薄紅梅
泉鏡花
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一
麹町九段──中坂は、武蔵鐙、江戸砂子、惣鹿子等によれば、いや、そんな事はどうでもいい。このあたりこそ、明治時代文芸発程の名地である。かつて文壇の梁山泊と称えられた硯友社、その星座の各員が陣を構え、塞頭高らかに、我楽多文庫の旗を飜した、編輯所があって、心織筆耕の花を咲かせ、綾なす霞を靉靆かせた。
若手の作者よ、小説家よ!……天晴れ、と一つ煽いでやろうと、扇子を片手に、当時文界の老将軍──佐久良藩の碩儒で、むかし江戸のお留守居と聞けば、武辺、文道、両達の依田学海翁が、一夏土用の日盛の事……生平の揚羽蝶の漆紋に、袴着用、大刀がわりの杖を片手に、芝居の意休を一ゆがきして洒然と灰汁を抜いたような、白い髯を、爽に扱きながら、これ、はじめての見参。……
「頼む。」
があいにく玄関も何もない。扇を腰に、がたがたと格子を開けると、汚い二階家の、上も下も、がらんとして、ジイと、ただ、招魂社辺の蝉の声が遠く沁込む、明放しの三間ばかり。人影も見えないのは、演義三国誌常套手段の、城門に敵を詭く計略。そこは先生、武辺者だから、身構えしつつ、土間取附の急な階子段を屹と仰いで、大音に、
「頼もう!」
人の気勢もない。
「頼もう。」
途端に奇なる声あり。
「ダカレケダカ、ダカレケダカ。」
その音、まことに不気味にして、化猫が、抱かれたい、抱かれたい、と天井裏で鳴くように聞える。坂下の酒屋の小僧なら、そのまま腰を抜かす処を、学海先生、杖の手に気を入れて、再び大音に、
「頼む。」
「ダカレケダカ、と云ってるじゃあないか。へん、野暮め。」
「頼もう。」
「そいつも、一つ、タカノコモコ、と願いたいよ。……何しろ、米八、仇吉の声じゃないな。彼女等には梅柳というのが春だ。夏やせをする質だから、今頃は出あるかねえ。」
「頼むと申す……」
「何ものだ。」
と、いきなり段の口へ、青天の雷神が倒めったように這身で大きな頭を出したのは、虎の皮でない、木綿越中の素裸──ちょっと今時の夫人、令嬢がたのために註しよう──唄に……
……どうすりゃ添われる縁じゃやら、じれったいね……
というのがある。──恋は思案のほか──という折紙附の格言がある。よってもって、自から称した、すなわちこれ、自劣亭思案外史である。大学中途の秀才にして、のぼせを下げる三分刈の巨頭は、入道の名に謳われ、かつは、硯友社の彦左衛門、と自から任じ、人も許して、夜討朝駆に寸分の油断のない、血気盛の早具足なのが、昼寝時の不意討に、蠅叩もとりあえず、ひたと向合った下土間の白い髯を、あべこべに、炎天九十度の物干から、僧正坊が覗いたか、と驚いた、という話がある。
二
おなじ人が、金三円ばかりなり、我楽多文庫売上の暮近い集金の天保銭……世に当百ときこえた、小判形が集まったのを、引攫って、目ざす吉原、全盛の北の廓へ討入るのに、錣の数ではないけれども、十枚で八銭だから、員数およそ四百枚、袂、懐中、こいつは持てない。辻俥の蹴込へ、ドンと積んで、山塞の中坂を乗下ろし、三崎町の原を切って、水道橋から壱岐殿坂へ、ありゃありゃと、俥夫と矢声を合わせ、切通あたりになると、社中随一のハイカラで、鼻めがねを掛けている、中山高、洋服の小説家に、天保銭の翼が生えた、緡束を両手に、二筋振って、きおいで左右へ捌いた形は、空を飛んで翔けるがごとし。不忍池を左に、三枚橋、山下、入谷を一のしに、土手へ飛んだ。……当時の事の趣も、ほうけた鼓草のように、散って、残っている。
近頃の新聞の三面、連日に、偸盗、邪淫、殺傷の記事を読む方々に、こんな事は、話どころか、夢だとも思われまい。時世は移った。……
ところで、天保銭吉原の飛行より、時代はずっと新しい。──ここへ点出しようというのは、件の中坂下から、飯田町通を、三崎町の原へ大斜めに行く場所である。が、あの辺は家々の庭背戸が相応に広く、板塀、裏木戸、生垣の幾曲り、で、根岸の里の雪の卯の花、水の紫陽花の風情はないが、木瓜、山吹の覗かれる窪地の屋敷町で、そのどこからも、駿河台の濃い樹立の下に、和仏英女学校というのの壁の色が、凩の吹く日も、暖かそうに霞んで見えて、裏表、露地の処々から、三崎座の女芝居の景気幟が、茜、浅黄、青く、白く、また曇ったり、濁ったり、その日の天気、時々の空の色に、ひらひらと風次第に靡くが見えたし、場処によると──あすこがもう水道橋──三崎稲荷の朱の鳥居が、物干場の草原だの、浅蜊、蜆の貝殻の棄てたも交る、空地を通して、その名の岬に立ったように、土手の松に並んで見通された。
……と見て通ると、すぐもう広い原で、屋敷町の屋敷を離れた、家並になる。まだ、ほんの新開地で。
そこいらに、小川という写真屋の西洋館が一つ目立った。隣地の町角に、平屋建の小料理屋の、夏は氷店になりそうなのがあるのと、通りを隔てた一方の角の二階屋に、お泊宿の軒行燈が見える。
お泊宿から、水道橋の方へ軒続きの長屋の中に、小さな貸本屋の店があって……お伽堂……びら同然の粗な額が掛けてある。
お伽堂──少々気になる。なぜというに、仕入ものの、おとしの浅い箱火鉢の前に、二十六七の、色白で、ぽっとりした……生際はちっと薄いが、桃色の手柄の丸髷で、何だか、はれぼったい、瞼をほんのりと、ほかほかする小春日の日当りに表を張って、客欲しそうに坐っているから。……
羽織も、着ものも、おさすりらしいが、柔ずくめで、前垂の膝も、しんなりと軟い。……その癖半襟を、頤で圧すばかり包ましく、胸の紐の結びめの深い陰から、色めく浅黄の背負上が流れたようにこぼれている。解けば濡れますが、はい、身はかたく緊めて包んで置きます、といった風容。……これを少々気にしたが悪いだろうか……お伽堂の店番を。
三
何、別に仔細はない。客引に使った中年増でもなければ、手軽な妾が世間体を繕っているのでもない。お伽堂というのは、この女房の名の、おときをちょっと訛ったので。──勿論亭主の好みである。
つい近頃、北陸の城下町から稼ぎに出て来た。商売往来の中でも、横町へそれた貸本屋だが、亭主が、いや、役人上りだから主人といおう、県庁に勤めた頃、一切猟具を用いず、むずと羽掻をしめて、年紀は娘にしていい、甘温、脆膏、胸白のこの鴨を貪食した果報ものである、と聞く。が、いささか果報焼けの気味で内臓を損じた。勤労に堪えない。静養かたがた女で間に合う家業でつないで、そのうち一株ありつく算段で、お伽堂の額を掛けたのだそうである。
開業当初に、僥倖にも、素晴らしい利得があった。
「こちらじゃ貸すばかりで、買わないですか。」
学生が一人、のっそり立ち、洋書を五六冊引抱いて突立ったものである。
「は、おいで遊ばしまし。」
と、丁寧に、三指もどきのお辞儀をして、
「あの、もしえ。」
と初々しいほど細い声を掛けると、茶の間の悪く暗い戸棚の前で、その何かしら──内臓病者補壮の食はまだ考えない、むぐむぐ頬張っていた士族兀の胡麻塩で、ぶくりと黄色い大面のちょんびり眉が、女房の古らしい、汚れた半帕を首に巻いたのが、鼠色の兵子帯で、ヌーと出ると、捻っても旋っても、眦と一所に垂れ下る髯の尖端を、グイと揉み、
「おいでい。」
と太い声で、右の洋冊を横縦に。その鉄壺眼で……無論読めない。貫目を引きつつ、膝のめりやすを溢出させて、
「まるで、こりゃ値になりませんぞ。」
原著者は驚いたろう。
「しかし買うとして、いくらですか。」
──途方もない値をつけた。つけられた方は、呆れるより、いきなり撲るべき蹴倒し方だったが、傍に、ほんのりしている丸髷ゆえか、主人の錆びた鋲のような眼色に恐怖をなしたか、気の毒な学生は、端銭を衣兜に捻込んだ。──三日目に、仕入の約二十倍に売れたという
味をしめて、古本を買込むので、床板を張出して、貸本のほかに、その商をはじめたのはいいとして、手馴れぬ事の悲しさは、花客のほかに、掻払い抜取りの外道があるのに心づかない。毎日のように攫われる。一度の、どか利得が大穴になって、丸髷だけでは店が危い。つい台所用に女房が立ったあとへは、鋲の目が出て髯を揉むと、「高利貸が居るぜ。」とか云って、貸本の素見までが遠ざかる。当り触り、世渡は煩かしい。が近頃では、女房も見張りに馴れたし、亭主も段々古本市だの場末の同業を狙って、掘出しに精々出あるく。
──好い天気の、この日も、午飯すぎると、日向に古足袋の埃を立てて店を出たが、ひょこりと軒下へ、あと戻り。
「忘れものですか。」
「うふふ、丸髷ども、よう出来たたい。」
「いやらし。」
と顔をそらしながら、若い女房の、犠牲らしいあわれな媚で、わざと濡色の髱を見せる。
「うふふ。」と鳥打帽の頭を竦めて、少し猫背で、水道橋の方へ出向いたあとで。……
四
遅い午餉だったから、もう二時下り。亭主の出たあと、女房は膳の上で温茶を含んで、干ものの残りに皿をかぶせ、余った煮豆に蓋をして、あと片附は晩飯と一所。で、拭布を掛けたなり台所へ突出すと、押入続きに腰窓が低い、上の棚に立掛けた小さな姿見で、顔を映して、襟を、もう一息掻合わせ、ちょっと縮れて癖はあるが、髪結も世辞ばかりでない、似合った丸髷で、さて店へ出た段取だったが……
──遠くの橋を牛車でも通るように、かたんかたんと、三崎座の昼芝居の、つけを打つのが合間に聞え、囃の音がシャラシャラと路地裏の大溝へ響く。……
裏長屋のかみさんが、三河島の菜漬を目笊で買いに出るにはまだ早い。そういえば裁縫の師匠の内の小女が、たったいま一軒隣の芋屋から前垂で盆を包んで、裏へ入ったきり、日和のおもてに人通りがほとんどない。
真向うは空地だし、町中は原のなごりをそのまま、窪地のあちこちには、草生がむらむらと、尾花は見えぬが、猫じゃらしが、小糠虫を、穂でじゃれて、逃水ならぬ日脚の流が暖く淀んでいる。
例の写真館と隣合う、向う斜の小料理屋の小座敷の庭が、破れた生垣を透いて、うら枯れた朝顔の鉢が五つ六つ、中には転ったのもあって、葉がもう黒く、鶏頭ばかり根の土にまで日当りの色を染めた空を、スッスッと赤蜻蛉が飛んでいる。軒前に、不精たらしい釣荵がまだ掛って、露も玉も干乾びて、蛙の干物のようなのが、化けて歌でも詠みはしないか、赤い短冊がついていて、しばしば雨風を喰ったと見え、摺切れ加減に、小さくなったのが、フトこっち向に、舌を出した形に見える。……ふざけて、とぼけて、その癖何だか小憎らしい。
立寄る客なく、通りも途絶えた所在なさに、何心なく、じっと見た若い女房が、遠く向うから、その舌で、頬を触るように思われたので、むずむずして、顔を振ると、短冊が軽く揺れる。頤で突きやると、向うへ動き、襟を引くと、ふわふわと襟へついて来る。……
「……まあ……」
二三度やって見ると、どうも、顔の動くとおりに動く。
頬のあたりがうそ痒い……女房は擽くなったのである。
袖で頬をこすって、
「いやね。」
ツイと横を向きながら、おかしく、流盻が密と行くと、今度は、短冊の方から顎でしゃくる。顎ではない、舌である。細く長いその舌である。
いかに、短冊としては、詩歌に俳句に、繍口錦心の節を持すべきが、かくて、品性を堕落し、威容を失墜したのである。
が、じれったそうな女房は、上気した顔を向け直して、あれ性の、少し乾いた唇でなぶるうち──どうせ亭主にうしろ向きに、今も髷を賞められた時に出した舌だ──すぼめ口に吸って、濡々と呂した。
──こういう時は、南京豆ほどの魔が跳るものと見える。──
パッと消えるようであった、日の光に濃く白かった写真館の二階の硝子窓を開けて、青黒い顔の長い男が、中折帽を被ったまま、戸外へ口をあけて、ぺろりと唇を舐めたのとほとんど同時であったから、窓と、店とで思わず舌の合った形になる。
女房は真うつむけに突伏した、と思うと、ついと立って、茶の間へ遁げた。着崩れがしたと見え、褄が捻れて足くびが白く出た。
五
「ごめんなさい。」
返事を、引込めた舌の尖で丸めて、黙りのまま、若い女房が、すぐ店へ出ると……文金の高島田、銀の平打、高彫の菊簪。十九ばかりの品のあるお嬢さんが、しっとり寂しいほど、着痩せのした、縞お召に、ゆうぜんの襲着して、藍地糸錦の丸帯。鶸の嘴がちょっと触っても微な菫色の痣になりそうな白玉椿の清らかに優しい片頬を、水紅色の絹半帕でおさえたが、且は桔梗紫に雁金を銀で刺繍した半襟で、妙齢の髪の艶に月の影の冴えを見せ、うつむき加減の頤の雪。雪のすぐあとへは惜しいほど、黒塗の吾妻下駄で、軒かげに斜に立った。
実は、コトコトとその駒下駄の音を立てて店前へ近づくのに、細り捌いた褄から、山茶花の模様のちらちらと咲くのが、早く茶の間口から若い女房の目には映ったのであった。
作者が──謂いたくないことだけれど、その……年暮の稼ぎに、ここに働いている時も、昼すぎ三時頃──、ちょうど、小雨の晴れた薄靄に包まれて、向う邸の紅い山茶花が覗かれる、銀杏の葉の真黄色なのが、ひらひらと散って来る、お嬢さんの肌についた、ゆうぜんさながらの風情も可懐しい、として、文金だの、平打だの、見惚れたように呆然として、現在の三崎町…あの辺町の様子を、まるで忘れていたのでは、相済むまい。
──場所によると、震災後の、まだ焼原同然で、この貸本屋の裏の溝が流れ込んだ筈の横川などは跡も見えない。古跡のつもりで、あらかじめ一度見て歩行いた。ひょろひょろものの作者ごときは、外套を着た蟻のようで、電車と自動車が大昆虫のごとく跳梁奔馳する。瓦礫、烟塵、混濁の巷に面した、その中へ、小春の陽炎とともに、貸本屋の店頭へ、こうした娘姿を映出すのは──何とか区、何とか町、何とか様ア──と、大入の劇場から女の声の拡声器で、木戸口へ呼出すように楽には行かない。なかなかもって、アテナ洋墨や、日用品の唐墨の、筆、ペンなどでは追っつきそうに思われぬ。彫るにも刻むにも、鋤と鍬だ。
さあ、持って来い、鋤と鍬だ。
これだと、勢い汗膏の力作とかいう事にもなって、外聞が好い。第一、時節がら一般の気うけが好かろう。
鋤と鍬だ、と痩腕で、たちまち息ぜわしく、つい汗になる処から──山はもう雪だというのに、この第一回には、素裸の思案入道殿をさえ煩わした。
が、再び思うに、むやみと得物を振廻しては、馴れない事なり、耕耘の武器で、文金に怪我をさせそうで危かしい。
また飜って、お嬢さんの出のあたりは──何をいうのだ──かながきの筆で行く。
「あの……此店に……」
若い女房が顔を見ると、いま小刻みに、長襦袢の色か、下着の褄か、はらはらと散りつつ急いで入った、息づかいが胸に動いて、頬の半帕が少し揺れて、
「辻町、糸七の──『たそがれ』──というのがおありになって。」
と云った。
「おいで遊ばせ。」
と若い女房、おくれ馳せの挨拶をゆっくりして、
「ございますの。……ですけれど、絡りました一冊本ではありません……あの、雑誌の中に交って出ていますのでして。」
「ええ、そうですよ。」
と水紅色の半帕がまたゆれる。
六
「ちょいちょい、お借り下さる方がございまして、よく出ますから。……唯今見ますけれど。」
女房は片膝立ちに腰を浮かしながら能書をいう。
「……私も読みたい読みたいと存じながら、商売もので、つい慾張りまして、ほほほ、お貸し申します方が先へ立ちますけれど。……何ですか、お女郎の心中ものだとか申しますのね。」
「そうですって。……『たそがれ』……というのが、その娼妓──遊女の名だって事です。」
と、凜とした眦の目もきっぱりと言った。簪の白菊も冷いばかり、清く澄んだ頬が白い。心中にも女郎にも驚いた容子が見えぬ。もっともこのくらいな事を気にしては、清元も、長唄も、文句だって読めなかろうし、早い話が芝居の軒も潜れまい。が、うっかり小説の筋を洩らして、面と向ったから、女房が却って瞼を染めた。
棚から一冊抜取ると、坐り直して、売りものに花だろう、前垂に据えて、その縮緬の縞でない、厚紙の表紙を撫でた。
「どうぞ、お掛けなさいまして、まあ、どうぞ。」
はなからその気であったらしい、お嬢さんは框へ掛けるのを猶予わなかった。帯の錦は堆い、が、膝もすんなりと、着流しの肩が細い。
「ちょうどいい処で、あの、ゆうべお客様から返ったばかりでございますの。それも書生さんや、職人衆からではございませんの。」
娘客の白い指の、指環を捜すように目で追って、
「中坂下からいらっしゃいます、紫鹿子のふっさりした、結綿のお娘ご、召した黄八丈なぞ、それがようお似合いなさいます。それで、お袴で、すぐお茶の水の学生さんなんでございますって。」
「その方。……」
女房の膝の方へは手も出さず、お嬢さんは、しとやかに、
「その作者が、贔屓?」
と莞爾した。
辻町糸七、よく聞けよ。
「は?……」
貸本屋の客には今までほとんど例のない、ものの言葉に、一度聞返して、合点んで、
「別にそうと限ったわけではございません。何でもよくお読みになりますの。でも、その、ゆうべおいでなさいました時、「たそがれ。──いいのね。」とおっしゃいます。……晩方でございましょう。変に暗くて気味が悪し、心細し、といいますうちにも、立込みまして、忙しくって不可ませんと申しましたら、お笑いなさいましたんでございます。長屋世帯はすぐそれですから、ほほほ。小説の題の事だったのでございますもの。大好きな女の名でいらっしゃるんですって。……田舎源氏、とかにもありますそうです。その時、京の五条とか三条あたりとかの暮方の、草の垣根に、雪白な花の、あわれに咲いたお話をききましたら、そのいやな入相が、ほんのりと、夕顔ほどに明るく、白くなりましてございましてね。」
女房は、ふと気がさしたか、町通りの向う角へ顔を向けた、短冊の舌は知らん顔で、鶏頭が笑っている。写真館の硝子窓は静に白い日を吸って。……
「……古寺の事もうかがいました。清元にございますってね。……ところどころ、あの、ほんとうに身に沁みますようですから、そのお娘ごにおねだりして、少しばかり、巻紙の端へ。──あ、そうそう、この本の中へ挟んで、──まあ、いい事をいたしました。大事に蔵って置こうと存じながら、つい、うっかりして、まあ、勿体ないこと。」
と、軽く前髪へあてたのである。念のため『たそがれ』の作者に言おう。これは糸七を頂いたのでは決してない。……
七
「拝見な。」
「は、どうぞ。」
雑誌に被せた表紙の上へ、巻紙を添えて出す、かな交りの優しい書で、
