神鷺之巻
泉鏡花
|
一
白鷺明神の祠へ──一緑の森をその峰に仰いで、小県銑吉がいざ詣でようとすると、案内に立ちそうな村の爺さんが少なからず難色を顕わした。
この爺さんは、
「──おらが口で、更めていうではねえがなす、内の媼は、へい一通りならねえ巫女でがすで。」……
若い時は、渡り仲間の、のらもので、猟夫を片手間に、小賭博なども遣るらしいが、そんな事より、古女房が巫女というので、聞くものに一種の威力があったのはいうまでもない。
またその媼巫女の、巫術の修煉の一通りのものでない事は、読者にも、間もなく知れよう。
一体、孫八が名だそうだ、この爺さんは、つい今しがた、この奥州、関屋の在、旧──街道わきの古寺、西明寺の、見る影もなく荒涼んだ乱塔場で偶然知己になったので。それから──無住ではない、住職の和尚は、斎稼ぎに出て留守だった──その寺へ伴われ、庫裡から、ここに准胝観世音の御堂に詣でた。
いま、その御廚子の前に、わずかに二三畳の破畳の上に居るのである。
さながら野晒の肋骨を組合わせたように、曝れ古びた、正面の閉した格子を透いて、向う峰の明神の森は小さな堂の屋根を包んで、街道を中に、石段は高いが、あたかも、ついそこに掛けた、一面墨絵の額、いや、ざっと彩った絵馬のごとく望まるる。
明神は女体におわす──爺さんがいうのであるが──それへ、詣ずるのは、石段の上の拝殿までだが、そこへ行くだけでさえ、清浄と斎戒がなければならぬ。奥の大巌の中腹に、祠が立って、恭しく斎き祭った神像は、大深秘で、軽々しく拝まれない──だから、参った処で、その効はあるまい……と行くのを留めたそうな口吻であった。
「ごく内々の事でがすがなす、明神様のお姿というのはなす。」
時に、勿体ないが、大破落壁した、この御堂の壇に、観音の緑髪、朱唇、白衣、白木彫の、み姿の、片扉金具の抜けて、自から開いた廚子から拝されて、誰が捧げたか、花瓶の雪の卯の花が、そのまま、御袖、裳に紛いつつ、銑吉が参らせた蝋燭の灯に、格天井を漏る昼の月影のごとく、ちらちらと薄青く、また金色の影がさす。
「なす、この観音様に、よう似てござらっしゃる、との事でなす。」……
ただこの観世音の麗相を、やや細面にして、玉の皓きがごとく、そして御髪が黒く、やっぱり唇は一点の紅である。
その明神は、白鷺の月冠をめしている。白衣で、袴は、白とも、緋ともいうが、夜の花の朧と思え。……
どの道、巌の奥殿の扉を開くわけには行かないのだから、偏に観世音を念じて、彼処の面影を偲べばよかろう。
爺さんは、とかく、手に取れそうな、峰の堂──絵馬の裡へ、銑吉を上らせまいとするのである。
第一可恐いのは、明神の拝殿の蔀うち、すぐの承塵に、いつの昔に奉納したのか薙刀が一振かかっている。勿論誰も手を触れず、いつ研いだ事もないのに、切味の鋭さは、月の影に翔込む梟、小春日になく山鳩は構いない。いたずらものの野鼠は真二つになって落ち、ぬたくる蛇は寸断になって蠢くほどで、虫、獣も、今は恐れて、床、天井を損わない。
人間なりとて、心柄によっては無事では済まない。かねて禁断であるものを、色に盲いて血気な徒が、分別を取はずし、夜中、御堂へ、村の娘を連込んだものがあった。隔ての帳も、簾もないのに──
──それが、何と、明い月夜よ。明神様もけなりがッつろと、二十三夜の月待の夜話に、森へ下弦の月がかかるのを見て饒舌った。不埒を働いてから十五年。四十を越えて、それまでは内々恐れて、黙っていたのだが、──祟るものか、この通り、と鼻をさして、何の罰が当るかい。──舌も引かぬに、天井から、青い光がさし、その百姓屋の壁を抜いて、散りかかる柳の刃がキラリと座のものの目に輝いた時、色男の顔から血しぶきが立って、そぎ落された低い鼻が、守宮のように、畳でピチピチと刎ねた事さえある。
いま現に、町や村で、ふなあ、ふなあ、と鼻くたで、因果と、鮒鰌を売っている、老ぼれがそれである。
村若衆の堂の出合は、ありそうな事だけれど、こんな話はどこかに類がないでもなかろう。
しかし、なお押重ねて、爺さんが言った、……次の事実は、少からず銑吉を驚かして、胸さきをヒヤリとさせた。
余り里近なせいであろう。近頃では場所が移った。が、以前は、あの明神の森が、すぐ、いつも雪の降ったような白鷺の巣であった。近く大正の末である。一夜に二件、人間二人、もの凄い異状が起った。
その一人は、近国の門閥家で、地方的に名望権威があって、我が儘の出来る旦那方。人に、鳥博士と称えられる、聞こえた鳥類の研究家で。家には、鳥屋というより、小さな博物館ぐらいの標本を備えもし、飼ってもいる。近県近郷の学校の教師、無論学生たち、志あるものは、都会、遠国からも見学に来り訪うこと、須賀川の牡丹の観賞に相斉しい。で、いずれの方面からも許されて、その旦那の紳士ばかりは、猟期、禁制の、時と、場所を問わず、学問のためとして、任意に、得意の猟銃の打金をカチンと打ち、生きた的に向って、ピタリと照準する事が出来る。
時に、その年は、獲ものでなしに、巣の白鷺の産卵と、生育状態の実験を思立たれたという。……雛ッ子はどんなだろう。鶏や、雀と違って、ただ聞いても、鴛鴦だの、白鷺のあかんぼには、博物にほとんど無関心な銑吉も、聞きつつ、早くまず耳を傾けた。
在所には、旦那方の泊るような旅館がない。片原の町へ宿を取って、鳥博士は、夏から秋へかけて、その時々。足繁くなると、ほとんど毎日のように、明神の森へ通ったが、思う壺の巣が見出せない。
──村に猟夫が居る。猟夫といっても、南部の猪や、信州の熊に対するような、本職の、またぎ、おやじの雄ではない。のらくらものの隙稼ぎに鑑札だけは受けているのが、いよいよ獲ものに困ずると、極めて内証に、森の白鷺を盗み撃する。人目を憚るのだから、忍びに忍んで潜入するのだが、いや、どうも、我折れた根気のいい事は、朝早くでも、晩方でも、日が暮れたりといえどもで、夏の末のある夜などは、ままよ宿鳥なりと、占めようと、右の猟夫が夜中真暗な森を徜徉ううちに、青白い光りものが、目一つの山の神のように動いて来るのに出撞した。けだし光は旦那方の持つ懐中電燈であった。が、その時の鳥旦那の装は、杉の葉を、頭や、腰のまわりに結びつけた、面まで青い、森の悪魔のように見えて、猟夫を息を引いて驚倒せしめた。旦那の智恵によると、鳥に近づくには、季節によって、樹木と同化するのと、また鳥とほぼ服装の彩を同じゅうするのが妙術だという。
それだから一夜に事の起った時は、冬で雪が降っていたために、鳥博士は、帽子も、服も、靴まで真白にしていた、と話すのであった。
(……?……)
ところで、鳥博士も、猟夫も、相互の仕事が、両方とも邪魔にはなるが、幾度も顔を合わせるから、逢えば自然と口を利く。「ここのおつかい姫は、何だな、馬鹿に恥かしがり屋で居るんだな。なかなか産む処を見せないが。」「旦那、とんでもねえ罰が当る。」「撃つやつとどうかな。」段々秋が深くなると、「これまでのは渡りものの、やす女だ、侍女も上等のになると、段々勿体をつけて奥の方へ引込むな。」従って森の奥になる。「今度見つけた巣は一番上等だ。鷺の中でも貴婦人となると、産は雪の中らしい。人目を忍ぶんだな。産屋も奥御殿という処だ。」「やれ、罰が当るてば。旦那。」「撃つやつとどうかな。」──雪の中に産育する、そんな鷺があるかどうかは知らない。爺さんの話のまま──猟夫がこの爺さんである事は言うまでもなかろうと思う。さて猟夫が、雪の降頻る中を、朝の間に森へ行くと、幹と根と一面の白い上に、既に縦横に靴で踏込んだあとがあった。──畜生、こんなに疾くから旦那が来ている。博士の、静粛な白銀の林の中なる白鷺の貴婦人の臨月の観察に、ズトン! は大禁物であるから、睨まれては事こわしだ。一旦破寺──西明寺はその一頃は無住であった──その庫裡に引取って、炉に焚火をして、弁当を使ったあとで、出直して、降積った雪の森に襲い入ると、段々に奥深く、やがて向うに青い水が顕われた、土地で、大沼というのである。
