燈明之巻
泉鏡花
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一
「やあ、やまかがしや蝮が居るぞう、あっけえやつだ、気をつけさっせえ。」
「ええ。」
何と、足許の草へ鎌首が出たように、立すくみになったのは、薩摩絣の単衣、藍鼠無地の絽の羽織で、身軽に出立った、都会かららしい、旅の客。──近頃は、東京でも地方でも、まだ時季が早いのに、慌てもののせいか、それとも値段が安いためか、道中の晴の麦稈帽。これが真新しいので、ざっと、年よりは少く見える、そのかわりどことなく人体に貫目のないのが、吃驚した息もつかず、声を継いで、
「驚いたなあ、蝮は弱ったなあ。」
と帽子の鍔を──薄曇りで、空は一面に陰気なかわりに、まぶしくない──仰向けに崖の上を仰いで、いま野良声を放った、崖縁にのそりと突立つ、七十余りの爺さんを視ながら、蝮は弱ったな、と弱った。が、実は蛇ばかりか、蜥蜴でも百足でも、怯えそうな、据らない腰つきで、
「大変だ、にょろにょろ居るかーい。」
「はああ、あアに、そんなでもねえがなし、ちょくちょく、鎌首をつん出すでい、気をつけさっせるがよかんべでの。」
「お爺さん、おい、お爺さん。」
「あんだなし。」
と、谷へ返答だまを打込みながら、鼻から煙を吹上げる。
「煙草銭ぐらい心得るよ、煙草銭を。だからここまで下りて来て、草生の中を連戻してくれないか。またこの荒墓……」
と云いかけて、
「その何だ。……上の寺の人だと、悪いんだが、まったく、これは荒れているね。卵塔場へ、深入りはしないからよかったけれど、今のを聞いては、足がすくんで動かれないよ。」
「ははははは。」
鼻のさきに漂う煙が、その頸窪のあたりに、古寺の破廂を、なめくじのように這った。
「弱え人だあ。」
「頼むよ──こっちは名僧でも何でもないが、爺さん、爺さんを……導きの山の神と思うから。」
「はて、勿体もねえ、とんだことを言うなっす。」
と両つ提の──もうこの頃では、山の爺が喫む煙草がバットで差支えないのだけれど、事実を報道する──根附の処を、独鈷のように振りながら、煙管を手弄りつつ、ぶらりと降りたが、股引の足拵えだし、腰達者に、ずかずか……と、もう寄った。
「いや、御苦労。」
と一基の石塔の前に立並んだ、双方、膝の隠れるほど草深い。
実際、この卵塔場は荒れていた。三方崩れかかった窪地の、どこが境というほどの杭一つあるのでなく、折朽ちた古卒都婆は、黍殻同然に薙伏して、薄暗いと白骨に紛れよう。石碑も、石塔も、倒れたり、のめったり、台に据っているのはほとんどない。それさえ十ウの八つ九つまでは、ほとんど草がくれなる上に、積った落葉に埋れている。青芒の茂った、葉越しの谷底の一方が、水田に開けて、遥々と連る山が、都に遠い雲の形で、蒼空に、離れ島かと流れている。
割合に土が乾いていればこそで──昨日は雨だったし──もし湿地だったら、蝮、やまかがしの警告がないまでも、うっかり一歩も入れなかったであろう。
それでもこれだけ分入るのさえ、樹の枝にも、卒都婆にも、苔の露は深かった。……旅客の指の尖は草の汁に青く染まっている。雑樹の影が沁むのかも知れない。
蝙蝠が居そうな鼻の穴に、煙は残って、火皿に白くなった吸殻を、ふっふっと、爺は掌の皺に吹落し、眉をしかめて、念のために、火の気のないのを目でためて、吹落すと、葉末にかかって、ぽすぽすと消える処を、もう一つ破草履で、ぐいと踏んで、
「ようござらっせえました、御参詣でがすかな。」
「さあ……」
と、妙な返事をする。
「南無、南無、何かね、お前様、このお墓に所縁の方でがんすかなす。」
胡桃の根附を、紺小倉のくたびれた帯へ挟んで、踞んで掌を合せたので、旅客も引入れられたように、夏帽を取って立直った。
「所縁にも、無縁にも、お爺さん、少し墓らしい形の見えるのは、近間では、これ一つじゃあないか──それに、近い頃、参詣があったと見える、この線香の包紙のほぐれて残ったのを、草の中に覗いたものは、一つ家の灯のように、誰だって、これを見当に辿りつくだろうと思うよ。山路に行暮れたも同然じゃないか。」
碑の面の戒名は、信士とも信女とも、苔に埋れて見えないが、三つ蔦の紋所が、その葉の落ちたように寂しく顕われて、線香の消残った台石に──田沢氏──と仄に読まれた。
「は、は、修行者のように言わっしゃる、御遠方からでがんすかの、東京からなす。」
「いや、今朝は松島から。」
と袖を組んで、さみしく言った。
「御風流でがんす、お楽みでや。」
「いや、とんでもない……波は荒れるし。」
「おお。」
「雨は降るし。」
「ほう。」
「やっと、お天気になったのが、仙台からこっちでね、いや、馬鹿々々しく、皈って来た途中ですよ。」
成程、馬鹿々々しい……旅客は、小県、凡杯──と自称する俳人である。
この篇の作者は、別懇の間柄だから、かけかまいのない処を言おう。食い続きは、細々ながらどうにかしている。しかるべき学校は出たのだそうだが、ある会社の低い処を勤めていて、俳句は好きばかり、むしろ遊戯だ。処で、はじめは、凡俳、と名のったが、俳句を遊戯に扱うと、近来は誰も附合わない。第一なぐられかねない。見ずや、きみ、やかなの鋭き匕首をもって、骨を削り、肉を裂いて、人性の機微を剔き、十七文字で、大自然の深奥を衝こうという意気込の、先輩ならびに友人に対して済まぬ。憚り多い処から、「俳」を「杯」に改めた。が、一盞献ずるほどの、余裕も働きもないから、手酌で済ます、凡杯である。
それにしても、今時、奥の細道のあとを辿って、松島見物は、「凡」過ぎる。近ごろは、独逸、仏蘭西はつい隣りで、マルセイユ、ハンブルク、アビシニヤごときは津々浦々の中に数えられそうな勢。少し変った処といえば、獅子狩だの、虎狩だの、類人猿の色のもめ事などがほとんど毎月の雑誌に表われる……その皆がみんな朝夷島めぐりや、おそれ山の地獄話でもないらしい。
最近も、私を、作者を訪ねて見えた、学校を出たばかりの若い人が、一月ばかり、つい御不沙汰、と手軽い処が、南洋の島々を渡って来た。……ピイ、チョコ、キイ、キコと鳴く、青い鳥だの、黄色な鳥だの、可愛らしい話もあったが、聞く内にハッと思ったのは、ある親島から支島へ、カヌウで渡った時、白熱の日の光に、藍の透通る、澄んで静かな波のひと処、たちまち濃い萌黄に色が変った。微風も一繊雲もないのに、ゆらゆらとその潮が動くと、水面に近く、颯と黄薔薇のあおりを打った。その大さ、大洋の只中に計り知れぬが、巨大なる鱏の浮いたので、近々と嘲けるような黄色な目、二丈にも余る青い口で、ニヤリとしてやがて沈んだ。海の魔宮の侍女であろう。その消えた後も、人の目の幻に、船の帆は少時その萌黄の油を塗った。……「畳で言いますと」──話し手の若い人は見まわしたが、作者の住居にはあいにく八畳以上の座敷がない。「そうですね、三十畳、いやもっと五十畳、あるいはそれ以上かも知れなかったのです。」と言うのである。
半日隙とも言いたいほどの、旅の手軽さがこのくらいである処を、雨に降られた松島見物を、山の爺に話している、凡杯の談話ごときを──読者諸賢──しかし、しばらくこれを聴け。