──折しも月は、むら雲に、影うす暗きをさいわいと、傍に忍びてやりすごし、尚も人なき野中の細道、薄茅原、押分け押分け、ここは何処と白妙の、衣打つらん砧の声、幽にきこえて、雁音も、遠く雲井に鳴交わし、風すこし打吹きたるに、月皎々と照りながら、むら雨さっと降りいづれば──
水茎の墨の色が、はらはらとお嬢さんの睫毛を走った。一露瞼にうけたように、またたきして、
「すぐこのあとへ、しののめの鬼が出るんですのね、可恐いんですこと……。」
目白からは聞えまい。三崎座だろう、釣鐘がボーンと鳴る。
柳亭種彦のその文章を、そっと包むように巻戻しながら、指を添え、表紙を開くと、薄、茅原、花野を照らす月ながら、さっと、むら雨に濡色の、二人が水の滴りそうな、光氏と、黄昏と、玉なす桔梗、黒髪の女郎花の、簾で抱合う、道行姿の極彩色。
「永洗ですね、この口絵の綺麗だこと。」
「ええ、絵も評判でございます。……中坂の、そのお娘ごもおっしゃいました。その小説の『たそがれ』は、現代のおいらんなんだそうですけれど、作者だか、絵師さんだかの工夫ですか、意匠で、むかし風に誂えたんでしょう、とおっしゃって、それに、雑誌にはいろいろの作が出ておりますけれど、一番はなへのっておりますから、そうやって一冊本の口絵のように……だそうなんでございますッて。」
「結綿の、御容子のいい。」
口絵から目を放さず、
「その方、いろいろな事を、ようごぞんじ……羨しいこと。表紙を別につけて、こうなされば、単行──一冊ものもおんなじようで、作者だって、どんなにか嬉しいでしょうよ。」
その方、という、この方、もいろいろな事を、ようご存じ。……で、その結綿のかな文字を、女房の手に返すと、これがために貸本屋へ立寄ったろう、借りて行く心づもりに、口絵を伏せて、表紙をきちんと、じっと見た。
「あら。」
と瞳をうつくしく、
「ちょいと、辻町糸七作、『たそがれ』──お書きになったのは、これは、どちらの、あのこちらの御主人。」
「飛んだ、とんだ、いいえ、飛んでもない。」
と何を狼狽えたか、女房はまた顔を赤くした。同時に、要するに、黄色く、むくんだ、亭主の鼻に、額が打着かったに相違ない。とにかく、中味が心中で、口絵の光氏とたそがれが目前にある、ここへ亭主に出られては、しょげるより、悲むより、周章て狼狽えずにいられまい。
「飛んでもない、あなた。」
と、息も忙しく、肩を揉んで、
「宅などが、あなた、大それた。」
そうだろう、題字は颯爽として、輝かしい。行と、かなと、珊瑚灑ぎ、碧樹梳って、触るものも自から気を附けよう。厚紙の白さにまだ汚点のない、筆の姿は、雪に珠琳の装であった。
「あの、どうも、勿体なくて、つけつけ申しますのも、いかがですけれど、小石川台町にお住居のございます、上杉様、とおっしゃいます。」
「ええ、映山先生。」
お嬢さんの珊瑚を鏤めた蒔絵の櫛がうつむいた。
八
「どういたしまして。お嬢様、お心易さを頂くなぞとは、失礼で、おもいもよりませんのでございますけれど。」
この紙表紙の筆について、お嬢さんが、貸本屋として、先生と知己のいわれを聞いたことはいうまでもなかろう。
「実は、あの、上杉先生の、多勢のお弟子さん方の。……あなたは、小説がおすきでいらっしゃいますのを、お見受け申しましたから……ご存じかも知れませんけれど、そのお一人の、糸七さんでございますが。」
「ええ。」
「実は──私ども、うまれが同じ国でございましてね、御懇意を願っておりますものですから。」
「ちっとも私……まあ、そうですか。」
「その御縁で、ついこの間、糸七さんと、もう一人おつれになって、神保町辺へ用達においでなさいましたお帰りがけ、ご散歩かたがた、「どうだい、新店は立行くかい。」と最初から掛構いなくおっしゃって。──こちらは、それと聞きますと、お大名か、お殿様が御微行で、こんな破屋へ、と吃驚しましたのに、「何にも入らない。南画の巌のようなカステーラや、べんべらものの羊羹なんか切んなさるなよ。」とお笑いなすって、ちょうど宅が。」
また眉を顰めたが、
「小工面に貸本へ表紙をかぶせておりましたのをごらんなさいまして、──「辻町のやつ、まだ単行が出来ないんだ。一冊纏ったもののように、楽屋中で祝ってやろう。筆を下さい。」──この硯箱を。」
「ちょいと、一度これを。」
と、お嬢さんは、硯箱を押させて、仲よしの押絵の羽子板のように胸へ当てていた『たそがれ』を、きちんと据えた。
「……「ひどい墨だな、あやしい茶人だと、これを鳥の子に包むんだ。」とおっしゃりながら、すらすらおしたためになったんでございますが、あの、筆をおとり遊ばしながら、「婦は遊女だ、というじゃないか。……(おん箸入。)とかくようだ。中味は象牙じゃあるまい。馬の骨だろう。」……何ですか、さも、おかしそうに。──そうしますと、糸七さんは、その傍で、小さくなって。……」
お嬢さんの唇の綻びた微笑に、つい笑って、
「何の事ですか、私などには解りませんの、お嬢様は。」
「存じません。」
「あれ御承知らしくていらしって……お意地の悪い、ほほほ。」
「いいえ、知りません。中坂とかの、その結綿の方ならお解りでしょうね。……それよりか、『たそがれ』の作者の糸七──まあ、私、さっきから、……此店とお知合とはちっとも知らないもんだから、……悪かったわねえ。糸七さん、ともいいませんでした。」
「いいえ、あなた、お客様は、誰方だって、作者の名を、さん附にはなさいません。格別、お好きな、中坂のその方だって、糸七、と呼びすてでございますの。ええ、そうでございますとも。この辺でごらんなさいまし。三崎座の女役者を、御贔負は、皆呼びずてでございます。」
言い得て女房、妙である。(おん箸入)の内容が馬の骨なら、言い得て特に妙である。が、当時梨園に擢出た、名優久女八は別として、三崎座なみは情ない。場面を築地辺にとればまだしもであったと思う。けれども、三崎町が事実なのである。
「ほほほ、お呼びずての方が却ってお心易くって、──ああ、お茶を一つ。」
「おかみさん、ちょいと、あの、それより冷水を。」
「冷水?」
「あの、ざぶざぶ、冷水で、この半帕を絞って下さいませんか。御無心ですが。私ね、実は、その町の曲角で、飛んだ気味の悪い事がありましてね。」
九
「そこの旅宿の角まで、飯田町の方から来ますとね、妾、俥だったんですけれど、幌が掛っていましたのに、何ですか、なまぬるい、ぬめりと粘った、濡れたものが、こっちの、この耳の下から頬へ触ったんです。」
水紅色の半帕が、今度は花弁のしぼむ状に白い指のさきで揺れた。
「あれ、と思って、手を当てても何にもないんです。」
「あの、此店へおいでなさいました、今しがた……」
女房は頬をすぼめ、眉を寄せて、
「……まあ。」
「慌てて俥をとめましてね、上も下も見ましたけれど、別に何にもないんです。でも、可厭らしく、変に臭うようで、気味が悪くって、気味が悪くって。無理にも、何でもお願いしてと思っても、旅宿でしょう、料理屋ですもの、両方とも。……お店の看板が「かし本」と見えました時は、ほんとうに、地獄で……血の池で……蓮の花を見たようでしたわ。いきなり冷水を、とも言いかねましたけれど、そのうちに、永洗の、名もいいんですのね、『たそがれ』の島田に、むら雨のかかる処だの、上杉先生の、結構なお墨の色を見ましたら、実は、いくらかすっきりして来ましたんです。」
珊瑚碧樹の水茎は、清く、その汚濁を洗ったのである。
「いつまでも、さっきのままですと、私はほんとうに、おいらんの心中ではないんですけど、死んでしまいたいほどでしたよ。」
大袈裟なのを笑いもしない女房は、その路連、半町此方ぐらいには同感であったらしい
「ええええお易い事。まあ、ごじょうだんをおっしゃって、そんなお人がらな半帕を。……唯今、お手拭。」
茶の室へ入るうしろから、
「綿屑で結構よ。」
手拭をさえ惜しんだのは、余程身に沁みた不気味さに違いない。
女房は行きがけに、安手な京焼の赤湯呑を引攫うと、ごぼごぼと、仰向くまで更めて嗽をしたが、俥で来たのなどは見た事もない、大事なお花客である。たしない買水を惜気なく使った。──そうして半帕を畳みながら、行儀よく膝に両の手を重ねて待ったお嬢さんに、顔へ当てるように、膝を伸しざまに差出した。
「ほんとうに、あなた、蟆子のたかりましたほどのあともございませんから、御安心遊ばせ。絞りかえて差上げましょう。──さようでございますか、フとしたお心持に、何か触ったのでございましょう。御気分は……」
「はい、お庇で。」
「それにつけて、と申すのでもございませんけれど、そういえば、つい四五日前にも、同じ処で、おかしなことがあったんでございますの。ええ、本郷の大学へお通いなさいます学生さんで、時々おいで下さいます。その方ですが、あなた、今日のような好いお日和ではありません、何ですか、しぐれて、曇って、寂しい暮方でございましたの。
やあ、と云って、その学生さんが、あの辻の方から。──油を惜しむなよ、店が暗いじゃないか。今つける処なのよ、とお心易立てに、そんな口を利きましてね、釣洋燈の傍に立っていますと、その時はお寄りなさらないで、さっさと水道橋の方へ通越していらっしゃいました。
三崎座が刎ねまして、両方へばらばら人通りがありました。それが途絶えましたちょうどあとで、お一人で、さっさと幟のかげへ見えなくおなんなすったんですが、燈がつきました、まだ蕊の加減もしません処へ、変だ、変だ、取殺される、幽霊だ、ばけものだ、と帽子なんか、仰向けに、あなた……」
十
「……燈をあかるくしてくれ、変だ。あ、痛い痛いと、左の手を握って、何ですか──印を結んだとかいいますように、中指を一本押立てていらっしゃるんです。……はじめは蜘蛛の巣かと思ったよ、とそうおいいなさるものですから、狂犬でなくて、お仕合せ、蜘蛛ぐらい、幽霊も化ものも、まあ、大袈裟なことを、とおかしいようでございましたが、燈でよく、私も一所に、その中指を、じっと見ますと、女の髪の毛が巻きついているんでございましてね。」
「髪の毛ですえ、女の。」
お嬢さんは細い指を、白く揃えて、箱火鉢に寄せた。例の枯荵の怪しい短冊の舌は、この時朦朧として、滑稽が理に落ちて、寂しくなったし、鶏頭の赤さもやや陰翳ったが、日はまだ冷くも寒くもない。娘の客は女房と親しさを増したのである。
「ええ、そうなんでございます。二人して、よく見ましたの、この火鉢の処で。」
お嬢さんは手を引込めた。枯野の霧の緋葉ほど、三崎街道の人の目をひいたろう。色ある半帕も、安んじて袖の振へ納った。が、うっかりした。その頬を拭った濡手拭は、火鉢の縁に掛っている。
女房はさまでは汚がらないで、そのままで、
「──学生さんの制服で駈戻って来なさいましたのは水道橋の方からでございましょう。お稲荷様の鳥居が一つ、跨を上げて飛んで来たように見えたのですけれど、変な事は──そこの旅宿と向うの料理屋の中ほどの辻の処からだったんだそうでございましてね──灰色の雲の空から、すーっと、細いものが舞下って来て、顔から肩の処へ掛ったように思われたんでございますって。最初、蜘蛛の巣だろう……誰だってそう思いますわ。
身体をもがいて払うほどの事じゃなし──声を掛けて、内の前をお通りなさいました時は、もうお忘れなすったほどだったそうなんですが、芝居の前あたりで、それが咽喉へ触りました、むずむずと、ぐうと扱くように。」
「いやですねえ。」
「いやでございますことね。──久女八が土蜘蛛をやっている、能がかりで評判なあの糸が、破風か、棟から抜出したんだろう。そんな事を、串戯でなくお思いなすったそうです。
芝居好な方で、酔っぱらった遊びがえりの真夜中に、あなた、やっぱり芝居ずきの俥夫と話がはずむと、壱岐殿坂の真中あたりで、俥夫は吹消した提灯を、鼠に踏まえて、真鍮の煙管を鉄扇で、ギックリやりますし、その方は蝦蟇口を口に、忍術の一巻ですって、蹴込へ踞んで、頭までかくした赤毛布を段々に、仁木弾正で糶上った処を、交番の巡査さんに怒鳴られたって人なんでございますもの。
芝居のちっと先方へいらっしゃると、咽喉を、そのしめ加減が違って来て、呼吸にさわるほどですから、払ってもとれないのを、無理にむしり離して、からだを二つ三つ廻りながら、掻きはなすと、空へ消えたようだったそうでございますのに、また、キーと、まるで音でもしますように戻って来て、今度は、その中指へくるくると巻きついたんですが、巻きつくと一所に、きりきりきりきり引きしめて、きりきり、きりきり、その痛さといっては。……
縫針のさきでさえ、身のうち響きますわ。ただ事でない。解くにも、引切るにも、目に見えるか、見えないほどだし、そこらは暗し、何よりか知った家の洋燈の灯を──それでもって、ええ。……
さあ、女の髪と分りました、漆のような、黒い、すなおな、柔かな、細々した、その長うございましたこと。……お嬢様。」
「いいえ、私のは。」
ついした様で、鬢へ触った。一うち、という眉が凜として、顔の色が一層白澄んだ。が、怪しい黒髪に見くらべたらしい女房の素振を憎んだのでなく、妙な話が身に沁みたものらしい。
女房の言を切って、「いいえ」と云ったのは、またそんな意味ではなかったのである。
「あれ、変な人が、変な人が……」
変な人が、女房の正面へ、写真館の前へ出たのであった。
十一
「こむ僧でしょうか、あれ、役者が舞台の扮装のままで写真を撮って来たのでしょうか。」
と伸上るので、お嬢さんも連れられて目を遣った。
この場末の、冬日の中へ、きらびやかとも言ッつべく顕われたから、怪しいまで人の目を驚かした。が、話の続きでも、学生を悩ました一筋の黒髪とはいささかも関係はない。勿論揃って男で、変な人で、三人である。
並んだ、その真中のが一番脊が高い。だから偉大なる掌の、親指と、小指を隠して、三本に箔を塗り、彩色したように見えるのが、横通りへは抜けないで、ずんずん空地の前を、このお伽堂へ押して来た。
下駄と下駄の音も聞える。近づいたから、よく解る。三人とも揃いの黒羽二重の羽織で、五つ紋の、その、紋の一つ一つ、円か、環の中へ、小鳥を一羽ずつ色絵に染めた誂えで、着衣も同じ紋である。が、地は上下とも黒紬で、質素と堅実を兼ねた好みに見えた。
しかし、袴は、精巧平か、博多か、りゅうとして、皆見事で、就中その脊の高い、顔の長い、色は青黒いようだけれども、目鼻立の、上品向きにのっぺりと、且つしおらしいほど口の小形なのが、あまつさえ、長い指で、ちょっとその口元を圧えているのは、特に緞子の袴を着した。
盛装した客である。まだお膳も並ばぬうち、譬喩にもしろ憚るべきだが、密と謂おう。──繻子の袴の襞襀とるよりも──とさえいうのである。いわんや……で、綾の見事さはなお目立つが、さながら紋緞子の野袴である。とはいえ、人品にはよく似合った。
この人が、塩瀬の服紗に包んだ一管の横笛を袴腰に帯びていた。貸本屋の女房がのっけに、薦僧と間違えたのはこれらしい。……ばかりではない。
一人、骨組の厳丈した、赤ら顔で、疎髯のあるのは、張肱に竹の如意を提げ、一人、目の窪んだ、鼻の低い頤の尖ったのが、紐に通して、牙彫の白髑髏を胸から斜に取って、腰に附けた。
その上、まだある。申合わせて三人とも、青と白と綯交ぜの糸の、あたかも片襷のごときものを、紋附の胸へ顕著に帯した。
いずれも若い、三十許少に前後。気を負い、色熾に、心を放つ、血気のその燃ゆるや、男くささは格別であろう。
お嬢さんは、上気した。
処へ、竹如意と、白髑髏である。
お嬢さんはまた少し寒気がした。
横笛だけは、お嬢さんを三人で包んで立った時、焦茶の中折帽を真俯向けに、爪皮の掛った朴歯の日和下駄を、かたかたと鳴らしざまに、その紋緞子の袴の長い裾を白足袋で緩く刎ねて、真中の位置をずれて、ツイと軒下を横に離れたが。
弱い咳をすると、口元を蔽うた指が離れしなに、舌を赤く、唇をぺろりと舐めた。
貸本屋の女房は、耳朶まで真赤になった。
写真館の二階窓で、荵の短冊とともに飜った舌はこれである。
が、接吻と誤ったのは、心得違いであろう。腰の横笛を見るがいい。たしなみの楽の故に歌口をしめすのが、つい癖になって出たのである。且つその不断の特異な好みは、歯を染めているので分る。女は気味が悪かろうが、そんなことは一向構わん、艶々として、と見た目に、舌まで黒い。
十二
「何とかいったな、あの言種は。──宴会前で腹のすいた野原では、見るからに唾を飲まざるを得ない。薄皮で、肉充満という白いのが、妾だろう、妾に違いない。あの、とろりと色気のある工合がよ。お伽堂、お伽堂か、お伽堂。」
竹如意が却って一竹箆食いそうなことを言う。そのかわり、悟った道人のようなあッはッはッはッ。
「その、言種がよ、「ちとお慰みに何ぞごらん遊ばせ。」は悩ませるじゃないか。借問す貸本屋に、あんな口上、というのがあるかい。」
「柄にあり、人により、類に応じて違うんだ。貸本屋だからと言って、股引の尻端折で、読本の包みを背負って、とことこと道を真直ぐに歩行いて来て、曲尺形に門戸を入って、「あ、本屋でござい。」とばかりは限るまい。あいつ妾か。あの妾が、われわれの並んで店へ立ったのに対して、「あ、本屋とござい。」と言って見ろ、「知ってるよ。」といって喧嘩になりか、嘘にもしろ。」とその髑髏を指で弾く。
「いや、その喧嘩がしたかった。実は、取組合いたいくらいなものだった。「ちと、お慰みにごらん遊ばせ。」……おまけに、ぽッと紅くなった、怪しからん。」
「当る、当る、当るというに。如意をそう振廻わしちゃ不可んよ。」
豆府屋の親仁が、売声をやめて、このきらびやかな一行に見惚れた体で、背後に廻ったり、横に出たり、ついて離れて歩行くのが、この時一度後へ退った。またこの親仁も妙である。青、黄に、朱さえ交った、麦藁細工の朝鮮帽子、唐人笠か、尾の尖った高さ三尺ばかり、鯰の尾に似て非なるものを頂いて。その癖、素銅の矢立、古草鞋というのである。おしい事に、探偵ものだと、これが全篇を動かすほど働くであろう。が、今のチンドン屋の極めて幼稚なものに過ぎない。……しばらくあって、一つ「とうふイ、生揚、雁もどき」……売声をあげて、すぐに引込む筈である。
従って一行三人には、目に留めさせるまでもなければ、念頭に置かせる要もない。
「あれが仮に翠帳における言語にして見ろ。われわれが、もとの人間の形を備えて、ここを歩行いていられるわけのものじゃないよ。斬るか、斬られるか、真剣抜打の応酬なくんばあるべからざる処を、面壁九年、無言の行だ。──どうだい、御前、この殿様。」