今はよく晴れて、沼を囲んだ、樹の袖、樹の裾が、大なる紺青の姿見を抱いて、化粧するようにも見え、立囲った幾千の白い上﨟が、瑠璃の皎殿を繞り、碧橋を渡って、風に舞うようにも視められた。
この時、煩悩も、菩提もない。ちょうど汀の銀の蘆を、一むら肩でさらりと分けて、雪に紛う鷺が一羽、人を払う言伝がありそうに、すらりと立って歩む出端を、ああ、ああ、ああ、こんな日に限って、ふと仰がるる、那須嶽連山の嶺に、たちまち一朶の黒雲の湧いたのも気にしないで、折敷にカンと打った。キャッ! と若い女の声。魂ぎる声。
這ったか、飛んだか、辷ったか。猟夫が目くるめいて駆付けると、凍てざまの白雪に、ぽた、ぽた、ぽたと紅が染まって、どこを撃ったか、黒髪の乱れた、うつくしい女が、仰向けに倒れ、もがいた手足をそのままに乱れ敷いていたのである。
いやが上の恐怖と驚駭は、わずかに四五間離れた処に、鳥の旦那が真白なヘルメット帽、警官の白い夏服で、腹這になっている。「お助けだ──旦那、薬はねえか。」と自分が救われたそうに手を合せた。が、鳥旦那は──鷺が若い女になる──そんな魔法は、俺が使ったぞ、というように知らん顔して、遠めがねを、それも白布で巻いたので、熟とどこかの樹を枝を凝視めていて、ものも言わない。
猟夫は最期と覚悟をした。……
そこで、急いで我が屋へ帰って、不断、常住、無益な殺生を、するな、なせそと戒める、古女房の老巫女に、しおしおと、青くなって次第を話して、……その筋へなのって出るのに、すぐに梁へ掛けたそうに褌をしめなおすと、梓の弓を看板に掛けて家業にはしないで、茅屋に隠れてはいるが、うらないも祈祷も、その道の博士だ──と言う。どういうものか、正式に学校から授けない、ものの巧者は、学士を飛越えて博士になる。博士神巫が、亭主が人殺しをして、唇の色まで変って震えているものを、そんな事ぐらいで留めはしない……冬の日の暗い納戸で、糸車をじい……じい……村も浮世も寒さに喘息を病んだように響かせながら、猟夫に真裸になれ、と歯茎を緊めて厳に言った。経帷子にでも着換えるのか、そんな用意はねえすべい。……井戸川で凍死でもさせる気だろう。しかしその言の通りにすると、蓑を着よ、そのようなその羅紗の、毛くさい破帽子などは脱いで、菅笠を被れという。そんで、へい、苧殻か、青竹の杖でもつくか、と聞くと、それは、ついてもつかいでも、のう、もう一度、明神様の森へ走って、旦那が傍に居ようと、居まいと、その若い婦女の死骸を、蓑の下へ、膚づけに負いまして、また早や急いで帰れ、と少し早めに糸車を廻わしている。
いや、もう、肝魂を消して、さきに死骸の傍を離れる時から、那須颪が真黒になって、再び、日の暮方の雪が降出したのが、今度行向う時は、向風の吹雪になった。が、寒さも冷たさも猟夫は覚えぬ。ただ面を打って巴卍に打ち乱れる紛泪の中に、かの薙刀の刃がギラリと光って、鼻耳をそがれはしまいか。幾度立ちすくみになったやら。……
我が手で、鉄砲でうった女の死骸を、雪を掻いて膚におぶった、そ、その心持というものは、紅蓮大紅蓮の土壇とも、八寒地獄の磔柱とも、譬えように口も利けぬ。ただ吹雪に怪飛んで、亡者のごとく、ふらふらと内へ戻ると、媼巫女は、台所の筵敷に居敷り、出刃庖丁をドギドギと研いでいて、納戸の炉に火が燃えて、破鍋のかかったのが、阿鼻とも焦熱とも凄じい。……「さ、さ、帯を解け、しての、死骸を俎の上へ、」というが、石でも銅でもない。台所の俎で。……媼の形相は、絵に描いた安達ヶ原と思うのに、頸には、狼の牙やら、狐の目やら、鼬の足やら、つなぎ合せた長数珠に三重に捲きながらの指図でござった。
……不思議というは、青い腰も血の胸も、死骸はすっくり俎の上へ納って、首だけが土間へがっくりと垂れる。めったに使ったことのない、大俵の炭をぶちまけたように髻が砕けて、黒髪が散りかかる雪に敷いた。媼が伸上り、じろりと視て、「天人のような婦やな、羽衣を剥け、剥け。」と言う。襟も袖も引き毮る、と白い優しい肩から脇の下まで仰向けに露われ、乳へ膝を折上げて、くくられたように、踵を空へ屈めた姿で、柔にすくんでいる。「さ、その白ッこい、膏ののった双ももを放さっしゃれ。獣は背中に、鳥は腹に肉があるという事いの。腹から割かっしゃるか、それとも背から解くかの、」と何と、ひたわななきに戦く、猟夫の手に庖丁を渡して、「えい、それ。」媼が、女の両脚を餅のように下へ引くとな、腹が、ふわりと動いて胴がしんなりと伸び申したなす。
「観音様の前だ、旦那、許さっせえ。」
御廚子の菩薩は、ちらちらと蝋燭の灯に瞬きたまう。
──茫然として、銑吉は聞いていた──
血は、とろとろと流れた、が、氷ったように、大腸小腸、赤肝、碧胆、五臓は見る見る解き発かれ、続いて、首を切れと云う。その、しなりと俎の下へ伸びた皓々とした咽喉首に、触ると震えそうな細い筋よ、蕨、ぜんまいが、山賤には口相応、といって、猟夫だとて、若い時、宿場女郎の、〓(「参らせ候」のくずし字)もかしくも見たれど、そんなものがたとえになろうか。……若菜の二葉の青いような脈筋が透いて見えて、庖丁の当てようがござらない。容顔が美麗なで、気後れをするげな、この痴気おやじと、媼はニヤリ、「鼻をそげそげ、思切って。ええ、それでのうては、こな爺い、人殺しの解死人は免れぬぞ、」と告り威す。──命ばかりは欲いと思い、ここで我が鼻も薙刀で引そがりょう、恐ろしさ。古手拭で、我が鼻を、頸窪へ結えたが、美しい女の冷い鼻をつるりと撮み、じょきりと庖丁で刎ねると、ああ、あ痛、焼火箸で掌を貫かれたような、その疼痛に、くらんだ目が、はあ、でんぐり返って気がつけば、鼻のかわりに、細長い鳥の嘴を握っていて、俎の上には、ただ腹を解いた白鷺が一羽。蓑毛も、胸毛も、散りぢりに、血は俎の上と、鷺の首と、おのが掌にたらたらと塗れていた。
媼が世帯ぶって、口軽に、「大ごなしが済んだあとは、わしが手でぶつぶつと切っておましょ。鷺の料理は知らぬなれど、清汁か、味噌か、焼こうかの。」と榾をほだて、鍋を揺ぶって見せつけて、「人間の娘も、鷺の婦も、いのち惜しさにかわりはないぞの。」といわれた時は、俎につくばい、鳥に屈み、媼に這って、手をついた。断つ、断つ、ふッつりと猟を断つ、慰みの無益の殺生は、断つわいやい。
畠二三枚、つい近い、前畷の夜の雪路を、狸が葬式を真似るように、陰々と火がともれて、人影のざわざわと通り過ぎたのは──真中に戸板を舁いていた。──鳥旦那の、凍えて人事不省なったのを助け出した、行列であった。
町の病院で、二月以上煩ったが、凍傷のために、足の指二本、鼻の尖が少々、とれた、そげた、欠けた、はて何といおう、もげたと言おう、もげた。
どうも解せぬ。さて、合点のゆかない。現におつかい姫を、鉄砲で撃った猟夫は、肝を潰しただけで、無事に助かった。旦那はまず不具だ。巣を見るばかりで、その祟りは、と内証で声をひそめて、老巫女に伺を立てた。されば、明神様の思召しは、鉄砲は避けもされる。また眷属が怪我に打たれまいものではない。──御殿の閨を覗かれ、あまつさえ、帳の奥のその奥の産屋を──おみずからではあるまいが──お煩い……との事である。
要するに、御堂の女神は、鉄砲より、研究がおきらいなのである。──
「──万事、その気でござらっしゃれよ。」
「勿論です──」
が、まだその上にも、銑吉を一人で御堂へ行かせるのは、気づかいらしくもあり、好もしくない様子が見えた。すなわち明神の祠へは、孫八爺さんが一所に行こうという。銑吉とても、ただ怯かしばかりでもなさそうな、秘密と、奇異と、第一、人気のまるでないその祠に、入口に懸った薙刀を思うと、掛釘が錆朽ちていまいものでもなし、控えの綱など断切れていないと限らない。同行はむしろ便宜であったが。
さて、旧街道を──庫裡を一廻り、寺の前から──路を埋めた浅茅を踏んで、横切って、石段下のたらたら坂を昇りかかった時であった。明神の森とは、山波をつづけて、なだらかに前来た片原の町はずれへ続く、それを斜に見上げる、山の端高き青芒、蕨の広葉の茂った中へ、ちらりと出た……さあ、いくつぐらいだろう、女の子の紅い帯が、ふと紅の袴のように見えたのも稀有であった、が、その下ななめに、草堤を、田螺が二つ並んで、日中の畝うつりをしているような人影を見おろすと、