二
小県凡杯は、はじめて旅をした松島で、着いた晩と、あくる日を降籠められた。景色は雨に埋もれて、竈にくべた生薪のいぶったような心地がする。屋根の下の観光は、瑞巌寺の大将、しかも眇に睨まれたくらいのもので、何のために奥州へ出向いたのか分らない。日も、懐中も、切詰めた都合があるから、三日めの朝、旅籠屋を出で立つと、途中から、からりとした上天気。
奥羽線の松島へ戻る途中、あの筋には妙に豆府屋が多い……と聞く。その油揚が陽炎を軒に立てて、豆府のような白い雲が蒼空に舞っていた。
おかしな思出はそれぐらいで、白河近くなるにつれて、東京から来がけには、同じ処で夜がふけて、やっぱりざんざ降だった、雨の停車場の出はずれに、薄ぼやけた、うどんの行燈。雨脚も白く、真盛りの卯の花が波を打って、すぐの田畝があたかも湖のように拡がって、蛙の声が流れていた。これあるがためか、と思ったまで、雨の白河は懐しい。都をば霞とともに出でしかど……一首を読むのに、あの洒落ものの坊さんが、頭を天日に曝したというのを思出す……「意気な人だ。」とうっかり、あみ棚に預けた夏帽子の下で素頭を敲くと、小県はひとりで浮かり笑った。ちょっと駅へ下りてみたくなったのだそうである。
そこで、はじめて気がついたと云うのでは、まことに礼を失するに当る。が、ふとこの城下を離れた、片原というのは、渠の祖先の墳墓の地である。
海も山も、斉しく遠い。小県凡杯は──北国の産で、父も母もその処の土となった。が、曾祖、祖父、祖母、なおその一族が、それか、あらぬか、あの雲、あの土の下に眠った事を、昔話のように聞いていた。
──家は、もと川越の藩士である。御存じ……と申出るほどの事もあるまい。石州浜田六万四千石……船つきの湊を抱えて、内福の聞こえのあった松平某氏が、仔細あって、ここの片原五万四千石、──遠僻の荒地に国がえとなった。後に再び川越に転封され、そのまま幕末に遭遇した、流転の間に落ちこぼれた一藩の人々の遺骨、残骸が、草に倒れているのである。
心ばかりの手向をしよう。
不了簡な、凡杯も、ここで、本名の銑吉となると、妙に心が更まる。煤の面も洗おうし、土地の模様も聞こうし……で、駅前の旅館へ便った。
「姉さん、風呂には及ばないが、顔が洗いたい。手水……何、洗面所を教えておくれ。それから、午飯を頼む。ざっとでいい。」
二階座敷で、遅めの午飯を認める間に、様子を聞くと、めざす場所──片原は、五里半、かれこれ六里遠い。──
鉄道はある、が地方のだし、大分時間が費るらしい。
自動車の便はたやすく得られて、しかも、旅館の隣が自動車屋だと聞いたから、価値を聞くと、思いのほか廉であった。
「早速一台頼んでおくれ。……このちょっとしたものだが、荷物は預けて行きたいと思う。……成るべく、日暮までに帰って、すぐ東京へ立ちたいのだがね、時間の都合で遅くなったら一晩厄介になるとして──勘定はその時と──自動車は、ああ、成程隣りだ。では、世話なしだ、いや、お世話でした。」
表階子を下りかけて、
「ねえさん。」
「へい。」
「片原に、おっこち……こいつ、棚から牡丹餅ときこえるか。──恋人でもあったら言伝を頼まれようかね。」
「いやだ、知りましねえよ、そんげなこと。」
「ああ、自動車屋さん、御苦労です。ところで、料金だが、間違はあるまいね。」
「はい。」
と恭しく帽を脱いだ、近頃は地方の方が夏帽になるのが早い。セルロイドの目金を掛けている。
「ええ、大割引で勉強をしとるです。で、その、ちょっとあらかじめ御諒解を得ておきたいのですが、お客様が小人数で、車台が透いております場合は、途中、田舎道、あるいは農家から、便宜上、その同乗を求めらるる客人がありますと、御迷惑を願う事になっているのでありますが。」
「ははあ、そんな事だろうと思った。どうもお値段の塩梅がね。」
女中も帳場も皆笑った。
ロイドめがねを真円に、運転手は生真面目で、
「多分の料金をお支払いの上、お客様がですな、一人で買切っておいでになりましても、途中、その同乗を求むるものをたって謝絶いたしますと、独占的ブルジョアの横暴ででもありますかのように、階級意識を刺戟しまして──土地が狭いもんですから──われわれをはじめ、お客様にも、敵意を持たれますというと、何かにつけて、不便宜、不利益であります処から。……は。」
「分りました、ごもっともです。」
「ですが、沿道は、全く人通りが少いのでして、乗合といってもめったにはありません。からして、お客様には、事実、御利益になっておりますのでして。」
「いや、損をしても構いません。妙齢の娘か、年増の別嬪だと、かえってこっちから願いたいよ。」
「……運転手さん、こちらはね、片原へ恋人に逢いにいらっしゃったんだそうですから。」
しっぺい返しに、女中にトンと背中を一つ、くらわされて、そのはずみに、ひょいと乗った。元来おもみのある客ではない。
「へい御機嫌よう……お早く、お帰りにどうぞ。」
番頭の愛想を聞流しに乗って出た。
惜いかな、阿武隈川の川筋は通らなかった。が、県道へ掛って、しばらくすると、道の左右は、一様に青葉して、梢が深く、枝が茂った。一里ゆき、二里ゆき、三里ゆき、思いのほか、田畑も見えず、ほとんど森林地帯を馳る。……
座席の青いのに、濃い緑が色を合わせて、日の光は、ちらちらと銀の蝶の形して、影も翼も薄青い。
人、馬、時々飛々に数えるほどで、自動車の音は高く立ちながら、鳴く音はもとより、ともすると、驚いて飛ぶ鳥の羽音が聞こえた。
一二軒、また二三軒。山吹、さつきが、淡い紅に、薄い黄に、その背戸、垣根に咲くのが、森の中の夜があけかかるように目に映ると、同時に、そこに言合せたごとく、人影が顕われて、門に立ち、籬に立つ。
村人よ、里人よ。その姿の、轍の陰にかくれるのが、なごり惜いほど、道は次第に寂しい。
宿に外套を預けて来たのが、不用意だったと思うばかり、小県は、幾度も襟を引合わせ、引合わせしたそうである。
この森の中を行くような道は、起伏凹凸が少く、坦だった。がしかし、自動車の波動の自然に起るのが、波に揺らるるようで便りない。埃も起たず、雨のあとの樹立の下は、もちろん濡色が遥に通っていた。だから、偶に行逢う人も、その村の家も、ただ漂々蕩々として陰気な波に揺られて、あとへ、あとへ、漂って消えて行くから、峠の上下、並木の往来で、ゆき迎え、また立顧みる、旅人同士とは品かわって、世をかえても再び相逢うすべのないような心細さが身に沁みたのであった。
かあ、かあ、かあ、かあ。
鈍くて、濁って、うら悲しく、明るいようで、もの陰気で。
「烏がなくなあ。」
「群れておるです。」
運転手は何を思ったか、口笛を高く吹いて、
「首くくりでもなけりゃいいが、道端の枝に……いやだな。」
うっかり緩めた把手に、衝と動きを掛けた時である。ものの二三町は瞬く間だ。あたかもその距離の前途の右側に、真赤な人のなりがふらふらと立揚った。天象、地気、草木、この時に当って、人事に属する、赤いものと言えば、読者は直ちに田舎娘の姨見舞か、酌婦の道行振を瞳に描かるるであろう。いや、いや、そうでない。
