南地心中
泉鏡花
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一
「今のは、」
初阪ものの赤毛布、という処を、十月の半ば過ぎ、小春凪で、ちと逆上せるほどな暖かさに、下着さえ襲ねて重し、野暮な縞も隠されず、頬被りがわりの鳥打帽で、朝から見物に出掛けた……この初阪とは、伝え聞く、富士、浅間、大山、筑波、はじめて、出立つを初山と称うるに傚って、大阪の地へ初見参という意味である。
その男が、天満橋を北へ渡越した処で、同伴のものに聞いた。
「今のは?」
「大阪城でございますさ。」
と片頬笑みでわざと云う。結城の藍微塵の一枚着、唐桟柄の袷羽織、茶献上博多の帯をぐいと緊め、白柔皮の緒の雪駄穿で、髪をすっきりと刈った、気の利いた若いもの、風俗は一目で知れる……俳優部屋の男衆で、初阪ものには不似合な伝法。
「まさか、天満の橋の上から、淀川を控えて、城を見て──当人寝が足りない処へ、こう照つけられて、道頓堀から千日前、この辺の沸くり返る町の中を見物だから、茫となって、夢を見たようだけれど、それだって、大阪に居る事は確に承知の上です──言わなくっても大阪城だけは分ろうじゃないか。」
「御道理で、ふふふ、」
男衆はまた笑いながら、
「ですがね、欄干へ立って、淀川堤を御覧なさると、貴方、恍惚とおなんなさいましたぜ。熟と考え込んでおしまいなすって、何かお話しするのもお気の毒なような御様子ですから、私も黙りでね。ええ、……時間の都合で、そちらへは廻らないまでも、網島の見当は御案内をしろって、親方に吩咐かって参ったんで、あすこで一ツ、桜宮から網島を口上で申し上げようと思っていたのに、あんまり腕組をなすったんで、いや、案内者、大きに水を見て涼みました。
それから、ずっと黙りで、橋を渡った処で、(今のは、)とお尋ねなさるんでさ、義理にも大阪城、と申さないじゃ、第一日本一の名城に対して、ははは、」とものありげにちょっと顔を見る。
初阪は鳥打の庇に手を当て、
「分りましたよ。真田幸村に対しても、決して粗略には存じません。萌黄色の海のような、音に聞いた淀川が、大阪を真二つに分けたように悠揚流れる。
電車の塵も冬空です……澄透った空に晃々と太陽が照って、五月頃の潮が押寄せるかと思う人通りの激しい中を、薄い霧一筋、岸から離れて、さながら、東海道で富士を視めるように、あの、城が見えたっけ。
川蒸汽の、ばらばらと川浪を蹴るのなんぞは、高櫓の瓦一枚浮かしたほどにも思われず、……船に掛けた白帆くらいは、城の壁の映るのから見れば、些細な塵です。
その、空に浮出したような、水に沈んだような、そして幻のような、そうかと思うと、歴然と、ああ、あれが、嬰児の時から桃太郎と一所にお馴染の城か、と思って見ていると、城のその屋根の上へ、山も見えぬのに、鵺が乗って来そうな雲が、真黒な壁で上から圧附けるばかり、鉛を熔かして、むらむらと湧懸って来たろうではないか。」
初阪は意気を込めて、杖をわきに挟んで云った。
二
七筋ばかり、工場の呼吸であろう、黒煙が、こう、風がないから、真直に立騰って、城の櫓の棟を巻いて、その蔽被った暗い雲の中で、末が乱れて、むらむらと崩立って、倒に高く淀川の空へ靡く。……
なびくに脈を打って、七筋ながら、処々、斜めに太陽の光を浴びつつ、白泡立てて渦いた、その凄かった事と云ったら。
天守の千畳敷へ打込んだ、関東勢の大砲が炎を吐いて転がる中に、淀君をはじめ、夥多の美人の、練衣、紅の袴が寸断々々に、城と一所に滅ぶる景色が、目に見える。……雲を貫く、工場の太い煙は、丈に余る黒髪が、縺れて乱れるよう、そして、倒に立ったのは、長に消えぬ人々の怨恨と見えた。
