縷紅新草
泉鏡花



       一


あれあれ見たか、

  あれ見たか。

二つ蜻蛉とんぼが草の葉に、

かやつり草に宿をかり、

人目しのぶと思えども、

羽はうすものかくされぬ、

すきや明石あかしぢりめん、

肌のしろさも浅ましや、

白い絹地の赤蜻蛉。

雪にもみじとあざむけど、

世間稲妻、目が光る。

  あれあれ見たか、

    あれ見たか。


「おじさん──その提灯ちょうちん……」

「ああ、提灯……」

 唯今ただいま、午後二時半ごろ。

「私が持ちましょう、いしだん打撞ぶつかりますわ。」

 一肩上に立った、その肩もすそも、しなやかな三十ばかりの女房が、白い手を差向けた。

 お米といって、これはそのおじさん、辻町糸七──の従姉いとこで、一昨年おととし世を去ったお京の娘で、土地に老鋪しにせ塗師屋ぬしやなにがしの妻女である。

 でつけの水々しく利いた、おとなしい、しずか円髷まるまげで、頸脚えりあしがすっきりしている。雪国の冬だけれども、天気はし、小春日和だから、コオトも着ないで、着衣きもののおめしで包むも惜しい、色の清く白いのが、片手に、お京──その母の墓へ手向ける、小菊の黄菊と白菊と、あれはわびしくて、こちこちと寂しいが、土地がら、今時はおさだまりの俗にとなうる坊さん花、あざみやわらかいような樺紫かばむらさき小鶏頭こげいとうを、一束にして添えたのと、ちょっと色紙の二本たばねの線香、一銭蝋燭いちもんろうそくを添えて持った、片手を伸べて、「その提灯を」といったのである。

 山門を仰いで見る、処々、え崩れて、草も尾花もむら生えの高い磴を登りかかった、お米の実家の檀那寺だんなでら──仙晶寺というのである。が、燈籠寺とうろうでらといった方がこの大城下によく通る。

 さんぬる……いやいや、いつの年も、盂蘭盆うらぼんに墓地へ燈籠を供えて、心ばかり小さなあかりともすのは、このあたりすべてかわりなく、親類一門、それぞれ知己ちかづきの新仏へ志のやりとりをするから、十三日、迎火をからは、寺々の卵塔は申すまでもない、野に山に、標石しめいし奥津城おくつきのある処、昔を今に思い出したような無縁墓、古塚までも、かすかなしめっぽいこけの花が、ちらちらと切燈籠きりこに咲いて、つちの下の、仄白ほのじろい寂しい亡霊もうれいの道が、草がくれの葉がくれに、暗夜やみにはしるく、月にはかすけく、冥々めいめいとしてあらわれる。中でも裏山の峰に近い、この寺の墓場の丘の頂に、一樹、えのきの大木がそびえて、そのこずえに掛ける高燈籠が、市街の広場、辻、小路。池、沼のほとり、大川べり。一里西に遠い荒海の上からも、望めば、仰げば、たたずめば、みな空に、面影に立って見えるので、名に呼んで知られている。

 この燈籠寺に対して、辻町糸七の外套がいとうの袖から半間はんまつらを出した昼間の提灯は、松風にさっと誘われて、いま二葉三葉散りかかる、折からの緋葉もみじともれず、ぽかぽかと暖い磴の小草こぐさの日だまりに、あだ白けて、のびれば欠伸あくび、縮むと、くしゃみをしそうで可笑おかしい。

 辻町は、欠伸と嚔をえたような掛声で、

「ああ、提灯。いや、どっこい。」

 と一段踏む。

「いや、どっこい。」

 お米が莞爾にっこり

「ほほほ、そんな掛声が出るようでは、おじさん。」

「何、くたびれやしない。くたびれたといったって、こんな、提灯の一つぐらい。……もっとも持重りがしたり、邪魔になるようなら、ちょっと、ここいらのすすきの穂へ引掛ひっかけて置いても差支えはないんだがね。」

「それはね、誰も居ない、人通りの少い処だし、お寺ですもの。そこに置いといたって、人がどうもしはしませんけれど。……持ちましょうというのに持たさないで、おじさん、自分の手で…」

「自分の手で。」

「あんな、知らない顔をして、自分の手からお手向けなさりたいのでしょう。ここへ置いて行っては、お志が通らないではありませんか、悪いわ。」

「お叱言こごとで恐入るがね、自分から手向けるって、一体誰だい。」

「それは誰方どなただか、ほほほ。」

 また莞爾にっこり

「せいせい、そんな息をして……ここがいい、ちょっとお休みなさいよ、さあ。」

 ちょうど段々中継なかつぎの一土間、向桟敷むこうさじきと云った処、さかりに緋葉した樹の根に寄った方で、うつむきなりに片袖をさしむけたのは、すがれ、手を取ろう身構えで、腰を靡娜なよやかに振向いた。踏掛けて塗下駄に、模様の雪輪が冷くかかって、淡紅とき長襦袢ながじゅばんがはらりとこぼれる。

 なまめかしさ、というといえども、お米はおじさんの介添のみ、心にも留めなそうだが、人妻なればはばかられる。そこで、くだんの昼提灯を持直すと、柄の方を向うへ出した。黒塗の柄を引取ったお米の手は、なお白くて優しい。

 憚られもしようもの。磴たるや、山賊の構えたいわおとりで火見ひのみ階子はしごと云ってもいい、縦横町条たてよこまちすじごとの屋根、辻の柳、遠近おちこちの森に隠顕しても、十町三方、城下を往来の人々が目をそばだつれば皆見える、見たその容子ようすは、中空の手摺てすりにかけた色小袖に外套の熊蝉が留ったにそのままだろう。

 蝉はひとりでジジと笑って、緋葉もみじの影へ飜然ひらりと飛移った。

 いや、飜然となんぞ、そんな器用にくものか。

「ありがとう……提灯の柄のお力添に、片手を縋って、一方に洋杖ステッキだ。こいつがまた素人が拾ったかいのようで、うまく調子が取れないで、だらしなく袖へ掻込かいこんだ処はなさけない、まるで両杖りょうづえの形だな。」

「いやですよ。」

「意気地はない、が、止むを得ない。お言葉に従って一休みして行こうか。ちょうどおあつらえ、苔滑こけなめらか……というと冷いが、日当りで暖い所がある。さてと、ご苦労を掛けた提灯を、これへ置くか。樹下石上というと豪勢だが、こうした処は、地蔵盆にむしろを敷いてかねをカンカンとたたく、はっち坊主そのままだね。」

「そんなに、せっかちに腰を掛けてさ、泥がつきますよ。」

「構わない。れ麻だよ。たかが墨染にて候だよ。」

「墨染でも、喜撰でも、所作舞台ではありません、よごれますわ。」

「どうも、これは。きれいなその手巾ハンケチで。」

「散っているもみじの方が、きれいです、払っては澄まないような、こんな手巾。」

「何色というんだい。お志で、石へ月影までして来た。ああ、いい景色だ。いつもここは、といううちにも、今日はまた格別です。あいかわらず、海も見える、城も見える。」

 といった。

 就中なかんずく公孫樹いちょうは黄なり、紅樹、青林、見渡す森は、みな錦葉もみじを含み、散残った柳の緑を、うすくしゃ綾取あやどった中に、層々たる城の天守が、遠山の雪のいただきいてそびえる。そこからななめに濃いあいの一線をいて、青い空と一刷ひとはけに同じ色を連ねたのは、いう迄もなく田野と市街と城下を巻いた海である。荒海ながら、日和の穏かさに、なぎさの浪は白菊の花を敷流す……この友禅をうちかけて、雪国の町は薄霧をとおして青白い。その袖と思う一端に、周囲三里ときく湖は、昼の月の、半円なるかとながめられる。

「お米坊。」

 おじさんは、目を移して、

「景色もいいが、容子ようすがいいな。──提灯屋の親仁おやじ見惚みとれたのを知ってるかい。

(その提灯を一つ、いくらです。)といったら、

(どうぞ早や、お持ちなされまして……お代はおついでの時、)……はどうだい。そのかわり、遠国他郷のおじさんに、売りものを新聞づつみ、紙づつみにしようともしないんだぜ。あにそれ見惚れたりと言わざるを得んやだ、親仁。」

「おっしゃい。」

 と銚子ちょうしのかわりをたしなめるような口振で、

「旅の人だか何だか、草鞋わらじ穿かないで、今時そんな、見たばかりで分りますか。それだし、この土地では、まだ半季勘定がございます。……でなくってもさ、当寺おてらへお参りをする時、ゆきかえり通るんですもの。あの提灯屋さん、母に手をかれた時分から馴染なじみです。……いやね、そんなからお世辞をいって、沢山。……おじさんお参りをするのにきまりが悪いもんだから、おだてごかしに、はぐらかして。」