そこに、就中巨大なる杉の根に、揃って、踞っていて、いま一度に立揚ったのであるが、ちらりと見た時は、下草をぬいて燃ゆる躑躅であろう──また人家がある、と可懐しかった。
自動車がハタと留まって、窓を赤く蔽うまで、むくむくと人数が立ちはだかった時も、斉しく、躑躅の根から湧上ったもののように思われた。五人──その四人は少年である。……とし十一二三ばかり。皆真赤なランニング襯衣で、赤い運動帽子を被っている。彼等を率いた頭目らしいのは、独り、年配五十にも余るであろう。脊の高い瘠男の、おなじ毛糸の赤襯衣を着込んだのが、緋の法衣らしい、坊主袖の、ぶわぶわするのを上に絡って、脛を赤色の巻きゲエトル。赤革の靴を穿き、あまつさえ、リボンでも飾った状に赤木綿の蔽を掛け、赤い切で、みしと包んだヘルメット帽を目深に被った。……
頤骨が尖り、頬がこけ、無性髯がざらざらと疎く黄味を帯び、その蒼黒い面色の、鈎鼻が尖って、ツンと隆く、小鼻ばかり光沢があって蝋色に白い。眦が釣り、目が鋭く、血の筋が走って、そのヘルメット帽の深い下には、すべての形容について、角が生えていそうで不気味に見えた。
この頭目、赤色の指導者が、無遠慮に自動車へ入ろうとして、ぎろりと我が銑吉を視て、胸さきで、ぎしと骨張った指を組んで合掌した……変だ。が、これが礼らしい。加うるに慇懃なる会釈だろう。けれども、この恭屈頂礼をされた方は──また勿論されるわけもないが──胸を引掻いて、腸でも毮るのに、引導を渡されでもしたようで、腹へ風が徹って、ぞッとした。
すなわち、手を挙げるでもなし、声を掛けるでもなし、運転手に向ってもまた合掌した。そこで車を留めたが、勿論、拝む癖に傲然たる態度であったという。それもあとで聞いたので、小県がぞッとするまで、不思議に不快を感じたのも、赤い闖入者が、再び合掌して席へ着き、近々と顔を合せてからの事であった。樹から湧こうが、葉から降ろうが、四人の赤い子供を連れた、その意匠、右の趣向の、ちんどん屋……と奥筋でも称うるかどうかは知らない、一種広告隊の、林道を穿って、赤五点、赤長短、赤大小、点々として顕われたものであろう、と思ったと言うのである。
が、すぐその間違いが分った。客と、銑吉との間へ入って腰を掛けた、中でも、脊のひょろりと高い、色の白い美童だが、疳の虫のせいであろう、……優しい眉と、細い目の、ぴりぴりと昆虫の触角のごとく絶えず動くのが、何の級に属するか分らない、折って畳んだ、猟銃の赤なめしの袋に包んだのを肩に斜に掛けている。且つこれは、乗込もうとする車の外で、ほかの少年の手から受取って持替えたものであった。そうして、栗鼠が(註、この篇の談者、小県凡杯は、兎のように、と云ったのであるが、兎は私が贔屓だから、栗鼠にしておく。)後脚で飛ぶごとく、嬉しそうに、刎ねつつ飛込んで、腰を掛けても、その、ぴょん、が留まないではずんでいた。
──後に、四童、一老が、自動車を辞し去った時は、ずんぐりとして、それは熊のように、色の真黒な子供が、手がわりに銃を受取ると斉しく、むくむく、もこもこと、踊躍して降りたのを思うと、一具の銃は、一行の名誉と、衿飾の、旗表であったらしい。
猟期は過ぎている。まさか、子供を使って、洋刀や空気銃の宣伝をするのではあるまい。
いずれ仔細があるであろう。
ロイドめがねの黒い柄を、耳の尖に、?のように、振向いて運転手が、
「どちらですか。」
「ええ処で降りるんじゃ。」
と威圧するごとくに答えながら、双手を挙げて子供等を制した。栗鼠ばかりでない。あと三個も、補助席二脚へ揉合って乗ると斉しく、肩を組む、頬を合わせる、耳を引張る、真赤な洲浜形に、鳥打帽を押合って騒いでいたから。
戒は顕われ、しつけは見えた。いまその一弾指のもとに、子供等は、ひっそりとして、エンジンの音立処に高く響くあるのみ。その静さは小県ただ一人の時よりも寂然とした。
なぜか息苦しい。
赤い客は咳一つしないのである。
小県は窓を開放って、立続けて巻莨を吹かした。
しかし、硝子を飛び、風に捲いて、うしろざまに、緑林に靡く煙は、我が単衣の紺のかすりになって散らずして、かえって一抹の赤気を孕んで、異類異形に乱れたのである。
「きみ、きみ、まだなかなかかい。」
「屋根が見えるでしょう──白壁が見えました。」
「留まれ。」
その町の端頭と思う、林道の入口の右側の角に当る……人は棲まぬらしい、壊屋の横羽目に、乾草、粗朶が堆い。その上に、惜むべし杉の酒林の落ちて転んだのが見える、傍がすぐ空地の、草の上へ、赤い子供の四人が出て、きちんと並ぶと、緋の法衣の脊高が、枯れた杉の木の揺ぐごとく、すくすくと通るに従って、一列に直って、裏の山へ、夏草の径を縫って行く──この時だ。一番あとのずんぐり童子が、銃を荷った嬉しさだろう、真赤な大な臀を、むくむくと振って、肩で踊って、
「わあい。」
と馬鹿調子のどら声を放す。
ひょろ長い美少年が、
「おうい。」
と途轍もない奇声を揚げた。
同時に、うしろ向きの赤い袖が飜って、頭目は掌を口に当てた、声を圧えたのではない、笛を含んだらしい。ヒュウ、ヒュウと響くと、たちまち静に、粛々として続いて行く。
すぐに、山の根に取着いた。が草深い雑木の根を、縦に貫く一列は、殿の尾の、ずんぐり、ぶつりとした大赤楝蛇が畝るようで、あのヘルメットが鎌首によく似ている。
見る間に、山腹の真黒な一叢の竹藪を潜って隠れた時、
「やーい。」
「おーい。」
ヒュウ、ヒュウと幽に聞こえた。なぜか、その笛に魅せられて、少年等が、別の世、別の都、別の町、あやしきかくれ里へ攫われて行きそうで、悪酒に酔ったように、凡杯の胸は塞った。
自動車たるべきものが、スピイドを何とした。
茫然とした状して、運転手が、汚れた手袋の指の破れたのを凝と視ている。──掌に、銀貨が五六枚、キラキラと光ったのであった。
「──お爺さん、何だろうね。」
「…………」
「私も、運転手も、現に見たんだが。」
「さればなす……」
と、爺さんは、粉煙草を、三度ばかりに火皿の大きなのに撮み入れた。
……根太の抜けた、荒寺の庫裡に、炉の縁で。……
三
西明寺──もとこの寺は、松平氏が旧領石州から奉搬の伝来で、土地の町村に檀家がない。従って盆暮のつけ届け、早い話がおとむらい一つない。如法の貧地で、堂も庫裡も荒れ放題。いずれ旧藩中ばかりの石碑だが、苔を剥かねば、紋も分らぬ。その墓地の図面と、過去帳は、和尚が大切にしているが、あいにく留守。……
墓参のよしを聴いて爺さんが言ったのである。
「ほか寺の仏事の手伝いやら托鉢やらで、こちとら同様、細い煙を立てていなさるでなす。」
あいにく留守だが、そこは雲水、風の加減で、ふわりと帰る事もあろう。
「まあ一服さっせえまし、和尚様とは親類づきあい、渋茶をいれて進ぜますで。」
とにかく、いい人に逢った。爺さんは、旧藩士ででもあんなさるかと聞くと、
「孫八とこいて、いやはや、若い時から、やくざでがしての。縁は異なもの、はッはッはッ。お前様、曾祖父様や、祖父様の背戸畑で、落穂を拾った事もあんべい。──鼠棚捜いて麦こがしでも進ぜますだ。」
