深く静に各自の路を見出せ
宮本百合子
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静に考えて見ると、我々人類の生活に於ては、既に両性の差別と、その間に性的交渉の存する限り、種々な結婚生活の破綻や恋愛の難問題が起って来るのは、已むを得ない事実ではあるまいかと思う。
然し、それ等の事実に対する当事者、周囲の心の態度は、或る時代、社会によっていろいろに異う。今日、我々はどう考えても、ヘレナ一人のために、二つの部族と神々まで加えた戦争を惹起するような空想は、たとい一種のロマンスとしても実感を以て描くことが出来ないだろう。恋愛のいきさつは、人類の祖先が原始的生活を営んでいた時代、直に一集団の本能を刺衝するものとなった。彼等は、自分等がそれによって相争うことの善悪も、必要・不必要も念頭にない一個の情意となってそのうちに没頭したのである。
けれども、人類の認識の範囲が拡大し、個人の意識が人生に向ってより多様複雑な綜合的人格として働きかけるようになって来ると、一方に於て社会性が強大になるに伴って人間の個性が顕著になって来る。
一個の社会を形ち造る以上、個々人は決して連鎖のない一つの石っころではない。絶えず相互の利害、あらゆる幸・不幸が有形無形に於て影響し合っているのは明であろう。と同時に、一般が、彼等生存の理想、倫理感等によって認めた肯定の範囲に於ては、一人一人が、各々の負うべき責任と義務とを確信しての自由、独立を共有する。家庭生活というものが部族に隷属した時代が去り、一人一人の希望、趣向、責任によって経営されるようになれば、個人の恋愛、結婚というものもまた、自ら各人の動機、経路、結果によって終始されるべきものとなるのではあるまいか。
恋愛、結婚等は、あらゆる人類の経験することとして、その概念に於て、または未発の本能に於ては全く共通なものであると思う。けれども、一旦それが実行となった時、あれも恋、これも恋だからといって全然同じ原因結果になると断定することは決して出来ない。恋愛、結婚が、内容に於ては実に個性的なものであると知り種々な成就の事実、失敗の事実に面した時、明かな理解と同情、並に混乱しない自他の境界を認めてそれを経験し考察し、深く静に各人の途を自ら見出して行くのが、健康な文化社会人の態度ではあるまいかと思うのである。
若し、右のような態度が、人類のあり得べき発達の少くとも或る程度迄到達した状態であるとしたら、今日、我々の周囲を取繞く、日本の社会はどうであろう。流石に、本能と衝動とのみによって恋愛に生きる時代は過ぎている。けれども昨今、かなり屡々世上に伝えられる結婚生活の破綻と同時に起る種々な恋愛問題に対して、当事者から、周囲に到るまでのその決意決行、批判ある態度に於て、一指も指されないほど、厳かな絶対性を持っているだろうか。云うことを許されれば、自分はそのどちらからも不安を与えられずにはいないのである。
今日、社会の知識は、人格の平等、恋愛の創造性、結婚の純一性などに対して、相当に深まっていると思う。人々は、恋愛によらない結婚の恐るべく恥ずべきことを力説する。真実の愛もない夫婦の生活が、多く、如何程の人格的偽瞞と虚偽に満ちているかを摘発する。新たな恋愛価値の創始、人格の飛躍が、一方、色情狂めいた性的好奇心の横行とともに、今日の社会には到るところに叫ばれていると思うのである。
けれども、翻ってそれを聞きその影響を受けようとする大多数の男性女性は、事実に於て今日如何なる生活を営んでいるだろう。
未婚者のことは暫く置く。既に結婚した者の多数は、大抵の場合、今日、それ等の論議を高声ならしめた素因を、過去幾年かの昔に蒔いている。或る者は、奇怪な道徳感によって、家のために殆ど憎しみを感じる程の異性と配せられたものもあろう。
或る者は、打算的な賢明さから、人格を無視して所謂金持に運命を任せ、今、その暴虐と冷酷とに、あらゆる笑を失っている者もあるだろう。こんな意識は、また多くの男性にも勿論あるに違いない。自分の妻を嘗て便宜上貰ったと云う反省、従って真実な愛の有無を、自ら思わずにはいられない。ところでかくてこそ人類の正しく幸福な愛は成就される、かくてこそ真の結婚として祝されるべきものだという規範、理想が、まるで彼等の自ら持つ事実とは正反対の形態、内容をとって続々と現れて来る。
時代によらず、周囲によらず、彼等の愛によって結合した者でない者は、現在恐らく百人が百人、恋愛観、性道徳の不安に脅かされているのである。
ここに我々の深く考えなければならないことがあると思う。
人間は、自己の運命を決する時、決して一時間の時を要しない。総ては瞬間にかかっている。準備、そこに到る力を蓄積するには、勿論五年なり十年なりの歳月が要されるだろう。然し、或る運命的な一瞬間と結びついて、始めてそこに決意と決行とが行われて来る。