「おん爺いええ。」
と野へ響く、広く透った声で呼んだ。
貝の尖の白髪の田螺が、
「おお。」
「爺ン爺いよう。」
「……爺ン爺い、とこくわ──おおよ。」
「媼ン媼が、なあえ、すぐに帰って、ござれとよう。」
「酒でも餅でもあんめえが、……やあ。」
「知らねえよう。」
「客人と、やい、明神様詣るだと、言うだあよう。」
「何でも帰れ、とよう。媼ン媼が言うだがええ。」
なぜか、その女の子、その声に、いや、その言托をするものに、銑吉さえ一種の威のあるのを感じた。
「そんでは、旦那。」
白髪の田螺は、麦稈帽の田螺に、ぼつりと分れる。
二
「──何だ、薙刀というのは、──絵馬の画──これか。」
あの、爺い。口さきで人を薙刀に掛けたな。銑吉は御堂の格子を入って、床の右横の破欄間にかかった、絵馬を視て、吻と息を吐きつつ微笑んだ。
しかし、一口に絵馬とはいうが、入念の彩色、塗柄の蒔絵に唐草さえある。もっとも年数のほども分らず、納ぬしの文字などは見分けがつかない。けれども、塗柄を受けた服紗のようなものは、紗綾か、緞子か、濃い紫をその細工ものに縫込んだ。
武器は武器でも、念流、一刀流などの猛者の手を経たものではない。流儀の名の、静も優しい、婦人の奉納に違いない。
眉も胸も和になった。が、ここへ来て彳むまで、銑吉は実は瞳を据え、唇を緊めて、驚破といわばの気構をしたのである。何より聞怯じをした事は、いささかたりとも神慮に背くと、静流がひらめくとともに、鼻を殺がるる、というのである。
これは、生命より可恐い。むかし、悪性の唐瘡を煩ったものが、厠から出て、嚔をした拍子に、鼻が飛んで、鉢前をちょろちょろと這った、二十三夜講の、前の話を思出す。──その鼻の飛んだ時、キャッと叫ぶと、顔の真中へ舌が出て、もげた鼻を追掛けたというのである。鳥博士のは凍傷と聞いたが、結果はおなじい。
鼻をそがれて、顔の真中へ舌が出たのでは、二度と東京が見られない。第一汽車に乗せなかろう。
草生の坂を上る時は、日中三時さがり、やや暑さを覚えながら、幾度も単衣の襟を正した。
銑吉は、寺を出る時、羽織を、観世音の御堂に脱いで、着流しで扇を持った。この形は、さんげ、さんげ、金剛杖で、お山に昇る力もなく、登山靴で、嶽を征服するとかいう偉さもない。明神の青葉の砦へ、見すぼらしく降参をするに似た。が、謹んでその方が無事でいい。
石段もところどころ崩れ損じた、控綱の欲いほど急ではないが、段の数は、累々と畳まって、半身を、夏の雲に抽いた、と思うほど、聳えていた。
ここに、思掛けなかったのは──不断ほとんど詣ずるもののない、無人の境だと聞いただけに、蛇類のおそれ、雑草が伸茂って、道を蔽うていそうだったのが、敷石が一筋、すっと正面の階段まで、常磐樹の落葉さえ、五枚六枚数うるばかり、草を靡かして滑かに通った事であった。
やがて近づく、御手洗の水は乾いたが、雪の白山の、故郷の、氏神を念じて、御堂の姫の影を幻に描いた。
すぐその御手洗の傍に、三抱ほどなる大榎の枝が茂って、檜皮葺の屋根を、森々と暗いまで緑に包んだ、棟の鰹木を見れば、紛うべくもない女神である。根上りの根の、譬えば黒い珊瑚碓のごとく、堆く築いて、青く白く、立浪を砕くように床の縁下へ蟠ったのが、三間四面の御堂を、組桟敷のごとく、さながら枝の上に支えていて、下蔭はたちまち、ぞくりと寒い、根の空洞に、清水があって、翠珠を湛えて湧くのが見える。
銑吉はそこで手を浄めた。
階段を静に──むしろ密と上りつつ、ハタと胸を衝いたのは、途中までは爺さんが一所に来る筈だった。鍵を、もし、錠がささっていれば、扉は開かない、と思ったのに、格子は押附けてはあるが、合せ目が浮いていた。裡の薄暗いのは、上の大樹の茂りであろう。及腰ながら差覗くと、廻縁の板戸は、三方とも一二枚ずつ鎖してない。
手を扉にかけた。
裡の、その真上に、薙刀がかかっている筈である。
そこで、銑吉がどんな可笑な態をしたかは、およそ読者の想像さるる通りである。
「お通しを願います、失礼。」
と云った。
片扉、とって引くと、床も青く澄んで朗か。
絵馬を見て、彳んで、いま、その心易さに莞爾としたのである。
思いも掛けず、袖を射て、稲妻が飛んだ。桔梗、萩、女郎花、一幅の花野が水とともに床に流れ、露を縫った銀糸の照る、彩ある女帯が目を打つと同時に、銑吉は宙を飛んで、階段を下へ刎ね落ちた。再び裾へ飜えるのは、柄長き薙刀の刃尖である。その稲妻が、雨のごとき冷汗を透して、再び光った。
次の瞬間、銑吉の身は、ほとんど本能的に大榎の幹を小盾に取っていた。
どうも人間より蝉に似ている。堂の屋根うらを飛んで、樹へ遁げたその形が。──そうして、少時して、青い顔の目ばかり樹の幹から出した処は、いよいよ似ている。
柳の影を素膚に絡うたのでは、よもあるまい。よく似た模様をすらすらと肩裳へ、腰には、淡紅の伊達巻ばかり。いまの花野の帯は、黒格子を仄に、端が靡いて、婦人は、頬のかかり頸脚の白く透通る、黒髪のうしろ向きに、ずり落ちた褄を薄く引き、ほとんど白脛に消ゆるに近い薄紅の蹴出しを、ただなよなよと捌きながら、堂の縁の三方を、そのうしろ向きのまま、するすると行き、よろよろと還って、往きつ戻りつしている。その取乱した態の、あわただしい中にも、媚しさは、姿の見えかくれる榎の根の荘厳に感じらるるのさえ、かえって露草の根の糸の、細く、やさしく戦ぎ縺れるように思わせつつ、堂の縁を往来した。が、後姿のままで、やがて、片扉開いた格子に、ひたと額をつけて、じっと留まると、華奢な肩で激しく息をした。髪が髢のごとくさらさらと揺れた。その立って、踏みぐくめつつも乱れた裾に、細く白々と鳥の羽のような軽い白足袋の爪尖が震えたが、半身を扉に持たせ、半ばを取縋って、柄を高くついた、その薙刀が倒で……刃尖が爪先を切ろうとしている。
戦は、銑吉が勝らしい。由来いかなる戦史、軍記にも、薙刀を倒についた方は負である。同時に、その刃尖が肉を削り、鮮血が踵を染めて伝わりそうで、見る目も危い。
青い蝉が、かなかなのような調子はずれの声を、
「貴女、貴女、誰方にしましても、何事にしましても、危い、それは危い。怪我をします。怪我をします。気をおつけなさらないと。」
髪を分けた頬を白く、手首とともに、一層扉に押当てて、
「あああ」
とやさしい、うら若い、あどけないほどの、うけこたえとまでもない溜息を深くすると、
「小県さん──」
冴えて、澄み、すこし掠れた細い声。が、これには銑吉が幹の支えを失って、手をはずして落ちようとした。堂の縁の女でなく、大榎の梢から化鳥が呼んだように聞えたのである。
「……小県さん、ほんとうの小県さんですか。」
この場合、声はまた心持涸れたようだが、やっぱり澄んで、はっきりした。
夏は簾、冬は襖、間を隔てた、もの越は、人を思うには一段、床しく懐しい。……聞覚えた以上であるが、それだけに、思掛けなさも、余りに激しい。──
まだ人間に返り切れぬ。薙刀怯えの蝉は、少々震声して、
「小県ですよ、ほんとう以上の小県銑吉です、私です。──ここに居ますがね。……築地の、東京の築地の、お誓さん、きみこそ、いや、あなたこそ、ほんとうのお誓さんですか。」
「ええ、誓ですの、誓ですの、誓の身の果なんですの。」
「あ、危い。」
長刀は朽縁に倒れた。その刃の平に、雪の掌を置くばかり、たよたよと崩折れて、顔に片袖を蔽うて泣いた。身の果と言う……身の果か。かくては、一城の姫か、うつくしい腰元の──敗軍には違いない──落人となって、辻堂に徜徉った伝説を目のあたり、見るものの目に、幽窈、玄麗の趣があって、娑婆近い事のようには思われぬ。
話は別にある。今それを言うべき場合でない。築地の料理店梅水の娘分で、店はこの美人のために賑った。早くから銑吉の恋人である。勿論、その恋を得たのでもなければ、意を通ずるほどの事さえも果さないうちに、昨年の夏、梅水が富士の裾野へ暑中の出店をして、避暑かたがた、お誓がその店を預ったのを知っただけで、この時まで、その消息を知らなかった次第なのである。……