「待った、待った。──お京さん──お米坊、お前さんのおっかさんの名だ。」

「はじめまして伺います、ほほほ。」

「ご挨拶、恐入った。が、何々院──信女でなく、ごめんを被ろう。その、お母さんの墓へお参りをするのに、何だって、私がきまりが悪いんだろう。第一そのために来たんじゃないか。」

「……それはご遠慮は申しませんの。母のとこへお参りをして下さいますのは分っていますけれどもね、そのさきに──誰かさん──」

「誰かさん、誰かさん……分らない。米ちゃん、一体その誰かさんは?」

「母が、いつもそういっていましたわ。おじさんは、(極りわるがり屋)という(長い屋)さんだから。」

「どうせ、長屋住居ずまいだよ。」

「ごめんなさい、そんなんじゃありません。だからっても、何も私に──それとも、思い出さない、忘れたのなら、それはひどいわ、あんまりだわ。誰かさんに、悪いわ、済まないわ、薄情よ。」

「しばらく、しばらく、まあ、待っておくれ。これは思いも寄らない。唐突の儀を承る。弱ったな、何だろう、といっちゃなお悪いかな、誰だろう。」

「ほんとに忘れたんですか。それでいんですか。嘘でしょう。それだとあんまりじゃありませんか。いっそちゃんと言いますよ、私から。──そういっても釣出しにかかって私の方が極りが悪いかも知れませんけれども。……おじさん、おじさんが、むかし心中をしようとした、婦人おんなのかた。」

「…………」

 やぶから棒をくらって膨らんだ外套の、黒い胸を、辻町は手でおさえる真似して、目をみはると、

「もう堪忍してあげましょう。あんまり知らないふりをなさるからちょっとおどかしてあげたんだけれど、それでも、もうお分りになったでしょう。──いつかの、その時、花のさかりの真夜中に。──あの、お城の門のまわり、暗い堀の上を行ったり、来たり……」

 お米の指が、行ったり来たり、ちらちらと細く動くと、その動くのが、魔法を使ったように、向うはるかな城の森の下くぐりに、小さな男が、とぼんと出て、羽織も着ない、しょぼけた形をあらわすとともに、手をこまぬき、こうべを垂れて、とぼとぼと歩行あるくのがおぼろに見える。それ、糧に飢えて死のうとした。それがその夜の辻町である。

 同時に、もう一つ。寂しい、美しい女が、花の雲から下りたように、すっとかげって、おなじ堀を垂々だらだらりに、町へ続く長い坂を、胸をやわらかに袖を合せ、肩をほっそりとすそを浮かせて、宙にただようばかり。さし俯向うつむいたえりのほんのり白い後姿で、さばつまゆらぐと見えない、もの静かな品のさで、夜はただ黒し、花明り、土のいかだに流るるように、満開の桜の咲蔽さきおおうその長坂を下りる姿が目に映った。

 ──指を包め、袖を引け、お米坊。頸の白さ、肩のしなやかさ、余りその姿に似てならない。──

 今、のあたり、坂をひとは、あれは、二十はたちばかりにして、その夜、(烏をいう)千羽ヶふちで自殺してしまったのである。身を投げたのは潔い。

 卑怯ひきょうな、未練な、おなじ処をとぼついた男の影は、のめのめと活きて、ここに仙晶寺のいしだんの中途に、腰を掛けているのであった。


       二


「ああ、まるで魔法にかかったようだ。」

 頬にあてて打傾いたを、辻町は冷く感じた。時に短く吸込んだ煙草たばこの火が、チリリと耳をかすめて、爪先つまさきの小石へ落ちた。

「またまったく夢がさめたようだ。──その時、夜あけ頃まで、堀の上をうろついて、いつうちへ帰ったか、草へもぐったのか、蒲団ふとん引被ひきかぶったのか分らない。めされたようになって寝た耳へ、

 ──兄さん……兄さん──

 と、聞こえたのは、……お京さん。」

「返事をしましょうか。」

「願おうかね。」

「はい、おほほ。」

「申すまでもない、威勢のいい若い声だ。そうだろう、お互に二十はたちの歳です。──死んだ人は、たしか一つ上だったように後で聞いて覚えている。前の晩は、雨気あまけを含んで、花あかりも朦朧もうろうと、霞に綿を敷いたようだった。格子戸外そとのその元気のいい声に、むっくり起きると、おっと来たりで、目はくぼんでいる……おでこをさきへ、門口かどぐちへ突出すと、顔色の青さをあぶられそうな、からりとした春たけなわな朝景色さ。お京さんは、結いたての銀杏返いちょうがえしで、半襟の浅黄の冴えも、黒繻子くろじゅすの帯のつやも、霞を払ってきっぱりと立っていて、(兄さん身投げですよ、お城の堀で。)(嘘だよ、ここに活きてるよ。)と、うっかり私が言ったんだから、お察しものです。すぐ背後うしろの土間じゃ七十を越した祖母ばあさんが、おひつの底の、こそげ粒で、茶粥ちゃがゆとは行きません、みぞれ雑炊を煮てござる。前々年、うちが焼けて、次の年、父親がなくなって、まるで、掘立小屋だろう。住むにも、食うにも──昨夜ゆうべは城のここかしこで、早い蛙がもう鳴いた、歌を唄ってる虫けらが、およそうらやましい、と云った場合。……祖母さんは耳が遠いからかったものの、(活きてるよ。)は何事です。(何を寝惚ねぼけているんです。しっかりするんです。)その頃の様子を察しているから、お京さん──ままならない思遣りのじれったさの疳癪筋かんしゃくすじで、ご存じの通り、いちうちの眉をひそめながら、(……町内ですよ、ここの。いま私、前を通って来たんだけれど、角の箔屋はくや。──うちの人じゃあない、世話になって、はんけちの工場こうばへ勤めている娘さんですとさ。ちゃんと目をあいて……あれ、あんなに人が立っている。)うららかな朝だけれど、路が一条ひとすじ胡粉ごふん泥塗だみたように、ずっと白く、寂然しんとして、ならび、三町ばかり、手前どもとおなじかわです、けれども、何だか遠く離れた海際まで、突抜けになったようで、そこに立っている人だかりが──身を投げたのはふちだというのに──打って来る波を避けるように、むらむらと動いて、つちがそこばかり、ぐっしょりしおに濡れているように見えた。

 花はちらちらと目の前へ散って来る。

 私の小屋と真向まむかいの……金持は焼けないね……しもた屋の後妻うわなりで、町中の意地悪が──今時はもう影もないが、──それその時飛んで来た、燕の羽の形にうしろねた、橋髷はしまげとかいうのを小さくのっけたのが、かどの敷石に出て来て立って、おなじように箔屋の前をじっとすかしてていた。その継娘ままむすめは、優しい、うつくしい、上品な人だったが、二十はたちにもならない先に、雪の消えるように白梅と一所に水で散った。いじめ殺したんだ、あの継母がと、町内で沙汰さたをした。その色の浅黒い後妻うわなりの眉と鼻が、箔屋を見込んだ横顔で、お米さんの前髪にくッつき合った、と私の目に見えた時さ。(いとしや。)とその後妻が、(のう、ご親類の、ご新姐しんぞさん。)──くわしくはなくても、向う前だから、様子は知ってる、行来ゆきき、出入りに、顔見知りだから、声を掛けて、(いつ見ても、好容色ごきりょうなや、ははは。)とそら笑いをやったとお思い、(非業の死とはいうけれど、根は身の行いでござりますのう。)とじろりと二人を見ると、お京さん、御母堂だよ、いいかい。怪我にも真似なんかなさんなよ。即時、好容色ごきりょうあごつけるようにしゃくって、(はい、さようでござります、のう。)と云うがはやいか、背中の子。」

 辻町は、時に、まつげの深いお米と顔を見合せた。

「その日は、当寺こちらへお参りに来がけだったのでね、……お京さん、いしだんが高いから半纏はんてんおんぶでなしに、浅黄鹿の子の紐でおぶっていた。背中へ、べっかっこで、(ばあ。)というと、カタカタと薄歯の音を立ててうちン中へ入ったろう。私が後妻うわなりに赤くなった。