大河の両岸は、細い樹の枝に、薄紫の靄が、すらすら。蒼空の下を、矢輻の晃々と光る車が、駈けてもいたのに、……水には帆の影も澄んだのに、……どうしてその時、大阪城の空ばかり暗澹として曇ったろう。
「ああ、あの雲だ。」
と初阪は橋の北詰に、ひしひしと並んだ商人家の、軒の看板に隠れた城の櫓の、今は雲ばかりを、フト仰いだ。
が、俯向いて、足許に、二人連立つ影を見た。
「大丈夫だろうかね。」
「雷様ですか。」
男衆は逸早く心得て、
「串戯じゃありませんぜ。何の今時……」
「そんなら可いが、」
歩行出す、と暗くなり掛けた影法師も、烈しい人脚の塵に消えて、天満筋の真昼間。
初阪は晴やかな顔をした。
「凄かったよ、私は。……その癖、この陽気だから、自然と淀川の水気が立つ、陽炎のようなものが、ひらひらと、それが櫓の面へかかると、何となく、𤏋と美しい幻が添って、城の名を天下に彩っているように思われたっけ。その花やかな中にも、しかし、長い、濃い、黒髪が潜んで、滝のように動いていた。」
城を語る時、初阪の色酔えるがごとく、土地馴れぬ足許は、ふらつくばかり危まれたが、対手が、しゃんと来いの男衆だけ、確に引受けられた酔漢に似て、擦合い、行違う人の中を、傍目も触らず饒舌るのであった。
「時に、それについて、」
「あの、別嬪の事でしょう。私たちが立停まって、お城を見ていました。四五間さきの所に、美しく立って、同じ方を視めていた、あれでしょう。……貴方が(今のは!)ッて一件は。それ、奴を一人、お供に連れて、」
「奴を……十五六の小間使だぜ。」
「当地じゃ、奴ッてそう言います。島田髷に白丈長をピンと刎ねた、小凜々しい。お約束でね、御寮人には附きものの小女ですよ。あれで御寮人の髷が、元禄だった日にゃ、菱川師宣えがく、というんですね。
何だろう、とお尋ねなさるのは承知の上でさ、……また、今のを御覧なすって、お聞きなさらないじゃ、大阪が怨みます。」
「人が悪いな、この人は。それまで心得ていて、はぐらかすんだから。(大阪城でございます、)はちと癪だろうじゃないか。」
「はははは。」
「しかし縁のない事はない。そうして、熟とあの、煙の中の凄い櫓を視めていると、どうだろう。
四五間前に、上品な絵の具の薄彩色で、彳んでいた、今の、その美人の姿だがね、……淀川の流れに引かれた、私の目のせいなんだろう。すッと向うに浮いて行って、遠くの、あの、城の壁の、矢狭間とも思う窓から、顔を出して、こっちを覗いた。そう見えた。いつの間にか、城の中へ入って、向直って。……
黒雲の下、煙の中で、凄いの、美しいの、と云ッて、そりゃなかった。」
三
「だから、何だか容易ならん事が起った、と思って、……口惜しいが聞くんです。
実はね、昨夜、中座を見物した時、すぐ隣りの桟敷に居たんだよ、今の婦人は……」と頷くようにして初阪は云う。
男衆はまた笑った。
「ですとも。それを知らん顔で、しらばっくれて、唯今一見という顔をなさるから、はぐらかして上げましたんでさ。」
「だって、住吉、天王寺も見ない前から、大阪へ着いて早々、あの婦は? でもあるまいと思う。それじゃ慌て過ぎて、振袖に躓いて転ぶようだから、痩我慢で黙然でいたんだ。」
「ところが、辛抱が仕切れなくなったでしょう、ごもっともですとも。親方もね、実は、お景物にお目に掛ける、ちょうど可いからッて、わざと昨夜も、貴方を隣桟敷へ御案内申したんです。
附込みでね、旦那と来ていました。取巻きに六七人芸妓が附いて。」
男衆の顔を見て、
「はあ、すると堅気かい、……以前はとにかく、」
また男衆は、こう聞かれるのを合点したらしく頷くのであった。