ともなわれて庫裡に居る──奥州片原の土地の名も、この荒寺では、鼠棚がふさわしい。いたずらものが勝手に出入りをしそうな虫くい棚の上に、さっきから古木魚が一つあった。音も、形も馴染のものだが、仏具だから、俗家の小県は幼いいたずら時にもまだ持って見たことがない。手頃なのは大抵想像は付くけれども、かこみほとんど二尺、これだけの大きさだと、どのくらい重量があろうか。普通は、本堂に、香華の花と、香の匂と明滅する処に、章魚胡坐で構えていて、おどかして言えば、海坊主の坐禅のごとし。……辻の地蔵尊の涎掛をはぎ合わせたような蒲団が敷いてある。ところを、大木魚の下に、ヒヤリと目に涼しい、薄色の、一目見て紛う方なき女持ちの提紙入で。白い桔梗と、水紅色の常夏、と思ったのが、その二色の、花の鉄線かずらを刺繍した、銀座むきの至極当世な持もので、花はきりりとしているが、葉も蔓も弱々しく、中のものも角ばらず、なよなよと、木魚の下すべりに、優しい女の、帯の端を引伏せられたように見えるのであった。
はじめ小県が、ここの崖を、墓地へ下りる以前に、寺の庫裡を覗いた時、人気も、火の気もない、炉の傍に一段高く破れ落ちた壁の穴の前に、この帯らしいものを見つけて、うつくしい女の、その腰は、袖は、あらわな白い肩は、壁外に逆になって、蜘蛛の巣がらみに、蒼白くくくられてでもいそうに思った。
瞬間の幻視である。手提はすぐ分った。が、この荒寺、思いのほか、陰寂な無人の僻地で──頼もう──を我が耳で聞返したほどであったから。……
私の隣の松さんは、熊野へ参ると、髪結うて、
熊野の道で日が暮れて、
あと見りゃ怖しい、先見りゃこわい。
先の河原で宿取ろか、跡の河原で宿取ろか。
さきの河原で宿取って、鯰が出て、押えて、
手で取りゃ可愛いし、足で取りゃ可愛いし、
杓子ですくうて、線香で担って、燈心で括って、
仏様のうしろで、一切食や、うまし、二切食や、うまし……
紀州の毬唄で、隠微な残虐の暗示がある。むかし、熊野詣の山道に行暮れて、古寺に宿を借りた、若い娘が燈心で括って線香で担って、鯰を食べたのではない。鯰の方が若い娘を、……あとは言わずとも可かろう。例証は、遠く、今昔物語、詣鳥部寺女の語にある、と小県はかねて聞いていた。
紀州を尋ねるまでもなかろう。
……今年はじめて花見に出たら、寺の和尚に抱きとめられて、
高い縁から突落されて、笄落し、小枕落し……
古寺の光景は、異様な衝動で渠を打った。
普通、草双紙なり、読本なり、現代一種の伝奇においても、かかる場合には、たまたま来って、騎士がかの女を救うべきである。が、こしらえものより毬唄の方が、現実を曝露して、──女は速に虐げられているらしい。
同時に、愛惜の念に堪えない。ものあわれな女が、一切食われ一切食われ、木魚に圧え挫がれた、……その手提に見入っていたが、腹のすいた狼のように庫裡へ首を突込んでいて可いものか。何となく、心ゆかしに持っていた折鞄を、縁側ずれに炉の方へ押入れた。それから、卵塔の草を分けたのであった。──一つは、鞄を提げて墓詣をするのは、事務を扱うようで気がさしたからであった。
今もある。……木魚の下に、そのままの涼しい夏草と、ちょろはげの鞄とを見較べながら、
「──またその何ですよ。……待っていられては気忙しいから、帰りは帰りとして、自然、それまでに他の客がなかったらお世話になろう。──どうせ隙だからいつまでも待とうと云うのを──そういってね、一旦運転手に分れた──こっちの町尽頭の、茶店……酒場か。……ざっとまあ、饂飩屋だ。それからは、見た目にも道わるで、無理に自動車を通した処で、歩行くより難儀らしいから下りたんですがね──饂飩酒場の女給も、女房さんらしいのも──その赤い一行は、さあ、何だか分らない、と言う。しかし、お小姓に、太刀のように鉄砲を持たしていれば、大将様だ。大方、魔ものか、変化にでも挨拶に行くのだろう、と言うんです。
魔ものだの、変化だのに、挨拶は変だ、と思ったが、あとで気がつくと、女連は、うわさのある怪しいことに、恐しく怯えていて、陰でも、退治るの、生捉るのとは言い憚ったものらしい。がまあ、この辺にそんなものが居るのかね。……運転手は笑っていたが、私は真面目さ。何でも、この山奥に大沼というのがある?……ありますか、お爺さん。」
「あるだ。」
その時、この気軽そうな爺さんが、重たく点頭した。
「……阿武隈川が近いによって、阿武沼と、勿体つけるで、国々で名高い、湖や、潟ほど、大いなものではねえだがなす、むかしから、それを逢魔沼と云うほどでの、樹木が森々として凄いでや、めったに人が行がねえもんだで、山奥々々というだがね。」
と額を暗く俯向いた。が、煙管を落して、門──いや、門も何もない、前通りの草の径を、向うの原越しに、差覗くがごとく、指をさし、
「あの山を一つ背後へ越した処だで、沢山遠い処ではねえが。」
と言う。
その向う山の頂に、杉檜の森に包まれた、堂、社らしい一地がある。
「……途中でも、気が着いたが。」
水の影でも映りそうに、その空なる樹の間は水色に澄んで青い。
「沼は、あの奥に当るのかね。」
「えへい、まあ、その辺の見当ずら。」
と、掌をもじゃもじゃと振るのが、枯葉が乱れて、その頂の森を掻乱すように見え、
「何かね、その赤い化もの……」
「赤いのが化けものじゃあない──お爺さん。」
「はあ、そうけえ。」
と妙に気の抜けた返事をする。
「……だから、私が──じゃあ、その阿武沼、逢魔沼か。そこへ、あの連中は行ったんだろうか、沼には変った……何か、可恐い、可怪い事でもあるのかね。饂飩酒場の女房が、いいえ、沼には牛鬼が居るとも、大蛇が出るとも、そんな風説は近頃では聞きませんが、いやな事は、このさきの街道──畷の中にあった、というんだよ。寺の前を通る道は、古い水戸街道なんだそうだね。」
「はあ、そうでなす。」
「ぬかるみを目の前にして……さあ、出掛けよう。で、ここへ私が来る道だ。何が出ようとこの真昼間、気にはしないが、もの好きに、どんな可恐い事があったと聞くと、女給と顔を見合わせてね、旦那、殿方には何でもないよ。アハハハと笑って、陽気に怯かす……その、その辺を女が通ると、ひとりでに押孕む……」
「馬鹿あこけ、あいつ等。」
と額にびくびくと皺を刻み、痩腕を突張って、爺は、彫刻のように堅くなったが、
「あッはッはッ。」
唐突に笑出した。
「あッはッはッ。」
たちまち口にふたをして、
「ここは噴出す処でねえ。麦こがしが消飛ぶでや、お前様もやらっせえ、和尚様の塩加減が出来とるで。」
欠茶碗にもりつけた麦こがしを、しきりに前刻から、たばせた。が、匙は附木の燃さしである。
「ええ塩梅だ。さあ、やらっせえ、さ。」
掻い候え、と言うのである。これを思うと、木曾殿の、掻食わせた無塩の平茸は、碧澗の羹であろう。が、爺さんの竈禿の針白髪は、阿倍の遺臣の概があった。
「お前様の前だがの、女が通ると、ひとりで孕むなぞと、うそにも女の身になったらどうだんべいなす、聞かねえ分で居さっせえまし。優しげな、情合の深い、旦那、お前様だ。」
「いや、恥かしい、情があるの、何のと言って。墓詣りは、誰でもする。」