 おぶっていたのが、何を隠そう、ここに好容色で立っている、さて、久しぶりでお目にかかります。お前さんだ、お米坊──二歳ふたつ、いや、三つだったか。かぞえ年。」

「かぞえ年……」

「ああ、そうか。」

「おじさんの家の焼けた年、お産間近に、おっかさんが、あの、火事場へ飛出したもんですから、そのせいですって……私にはあざが。」

 睫毛まつげがふるえる。辻町は、ハッとしたように、ふと肩をすくめた。

「あら、うっかり、おじさんだと思って、つい。……真紅まっかでしたわ、おとなになって今じゃうっすりとただ青いだけですの。」

 おじさんは目をせながら、わざと見まもったようにこういった。

「見えやしない、なにもないじゃないか、どこなのだね。」

「知らない。」

「まあさ。」

「乳の少しわきのところ。」

「きれいだな、眉毛を一つったあとか、雪間の若菜……とでも言っていないと──父がなくなって帰ったけれど、私が一度無理に東京へ出ていた留守です。私のうちのために、お京さんに火事場を踏ませて申訳がないよ。──ところで、その嬰児あかんぼが、今お見受け申すお姿となったから、もうかれこれ三十年。……だもの、記憶おぼえも何も朧々おぼろおぼろとした中に、その悲しいうつくしい人の姿に薄明りがさして見える。遠くなったり、近くなったり、途中で消えたり、目先へ出たり──こっちも、とぼとぼと死場所を探していたんだから、どうも人目が邪魔になる。さきでも目障りになったろう。やがて夜中の三時過ぎ、天守下の坂は長いからね、坂の途中で見失ったが、見失った時の後姿を一番はっきりと覚えている。だから、その人が淵で死んだとすると、一旦いったん町へ下りて、もう一度、坂を引返ひっかえした事になるんだね。

 ただし、そういった処で、あくる朝、町内の箔屋へ引取った身投げの娘が、果して昨夜ゆうべ私が見た人と同じだかどうだか、実の処は分りません……それは今でも分りはしない。堀端では、前後一度だって、横顔の鼻筋だって、見えないばかりか、解りもしない。が、朝、お京さんに聞いたばかりで、すぐ、ああ、それだと思ったのも、おなじ死ぬ気の、気で感じたのであろうと思う……

 と、お京さんが、むこうの後妻うわなりの目をそらして、格子を入った。おぶさったお前さんが、それ、今のべっかっこで、妙な顔……」

「ええ、ほほほ。」

 とお米は軽く咲容えまいして、片袖を胸へあてる。

「お京さん、いきなり内の祖母ばあさんの背中を一つトンとたたいたと思うと、鉄鍋てつなべふたを取ってのぞいたっけ、いきおいのよくない湯気が上る。」

 お米は軽くびんでた。

「ちょろちょろと燃えてる、かまど薪木たきぎ、その火だがね、何だか身を投げたひとをあぶって暖めているような気がして、消えぎえにそこへ、袖褄そでづまもつれて倒れた、ぐっしょり濡れた髪と、真白な顔が見えて、まるでそれがね、向うかどに立っている後妻うわなりに、はかない恋をせかれて、五年前に、おなじ淵に身を投げた、優しい姉さんのようにも思われた。余程どうかしていたんだね。

 半壊れの車井戸が、すぐそばで、底の方に、ばたん、と寂しいしずくの音。

 ざらざらと水が響くと、

──身投げだ──

──別嬪べっぴんだ──

──身投げだ──

 と戸外おもてわめいて人が駆けた。

 この騒ぎは──さあ、それから多日しばらく、四方、隣国、八方へ、大波を打ったろうが、

──三年の間、かたい慎み──

 だッてね、お京さんが、そのひとの事については、当分、口へ出してうわささえしなければ、また私にも、話さえさせなかったよ。

──おなじ桜に風だもの、兄さんを誘いに来ると悪いから──

 その晩、おなじ千羽ヶ淵へ、ずぶずぶの夥間なかまだったのに、なまじ死にはぐれると、今さら気味が悪くなって、町をうろつくにも、山の手の辻へ廻って、箔屋の前は通らなかった。……

 この土地の新聞一種ひといろ、買っては読めない境遇だったし、新聞社の掲示板の前へ立つにも、土地は狭い、人目に立つ、死出三途さんずともいう処を、一所に徜徉さまよった身体からだだけに、自分から気がけて、けるように、避けるように、世間のうわさに遠ざかったから、花の散ったのは、雨か、嵐か、人につぶてを打たれたか、邪慳じゃけんに枝を折られたか。今もって、取留めた、くわしい事は知らないんだが、それも、もう三十年。

 ……お米さん、私は、おなじその年の八月──ここいらはまだ、月おくれだね、盂蘭盆が過ぎてから、いつも大好きな赤蜻蛉の飛ぶ時分、道があいて、東京へ立てたんだが。──

 ──ああ、そうか。」

 辻町は、息を入れると、石に腰をずらして、ハタと軽く膝をたたいた。


       三


 その時、外套がいとうの袖にコトンと動いた、石の上の提灯ちょうちんつらは、またおかしい。いや、おかしくない、大空の雲を淡くすかして蒼白あおじろい。

「……さて、これだが、手向けるとか、供えるとか、お米坊のいう──誰かさんは──」

「ええ、そうなの。」

 と、小菊と坊さん花をちょっと囲って、お米はしずかうなずいた。

「その嬰児あかんぼが、串戯じょうだんにも、心中の仕損いなどという。──いずれ、あの、いけずな御母堂から、いつかその前後の事を聞かされて、それで知っているんだね。

 不思議な、怪しい、縁だなあ。──花あかりに、消えて行った可哀相な人の墓はいかにも、この燈籠寺にあるんだよ。

 若気のいたり。……」

 辻町は、額をおさえて、提灯に俯向うつむいて、

「何と思ったか、東京へ──出発間際、人目を忍んで……というと悪く色気があります。何、こそこそと、鼠あるきに、行燈形あんどんなりちいさ切籠燈きりこの、就中なかんずく、安価なのを一枚ひとつ細腕で引いて、梯子段はしごだんの片暗がりを忍ぶように、このいしだんを隅の方からあがって来た。胸も、息も、どきどきしながら。

 ゆかただか、うすものだか、女郎花おみなえし桔梗ききょう、萩、それともすすきか、淡彩色うすざいしきの燈籠より、美しく寂しかろう、白露にしずくをしそうな、そのひとの姿に供える気です。

 中段さ、ちょうど今居る。

 しかるに、どうだい。お米坊は洒落しゃれにも私を、薄情だというけれど、人間の薄情より三十年の月日は情がない。この提灯でいうのじゃないが、燈台下暗しで、とぼんとして気がつかなかった。申訳より、面目めんぼくがないくらいだ。

 ──すまして饒舌しゃべっていか知らん、その時は、このもみじが、青葉で真黒まっくろだった下へ来て、上へ墓地を見ると、向うの峯をぼッと、霧にして、木曾のははき木だね、ここじゃ、見えない。が、有名な高燈籠がえのきこずえともれている……葉と葉をくぐって、の影が露を誘って、ちらちらと樹を伝うのが、長くかかって、幻の藤の総を、すっとなびかしたように仰がれる。絵の模様は見えないが、まるで、その高燈籠の宙の袖を、その人の姿のように思って、うっかりとして立った。

──ああ、呆れた──

 目の前に、白いものと思ったっけ、山門を真下まっさがりに、あいがかった浴衣に、昼夜帯の婦人が、

──身投げに逢いに来ましたね──

 言う事も言う事さ、誰だと思います。御母堂さ。それなら、言いそうな事だろう。いきなり、がんとくらわされたから、おじさんの小僧、目をまるくしてきもつぶした。そうだろう、当の御親類の墓地へ、といっては、ついぞ、つけとどけ、盆のお義理なんぞに出向いた事のないやつが、」

 辻町は提灯を押えながら、

「酒買い狸が途惑とまどいをしたように、燈籠をぶら下げて立っているんだ。

 いう事が捷早すばやいよ、お京さん、そう、のっけにやられたんじゃ、事実、親類へ供えに来たものにした処で、そうとはいえない。

──初路さんのお墓は──

 いかにも、若い、優しい、が、何だか、弱々とした、身を投げた女の名だけは、いつか聞いていた。

──お墓の場所は知っていますか──

 知るもんですか。お京さんが、崖で夜露にすべる処へ、石ころ道が切立きったてで危いから、そんなにとぼついているんじゃ怪我をする。お寺へ預けて、昼間あらためて、お参りを、そうなさい、という。こっちはだね。日中ひなかのこのこ出られますか。何、志はそれで済むからこの石の上へ置いたなり帰ろうと、降参に及ぶとね、犬猫が踏んでも、きれいなお精霊しょうりょうが身震いをするだろう。──とにかく、お寺まで、と云って、お京さん、今度は片褄かたづまをきりりと端折はしょった。