裡に絶え間ない不安、焦燥、生活の革新を抱いている者は、或る時は終に爆発する。それが、その時の周囲の状況、社会輿論の暗示によって、種々異った形式を採るのは争われない事実なのである。
故に、我々は、その重大な一点に、絶えず聰明な、透徹した眼を据えなければなるまい。
或る女性が、彼女の十年来共棲して来た良人を棄てて、新たに甦った人生を送るために愛人の許に馳った。斯様な一事実に面した時、我々は、彼女が、自己の人としての運命、性格、力量を、どこまで深く沈思したか。無意識の裡に外界から暗示され、刺戟されて来たあらゆる理智概念、社会的風潮に対して、如何程の真実と純粋さとを以て自己という人格の、犯すべからざる途をつけたか。ということなどを、深く、公平に考えなければならないのである。
若し、その行為が、動機に於て全く絶対なものであり、その人の過去の経歴、性格等によってはそうほか成りようのないものであったのなら、私は、たといそれが百人、千人の為る平凡な、或は愚といわれる種類の行為であっても、それは仕方がないと思う。批評の外に出ている。そこに、人間の個性的運命の、襟を正さしめる寂寥と絶対とが存するのである。
けれども、それ等の、長い眼、大きな心から見れば確に例外、悲しむべき除外例とすべき一事件に対して、周囲が、何等かの意味に於て同様の不安に苦しめられている時、批評、噂する態度は、非常に常軌を逸して来る。
先ず、ト胸を打たれて忽ち冷静を失う。嘗て、或る知名な女流歌人が右のような行為に出た時、都下の或る大新聞は、文化の最高指導者たるべき紙面を、全部その報告、ドキドキさせるようなロマンチック・センセーションで埋めまでした。寧ろ、悲惨な心持がせずにはいない。それほど、皆が心を動顛させられる。其人の圏境、その人の持って生れて来たに違いない内在力などが、明に頭に考えられるより先に、自他を混同した我等の不安、混迷になってしまうのである。
人は、忽ちその一事実の上に絶対価値批判を組立てようとする。或る概論の実証とし、また反証としようとする。
平常、自己の結婚生活、恋愛生活に矜持ある希望、信念を持ち得ないでいた者は、わっといってその周囲に馳け集る。おのおの手には帳面を持ち、その行為がよいと批評されれば、人生に於けるあらゆる斯の如き種類の行動の下に、よし、と書き込み、悪いと云われればまた、同じ総体を、一言の下に、恐るべき悪行と断定する。人生の、あらゆる行為の価値は、明に個々の行為者に属しているもので、或る善の定義は、彼も此も人類の一員であるという点で共通ではあっても、その運用価値は、全く各個人によってすっかり違って来ることなどは、まるで忘却されたように見えるのである。
深い、深い自己の意識、自分の来た処、これから行こうとする処、それ等を、不滅な人類の生存感にまで引あげて我々が人生を全き我が眼で眺めた時、果して世の中はこれほど塵っぽく騒々しくあらねばならないものだろうか。
極言すれば、理想を高唱するものも、それに鼓舞されて一躍新生涯を創始しようとする者も、またはそれを傍観するものも、共に、貧弱な沈潜力の所有者であるようにさえ感ぜられる。
強固に、深刻に人生の意識、人類の内容を考察する者が、どうしてよい気持になって、今更過去のお染久松、お夏清十郎の恋の唄を、我等、人類の恋愛理想の極致だと云えよう。また、或る性的生活に対する反省と、革新との意気とが、次第に密に不可抗の中で発育して来た時、誰がそれを、正当に人らしい礼譲と威力とを以て静に強く主張することを「悪」とするだろう。
そして、若し我々が、自分を知り人生の大道に生きようとするだけの力があれば、自己の生命にあらゆる責任と義務とを感じて、軽々しく外界の刺戟、無責任な煽動によって破滅に導くことも、図に乗らせることも、ともになし得ないのではあるまいかと思う。
特に性的生活は、実に微妙なものであると思う。我々は、平静に、人としてその方面に対する自己の傾向、年齢の及ぼす影響、圏境等を省察し、自ら支配し得るだけ心の自由を持ちたいものである。殊に、社会生活の実力に乏しい女性が、多くの場合その結果を自己の力では到底回収し得ない、或る瞬間、或る期間の必死な狂暴性で事を為すことは、悲惨という以上に感ぜられる。
底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
1981(昭和56)年3月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
1953(昭和28)年1月発行
初出:「婦人公論」
1921(大正10)年12月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
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