偶感一語
宮本百合子



 最近、昆虫学の泰斗として名声のあった某理学博士が、突然に逝去された報道は、自分に、暫くは呆然とする程の驚きと共に、深い深い二三の反省ともいうべきものを与えました。故博士に就て、自分は何も個人的に知ってはおりません。

 ただ、余程以前、何かの講演会の席上で、つい目の前に、博士の精力的な、快活な丸い風貌に接した以外は、文学を通してだけの知己でありました。

 私の周囲にそのくらいの深度の記憶を持った人々は多くあると思います。その中から、幾人ずつか一年のうちに死去せられるのも事実です。けれども、それ等の場合、私の胸に湧いたものは、決して今度経験したようなものではありませんでした。

 或る時には、その方の病名や年齢が一種の知識を与えます。ただ、寂寥々とした哀愁が、人生というもの、生涯というものを、未だ年に於て若く、仕事に於て未完成である自分の前途にぼんやりと照し出したのです。

 けれども、その某博士が逝去されたという文字を見た瞬間、自分の胸を打ったものは、真個のショックでした。

 どうしようという感じが、言葉に纏まらない以前の動顛でした。

 私は、二度も三度も、新聞の記事を繰返して読みながら、台所に立ったまま、全く感慨無量という状態に置かれたのです。

 食事を仕ながら、自分は、種々に自分の心持を考えて見ました。

 親類でもなく、師でも友でも無い、尊敬する一人の学者としてのみ間接に、間接に知っている人の死に対して、それ程直接に、純粋に、驚愕と混迷とを感じたのは何故だろう。

 考えの中に浮び上ったのは、第一、その博士夫人に対する自分の感情的立場です。

 文学的趣味を豊かに蔵され、時折作品なども発表される夫人は、全然未知の方ながら、自分の心持に於て同じ方向を感じずにはおられません。

 お年も未だ若く御良人に対する深い敬慕や、生活に対しての意志が、とにかく、文字を透して知られているだけでも、或る親しみを感じるのは当然でありましょう。

 その方が良人を失われた──而も御良人の年といえば、僅かに壮年の一歩を踏出された程の少壮である。──ここで夫人の受けられる悲歎、悲痛な恢復、新らしい生活への進展ということが、私にとって冷々淡々としておられる「ひとごと」ではなくなって来ます。

 逝去の報知を手にした時、自分の心に衝上って来た、驚き竦え、考えに沈んだ心持は、恐らく、これ等の見えない原因を背後に持った私自身へのアラームであったのだと思われます。あれ程健康そうに見え、自分の良人に比して、大した年長でも在られない博士の死去という事実によって、「どうする?」という直覚的な反問が避け難い力を以て私自身に投げ付けられたのです。

 私が、こうやってこれを書いている心持は、近頃の、何でも婦人雑誌の「問題」にしたがる、いやな流行的亢奮からは非常に遠いものです。

 自分の良人を深く深く愛し、謙遜に、恭々しく、出来るだけの努力でその愛を価値高い、純粋なものに浄化させて行き度いとこいねがう自分は、最も計り難い、最も絶対な一大事として、愛する良人との死別ということをも考えずにはいられなく成ったのです。

 今、自分の心に鎮まり、次第に深大なものになりつつある愛は、それによってどんな影響を受けるか。

 どんな径庭によって、どんな進展をするか? 勿論、考えようによっては、これ等のことは事実に面接しなければ話にも成らないことかも知れません。或る人は、不吉な空想を逞しゅうするという不快さえ感じるかもしれません。然し、今、静かに、厳しい内省を自分自身に加える時、私はこれ等のことごとを畏怖なしに考えることは出来ません。

 厳粛な一つのこととして、真剣に成って省察せずにはいられない程、一面からいえば、愛に対する自信が薄弱なのです。

 私の全心にとって、今、良人の死を予想することは、一つの恐ろしい空虚を想うことです。激しい困惑や擾乱を内的に予期せずにはいられません。

 私には、たとい良人の形体は地上から消滅しても、彼の全部は、皆、彼との結婚後更生した自己の裡に、確に、間違いなく生きているのだ、という全我的の信仰、安住も持ち得ないのです。

 現在、私の心を満し、霊魂を輝やかせ、生活意識をより強大にしている愛は、本質に於て不死と普遍とを直覚させています。

 けれども、若し、明日、彼を、冷たい、動かない死屍として見なければならなかったら、どうでしょう!