 こっちもその要心から、わざと夜になって出掛けたのに、今頃まで、何をしていたろう。(遊んでいた。世の中のうるささがなくて寺は涼しい。裏縁に引いた山清水に……西瓜すいかおごりだ、和尚さん、小僧には内証ないしょらしく冷して置いた、紫陽花あじさいの影の映る、青い心太ところてんをつるつる突出して、芥子からしを利かして、冷い涙を流しながら、見た処三百ばかりの墓燈籠と、草葉の影に九十九ばかり、お精霊の幻を見て涼んでいた、その中に初路さんの姿も。)と、お京さん、すきなお転婆をいって、山門を入ったいきおいだからね。……その勢だから……向った本堂の横式台、あの高い処に、晩出おそで参詣さんけいを待って、お納所なっしょが、盆礼、お返しのしるしと、紅白の麻糸を三宝に積んで、小机を控えた前へ。どうです、私が引込ひっこむもんだから、お京さん、引取った切籠燈きりこをツイと出すと、

──この春、身を投げた、お嬢さんに。……心中を仕損った、この人の、こころざし──

 私は門まで遁出にげだしたよ。あとをカタカタと追って返して、

──それ、紅い糸を持って来た。縁結びに──白いのがかったかしら、……あいては幻……

 と頬をかすられて、私はこの中段まで転げ落ちた。ちと大袈裟おおげさだがね、遠くの暗い海の上で、稲妻がしていたよ。その夜、途中からえらい降りで。」……

……………………

……………………

 辻町は夕立をおもうごとく、しばらく息を沈めたが、やがて、ちょっと語調をかえて云った。

「お米坊、そんな、こんな、お母さんに聞いていたのかね。」

「ええ、お嫁に行ってから、あと……」

「そうだろうな、あの気象でも、きまりどころは整然ちゃんとしている。嫁入前の若い娘に、余り聞かせる事じゃないから。

 ──さて、問題の提灯だ。成程、その人に、切籠燈きりこのかわりに供えると、思ったのはもっともだ。が、そんな、実は、しおらしいとか、心入れ、とかいう奇特なんじゃなかったよ。懺悔ざんげをするがね、実は我ながら、とぼけていて、ひとりでおかしいくらいなんだよ。月夜に提灯が贅沢ぜいたくなら、真昼間まっぴるまぶらで提げたのは、何だろう、余程よっぽど半間さ。

 というのがね、先刻さっきお前さんは、つれにはぐれた観光団が、鼻の下を伸ばして、うっかり見物している間抜けに附合う気で、黙ってついていてくれたけれど、来がけに坂下の小路なかで、あの提灯屋の前へ、私がぼんやり突立つったったろう。

 場所も方角も、まるで違うけれども、むかし小学校の時分、学校近所の……あすこは大川ぢか窪地くぼちだが、寺があって、その門前に、店の暗い提灯屋があった。ひげのある親仁おやじが、紺の筒袖を、斑々むらむら胡粉ごふんだらけ。腰衣のような幅広の前掛まえかけしたのが、泥絵具だらけ、青や、あかや、そのまま転がったら、楽書らくがきになりそうで、牡丹ぼたんをこってりと刷毛はけえどる。も桃色にさっと流して、ぼかす手際が鮮彩あざやかです。それから鯉の滝登り。八橋一面の杜若かきつばたは、風呂屋へ進上の祝だろう。そんな比羅絵びらえを、のしかかって描いているのが、嬉しくて、面白くって、絵具を解きめた大摺鉢おおすりばちへ、鞠子まりこ宿しゅくじゃないけれど、薯蕷汁とろろとなって溶込むように……学校の帰途かえりにはその軒下へ、いつまでも立って見ていた事を思出した。時雨もみぞれも知っている。夏は学校がやすみです。桜の春、また雪の時なんぞは、その緋牡丹の燃えた事、冴えた事、葉にもこけにも、パッパッと惜気おしげなく金銀のはくを使うのが、御殿の廊下へ日のしたように輝いた。そうした時は、うちへ帰る途中の、大川の橋に、綺麗な牡丹が咲いたっけ。

 先刻さっきのあの提灯屋は、絵比羅も何にも描いてはいない。番傘の白いのを日向ひなたへ並べていたんだが、つい、その昔を思出して、あんまり店をのぞいたので、ただじゃ出て来にくくなったもんだから、観光団お買上げさ。

──ご紋は──

──牡丹──

 何、描かせては手間がとれる……第一実用むきの気といっては、いささかもなかったからね。これは、からかさでもよかったよ。パッと拡げて、菊を持ったお米さんに、背後うしろから差掛けて登ればかった。」

「どうぞ。……女万歳の広告に。」

「仰せのとおり。──いや、串戯じょうだんはよして。いまの並べた傘の小間隙間すきまへ、柳を透いて日のさすのが、銀の色紙しきしを拡げたような処へ、お前さんのその花についていたろう、蝶が二つ、あの店へ翔込たちこんで、傘の上へ舞ったのが、雪の牡丹へ、ちらちらとはくが散浮く……

 そのままに見えたと思った時も──箔──すぐこの寺に墓のある──同町内に、ぐっしょりと濡れた姿をはかなく引取った──箔屋──にも気がつかなかった。薄情とは言われまいが、世帯の苦労に、朝夕は、細く刻んでも、日は遠い。年月が余りへだたると、目前めのまえの菊日和も、遠い花の霞になって、夢のおぼろが消えてく。

 が、あらためて、澄まない気がする。御母堂の奥津城を展じたあとで。……ずっと離れているといいんだがな。近いと、どうも、この年でもきまりが悪い。きっと冷かすぜ、石塔の下から、クックッ、カラカラとまず笑う。」

「こわい、おじさん。おっかさんだがいいけれど。……私がついていますから、冷かしはしませんから、よく、お拝みなさいましよね。

 ──(糸塚)さん。」

「糸塚……初路さんか。糸塚は姓なのかね。」

「いいえ、あら、そう……おじさんは、ご存じないわね。

 ──糸塚さん、糸巻塚ともいうんですって。

 この谷を一つ隔てた、向うの山の中途に、鬼子母神きしもじん様のお寺がありましょう。」

「ああ、柘榴寺ざくろでら──真成寺しんじょうじ。」

「ちょっとごめんなさい。私も端の方へ、少し休んで。……いいえ、構うもんですか。落葉といってもにしきのようで、勿体ないほどですわ。あの柘榴の花の散った中へ、鬼子母神様の雲だといって、草履を脱いで坐ったのも、つい近頃のようですもの。お母さんにつれられて。白い雲、青い雲、紫の雲は何様でしょう。鬼子母神様はあかい雲のように思われますね。」

 墓所はじき近いのに、面影をはるかにしのんで、母親を想うか、お米は恍惚うっとりして云った。

 ──聞くとともに、辻町は、その壮年を三四年、相州逗子ずしに過ごした時、新婚のかれの妻女の、病厄のためにまさに絶えなんとした生命を、医療もそれよ。まさしく観世音の大慈の利験りやくに生きたことを忘れない。南海霊山の岩殿寺いわとのじ、奥の御堂みどうの裏山に、一処ひとところ咲満ちて、春たけなわな白光びゃっこうに、しきかおりみなぎった紫のすみれの中に、白い山兎の飛ぶのをつつ、病中の人を念じたのを、この時まざまざと、目前の雲に視て、輝く霊巌れいげんの台に対し、さしうつむくまで、心衷しんちゅうに、恭礼黙拝したのである。──


 お米の横顔さえ、ろうたけて、

「柘榴寺、ね、おじさん、あすこの寺内に、初代元祖、友禅の墓がありましょう。一頃はう人どころか、こけの下に土も枯れ、水もかわいていたんですが、近年ちかごろ他国の人たちが方々から尋ねて来て、世評が高いもんですから、記念碑が新しく建ちましてね、名所のようになりました。それでね、ここのお寺でも、新規に、初路さんの、やっぱり記念碑を建てる事になったんです。」

「ははあ、和尚さん、娑婆気しゃばっけだな、人寄せに、黒枠で……と身を投げた人だから、薄彩色うすざいしき水絵具の立看板。」

「黙って。……いいえ、お上人よりか、檀家の有志、県の観光会の表向きの仕事なんです。お寺は地所を貸すんです。」

「葬った土とは別なんだね。」

「ええ、それで、糸塚、糸巻塚、どっちにしようかっていってるところ。」

「どっちにしろ、友禅の(染)に対する(糸)なんだろう。」

「そんな、ただ思いつき、趣向ですか、そんなんじゃありません。あの方、はんけちの工場へ通って、縫取をしていらしってさ、それが原因もとで、あんな事になったんですもの。糸も紅糸べにいとからですわ。」

「糸も紅糸……はんけちの工場へ通って、縫取をして、それが原因もと?……」

「まあ、何にも、ご存じない。」

「怪我にも心中だなどという、そういっちゃ、しかし済まないけれども、何にも知らない。おなじ写真を並んで取っても、大勢の中だと、いつとなく、生別れ、死別れ、年がつと、それっきりになる事もあるからね。」