「いや、そればかりではねえ。──知っとるだ。お前様は人間扱いに、畜類にものを言わしったろ。」
「畜類に。」
「おお、鷺によ。」
「鷺に。」
「白鷺に。畷さ来る途中でよ。」
「ああ、知ってるのかい、それはどうも。」
四
──きみ、きみ──
白鷺に向って声を掛けた。
「人に聞かれたのでは極りが悪いね……」
西明寺を志して来る途中、一処、道端の低い畝に、一叢の緋牡丹が、薄曇る日に燃ゆるがごとく、二輪咲いて、枝の莟の、撓なのを見た。──奥路に名高い、例の須賀川の牡丹園の花の香が風に伝わるせいかも知れない、汽車から視める、目の下に近い、門、背戸、垣根。遠くは山裾にかくれてた茅屋にも、咲昇る葵を凌いで牡丹を高く見たのであった。が、こんなに心易い処に咲いたのには逢わなかった。またどこにもあるまい。細竹一節の囲もない、酔える艶婦の裸身である。
旅の袖を、直ちに蝶の翼に開いて──狐が憑いたと人さえ見なければ──もっとも四辺に人影もなかったが──ふわりと飛んで、花を吸おうとも、莟を抱こうとも、心のままに思われた。
それだのに、十歩……いや、もっと十間ばかり隔たった処に、銑吉が立停まったのは、花の莟を、蓑毛に被いだ、舞の烏帽子のように翳して、葉の裏すく水の影に、白鷺が一羽、婀娜に、すっきりと羽を休めていたからである。
ここに一筋の小川が流れる。三尺ばかり、細いが水は清く澄み、瀬は立ちながら、悠揚として、さらさらと聞くほどの音もしない。山入の水源は深く沈んだ池沼であろう。湖と言い、滝と聞けば、末の流のかくまで静なことはあるまいと思う。たとい地理にしていかなりとも。
──松島の道では、鼓草をつむ道草をも、溝を跨いで越えたと思う。ここの水は、牡丹の叢のうしろを流れて、山の根に添って荒れた麦畑の前を行き、一方は、角ぐむ蘆、茅の芽の漂う水田であった。
道を挟んで、牡丹と相向う処に、亜鉛と柿の継はぎなのが、ともに腐れ、屋根が落ち、柱の倒れた、以前掛茶屋か、中食であったらしい伏屋の残骸が、蓬の裡にのめっていた。あるいは、足休めの客の愛想に、道の対う側を花畑にしていたものかも知れない。流転のあとと、栄花の夢、軒は枯骨のごとく朽ちて、牡丹の膚は鮮紅である。
古蓑が案山子になれば、茶店の骸骨も花守をしていよう。煙は立たぬが、根太を埋めた夏草の露は乾かぬ。その草の中を、あたかも、ひらひら、と、ものの現のように、いま生れたらしい蜻蛉が、群青の絹糸に、薄浅葱の結び玉を目にして、綾の白銀の羅を翼に縫い、ひらひら、と流の方へ、葉うつりを低くして、牡丹に誘われたように、道を伝った。
またあまりに儚い。土に映る影もない。が、その影でさえ、触ったら、毒気でたちまち落ちたろう。──畷道の真中に、別に、凄じい虫が居た。
しかも、こっちを、銑吉の方を向いて、髯をぴちぴちと動かす。一疋七八分にして、躯は寸に足りない。けれども、羽に碧緑の艶濃く、赤と黄の斑を飾って、腹に光のある虫だから、留った土が砥になって、磨いたように燦然とする。葛上亭長、芫青、地胆、三種合わせた、猛毒、膚に粟すべき斑蝥の中の、最も普通な、みちおしえ、魔の憑いた宝石のように、炫燿と招いていた。
「──こっちを襲って来るのではない。そこは自然の配剤だね。人が進めば、ひょいと五六尺退って、そこで、また、おいでおいでをしているんだ。碧緑赤黄の色で誘うのか知らん。」
蜻蛉では勿論ない。それを狙っているらしい。白鷺が、翼を開くまでもなかった。牡丹の花の影を、きれいな水から、すっと出て、斑蝥の前へ行くと思うと、約束通り、前途へ退った。人間に対すると、その挙動は同一らしい。……白鷺が再び、すっと進む。
あの歩の運びは、小股がきれて、意気に見える。斑蝥は、また飛びしさった。白鷺が道の中を。……
──きみ、──きみ──
「うっかり声を出して呼んだんだよ、つい。……毒虫だ、大毒だ。きみ、哺えてはいけないと。あの毒は大変です、その卵のくッついた野菜を食べると、血を吐いて即死だそうだ。
現に、私がね、ただ、触られてかぶれたばかりだが。
北国の秋の祭──十月です。半ば頃、その祭に呼ばれて親類へ行った。
白山宮の境内、大きな手水鉢のわきで、人ごみの中だったが、山の方から、颯と虫が来て頬へとまった。指のさきで払い落したあとが、むずむずと痒いんだね。
御手洗は清くて冷い、すぐ洗えばだったけれども、神様の助けです。手も清め、口もそそぐ。……あの手をいきなり突込んだらどのくらい人を損ったろう。──たとい殺さないまでもと思うと、今でも身の毛が立つほどだ。ほてって、顔が二つになったほど幅ったく重い。やあ、獅子のような面だ、鬼の面だ、と小児たちに囃されて、泣いたり怒ったり。それでも遊びにほうけていると、清らかな、上品な、お神巫かと思う、色の白い、紅の袴のお嬢さんが、祭の露店に売っている……山葡萄の、黒いほどな紫の実を下すって──お帰んなさい、水で冷すのですよ。
──で、駆戻ると、さきの親類では吃驚して、頭を冷して寝かしたんだがね。客が揃って、おやじ……私の父が来たので、御馳走の膳の並んだ隣へ出て坐った処、そこらを視て、しばらくして、内の小僧は?……と聞くんだね。袖の中の子が分らないほど、面が鬼になっていたんです。おやじの顔色が変ると、私も泣出した。あとをよくは覚えていないんだが、その山葡萄を雫にして、塗ったり吸ったりして無事に治った……虫は斑蝥だった事はいうまでもないのです。」
「何と、はあ、おっかねえもんだ、なす。知らねえ虫じゃねえでがすが、……もっとも、あの、みちおしえは、誰も触らねえ事にしてあるにはあるだよ。」
「だから、つい、声も掛けようではないか。」
「鷺の鳥はどうしただね。」
「お爺さん、それは見ていなかったかい。」
「なまけもんだ、陽気のよさに、あとはすぐとろとろだ。あの潰屋の陰に寝ころばっておったもんだでの。」
白鷺はやがて羽を開いた。飛ぶと、宙を翔る威力には、とび退る虫が嘴に消えた。雪の蓑毛を爽に、もとの流の上に帰ったのは、あと口に水を含んだのであろうも知れない。諸羽を搏つと、ひらりと舞上る時、緋牡丹の花の影が、雪の頸に、ぼっと沁みて薄紅がさした。そのまま山の端を、高く森の梢にかくれたのであった。
「あの様子では確に呑んだよ、どうも殺られたろうと思うがね。」
爺は股引の膝を居直って、自信がありそうに云った。
「うんや、鳥は悧巧だで。」
「悧巧な鳥でも、殺生石には斃るじゃないか。」
「うんや、大丈夫でがすべよ。」
「が、見る見るあの白い咽喉の赤くなったのが可恐いよ。」
「とろりと旨いと酔うがなす。」
にたにたと笑いながら、
「麦こがしでは駄目だがなす。」
「しかし……」
「お前様、それにの、鷺はの、明神様のおつかわしめだよ、白鷺明神というだでね。」
「ああ、そうか、あの向うの山のお堂だね。」
「余り人の行く処でねえでね。道も大儀だ。」
と、なぜか中を隔てるように、さし覗く小県の目の前で、頭を振った。
明神の森というと──あの白鷺はその梢へ飛んだ──なぜか爺が、まだ誰も詣でようとも言わぬものを、悪く遮りだてするらしいのに、反感を持つとまでもなかったけれども、すぐにも出掛けたい気が起った。黒塚の婆の納戸で、止むを得ない。