 心が息をめてしまいます。

 私がそれを信じ、それに遵おうと思わずにはいられない愛の理想的状態と、真実に反省して見出した愛の現状との間には、いかに粗雑な眼も、見逃すことは出来ない径庭が在るのです。至純な愛が発露した時、若しあらゆる具体的表現が、自分の愛する者にとって、総てよい意味に必要である場合、勿論それは惜しみなく注がれるでしょう。然し、愛する者がそれを要としない場合、愛はその独自な本質から、自足して安らかな筈なのです。

 これに、誰でも、真個に人間を、人類を貫いている普遍的な光明である愛の本流に、瞬間でも触れたことのある者は実感されることでしょう。

 率直な表現を許して下されば、今、私は、自分の「真個なもの」によって、結婚した両性の愛は、何も、ちょくちょく顔を見なければおられない筈のものでも無く、自分の愛情の表現に対して、必ず、同様な方法によって応答して貰わなければ寂寥に堪えないというようなものであるべきでないことは、熟知しているのです。これ等は明に第二次的のものであるのを、よくよく知っています。

 けれども、現在の自分にとっては、その第二次的な具体的な表現が、愛の強い信任と同様の重量を持つ場合が多々あるのです。

 従って、自分が死去した良人を追慕し、彼が自分の隣に坐っていた時と同様の愛に燃立った時、それに応えてくれる声、眼、彼の全部を持ち得ないのだと想うことは、どれ程の空虚を感じるかということは明かです。

 その空虚の予感が自分を苦しめます。考えさせずには置きません。

 自分は、単に哲学的思弁によって肯定し得るばかりで無く、全我、全人格を以て、「生くるとも死ぬるとも我等は一つなれば」という悟りの境涯に入り度いのです。

 少くとも、非常な場合に、結婚と同様な、一種の人格的飛躍で、その域に達し得るだけの叡智を持っていることだけは自信したいのです。

 持ちたい、見たい、語り度い、という執念からは解脱したく、またすべきであると思わずにはいられません。

 現在の、或る時には非常に原始的な愛の爆発を持つ心の状態のままで、不意に、思いもかけず、自分の手から愛する者を奪われたらどうなるでしょう。

 ここに或る一つの場合を考えて見ます。先ず、私が良人を失ったと仮定します。自分は非常に、非常に彼を愛していました。死後も同様な、絶間ない愛を抱いているのです。ところが、生活慾のさかんな、刻々と転進して行く生は、私を徒にいつまでも涙のうちに垂込めては置きますまい。激しい彼への思慕を持ちながら、それを語ることによりそれを追懐することによって恢復しつつ新らしい生活を歩み出します。

 友達が出来ましょう、話し相手なしでは──彼のことを話す相手なしでは──いられません。そして、最も自然な、在り得べき想像として、一人の信頼すべき異性が、自分の最も近い朋友と成ったと仮定します。