「お止しよ、その御前、殿様は。」
と、横笛の紋緞子が、軽くその口を圧えて、真中に居て二人を制した。
「あれだからな、仕方をしたり、目くばせしたり、ひたすら、自重謹厳を強要するものだから、止むことを得ず、口を箝した。」
「無理はないよ、殿様は貸本屋を素見したんじゃない。──見合の気だ。」
とまた髑髏を弾く。
「串戯じゃありません。ほほほ。」
「ああ、心臓の波打つ呼吸だぜ、何しろ、今や、シャッターを切らむとする三人の姿勢を崩して、窓口へ飛出したんだ。写真屋も驚いたが、われわれも唖然とした。何しろ、奢るべし、今夜の会には非常なる寄附をしろ。俥がそれなり駆抜けないで、今まで、あの店に居たのは奇縁だ。」
「しかし、我輩は与しない。」
「何を。」
「寂しい、のみならず澄まし切ってる、冷然としたものだ。」
「お上品さ、そこが殿様の目のつけ処よ。」
十三
「……何しろ、不思議な光景だった。かくして三人が、ほとんど無言だ。……」
「ほとんど処か全然無言で。……店頭をすとすと離れ際に、「帰途に寄るよ。」はいささか珍だ。白い妾に対してだけに、河岸の張見世を素見の台辞だ。」
「人が聞きますよ、ほほほ、見っともない。」
と、横笛が咳する。この時、豆府屋の唐人笠が間近くその鼻を撞かんとしたからである。
「ところで、立向って赴く会場が河岸の富士見楼で、それ、よくこの頃新聞にかくではないか、紅裙さ。給仕の紅裙が飯田町だろう。炭屋、薪屋、石炭揚場の間から蹴出しを飜して顕われたんでは、黒雲の中にひらめく風情さ。羅生門に髣髴だよ。……その竹如意はどうだい。」
「如意がどうした。」
と竹如意を持直す。
「綱が切った鬼の片腕……待てよ、鬼にしては、可厭に蒼白い。──そいつは何だ、講釈師がよく饒舌る、天保水滸伝中、笹川方の鬼剣士、平手造酒猛虎が、小塚原で切取って、袖口に隠して、千住の小格子を素見した、内から握って引張ると、すぽんと抜ける、女郎を気絶さした腕に見える。」
「腰の髑髏が言わせますかね。いうことが殺風景に過ぎますよ。」
「殿様、かつぎたまうかな。わはは。」
と揺笑いをすると、腰の髑髏の歯も笑う。
「冷く澄んでお上品な処に、ぞっこんというんだから、切った、切ったが気になるんだ。」
「いや、縁はすぐつながるよ。会のかえりに酔払って、今夜、立処に飛込むんだ。おでん、鍋焼、驕る、といって、一升買わせて、あの白い妾。」
「肝腎の文金が、何、それまで居るものか。」
「僕はむしろ妾に与する。」
三崎座の幟がのどかに揺れて、茶屋の軒のつくり桜が野中に返咲きの霞を視せた。おもては静かだが、場は大入らしい、三人は、いろいろの幟の影を、袴で波形に乗って行く。
「また何か言われそうな気がしますがね、それはそれとしてだね、娘が借りるらしかった──あの小説を見ましたかね。」
「見た、なお且つ早くから知っている。──中味は読まんが、口絵は永洗だ、艶なものだよ。」
「そうだ、いや、それだ。」
竹如意が歩行きざまの膝を打って、
「あの文金だがね、何だか見たようでいて、さっきから思出せなかったが、髑髏が言うので思出した。春頃出たんだ、『閨秀小説』というのがある、知ってるかい。」
「見ないが、聞いたよ。」
「樋口一葉、若松賤子──小金井きみ子は、宝玉入の面紗でね、洋装で素敵な写真よ、その写真が並んだ中に、たしか、あの顔、あの姿が半身で出ていたんだ。」
「私もそうらしいと思うですがね、ほほほ。」
「おかしいじゃないか、それにしちゃ、小説家が、小説を、小説の貸本屋で。」
「ほほほ、私たちだって、画師の永洗の絵を、絵で見るじゃありませんか。」
「あそうか、清麗楚々とした、あの娘が、引抜くと鬼女になる。」
「戻橋だな、扇折の早百合とくるか、凄いぞ、さては曲者だ。」
と、気競って振返ると、髑髏が西日に燃えた、柘榴の皮のようである。連れて見返った、竹如意が茶色に光って、横笛が半ば開いた口の歯が、また黒い。
三人の影が大きく向うの空地へ映ったが、位置を軽く転ずれば、たちまち、文金に蔽いかかりそうである。烏がカアと鳴いた。
こうなると、皆化ける。安旅宿の辻の角から、黒鴨仕立の車夫がちょろりと鯰のような天窓を出すと、流るるごとく俥が寄った。お嬢さんの白い手が玉のようにのびて、軒はずれに衝と招いたのである。と、緋羽の蹴込敷へ褄はずれ美しく、ゆうぜんの模様にない、雪なす山茶花がちらりと上へかくれた。
十四
しかり、文金のお嬢さんは、当時中洲辺に住居した、月村京子、雅名を一雪といって、実は小石川台町なる、上杉先生の門下の才媛なのである。
ちょっとした緊張にも小さき神は宿る。ここに三人の凝視の中に、立って俥を呼んだ手の、玉を伸べたのは、宿れる文筆の気の、おのずから、美しい影を顕わしたものであろう。
あたかも、髑髏と、竹如意と、横笛とが、あるいは燃え、あるいは光り、あるいは照らして、各々自家識見の象徴を示せるごとくに、
そういえば──影は尖って一番長い、豆府屋の唐人笠も、この時その本領を発揮した。
余り随いて歩行いたのが疾しかったか、道中へ荷を下ろして、首をそらし、口を張って、
──「とうふイ、生揚、雁もどき。」──
唐突に、三人のすぐ傍で……馬鹿な奴である。
またこの三人を誰だ、と思う?……しかしこれは作者の言よりも、世上の大なる響に聞くのが可かろう。──次いで、四日と経たないうちに、小川写真館の貸本屋と向合った店頭に、三人の影像が掲焉として、金縁の額になって顕われたのであるから。
──青雲社、三大画伯、御写真──
よって釈然とした。紋の丸は、色も青麦である。小鳥は、雲雀である。
幅広と胸に掛けた青白の糸は、すなわち、青天と白雲を心に帯した、意気衝天の表現なのである。当時、美術、絵画の天地に、気昂り、意熱して、麦のごとく燃え、雲雀のごとく翔った、青雲社の同人は他にまた幾人か、すべておなじ装をしたのであった。
ただしこれは如実の描写に過ぎない。ここに三画伯の扮装を記したのを視て、衒奇、表異、いささかたりとも軽佻、諷刺の意を寓したりとせらるる読者は、あの、紫の顱巻で、一つ印籠何とかの助六の気障さ加減は論外として、芝居の入山形段々のお揃をも批判すべき無法な権利を、保有せらるべきものであらねばならない。
ついでにいう。ちょうどこの時代──この篇、連載の新聞の挿絵受持で一座の清方さんは、下町育ちの意気なお母さんの袖の裡に、博多の帯の端然とした、襟の綺麗な、眉の明るい、秘蔵子の健ちゃんであったと思う。
さて続いて、健ちゃんに、上野あたりの雪景色をお頼み申そう。
清水の石磴は、三階五階、白瀬の走る、声のない滝となって、落ちたぎり流るる道に、巌角ほどの人影もなし。
不忍へ渡す橋は、玉の欄干を築いて、全山の樹立は真白である。
これは──翌年の二月、末の七日の朝の大雪であった。──
昨夜、宵のしとしと雨が、初夜過ぎに一度どっと大降りになって、それが留むと、陽気もぽっと、近頃での春らしかったが、夜半に寂然と何の音もなくなると、うっすりと月が朧に映すように、大路、小路、露地や、背戸や、竹垣、生垣、妻戸、折戸に、密と、人目を忍んで寄添う風情に、都振なる雪女郎の姿が、寒くば絹綿を、と柳に囁き、冷い梅の莟はもとより、行倒れた片輪車、掃溜の破筵までも、肌すく白い袖で抱いたのである。が、由来宿業として情と仇と手のうらかえす雪女郎は、東雲の頃の極寒に、その気色たちまち変って、拳を上げて、戸を煽り、廂を鼓き、褄を飛ばして棟を蹴た。白面皓身の夜叉となって、大空を駆けめぐり、地を埋め、水を消そうとする。……
今さかんに降っている。
十五
……盛に降っている。
たてに、斜に、上に、下に、散り、飛び、煽ち、舞い、漂い、乱るる、雪の中に不忍の池なる天女の楼台は、絳碧の幻を、梁の虹に鏤め、桜柳の面影は、靉靆たる瓔珞を白妙の中空に吹靡く。
厳しき門の礎は、霊ある大魚の、左右に浪を立てて白く、御堂を護るのを、詣るものの、浮足に行潜ると、玉敷く床の奥深く、千条の雪の簾のあなたに、丹塗の唐戸は、諸扉両方に細めに展け、錦の帳、翠藍の裡に、銀の皿の燈明は、天地の一白に凝って、紫の油、朱燈心、火尖は金色の光を放って、三つ二つひらひらと動く時、大池の波は、さながら白蓮華を競って咲いた。
──白雪の階の下に、ただ一人、褄を折り緊め、跪いて、天女を伏拝む女がある。
すぐ傍に、空しき蘆簀張の掛茶屋が、埋れた谷の下伏せの孤屋に似て、御手洗がそれに続き、並んで二体の地蔵尊の、来迎の石におわするが、はて、この娘はの、と雪に顔を見合わせたまう。
見れば島田髷の娘の、紫地の雨合羽に、黒天鵝絨の襟を深く、拝んで俯向いた頸の皓さ。
吹乱す風である。渋蛇目傘を開いたままで、袖摺れに引着けた、またその袖にも、霏々と降りかかって、見る見る鬢のおくれ毛に、白い羽子が、ちらりと来て、とまって消えては、ちらりと来て、消えては、飛ぶ。
前髪にも、眉毛にも。
その眉の上なる、朱の両方の円柱に、
……妙吉祥……
……如蓮華……
一聯の文字が、雪の降りつもる中に、瑠璃と、真珠を刻んで、清らかに輝いた。
再び見よ、烈しくなった池の波は、ざわざわとまた亀甲を聳てる。
といううちに、ふと風が静まると、広小路あたりの物音が渡って来て、颯と浮世に返ると、枯蓮の残ンの葉、折れた茎の、且つ浮き且つ沈むのが、幾千羽の白鷺のあるいは彳み、あるいは眠り、あるいは羽搏つ風情があった。
青い頭、墨染の僧の少い姿が、御堂内に、白足袋でふわりと浮くと、蝋燭が灯を点じた。二つ三つまた五つ、灯さきは白く立って、却って檐前を舞う雪の二片三片が、薄紅の蝶に飜って、ほんのりと、娘の瞼を暖めるように見える。
「お蝋をあげましてござります。」
「は。」
僧は中腰に会釈して、
「早朝より、ようお詣り……」
「はい。」
「寒じが強うござります、ちとおあがりになって、御休息遊ばせ。」
この僧が碧牡丹の扉の蔭へかくれた時、朝詣の娘は、我がために燈明の新しい光を見守った。
われら、作者なかまの申合わせで、ここは……を入れる処であるが、これが、紅で印刷が出来ると面白い。もの言わず念願する、娘の唇の微に動くように見えるから。黒ゝゝでは、睫毛の顫える形にも見えない。見えても、ゝと短いようで悪いから、紙費だけれど、「 」白にする。
十六
時に、伏拝むのに合せた袖口の、雪に未開紅の風情だったのを、ひらりと一咲き咲かせて立って、ちょっとおくれ毛を直した顔を見ると、これは月村一雪、──中洲のお京であった。
実は────
「……小説が上手に書けますように……」
どうも可訝しい、絵が上手になりますように、踊が、浄瑠璃が、裁縫が、だとよく解えるけれども、小説は、他に何とか祈念のしようがありそうに思われる。作者だってそう思う。人生の機微に針の尖で触れますように、真理を鋭刀で裂きますように、もう一息、世界の文豪を圧倒しますように……でないと、承知の出来ない方々が多いと思う。が、一雪のお京さんは確に前条のごとくに祈念したのである。精確な処は、傍に真白に立たせたまえる地蔵尊に、今からでも聞かるるが可い。
なお、かし本屋の店頭でもそうだし、ここでの紫の雨合羽に、塗の足駄など、どうも尋常な娘で、小説家らしい処がない。断髪で、靴で、頬辺が赤くないと、どうも……らしくない。が、硯友社より、もっと前、上杉先生などよりなお先に、一輪、大きく咲いたという花形の曙女史と聞えたは、浅草の牛肉屋の娘で──御新客、鍋で御酒──帳場ばかりか、立込むと出番をする。緋鹿子の襷掛けで、二の腕まで露呈に白い、いささかも黒人らしくなかったと聞いている。
また……ああ惜しいかな、前記の閨秀小説が出て世評一代を風靡した、その年の末。秋あわれに、残ンの葉の、胸の病の紅い小枝に縋ったのが、凧に儚く散った、一葉女史は、いつも小机に衣紋正しく筆を取り、端然として文章を綴ったように、誰も知りまた想うのである。が、どういたして……
──やがてこのあとへ顔を出す──辻町糸七が、その想う盾の裏を見せられて面食った。糸七は、一雑誌の編輯にゆかりがあって、その用で、本郷丸山町、その路次が、(あしき隣もよしや世の中)と昂然として女史が住んだ、あしき隣の岡場所で。……
──おい、木村さん、信さん寄っておいでよ、お寄りといったら寄っても宜いではないか、また素通りで二葉屋へ行く気だろう──
にはじまって、──ある雨の日のつれづれに表を通る山高帽子の三十男、あれなりと取らずんば──と二十三の女にして、読書界に舌を巻かせた、あの、すなわちその、怪しからん……しかも梅雨時、陰惨としていた。低い格子戸を音訪れると、見通しの狭い廊下で、本郷の高台の崖下だから薄暗い。部屋が両方にある、茶の間かと思う左の一層暗い中から、ひたひたと素足で、銀杏返のほつれながら、きりりとした蒼白い顔を見せた、が、少し前屈みになった両手で、黒繻子と何か腹合せの帯の端を、ぐい、と取って、腰を斜めに、しめかけのまま框へ出た。さて、しゃんと緊ったところが、(引掛け、)また、(じれった結び)、腰の下緊へずれ下った、一名(まおとこ結び)というやつ、むすび方の称えを聞いただけでも、いまでは町内で棄て置くまい。差配が立処に店だてを啖わせよう。
──「失礼な、うまいなり、いいえね、余りくさくさするもんですから、湯呑で一杯……てったところ……黙ってて頂戴。」──
端正どころか、これだと、しごきで、頽然としていた事になる。もっとも、おいらんの心中などを書く若造を対手ゆえの、心易さの姐娘の挙動であったろうも知れぬ。
──「今日は珍らしいんです、いつも素見大勢。山の方から下りていらっしゃる方、皆さん学者、詩人連でおいで遊ばすでしょう。英語はもとより、仏蘭西をどうの、独乙をこうの、伊太利語、……希臘拉甸……」──
と云って、にっこり笑ったそうである。
が、山から下りて来るという、この人々に対しては、(じれった結び)なぞ見せはしない、所帯ぎれのした昼夜帯も(お互に貧乏で、相向った糸七も足袋の裏が破れていた。)きちんと胸高なお太鼓に、一銭が紫粉で染返しの半襟も、りゅうと紗綾形見せたであろう、通力自在、姐娘の腕は立派である。
──それにつけても、お京さんは娘であった。雪の朝の不忍の天女詣は、可憐く、可愛い。
十七
お京は下向の、碧玳瑁、紅珊瑚、粧門の下で、ものを期したるごとくしばらく人待顔に彳んだのは誰がためだろう。──やがて頭巾を被った。またこれだけも一仕事で、口で啣えても藤色縮緬を吹返すから、頤へ手繰って引結うのに、撓った片手は二の腕まで真白に露呈で、あこがるる章魚、太刀魚、烏賊の類が吹雪の浪を泳ぎ寄りそうで、危っかしい趣さえ見えた。
──ついでに言おう。形容にもせよ、章魚、太刀魚はいかがだけれど、烏賊は事実居た……透かして見て広小路まで目は届かずとも、料理店、待合など、池の端あたりにはふらふらと泳いでいたろう──
その頃は外套の襟へ三角形の羅紗帽子を、こんな時に、いや、こんな時に限らない。すっぽりと被るのが、寒さを凌ぐより、半分は見得で、帽子の有無では約二割方、仕立上りの値が違う。ところで小座敷、勿論、晴れの席ではない、卓子台の前へ、右のその三角帽子、外套の態で着座して、左褄を折捌いたの、部屋着を開けたのだのが、さしむかいで、盃洗が出るとなっては、そのままいきなり、泳いで宜しい、それで寄鍋をつつくうちは、まだしも無鱗類の餌らしくて尋常だけれども、沸燗を、めらめらと燃やして玉子酒となる輩は、もう、妖怪に近かった。立てば槍烏賊、坐れば真烏賊、動く処は、あおり烏賊、と拍子にかかると、また似たものが外にあった。
季節はそれるが、その形は、油蝉にも似たのである。
──月府玄蝉──上杉先生が、糸七同門の一人に戯に名づけたので、いう心は月賦で拵えた黒色外套の揶揄である。これが出来上った時、しかも玉虫色の皆絹裏がサヤサヤと四辺を払って、と、出立った処は出来したが、懐中空しゅうして行処がない。まさか、蕎麦屋で、かけ一、御酒なしでも済まないので、苦心の結果、場末の浪花節を聞いたという。こんなのは月賦が必ず滞る。……洋服屋の宰取の、あのセルの前掛で、頭の禿げたのが、ぬかろうものか、春暖相催し申候や否や、結構なお外套、ほこり落しは今のうち、と引剥いで持って行くと、今度は蝉の方で、ジイジイ鳴噪いでも黐棹の先へも掛けないで、けろりと返さぬのがおきまりであった。
──弁持十二──というのも居た。おなじ門葉の一人で、手弁で新聞社へ日勤する。月給十二円の洒落、非ず真剣を、上杉先生が笑ったのである。
ここに──もう今頃は、仔細あって、変な形でそこいらをのそついているだろう──辻町糸七の名は、そんな意味ではない。
上杉先生の台町とは、山……一つ二つあなたなる大塚辻町に自炊して、長屋が五十七番地、渠自ら思いついた、辻町はまずいい、はじめは五十七、いそなの磯菜。
「ヘン笑かすぜ、」「にやけていやがる、」友達が熱笑冷罵する。そこで糸七としたのである。七夕の恋の意味もない。三味線の音色もない。
その糸七が、この大雪に、乗らない車坂あたりを段々に、どんな顔をしていよう。名を聞いただけでも空腹へキヤリと応える、雁鍋の前あたりへ……もう来たろう。
お京の爪皮が雪を噛んで出た。まっすぐに清水下の道へは出ないで、横に池について、褄はするすると捌くが、足許の辿々しさ。
十八
寒い、めっきり寒い。……
氷月と云う汁粉屋の裏垣根に近づいた時、……秋は七草で待遇したろう、枯尾花に白い風が立って、雪が一捲き頭巾を吹きなぐると、紋の名入の緋葉がちらちらと空に舞った。お京の姿は、傘もたわわに降り積り、浅黄で描いた手弱女の朧夜深き風情である。
「あら、月村さん。」
紅入ゆうぜんの裳も蹴開くばかり、包ましい腰の色気も投棄てに……風はその背後から煽っている……吹靡く袖で抱込むように、前途から飛着いた状なる女性があった。
濃緑の襟巻に頬を深く、書生羽織で、花月巻の房々したのに、頭巾は着ない。雪の傘の烈しく両手に揺るるとともに、唇で息を切って、
「済みません、済みませんでした、お約束の時間におくれッちまいまして。」
「まあ、よくねえ。」
と、此方も息を吻としながら、
「これではどうせ──三浜さん、来らっしゃらないと思ったもんですから、参詣を先に済ませて、失礼でしたわ。」
「いいえ、いいえ。」
「何しろこの雪でしょう、それに私などと違って、あなたはお勤めがおありになりますから。」
「ところが、ですの。」
とまた一息して、