「──時に、和尚さんは、まだなかなか帰りそうに見えないね。とすると、位牌も過去帳も分らない。……」
「何しろ、この荒寺だ、和尚は出がちだよって、大切な物だけは、はい、町の在家の確かな蔵に預けてあるで。」
「また帰途に寄るとしよう。」
不意に立掛けた。が、見掛けた目にも、若い綺麗な人の持ものらしい提紙入に心を曳かれた。またそれだけ、露骨に聞くのが擽ったかったのを、ここで銑吉が棄鞭を打った。
「お爺さん、お寺には、おかみさん、いや、奥さんか。」
小さな声で、
「おだいこくがおいでかね。」
「は、とんでもねえ、それどころか、檀那がねえで、亡者も居ねえ。だがな、またこの和尚が世棄人過ぎた、あんまり悟りすぎた。参詣の女衆が、忘れたればとって、預けたればとって、あんだ、あれは。」
と、せきこんで、
「……外廻りをするにして、要心に事を欠いた。木魚を圧に置くとは何たるこんだ。」
と、やけに突立つ膝がしらに、麦こがしの椀を炉の中へ突込んで、ぱっと立つ白い粉に、クシンと咽せたは可笑いが、手向の水の涸れたようで、見る目には、ものあわれ。
もくりと、掻落すように大木魚を膝に取って、
「ぼっかり押孕んだ、しかも大い、木魚講を見せつけられて、どんなにか、はい、女衆は恥かしかんべい。」
その時、提紙入の色が、紫陽花の浅葱淡く、壁の暗さに、黒髪も乱れつつ、産婦の顔の萎れたように見えたのである。
谷間の卵塔に、田沢氏の墓のただ一基苔の払われた、それを思え。
「お爺さん、では、あの女の持ものは、お産で死んだ記念の納ものででもあるのかい。」
べそかくばかりに眉を寄せて、
「牡丹に立った白鷺になるよりも、人間は娑婆が恋しかんべいに、産で死んで、姑獲鳥になるわ。びしょびしょ降の闇暗に、若い女が青ざめて、腰の下さ血だらけで、あのこわれ屋の軒の上へ。……わあ、情ない。……お救い下され、南無普門品、第二十五。」
と炉縁をずり直って、たとえば、小県に股引の尻を見せ、向うむきに円く踞ったが、古寺の狸などを論ずべき場合でない──およそ、その背中ほどの木魚にしがみついて、もく、もく、もく、もく、と立てつけに鳴らしながら、
「南無普門品第二十五。」
「普門品第二十五。」
小県も、ともに口の裡で。
「この寺に観世音。」
「ああ居らっしゃるとも、難有い、ありがたい……」
「その本堂に。」
「いや、あちらの棟だ。──ああ、参らっしゃるか。」
「参ろうとも。」
「おお、いい事だ、さあ、ござい、ござい。」
と抱込んだ木魚を、もく、もくと敲きながら、足腰の頑丈づくりがひょこひょこと前へ立った。この爺さん、どうかしている。
が、導かれて、御廚子の前へ進んでからは──そういう小県が、かえって、どうかしないではいられなくなったのである。
この庫裡と、わずかに二棟、隔ての戸もない本堂は、置棚の真中に、名号を掛けたばかりで、その外の横縁に、それでも形ばかり階段が残った。以前は橋廊下で渡ったらしいが、床板の折れ挫げたのを継合せに土に敷いてある。
明神の森が右の峰、左に、卵塔場を谷に見て、よく一人で、と思うばかり、前刻彳んだ、田沢氏の墓はその谷の草がくれ。
向うの階を、木魚が上る。あとへ続くと、須弥壇も仏具も何もない。白布を蔽うた台に、経机を据えて、その上に黒塗の御廚子があった。
庫裡の炉の周囲は筵である。ここだけ畳を三畳ほどに、賽銭の箱が小さく据って、花瓶に雪を装った一束の卯の花が露を含んで清々しい。根じめともない、三本ほどのチュリップも、蓮華の水を抽んでた風情があった。
勿体ないが、その卯の花の房々したのが、おのずから押になって、御廚子の片扉を支えたばかり、片扉は、鎧の袖の断れたように摺れ下っていたのだから。
「は、」
ただ伏拝むと、斜に差覗かせたまうお姿は、御丈八寸、雪なす卯の花に袖のひだが靡く。白木一彫、群青の御髪にして、一点の朱の唇、打微笑みつつ、爺を、銑吉を、見そなわす。
「南無普門品第二十五。」
「失礼だけれど、准胝観音でいらっしゃるね。」
「はあい、そうでがすべ。和尚どのが、覚えにくい名を称えさっしゃる。南無普門品第二十五。」
よし、ただ、南無とばかり称え申せ、ここにおわするは、除災、延命、求児の誓願、擁護愛愍の菩薩である。
「お爺さん、ああ、それに、生意気をいうようだけれど、これは素晴らしい名作です。私は知らないが、友達に大分出来る彫刻家があるので、門前の小僧だ。少し分る……それに、よっぽど時代が古い。」
「和尚に聞かして下っせえ、どないにか喜びますべい、もっとも前藩主が、石州からお守りしてござったとは聞いとりますがの。」
と及腰に覗いていた。
お蝋燭を、というと、爺が庫裡へ調達に急いだ──ここで濫に火あつかいをさせない注意はもっともな事である──
「たしかに宝物。」
憚り多いが、霊容の、今度は、作を見ようとして、御廚子に寄せた目に、ふと卯の花の白い奥に、ものを忍ばすようにして、供物をした、二つ折の懐紙を視た。備えたのはビスケットである。これはいささか稚気を帯びた。が、にれぜん河のほとり、菩提樹の蔭に、釈尊にはじめて捧げたものは何であろう。菩薩の壇にビスケットも、あるいは臘八の粥に増ろうも知れない。しかしこれを供えた白い手首は、野暮なレエスから出たらしい。勿論だ。意気なばかりが女でない。同時に芬と、媚かしい白粉の薫がした。
爺が居て気がつかなかったか。木魚を置いたわきに、三宝が据って、上に、ここがもし閻魔堂だと、女人を解いた生血と膩肉に紛うであろう、生々と、滑かな、紅白の巻いた絹。
「ああ、誓願のその一、求児──子育、子安の観世音として、ここに婦人の参詣がある。」
世に、参り合わせた時の順に、白は男、紅は女の子を授けらるる……と信仰する、観世音のたまう腹帯である。
その三宝の端に、薄色の、折目の細い、女扇が、忘れたように載っていた。
正面の格子も閉され、人は誰も居ない……そっと取ると、骨が水晶のように手に冷りとした。卯の花の影が、ちらちらと砂子を散らして、絵も模様も目には留まらぬさきに──せい……せい、と書いた女文字。
今度は、覚えず瞼が染まった。
銑吉には、何を秘そう、おなじ名の恋人があったのである。
五
作者は、小県銑吉の話すまま、つい釣込まれて、恋人──と受次いだが、大切な処だ。念のため断るが、銑吉には、はやく女房がある。しかり、女房があって資産がない。女房もちの銭なしが当世色恋の出来ない事は、昔といえども実はあまりかわりはない。
打あけて言えば、渠はただ自分勝手に、惚れているばかりなのである。
また、近頃の色恋は、銀座であろうが、浅草であろうが、山の手新宿のあたりであろうが、つつしみが浅く、たしなみが薄くなり、次第に面の皮が厚くなり、恥が少くなったから、惚れたというのに憚ることだけは、まずもってないらしい。
釣の道でも(岡)と称がつくと軽んぜられる。銑吉のも、しかもその岡惚れである。その癖、夥間で評判である。