 辻町は向直っていったのである。

「蟹は甲らに似せて穴を掘る……も可訝おかしいかな。おなじ穴の狸……飛んでもない。一升入のひさごは一升だけ、何しろ、当推量も左前だ。誰もおきまりの貧のくるしみからだと思っていたよ。」

 また、事実そうであった。

「まあ、そうですか、いうのもお可哀相。あの方、それは、おくらしに賃仕事をなすったでしょう。けれど、もと、千五百石のおやしき女﨟じょうろうさん。」

「おお、ざっとお姫様だ。ああ、惜しい事をした。あの晩一緒に死んでおけば、今頃はうまれかわって、小いろの一つも持った果報な男になったろう。……糸も、紅糸は聞いても床しい。」

「それどころじゃありません。その糸から起った事です。千五百石の女﨟ですが、初路さん、お妾腹めかけばらだったんですって。それでも一粒種、いい月日のもとに、生れなすったんですけれど、廃藩以来、ほどなく、お邸は退転、御両親も皆あの世。お部屋方の遠縁へ引取られなさいましたのが、いま、お話のありました箔屋なのです。時節がら、箔屋さんも暮しが安易らくでないために、工場こうば通いをなさいました。お邸育ちのお慰みから、縮緬ちりめん細工もお上手だし、お針は利きます。すぐ第一等の女工さんでごく上等のものばかり、はんけちと云って、薄色もありましょうが、おもに白絹へ、蝶花を綺麗に刺繍ししゅうをするんですが、いい品は、国産の誉れの一つで、内地より、外国へ高級品で出たんですって。」

「なるほど。」


       四


あれあれ見たか

  あれ見たか

…………………

「あれあれ見たか、あれ見たか、二つ蜻蛉とんぼが草の葉に、かやつり草に宿かりて……その唄を、工場で唱いましたってさ。唄が初路さんを殺したんです。

 細い、かやつり草を、青く縁へとって、その片端、はんけちの雪のようなへ赤蜻蛉を二つ。」

 お米の二つ折る指がしなって、内端うちはに襟をおさえたのである。

「一ツずつ、蜻蛉が別ならよかったんでしょうし、外の人の考案かんがえで、あの方、ただ刺繍だけなら、何でもなかったと言うんです。どの道、うつくしいのと、仕事の上手なのに、ねたそねみから起った事です。何につけ、かにつけ、ゆがみ曲りに難癖をつけないではおきません。処を図案まで、あの方がなさいました。何から思いつきなすったんだか。──その赤蜻蛉の刺繍が、大層な評判だし、分けて輸出さきの西洋の気受けが、それは、すごいきおいで、どしどし註文が来ました処から、外国まで、恥をさらすんだって、羽をみんな、手足にして、紅いのを縮緬のように唄いはやして、身肌を見せたと、騒ぐんでしょう。」

(巻初に記して一粲いっさんに供した俗謡には、二三行、

…………………

…………………

 脱落があるらしい、お米が口誦くしょうはばかったからである。)

「いやですわね、おじさん、蝶々や、蜻蛉は、あれは衣服きものを着ているでしょうか。

──人目しのぶと思えども

羽はうすもの隠されぬ──

 それも一つならまだしもだけれど、一つの尾に一つが続いて、すっと、あの、羽を八つ、静かに銀糸で縫ったんです、寝ていやしません、飛んでいるんですわね。ええ、それをですわ、

──世間、いなずま目が光る──

 ──恥を知らぬか、恥じないか──とみんなでわあわあ、さも初路さんが、そんな姿絵を、紅い毛、あおい目にまで、露呈あらわに見せて、お宝を儲けたように、唱い立てられて見た日には、内気な、優しい、上品な、着ものの上から触られても、毒蛇の牙形はがたはだみる……雪に咲いた、白玉椿のお人柄、耳たぶの赤くなる、もうそれが、砕けるのです、散るのです。

 遺書かきおきにも、あったそうです。──ああ、恥かしいと思ったばかりに──」

「察しられる。思いやられる。お前さんも聞いていようか。むかし、正しい武家の女性にょしょうたちは、拷問ごうもんしもと、火水の責にも、断じて口を開かない時、ただ、きぬうばう、肌着をぐ、裸体にするというとともに、直ちに罪に落ちたというんだ。──そこへ掛けると……」

 辻町は、かくも心弱い人のために、西班牙スペインセビイラの煙草工場のお転婆をうらやんだ。

 同時に、お米の母を思った。お京がもしその場に処したら、対手あいての工女の顔に象棋盤しょうぎばんの目を切るかわりに、酢ながら心太ところてんちまけたろう。

「そこへ掛けると平民の子はね。」

 辻町は、うっかりいった。

「だって、平民だって、人の前で。」

「いいえ。」

「ええ、どうせ私は平民の子ですから。」

 辻町は、その乳のわきの、青い若菜を、ふと思って、覚えず肩を縮めたのである。

「あやまった。いや、しかし、千五百石の女﨟、昔ものがたり以上に、あわれにはかない。そうして清らかだ。」

「中将姫のようでしたって、白羽二重の上へすべると、あの方、白い指が消えました。露が光るように、針のさきを伝って、薄い胸から紅い糸が揺れて染まって、またかがって、銀の糸がきらきらと、何枚か、幾つの蜻蛉が、すいすいと浮いて写る。──(私がそばに見ていました)って、鼻ひしゃげのその頃の工女が、茄子なすの古漬のような口を開けて、い年で話すんです。その女だって、その臭い口で声を張って唱ったんだと思うと、聞いていて、口惜くやしい、にらんでやりたいようですわ。──でも自害をなさいました、後一年ばかり、一時ひところはこの土地で湯屋でも道端でも唄って、お気の弱いのをたっとむまでも、初路さんの刺繍を恥かしい事にいいましたとさ。

 ──あれあれ見たか、あれ見たか──、銀の羽がそのまま手足で、二つ蜻蛉が何とかですもの。」

「一体また二つの蜻蛉がなぜ変だろう。見聞みききが狭い、知らないんだよ。土地の人は──そういう私だって、近頃まで、つい気がつかずに居たんだがね。

 手紙のついでで知っておいでだろうが、私の住んでいる処と、京橋の築地までは、そうだね、ここから、ずっと見て、向うの海まではあるだろう。今度、当地こちらへ来がけに、歯がいたんで、馴染なじみ歯科医はいしゃへ行ったとお思い。その築地は、というと、用たしで、歯科医は大廻りに赤坂なんだよ。途中、四谷新宿へ突抜けの麹町こうじまちの大通りから三宅坂みやけざか、日比谷、……銀座へ出る……歌舞伎座の前を真直まっすぐに、目的めあて明石町あかしちょうまでと饒舌しゃべってもいい加減の間、町充満いっぱい、屋根一面、上下うえした、左右、縦も横も、微紅うすあかい光る雨に、花吹雪を浮かせたように、羽が透き、身が染って、数限りもない赤蜻蛉の、大流れをみなぎらして飛ぶのが、行違ったり、まんじに舞乱れたりするんじゃあない、上へななめ、下へ斜、右へ斜、左へ斜といった形で、おなじ方向を真北へさして、見当は浅草、千住せんじゅ、それから先はどこまでだか、ほとんど想像にも及びません。──明石町は昼の不知火しらぬい、隅田川の水の影が映ったよ。

 で、急いで明石町から引返ひっかえして、赤坂の方へ向うと、また、おなじように飛んでいる。群れてく。歯科医はいしゃで、椅子に掛けた。窓の外を、この時は、幾分か、その数はまばらに見えたが、それでも、千や二千じゃない、二階の窓をすれすれの処に向う家のひさし見当、ちょうど電信、電話線の高さを飛ぶ。それより、高くもない。ずっと低くもない。どれも、おなじくらいな空を通るんだがね、計り知られないその大群は、層を厚く、密度をこまやかにしたのじゃなくって、薄く透通る。その一つ一つの薄い羽のようにさ。

 何の事はない、見た処、東京の低い空を、淡紅とき一面のしゃを張って、銀の霞に包んだようだ。聳立そびえたった、洋館、高い林、森なぞは、さながら、夕日のべにを巻いた白浪の上のいわの島と云ったかたちだ。