 その場合、その人に対する友情は、自分の語り度い、忘れ得ない愛する者を、倶に愛し、認めてくれる、という点に源泉を持っているのです。

 けれども、そういう場合、どうして、その人を透して彼を愛す、彼を愛する余りその人をも混同して愛の亢奮の裡に捲き込んでしまうことがないといえましょう。

 私の考えに於て、この点が最も重大なのです。若し自分が真個に愛のあるべき状態に迄達しておれば、かような錯誤は決して起り得べきものではないのです。

 愛は、何も、貴方を愛しています、または、愛して、愛して、今も愛していますというような告白や表現を望みはせず、云おうともしないものです。

 けれども、執念が、云いたがります。返事をし、自分の眼を見返し、輝く愛を認めて欲しく思い、ひとりでにそう行動します。

 そこで、右のような場合は、決して無いものだとは思えないのです。

 左様にして、彼を倶に愛すが故に朋友となり、進んで愛人同士のような感情の表現を持つように成った時、自分はそれをいかなる心持を以て反省するでしょうか。

 第一、自分の真に愛しているのは、明かに彼なのです。此人ではない。此人は、ただ、倶に語る、という意味で大切な、愛すべき人であったのです。

 それ故、たとい、或る瞬間の具体的表現が、此人を愛する場合と、形に於て同様ではあっても、真実の意味で、それは、彼に求めたこと、彼から期待したことであるのです。

 人間が、時に、或る一時的なエモーションから、最も愛する者との間にのみ自ら許している種々な動作を、誤っても為し得ると云うことは、恐ろしい、嫌厭以上のことです。

 自分は、どれ程それを自らの深奥にある愛に対して愧じ、苦しむことでしょう。

 若しその朋友が、秀でた叡智と洞察とを以て人間を見得る人なら、事は未然に防がれると同時に、自己の進退を弁えていましょう。

 けれども、人間は、必ずいつも正義によって行動するものとは定っていません。

 その人が、それによって自分を愛しているのだと誤信するように成れば、自己にとって許すべからざる誤りは二重に成る訳です。

「彼」に対する愛に、自分は面も向け得ない冒涜を感じずにはいられません。

 そういう時、若し、苦悩や悔恨の鞭を感じないのなら、それまでの愛は、それ限りの強さで、人格的の影響を持っていたので、つまり、その人に運命的なものでは無かったのです。

 自分は全力を尽して、踏み誤った一歩を還すでしょう。然し、永劫に、誤った一歩は誤った一歩なのです。

 かような、重大な、而して余りに人間的な行違いは何によって起り得るかといえば、自分は、一言「未全なる愛」といわずにはいられません。

 愛の力は強いのです。愛し、拡大し、創造しようとする意欲は愛すべきものです。

 けれども、憐れな、力ばかりある強い愛は、それを充分に導く叡智の多量を蔵さないばかりに、自分の力を持てあまして自分を傷け、殺してしまうのです。

 私にとっては、自分の「まことなるもの」の感じる、我に非ず、他人に非ざる愛に到達するまで、刻苦に刻苦することが目下の大切な、恐らく一生を通じての行なのです。

 あらゆるものの本体を見得る叡智と渾一に成った愛こそ願わしいものです。

 自分は、愛の深化ということは、最も箇性的な、各自の本質的なものだと思わずにはいられません。

 従って、既成の倫理学の概念や習俗の力は、いざという時、どれ程の力を持っているのかは疑います。これ等はただ、その人の内奥にある人格的な天質がそれ自身で見出すべき道に暗示を与え、自身の判断を待つ場合、思考の内容を豊富にするという点にのみ価値を持っていると思います。

 私は、過去に多くの人々が真愛に達し、輝きの自体と成ったのを知っています。

 それ等の人が経て来た道程も明かにされています。

 けれども、窮極に於て、自分は自分の道を踏まなければなりません。

 宇宙のあらゆる善美、人類のあらゆる高貴を感じ得るのは、ただ、私自身の裡に賦与された、よさ、まこと、によってのみなされることではありますまいか。

 こころよ、心よ……。私は、恭々しく謹んで、微弱な、唯一の燈火を持運びます。

〔一九二一年四月〕

底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社

   1981(昭和56)年320日初版発行

   1986(昭和61)年320日第4刷発行

底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房

   1953(昭和28)年1月発行

初出:「女性日本人」

   1921(大正10)年4月号

入力:柴田卓治

校正:磐余彦

2003年915日作成

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