その暑中の出店が、日光、軽井沢などだったら、雲のゆききのゆかりもあろう。ここは、関屋を五里六里、山路、野道を分入った僻村であるものを。──
──実は、銑吉は、これより先き、麓の西明寺の庫裡の棚では、大木魚の下に敷かれた、女持の提紙入を見たし、続いて、准胝観音の御廚子の前に、菩薩が求児擁護の結縁に、紅白の腹帯を据えた三方に、置忘れた紫の女扇子の銀砂子の端に、「せい」としたのを見て、ぞっとした時さえ、ただ遥にその人の面影をしのんだばかりであったのに。
かえって、木魚に圧された提紙入には、美女の古寺の凌辱を危み、三方の女扇子には、姙娠の婦人の生死を懸念して、別に爺さんに、うら問いもしたのであったが、爺さんは、耳をそらし、口を避けて、色ある二品のいわれに触れるのさえ厭うらしいので、そのまま黙した事実があった。
ただ、あだには見過し難い、その二品に対する心ゆかしと、帰路には必ず立寄るべき心のしるしに、羽織を脱いで、寺にさし置いた事だけを──言い添えよう。
いずれにしても、ここで、そのお誓に逢おうなどとは……譬にこまった……間に合わせに、されば、箱根で田沢湖を見たようなものである。
三
「──余り不思議です。お誓さん、ほんとのお誓さんなら、顔を見せて下さい、顔を……こっちを向いて、」
ほとんど樹の枝に乗った位置から、おのずと出る声の調子に、小県は自分ながら不気味を感じた。
きれぎれに、
「お恥かしくって、そちらが向けないほどなんですもの。」
泣声だし、唇を含んでかすれたが、まさか恥かしいという顔に異状はあるまい。およそ薙刀を閃めかして薙ぎ伏せようとした当の敵に対して、その身構えが、背後むきになって、堂の縁を、もの狂わしく駆廻ったはおろか、いまだに、振向いても見ないで、胸を、腹部を袖で秘すらしい、というだけでも、この話の運びを辿って、読者も、あらかじめ頷かるるであろう、この婦は姙娠している。
「私が、そこへ行きますが、構いませんか。今度は、こっちで武芸を用いる。高いこの樹の根からだと、すれすれだから欄干が飛べそうだから。」
婦は、格子に縋って、また立った。なおその背後向きのままで居る。
「しかし、その薙刀を何とかして下さらないか。どうも、まことに、危いのですよ。」
「いま、そちらへ参りますよ。」
落ついて静にいうのが、遠く、築地の梅水で、お酌ねだりをたしなめるように聞えて、銑吉はひとりで苦笑した。すぐに榎の根を、草へ下りて、おとなしく控え待った。
枝がくれに、ひらひらと伸び縮みする……というと蛇体にきこえる、と悪い。細りした姿で、薄い色の褄を引上げ、腰紐を直し、伊達巻をしめながら、襟を掻合わせ掻合わせするのが、茂りの彼方に枝透いて、簾越に薬玉が消えんとする。
やがて、向直って階を下りて来た。引合わせている袖の下が、脇明を洩れるまで、ふっくりと、やや円い。
牡丹を抱いた白鷺の風情である。
見まい。
「水をのみます。小県さん、私……息が切れる。」
と、すぐその榎の根の湧水に、きように褄を膝に挟んで、うつむけにもならず尋常に二の腕をあらわに挿入れた。榎の葉蔭に、手の青い脈を流れて、すぐ咽喉へ通りそうに見えたが、掬もうとすると、掌が薄く、玉の数珠のように、雫が切れて皆溢れる。
「両掌でなさい、両掌で……明神様の水でしょう。野郎に見得も何にもいりゃしません。」
「はい、いいえ。」
膝の上へ、胸をかくして折りかけた袖を圧え、やっぱり腹部を蔽うた、その片手を離さない。
「だって、両掌を突込まないじゃ、いけないじゃありませんか。」
「ええ、あの柄杓があるんですけど。」
「柄杓、」
手水鉢に。
「ああ、手近です。あげましょう。青い苔だけれどもね、乾いているから安心です、さあ。」
「済みません、小県さん、私知っていましたんですけど、つい、とっちてしまいましたの。」
「ところで……ちょっとお待ちなさい。この水は飲んで差支えないんですかね。」
「ええ、冷い、おいしい、私は毎日のように飲んでいます。」
それだと毎日この祠へ。
「あ、あ。」
と、消えるように、息を引いて、
「おいしいこと、ああ、おいしい。」
唇も青澄んだように見える。
「うらやましいなあ。飲んだらこっちへ貸して下さい。」
「私が。」
とて、柄を手巾で拭いたあとを、見入っていた。
「どうしました。」
「髪がこんなですから、毛が落ちているといけませんわ。」
「満々と下さい。ありがたい、これは冷い。一気には舌が縮みますね。」
とぐっと飲み、
「甘露が五臓へ沁みます。」
と清しく云った。
小県の顔を、すっと通った鼻筋の、横顔で斜に視ながら、
「まあ、おきれいですこと。」
「水?……勿論!」
「いいえ、あなたが。」
「あなたが。」
「さっき、絵馬を見ていらっしゃいました時もおきれいだと思ったんですが、清水を一息にめしあがる処が、あの……」
「いや、どうも、そりゃちと違いましょう。牛肉のバタ焼の黒煙を立てて、腐った樽柿の息を吹くのと、明神の清水を汲んで、松風を吸ったのでは、それは、いくらか違わなくっては。」
と、はじめて声を出して軽く笑った。
「透通るほどなのは、あなたさ。」
「ええ。」
と無邪気にうけながら、ちょっと眉を顰めた。乳の下を且つ蔽う袖。
「一度、二十許りの親類の娘を連れて、鬼子母神へ参詣をした事がありますがね、桐の花が窓へ散る、しんとした御堂の燈明で視た、襟脚のよさというものは、拝んで閉じた目も凜として……白さは白粉以上なんです。──前刻も山下のお寺の観世音の前で……お誓さん──女持の薄紫の扇を視ました。ああ、ここへお参りして拝んだ姿は、どんなに美しかろうと思いましたが。」
誓はうつむく。
その襟脚はいうまでもなかろう。
「その人もわかりました。いまおなじ人が、この明神様に籠ったのもわかったのです。が、お待ちなさいよ。絵馬を、私が視ていた時、お誓さんは、どこに居て……」
「ええ、そして、あの、何をしたんだとおっしゃいましょう。」
つと寄ると、手巾を払った手で、柄杓の柄の半ばを取りしめた。その半ばを持ったまま、居処をかえて、小県は、樹の高根に腰を掛けた。
「言いますわ、私……ですが、あなたは、あなたは、どうして、ここへ……」
「おたずね、ごもっともです。──少し気取るようだけれど、ちょっと柄にない松島見物という不了簡を起して……その帰り道なんです。──先祖の墓参りというと殊勝ですが、それなら、行きみちにすべき筈です。関屋まで来ると、ふと、この片原の在所の寺、西明寺ですね。あすこに先祖の墓のある事を、子供のうち、爺さん、祖母さんに聞いていたのを思出しました。勿体ないが、ろくに名も知らない人たちです。
墓は、草に埋まって皆分りません、一家遠国へ流転のうちに、無縁同然なんですから、寺もまた荒れていますしね。住職も留守で、過去帳も見られないし、その寺へ帰るのを待つ間に──しかし、そればかりではありません。
──片原の町から寺へ来る途中、田畝畷の道端に、お中食処の看板が、屋根、廂ぐるみ、朽倒れに潰れていて、清い小流の前に、思いがけない緋牡丹が、」
お誓は、おくれ毛を靡かし、顔を上げる。
「その花の影、水岸に、白鷺が一羽居て、それが、斑蝥──人を殺す大毒虫──みちおしえ、というんですがね、引啣えて、この森の空へ飛んだんです。
まだその以前、その前ですよ。片原まで来る途中、林の中の道で、途中から、不意に、無理やりに、私の雇った自動車へ乗込んだ、いやな、不気味な人相、赤い服装、赤いヘルメット帽、赤い法衣の男が、男の子四人、同じ赤いシャツを着たのを連れて、猟銃を持ったのがありましてね。勝手な処で、山の下へ、藪へ入って見えなくなったのが──この山続のようですから、白鷺の飛んだ方角といい、社のこのあたりか。ずッと奥になると言いますね、大沼か。どっちかで、夢のような話だけれど、神と、魔と、いくさでもはじまりそうな気がしたものですから。」