 つい口へ出た。(蜻蛉が大層飛んでいますね。)歯医師はいしゃが(はあ、早朝からですよ。)と云ったがね。その時は四時過ぎです。

 帰途かえりに、赤坂見附で、同じことを、運転手に云うと、(今は少くなりました。こんなもんじゃありません。今朝六時頃、この見附を、客人で通りました時は、上下、左右すれ違うとサワサワと音がします。青空、青山、正面の雪の富士山の雲の下まで裾野をおおうといいます紫雲英げんげのように、いっぱいです。赤蜻蛉に乗せられて、車が浮いて困ってしまいました。こんな経験ははじめてです。)とあらためて吃驚びっくりしたように言うんだね。私も、その日ほどおびただしいのは始めてだったけれど、赤蜻蛉の群の一日都会にみなぎるのは、秋、おなじ頃、ほとんど毎年と云ってもいい。子供のうちから大好きなんだけれど、これに気のついたのは、──うっかりじゃないか──この八九年以来なんだが、月はかわりません。きっと十月、中の十日から二十日はつかの間、三年つづいて十七日というのを、手帳につけて覚えています。季節、天気というものは、そんなに模様の変らないものと見えて、いつの年も秋の長雨、しけつづき、また大あらしのあった翌朝あくるあさ、からりと、嘘のように青空になると、待ってたように、しずめたり浮いたり、風に、すらすらすらすらと、薄いあかい霧をほぐして通る。

 ──この辺は、どうだろう。」

「え。」

 話にききとれていたせいではあるまい、お米の顔は緋葉もみじの蔭にほんのりしていた。

「……もうおそいんでしょう、今日は一つも見えませんわ。前の月の命日に参詣おまいりをしました時、山門を出て……あら、このいい日和にむら雨かと思いました。赤蜻蛉の羽がまるで銀の雨の降るように見えたんです。」

「一ツずつかね。」

「ひとツずつ?」

「ニツずつではなかったかい。」

「さあ、それはどうですか、ちょっと私気がつきません。」

「気がつくまい、そうだろう。それを言いたかったんだ、いまの蜻蛉の群の話は。それがね、残らず、二つだよ、比翼なんだよ。その刺繍ししゅうの姿と、おなじに、これを見て土地の人は、初路さんを殺したように、どんな唄を唱うだろう。

 みだらだの、風儀を乱すの、恥をさらすのといって、どうする気だろう。浪で洗えますか、火で焼けますか、地震だって壊せやしない。天をおおい地にみなぎる、といった処で、颶風はやてがあれば消えるだろう。はかないものではあるけれども──ああ、その儚さを一人で身に受けたのは初路さんだね。」

「ええ、ですから、ですから、おじさん、そのお慰めかたがた……今では時世がかわりました。供養のために、初路さんの手技てわざたたえようと、それで、「糸塚」という記念の碑を。」

「…………」

「もう、出来かかっているんです。図取は新聞にも出ていました。台石の上へ、見事な白い石で大きな糸枠を据えるんです。刻んだ糸を巻いて、で染めるんだっていうんですわ。」

「そこで、「友禅の碑」と、ついするのか。しかし、いや、とにかく、悪い事ではない。場所は、位置は。」

「さあ、行って見ましょう。半分うえ出来ているようです。門を入って、直きの場所です。」

 辻町は、あの、盂蘭盆の切籠燈きりこに対する、寺の会釈を伝えて、お京がかれに戯れた紅糸べにいとを思って、ものに手繰られるように、提灯とともにふらりと立った。


       五


「おばけの……蜻蛉?……おじさん。」

「何、そんなものの居ようはずはない。」

 とさも落着いたらしく、声を沈めた。その癖、たった今、思わず、「あ!」といったのは誰だろう。


 いま辻町は、蒼然そうぜんとして苔蒸こけむした一基の石碑を片手で抱いて──いや、抱くなどというのははばかろう──霜より冷くっても、千五百石の女﨟じょうろうの、石のむくろともいうべきものに手を添えているのである。ただし、その上に、沈んだ藤色のお米の羽織が袖をすんなりと墓のなりにかかった、が、織だか、地紋だか、影絵のように細い柳の葉に、菊らしいのを薄色に染出したのが、白い山土に敷乱れた、枯草の中に咲残った、一叢ひとむらの嫁菜の花と、入交いりまぜに、空を蔽うた雑樹をれる日光に、幻の影をめた、墓はさながら、こずえを落ちた、うらがなしい綺麗な錦紗きんしゃの燈籠の、うつむき伏した風情がある。

 ここは、切立きったてというほどではないが、巌組いわぐみのみちけわしく、砕いた薬研やげんの底をあがる、れた滝のあとに似て、草土手の小高い処で、纍々るいるいと墓が並び、傾き、また倒れたのがある。

 上り切った卵塔の一劃、高い処に、裏山の峯をいて繁ったのが、例の高燈籠の大榎で、巌を縫ってわだかまった根に寄って、先祖代々とともに、お米のおっかさんが、ぱっと目を開きそうに眠っている。そこも蔭で、薄暗い。

 それ、持参の昼提灯、土の下からさぞ、半間だと罵倒ばとうしようが、白くすわって、ぼっと包んだ線香の煙がなびいて、裸蝋燭ろうそくの灯が、静寂な風に、ちらちらする。

 榎をくぐった彼方かなたの崖は、すぐに、大傾斜の窪地になって、山のすそまで、寺の裏庭を取りまわして一谷ひとたに一面の卵塔である。

 初路の墓は、お京のと相向って、やや斜下、左の草土手の処にあった。

 見たまえ──お米が外套がいとうを折畳みにして袖に取って、背後うしろに立添った、前踞まえこごみに、辻町は手をその石碑にかけた羽織の、裏のなまめかしい中へ、さし入れた。手首に冴えて淡藍うすあいが映える。片手には、頑丈な、さびの出た、木鋏きばさみを構えている。

 この大剪刀おおばさみが、もし空の樹の枝へでも引掛ひっかかっていたのだと、うっかり手にはしなかったろう。盂蘭盆の夜が更けて、燈籠が消えた時のように、羽織で包んだ初路の墓は、あわれにうつくしく、且つあたりを籠めて、陰々として、鬼気がこもるのであったから。

 鋏は落ちていた。これは、寺男の爺やまじりに、三人の日傭取ひようとりが、ものに驚き、泡を食って、遁出にげだすのに、投出したものであった。

 その次第はこうである。

 はじめ二人は、いしだんから、山門を入ると、広い山内、鐘楼なし。松を控えた墓地の入口の、とざさない木戸に近く、八分出来という石の塚をた。台石に特に意匠はない、つい通りの巌組一丈余りの上に、あつらえの枠を置いた。が、あの、くるくると糸を廻す棒は見えぬ。くり抜いた跡はあるから、これには何か考案があるらしい。お米もそれはまだ知らなかった。枠の四つのは、その半面に対してもさいわいかなえに似ない。鼎に似ると、るもくも、いずれ繊楚かよわい人のために見る目も忍びないであろう処を、あたかもよし、玉を捧ぐる白珊瑚しろさんごなめらかなる枝に見えた。

「かえりに、ゆっくり拝見しよう。」

 その母親の展墓である。自分からは急がすのをためらった案内者が、

「道が悪いんですから、気をつけてね。」

 わあ、わっ、わっ、わっ、おう、ふうと、鼻呼吸いきを吹いたつらを並べ、手を挙げ、胸をたたき、こぶしを振りなど、なだれを打ち、足ただらを踏んで、一時ひといきに四人、摺違すれちがいに木戸口へ、茶色になっていて出た。

 その声も跫音あしおとも、響くと、もろともに、落ちかかったばかりである。

 不意につかりそうなのを、軽く身を抜いて路を避けた、お米の顔に、鼻をまともに突向けた、先頭さきて第一番のじじいが、つらも、すねも、一縮みのしわの中から、ニンガリと変に笑ったと思うと、

「出ただええ、幽霊だあ。」

 幽霊。

「おッさん、蛇、まむし?」

 お米は──幽霊と聞いたのに──ちょっと眉をひそめて、蛇、蝮を憂慮きづかった。

「そんげえなもんじゃねえだア。」

 いかにも、そんげえなものにはおびえまい、面魂、印半纏しるしばんてんも交って、布子のどんつく、半股引はんももひき空脛からずねが入乱れ、屈竟くっきょうな日傭取が、早く、糸塚の前を摺抜けて、松の下に、ごしゃごしゃとかたまった中から、寺爺やの白い眉の、びくびくと動くが見えて、

「蜻蛉だあ。」

「幽霊蜻蛉ですだアい。」

 と、冬の麦稈帽むぎわらぼうかぶった、若いのが声を掛けた。

「蜻蛉なら、幽霊だって。」

 お米は、莞爾にっこりして坂上りに、衣紋えもんのやや乱れた、浅黄を雪に透く胸を、身繕いもせず、そのまま、見返りもしないで木戸を入った。

 いわは鋭い。踏上るみちけわしい。が、お米の双の爪さきは、白い蝶々に、おじさんを載せて、高く導く。

「何だい、今のは、あれは。」

「久助って、寺爺やです。卵塔場で働いていて、休みのお茶のついでに、私をからかったんでしょう。子供だと思っている。おじさんがいらっしゃるのに、見さかいがない。馬鹿だよ。」

