なくひょいと下を覗くと、確に人間の足が、いそいで引込んだのを認めた。自分ばかりではなく、もう一人の者も間違いなく見たと云うのである。
初め冗談だと思った皆も、其人が余り真剣なので、ひどく不安になり始めた。あの駅々の警備の厳重なところを見れば、全くそんな事がないとは云われない。万一事実とすれば、此処にいる数十人が、命の瀬戸際にあると云うことになる。不安が募るにつれ、非常警報器を引けと云う者まで出た。駅の構内に入る為めに、列車が暫く野っぱの真中で徐行し始めた時には、乗客は殆ど総立ちになった。何か異様が起った。今こそ危いと云う感が一同の胸を貫き、じっと場席にいたたまれなくさせたのだ。
停車した追分駅では、消防夫が、抜刀で、列車の下を捜索した。暫く見廻って、
「いない。いない」
と云う声が列車の内外でした。それで気が緩もうとすると、前方で、突然、
「いた! いた!」
とけたたましい叫びが起った。次いで、ワーッと云う物凄い鬨声をあげ、何かを停車場の外へ追いかけ始めた。
観念して、恐ろしさを堪えていた私は、その魂消たような「いた! いた!」と云う絶叫を聞くと水でも浴びたように震えた。走っている列車からは、逃げるにも逃げられない。この人で詰った車内で、自分だけどうすると云うことは勿論出来ないことだ。そんな事はあるまいと、可怖いながら疑いを挾んでいた私は、この叫びで、一どきに面していた危険の大きさを感じ、思わずぞっとしたのであった。ぼんやり地平線に卵色の光りはじめた黎明の空に、陰気に睡そうに茂っていた高原の灌木、濁った、狭い提灯の灯かげに閃いた白刃の寒さ。目の前の堤にかけ登って、ずっと遠くの野を展望した一人の消防夫の小作りな黒い影絵の印象を、恐らく私は生涯忘れないだろう。列車の下から追い出したのが何であったか、それをどう始末したか、結着のつかないうちに、汽車は前進し始めた。
高崎から、段々時間が不正確になり、遅延し始めた。軍隊の輸送、避難民の特別列車の為め、私共の汽車は順ぐりあと廻しにされる。貨車、郵便車、屋根の上から機関車にまでとりついた避難民の様子は、見る者に真心からの同情を感じさせた。同時に、彼等が、平常思い切って出来ないことでも平気でやるほど女まで大胆になり、死を恐れない有様が、惨澹たる気持を与えた。一つとして、疲労で蒼ざめ形のくずれていない顔はないのに、気が立っている故か、自暴自棄の故か、此方の列車とすれ違うと、彼等は、声を揃えてわーっと熾んな鯨波をあげる。気の毒で、此方から応える声は一つもしなかった。
けれども、家の安否を気遣う人々は、東京から来た列車が近くに止ると、声の届くかぎり、先の模様を聞こうとする。
「貴方は何方からおいでです?」
「神田。」
「九段のところは皆やけましたか?」
「ああ駄目駄目! やけないところなし。」
又は、
「浅草は何処も遺りませんか?」
避難者の男は、黙って頭で、遺らないと云う意味を頷く。
「上野は?」
今度は、低い、震える声で、
「山下からステーションは駄目。」
猶、詳細を訊こうとすると、
「皆、焼けちまったよ。お前、ひどいのひどくないのって。──」
五十を越した労働者風のその男は、俄に顎を顫わせ、遠目にも涙のわかる顔を、窓から引こめてしまう。
浦和、蕨あたりからは、一旦逃げのびた罹災者が、焼跡始末に出て来る為、一日以来の東京の惨状は、口伝えに広まった。実に、想像以上の話だ。天災以外に、複雑な問題が引からまっているらしく、惨酷な〔二字伏字〕の話を、災害に遭って死んだ者の他につけ足さないのはない。死者の多いことが皆を驚した。話によると、命がけで、不幸な人々の屍を見ないでは一町の道筋も歩けない程だ。経験のある人々は、哨兵に呼び止められた時の応答のしぶりを説明する。徒歩で行かなければならない各区への順路を教える。何にしても、夜歩くのは危険極ると云うのに、列車は延着する一方で、東京を目前に見ながら日が暮てしまったので、皆の心配は、種々な形であらわれた。知る知らないに拘らず、同じ方面に行く者は、組みになった。荷を自分だけで負い切れなく持っている男は、自分の便宜を対手に分け、荷負いかたがたの道伴れになって貰おうと勧誘する。