「私の方こそ、あなたと違って、歩行くのも、動くのも、雨風だって、毎日体操同然なんでございますものね。」
と云った。「教え子」と題した、境遇自叙の一篇が、もう世に出ていた。これも上杉先生の門下で。──思案入道殿の館に近い処、富坂辺に家居した、礫川小学校の訓導で、三浜渚女史である。年紀はお京より三つ四つ姉さんだし、勤務が勤務だし、世馴れて身の動作も柔かく、内輪の裡にもおのずから世の中つい通り──ここは大衆としようか──大衆向の艶を含んで、胸も腰もふっくらしている。
「わけなし、疾くに支度をして、この日曜だというのに袴まで穿きましたんです、風がありますからですが。この雪と来て、あなたは不断お弱いし……きっとお出掛けなさりはしないだろう、と一人で極めて、その袴も除けてさ、まあ。ご丁寧に、それで火鉢に噛りついたんですけど……そうでもない、ほかの事とは違って、お参詣をするのに、他所の方が、こうだから、それだから、どうの、といっては勿体なし……一人ででも、と思いますと、さあ、あなたも同じ心でお出掛けになったかも分らない。──急に火鉢の火のつくように、飛上って、時間がおくれた、大変だ。お待合わせを約束の仲町を出た、あの大時計が雪の塔、大吹雪の峠の下に、一人旅で消えそうに彳っていらっしゃるのが目さきに隠現くもんですから、一息に駆出すようにして来たんです。気ばかり急いで。」
と、顔をひたと合わせそうに、傘を横に傾けたので、耳にまで飛ぶ雪を、鬢を振って、払い、はらい、
「この煙とも霧とも靄とも分らない卍巴の中に、ただ一人、薄りとあなたのお姿を見ました時は、いきなり胸で引包んで、抱いてあげたいと思いましたよ。」
「抱かれたい、おほほ。」
と口紅が小さく白く、雪に染まった。
「え?」
ただの世辞ではなかったが、おもいがけないお京の返事が胸を衝いたから、ちょっと呆れて、ちょっと退って、
「まあ、月村さん」
「おほほ、三浜さん」
「お元気、お元気……」
十九
渚も元気を増したらしい。
「ですが、顔の色がお悪いわ、少し蒼ざめて。……何しろ、ここへ入って休みましょう──ええ、私のお詣りはそれから、お精進だから構いません、お汁粉ですもの。家がまた氷月ですね。気のきかない、こんな時は、ストーブ軒か、炬燵亭とでもすれば可ござんすのに。」
その木戸口に、柳が一本、二人を蔽う被衣のように。
「閉っていたって。」
と、少し脊伸びの及腰に、
「この枝折戸の掛金は外ずしてありましょう。表へだと、大廻りですものね。さあ、いらっしゃい。まこと開かなけりゃ四目垣ぐらい、破るか、乗越すかしちまいますわ。抱かれてやろうといって下すった、あなたのためなら。……飛んだ門破りの板額ですね。」
渚が傘を取直して、
「武器は、薙刀。」
「私は、懐剣。」
二人が、莞爾。
お京の方が先んじて、ギイと押すと、木戸が向うへ、一歩先陣、蹴出す緋鹿子、揺の糸が、弱腰をしめて雪を開いた。
「おお、まあ、天晴れ。」
「と、おっしゃって下すった処で、敵手はお汁粉よ。」
「あなたは。」
「え、私は、塩餡。」
「ご尋常……てまえは、いなか。」
「あとで、鴨雑煮。」
「驕る平家ね、揚羽の蝶のように、まだ釣荵がかかっていますわ。」
と閉った縁の廂を見つつ、急に渚が肩をよじた。
「ああ、冷い、柳の枝が背から。」
肩を払うと、顔へかかるのを、片手でまた掻き遣って、頬をすぼめた。
「雫もしないのに濡れたんですか、冷いこと。」
お京も立停まって振向いた。
「髪の毛ですわ……あら、私ンじゃない。」
しごいて、引いて、幾重にも巻取るようにした指を、離すと、すっと解けて頬を離れる。成程、渚のではない。その渚が──女だ、髪にはどこまでも目が繊細い──雪を透かして、
「まあ、長い、黒い、美しい……どこまでも雪の上を。──月村さん、あなたのですよ。」
「いいえ、私。」
「良い薫もするようです。どこかに梅かしら。それ、そうですとも。……頭巾をこぼれて、黒く一筋。」
「すこしは長いといいますけれど、薄いほどだって言われますもの。」
と頭巾を解き、颯と顕われた島田の銀の丈長が指尖とともに揺れると、思わず傘を落した。
「気味の悪い。」
降りしきったのが小留をした、春の雪だから、それほどの気色でも、霽れると迅い。西空の根津一帯、藍染川の上あたり、一筋の藍を引いた。池の水はまだ暗い。
「気味の悪い?……気味の悪い事があるもんですか。手で引いてごらんなさいよ、ね、それ、触るでしょう、耳の下、ちっと横、手繰って。……そう、そう、すらすらと動きますわ、木戸の外の柳の上まで、まあ。」
「私どうしましょう。」
「結構じゃありませんか、あなたの指から、ああ鬢の中へ。」
と、相傘するまで、つと寄添う。
「私どうしましょう。」
と、乳のあたりへ袖を緊めつつ、
「空から降って来やしないんでしょうか。」
「……空からでしょうよ、池からでしょうよ、天女からお授かりなすったのかも知れませんね、羨しいったらありませんわねえ。」
二十
「でも、私、小説が上手に出来ますように──笑わないで頂戴……そういって拝んだんですのに。」
「じょうだんじゃありません、かりにもそのくらいなものをお授かりになったんですのに。」
「半分切ってあげましょうか。」
「驚いた……誰方にさ。」
「三浜さんに。」
「まあ。」
「だって、二人でお詣りに来たんですもの。」
「まあ、慾のおあんなさらない、可愛い、それだから私に抱かれようって……ほんとに抱きますよ。」
「あれ、人が居ます、ほほほ。」
「ええ、そう。──もうあそこまで行きました。」
──斉しく見遣った。
富士颪というのであろう。西の空はわずかに晴間を見せた。が、池の端を内へ、柵に添って、まだ濛々と、雪烟する中を、スイと一人、スイと、もう一人。やや高いのと低いのと、海月が泳ぐような二人づれが、足はただようのに、向ううつむけに沈んで行く。……
脊の高い方は、それでも外套一着で、すっぽりと中折帽を被っている。が、寸の短い方は、黒の羽織に袴なし、蓑もなしで、見っともない、その上紋着。やがて渚に聞けば、しかも五つ紋で。──これは外套の頭巾ばかりを木菟に被って、藻抜けたか、辷落ちたか、その魂魄のようなものを、片手にふらふらと提げている。渚に聞けば、竹の皮包だ──そうであった。
「──あれ、辻町さんよ、ちょいと。」
「辻……町」
「糸七さんですってば。──つい、取紛れて、いきなり噂をしようって処、おくれちまいましたんですがね、いま、さっき、現にいま……」
「今……」
「懐剣、といって、花々しく、あなたがその木戸をお開けなすった時ですよ。立停ってしばらく見ていましたんですよ、二人とも。頭巾を被っておいでだし、横吹きに吹掛けていましたから、お気がつかなかったんです。もっともね、すぐその前、あすこで──私はお約束の大時計より、大変な後れ方ですから、俥をおりると、早廻りに、すぐ池の端へ出て、揚出しわきの、あの、どんどんの橋を渡って、正面に傘を突翳して来たんでしょう。ぶつかりそうに、後縋りに、あの二人に。
おや……帽子はすっぽりでも、顔は分りましたから、ちょっと挨拶はしましたけれど、御堂の方へ心はせきます。それにお連れがまるで知らない人ですから、それなり黙ってさ。それだって、様子を見ただけでも、お久しぶりとも、第一、お早う、とも言えた義理じゃありませんわ。」
「どうしたんでしょう、こんな朝……雪見とでもいうのかしら。」
「あなたもあんまりお嬢さんね。──吉原の事を随筆になすったじゃありませんか。」
「いやです、きまりの悪いこと。……親類に連れられて、浅草から燈籠を見に行っただけなんです、玉菊の、あの燈籠のいわれは可哀ですわね。」
「その燈籠は美しく可哀だし、あの落武者……極っていますよ、吉原がえりの落武者は、みじめにあわれだこと。あの情ない様子ったら。おや、立停りましたよ、また──それ、こっちを見ています。挨拶──およしなさい、連がありますから。どんなことを言出そうも知れません。糸七さん一人だって、あなたは仲が悪いんでしょう。おなじ雑誌に、その随筆の、あの人、悪口を記いたじゃありませんか。」
「よくご存じですこと。」
簪を挿込むと、きりりと一文字にひそめた眉を、隠すように、傘を取って、熟と、糸七とその連を視た。
二十一
「しかし、しかしだね、(雪見と志した処が、まだしも)……何とかいったっけ、そうだ(……まだしも、ふ憫だ。)」
「あわれ、憫然というやつかい。」
「やっぱり、まだしも、ふ憫だ。──(いや、ますます降るわえ、奇絶々々。)と寒さにふるえながら牛骨が虚飾をいうと(妙。)──と歯を喰切って、骨董が負惜しみに受ける処だ。
またあたかも三馬の向島の雪景色とおなじように、巻込まれた処へ、(骨董子、向うから来るのは確に婦人だぜ。)と牛骨がいうと、(さん候この雪中を独歩するもの、俳気のある婦人か、さては越の国にありちゅう雪女なるべし、)傭お針か、産婆だろう、とある処へ。……聞いたら怒るだろう、……バッタリ女教師の渚女史にぶつかったなぞは──(奇絶、奇絶。)妙……とお言いよ。」
「言えないよ。女作家の事はまた、べつとして……馬鹿々々しいよ。」
「三馬(式亭)が馬鹿々々しい、といって……女郎買に振られて帰ったこの朝だ。俥賃なしの大雪に逢って、飜訳ものの、トルストイや、ツルゲネーフと附合ったり、ゲーテ、シルレルを談じたって、何の役に立つものか。そこへ行くと三馬だ。お馴染がいにいくらか、景気をつけてくれる。──「人間万事嘘誕計」──骨董と牛骨が向島へ雪見の洒落で、ふられた雪を吹飛ばそう。」
「外聞の悪いことをいうなよ、雪は知らないが、ふられたのは俺じゃないぜ。」
と、大島の小袖に鉄無地の羽織で、角打の紐を縦に一扱き扱いたのは、大学法科出の新学士。肩書の分限に依って職を求むれば、速に玄関を構えて、新夫人にかしずかるべき処を、僻して作家を志し、名は早く聞えはするが、名実あい合わず、砕いて言えば収入が少いから、かくの始末。藍染川と、忍川の、晴れて逢っても浮名の流れる、茅町あたりの借屋に帰って、吉原がえりの外套を、今しがた脱いだところ。姓氏は矢野弦光で、対手とは四つ五つ長者である。
さし向って、三馬とトルストイをごっちゃに饒舌る、飜訳者からすれば、不埒ともいうべき若いのは、想像でも知れた、辻町糸七。道づれなしに心中だけは仕兼ねない、身のまわり。ほうしょの黒の五つ紋(借りもの)を鴨居の釘に剥取られて、大名縞とて、笑わせる、よれよれ銘仙の口綿一枚。素肌の寒さ。まだ雪の雫の干ない足袋は、ぬれ草鞋のように脱いだから、素足の冷たさ。実は、フランネルの手首までの襯衣は着て出たが、洗濯をしないから、仇汚れて、且つその……言い憎いけれど、少し臭う。遊女に嫌われる、と昨宵行きがけに合乗俥の上で弦光がからかったのを、酔った勢い、幌の中で肌脱ぎに引きかなぐり、松源の池が横町にあるあたりで威勢よく、ただし、竜どころか、蚤の刺青もなしに放り出した。後悔をしても追附かない。で、弦光のひとり寝の、浴衣をかさねた木綿広袖に包まって、火鉢にしがみついて、肩をすくめているのであった。
が、幸に窓は明い。閉め込んだ障子も、ほんのりと桃色に、畳も小庭の雪影に霞を敷いた。いま、忍川の日も紅を解き、藍染川の雲も次第に青く流れていよう。不忍の池の風情が思われる。
上野の山も、広小路にも、人と車と、一斉に湧き動揺いて、都大路を八方へ溢れる時、揚出しの鍋は百人の湯気を立て、隣近な汁粉屋、その氷月の小座敷には、閨秀二人が、雪も消えて、衣紋も、褄も、春の色にやや緩けたであろう。
先刻に氷月の白い柳の裏木戸と、遠見の馬場の柵際と、相望んでから、さて小半時経っている。
崖下ながら、ここの屋根に日は当るが、軒も廂もまだ雫をしないから、狭いのに寂然とした平屋の奥の六畳に、火鉢からやや蒸気が立って、炭の新しいのが頼もしい。小鍋立というと洒落に見えるが、何、無精たらしい雇婆さんの突掛けの膳で、安ものの中皿に、葱と菎蒻ばかりが、堆く、狩野派末法の山水を見せると、傍に竹の皮の突張った、牛の並肉の朱く溢出た処は、未来派尖鋭の動物を思わせる。
二十二
「仰せにゃ及ぶべき。そうよ、誰も矢野がふられたとは言やしない。今朝──先刻のあの形は何だい。この人、帰したくない、とか云って遊女が、その帯で引張るか、階子段の下り口で、遁げる、引く、くるくる廻って、ぐいと胸で抱合った機掛に、頬辺を押着けて、大きな結綿の紫が垂れ掛っているじゃないか。その顔で二人で私を見て、ニヤニヤはどうしたんだ、こっちは一人だぜ。」
「そうずけずけとのたまうな、はははは談じたまうなよ、息子は何でも内輪がいい。……まずお酌だ。」
いかがな首尾だか、あのくらい雪にのめされながら、割合に元気なのは、帰宅早々婆さんを使いに、角店の四方から一升徳利を通帳という不思議な通力で取寄せたからで。……これさえあれば、むかしも今も、狸だって酒は呑める。
二人とも冷酒で呷った。
やがて、小形の長火鉢で、燗もつき、鍋も掛ったのである。
「あれはね、いいかい、這般の瑣事はだ、雪折笹にむら雀という処を仕方でやったばかりなんだ。──除の二の段、方程式のほんの初歩さ。人の見ている前の所作なんぞ。──望む処は、ひけ過ぎの情夫の三角術、三蒲団の微分積分を見せたかった……といううちにも、何しろ昨夜は出来が悪いのさ。本来なら今朝の雪では、遊女も化粧を朝直しと来て、青柳か湯豆府とあろう処を、大戸を潜って、迎も待たず、……それ、女中が来ると、祝儀が危い……。一目散に茶屋まで仲之町を切って駆けこんだろう。お同伴は、と申すと、外套なし。」
「そいつは打殺したのを知ってる癖に。」
「萌した悪心の割前の軍用金、分っているよ、分っている……いるだけに、五つ紋の雪びたしは一層あわれだ、しかも借りものだと言ったっけかな。」
「春着に辛うじて算段した、苦生の一張羅さ。」
「苦生?……」
「知ってるじゃないか、月府玄蝉、弁持十二。」
「好い、好い。」
「並んだ中にいつも陰気で、じめじめして病人のようだからといって、上杉先生が、おなじく渾名して──久須利、苦生。」
「ああ、そう、久須利か。」
「くせえというようで悪いから、皆で、苦生、苦生だよ。」
「さてまたさぞ苦る事だろう、ほうしょは折目摺れが激しいなあ。ああ、おやおや、五つ紋の泡が浮いて、黒の流れに藍が兀げて出た処は、まるで、藍瓶の雪解だぜ。」
「奇絶、奇絶。──妙とお言いよ。」
「妙でないよ、また三馬か。」
「いい燗だ。そろそろ、トルストイ、ドストイフスキーが煮えて来た。」
「やけを言うなというに。そのから元気を見るにつけても、年下の息子を悩ませ、且つその友達を苦らせる、(一張羅だと聞けばかなしも。)我ながら情ない寂しい声だな。──懺悔をするがね。茶屋で、「お傘を。」と言ったろう。──「お傘を」──家来どもが居並んだ処だと、この言は殿様に通ずるんだ、それ、麻裃か、黒羽二重お袴で、すっと翳す、姿は好いね。処をだよ。……呼べば軒下まで俥の自由につく処を、「お俥。」となぜいわない。「お傘。」と来ては、茶屋めが、お互の懐中を見透かした、俥賃なし、と睨んだり、と思ったから、そこは意地だよ、見得もありか、土手まで雪見だ、と仲之町で袖を払った。」
「私は、すぼめた。」
「ははは、借りものだっけな、皮肉をいうなよ。息子はおとなしく内輪が好い。がつらつら思うに、茶屋の帳場は婆さんか、痘痕の亭主に限ります。もっともそれじゃ、繁昌はしまいがね。早いから女中はまだ鼾で居る。名代の女房の色っぽいのが、長火鉢の帳場奥から、寝乱れながら、艶々とした円髷で、脛も白やかに起きてよ、達手巻ばかり、引掛けた羽織の裏にも起居の膝にも、浅黄縮緬がちらちらしているんだ。」……
二十三
つれづれ草の作者に音が似ているから、法師とも人が呼ぶ、弦光法師は、盃を置き息をついて、
「しかも件の艶なのが、あまつさえ大概番傘の処を、その浅黄をからめた白い手で、蛇目傘と来た。祝儀なしに借りられますか。且つまたこれを返す時の入費が可恐しい。ここしばらくあてなしなんだからね。」
「そこで、雪の落人となったんだね。私は見得も外聞も要らない。なぜ、この降るのに傘を借りないだろうと、途中では怨んだけれど、外套の頭巾をはずして被せてくれたのには感謝した、烏帽子をつけたようで景気が直った。」
「白く群がる朝返りの中で、土手を下りた処だったな。その頭巾の紐をしめながらどこで覚えたか──一段と烏帽子が似合いて候。──と器用な息子だ。しかも節なしはありがたかった。やがて静の前に逢わせたいよ。」
「静といえば。」
「乗出すなよ。こいつ、昨夜の遊女か。」
「そんなものは名も知らない。てんで顔を見せないんだから。」
「自棄をいうなよ、そこが息子の辛抱どころだ。その遊女に、馴染をつけて、このぬし辻町様(おん箸入)に、象牙が入って、蝶足の膳につかなくっちゃ。……もっともこの箸、万客に通ずる事は、口紅と同じだがね、ははは。」
「おって教授に預ろうよ。そんな事より、私のいうのは、昨夜それ引前を茶屋へのたり込んだ時、籠洋燈の傍で手紙を書いていた、巻紙に筆を持添えて……」
「写実、写実。」
「目の凜とした、一の字眉の、瓜実顔の、裳を引いたなり薄い片膝立てで黒縮緬の羽織を着ていた、芸妓島田の。」
「うむ、それだ。それは婀娜なり……それに似て、これは素研清楚なり、というのを不忍の池で。……」
と、半ば口で消して、
「さあ、お酌だ。重ねたり。」
「あれは、内芸者というんだろう。ために傘を遠慮した茶屋の女房なぞとは、較べものにならなかったよ。」
「よくない、よくない量見だ。」
と、法師は大きく手を振って、
「原稿料じゃ当分のうち間に合いません。稿料不如傘二本か。一本だと寺を退く坊主になるし、三本目には下り松か、遣切れない。」
と握拳で、猫板ドンとやって、
「糸ちゃん! お互にちっと植上げをする工夫はないかい。」
と、喟然として歎じて、こんどは、ぐたりとその板へ肘をつく。
「へい、へい、遅わりましてござります。」
爪の黒ずんだ婆さんの、皺頸へ垢手拭を巻いたのが、乾びた葡萄豆を、小皿にして、兀げた汁椀を二つ添えて、盆を、ぬい、と突出した。片手に、旦那様穿換えの古足袋を握っている。
「ああ、これだ。」と、喟然として歎じて、こんどは、畳へ手をついた。