「若いお前さんと、一緒にからかわれたのは嬉しいがね、おどかすにしても、寺で幽霊をいう奴があるものか。それも蜻蛉の幽霊。」

「蛇や、蝮でさえなければ、蜥蜴とかげが化けたって、そんなに可恐こわいもんですか。」

「居るかい。」

「時々。」

「居るだろうな。」

「でも、この時節。」

「よし、私だって驚かない。しかし、何だろう、ああ、そうか。おはぐろとんぼ、黒とんぼ。また、何とかいったっけ。漆のような真黒まっくろな羽のひらひらする、ほそく青い、たしか河原蜻蛉とも云ったと思うが、あの事じゃないかね。」

「黒いのは精霊蜻蛉ともいいますわ。幽霊だなんのって、あのじじい。」

 その時であった。

「ああ。」

 と、お米が声を立てると、

ひどいこと、墓を。」

 といった。声とともに、着た羽織をすっと脱いだ、が、紐をどう解いたか、袖をどう、手の菊へ通したか、それは知らない。花野をさっなびかした、一筋の風が藤色に通るように、早く、その墓を包んだ。

 向う傾けに草へ倒して、ぐるぐる巻というよりは、がんじがらみに、ひしと荒縄の汚いのを、無残にも。

「初路さんを、──初路さんを。」

 これが女﨟の碑だったのである。

茣蓙ござにも、むしろにも包まないで、まるで裸にして。」

 と気色けしきばみつつ、且つ恥じたように耳朶みみたぶを紅くした。

 いうまじき事かも知れぬが、辻町の目にも咄嵯とっさに印したのは同じである。台石から取ってえした、持扱いの荒くれた爪摺つまずれであろう、青々と苔の蒸したのが、ところどころむしられて、日のくまかすかに、石肌の浮いた影を膨らませ、影をまた凹ませて、残酷にからめた、さながら白身のやつれた女を、反接緊縛きんばくしたに異ならぬ。

 推察にかたくない。いずれかの都合で、新しい糸塚のために、ここの位置を動かして持運ぼうとしたらしい。

 が、心ない仕業をどうする。──お米の羽織に、そうして、墓の姿を隠してかった。花やかともいえよう、ものに激した挙動ふるまいの、このしっとりした女房の人柄に似ないすばや仕種しぐさの思掛けなさを、辻町は怪しまず、さもありそうな事と思ったのは、お京の娘だからであった。こんな場に出逢っては、きっとおなじはからいをするに疑いない。そのかわり、娘と違い、落着いたもので、澄まして羽織を脱ぎ、背負揚しょいあげを棄て、悠然と帯をいわおに解いて、あらわな長襦袢ながじゅばんばかりになって、小袖ぐるみ墓に着せたに違いない。

 何、夏なら、炎天なら何とする?……と。そういう皮肉な読者おかたには弱る、が、言わねば卑怯ひきょうらしい、裸体はだかになります、しからずんば、辻町が裸体にされよう。

 ──その墓へはまず詣でた──

 引返ひっかえして来たのであった。

 辻町の何よりも早くここでしよう心は、立処たちどころに縄を切って棄てる事であった。瞬時といえども、人目にさらすに忍びない。るとなれば手伝おう、お米の手を借りて解きほどきなどするのにも、二人の目さえ当てかねる。

 さしあたり、ことわりもしないで、他の労業を無にするという遠慮だが、その申訳と、渠等かれらを納得させる手段は、酒と餅で、そんなに煩わしい事はない。手で招いても渋面のしわは伸びよう。また厨裡くり心太ところてんを突くような跳梁権ちょうりょうけんを獲得していた、檀越だんおつ夫人の嫡女ちゃくじょがここに居るのである。

 栗柿をく、庖丁、小刀、そんなものを借りるのに手間ひまはかからない。

 大剪刀おおばさみが、あたかも蝙蝠こうもりの骨のように飛んでいた。

 取って構えて、ちと勝手は悪い。が、縄目は見る目に忍びないから、きぬを掛けたこのまま、留南奇とめきく、絵で見た伏籠ふせごを念じながら、もろ手を、ずかと袖裏へ。驚破すわ、ほんのりと、暖い。ぶんと薫った、石の肌のやわらかさ。

 思わず、

「あ。」

 と声を立てたのであった。


「──おばけの蜻蛉、おじさん。」

「──何そんなものの居よう筈はない。」

 胸傍むなわきの小さなあざ、この青いこけ、そのお米の乳のあたりへはさみが響きそうだったからである。辻町は一礼し、墓に向って、きっといった。

「お嬢さん、私の仕業が悪かったら、手を、怪我をおさせなさい。」

 鋏はさわやかな音を立てた、ちちろも声せず、松風を切ったのである。

「やあ、塗師屋ぬしや様、──ご新姐しんぞ。」

 木戸から、寺男の皺面しわづらが、墓地下で口をあけて、もうわめき、冷めし草履のれたもので、これは磽确こうかくたるみちは踏まない。草土手を踏んで横ざまに、そばへ来た。

 続いて日傭取ひようとりが、おなじく木戸口へ、肩を組合って低く出た。

「ごめんなせえましよ、お客様。……ご機嫌よくこうやってござらっしゃる処を見ると、間違まちげえごともなかったの、何も、別条はなかっただね。」

「ところが、おっさん、少々別条があるんですよ。きみたちの仕事を、ちょっと無駄にしたぜ。一杯買おう、これです、ぶつぶつに縄を切払きっぱらった。」

「はい、これは、はあ、いい事をさっせえて下さりました。」

「何だか、あべこべのような挨拶だな。」

「いんね、全くいい事をなさせえました。」

「いい事をなさいましたじゃないわ、おいたわしいじゃないの、女﨟さんがさ。」

「ご新姐、それがね、いや、この、からげ縄、畜生。」

 そこで、かがんで、毛虫を踏潰ふみつぶしたような爪さきへ近く、切れて落ちた、むすびめの節立った荒縄を手繰棄てに背後うしろ刎出はねだしながら、きょろきょろと樹の空を見廻した。

 妙なもので、下木戸の日傭取たちも、申合せたように、揃って、かがんで、空を見る目が、皆動く。

「いい塩梅あんばいに、幽霊蜻蛉、消えただかな。」

「一体何だね、それは。」

「もの、それがでござりますよ、お客様、この、はい、石塔を動かすにつきましてだ。」

「いずれ、あの糸塚とかいうのについての事だろうが、何かね、掘返してお骨でも。」

「いや、それはなりましねえ。記念碑発起押っぽだての、帽子、靴、洋服、はかまひげの生えた、ご連中さ、そのつもりであったれど、寺の和尚様、承知さっしゃりましねえだ。ものこれ、三十年ったとこそいえ、若い女﨟じょうろううまってるだ。それに、久しい無縁墓だで、ことわりいう檀家もなしの、立合ってくれる人の見分もないで、と一論判ひとろっぱんあった上で、土には触らねえ事になったでがす。」

「そうあるべき処だよ。」

「ところで、はい、あのさ、石彫いしぼりでけえ糸枠の上へ、がっしりと、立派なお堂を据えて戸をあけたてしますだね、その中へこの……」

 お米は着流しのお太鼓で、まことに優に立っている。

「おお、成仏をさっしゃるずら、しおらしい、嫁菜の花のお羽織きて、霧は紫の雲のようだ、しなしなとしてや。」

 と、こけの生えたような手ででた。

「ああ、くすぐったい。」

「何でがすい。」

 と、何も知らず、久助は墓の羽織を、もう一撫で。

「この石塔をいつき込むもくろみだ。その堂がもう出来て、切組みも済ましたで、持込んで寸法をきっちり合わす段が、はい、ここはこの通り足場が悪いと、山門うちまで運ぶについて、今日さ、この運び手間だよ。肩がわりの念入りで、丸太棒まるたんぼうかつぎ出しますに。──丸太棒めら、丸太棒を押立おったてて、ごろうじませい、あすこにとぐろを巻いていますだ。あのさきへ矢羽根をつけると、掘立普請のときが出るだね。へい、墓場の入口だ、地獄の門番……はて、飛んでもねえ、肉親のご新姐ござらっしゃる。」

 と、泥でまぶしそうに、口のはたこぶしでおさえて、

「──そのさ、担ぎ出しますに、石の直肌じかはだに縄を掛けるで、わらなりむしろなりの、花ものの草木を雪囲いにしますだね、あの骨法でなくば悪かんべいと、お客様のめえだけんど、わし一応はいうたれども、丸太棒めら。あに、はい、墓さ苞入つといりに及ぶもんか、手間ざいだ。また誰も見ていねえで、構いごとねえだ、といての。