順当に行けば午前九時十五分に着くべき列車は十二時間延着で、午後九時過ぎ、やっと田端まで来た。私共の列車が、始めて川口、赤羽間の鉄橋を通過した。その日から、大宮までであった終点が、幸い日暮里までのびたのであった。厳しい警戒の間を事なく家につき、背負った荷を下して、無事な父の顔を見たとき、私は、有難さに打れ、笑顔も出来なかった。父は、地震の三十分前、倒壊して多くの人を殺した丸の内の或る建物の中にい、危うく死とすれ違った。私は、鎌倉で、親密な叔母と一人の従弟が圧死したことを知った。まさかと思った帝国大学の図書館が消防の間も合わず焼け落ちてしまったのを知った。
段々彼方此方の焼跡を通り、私は、何とも云えない寥しい思いをした。自分の見なれた神田、京橋、日本橋の目貫きの町筋も、ああ一面の焼野原となっては、何処に何があったのかまるで判らない。災害前の東京の様子は、頭の中にはっきり、場所によっては看板の色まで活々と遺っている。けれどもその場所に行っては、焙られて色の変った基礎石の上から、あった昔の形を築きあげることすら覚束ない。狭い狭い横丁と思っていたところが、広々と見通しの利く坂道になっている様などは、見る者に哀傷をそそらずにはいない。心に少し余裕のあった故か、帰京して数日の間、私は、大仕掛な物質の壊滅に伴う、一種異様な精神の空虚を堪え難く感じた。
今まで在ったものが、もう無い、と云う心持は、建物だけに限らない。賑やかに雑誌新聞に聞えていた思想の声、芸術の響き、精神活動の快活なざわめきが、すーいと煙のように何処かに消えて仕舞ったと感じるのだ。今まで、自分の魂のよりどころとなっていた種々のことは、此場合、支えとなり切れない薄弱なものであったのか。真個に地震と火事で倒され焼き尽されるものなのだろうか。
数日経つうちに、私は、次第に違った心持になって来た。「死者をして死者を葬らしめよ」と云う心持である。焼けて滅びるものなら、思想と物質とにかかわらず、滅びよ。人間は、これ程の災厄を、愚な案山子のように突立ったぎりでは通すまい。灰の中から、更に智慧を増し、経験によって鍛えられ、新たな生命を感じた活動が甦るのだ。人間のはかなさを痛感したことさえ無駄にはならない。非常に際し、命と心の力をむき出しに見た者は、仮令暫の間でも、嘘と下らない見栄は失った。分を知り、忍耐強くなり、自然の教えることに敏感になった私共は、大きな天の篩で、各自の心を篩われたようなものではないだろうか。私は、会う殆ど全部の人が、何か、身についた新しい知識と謙遜な自分への警言を、今度の災害から受けているのを知った。この力は大きい。
今度のことを、廃頽しかけた日本の文化に天が与えた痛棒であると云う風に説明する老人等の言葉は、そのまま私共に肯われない或るものを持っている。けれども、自然の打撃から痛められながらも、必ずその裡から人間生活に大切な何ものかを見出し、撓ず絶望せず溌溂と精神の耀く文明を進めて行こうとする人間の意慾の雄々しさは、その古風な言葉の裡にさえも尚お認め得る。多くの困難があり、苦痛があるにしろ、私共は、とかく姑息になり勝ちな人間の意志を超えた力で、社会革新の地盤を与えられたことを、意味深い事実として知っているのだ。
女性としての生活の上からも、本当に生活に必須なことと、そうでないこととの区別をはっきり知った丈で、あの当時は、一日が五年の教育に価した。余りけばけばしい装飾の遠慮、無力を一種の愛らしさとしていた怯懦の消滅、自分の手と頭脳にだけ頼って、刻々変化する四囲の事情の中に生活を纏め計画する必要に迫られたことは、其時ぎりで失せる才覚以上のものを与えた。
種々の点から、今東京に居遺る大多数は希望を持った熱心に励まされて働いているが、昨夜のように大風が吹き豪雨でもあると、私はつい近くの、明治神宮外苑のバラックにいる人々のことを思わずにいられなくなる。あれ程の男女の失業者はどうなるか。その家族のことに考え及ぶと、彼等の妻、子女の為めに、婦人で社会事業に携る人々の為すべきことは少くないように思う。
底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
1981(昭和56)年3月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
初出:「女性」
1923(大正12)年11月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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