「貴方、当時また南新地から出ているんです。……いいえ、旦那が変ったんでも、手が切れたのでもありません。やっぱり昨夜御覧なすった、あれが元からの旦那でね。ええ、しかも、ついこの四五日前まで、久しく引かされて、桜の宮の片辺というのに、それこそ一枚絵になりそうな御寮人で居たんですがね。あの旦那の飛んだもの好から、洒落にまた鑑札を請けて、以前のままの、お珊という名で、新しく披露をしました。」と質実に話す。
「阪地は風流だね、洒落に芸者に出すなんざ、悟ったもんですぜ、根こぎで手活にした花を、人助けのため拝ませる、という寸法だろう。私なんぞも、お庇で土産にありついたという訳だ。」
「いいえ、隣桟敷の緋の毛氈に頬杖や、橋の欄干袖振掛けて、という姿ぐらいではありません。貴方、もっと立派なお土産を御覧なさいましょうよ。御覧なさいまし、明日、翌々日の晩は、唯今のお珊の方が、千日前から道頓堀、新地をかけて宝市の練に出て、下げ髪、緋の袴という扮装で、八年ぶりで練りますから。」
一言、下げ髪、緋の袴、と云ったのが、目のあたり城の上の雲を見た、初阪の耳を穿って響いた。
「何、下げ髪で、緋の袴?……」
「勿論一人じゃありません──確か十二人、同じ姿で揃って練ります。が、自分の髪を入髪なしに解ほぐして、その緋の袴と擦れ擦れに丈に余るってのは、あの婦ばかりだと云ったもんです。一度引いて、もうそんなに経ちますけれども、私あ今日も、つい近間で見て驚きました。
苦労も道楽もしたろうのに、雁金額の生際が、一厘だって抜上がっていませんやね、ねえ。
やっぱり入髪なしを水で解いて、宝市は屋台ぐるみ、象を繋いで曳きましょうよ。
旦那もね、市に出して、お珊さんのその姿を、見たり、見せたりしたいばかりに、素晴らしく派手を遣って、披露をしたんだって評判です。
その市女は、芸妓に限るんです。それも芸なり、容色なり、選抜きでないと、世話人の方で出しませんから……まず選ばれた婦は、一年中の外聞といったわけです。
その中のお職だ、貴方。何しろ大阪じゃ、浜寺の魚市には、活きた竜宮が顕れる、この住吉の宝市には、天人の素足が見えるって言います。一年中の紋日ですから、まあ、是非お目に掛けましょう。
貴方、一目見て立すくんで、」
「立すくみは大袈裟だね、人聞きが悪いじゃないか。」
「だって、今でさえ、悚然なすったじゃありませんかね。」
四
男衆の浮かせ調子を、初阪はなぜか沈んで聞く。……
「まったくそりゃ悚然としたよ。ひとりでに、あの姿が、城の中へふいと入って、向直って、こっちを見るらしい気がした時は。
黒い煙も、お珊さんか、……その人のために空に被さったように思って。
天満の鉄橋は、瀬多の長橋ではないけれども、美濃へ帰る旅人に、怪しい手箱を託けたり、俵藤太に加勢を頼んだりする人に似たように思ったのだね。
由来、橋の上で出会う綺麗な婦は、すべて凄いとしてある。──
が、場所によるね……昨夜、隣桟敷で見た時は、同じその人だけれど、今思うと、まるで、違った婦さ。……君も関東ものだから遠慮なく云うが、阪地の婦はなぜだろう、生きてるのか、死んでるのか、血というものがあるのか知らん、と近所に居るのも可厭なくらい、酷く、さました事があったんだから……」
「へい、何がございました。やたらに何か食べたんですかい。」
「何、詰らんことを……そうじゃない。余りと言えば見苦しいほど、大入芝居の桟敷だというのに、旦那かね、その連の男に、好三昧にされてたからさ。」
「そこは妾ものの悲しさですかね。どうして……当人そんなぐうたらじゃない筈です。意地張りもちっと可恐いような婦でね。以前、芸妓で居ました時、北新地、新町、堀江が、一つ舞台で、芸較べを遣った事があります。その時、南から舞で出ました。もっとも評判な踊手なんですが、それでも他場所の姉さんに、ひけを取るまい。……その頃北に一人、向うへ廻わして、ちと目に余る、家元随一と云う名取りがあったもんですから、生命がけに気を入れて、舞ったのは道成寺。貴方、そりゃ近頃の見ものだったと評判しました。