銑吉は話すうちに、あわれに伏せたお誓の目が、憤を含んで、屹として、それが無念を引きしめて、一層青味を帯びたのに驚いた──思いしことよ。……悪魔は、お誓の身にかかわりがないのでない。
「……わけを言います、小県さん、……言いますが、恥かしいのと、口惜いのとで、息が詰って、声も出なくなりましたら、こんな、私のような、こんな身体に、手をお掛けになるまでもありません。この柄杓の柄を、ただお離しなすって下さい。そのままのめって、人間の青い苔……」
「いや、こうして、あなたと半分持った、柄杓の柄は離しません。」
「あの、そのお優しいお心でしたら、きつけの水を下さいまし……私は、貴方を……おきれいだ、と申しましたわね、ねえ。」
「忘れました、そういう串戯をきいていたくはないのです。」
「いえ、串戯ではないのですが。いま、あの、私は、あの薙刀で、このお腹を引破って、肝も臓腑も……」
その水色に花野の帯が、蔀下の敷居に乱れて、お誓の背とともに、むこうに震えているのが見える。榎の梢がざわざわと鳴り、風が颯と通った。
「──そこへ、貴方のお姿が、すっと雲からおさがりなすったように……」
「何、私なら落ちたんでしょう。」
「そして、石段の上口に見えました。まるで誰も来ないのを知って、こちらへ参っているのですし、土地の巧者な、お爺さんに頼みまして、この二三日、来る人も留めてもらうように用意をしていましたんですもの! 思いもよらない、参詣の、それが貴方。格子から熟と覗いていますと、この水へ、影もうつりそうな、小県さんなんですもの、貴方なんですもの。」
その爺さんにも逢っている。銑吉は幾度も独りうなずいた。
「こんな、こんな処、奥州の山の上で。」
「御同様です。」
「その拝殿を、一旦むこうの隅へ急いで遁げました。正面に奥の院へ通います階段と石段と。……間は、樹も草も蓬々と茂っています。その階段の下へかくれて、またよく見ました。寸分お違いなさらない、東京の小県さん──おきれいなのがなおあやしい、怪しいどころか可恐いんです。──ばけものが来た、ばけて来た、畜生、また、来た。ばけものだ!……と思ったんです。」
「…………」
「その怪ものに、口惜い、口惜い、口惜い目に逢わされているんですから。……
──畜生──
と声も出ないで。」
「ははあ、たちまち一打……薙刀ですな。」
「明神様のお持料です。それでも持ったのが私です、討てる、切れるとは思いませんが──畜生──叩倒してやろうと思って、」
「切られる分には、まだ、不具です。薙倒されては真二つです、危い、危い。」
と、いまは笑った。
「堪忍して下さいな、貴方をばけものだと思った私は、浅間しい獣です、畜生です、犬です、犬に噛まれたとお思いになって。」
「馬鹿なことを……飛んでもない、犬に咬まれるくらいなら、私はお誓さんの薙刀に掛けられますよ。かすり疵も負わないから、太腹らしく太平楽をいうのではないんだが、怒りも怨みもしやしません。気やすく、落着いてお話しなさい。あなたは少しどうかしている、気を沈めて。……これは、ばけものの手触りかも知れませんよ。」
そこで、背に手を置くのに、みだれ髪が、氷のように冷たく触った。
「どうぞ、あの薙刀の飛ばないように。」
その黒髪は、漆の刃のようにヒヤリとする。
水へ辷った柄杓が、カンと響いた。
四
「……小県さん、女が、女の不束で、絶家を起す、家を立てたい──」
「絶家を起す、家を起てたい……」
「ええ、その考えは、間違っていますでしょうか。」
「何が、間違いです。誰が間違いだと云いました。とんでもない、天晴れじゃありませんか。」
「私の父は、この土地のものなんです。」
「ああ、成程。」
「──この藩のちょっとした藩士だったそうなんですが、道楽ものだったと思います。御維新の騒ぎに刀さしをやめたのは可いんですけれど、そういう人ですから、堅気の商売が出来ないで、まだ──街道が賑かだったそうですから、片原の町はずれへ、茶屋旅籠の店を出したと申しますの。
……貴方、こちらへいらっしゃりがけに──その、あの、牡丹、牡丹ですが。」
なぜか、引くいきに、声がかすれて、
「あの咲いております処は、今は田畝のようになりましたけれど、もと、はなれの庭だったそうですの……そして──
牡丹は、父の手しおにかけましたものですって。……あとでは、料理ばかりにして、牡丹亭といったそうです。父がなくなりますと……それが人手から人手へ渡って、あとでは立ちぐされも同様。でも、それも、不景気で、こぼし屋の引取手もなしに、暴風雨で潰れたのが、家の骸骨のように路端に倒れていますわ。
母はその牡丹亭ごろの、おかみさん。……そんな事は申しませんでもいいんですけど、父とは、大層若くて年が違いました。
──町あたりの芸者だそうです。ですが、武家の娘だったせいですか──まだ、私がお腹に。……」
ふと耳許をほんのりと薄く染めた。
「お腹のうち、本所に居る東京の遠縁のものにたよって出まして、のちに、浅草で、また芸者をしたんですけれど、なくなります時、いまわの際まで、血統が絶える、田沢の家を、田沢の家をと、せめて後を絶さないように遺言をしたんです。
私はその時分、新橋でお酌に出ておりました。十四や十五の考えで、この上一本になって、人の世話になるにした処で、一人で商売をした処で、家を立てるのぞみがありそうに思われません。だもんですから、都合をつけて道をかえまして、梅水へ奉公をしましたのです。自分の口からお恥かしい、余りあからさまのようですが、つむりのものより、なりかたちより、少しでもお金を貯めて、小さな店でも出せますように、その上で、堅気の養子になる人を、縁があったらと、思詰め、念じ切っておりました。
こんなものでも、一つ家に、十年の余も辛抱をしますうちには、お一人やお二方、相談をして下さる方のないこともなかったんですけど、田沢の家の養子とでは、まるでかけ離れました縁ですもの。冷たい顔して、きっぱりと、お断り申しました。それが、心得違いだったんです、間違っていたんです。ねえ。」
「間違いではありません。お誓さん、しかし、ただ、道も一条の上だとしたら、家を起す──血統を絶やさない、真に立派な覚悟だけれど、……本当は女一人だとすると、どうしていいか、それは、学者でも、教育家でも、たとえばお寺の坊さんでも、実地に当ると、八衢に前途が岐れて、道しるべをする事はむずかしい……世の中になったんですね。」
「まったくですわ。でも、それも、まだ月日は長し……昨日や今日の事とは思わなかったんですのに──昨年、店の都合で裾野の方へ一夏まいりまして、朝夕、あの、富士山の景色を見ますにつけ……ついのんびりと、一人で旅がしてみたくなったんです。一体出不精な処へ、お蔭様、店も忙しゅうございますし、本所の伯父伯母と云った処で、ほんの母がたよりました寄親同様。これといって行きたい場所も知りませんものですから、旅をするなら、名ばかりでも、聞いただけ懐しい、片原を、と存じまして、十月小春のいい時候に、もみじもさかり、と聞きました。……
はじめて、泊りました、その土地の町の旅宿が、まわり合せですか、因縁だか、その宿の隠居夫婦が、よく昔の事を知っていました。もの珍らしいからでしょう、宿帳の田沢だけで、もう、ちっとでも片原に縁があるだろう、といいましてね。
そんなですから、隠居二人で、西明寺の父の墓も案内をしてくれますし。……まことに不思議な、久しく下草の中に消えていた、街道端の牡丹が、去年から芽を出して、どうしてでしょう、今年の夏は、花を持った。町でも人が沢山見に行き、下の流れを飲んで酔うといえば、汲んで取って、香水だと賞めるのもある。……お嬢さん……私の事です。」
と頬も冷たそうに、うら寂しく、
「故郷へ帰って来て、田沢家を起す、瑞祥はこれで分った、と下へも置かないで、それはほんとうに深切に世話をして、牡丹さん、牡丹さん、私の部屋が牡丹の間。餡子ではあんまりだ、黄色い白粉でもつけましょう、牡丹亭きな子です。お一ついかが……そういってどうかすると、お客にお酌をした事もあるんです。長逗留の退屈ばらし、それには馴れた軽はずみ……」
歎息も弱々と、