この岡惚れの対象となって、江戸育ちだというから、海津か卵であろう、築地辺の川端で迷惑をするのがお誓さんで──実は梅水という牛屋の女中さん。……御新規お一人様、なまで御酒……待った、待った。そ、そんなのじゃ決してない。第一、お客に、むらさきだの、鍋下だのと、符帳でものを食うような、そんなのも決して無い。
梅水は、以前築地一流の本懐石、江戸前の料理人が庖丁を鏽びさせない腕を研いて、吸ものの運びにも女中の裙さばきを睨んだ割烹。震災後も引続き、黒塀の奥深く、竹も樹も静まり返って客を受けたが、近代のある世態では、篝火船の白魚より、舶来の塩鰯が幅をする。正月飾りに、魚河岸に三個よりなかったという二尺六寸の海老を、緋縅の鎧のごとく、黒松の樽に縅した一騎駈の商売では軍が危い。家の業が立ちにくい。がらりと気を替えて、こうべ肉のすき焼、ばた焼、お望み次第に客を呼んで、抱一上人の夕顔を石燈籠の灯でほの見せる数寄屋づくりも、七賢人の本床に立った、松林の大広間も、そのままで、びんちょうの火を堆く、ひれの膏を煑る。
この梅水のお誓は、内の子、娘分であるという。来たのは十三で、震災の時は十四であった。繰返していうでもあるまい──あの炎の中を、主人の家を離れないで、勤め続けた。もっとも孤児同然だとのこと、都にしかるべき身内もない。そのせいか、沈んだ陰気な質ではないが、色の、抜けるほど白いのに、どこか寂しい影が映る。膚をいえば、きめが細く、実際、手首、指の尖まで化粧をしたように滑らかに美しい。細面で、目は、ぱっちりと、大きくないが張があって、そして眉が優しい。緊った口許が、莞爾する時ちょっとうけ口のようになって、その清い唇の左へ軽く上るのが、笑顔ながら凜とする。総てが薄手で、あり余る髪の厚ぼったく見えないのは、癖がなく、細く、なよなよとしているのである。緋も紅も似合うものを、浅葱だの、白の手絡だの、いつも淡泊した円髷で、年紀は三十を一つ出た。が、二十四五の上には見えない。一度五月の節句に、催しの仮装の時、水髪の芸子島田に、青い新藁で、五尺の菖蒲の裳を曳いた姿を見たものがある、と聞く。……貴殿はいい月日の下に生れたな、と言わねばならぬように思う。あるいは一度新橋からお酌で出たのが、都合で、梅水にかわったともいうが、いまにおいては審でない。ただ不思議なのは、さばかりの容色で、その年まで、いまだ浮気、あらわに言えば、旦那があったうわさを聞かぬ。ほかは知らない、あのすなおな細い鼻と、口許がうそを言わぬ。──お誓さんは処女だろう……(しばらく)──これは小県銑吉の言うところである。
十六か七の時、ただ一度──場所は築地だ、家は懐石、人も多いに、台所から出入りの牛乳屋の小僧が附ぶみをした事のあるのを、最も古くから、お誓を贔屓の年配者、あたまのきれいに兀げた粋人が知っている。梅水の主人夫婦も、座興のように話をする。ゆらの戸の歌ではなけれど、この恋の行方は分らない。が、対手が牛乳屋の小僧だけに、天使と牧童のお伽話を聞く気がする。ただその玉章は、お誓の内証の針箱にいまも秘めてあるらしい。……
「……一生の願に、見たいものですな。」
「お見せしましょうか。」
「恐らく不老長寿の薬になる──近頃はやる、性の補強剤に効能の増ること万々だろう。」
「そうでしょうか。」
その頬が、白く、涼しい。
「見せろよ。」
低い声の澄んだ調子で、
「ほほほ。」
と莞爾。
その口許の左へ軽くしまるのを見るがいい。……座敷へ持出さないことは言うまでもない。
色気の有無が不可解である。ある種のうつくしいものは、神が惜んで人に与えない説がある。なるほどそういえば、一方円満柔和な婦人に、菩薩相というのがある。続いて尼僧顔がないでもあるまい。それに対して、お誓の処女づくって、血の清澄明晰な風情に、何となく上等の神巫の麗女の面影が立つ。
──われ知らず、銑吉のかくれた意識に、おのずから、毒虫の毒から救われた、うつくしい神巫の影が映るのであろう。──
おお美わしのおとめよ、と賽銭に、二百金、現に三百金ほどを包んで、袖に呈するものさえある。が、お誓はいつも、そのままお帳場へ持って下って、おかみさんの前で、こんなもの。すぐ、おかみさんが、つッと出て、お給仕料は、お極りだけ御勘定の中に頂いてありますから。……これでは、玉の手を握ろう、紅の袴を引こうと、乗出し、泳上る自信の輩の頭を、幣結うた榊をもって、そのあしきを払うようなものである。
いわんや、銑吉のごとき、お月掛なみの氏子をや。
その志を、あわれむ男が、いくらか思を通わせてやろうという気で。……
「小県の惚れ方は大変だよ。」
「…………」
「嬉しいだろう。」
「ええ。」
目で、ツンと澄まして、うけ口をちょっとしめて、莞爾……
「嬉しいですわ。」
しかも、銑吉が同座で居た。
余計な事だが──一説がある。お誓はうまれが東京だというのに「嬉しいですわ。」は、おかしい。この言葉づかいは、銀座あるきの紳士、学生、もっぱら映画の弁士などが、わざと粋がって「避暑に行ったです。」「アルプスへ上るです。」と使用するが、元来は訛である。恋われて──いやな言葉づかいだが──挨拶をするのに、「嬉しいですわ。」は、嬉しくない、と言うのである。
紳士、学生、あえて映画の弁士とは限らない。梅水の主人は趣味が遍く、客が八方に広いから、多方面の芸術家、画家、彫刻家、医、文、法、理工の学士、博士、俳優、いずれの道にも、知名の人物が少くない。揃った事は、婦人科、小児科、歯科もある。申しおくれました、作家、劇作家も勿論ある。そこで、この面々が、年齢の老若にかかわらず、東京ばかりではない。のみならず、ことさらに、江戸がるのを毛嫌いして「そうです。」「のむです。」を行る名士が少くない。純情無垢な素質であるほど、ついその訛がお誓にうつる。
浅草寺の天井の絵の天人が、蓮華の盥で、肌脱ぎの化粧をしながら、「こウ雲助どう、こんたア、きょう下界へでさっしゃるなら、京橋の仙女香を、とって来ておくんなんし、これサ乙女や、なによウふざけるのだ、きりきりきょうでえをだしておかねえか。」(○註に、けわい坂──実は吉原──近所だけか、おかしなことばが、うつッていたまう、)と洒落れつつ敬意を表した、著作の実例がある。遺憾ながら「嬉しいですわ。」とはかいてない。けれども、その趣はわかると思う。またそれよりも、真珠の首飾見たようなものを、ちょっと、脇の下へずらして、乳首をかくした膚を、お望みの方は、文政壬辰新板、柳亭種彦作、歌川国貞画──奇妙頂礼地蔵の道行──を、ご一覧になるがいい。
通り一遍の客ではなく、梅水の馴染で、昔からの贔屓連が、六七十人、多い時は百人に余る大一座で、すき焼で、心置かず隔てのない月並の会……というと、俳人には禁句らしいが、そこらは凡杯で悟っているから、一向に頓着しない。先輩、また友達に誘われた新参で。……やっと一昨年の秋頃だから、まだ馴染も重ならないのに、のっけから岡惚れした。
「お誓さん。」
「誓ちゃん。」
「よう、誓の字。」
いや、どうも引手あまたで。大連が一台ずつ、黒塗り真円な大円卓を、ぐるりと輪形に陣取って、清正公には極内だけれども、これを蛇の目の陣と称え、すきを取って平らげること、焼山越の蠎蛇の比にあらず、朝鮮蔚山の敵軍へ、大砲を打込むばかり、油の黒煙を立てる裡で、お誓を呼立つること、矢叫びに相斉しい。名を知らぬものまで、白く咲いて楚々とした花には騒ぐ。