能がかりか、何か、白の鱗の膚脱ぎで、あの髪を颯と乱して、ト撞木を被って、供養の鐘を出た時は、何となく舞台が暗くなって、それで振袖の襦袢を透いて、お珊さんの真白な胸が、銀色に蒼味がかって光ったって騒ぎです。
そのかわり、火のように舞い澄まして楽屋へ入ると、気を取詰めて、ばったり倒れた。後見が、回生剤を呑まそうと首を抱く。一人が、装束の襟を寛げようと、あの人の胸を開けたかと思うと、キャッと云って尻持をついたはどうです。
鳩尾を緊めた白羽二重の腹巻の中へ、生々とした、長いのが一尾、蛇ですよ。畝々と巻込めてあった、そいつが、のッそり、」と慌しい懐手、黒八丈を襲ねた襟から、拇指を出して、ぎっくり、と蝮を拵えて、肩をぶるぶると遣って引込ませて、
「鎌首を出したはどうです、いや聞いても恐れる。」とばたばたと袖を払く。
初阪もそれはしかねない婦と見た。
「執念の深いもんだから、あやかる気で、生命がけの膚に絡ったというわけだ。」
「それもあります。ですがね、心願も懸けたんですとさ。何でも願が叶うと云います……咒詛も、恋も、情も、慾も、意地張も同じ事。……その時鳩尾に巻いていたのは、高津辺の蛇屋で売ります……大瓶の中にぞろぞろ、という一件もので、貴方御存じですか。」
初阪は出所を聞くと悚然とした。我知らず声を潜めて、
「知ッてる……生紙の紙袋の口を結えて、中に筋張った動脈のようにのたくる奴を買って帰って、一晩内に寝かしてそれから高津の宮裏の穴へ放すんだってね。」
五
「ええ、そうですよ。その時、願事を、思込んで言聞かせます。そして袋の口を解くと、にょろにょろと這出すのが、きっと一度、目の前でとぐろを巻いて、首を擡げて、その人間の顔を熟と視て、それから横穴へ入って隠れるって言います。
そのくらい念の入った長虫ですから、買手が来て、蛇屋が貯えたその大瓶の圧蓋を外すと、何ですとさ。黒焼の註文の時だと、うじゃうじゃ我一に下へ潜って、瓶の口がぐっと透く。……放される客の時だと、ぬらぬら争って頭を上げて、瓶から煙が立つようですって、……もし、不気味ですねえ。」
初阪は背後ざまに仰向いて空を見た。時に、城の雲は、賑かな町に立つ埃よりも薄かった。
思懸けず、何の広告か、屋根一杯に大きな布袋の絵があって、下から見上げたものの、さながら唐子めくのに、思わず苦笑したが、
「昨日もその話を聞きながら、兵庫の港、淡路島、煙突の煙でない処は残らず屋根ばかりの、大阪を一目に見渡す、高津の宮の高台から……湯島の女坂に似た石の段壇を下りて、それから黒焼屋の前を通った時は、軒から真黒な氷柱が下ってるように見えて冷りとしたよ。一時に寒くなって──たださえ沸上り湧立ってる大阪が、あのまた境内に、おでん屋、てんぷら屋、煎豆屋、とかっかっぐらぐらと、煮立て、蒸立て、焼立てて、それが天火に曝されているんだからね──びっしょり汗になったのが、お庇ですっかり冷くなった。但し余り結構なお庇ではないのさ。
大阪へ来てから、お天気続きだし、夜は万燈の中に居る気持だし、何しろ暗いと思ったのは、町を歩行く時でも、寝る時でも、黒焼屋の前を通った時と、今しがた城の雲を見たばかりさ。」
男衆は偶と言を挟んで、
「何を御覧なさる。」
「いいえね、今擦違った、それ、」
とちょっと振向きながら、
「それ、あの、忠兵衛の養母といった隠居さんが、紙袋を提げているから、」
「串戯じゃありません。」
「私は例のかと思った、……」
「ありゃ天満の亀の子煎餅、……成程亀屋の隠居でしょう。誰が、貴方、あんな婆さんが禁厭の蛇なんぞを、」
「ははあ、少いものでなくっちゃ、利かないかね。」
「そりゃ……色恋の方ですけれど……慾の方となると、無差別ですから、老年はなお烈しいかも知れません。