「もっとも煩いことでも言えば、その場から、つい立って、牡丹の間へ帰っていたんです。それというのが、ああも、こうもと、それから、それへ、商売のこと、家のこと。隠居夫婦と、主人夫婦、家のものばかりも四人でしょう。番頭ですの、女中ですの、入かわり相談をしてくれます。聞くだけでも楽みで、つんだり、崩したり、切組みましたり、庭背戸まで見積って、子供の積木細工で居るうちに、日が経ちます。……鳥居数をくぐり、門松を視ないと、故郷とはいえない、といわれる通りの気になって、おまいりをしましたり。……逗留のうち、幾度、あの牡丹の前へ立ったでしょう。
柱一本、根太板も、親たちの手の触ったのが残っていましょう。あの骨を拾おう。どうしよう。焚こうか、埋めようか。ちょっと九尺二間を建てるにしても、場所がいまの田畝ではどうにもならず。(地蔵様の祠を建てなさい、)隠居たちがいうんです。ああ、いいわねえ、そうしましょうか。
思出しても身体がふるえる、……
今年二月の始でした。……東京も、そうだったって聞いたんですが、この辺でも珍らしく、雪の少い、暖かな冬でしたの。……今夜の豆撒が済むと、片原で年を取って、あかんぼも二つになると、隠居たちも笑っていました。その晩──暮方……
湯上りのいい心持の処へ、ちらちら降出しました雪が嬉しくって、生意気に、……それだし、銀座辺、あの築地辺の夜ふけの辻で、つまらない悪戯をされました覚えもなし、またいたずらに逢ったところで、ところ久しいだけ、門なみ知っているんです。……梅水のものですよ。それで大概、挨拶をして離れちまいますんですもの、道の可恐さはちっとも知らずにいたんです。──それに牡丹亭のあとまでは、つれがありましたり、一人でも幾度も行ったり来たり、屋根のない長い廊下もおんなじに思っていましたものですから、コオトも着ないで、小県さん、浴衣に襟つき一枚何かで。──裙へ流れる水、あの小川も、梅水に居て、座敷の奥で、水調子を聞く音がします。……牡丹はもう、枝ばかり、それも枯れていたんですが、降る雪がすっきりと、白い莟に積りました。……大輪なのも面影に見えるようです。
向うへ、小さなお地蔵様のお堂を建てたら、お提灯に蔦の紋、養子が出来て、その人のと、二つなら嬉しいだろう。まあ極りの悪い。……わざとお賽銭箱を置いて、宝珠の玉……違った、それはお稲荷様、と思っているうちに、こんな風に傘をさして、ちらちらと、藤の花だか、鷺だかの娘になって、踊ったこともあったっけ。──傘は、ここで、畳んだか、開いてさしたかと、うっかりしました。──傘を、ひどい力で、上へぐいと引いたんです。天にも地にも、小県さん、観音様と、明神様のほかには、女の身体で、口へ出して……」
キリキリと歯を噛んで、つと瞼の色が褪せた。
「癪か。しっかりなさい、お誓さん。」
さそくに掬った柄杓の水を、削るがごとく口に含んで、
「人間がましい、癪なんぞは、通越しているんです。ああ、この水が、そのまんま、青い煙になって焼いちまってくれればいいのに。」
しばらく、声も途絶えたのである。
「口惜しいわ、私、小県さん、足が上へ浮く処を、うしろから、もこん、と抱込んだものを、見ました時。」
わなわなと震えたから、小県も肩にかけていた手を離した。倒れそうに腰をつくと、褄を投げて、片手を苔に辷らした。
「灰汁のような毛が一面にかぶさった。枯木のような脊の高い、蒼い顔した猅々、あの、絵の猅々、それの鼻、がまた高くて巨いのが、黒雲のようにかぶさると思いましたばかり……何にも分らなくなりました。
あとで──息の返りましたのは、一軒家で飴を売ります、お媼さんと、お爺さんの炉端でした。裏背戸口へ、どさりと音がしたきりだった、という事です。
どんな形で、投り出されていたんでしょう。」
褄を引合わせ、身をしめて、
「……のちに、大沼で、とれたといって、旅宿の台所に、白い雁が仰向けに、俎の上に乗ったのを、ふと見まして、もう一度ゾッとすると、ひきつけて倒れました事さえあるんです。
──その晩は、お爺さんの内から、ほんの四五町の処を、俥にのって帰ったのです。急に、ひどい悪寒がするといって、引被って寝ましたきり、枕も顔もあげられますもんですか。悪寒どころですか、身体はやけますようですのに、冷い汗を絞るんです。その汗が脇の下も、乳の処も、……ずくずく……悪臭い、鱶だか、鮫だかの、六月いきれに、すえたような臭いでしょう。むしりたい、切って取りたい、削りたい、身体中がむかむかして、しっきりなしに吐くんです。
無理やりに服まされました、何の薬のせいですか、有る命は死にません。──活きているかいはなし……ただ西明寺の観音様へお縋りにまいります。それだって、途中、牡丹のあるところを視ます時の心もちは、ただお察しにまかせます。……何の罪咎があるんでしょう、と思うのは、身勝手な、我身ばかりで、神様や仏様の目で、ごらんになったら。」
「お誓さん、……」
声を沈めて遮った。
「神、仏の目には、何の咎、何の罪もない。あなたのような人間を、かえって悪魔は狙うのですよ。幾年目かに朽ちた牡丹の花が咲いた……それは嘘ではありますまい。人は見て奇瑞とするが、魔が咲かせたかも知れないんです。反対に、お誓さんが故郷へ帰った、その瑞兆が顕われたとして、しかも家の骨に地蔵尊を祭る奇特がある。功徳、恭養、善行、美事、その只中を狙うのが、悪魔の役です。どっちにしろ可恐しい、早くそこを通抜けよう。さ、あなたも目をつむって、観音様の前へおいでなさい。」
「──ある時、和尚さんが、お寺へ紅白の切を、何ほどか寄進をして欲しいものじゃ、とおっしゃるんです。寺の用でない、諸人の施行のためじゃけれど、この通りの貧乏寺。……ええ、私の方から、おやくに立ちますならお願い申したいほどですわ。三反持って参りますと、六尺ずつに切りたいが、鋏というものもなし……庖丁ではどうであろう。まあ、手で裂いても間に合いますわ。和尚さんに手伝って三方の上へ重ねました時、つい、それまでは不信心な、何にも知らずにおりました。子育ての慈愛をなさいます、五月帯のわけを聞きまして、時も時、折も折ですし、……観音様。」
お誓が、髪を長く、すっと立って、麓に白い手を合わせた。
「つい女気で、紅い切を上へ積んだものですから、真上のを、内証で、そっと、頂いたんです。」
「それは、めでたい。──結構ではないか、お誓さん。」
お誓は榎の根に、今度は吻として憩った、それと差むかいに、小県は、より低い処に腰を置いて、片足を前に、くつろぐ状して、
「節分の夜の事だ。対手を鬼と思いたまえ。が、それも出放題過ぎるなら、怪我……病気だと思ったらどうです。怪我や病気は誰もする。……その怪我にも、病気にも障りがなくって、赤ちゃんが、御免なさいよ、ま、出来たとする。昔から偉人には奇蹟が携わる、日を見て、月を見て、星を見て、いや、ちと大道うらないに似て来たかね。」
袖を開いて扇を使った。柳の影が映りそうで、道得て、いささか可と思ったらしい。
「鶴を視て懐姙した験はいくらもある。いわゆる、もうし子だとお思いなさい。その上、面倒な口を利く父親なしに、お誓さん一人で育てたら、それが生一本の田沢家の血統じゃありませんか。そうだ、悪魔などと言ったのは、私のあやまり、豊年の何とかいう雪が降って、節分には、よく降るんです。正に春立ならんとする時、牡丹に雪の瑞といい、地蔵菩薩の祥といい、あなたは授りものをしたんじゃないか、確にそうだ、──お誓さん。」
お誓は淡くまた瞼を染めた。
「そんな、あの、大それた、高望みはしませんけれど、女の子かも知れないと思いました。五日、七日、二夜、三夜、観音様の前に静としていますうちに、そういえば、今時、天狗も猅々も居まいし、第一獣の臭気がしません。くされたというは心持で、何ですか、水に棲むもののような気がするし、森の香の、時々峰からおろす松風と一所に通って来るのも、水神、山の神に魅入られたのかも分らない。ええ、因果と業。不具でも、虫でもいい。鳶鴉でも、鮒、鰌でも構わない。その子を連れて、勧進比丘尼で、諸国を廻って親子の見世ものになったらそれまで、どうなるものか。……そうすると、気が易くなりました。」