この傭にさえ、弦光法師は配慮した。……俥賃には足りなくても、安肉四半斤……二十匁以上、三十匁以内だけの料はある。竹の皮包を土産らしく提げて帰れば、廓から空腹だ、とは思うまい。──内証だが、ここで糸七は実は焼芋を主張した。粮と温石と凍餓共に救う、万全の策だったのである、けれども、いやしくも文学者たるべきものの、紅玉、緑宝玉、宝玉を秘め置くべき胸から、黄色に焦げた香を放って、手を懐中に暖めたとあっては、蕎麦屋の、もり二杯の小婢の、ぼろ前垂の下に手首を突込むのと軌を一にする、と云って斥けた。良策の用いられざるや、古今敗亡のそれこそ、軌を一にする処である。
が、途中まず無事に三橋まで引上げた。池の端となって見たがいい、時を得顔の梅柳が、行ったり来たり緋縮緬に、ゆうぜんに、白いものをちらちらと、人を悩す朝である。はたそれ、二階の欄干、小窓などから、下界を覗いて──野郎めが、「ああ降ったる雪かな、あの二人のもの、簑を着れば景色になるのに。」──婦めが、「なぜまた蜆を売らないだろう。」と置炬燵で、白魚鍋でも突かれてみろ、畜生! 吹雪に倒るればといって、黒塀の描割の下が通れるものか。──そこで、どんどんから忍川の柵内へ、池のまわり、雪の原へ迷込んだ次第であったが。……
二十四
「ありがたい、この、汁レルから湯気が立つ。」
と、味噌椀の蓋を落して、かぶりついた糸七が、
「何だ、中味は芋莄殻か、下手な飜訳みたいだね。」
「そういうなよ、漂母の餐だよ。婆やの里から来たんだよ。」
「それだから焼芋を主張したのに、ほぐして入れると直ぐに実になる。」
「仲之町の芸者の噂のあとへ、それだけは、その、焼芋、焼芋だけはあやまるよ。」
と、弦光が頭を下げた。
同感である。──糸七のおなじ話でも、紅玉、緑宝玉だと取次栄がするが、何分焼芋はあやまる。安っぽいばかりか、稚気が過ぎよう。近頃は作者夥間も、ひとりぎめに偉くなって、割前の宴会の座敷でなく、我が家の大広間で、脇息と名づくる殿様道具の几に倚って、近う……などと、若い人たちを頤で麾く剽軽者さえあると聞く。仄に聞くにつけても、それらの面々の面目に係ると悪い。むかし、八里半、僭称して十三里、一名、書生の羊羹、ともいった、ポテト……どうも脇息向の饌でない。
ついこの間の事──一大書店の支配人が見えた。関東名代の、強弓の達者で、しかも苦労人だと聞いたが違いない。……話の中に、田舎から十四で上京した時は、鍛冶町辺の金物屋へ小僧で子守に使われた。泥濘で、小銅五厘を拾った事がある。小銅五厘也、交番へ届けると、このお捌きが面白い、「若、金鍔を食うが可かッ。」勇んで飛込んだ菓子屋が、立派過ぎた。「余所へ行きな、金鍔一つは売られない。」という。そこで焼芋。
と、活機に作者が、
「三つ。」
声と共に、啊呍の呼吸で、支配人が指を三本。……こうなると焼芋にも禅がある。
が、何しろ、煮豆だの、芋莄殻だのと相並んで、婆やが持出した膳もさめるし、新聞の座がさめる。ものが清新でないのである。
不精髯も大分のびた。一つ髪でも洗って来ようと、最近人に教えられ、いくらか馴染になった、有楽町辺の大石造館十三階、地階の床屋へ行くと、お帽子お外套というも極りの悪い代ものが釦で棚へ入って、「お目金、」と四度半が手近な手函へ据る、歯科のほかでは知らなかった、椅子がぜんまいでギギイと巻上る……といった勢。しゃぼんの泡は、糸七が吉原返りに緒をしめた雪の烏帽子ほどに被さる。冷い香水がざっと流れる。どこか場末の床店が、指の尖で、密とクリームを扱いて掌で広げて息で伸ばして、ちょんぼりと髯剃あとへ塗る手際などとは格別の沙汰で、しかもその場末より高くない。
お職人が念のために、分け目を熟と瞻ると、奴、いや、少年の助手が、肩から足の上まで刷毛を掛ける。「お麁末様。」「お世話でした。」と好い気持になって、扉を出ると、大理石の床続きの隣、パール(真珠)と云うレストランに青衿菫衣の好女子ひとりあり、緑扉に倚りて佇めり。
「番町さん。」
「…………」
「泉さん。」
驚いて縮めた近目の皺を、莞爾……でもって、鼻の下まで伸ばさせて、
「床屋へお入んなったのを……どうもそうらしいと思ったもんですから、お帰り時分を待っていたの、寄ってらっしゃいよ。」
「は、いや、その。」
ああ、そうか、思い出した。この真珠の本店が築地の割烹懐石で、そこに、月並に、懇意なものの会がある。客が立込んだ時ここから選抜きで助けに来た、その一人である。
「どこかへいらっしゃる、ちょっと紅茶でも。」
面喰った慌しい中にも、忽然として、いつぞのむかし吉原の横町の、ずるずる引摺った青い裳と、紅い扱帯と、脂臭い吸いつけ煙草を憶起すと、憶起す要はないのに、独りで恥しくなって、横を向いた。
「お可厭。」
「飛んでもない。」
「あら、ご挨拶。」
「飛んでもない。可厭なものかね。」
「お世辞のいいこと、熱燗も存じております。どうぞ──さあいらっしゃい。」
二十五
「人が見ては厭なんでしょう。お馴れなさらない場所ですから。──あいにく三組ばかり宴会があって、多勢お見えになっていますから。……ああと……こっちが可いわ。」
拙者生れてより、今この年配で、人見知りはしないというのに、さらさら三方をカーテンで囲って、
「覗いちゃ不可ません。」
何事だろうと、布目を覗く若い娘をたしなめて、内の障子より清純だというのに、卓子掛の上へ真新しいのをまた一枚敷いて、その上を撓った指で一のし伸して、
「お紅茶?」
「いや、酒です、燗を熱く。」
「分っていますわ。」
「それから、勿論食べます。」
「お無駄をなさらないでも。」
「食べますとも、空腹です。そこで、お任せ、という処だけれど、鳥を。」
「蒸焼にしましょう、よく、火を通して。」
それまで御存じか、感謝を表して、一礼すると、もう居なくなる。
すっと入交ったのが、瞳の大きい、色の白い、年の若い、あれは何と云うのか、引緊ったスカートで、肩が膨りと胴が細って、腰の肉置、しかも、その豊なのがりんりんとしている。
「私も築地で……先日は。」
乳のふくらみを卓子に近く寄せて朗かに莞爾した。その装は四辺を払って、泰西の物語に聞く、少年の騎士の爽に鎧ったようだ。高靴の踵の尖りを見ると、そのままポンと蹴て、馬に騎って、いきなり窓の外を、棟を飛んで、避雷針の上へ出そうに見える。
カーネーション、フリージヤの陰へ、ひしゃげた煙管を出して点けようとしていたが、火燧をパッとさし寄せられると、かかる騎士に対して、脂下る次第には行かない。雁首を俯向けにして、内端に吸いつけて、
「有難う。」
と、まず落着こうとして、ふと、さあ落着かれぬ。
「はてな、や、忘れた。」
「え。」
「下足札。」
吃驚したように顔を見たが、
「そこに穿いていらっしゃるじゃないの。」
実は外套を預けた時、札を貰わなかったのを、うっかりと下足札。ああ、面目次第もない。
騎士が悟って、おかしがって、笑う事笑う事、上身をほとんど旋廻して、鎧の腹筋を捩る処へ、以前のが、銚子を持参。で、入れかわるように駆出した。
「お帽子も杖も、私が預ったじゃありませんか。安心してめしあがれ。あの方、今日は会計係、がちゃがちゃん、ごとンなの。……お酌をしますわ。」
やがて少々、とろりとなって、「さてそこへ立っていちゃ、ああ成程──風紀上、尤です……と、従って杯は。」
「さあ。(あたりを忍び目、カーテンばかり。)ちょっと一杯ぐらい……お盃洗がなくて不可ませんわね。」
「いや、特に感謝します、結構です。」
「あの、番町さん。私あの辺を知っていますわ。──学院の出ですもの。」
「ほう、すると英学者だ、そのお酌では恐縮です、が超恐縮で、光栄です。」
焼を念入に注意したが、もう出来たろうと、そこで運出した一枚は、胸を引いて吃驚するほどな大皿に、添えものが堆く、鳥の片股、譬喩はさもしいが、それ、支配人が指を三本の焼芋を一束ねにしたのに、ズキリと脚がついた処は、大江山の精進日の尾頭ほどある、ピカピカと小刀、肉叉、これが見事に光るので、呆れて見ていると、あがりにくくば、取分けて、で、折返して小さめの、皿に、小形小刀の、肉叉がまたきらりと光る。
「ご念の入った事で……光栄です、ありがたい。」
「……お気にめして……おいしいこと。……まあ、嬉しい。それはね、手で持って、めしあがって、結構よ。」
「構いませんか、そいつは可い、光栄です。」
仰に従うと、口のまわりが……
「はい、お手拭。」
二十六
お会計はあちらで、がちゃがちゃがちゃんの方なんですが……ここで……分っていますからと、鉛筆を軽く紙片に走らせた。
この会計だが、この分では、物価騰昇寒さの砌、堅炭三俵が処と観念の臍を固めたのに、
「おうう、こんな事で。……光栄です。」
「お給仕の分もついておりますから、ご心配なく。」
「いよいよ光栄です。」
と思わず口へ出た。床屋の分を倍額に、少し内へ引込んだのである。ここにおいて、番町さんの、泉、はじめて悠然として、下足を出口へ運ぶと、クローク(預所)とかで、青衿が、外套を受取って、着せてくれて、帽子、杖、またどうぞ、というのが、それ覚えてか、いつのこと……。後朝に、冷い拳固を背中へくらったのとは質が違う。
噫、噫、世も許し、人も許し、何よりも自分も許して、今時も河岸をぞめいているのであったら、ここでぷッつりと数珠を切る処だ!……思えば、むかし、夥間の飲友達の、遊び呆けて、多日寄附かなかった本郷の叔母さんの許を訪ねたのがあった。お柏で寝る夜具より三倍ふっくらした坐蒲団。濃いお茶が入って、お前さんの好きな藤村の焼ぎんとんだよ、おあがり、今では宗旨が違うかい。連雀の藪蕎麦が近いから、あの佳味いので一銚子、と言われて涙を流した。親身の情……これが無銭である。さても、どれほどの好男に生れ交って、どれほどの金子を使ったら、遊んでこれだけ好遇るだろう。──しかるにもかかわらず、迷いは、その叔母さんに俥賃を強請って北廓へ飛んだ。耽溺、痴乱、迷妄の余り、夢とも現ともなく、「おれの葬礼はいつ出る。」と云って、無理心中かと、遊女を驚かし、二階中を騒がせた男がある。
これにつけ、またそれよ、壱岐殿坂で鼠の印を結んでより、雪の中を傘なしで、池の端まで、などと云うにつけても、天保銭を車に積んで切通しを飛んだ、思案入道殿の方が柄が大きい。……その意気や、仙台、紀文を凌駕するものである。
と、大理石の建物にはあるまじき、ひょろひょろとした楽書の形になって彳む処に、お濠の方から、円タクが、するすると流して来て、運転手台から、仰向けに指を三本出した。
「これだ。」
外套の袖を浮せて膝をたたいた。番町は、何のために、この床屋へ来たんだ。あまりそこらに焼芋の匂がするから、気をかえようと髪を洗いに来たのである。そうだ、焼芋の事を、ここにちなんで(真珠)としよう。
ものは称呼も大事である。辻町糸七が、その時もし、真珠、と云って策を立てたら、弦光も即諾して、こま切同然な竹の皮包は持たなかったに違いない。雪に真珠を食に充て、真珠をもって手を暖むとせんか、含玉鳳炭の奢侈、蓋し開元天宝の豪華である。
即時、その三本に二貫たして、円タクで帰ったが、さて、思うに大分道草──(これも真珠としよう)──真珠を食った。
茅町の弦光の借屋の膳の上には、芋がらの汁と、葡萄豆ぽっちり、牛鍋には糸菎蒻ばかりが、火だけは盛だから炎天の蚯蚓のようだ、焦げて残っている、と云った処で、真珠を食ったあとだから、気が驕って、そんなものには、構っておられん。
本文を取急ごう。
その主意たるや、要するに矢野弦光が、その日、今朝、真もって、月村一雪、お京さんの雪の姿に惚れたのである。
一升徳利の転がったを枕にして、投足の片膝組みの仰向けで、酒の酔を陰に沈めて、天井を睨んでいたのが、むっくり、がばと起きると、どたりと凭掛ったまま、窓下の机をハタと打った。崖下の雪解の音は余所よりも。……
いま、障子外の雨落の雫がこの響きで刎ねそうであった。
「糸的。」
「ええ、驚いた。」
この方は、袖よじれに横倒れで、鉄張りの煙管を持った手を投出したまま、吸殻を忘れたらしい、畳に焼焦──最も紳士の恥ずべきこと──を拵えながら、うとうとしていた。
「呼んだぐらいで驚いてくれちゃ困る。よ、糸的、いい名だなあ、従兄弟に聞えて、親身のようだ。そのつもりで聞いてくれよ。ああ私は実は酔わん、酔えなかったんだよ。生れて三十年にして、いま目が覚めた。──ついてはだ。」
二十七
「──賛成だ、至極いいよ。私たち風来とは違って、矢野には学士の肩書がある。──御縁談は、と来ると、悪く老成じみるが仕方がない……として、わけなく絡るだろうと思うがね、実はこのお取次は、私じゃ不可いよ。」
「そう、そう、そう来るだろうと思ったんだ。が、こうなれば刺違えても今更糸的に譲って、指を銜えて、引込みはしない。」
と、わざとらしいまで、膝の上で拳を握ると、糸七は気もない顔で、
「何を刺違えるんだ、間違えているんだろう。」
「だってそうじゃないか、いつか雑誌に写真が出ていたそうだが、そんなものはほとんど眼中になかった。今朝の雪は不意打さ。俥で帰ると、追分で一生の道が南北へ分れるのを、ほんとうに一呼吸という処で、不思議な縁で……どうも言う事が甘ったるいが、どうもどうも、腹の底まで汁粉に化けた。
──氷月の雪の枝折戸を、片手ざしの渋蛇目傘で、衝いて入るように褄を上げた雨衣の裾の板じめだか、鹿子絞りだか、あの緋色がよ、またただ美しさじゃない、清さ、と云ったら。……ここをいうのだ、茶屋の女房の浅黄縮緬のちらちらなぞは、突っくるみものの寄切だよ、……目も覚め、心に沁みようじゃないか。
……同時に、時々の出入りとまでしばしばでなくても、同門の友輩で知合ってる糸的が、少くとも、岡惚れを。」
「その事かい、何だ。」
と笑いもカラカラと五徳に響いて、煙管を払いた。
「対手は素人だ、憚りながら。」
「昨夜振られてもかい。」
「勿論。」
「直言を感謝す。」
と俯向いて、袖口をのばすように膝に手を長く置き、
「人壮んなる時は、娘に勝ち、人衰うる時は女房が欲しい。……その意気だ。が、そうすると、話に乗ってくれるのに、また何が不都合だろう。」
「月村と性が合わないんだ。先方は言うまでもなかろうが、私も虫が好かないんだ。前にね、月村が随筆を書いた事がある。燈籠見に誘われて、はじめて廓を覗いたというんだがね、雑誌の編輯でも、女というと優待するよ。──年方の挿絵でね、編中の見物の中に月村の似顔の娘が立っている。」
「素晴しいね。早速捜そう。」
「見るんなら内にあるよ。その随筆だがね、足が土についていない。お高く中洲の中二階、いや三階あたりに。──政党出の府会議員──一雪の親だよ──その令嬢が、自分一人。女は生れさえすりゃ誰でも処女だ、純潔だのに、一人で純潔がって廓の売色を、汚れた、頽れた、浅ましい、とその上に、余計な事を、あわれがって、慈善家がって、異う済まして、ツンと気取った。」
「おおおお念入りだ。」
「そいつが癪に障ったから。──折から、焼芋(訂正)真珠を、食過ぎたせいか、私が脚気になってね。」
「色気がないなあ。」
「祖母に小豆を煮て貰って、三度、三度。」
「止せよ、……今、酒を追加する……小豆は意気を銷沈せしめる。」
「意気銷沈より脚気衝心が可恐かったんだ。──そこで、その小豆を喰いながら、私らが、売女なら、どうしよってんだい、小姐さん、内々の紐が、ぶら下ったり、爪の掃除をしない方が、余程汚れた、頽れた、浅ましい。……塩みがきの私らを大きにお世話だ、お茶でもあがれ、とべっかっこをして見せた。」
「そうだろう、べっかっこでなくっちゃ筋は通らない。まともに弁じて、汚れた売女を憎んだのじゃない、あわれんだに……無理はないから。」
「勿論、つけた題が『べっかっこ。』さ──」
「見たいな、糸七……本名か。」
「まさか──署名は──江戸町河岸の、紫。おなじ雑誌の翌月の雑録さ。令嬢は随。……野郎は雑。──編輯部の取扱いが違うんだ。」
「辛うじて一坂越したよ、お互に、静かに、静かに。」
弦光は一息ふッ、日のあたる窓下の机の埃を吹き、吹いた後を絹切で掃った。
二十八
「それでも、上杉先生の、詞成堂──台町の山の屋敷の庭続き崖下にある破借家……矢野も二三度遊びに行ったね、あの塾の、小部屋小部屋に割居して、世間ものの活字にはまだ一度も文選されない、雑誌の半面、新聞の五行でも、そいつを狙って、鷹の目、梟の爪で、待機中の友達のね、墨色の薄いのと、字の拙いのばかり、先生にまだしも叱正を得て、色の恋のと、少しばかり甘たれかかると、たちまち朱筆の一棒を啖うだけで、気の吐きどころのない、嵎を負う虎、壁裏の蝙蝠、穴籠の熊か、中には瓜子という可憐なのも、気ばかり手負の荒猪だろう。
見す見す一雪女史に先を越されて、畜生め、でいる処へ、私のその『べっかっこ』だ、行った! 行った! 痛快! などと喝采だから、内々得意でいたっけが──一日、久しく御不沙汰で、台町へ機嫌伺いに出た処が、三和土に、見馴れた二足の下駄が揃えてある。先生お出掛けらしい。玄関には下の塾から交代の当番で、弁持十二が居るのさ。日曜だったし……すぐの座敷で、先生は箪笥の前で着換えの最中、博多の帯をきりりと緊った処なんだ。令夫人は藤色の手柄の高尚な円髷で袴を持って支膝という処へ、敷居越にこの面が、ヌッと出た、と思いたまえ。」
「その顔だね。」
「この面だ。──今朝なぞは特に拙いよ。「糸。」縮んだよ、先生の声が激しい。「お前、中洲のお京の悪口を書いたそうだな。」いきなりだろう、へどもどした。「は、いえ、別に。」「何、何を……悪気はない。悪気がなくって、悪口を、何だ、洒落だ。黙んな、黙んな。洒落は一廉の人間のする事、云う事だ。そのつらで洒落なんぞ、第一読者に対して無礼だよ。べっかっこが聞いて呆れる。そのべっかっこという面を俺の前へ出して見ろ。うわさに聞けば、友子づれで、吉原の河岸をせせって。格子へ飛びつくというから、だぼ沙魚のようになりやがった。──弁持……」十二のくすくす笑っているのを呼びかけて、「溝をせせって、格子へ飛びつくのは、だぼ沙魚じゃない……お前はよく、くだらない事を知っている、何だっけな。」弁持が鹿爪らしく、「は、飛沙魚です、は。」「飛沙魚だ、贅沢だ。もぐり沙魚の孑孑だ。──先方は女だ、娘だよ。可哀そうに、(口惜いか、)と俺が聞いたら、(恥かしい、)と云って、ほろりとしたんだ、袖で顔を隠したよ。孑孑め、女だって友だちだ、頼みある夥間じゃないか。黒髪を腰へ捌いた、緋縅の若い女が、敵の城へ一番乗で塀際へ着いた処を、孑孑が這上って、乳の下を擽って、同じ溝の中へ引込むんだ。」と……」
「分った、もう可い、もう可い。」