分けてこの二三日は、黒焼屋の蛇が売れ盛るって言います……誓文払で、大阪中の呉服屋が、年に一度の大見切売をしますんでね、市中もこの通りまた別して賑いまさ。
心斎橋筋の大丸なんかでは、景物の福引に十両二十両という品ものを発奮んで出しますんで、一番引当てよう了簡で、禁厭に蛇の袋をぶら下げて、杖を支いて、お十夜という形で、夜中に霜を踏んで、白髪で橋を渡る婆さんもあるにゃあるんで。」
六
男衆もちょっと町中を眗した。
「まったくかも知れません、何しろ、この誓文払の前後に、何千条ですかね、黒焼屋の瓶が空虚になった事があるって言いますから。慾は可恐しい。悪くすると、ぶら提げてるのに打撞らないとも限りませんよ。」
「それ! だから云わない事じゃない。」
内端ながら二ツ三ツ杖を掉って、
「それでなくッてさえ、こう見渡した大阪の町は、通も路地も、どの家も、かッと陽気に明い中に、どこか一個所、陰気な暗い処が潜んで、礼儀作法も、由緒因縁も、先祖の位牌も、色も恋も罪も報も、三世相一冊と、今の蛇一疋ずつは、主になって隠れていそうな気がする処へ、蛇瓶の話を昨日聞いて、まざまざと爪立足で、黒焼屋の前を通ってからというものは、うっかりすると、新造も年増も、何か下掻の褄あたりに、一条心得ていそうでならない。
昨夜も、芝居で……」
男衆は思出したように、如才なく一ツ手を拍った。
「時に、どうしたと云うんですえ、お珊さんが、その旦那と?……」
「まあ、お聞き──隣合った私の桟敷に、髪を桃割に結って、緋の半襟で、黒繻子の襟を掛けた、黄の勝った八丈といった柄の着もの、紬か何か、絣の羽織をふっくりと着た。ふさふさの簪を前のめりに挿して、それは人柄な、目の涼しい、眉の優しい、口許の柔順な、まだ肩揚げをした、十六七の娘が、一人入っていたろう。……出来るだけおつくりをしたろうが、着ものも帯も、余りいい家の娘じゃないらしいのが、」
「居ました。へい、親方が、貴方に差上げた桟敷ですから、人の入る訳はないが、と云って、私が伺いましたっけ。貴方が、(構いやしない。)と仰有るし、そこはね、大したお目触りのものではなし……あの通りの大入で、ちょっと退けようッて空場も見つからないものですから、それなりでお邪魔を願ッておきました。
後で聞きますと、出方が、しんせつに、まあ、喜ばせてやろうッて、内々で入れたんだそうで。ありゃ何ですッて、逢阪下の辻──ええ、天王寺に行く道です。公園寄の辻に、屋台にちょっと毛の生えたくらいの小さな店で、あんころ餅を売っている娘だそうです。いい娘ですね。」
それは初阪がはじめて聞く。
「そう、餅屋の姉さんかい……そして何だぜ、あの芝居の厠に番をしている、爺さんね、大どんつくを着た逞しい親仁だが、影法師のように見える、太く、よぼけた、」
「ええ、駕籠伝、駕籠屋の伝五郎ッて、新地の駕籠屋で、ありゃその昔鳴らした男です。もう年紀の上に、身体を投げた無理が出て、便所の番をしています。その伝が?」
「娘の、爺さんか父親なんだ。」
これは男衆が知らなかった。
「へい、」
「知らないのかい。」
「そうかも知れません、私あ御存じの土地児じゃないんですから、見たり、聞いたり、透切だらけで。へい、どうして、貴方?」
「ところが分った事がある。……何しろ、私が、昨夜、あの桟敷へ入った時、空いていた場所は、その私の処と、隣りに一間、」
「そうですよ。」
「その二間しかなかったんだ。二丁がカチと入った時さ。娘を連れて、年配の出方が一人、横手の通の、竹格子だね、中座のは。……扉をツイと押して、出て来て、小さくなって、背後の廊下、お極りだ、この処へ立つ事無用。あすこへ顔だけ出して踞んだもんです。(旦那、この娘を一人願われませんでござりましょうか。内々のもので、客ではござりません。お部屋へ知れますと悪うござりますが、貴下様思召で、)と至って慇懃です。