「ああ、観音の利益だなあ。」
つと顔を背けると、肩をそいで、お誓は、はらはらと涙を落した。
「その御利益を、小県さん、頂いてだけいればよかったんですけれど──早くから、関屋からこの辺かけて、鳥の学者、博士が居ます。」
「…………」
「鳥の巣に近づくため、撃つために、いろいろな……あんな形もする、こうもする。……頭に樹の枝をかぶったり、かずらや枯葉を腰へ巻いたり……何の気もなしに、孫八ッて……その飴屋の爺さんが夜話するのを、一言……」
(!…………)
「焼火箸を脇の下へ突貫かれた気がしました。扇子をむしって棄ちょうとして、勿体ない、観音様に投げうちをするようなと、手が痺れて落したほどです。夜中に谷へ飛降りて、田沢の墓へ噛みつこうか、とガチガチと歯が震える。……路傍のつぶれ屋を、石油を掛けて焼消そうか。牡丹の根へ毒を絞って、あの小川をのみ干そうか。
もうとても……大慈大悲に、腹帯をお守り下さいます、観音様の前には、口惜くって、もどかしくって居堪らなくなったんですもの。悪念、邪心に、肝も魂も飛上って……あら神様で、祟の鋭い、明神様に、一昨日と、昨日、今日……」
──誓ただひとりこの御堂に──
「独り居れば、ひとり居るほど、血が動き、肉が震えて、つきます息も、千本の針で身体中さすようです。──前刻も前刻、絵馬の中に、白い女の裸身を仰向けにくくりつけ、膨れた腹を裂いています、安達ヶ原の孤家の、もの凄いのを見ますとね。」
(──実は、その絵馬は違っていた──)
「ああ、さぞ、せいせいするだろう。あの女は羨しいと思いますと、お腹の裡で、動くのが、動くばかりでなくなって、もそもそと這うような、ものをいうような、ぐっぐっ、と巨きな鼻が息をするような、その鼻が舐めるような、舌を出すような、蒼黄色い顔──畜生──牡丹の根で気絶して、生死も知らないでいたうちの事が現に顕われて、お腹の中で、土蜘蛛が黒い手を拡げるように動くんですもの。
帯を解いて、投げました。
ええ、男に許したのではない。
自分の腹を露出したんです。
芬と、麝香の薫のする、金襴の袋を解いて、長刀を、この乳の下へ、平当てにヒヤリと、また芬と、丁子の香がしましたのです。」……
この薙刀を、もとのなげしに納める時は、二人がかりで、それはいいが、お誓が刃の方を支えたのだから、おかしい。
誰も、ここで、薙刀で腹を切ったり、切らせたりするとは思うまい。
──しかも、これを取はずしたという時に落したのであろう。女の長い切髪の、いつ納めたか、元結を掛けて黒い水引でしめたのが落ちていた。見てさえ気味の悪いのを、静に掛直した。お誓は偉い!……落着いている。
そのかわり、気の静まった女に返ると、身だしなみをするのに、ちょっと手間が取れた。
下じめ──腰帯から、解いて、しめ直しはじめたのである。床へ坐って……
ちっと擽ったいばかり。こういう時の男の起居挙動は、漫画でないと、容易にその範容が見当らない。小県は一つ一つ絵馬を視ていた。薙刀の、それからはじめて。──
一度横目を流したが、その時は、投げた単衣の後褄を、かなぐり取った花野の帯の輪で守護して、その秋草の、幻に夕映ゆる、蹴出しの色の片膝を立て、それによりかかるように脛をあらわに、おくれ毛を撫でつけるのに、指のさきをなめるのを、ふと見まじいものを見たように、目を外らした。
「その絵馬なんですわ、小県さん。」
起つと、坐ると、しかも背中合せでも、狭い堂の中の一つ処で、気勢は通ずる。安達ヶ原の……
「お誓さん、気のせいだ。この絵馬は、俎の上へ──裸体の恋絹を縛ったのではない。白鷺を一羽仰向けにしてあるんだよ。しかもだね、料理をするのは、もの凄い鬼婆々じゃなくって、鮹の口を尖らした、とぼけた爺さん。笑わせるな、これは願事でなくて、殺生をしない戒めの絵馬らしい。」
事情も解めている。半ば上の空でいううちに、小県のまた視めていたのは、その次の絵馬で。
はげて、くすんだ、泥絵具で一刷毛なすりつけた、波の線が太いから、海を被いだには違いない。……鮹かと思うと脚が見えぬ、鰈、比目魚には、どんよりと色が赤い。赤鱏だ。が何を意味する?……つかわしめだと聞く白鷺を引立たせる、待女郎の意味の奉納か。その待女郎の目が、一つ、黄色に照って、縦にきらきらと天井の暗さに光る、と見つつ、且つその俎の女の正体をお誓に言うのに、一度、気を取られて、見直した時、ふと、もうその目の玉の縦に切れたのが消えていた。
斑蝥だ。斑蝥が留っていた。
「お誓さん、お誓さん。──その辺に、綺麗な虫が一つ居はしませんか、虫が。」
「ええ。」
「居る?」
「ええ。居ますわ。」
バタリと口に啣えた櫛が落ちた。お誓は帯のむすびめをうしろに取って、細い腰をしめさまに、その引掛けを手繰っていたが、
「玉虫でしょう、綺麗な。ええ、人間は、女は浅間しい。すぐに死なないと思いましたら、簪も衣ものも欲いんです。この場所ですから、姫神様が下さるんだと思いましてさ、ちょっと、櫛でおさえました。ツイとそれて、取損って、見えませんわ。そちらに居ません? 玉虫でしょう。」
筐の簪、箪笥の衣、薙刀で割く腹より、小県はこの時、涙ぐんだ。
いや、懸念に堪えない。
「玉虫どころか……」
名は知るまいと思うばかり、その説明の暇もない。
「大変な毒虫だよ。──支度はいいね、お誓さん、お堂の下へおりて下さい。さあ……その櫛……指を、唇へ触りはしまいね。」
「櫛は峰の方を啣えました。でも、指はあの、鬢の毛を撫でつけます時、水がなかったもんですから、つい……いいえ、毒にあたれば、神様のおぼしめしです。こんな身体を、構わんですわ。」
ちょっとなまって、甘えるような口ぶりが、なお、きっぱりと断念がよく聞えた。いやが上に、それも可哀で、その、いじらしさ。
「帯にも、袖にも、どこにも、居ないかね。」
再び巨榎の翠の蔭に透通る、寂しく澄んだ姿を視た。
水にも、満つる時ありや、樹の根の清水はあふれたり。
「ああ、さっき水を飲んだ時でなくて可かった。」
引立てて階を下りた、その蔀格子の暗い処に、カタリと音がした。
「あれ、薙刀がはずれましたか。」
清水の面が、柄杓の苔を、琅玕のごとく、梢もる透間を、銀象嵌に鏤めつつ、そのもの音の響きに揺れた。
「まあ、あれ、あれ、ご覧なさいまし、長刀が空を飛んで行く。」……
榎の梢を、兎のような雲にのって。
「桃色の三日月様のように。」
と言った。
松島の沿道の、雨晴れの雲を豆府に、陽炎を油揚に見物したという、外道俳人、小県の目にも、これを仰いだ目に疑いはない。薙刀の鋭き刃のように、たとえば片鎌の月のように、銀光を帯び、水紅の羅して、あま翔る鳥の翼を見よ。
「大沼の方へ飛びました。明神様の導きです。あすこへ行きます、行って……」
「行って、どうします? 行って。」
「もうこんな気になりましては、腹の子をお守り遊ばす、観音様の腹帯を、肌につけてはいられません。解きます処、棄てます処、流す処がなかったのです。女の肌につけたものが一度は人目に触れるんですもの。抽斗にしまって封をすれば、仏様の情を仇の女の邪念で、蛇、蛭に、のびちぢみ、ちぎれて、蜘蛛になるかも知れない。やり場がなかったんですのに、導びきと一所に、お諭しなんです。小県さん。あの沼は、真中が渦を巻いて底知れず水を巻込むんですって、爺さんに聞いています……」
と、銑吉の袂の端を確と取った。
「行く道が分っていますか。」
「ええ、身を投げようと、……二度も、三度も。」──
欄干の折れた西の縁の出端から、袖形に地の靡く、向うの末の、雑樹茂り、葎蔽い、ほとんど国を一重隔てた昔話の音せぬ滝のようなのを、猶予らわず潜る時から、お誓が先に立った。おもいのほか、外は細い路が畝って通った。が、小県はほとんど山姫に半ばを誘わるる思いがした。ことさらにあとへ退ったのではない、もう二三尺と思いつつ、お誓の、草がくれに、いつもその半身、縞絹に黒髪した遁水のごとき姿を追ったからである。
沼は、不忍の池を、その半にしたと思えば可い。ただ周囲に蓊鬱として、樹が茂って暗い。