巨匠にして、超人と称えらるる、ある洋画家が、わが、名によって、お誓をひき寄せ、銑吉を傍にして、
「お誓さんに是非というのだ、この人に酌をしておあげなさい。」
「はい。」
が、また娘分に仕立てられても、奉公人の謙譲があって、出過ぎた酒場の給仕とは心得が違うし、おなじ勤めでも、芸者より一歩退って可憐しい。
「はい、お酌……」
「感謝します、本懐であります。」
景物なしの地位ぐらいに、句が抜けたほど、嬉しがったうちはいい。
少し心安くなると、蛇の目の陣に恐をなし、山の端の霧に落ちて行く──上﨟のような優姿に、野声を放って、
「お誓さん、お誓さん。姉さん、姐ご、大姐ご。」
立てごかしに、手繰りよせると、酔った赤づらの目が、とろんこで、
「お酌を頼む。是非一つ。」
このねだりものの溌猴、魔界の艶夫人に、芭蕉扇を、貸さずば、奪わむ、とする擬勢を顕わす。……博識にしてお心得のある方々は、この趣を、希臘、羅馬の神話、印度の譬諭経にでもお求めありたい。ここでは手近な絵本西遊記で埒をあける。が、ただ先哲、孫呉空は、蟭螟虫と変じて、夫人の腹中に飛び込んで、痛快にその臓腑を抉るのである。末法の凡俳は、咽喉までも行かない、唇に触れたら酸漿の核ともならず、溶けちまおう。
ついでに、おかしな話がある。六七人と銑吉がこの近所の名代の天麸羅で、したたかに食い且つ飲んで、腹こなしに、ぞろぞろと歩行出して、つい梅水の長く続いた黒塀に通りかかった。
盛り場でも燈を沈め、塀の中は植込で森と暗い。処で、相談を掛けてみたとか、掛けてみるまでもなかったとかいう。……天麸羅のあとで、ヒレの大切れのすき焼は、なかなか、幕下でも、前頭でも、番附か逸話に名の出るほどの人物でなくてはあしらい兼ねる。素通りをすることになった。遺憾さに、内は広し、座敷は多し、程は遠い……
「お誓さん。」
黒塀を──惚れた女に洋杖は当てられない──斜に、トンと腕で当てた。当てると、そのまくれた二の腕に、お誓の膚が透通って、真白に見えたというのである。
銑吉の馬鹿を表わすより、これには、お誓の容色の趣を偲ばせるものがあるであろう。
ざっと、かくの次第であった処──好事魔多しというではなけれど、右の溌猴は、心さわがしく、性急だから、人さきに会に出掛けて、ひとつ蛇の目を取巻くのに、度かさなるに従って、自然とおなじ顔が集るが、星座のこの分野に当っては、すなわち夜這星が真先に出向いて、どこの会でも、大抵点燈頃が寸法であるのに、いつも暮まえ早くから大広間の天井下に、一つ光って……いや、光らずに、ぽつんと黒く、流れている。
勿論、ここへお誓が、天女の装で、雲に白足袋で出て来るような待遇では決してない。
その愚劣さを憐んで、この分野の客星たちは、他より早く、輝いて顕われる。輝くばかりで、やがて他の大一座が酒池肉林となっても、ここばかりは、畳に蕨が生えそうに見える。通りかかった女中に催促すると、は、とばかりで、それきり、寄りつかぬ。中でも活溌なのは、お誓さんでなくってはねえ、ビイーと外れてしまう。またそのお誓はお誓で、まず、ほかほかへ皿小鉢、銚子を運ぶと、お門が違いましょう。で、知りませんと、鼻をつまらせ加減に、含羞んで、つい、と退くが、そのままでは夜這星の方へ来にくくなって、どこへか隠れる。ついお銚子が遅くなって、巻煙草の吸殻ばかりが堆い。
何となく、ために気がとがめて、というのが、会が月の末に当るので、懐中勘定によったかも分らぬ。一度、二度と間を置くうち、去年七月の末から、梅水が……これも近頃各所で行われる……近くは鎌倉、熱海。また軽井沢などへ夏季の出店をする。いやどこも不景気で、大したほまちにはならないそうだけれど、差引一ぱいに行けば、家族が、一夏避暑をする儲けがある。梅水は富士の裾野──御殿場へ出張した。
そこへ、お誓が手伝いに出向いたと聞いて、がっかりして、峰は白雪、麓は霞だろう、とそのまま夜這星の流れて消えたのが──もう一度いおう──去年の七月の末頃であった。
この、六月──いまに至るまで、それ切り、その消息を知らなかったのである。
もし梅水の出店をしたのが、近い処は、房総地方、あるいは軽井沢、日光──塩原ならばいうまでもない。地の利によらないことは、それが木曾路でも、ふとすると、こんな処で、どうした拍子、何かの縁で、おなじ人に、逢うまじきものでもない、と思ったろう。
仏蘭西の港で顔を見たより、瑞西の山で出会ったのより、思掛けなさはあまりであったが──ここに古寺の観世音の前に、紅白の絹に添えた扇子の名は、築地の黒塀を隔てた時のようではない。まのあたりその人に逢ったようで、単衣の袖も寒いほど、しみじみと、熟と視た。
たちまち、炬のごとく燃ゆる、おもほてりを激しく感じた。
爺さんが、庫裡から取って来た、燈明の火が、ちらちらと、
「やあ、見るもんじゃねえ。」
その、扇子を引ったくると、
「あなたよ、こんなものを置いとくだ。」
と叱るようにいって、開いたまま、その薄色の扇子で、木魚を伏せた。
極りも悪いし、叱られたわんぱくが、ふてたように、わざとらしく祝していった。
「上へのっけられたより、扇で木魚を伏せた方が、女が勝ったようで嬉しいよ。」
「勝つも負けるも、女は受身だ。隠すにも隠されましねえ。」
どかりと尻をつくと、鼻をすすって、しくしくと泣出した。
青い煙の細くなびく、蝋燭の香の沁む裡に、さっきから打ちかさねて、ものの様子が、思わぬかくし事に懐姙したか、また産後か、おせい、といううつくしい女一人、はかなくなったか、煩ろうて死のうとするか、そのいずれか、とフト胸がせまって、涙ぐんだ目を、たちまち血の電光のごとく射たのは、林間の自動車に闖入した、五体個々にして、しかも畝り繋った赤色の夜叉である。渠等こそ、山を貫き、谷を穿って、うつくしい犠牲を猟るらん。飛天の銃は、あの、清く美しい白鷺を狙うらしく想わるるとともに、激毒を啣んだ霊鳥は、渠等に対していかなる防禦をするであろう、神話のごとき戦は、今日の中にも開かるるであろう。明神の晴れたる森は、たちまち黒雲に蔽わるるであろうも知れない。
銑吉は、少からず、猟奇の心に駆られたのである。
同時にお誓がうつくしき鳥と、おなじ境遇に置かるるもののように、衝と胸を打たれて、ぞっとした。その時、小枝が揺れて、卯の花が、しろじろと、細く白い手のように、銑吉の膝に縋った。
底本:「泉鏡花集成9」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年6月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十三卷」岩波書店
1942(昭和17)年6月22日発行
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2006年3月27日作成
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