と弦光は膝も浮きそうに、火鉢の向うで、肩をわななかせて、手を振った。
「雪のごとき、玉のごとき、乳の下を……串戯にしろ、話にしろ、ものの譬喩にしろ、聞いちゃおられん。私には、今日、今朝よりの私には──ははははは。」
寂しい笑いで、
「話はおかしいが、大心配な事が出来た。糸的の先生、上杉さんは、その様子じゃ大分一雪女史が贔屓らしい。あの容色で、しんなりと肩で嬌態えて、机の傍よ。先生が二階の時なぞは、令夫人やや穏ならずというんじゃないかな。」
「串戯じゃない、片田舎の面疱だらけの心得違の教員なぞじゃあるまいし、女の弟子を。失礼だ。」
「失礼、結構、失礼で安心した。しかし、一言でそうむきになって、腰のものを振廻すなよ。だから振られるんだ、遊女持てのしない小道具だ。淀屋か何か知らないが、黒の合羽張の両提の煙草入、火皿までついてるが、何じゃ、塾じゃ揃いかい。」
「先生に貰ったんだ。弁持と二人さ、あとは巻莨だからね。」
「何しろ真田の郎党が秘し持った張抜の短銃と来て、物騒だ。」
「こんなものを物騒がって、一雪を細君に……しっかりおしよ。月村はね、駿河台へ通って、依田学海翁に学んでいるんだ。」
と居直った。
二十九
「学海翁に。」
弦光は瞪目一番した。
「まさか剣術じゃあるまいな。それじゃ、僧正坊の術譲りと……そうか、言わずとも白氏文集。さもありなん、これぞ淑女のたしなむ処よ。」
「違う違う、稗史だそうだ。」
「まさか、金瓶梅……」
「紅楼夢かも知れないよ。」
「何だ、紅楼夢だ。清代第一の艶書、翁が得意だと聞いてはいるが、待った、待った。」
と上目づかいに、酒の呼吸を、ふっと吐いて、
「学海説一雪紅楼夢──待った、待った、第一の艶書を、あの娘に説かれては穏かでない。」
「教ゆ。授く。」
「……教ゆ。授く。気になる、気になる。」
「施す。」
「……施す、妙だ。いや、待った。待った。」
と掌で押えて留めるとともに、今度は、ぐっと深く目を瞑って、
「学海施一雪紅楼夢──や不可え。あの髯が白い頸脚へ触るようだ。女教員渚の方は閑話休題として、前刻入って行った氷月の小座敷に天狗の面でも掛っていやしないか、悪く捻って払子なぞが。大変だ、胸がどきどきして来たぞ。」
弦光はわざとらしく胸をわななかせたと思うと、その胸を反らし、畳後へ両の手をどさんと支いた。
「安心するがいい。誰が紅楼夢だときめたよ、一人で慌てているんじゃないか。一雪の習ってるのは水滸伝だとさ、白文でね。」
「何、水滸伝。はてな、妙齢の姿色、忽然として剣侠下地だ、うっかりしちゃいられない。」
と面を正しく、口元を緊めて坐り直し、
「寝ているうちに、匕首が飛んで首を攫うんだ、恐るべし……どころでない、魂魄をひょいと掴んで、血の道の薬に持って行く。それも、もう他事ではない、既に今朝の雪の朝茶の子に、肝まで抜かれて、ぐったりとしているんだ。聞けば聞得で、なお有難い。その様子じゃ──調ったとして婚礼の時は、薙刀の先払い、新夫人は錦の帯に守刀というんだね。夢にでも見たいよ、そんなのを。……
……といううちにも、糸的、糸的はひとりで目の覚めた顔をして澄ましているが、内で話した、外で逢ったという気振も見せない癖に、よく、そんな、……お京さんいい名だなあ、その娘の駿河台の研学の科目なぞを知っているね。あいつ、高慢だことの、ツンとしているのと、口でけなして何とかじゃないのかい。刺違えるならここで頼む。お互に怪我はしても、生命に別条のない決闘なら、立処にしようと云うんだ。俺はもう目が据っている、真剣だよ。」
「対手にならないが、次第は話そう。──それ、弁持の甘き、月府の酸きさ、誰某と……久須利苦生の苦きに至るまで、目下、素人堅気輩には用なしだ。誰が売女に好かれるか、それは知らないけれどもだよ。──塾の中に一人、自ら、新派の伊井蓉峰に「似てるです。」と云って、頤を撫でる色白な鼻の突出た男がいる。映山先生が洩れ聞いてね、渾名して、曰く──荷高似内──何だか勘平と伴内を捏合わせたようだけれど、おもしろかろう。ところがこれだけが素人ばりの、大の、しんし。」
「大のしんし、いい許の息子、金ありかい。」
「お互に懐中は寂しいね、一杯おつぎよ、満々と。しんしと聞いていい許の息子かは慌て過ぎる、大晦日に財布を落したようだ。簇だよ、張物に使う。……押を強く張る事経師屋以上でね。着想に、文章に、共鳴するとか何とか唱えて、この男ばかりが、ちょいちょい、中洲の月村へ出向くのさ。隅田に向いた中二階で、蒔絵の小机の前を白魚船がすぐ通る、欄干に凭れて、二人で月を視た、などと云う、これが、駿河台へ行く一雪の日取まで知っているんだ。
黙りでは相済まないと思って、「先生、私も、京子とともに無点本の水滸伝。」上杉先生が、「その隙に、すいとんか、おでんを売れ。」「ははっ。」とこそは荷高似内、口をへの字に頤の下まで結んで鼻を一すすり、無念の思入で畳をすごすごと退る処は、旧派の花道の引込みさ。」
「三枚目だな、我がお京さんを誰だと思うよ、取るに足らず。すると、まず、どこにも敵の心配はなしか。」
「……ところがある、あるんだ! 一人ある。」
弦光は猫板に握拳を、むずと出して、
「驚破、驚破、その短銃という煙草入を意気込んで持直した、いざとなると、やっぱり、辻町が敵なのか。」
「噴出さしちゃ不可いぜ。私は最初から、気にも留めていなかった、まったくだ。いまこう真剣となると、黙っちゃいられない。対手がある、美芸青雲派の、矢野も知ってる名高い絵工だ。」
三十
「──野土青麟だよ。」
「あ、野土青麟か。」
「うむ、野土青麟だ。およそ世の中に可厭な奴。」
「当代無類の気障だ。」
声を逸って、言うとともに、火鉢越に二人が思わず握手した。
(……ふと思うと、前段に述べた、作者が、真珠三枚で、書店の支配人と、ばらりの調子で声と指を合わせたと、趣を斉しゅうする。)
「絵だけ描いていれぱ、当人も世間も助かるものを、紫の太緒を胸高々と、紋緞子の袴を引摺って、他が油断をしようものなら、白襟を重ねて出やがる。歯茎が真黒だというが。」
この弦光の言、──聞くべし、特説也。
「乱杭、歯くそ隠の鉄漿をつけて、どうだい、その状で、全国の女子の服装を改良しようの、音楽を古代に回すの、美術をどうのと、鼻の尖で議論をして、舌で世間を嘗めやがる。爪垢で楽譜を汚して、万葉、古今を、あの臭い息で笛で吹くんだ。生命知らずが、誰にも解りこないから、歌を一つ一つ、異変、畜類な声を張り、高らかに唱って、続くは横笛、ひゃらひゅで、緞子袴の膝を敲くと、一座を眗し、ほほほ、と笑って、おほん、と反るんだ。堪らないと言っちゃない。あいつ、麟を改めて鱗とすればいい、青大将め。──聞けばそいつが(次第前後す、段々解る)その三崎町のお伽堂とかで蟠を巻いて黒い舌をべらべらとやるのかい。」
「横笛は、八本の調子を、もう一本上げたいほど高い処で張ってるのさ。貸本屋へしけ込むのは、道士逸人、どれも膏切った髑髏と、竹如意なんだよ──「ちとお慰みにごらん遊ばせ。」──などとお時の声色をそのまま、手や肩へ貸本ぐるみしなだれかかる。女房がまた、背筋や袖をしなり、くなり、自由に揉まれながら、どうだい頬辺と膝へ、道士、逸人の面を附着けたままで、口絵の色っぽい処を見せる、ゆうぜんが溢出るなぞは、地獄変相、極楽、いや天国変態の図だ。」
「図かい。」
「図だよ。」
「見料は高かろう。」
「高い、何、見料どころか、この図を視ながら、ちょんぼり髯の亭主が、「えへへ、ご壮な事だい。」勢の趣くところ、とうとう袴を穿いて、辻の角の(安旅籠)へ、両画伯を招待さ……「見苦しゅうはごわすが、料理店は余り露骨……」料理屋の余り露骨は可訝しいがね、腰掛同然の店だからさ、そこから、むすび針魚の椀、赤貝の酢などという代表的なやつを並べると、お時が店をしめて、台所から、これが、どうだい葛籠に秘め置いた小紋の小袖に、繻珍の帯という扮装で画伯ご所望の前垂をはずしてお取持さ。色紙、短冊、扇面、紙本、立どころに、雨となり、雲となり……いや少し慎もう……竹となり、蘭となる。……情流既に枯渇して、今はただ金慾、野を燎く髯だからね。向うの写真館の、それ「三大画伯お写真。」へは、三崎座の看板前、大道の皿廻しほどには人だかりがするんだから、考えたんだよ。
(──これ皆、中洲を伺い、三崎町を覗く、荷高似内の見聞して報ずるところさ。)
ところで、青麟──青麟と中洲の関係は、はじめ、ただ、貸本屋から本を借りるには、帳面へ、所番地を控える常規だ。きっと、馴染か、その時が初めかは分らないが、店頭で見たお嬢さんの住居も名も、すぐ分るだろう、というので、誰に見せる気だか薄化粧って。」
「白粉を?……遣るだろう!」
「すぼめ口に紅をつけて「ほほほ景気はどうかね。」とお伽堂へ一人で青麟が顕われたそうだ。この方は、女房の手にも足にも触りっこなし、傍へ寄ろうともしない澄まし方、納まり方だそうだが、見ていると、むかっとする、離れていても胸が悪い、口をきかれると、虫唾が走る、ほほほ、と笑われると、ぐ、ぐ、と我知らず、お時が胸へ嘔上げて、あとで黄色い水を吐く……」
「聞いちゃおられん、そ、そいつが我がお京さんを。」
「痛い、痛い。」
「あ、何度めだい、また握手した。糸的もよく一息に饒舌ったなあ。」
三十一
「まず握手を解こう。両方がこう意気込んでは、青麟輩に──断って置くが、意地にも我慢にも、所得は違うが──彼等に対して、いやしくも、糸七、弦光二人掛りのようで癪に障る。そこで、大切なその話はどうなったんだい。」
「……いずれ、その安料理屋へ青麟を請待さ。こいつは、あと二人より大分に値が違うそうだからね。その節は、席を改めまして、が、富士見楼どころだろう。お伽堂の亭主の策略さ。
そこへ、愛読の俥、一つ飛べば敬拝の馬車に乗せて、今を花形の女義太夫もどきで中洲の中二階から、一雪をおびき出す。」
「三崎町へ、いいえさ、地獄変相の図の中へな、ううう。」
「せき込むなよ……という事も出来るし、亭主がまた髯を捻って、「先方御親父が、府会議員とごわすれば、直接に打附って見るも手廻しが早いでごわす。久しく県庁に勤めたで、大なり、小なり議員を扱う手心も承知でごわす。」などという段取になってるそうだ。」
弦光がこの時、腕を拱いた。
「少からず煩いな、いつからだね、そんな事のはじまってるのは。」
「初冬から年末……ははは、いやに仲人染みたぜ……そち以来だそうだ。」
「……だそうじゃ不可いよ、冷淡だよ、友達効のない。」
「頼まれたのは、今日はじめてじゃないか。」
「それにしても冷淡過ぎるよ。──したたかに中洲へ魔手が伸びているのに。」
「私は中洲が煮て喰われようが、焼いて……不可い、人道の問題だ。ただし、呼出されようが、出されまいが、喰わそうが喰わすまいが、一雪の勝手だから、そんな事は構っちゃいられん。……不首尾重って途絶えているけれど、中洲より洲崎の遊女が大切なんだ。しかし、心配は要るまいと思う。荷高の偵察によれば──不思議な日、不思議な場合、得も知れない悪臭い汚い点滴が頬を汚して、一雪が、お伽堂へ駆込んだ時、あとで中洲の背後へ覆被さった三人の中にも、青麟の黒い舌の臭気が頬にかかった臭さと同じだ、というのを、荷高が、またお時から、又聞、孫引に聞いている。お時でさえ黄水を吐く。一雪は舐められると血を吐くだろう、話にはなりゃしないよ。」
弦光は案じ入って、立処に年を取ること十ばかり。
「いやいや、そうでない。すべて悲劇はそこらで起る。不思議に、そんな縁の──万々一あるまいが──結ばる事が、事実としてありかねない。予感が良くない。胸が騒ぐ。……糸ちゃん、すぐにもお伽堂とかへ行って。」
「そいつは、そいつは不可い……」
「なぜだよ、どうもお伽堂というのは、糸的の知合からはじまった事らしいのに、妙に自分を除外して、荷高ばかりを廻しているし、第一、中洲がだね、二三度、その店へ行きながら、糸的のうわさなぞをしないらしいのは、おかしいじゃないか。」
「ちっともしない、何にも言わない。またこっちも、うわさなんかして貰いたくないんだよ。」
──(様子を見ると、仔細は什麽、京子が『たそがれ』を借りた事など、女房は、それに一言も及ばぬらしい。)──
「ただ、いかんせん、亭主に高利の借がある。催促が厳しいんだ。亭主の催促が厳しいのに──そこを蔭になり、日向になり、「あなたア」などとその目でじろりと遣るだろう……白肉の柔い楯になって、庇ってくれようという──女房を、その上に、近い頃また痛めつけた。」
「誰だい、髑髏かい、竹如意かい。」
「また急込むよ。中洲の話になってからというものは、どうも、骨董はあせって不可い。話の続きでも知れてるじゃないか。……高利の借りぬし、かくいう牛骨、私とそれに弁持十二さ。」
「何だ二人でか、まさか、そんな竹如意、髑髏の亜流のごとき……」
「黙るよ、私は。失礼な、素人を馬鹿な、誰が失礼を。」
「はやまった、言のはずみだ、逸外った。その短銃を、すぐに引掴んで引金を捻くるから殺風景だ。」
「けれどもね。実は、その時の光景というのが、短銃と短刀同然だったよ。弁持と二人で、女房を引挟んで。」
といって、苦笑した。
三十二
「──何ね、義理と附合で、弁持と二人で出掛けなくちゃならない葬式があった、青山の奥の裏寺さ。不断は不断、お儀式の時の、先生のいいつけが厳しい。……というのは羽織袴です──弁持も私も、銀行は同一取引の資産家だから、出掛けに、捨利で一着に及んだ礼服を、返りがけに質屋の店さきで、腰を掛けながら引剥ぐと、江戸川べりの冬空に──いいかね──青山から、歩行で一度中の橋手前の銀行へ寄ったんだ。──着流と来て、袂へ入れた、例の菓子さ、紫蘇入の塩竈が両提の煙草入と一所にぶらぶら、皀莢の実で風に驚く……端銭もない、お葬式で無常は感じる、ここが隅田で、小夜時雨、浅草寺の鐘の声だと、身投げをすべき処だけれど、凡夫壮にして真昼間午後一時、風は吹いても日和はよしと……どうしても両国を乗越さないじゃ納まらない。弁持も洲崎に馴染があってね、洲崎の塩竈……松風空風遊びという、菓子台一枚で、女人とともに涅槃に入ろう。……その一枚とさえいう処を、台ばかり。……菓子はこれだ、と袂から二人揃って、件の塩竈を二包。……こいつには、笹川の剣士、平手造酒の片腕より女郎が反るぜ、痛快! となった処で──端銭もない。
ほかに工面のしようがないので、お伽堂へ大刀さ。
三崎町の土手を行ったり来たり、お伽堂の裏手になる。……なまじっか蘆がばらばらだから、直ぐ汐入の土手が目先にちらついて、気は逸るが、亭主が危い。……古本漁りに留守の様子は知ってるけれど、鉄壺眼が光っては、と跼むわ、首を伸ばすわで、幸いあいてる腰窓から窺って、大丈夫。店前へ廻ると、「いい話がある、内証だ。」といきなり女房を茶の間へ連込むと、長火鉢の向うへ坐るか坐らないに、「達引けよや。」と身構えた。「ありませんわ。」極ってら。「そこだ。」というと、言合わせたように、両方から詰寄るのと、両提から鉄砲張を、両人、ともに引抜くのとほとんど同時さ、「身体から借りたいんだ。」「あれえ、」といったぜ。いやみな色気だ、袖屏風で倒れやがる、片膝はみ出させた、蹴出しでね。「騒ぐな。」と言句は凄いぜ、が、二人とも左右に遁げてね、さて、身体から珊瑚の五分珠という釵を借りたんだがね。……この方の催促は、またそれ亭主が妬くといういやなものが搦んでさ、髻を掴んで、引きずって、火箸で打たれました、などと手紙を寄越す、田舎芝居の責場があるから。」
「いや、はや、どうも。いや、どうも。」
屋根の雪がずるずると、窓下へ、どしんと響く。
弦光は坐り直して、
「出直しだ、出直しだ。この上はただ、偏に上杉さんに頼むんだ。……と云って俺も若いものよ。あの娘を拝むとも言いたくないから、似合いだとか、頃合いだとか、そこは何とか、糸的の心づもりで、糸的の心からこの縁談を思いついたようによ、な、上杉さんに。」
「分ったよ。」
「直ぐにも頼む、もう、あの娘は俺の命だから、あの娘なしには半日も──午砲! までも生きられない。ううむ。」
うむと唸って、徳利を枕にごろんとなると、辷った徳利が勃然と起き、弦光の頸窪はころんと辷って、畳の縁で頭を抱える。
「討死したな。……何も功徳だ、すぐにも先生の許へ駆附けよう。──湯に行きたいな。」
「勿論よ。清めてくれ。──婆や、湯に行く支度だ。婆や婆や。」
「ふええ。」
「あれだ、聞いたか──池の端茅町の声でないよ、麻布狸穴の音だ。ああ、返事と一所に、鶯を聞きたいなあ。」
やがて、水の流を前にして、眩い日南の糸桜に、燦々と雪の咲いた、暖簾の藍もぱっと明い、桜湯の前へ立った。
「糸ちゃん、望みが叶うと、よ、もやいの石鹸なんか使わせやしない。お京さんの肌の香が芬とする、女持の小函をわざと持たせてあげるよ。」
悚然として、糸七は不思議に女の肌を感じた。
「昨夜ふられているんだい。」
「おや。」
背中を、どしんと撲わせた。
「こいつ、こいつ。──しかし、さすがに上杉先生のお仕込みだ、もてたと言わない。何だ、見ろ。耳朶に女の髪の毛が巻きついているじゃないか。」
「頭巾を借りて被ったから、矢野のだよ。ああ、何だか、急に、むずむずする。」
「長いなあ、長い、細い、真漆。……口惜いが、俺のはこんな美人じゃない。待てここは二瀬よ。藍染川へ、忍川へ……流すは惜しい、桜の枝へ……」──
桜の枝が、たよたよして、しずれ落ちに雪がさらさらと落ちて、巻きかけた一筋のその黒髪の丈を包んだ。
上野の山の松杉の遠く真白な中から、柳が青く綾に流れて、御堂の棟は日の光紫に、あの氷月の背戸あたり、雪の陽炎う幻の薄絹かけて、紅の花が、二つ、三つ。
三十三
辻町糸七は、ぽかんとしていた仕入もの、小机の傍の、火もない炉辺から、縁を飛んで──跣足で逃げた。
逃げた庭──庭などとは贅の言分。放題の荒地で、雑草は、やがて人だけに生茂った、上へ伸び、下を這って、芥穴を自然に躍った、怪しき精のごとき南瓜の種が、いつしか一面に生え拡がり、縦横無尽に蔓り乱れて、十三夜が近いというのに、今が黄色な花ざかり。花盛りで一つも実のない、ない実の、そのあって可い実の数ほど、大きな蝦蟇がのそのそと這いありく。
歌俳諧や絵につかう花野茅原とは品変って、自から野武士の殺気が籠るのであるから、蝶々も近づかない。赤蜻蛉もツイとそれて、尾花の上から視めている。……その薄さえ、垣根の隅に忍ぶばかり、南瓜の勢は逞しく、葉の一枚も、烏を組んで伏せそうである。