 和尚様は今日は留守なり、お納所なっしょ、小僧も、総斎そうどきに出さしった。まず大事ねえでの。はい、ぐるぐるまきのがんじがらみ、や、このしょで、転がし出した。それさ、そのかたでがすよ。わしさ屈腰かがみごしで、膝はだかって、つらを突出す。奴等やつら三方からかぶさりかかって、棒を突挿そうとしたと思わっせえまし。何と、この鼻の先、奴等の目の前へ、縄目へ浮いて、羽さはじいて、赤蜻蛉が二つ出た。

 たった今や、それまでというものは、四人八ツの、団栗目どんぐりまなこに、糠虫ぬかむし一疋入らなんだに、かけた縄さ下からくぐって石からいて出たはどうしたもんだね。やあやあ、しっしっ、吹くやら、払いますやら、じっとして赤蜻蛉が動かねえとなると、はい、時代違いで、何の気もねえ若いてやいも、さてこの働きにかかってみれば、記念碑糸塚の因縁さ、よく聞いて知ってるもんだで。

 ほれ、のろのろとこっちさ寄って来るだ。あの、さきへ立って、丸太棒をついた、その手拭てぬぐいをだらりと首へかけた、たくましい男でがす。奴が、女﨟の幽霊でねえか。出たッと、またひげどのが叫ぶと、蜻蛉がひらりと動くと、かっと二つ、きゅうのような炎が立つ。冷い火を汗に浴びると、うら山おろしの風さ真黒まっくろに、どっと来た、煙の中を、目がくらんでげたでござえますでの。………

 それでがすもの、ご新姐、お客様。」

「それじゃ、私たち差出た事は、叱言こごとなしに済むんだね。」

「ほってもねえ、いい人扶ひとだすけして下せえましたよ。時に、はい、和尚様帰って、逢わっせえても、万々沙汰なしに頼みますだ。」

 そこへ、丸太棒が、のっそり来た。

「おじい、もういいか、大丈夫かよ。」

「うむ、見せえ、大智識さ五十年の香染こうぞめ袈裟けさより利益があっての、その、嫁菜の縮緬ちりめんなかで、幽霊はもう消滅だ。」

「幽霊も大袈裟だがよ、悪く、蜻蛉にたたられると、おこりを病むというから可恐おっかねえです。縄をかけたら、また祟って出やしねえかな。」

 と不精髯の布子が、ぶつぶついった。

「そういう口で、何で包むもの持って来ねえ。糸塚さ、女﨟様、くくったお祟りだ、これ、敷松葉の数寄屋すきやの庭の牡丹に雪囲いをすると思えさ。」

「よし、おれが行く。」

 と、冬の麦稈帽むぎわらぼうが出ようとする。

「ああ、ちょっと。」

 袖を開いて、お米が留めて、

「そのまま、その上からおいわえなさいな。」

 不精髯が──どこか昔の提灯屋に似ていたが、

「このままでかね、勿体もってい至極もねえ。」

「かまいませんわ。」

「構わねえたって、これ、縛るとなると。」

「うつくしいお方が、見てる前で、むざとなあ。」

 麦藁むぎわらと、不精髯が目を見合って、半ばつぶやくがごとくにいう。

「いいんですよ、構いませんから。」

 この時、丸太棒が鉄のように見えた。ぶるぶると腕に力のみなぎったたくましいのが、

「よし、石も婉軟やんわりだろう。きれいなご新姐を抱くと思え。」

 というままに、くびの手拭が真額まっこうでピンとると、棒をハタと投げ、ずかと諸手を墓にかけた。袖のしなうを胸へ取った、前抱きにぬっと立ち、腰を張って土手を下りた。この方がかかり勝手がいいらしい。巌路いわみちへ踏みはだかるように足を拡げ、タタと総身に動揺いぶりれて、大きな蟹が竜宮の女房を胸に抱いて逆落しの滝に乗るように、ずずずずずと下りてく。

「えらいぞ、権太、怪我をするな。」

 と、髯が小走りに、土手の方から後へ下りる。

「俺だって、出来ねえ事はなかったい、遠慮をした、えい、誰に。」

 と、お米を見返って、ニヤリとして、麦藁が後に続いた。

頓生菩提とんしょうぼだい。……小川へ流すか、燃しますべい。」

 そういって久助が、掻き集めた縄のくずを、一束ねに握って腰をもたげた時は、三人はもう木戸を出て見えなかったのである。

「久……爺や、爺やさん、羽織はね。式台へほうり込んで置いていんですよ。」

 この羽織が、黒塗の華頭窓にかかっていて、その窓際の机に向って、お米はほっそりと坐っていた。冬の日は釣瓶つるべおとしというより、こずえ熟柿じゅくしつぶてに打って、もう暮れて、客殿の広い畳が皆暗い。

 こんなにも、清らかなものかと思う、お米のえり差覗さしのぞくようにしながら、盆に渋茶は出したが、火を置かぬ火鉢越しにかの机の上の提灯をた。

(──この、提灯が出ないと、ご迷惑でも話が済まない──)

 信仰に頒布する、当山、本尊のお札を捧げた三宝をかたわらに、硯箱すずりばこを控えて、硯の朱の方に筆を染めつつ、お米は提灯に瞳を凝らして、眉を描くように染めている。

「──きっと思いついた、初路さんの糸塚に手向けて帰ろう。赤蜻蛉──尾をくわえたのを是非頼む。塗師屋さんの内儀でも、女学校の出じゃないか。絵というと面倒だから図画で行くのさ。べにを引いて、二つならべれば、羽子の羽でもいい。胡蘿蔔にんじんを繊に松葉をさしても、形は似ます。指で挟んだ唐辛子でも構わない。──」

 と、たそがれの立籠めて一際漆のような板敷を、お米の白い足袋の伝う時、そそのかして口説いた。北辰妙見菩薩ほくしんみょうけんぼさつを拝んで、客殿へ退であったが。

 水をたっぷりとして、ちょっと口で吸って、つぼみの唇をぽッつり黒く、八枚の羽を薄墨で、しかし丹念にあしらった。瀬戸の水入が渋のついた鯉だったのは、あつらえたようである。

「出来た、見事々々。お米坊、机にそうやった処は、赤絵の紫式部だね。」

「知らない、おっかさんにいいつけて叱らせてあげるから。」

「失礼。」

 と、茶碗が、また、赤絵だったので、思わず失言をびつつ、準藤原女史に介添してお掛け申す……羽織を取入れたが、窓あかりに、

「これは、大分うらに青苔がついた。悪いなあ。たたんで持つか。」

 と、持ったのに、それにお米が手を添えて、

「着ますわ。」

「きられるかい、墓のを、そのまま。」

「おかわいそうな方のですもの、これ、荵摺しのぶずりですよ。」

 その優しさに、思わず胸がときめいて。

「肩をこっちへ。」

「まあ、おじさん。」

「おっかさんの名代だ、娘に着せるのに仔細しさいない。」

「はい、……どうぞ。」

 くるりと向きかわると、思いがけず、辻町の胸にヒヤリと髪をつけたのである。

「私、こいしい、おっかさん。」

 前刻さっきから──辻町は、演芸、映画、そんなものの楽屋に縁がある──ほんの少々だけれども、これは筋にして稼げると、ひそかに悪心のきざしたのが、この時、色も、よくも何にもない、しみじみと、いとしくて涙ぐんだ。

「へい。お待遠でござりました。」

 片手に蝋燭ろうそくを、ちらちら、片手に少しばかり火を入れた十能を持って、婆さんが庫裏くりから出た。

「糸塚さんへ置いて行きます、あとで気をつけて下さいましよ、烏が火をくわえるといいますから。」

 お米も、式台へもうかかった。

「へい、もう、刻限で、危気あぶなげはござりましねえ、嘴太烏ふとも、嘴細烏ほそも、千羽ヶ淵の森へんで寝ました。」

 大城下は、目の下に、町のは、柳にともれ、川に流るる。いしだんを下へ、谷の暗いように下りた。場末の五しょくはまだ来ない。

 あきない帰りの豆府屋が、ぶつかるように、ハタと留った時、

「あれ、蜻蛉が。」

 お米が膝をついて、手を合せた。

 あの墓石を寄せかけた、塚の糸枠の柄にかけて下山した、提灯が、山門へ出て、すこしずつ高くなり、裏山の風一通り、赤蜻蛉がそっと動いて、女の影が……二人見えた。

昭和十四(一九三九)年七月

底本:「泉鏡花集成9」ちくま文庫、筑摩書房

   1996(平成8)年624日第1刷発行

底本の親本:「鏡花全集 第二十四巻」岩波書店

   1940(昭和15)年630日第1刷発行

※「切燈籠」と「切籠燈」の混在は、底本と底本の親本の通りなので、そのままとしました。

入力:門田裕志

校正:多羅尾伴内

2003年93日作成

2008年105日修正

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