森をくぐって、青い姿見が蘆間に映った時である。
汀の、斜向うへ──巨な赤い蛇が顕われた。蘆萱を引伏せて、鎌首を挙げたのは、真赤なヘルメット帽である。
小県が追縋る隙もなかった。
衝と行く、お誓が、心せいたか、樹と樹の幹にちょっと支えられたようだったが、そのまま両手で裂くように、水に襟を開いた。玉なめらかに、きめ細かに、白妙なる、乳首の深秘は、幽に雪間の菫を装い、牡丹冷やかにくずれたのは、その腹帯の結びめを、伏目に一目、きりきりと解きかけつつ、
「畜生……」
と云った、女の声とともに、谺が冴えて、銃が響いた。
小県は草に、伏の構を取った。これは西洋において、いやこの頃は、もっと近くで行るかも知れない……爪さきに接吻をしようとしたのではない。ものいう間もなし、お誓を引倒して、危難を避けさせようとして、且つ及ばなかったのである。
その草伏の小県の目に、お誓の姿が──峰を抽いて、高く、金色の夕日に聳って見えた。斉しく、野の燃ゆるがごとく煙って、鼻の尖った、巨なる紳士が、銃を倒す、と斉しく、ヘルメット帽を脱いで、高くポンと空へ投げて、拾って、また投げて、落ちると、宙に受けて、また投るのを視た。足でなく、頭で雀躍したのである。たちまち、法衣を脱ぎ、手早く靴を投ると、勢よく沼へ入った。
続いて、赤少年が三人泳ぎ出した。
中心へ近づくままに、掻く手の肱の上へ顕われた鼻の、黄色に青みを帯び、茸のくさりかかったような面を視た。水に拙いのであろう。喘ぐ──しかむ、泡を噴く。が、あるいは鳥に対する隠形の一術であろうも計られぬ。
「ばか。」
投棄てるようにいうとともに、お誓はよろよろと倒れて、うっとりと目を閉じた。
早く解いて流した紅の腹帯は、二重三重にわがなって、大輪の花のようなのを、もろ翼を添えて、白鷺が、すれすれに水を切って、鳥旦那の来り迫る波がしらと直線に、水脚を切って行く。その、花片に、いやその腹帯の端に、キラキラと、虫が居て、青く光った。
鼻を仰向け、諸手で、腹帯を掴むと、紳士は、ずぶずぶと沼に潜った。次に浮きざまに飜った帯は、翼かと思う波を立てて消え、紳士も沈んだ。三個の赤い少年も、もう影もない。
ただ一人、水に入ろうとする、ずんぐりものの色の黒い少年を、その諸足を取って、孫八爺が押えたのが見える。押えられて、手を突込んだから、脚をばったのように、いや、ずんぐりだから、蟋蟀のように掙いて、頭で臼を搗いていた。
「──そろそろと歩行いて行き、ただ一番あとのものを助けるよう──」
途中から女の子に呼戻させておいて、媼巫女、その孫八爺さんに命ずるがごとくに云って──方角を教えた。
ずんぐりが一番あとだったのを、孫八が来て見出したとともに、助けたのである。
この少年は、少なからぬ便宜を与えた。──検する官人の前で、
「──三日以来、大沼が、日に三度ずつ、水の色が真赤になる情報があったであります。緋の鳥が一羽ずつ来るのだと鳥博士が申されました。奇鳥で、非常な価値である。十分に準備を整えて出向ったであります。果して、対岸に真紅な鳥が居る。撃ったであります。銃の命中したその鳥は、沼の中心へ落ちたであります。従って高級なる猟犬として泳いだのであります。」
と明確に言った。
のみならず、紳士の舌には、斑蝥がねばりついていた。
一人として事件に煩わされたものはない。
汀で、お誓を抱いた時、惜しや、かわいそうに、もういけないと思った。胸に硝薬のにおいがしたからである。
水を汲もうとする処へ、少年を促がしつつ、廻り駈けに駈けつけた孫八が慌しく留めた。水を飲んじゃなりましねえ。山野に馴れた爺の目には、沼の水を見さっせえ、お前等がいった、毒虫が、ポカリポカリ浮いてるだ。……
明神まで引返す、これにも少年が用立った。爺さんにかわって、お誓を背にして走った。
清水につくと、魑魅が枝を下り、茂りの中から顕われたように見えたが、早く尾根づたいして、八十路に近い、脊の低い柔和なお媼さんが、片手に幣結える榊を持ち、杖はついたが、健に来合わせて、
「苦労さしゃったの。もうよし、よし。」
と、お誓のそのふくよかな腹を、袖の下で擦って微笑んだ。そこがちょうど結び目の帯留の金具を射て、弾丸は外れたらしい。小指のさきほどの打身があった。淡いふすぼりが、媼の手が榊を清水にひたして冷すうちに、ブライツッケルの冷罨法にも合えるごとく、やや青く、薄紫にあせるとともに、乳が銀の露に汗ばんで、濡色の睫毛が生きた。
町へ急ぐようにと云って、媼はなおあとへ残るから、
「お前様は?」
お誓が聞くと、
「姫神様がの、お冠の纓が解けた、と御意じゃよ。」
これを聞いて、活ける女神が、なぜみずからのその手にて、などというものは、烏帽子折を思わるるがいい。早い処は、さようなお方は、恋人に羽織をきせられなかろう。袴腰も、御自分で当て、帽子も、御自分で取っておかぶりなさい。
五
神巫たちは、数々、顕霊を示し、幽冥を通じて、俗人を驚かし、郷土に一種の権力をさえ把持すること、今も昔に、そんなにかわりなく、奥羽地方は、特に多い、と聞く。
むかし、秋田何代かの太守が郊外に逍遥した。小やすみの庄屋が、殿様の歌人なのを知って、家に持伝えた人麿の木像を献じた。お覚えのめでたさ、その御機嫌の段いうまでもない──帰途に、身が領分に口寄の巫女があると聞く、いまだ試みた事がない。それへ案内をせよ。太守は人麿の声を聞こうとしたのである。
しのびで、裏町の軒へ寄ると、破屋を包む霧寒く、松韻颯々として、白衣の巫女が口ずさんだ。
「ほのぼのと……」
太守は門口を衝と引いた。「これよ。」「ははッ。」「巫女に謝儀をとらせい。……あの輩の教化は、士分にまで及ぶであろうか。」「泣きみ、笑いみ……ははッ、ただ婦女子のもてあそびものにござりまする。」「さようか──その儀ならば、」……仔細ない。
が、孫八の媼は、その秋田辺のいわゆる(おかみん)ではない。越後路から流漂した、その頃は色白な年増であった。呼込んだ孫八が、九郎判官は恐れ多い。弁慶が、ちょうはん、熊坂ではなく、賽の目の口でも寄せようとしたのであろう。が、その女振を視て、口説いて、口を遁げられたやけ腹に、巫女の命とする秘密の箱を攫って我が家を遁げて帰らない。この奇略は、モスコオの退都に似ている。悪孫八が勝ち、無理が通った。それも縁であろう。越後巫女は、水飴と荒物を売り、軒に草鞋を釣して、ここに姥塚を築くばかり、あとを留めたのであると聞く。
──前略、当寺檀那、孫八どのより申上げ候。入院中流産なされ候御婦人は、いまは大方に快癒、鬱散のそとあるきも出来候との事、御安心下され度候趣、さて、ここに一昨夕、大夕立これあり、孫八老、其の砌某所墓地近くを通りかかり候折から、天地晦冥、雹の降ること凄まじく、且は電光の中に、清げなる婦人一人、同所、鳥博士の新墓の前に彳み候が、冷く莞爾といたし候とともに、手の壺微塵に砕け、一塊の鮮血、あら土にしぶき流れ、降積りたる雹を染め候が、赤き霜柱の如く、暫時は消えもやらず有之候よし、貧道など口にいたし候もいかが、相頼まれ申候ことづてのみ、いずれ仏菩薩の思召す処にはこれあるまじく、奇しく厳しき明神の嚮導指示のもとに、化鳥の類の所為にもやと存じ候──
和尚さんも、貧地の癖に「木魚」などと洒落れている。が、それはとにかく──(上人の手紙は取意の事)東京の小県へこの来書の趣は、婦人が受辱、胎蔵の玻璃を粉砕して、汚血を猟色の墳墓に、たたき返したと思われぬでもない。
底本:「泉鏡花集成9」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年6月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十三卷」岩波書店
1942(昭和17)年6月22日発行
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2006年3月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。