──遠くに居る家主が、かつて適切なる提案をした。曰く、これでは地味が荒れ果てる、無代で広い背戸を皆借そうから、胡瓜なり、茄子なり、そのかわり、実のない南瓜を刈取って雑草を抜けという。が、肥料なしに、前栽もの、実入はない。二十六、七の若いものに、畠いじりは第一無理だし、南瓜の蔓は焚附にもならぬ。町に、隠れたる本草家があって、その用途を伝授しても、鎌を買う資本がない、従ってかの女、いや、あの野郎の狼藉にまかせてあるが、跳梁跋扈の凄じさは、時々切って棄てないと、木戸を攀じ、縁側へ這いかかる。……こんな荒地は、糸七ごときに、自からの禄と見えて、一方は隣地の華族邸の厚い塀だし、一方は大きな植木屋の竹垣だし、この貸屋の背戸として、小さく囲った、まばら垣は、早く朽崩れたから杭もないのに、縁側の片隅に、がたがただけれども、南瓜の蔓が開け閉てする、その木戸が一つ附いていて、前長屋総体と区切があるから、およそ一百坪に余るのが、おのずから、糸七の背戸のようになっている。
(──そこへ遁げた──)
糸七は、南瓜の葉を被らんばかり、驚破といえば躍越えて遁げるつもりの植木屋の竹垣について、薄の根にかくれて、蝦蟇のように跼んで、遁げた抜けがらの巣を──窺えば──
──籠るのは、故郷から出て来て寄食している、糸七の甥の少年で、小説家の巣に居ながら、心掛は違う、見上げたものの大学志願で、試験準備に、神田辺の学校へ通って、折からちょうど居なかった。
七十八歳になるただ一人、祖母ばかり。大塚の場末の──俥がその辻まで来ると、もう郡部だといって必ず賃銀の増加を強請る──馬方の通る町筋を、奥へ引込んだ格子戸わきの、三畳の小部屋で。……ああ、他事ながらいたわしくて、記すのに筆がふるえる、遥々と故郷から引取られて出て来なすっても、不心得な小説孫が、式のごとき体装であるから、汽車の中で睡るにもその上へ白髪の額を押当てて頂いた、勿体ない、鼠穴のある古葛籠を、仏壇のない押入の上段に据えて、上へ、お仏像と先祖代々の位牌を飾って、今朝も手向けた一銭蝋燭も、三分一が処で、倹約で消した、糸心のあと、ちょんぼりと黒いのを背に、日だけはよく当る、そこで、破足袋の継ぎものをしてござった。
さて、その、ひょいと持って軽く置くと、古葛籠の上へも据りそうな、小さな白髪の祖母さんの起居の様子もなしに、悉しく言えば誰が取次いだという形もなしに、土間から格子戸まで見通しの框の板敷、取附きの縦四畳、框を仕切った二枚の障子が、すっと開いて、開いた、と思うと、すぐと閉った。穴だらけの障子紙へ、穴から抜けたように、すらりと立った、霧のような女の姿。
姿を。……
ここから、南瓜の葉がくれに熟と覗くと、霧が濃くなり露のしたたる、水々とした濡色の島田髷に、平打がキラリとした。中洲のお京さん、一雪である。
糸七は、蟇と踞み、
南瓜の葉がくれ、
尾花を透かして、
蜻蛉の目で。
三十四
──この破屋へ、ついぞない、何しに来たろう──
来やがったろう、と言いたくらいだ。そりの合わない……というのも行き過ぎか、合うにも合わないにも妙齢の女なんぞ影も見せたことのない処へ何しに来たろう。──ああ、そうか。矢野(弦光)の、通俗、首ったけな惚れかたを、台町の先生に直ぐ取次いだところ、「好かろう。」と笑いながらの声が掛った。先生の一言だ、「好かろう。」は引受けたと同然だから、いずれ嬉しい返事を、と弦光も待つうちに、さあ……梅雨ごろだったか、降っていた。持崩した身は、雨にたたかれた藁のようになって、どこかの溝へ引掛り、くさり抜いた、しょびたれで、昼間は見っともなくて長屋居廻へ顔も出せない。日が暮れて晩く帰ると、牛込の料理屋から、俥夫が持って駈けつけたという、先生の手紙があって、「弦光座にあり、待つ」とおっしゃる。……飛びたいにも、駈けたいにも、俥賃なぞあるんじゃない、天保銭の翼も持たぬ。破傘の尻端折、下駄をつまんだ素跣足が、茗荷谷を真黒に、切支丹坂下から第六天をまっしぐら。中の橋へ出て、牛込へ潜込んだ、が、ああ、後れた。料理屋の玄関へ俥が並んで、轔々と、一番の幌の中から、「遅いじゃないか。」先生の声にひやりとすると、その後から、「待っていたんですよ。」という声は、令夫人。こんな処へ御同行は、見た事、聞いた事もない、と呆れた、がまた吃驚。三つ目の俥の楫棒を上げた、幌に覗かれた島田の白い顔が……
……あの、お京……いやに、ひったり俯向いた……
幌の中で、どしばたして、弦光が、「辻町か、引返して飲もう」という時、先生の俥がちょっとあと戻りして、「矢野は酔ってる、もう帰んな。……塾のものには誰にも黙っているんだぜ。」──馬鹿にも分った、これは、見合だ。
納ったか、悦に入ったか、気取ったか、弦光め、それきり多日顔を見せに来ない。酒でも催促するようで癪だからこっちからは出向かずと──塾では先生にお目には掛るが、月府、弁持、久須利、荷高の面々が列している。口留をされたほどだから話は出ずと。──結婚はいつだ、とその後、矢野に打撞れば、「息子は世間を知らないよ、紳士、淑女の一生の婚礼だ、引きつけで対妓が極るように、そう手軽に行くものか、ははは。」と笑の、何だか空虚さ。所帯気で緊ると、笑も理に落ちるかと思ったっけ。やがて、故郷、佐賀県の田舎の実家に、整理すべき事がある、といって、夏うち国に帰ったのが──まだ出て来ない。それについて、御縁女、相談に来せられたかな……
糸七は蟇と踞み、
南瓜の葉がくれ、
尾花を透かして、
蜻蛉の目で、
覗きながら、咄嗟に心で思ううちに、框の障子の、そこに立ったお京の、あでやかに何だか寂しい姿が、褄さきが冷いように、畳をしとしと運ぶのが見えて、縁の敷居際で、すんなりと撓うばかり、浮腰の膝をついた。
同時に南瓜の葉が一面に波を打って、真黄色な鴎がぱっと立ち、尾花が白く、冷い泡で、糸七の面を叩いた。
大塚の通を、舟が漕ぎ、帆が走る……
──や、あの時にそっくりだ。そうだ、しかも八月極暑よ。去んぬる年、一葉女史を、福山町の魔窟に訪ねたと同じ雑誌社の用向きで、中洲の住居を音信れた事がある。府会議員の邸と聞いたが、場処柄だろう、四枚格子の意気造り。式台で声をかけると、女中も待たず、夕顔のほんのり咲いた、肌をそのままかと思う浴衣が、青白い立姿で、蘆戸の蔭へ透いて映ると、すぐ敷居際に──ここに今見ると同じ、支膝の七分身。紅、緋でない、水紅より淡い肉色の縮緬が、片端とけざまに弛んで胸へふっさりと巻いた、背負上の不思議な色気がまだ目に消えない。
──原稿を十四五枚、言託けただけで帰ろうと思うのを、「どうぞ、」と黙って入ってしまった。埃だらけの足を、下駄へ引擦ったなり、中二階のような夏座敷へ。……団扇を出したっけな、お京も持って。さて、何を聞いたか、饒舌ったか、腰掛窓の机の前の大川の浪に皆流れた。成程、夕顔の浴衣を着た、白い顔の眉の上を、すぐに、すらすらと帆が通る……と見ただけでも、他事ながら、簇、荷高似内のする事に、挙動の似たのが、気咎めして、浅間しく恥しく、我身を馬鹿と罵って、何も知らないお京の待遇を水にした。アイスクリームか、ぶっかきか、よくも見ないで、すたすた、どかどか、がらん、うしろを見られる極りの悪さに、とッつき玄関の植込の敷石に蹴躓いて、ひょろ、ひょろ。……
「何のざまだ。」
心の裡で呟いた……
糸七は蟇と踞み。
南瓜の葉蔭に……
三十五
尾花を透かして、
蜻蛉の目で。
内へ帰れば借金取、そこら一面八方塞り、不義理だらけで、友達も好い顔せず、渡って行きたい洲崎へも首尾成らず……と新大橋の真中に、ひょろ、ひょろのままで欄干に縋って立つと、魂が中ぶらり、心得違いの気の入れどころが顛倒っていたのであるから、手玉に取って、月村に空へ投出されたように思った。一雪め、小説なぞ書かなければ、雑誌編輯の用だと云って、こんな使いはしまいものを、お京め。と、隅田の川波、渺々たるに、網の大きく水脚を引いたような、斜向うの岸に、月村のそれらしい、青簾のかかった、中二階──隣に桟橋を張出した料理店か待合の庭の植込が深いから、西日を除けて日蔭の早い、その窓下の石垣を蔽うて、もう夕顔がほの白い……
……時であった。簾が巻き消えに、上へ揚ると、その雪白の花が、一羽、翡翠を銜えた。いや、お京の口元に含んだ浅黄の団扇が一枚。大潮を真南に上げ颯と吹く風とともに、その団扇がハッと落ちて、宙に涼しい昼の月影のようにひらひらと飜ると見るうちに、水面へスッと流れて、水よりも青くすらすらと橋へ寄った。その時悚然として、目を閉いで俯向いた──挨拶をしたかも知れない。──
さて何と思ったろう……その晩だったか、あと二三日おいてだったか、東雲の朝帰りに、思わず聞いた、「こんな身体で、墓詣りをしてもいいだろうか。」遊女が、「仏様でしたら差支えござんすまい。御両親。」その墓は故郷にある。「お許婚……?」「いや、」一葉女史の墓だときいて、庭の垣根の常夏の花、朝涼だから萎むまいと、朝顔を添えた女の志を取り受けて、築地本願寺の墓地へ詣でて、夏の草葉の茂りにも、樒のうらがれを見た覚えがある……
……とばかりで、今、今まで胴忘れをしていた、お京さん……が、何しに来たろう。ああ、あの時の雑誌の使いの挨拶だ。
尾花を透かして、
蜻蛉の目で。……
見ていると、その縁の敷居際に膝をついたまま、こちらを視めたようだっけ……後姿に、そっと立った。真横の襖を越して、背戸正面に半ば開いたのが見える。角の障子の、その、隅へ隠れたらしい。
それは居間だ。四畳半、机がある。仕事場である。が、硯も机も埃だらけ、炉とは名のみの、炬燵の藻抜け、吸殻ばかりで、火の気もない。
右手の一方は甥の若いのが遣り放し、散らかし放題だが、まだその方へ入ってくれればよかったものをと、さながら遁出したあとの城を、乗取られたようなありさまで。──とにかく、来客──跣足のまま、素袷のくたびれた裾を悄々として、縁側へ──下まで蔓る南瓜の蔓で、引拭うても済もうけれど、淑女の客に、そうはなるまい。台所へ廻ろうか、足を拭いてと、そこに居る娘の、呼吸の気勢を、伺い伺い、縁端へ。──がらり、がちゃがちゃがちゃん。吃驚した。
耳元近い裏木戸が開くのと、バケツを打ッつけたのが一時で、
「やーい、けいせい買のふられ男の、意気地なしの弱虫や、花嫁さんが来たって遁げたや、ちゃッ、ちゃッ、ちゃッ。」
……と、みそさざいのように笑ったのは、お滝といって、十一二、前髪を振下げた、舞みだれの蝶々髷。色も白く、子柄もいいが、氏より育ちで長屋中のお茶ッぴい。
「足をお洗いよ、さあ、ぼんやりしないで、よ、光邦様。」
けいせい買の、ふられ男の弱虫は、障子が開くと、冷汗をした。あまつさえ、光邦様。……
五目の師匠も近所なり、近い頃氷川様の祭礼に、踊屋台の、まさかどに、附きっきりで居てから以来、自から任じて、滝夜叉だから扱いにくい。
「チチーン、シャン、チチチ、チチチン。(鼓の口真似)ポン、ポン、大宅の太郎は目をさまし……ぼんやりしないでさ。」
「馬鹿、雑巾がないじゃないか。」
「まあ、この私とした事が、ほんにそうでござんした、おほほ。」
ちゃッちゃッ、と笑いながら、お滝が木戸をポイと出る。糸七の気早く足へ掛けたバケツの水は、南瓜にしぶいて、ばちゃばちゃ鳴るのに、障子一重、そこのお京は、気息もしない。はじめからの様子も変だし、消えたのではないか、と足首から背筋が冷い。
衣の薫が、ほんのりと、お京がすッとそこへ出た。
三十六
慌てて、
「唯今、御挨拶。」
これには、ただ身の動作で、返事して、
「おつかいなさいましな。」
と、すぐに糸七が腰かけた縁端へ、袖摺れに、色香折敷く屈み腰で、手に水色の半帕を。
「私が、あの……」
と、その半帕を足へ寄せる。
呆気に取られる。
「ね。」
「よして、よして下さい。罰が、罰が当る。」
「罰の当りますのは私の方です、私の方です。」
切った声して、
「──牛込の料理屋へ、跣足で雨の中をおいでなさいました。あの時にも、おみあしを洗って上げたかったんです。」
「何の事です、あれは先生の用で駆けつけたんです。」
「でも、それだって。」
「不可い不可い、不可ません。あなたの罰はともかくも、御両親の罰が当る──第一何の洒落です。」
「洒落……」
と引息に声が掠れて、志を払退けられたように、ひぞりもし拗ねた状に、身を起してお京が立った。
そこへ、お滝が飛込んで──
「あい、雑巾。あら、あら、二人とも気取ってる。バケツが引っくり返ってるじゃないの──テン、チン、嵯峨やおむろの花ざかり、浮気な蝶も色かせぐ、廓のものにつれられて、外めずらしき嵐山、ソレ覚えてか、きみさまの、袴も春の朧染、おぼろげならぬ殿ぶりを、見初めて、そめて、恥かしの、森の下露、思いは胸に、」
と早饒舌りの一息にやってのけ、
「わあい……光邦、妖術にかかって、宙に釣られて、ふらふらしてるよ。」
背中にひったり、うしろ姿でお京が立ったのを、弱った糸七は沓脱がないから、拭いた足を、成程釣られながら、密と振向いて見ると、愁を瞼に含めて遣瀬なさそうに、持ち忘れたもののような半帕が、宙に薄青く、白昼の燐火のように見えて、寂しさの上に凄いのに、すぐ目を反らして首垂れた。
お滝が、ひょいと、飛んで傍へ来て、
「きれいなお姉ちゃん、少しお動きよ。」
「はい、動きましょう。」
と、縁をうつくしい褄捌き、袖の動きに半帕を持添えて、お滝の掌へ、ひしと当てた。
「これ、雑巾のおうつりです。」
「あら、あら、私に。」
「でも新しいんですから。」
お滝は受けた半帕を、前髪に当て、額に当て、頬に当て、頬摺して、肩へかけ、胸に抱いた、その胸ではらりと拡げ、小腕を張って、目を輝かして身を反らし、
「さてこそさてこそ、この旗を所持なすからは、問うに及ばず、将門が忘れがたみ、滝夜叉姫であろうがな。」
「何だ、あべこべじゃないか、違ってら。」
「チエエ、残念や、口おしや、かくなるうえは何をかつつまん、まこと我こそ──滝夜叉なるわ。どろんどろん、」
と、あとしざりに、
「……帯だって出来るわ、この半帕。嬉しい! 花嫁さん、ありがとう、お楽しみ光邦様、どろんどろん。」
木戸も閉めないで、トンと行く。
「──何とも、かとも、言いようはありません。」
すぐにお京を招じ入れた、というよりも、お京はひとりでに、ものあって誘うように、いま居た四畳半の縁の障子と、格子戸見通しの四畳を隔てた破襖の角柱で相合うその片隅に身を置いたし、糸七は窓下の机の、此方へ、炉を前にすると同時に、いきなり頭を下げて、せき込んで言ったのである。
「何とも、かとも、いいようはありません、失礼しました。」
お京は薄い桔梗色の襟を深く、俯向いて、片手で胸をおさえて黙っていたが、島田を簪で畳の上へ縫ったように手をついた。
「辻町さん……私を折檻して、折檻して下さいまし。折檻して下さいまし。」
「何、折檻。」
「ええ。」
「折檻、あなたはおよそ折檻ということを、知っていますか。あなたの身で、そのおからだで折檻という言葉をさえ知っていますか、本では読み話では聞いて、それは知っていらっしゃるかも知れませんが、何をいうんです。」
──一昨年か、一昨々年、この人の筆に、かくもの優しい、たおやかな娘に、蝦蟇の面の「べっかっこ。」、それも一つの折檻か、知らず、悪たれ小僧の礫をぶつけた──悪戯を。
糸七はすくむよりも、恐れるよりも、ただ、悄然とするのであった。
三十七
上げた顔は、血が澄んで、色の白さも透通る……お京は片袖を膝の上に、
「何よりか、あの、何より先に、申訳がありません。あなたのお内へお許しも受けないで、お言葉も受けないで、勝手に上って来たんですもの。」
「そんな、そんな事、何、こんな内、上るにも、踏むにも、ごらんの通り、西瓜の番小屋でもありゃしません、南瓜畑の物置です。」
「いいえ、いいえ、私だって、幾度も、お玄関で。」
「あやまります、恐入ります。お玄関は弱り果てます。」
「おうかがいはしたんですけれど、しんとして、誰方のお声も聞えません。」
「すぐ開き扉一つの内に、祖母が居ますが、耳が遠い。」
「あれ、お祖母様にも失礼な、どうしたら可いでしょう。……それに、御近所の方、おかみさんたちが多勢、井戸端にも、格子外にも、勝手口にも、そうしてあの、花嫁、花嫁。……」
「今も居ます。現に居ます、ごめんなさい。談じます。談判します、打なぐります、花嫁だなんて失礼な。」
「あれ、あなた、そんな気ではありません。極りが悪くて、極りが悪くて、外へ出られないもんですから、お内へ入ってかくれました。それだし、ただ、人の口の端の串戯だけでも、嫁だなぞと、あなたのお耳へ入ったらどうしようと、私……私を見て、庭へ出ておしまいなさいますし、私、死にたくなりました。」
と、片袖で顔をかくすと、姿も、消入る風情である。
「それが、それがです、それにわけがあるんです。何しろ、あなたを見てからではありません、見ない前に飛出したんです、──今申訳をします。待って下さい。どうも、何しろ、周囲が煩い。」
軸物も、何もない、がらん堂の一つ道具に、机わきの柱にかけた、真田が短銃の両提。
鉄の煙管はいつも座右に、いまも持って、巻莨の空缶の粉煙草を捻りながら、余りの事に、まだ喫む隙を見出さなかった、その煙管を片手に急いで立って、机の前の肱掛窓の障子を開けると、植木屋の竹垣つづきで、細い処を、葎くぐりに人は通う。
「──夜叉的、夜叉的。」
声の下に、鼻の上まで窓の外へ、二ツ目が出た。
「光邦様、何。」
ひやりと、また汗になりながら、
「媽々連を追払ってくれ、消してくれよ、妖術、魔術で。」
黙って瞬でうなずいた目が消えると、たちまち井戸端へ飛んだと思う、総長屋の桝形形の空地へ水輪なりにキャキャと声が響いた。
「放れ馬だよ、そら前町を、放れ馬だよ、五匹だ。放れ馬だよッ。」
跫音が、ばたばたばた、そんなにも居たかと思う。表通の出入口へ、どっと潮のように馳り退いて、居まわりがひっそりする、と、秋空が晴れて、部屋まで青い。
畳の埃も澄んだようで、炉の灰の急な白さ。背きがち、首だれがちに差向ったより炉の灰にうつくしい面影が立って、その淡い桔梗の無地の半襟、お納戸縦縞の袷の薄色なのに、黒繻珍に朱、藍、群青、白群で、光琳模様に錦葉を織った。中にも真紅に燃ゆる葉は、火よりも鮮明に、ちらちらと、揺れつつ灰に描かるる。
それを汚すようだから、雁首で吹溜めの吸殻を隅の方へ掻こうとすると、頑固な鉄が、脇明の板じめ縮緬、緋の長襦袢に危く触ろうとするから、吃驚して引込める時、引っかけて灰が立った。その立つ灰にも、留南木の香が芬と薫る。
覚えず、恍惚する、鼻の尖へ、炎が立って、自分で摺った燐寸にぎょっとした。が、しゃにむに一服まず吸って、はじめて、一息吻とした。
「月村さん、あなたを見て、花嫁、いや、待って下さい。言うのも憚りますが、その花嫁のわけなんです。──実は、今更何とも面目次第もありません、跣足で庭へ遁げましたのも、盟って言います。あなたのお姿を見てからではないのです。……
……聞いたばかり、聞いたばかりで腰も抜かさないのは、まだしもの僥倖で飛出したんです。今しがた、あなたが、大方、この長屋の総木戸をお入んなすった時でしょう。その頃です、唯今のお茶っぴいが、その窓から頭を出して、「花嫁が来た。」と言ったんです。──来たらば知らしておくれよ、と不断、お茶っぴいを斥候同然だったものですから、聞くか聞かないに、何とも、不状を演じました。……いま、そのわけを話しますが。……
……煙草は……それはありがたい、お嫌でも、お友だちがいに、すぱすぱ。」
と妙に砕けて、変に勢って、しょげて、笑って、すぱすぱ。
三十八
「……また何も、ここへ友達を引張り出して、それに託けるのは卑怯ですが、二月ばかり前でした。あなたなぞの前では、お話もいかがわしい悪場所の、それも獣の巣のような処へ引掛ったんです。泥々に酔って二階へ押上って、つい蹌踉けなりに梯子段の欄干へつかまると、ぐらぐらします。屋台根こそぎ波を打って、下土間へ真逆に落ちようとしました……と云った楼で。……障子の小間は残らず穴ばかり。──その一つ一つから化ものが覗いて、蛞蝓の舌を出しそうな様子ですが、ふるえるほど寒くはありませんから、まず可いとして、その隅っ子の柱に凭掛って、遣手という三途河の婆さんが、蒼黒い、痩せた脚を突出してましてね。」
……褌というのを……控えたらしい。
「舐めちゃ取り、舐めちゃ取り、蚤だか、虱だか捻っています。──あなたも、こんな、私のようなものの処へおいで下すった因果に、何事も忘れてお聞き下さい。
その蚤だか虱だかを捻る片手間に、部屋から下ったという蕎麦の残り、伸びて、蚯蚓のようにのたくるのを撮んじゃ食い、撮んじゃ食う。そこをまた、牙と舌を剥出して、犬ですね、狆か面の長い洋犬などならまだしも、尻尾を捲上げて、耳の押立った、痩せて赤剥だらけなのが喘ぎながら掻食う、と云っただけでも浅ましさが──ああ、そうだ。」
糸七は煙管を落した。
「あなたの吉原の随筆は、たしか、題は『あさましきもの。』でしたね。私が飛んだ『べッかッこ』をした。」
「もう、どうぞ。」
お京は膝に袖を千鳥に掛けたまま、雌浪を柔に肩に打たせた。
「大目玉を頂きましたよ、先生に。」
「もうどうぞ、ご堪忍。」
「いや、お詫びは私こそ、いわばやっぱりあなたの罰です。その「浅ましい」一つの穴で……部屋は真暗、がたがた廊下の曲角に、洋鉄の洋燈一つ。余り情ない、「あかりが欲い。」……「蝋燭代を別に出せ。」で、奈落に落ちて一夜あける、と勘定は一度済ましたんですが、茶を一杯にも附足しの再勘定、その勘定書を、その勘定を催促しても、わざと待たして持って来ません。これが、ぼると言います。阿漕な術です。はめられたんです。といううちに、朝直し……遊蕩が二度振になって、また、前勘定、このつけを出されると、金が足りない、足りないどころですか、まるで始末が出来ないのです。
──「あさましきもの」が引受けてくれました、暑いのに、破屏風にすくんで、かびた蒲団に縮まったありさまは、人間に、そのまま草が生えそうです。無面目で廊下へ顔も出せません。お螻の兄さん、ちと、ご運動とか云って、「あさましきもの」に廊下へ連出されると、トトトン、トトトンと太鼓の音。それを、欄干から覗きますとね、漬物桶、炭俵と並んで、小さな堂があって、子供が四五人──午の日でした。お稲荷講、万年講、お稲荷さんのお初穂。「お初穂よ、」といって、女がお捻を下へ投げると、揃って上を向いた。青いんだの、黄色いんだの、子供の狐の面を五つ見た時は、欄干越に廂へ下った女の扱帯が、真赤な尻尾に見えたんです。
その女が、これも化けた一つの欺で、俥まで拵えて、無事に帰してくれたんです。が、こちらが身震をするにつけて、立替の催促が烈しく来ます。金子は為替で無理算段で返しましたが、はじめての客に帰りの俥まで達引いた以上、情夫──情夫(苦い顔して)が一度きり鼬の道では、帳場はじめ、朋輩へ顔が立たぬ、今日来い、明日来い、それこそ日ぶみ、矢ぶみで。──もうこの頃では、押掛ける、引摺りに行く、連れて帰る、と決闘状。それが可恐さに、「女が来たら、俥が見えたら、」と、お滝といいます……あのお茶っぴいに、見張を頼んで、まさか、女郎、とはいえませんから、そこは附景気に、「嫁が来るんだ。遠くからでも見えたら頼むよ。」合点ものです。そいつが、今です、前刻ですよ。そこから覗いて、「来たよ、花嫁。」……
一言で面くらって、あなたのお顔も、姿も見ないで、跣足で庭へ逃出した始末です。断じて、決して、あなたと知って逃げたのではありません。」
しまった! 大家が家賃の催促でも済んだものを、馬鹿の智慧は後からで、お京のとりなしの純真さに、つい、事実をあからさまに、達引だの、いや矢ぶみだの、あさましく聞きはしないか、と、舌がたちまち縮んで咽喉へ声の詰る処へ。
「光邦様。」
日ぶみ矢ぶみの色男の汗を流した顔を見よ。いまうわさしたその窓から、お滝の蝶々髷が、こん度は羽目板の壊れを踏んで上ったらしい。口まで出た。
「お客様の、ご馳走は。……つかいに行って上げるわよ。」
また、冷汗だ、銭がない。
三十九
「これは、これは、おうようこそや。……今の、上り端を覗いたら、見事な駒下駄があったでの。」
ちと以前より、ごそごそと、台所で、土瓶、炭、火箸、七輪。もの音がしていたが、すぐその一枚の扉から、七十八の祖母が、茶盆に何か載せて出た。
これにお京のお諸礼式は、長屋に過ぎて、瞠目に価値した。
「あの、お祖母様……お祖母様。」
二声目に、やっと聞えて、
「はい、はい。」
「辻町さんに……」
「…………」
「糸七さんに……」
肩身を狭く、ちょっと留めて、
「そんな事いったって、分りませんよ。」
「……お孫さんに。……」
「はい。」
「いろいろとお世話になります。」
「……孫めは幸福、お綺麗なお客様で、ばばが目にも枯樹に花じゃ。ほんにこの孫の母親、わしには嫁ごじゃ。江戸から持ってござっての、大事にさしゃった錦絵にそのままじゃ。後の節句にも、お雛様に進ぜさした、振出しの、有平、金米糖でさえ、その可愛らしいお口よごしじゃろうに、山家在所の椎の実一つ、こんなもの。」
と、へぎ盆も有合さず、菜漬づかいの、小皿をそこへ、二人分。糸七は俯向いた。一雪よ、聞け。山果庭ニ落チテ、朝三ノ食秋風ニ饜クとは申せども、この椎の実とやがて栗は、その椎の木も、栗の木も、背戸の奥深く真暗な大藪の多数の蛇と、南瓜畑の夥多しい蝦蟇と、相戦う衝に当る、地境の悪所にあって、お滝の夜叉さえ辟易する。……小雀頬白も手にとまる、仏づくった、祖母でなくては拾われぬ。
「それからの、青紫蘇を粉にしたのじゃがの、毒にはならぬで、まいれ。」
と湯気の立つ茶椀。──南無三宝、茶が切れた。
「ほんにの、これが春で、餅草があると、私が手に、すぐに団子なと拵えて進じょうもの。孫が、ほっておきで、南瓜の葉ばかり何にもないがの。」
と寂しい笑いの、口には歯がない。
お京がいとしげに打傾き、
「お祖母様、いまに可愛い嫁菜が咲きます。」
「嫁菜がの、嬉しやの、あなたのような、のう。」
糸七は仰天した、人参のごとく真まで染って、
「お祖母さん、お祖母さん、お祖母さん、そんな事より、仏間へ行って、この、きれいな、珍らしいお客様の見えた事を、父、母に話して下さい。」
「おいの、そうじゃの。」
何と思ったか、お京が急いで、さも、遠慮のないように椎の実を取った。
「お祖母様。」
「……おお、食べてくださるかの。」
「おいしい……」
と、長いまつ毛をふるわせて、
「三度、三度、ここに居まして、ご飯のかわりに頂いたら、どんなにか嬉しいでしょう……」
と、息をふくんだ頬を削って、ツと湧く涙に袖を当てると、いう事も、する事も、訳は知らず誘われて、糸七も身を絞ってほろほろと出る涙を、引振うように炉に目を外らした。
「喧嘩せまい、喧嘩せまい。何じゃ、この、孫めがまた……」
「──お祖母さん、芝居の話をしていたんです、それが悲しいもんですから。」
「それは、それは……嫁ごもの、芝居が何より好きでござったよ。たんと、ゆっくり話さっしゃい。……ほんにの、お蒲団もない。道中にも、寝床にも被るのなれど、よう払うてなと進ぜましょう。」
祖母の立ったのを見ると斉しく、糸七はぴったり手をついた。
「祖母の失言をあやまります。」
「勿体ない。私は嬉しゅう存じました。」
と膝を退って、礼を返して、
「辻町さん、では、失礼をいたします。」
何しに来たこの女、何を泣いたこの女、なぜ泣かせたこの女、椎と青紫蘇の葉に懲りて、破毛布に辟易したろう。
黙って、糸七が挨拶すると、悄然と立った、が屹と胸を緊めた。その姿に似ず、ゆるく、色めかしく、柔かな、背負あげの紗綾形絞りの淡紅色が、ものの打解けたようで可懐しい。
框の障子を、膝をついて開けると、板に置いた、つつみものを手に引きつけて、居直る時、心急いた状に前褄が浅く揺れて、帯の模様の緋葉が散った。
「お恥しいもんです。小さな盃は、内に久しくありました。それに、お酒をお一口。」
四十
「…………」
「私……しばらくお別れに来たんです。」
「……旅行──遠方へ。」
「いいえ。」
糸七は釈然として、胸で解けた。
「ああ、極りましたか、矢野とお約束。」
眉が一文字に、屹と視て、
「あの方、お断りしてしまいました、他所へ嫁に参ります。」
「他所へ。……おきき申すのも変ですが。」
お京は引結んだ口元をやっと解いたように見えて、
「野土青麟の許へです。」
糸七は聞くより思わず戦いた。あの青大将が、横笛を、臭を浴びても頬が腐る、黒い舌に──この帯を、背負揚を、襟を、島田を、緋の張襦袢を、肌を。
「あなたが、あなたが、私を──矢野さんにお媒妁なすった事を聞きました口惜しさに──女は、何をするか私にも分りません──あなたが世の中で一番お嫌いだという青麟に、結納を済ませたんです。」
「…………」
「辻町さん、よく存じております、知っていたんです。お嫌いなさいますのも、お憎しみも分っています。いますけれど、思う方、慕う方が、その女を余所へ媒妁なさると聞いた時の、その女の心は、気が違うよりほかありません。」
と蒼い顔で、また熟と視て、はっと泣きつつ、背けた背を、そのまま、土間へ早や片褄。その褄を圧えても、帯をひしと掴んでも、搦まる緋が炎でも、その中の雪の手首を衝と取っても、世にげに一度は許されよう、引戻そうと、我を忘れて衝と進んだ。
「危え、危え、ええ危えというに、やい、小阿魔女め。」
「何を小癪な……チンツン」
と、目をぱっちり、ちょっと、一見得。
黒鴨の俥夫が、後から、横から、飛廻って、喚くを構わず、
「チンツン、さすがの勇者もたじたじたじ、チチレ、トツツル、ツンツ、ツンツ、こずえ木の葉のさらさらさら、チャン、チャン、チャンチャンラン、チャンラン、魔風とともに光邦が、襟がみつかんで……おほほ、ははは、ちゃっちゃっ、ちゃっ。」
お京の姿を、框に覗くと、帰る、と見た、おしゃまの、お先走りのお茶っぴいが、木戸傍で待った俥の楫棒を自分で上げて右左へ振りながら駆込んで来たのである。
「わかれに、……その気でいたかも知れない。」
小杯は朱塗のちょっと受口で、香炉形とも言いそうな、内側に銀の梅の蒔絵が薫る。……薫るのなんぞ何のその、酒の冷の気を浴びて、正宗を、壜の口の切味や、錵も匂も金色に、梅を、朧に湛えつつ、ぐいと飲み、ぐいと煽った──立続けた。
吻と吹く酒の香を、横状に反らしたのは、目前に歴々とするお京の向合った面影に、心遣いをしたのである。
杯を持直して、
「別れだといいました。糸七も潔く受けました。あなたも、一つ。」
弱い酒を、一時に、頭上った酔に、何をいうやら。しかもひたりと坐直って、杯を、目ざすお京の姿に献そうとして置くのが、畳も縁も、炉縁も外れて、ずか、と灰の中へ突込もうとして、衝と手を引いて、ぎょっとしたように四辺を視た。
「どうかしている。」
第一に南瓜畠が暗かった。数千の葉が庭ぐるみ皆戦いだ。颶風落来と目がくらみ、頭髪が乱れた。
その時、遣場に失した杯は思わず頭の真中へ載せたそうである。
一よろけ、ひょろりとして、
「──一段と烏帽子が似合いて候──」
とすっくり立った。
が、これは雪の朝、吉原を落武者の困惑を繰返したものではない。一人の友達の、かつて、深山越の峠の茶屋で、凄じき迅雷猛雨に逢って、遁げも、引きも、ほとんど詮術のなさに、飲みかけていた硝子盃を電力遮断の悲哀なる焦慮で、天窓に被ったというのを、改めて思出すともなく、無意識か、はた、意識してか、知らず、しかくあらしめたものである。
青麟に嫁く一言や、直ちに霹靂であった。あたかもこの時の糸七に、屋の内八方、耳も目も、さながら大雷大風であった。
四十一
と、突立ったまま、苦い顔、渋い顔、切ない顔、甘い顔、酔って呆けた青い顔をしていた。が、頬へたらたらと垂れかかった酒の雫を、横舐めに、舌打して、
「鳴るは滝の水、と来るか、来たと……何だ、日は照るとも絶えずとうたりか、絶えずとうたりと、絶えずとうたり、とくとく立てや手束弓の。」
真似を動いて、くるくる舞ったが、打傾いて耳を聳て、
「や、囃子が聞える。ええ、横笛が。笛は止せ、笛は止せ、止せ、止さないか、畜生。」
と、いうとともに、胆略も武勇もない、判官ならぬ足弱の下強力の、ただその金剛杖の一棒をくらったごとく、ぐたりとなって、畳にのめった。
がんがんがんと、胸は早鐘、幽にチチと耳が鳴る。
仏間にては、祖母が、さっきの言を真に受けて、りんなど打っていられはしないか。この秋の取ッつきに、雷雨おびただしかりし中に、ピシャン、と物凄く響いたのを、昼寝の目を柔かに孫を視て、「軒近に桶屋が来ているかの、竹の箍が弾いたようじゃ。」と、またうとうとと寝ったほど、仏になってござるから、お京が今し帰った時の俥の音など、沙汰なしで、ご存じないが。
「祖母さん……」
なき父、なき母。
「私は決してお京さんに。……ただただ、青大将の女房にはしたくないんです。」
と、きちんと両手をついたかと思えば、すぐに引毮りそうな手を、そのまま宙に振って、また飛上って、河童に被った杯をたたいた。
「でんでん虫、虫。雨も風も吹かンのんに、でんでん虫、虫……」
と、狂言舞に、無性矢鱈に刎歩行く。
のそのそ、のそのそ、一面の南瓜の蔭から這出したものは蝦蟇である。とにかく、地借の輩だし、妻なしが、友だち附合の義理もあり、かたがた、埴生の小屋の貧旦那が、今の若さに気が違ったのじゃあるまいか。狂い方も、蛞蝓だとペロリと呑みたくなって危いが、蝸牛なら仔細あるまい、見舞おうと、おのおの鹿爪らしく憂慮気に、中には──時々の事──縁へ這上ったのもあって、まじまじと見て面を並べている。
ここに不思議な事は、結びも、留めもしない、朱塗の梅の杯が気狂舞に跳ねても飛んでも、辷らず、転らず、頭から落ちようとしないので。……ふと心附いて、蟇のごとく跼んで、手もて取って引く、女の黒髪が一筋、糸底を巻いて、耳から額へ細りと、頬にさえ掛っている。
猛然として、藍染川、忍川、不忍の池の雪を思出すと、思わず震える指で、毛筋を引けば、手繰れば、扱けば、するすると伸び、伸びつつ、長く美しく、黒く艶やかに、芬と薫って、手繰り集めた杯の裡が、光るばかりに漆を刷く。と見ると、毛先がおのずから動いて、杯の縁を刎ね、灰に染めじ、と思う糸七の袖に弛く掛りながら、すらすらと濡縁へ靡いたのである。
この瞬間、誰が、その藍染川、忍川、不忍の池を眺めた雪の糸桜を憶起さずにいられよう。
見る見る、黒髪に散る雪が、輝く膚を露呈して、再び、あの淡紅色の紗綾形の、品よく和やかに、情ありげな背負揚が解け、襟が開け緋が乱れて、石鹸の香を聞いてさえ、身に沁みた雪を欺く肩を、胸を、腕を……青大将の黒い歯が、黒い唾が、黒い舌が。──
糸七は拳を固めて宙を打った──「この狂人」──「悪魔が憑いたか、狂わすか、しまったり」……と叫びつつ、蝦蟇を驚かしつつ、敷きわがね、伸び靡いた、一条の黒髪の上を、光琳の錦を敷いた木の葉ぢらしの帯の上のごとく、転々として転げ倒れた。
「光邦様、光邦様。」
ぎょっとすると、お滝夜叉。
「あい、お手紙。ほら、さっき来たんだけれどね、ね、花嫁が妬くと悪いから預っといたのよ、えらいでしょう。……女の人の手紙なんですもの。」
──お伽堂、時より──で、都合で帰郷する事になり、それにつけ、いつぞや、『たそがれ』など、あなたを大のご贔屓の、中坂下のお娘ごのお達引で、金子、珊瑚の釵の、ご心配はもうなくなりましたと申したのは、実は中洲、月村様のお厚情。京子様、その事堅くお口どめゆえ、秘してはおりましたが、このたび帰国の上は、かれこれ、打明けます折もつい伸々と心苦しく、お京様とは幾久しきおつきあい、何かにつけ、お胸にそのお含み、なによりと存じ…………
──もう可い。
作者自から評して云う、この(結び)には拵えた作意がある。誰方にもよく解る。……お滝が手紙を渡す条である。纏りがいいようにと思ったが、見えすいた筋立らしい、こんな事はしないが好い。──実は、お伽堂の女房の手紙が糸七に届いたのは、過ぐること二月ばかり、お京さんと、野土青鱗(あおだいしょうめ)画伯と、結婚式の済んだ後だったのだそうである。
底本:「泉鏡花集成10」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年7月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十四卷」岩波書店
1940(昭和15)年6月30日発行
入力:門田裕志
校正:染川隆俊
2008年10月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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