資本は懸らず、こういう時、おのぼりの気前を見せるんだ、と思ったから、さあさあ御遠慮なく、で、まず引受けたんだね。」
七
「ずっと前へお出なさい、と云って勧めても、隅の口に遠慮して、膝に両袖を重ねて、溢れる八ツ口の、綺麗な友染を、袂へ、手と一所に推込んで、肩を落して坐っていたがね、……可愛らしいじゃないか。赤い紐を緊めて、雪輪に紅梅模様の前垂がけです。
それでも、幕が開いて芝居に身が入って来ると、身体をもじもじ、膝を立てて伸上って──背後に引込んでいるんだから見辛いさね──そうしちゃ、舞台を覗込むようにしていたっけ。つい、知らず知らず乗出して、仕切にひったりと胸を附けると、人いきれに、ほんのりと瞼を染めて、ほっとなったのが、景気提灯の下で、こう、私とまず顔を並べた。おのぼり心の中に惟えらく、光栄なるかな。
まあ、お聞きったら。
そりゃ可かったが、一件だ。」
「一件と……おっしゃると?」
「長いの、長いの。」
「その娘が、蛇を……嘘でしょう。」
「間違ったに違いない。けれども高津で聞いて、平家の水鳥で居たんだからね。幕間にちょいと楽屋へ立違って、またもとの所へ入ろうとすると、その娘の袂の傍に、紙袋が一つ出ています。
並んで坐ると、それがちょうど膝になろうというんだから、大に怯んだ。どうやら気のせいか、むくむく動きそうに見えるじゃないか。
で、私は後へ引退った。ト娘の挿した簪のひらひらする、美しい総越しに舞台の見えるのが、花輪で額縁を取ったようで、それも可さ。
所へ、さらさらどかどかです。荒いのと柔なのと、急ぐのと、入乱れた跫音を立てて、七八人。小袖幕で囲ったような婦の中から、赫と真赤な顔をして、痩せた酒顛童子という、三分刈りの頭で、頬骨の張った、目のぎょろりとした、なぜか額の暗い、殺気立った男が、詰襟の紺の洋服で、靴足袋を長く露した服筒を膝頭にたくし上げた、という妙な扮装で、その婦たち、鈍太郎殿の手車から転がり出したように、ぬっと発奮んで出て、どしんと、音を立てて躍込んだのが、隣の桟敷で……
唐突、横のめりに両足を投出すと、痛いほど、前の仕切にがんと支いた肱へ、頭を乗せて、自分で頸を掴んでも、そのまま仰向けにぐたりとなる、可いかね。
顔へ花火のように提灯の色がぶツかります。天井と舞台を等分に睨み着けて、(何じゃい!)と一つ怒鳴る、と思うと、かっと云う大酒の息を吐きながら、(こら、入らんか、)と喚いたんだ。
背後に、島田やら、銀杏返しやら、累って立った徒は、右の旦那よりか、その騒ぎだから、皆が見返る、見物の方へ気を兼ねたらしく、顔を見合わせていたっけが。
この一喝を啖うと、べたべたと、蹴出しも袖も崩れて坐った。
大切な客と見えて、若衆が一人、女中が二人、前茶屋のだろう、附いて来た。人数は六人だったがね。旦那が一杯にのしてるから、どうして入り切れるもんじゃない。随分肥ったのも、一人ならずさ。
茶屋のがしきりに、小声で詫を云って叩頭をしたのは、御威勢でもこの外に場所は取れません、と詫びたんだろう。(構いまへんで、お入りなされ。)
まずい口真似だ、」
初阪は男衆の顔を見て微笑んだが、
「そう云って、茶屋の男が、私に言も掛けないで、その中でも、なかんずく臀の大きな大年増を一人、こっちの場所へ送込んだ。するとまたその婦が、や、どッこいしょ、と掛声して、澄まして、ぬっと入って、ふわりと裾埃で前へ出て、正面充満に陣取ったろう。」
八
「娘はこの肥満女に、のしのし隅っこへ推着けられて、可恐しく見勝手が悪くなった。ああ、可哀そうにと思う。ちょうど、その身体が、舞台と私との中垣になったもんだからね。可憐しいじゃないか……
密と横顔で振向いて、俯目になって、(貴下はん、見憎うおますやろ、)と云って、極りの悪そうに目をぱちぱちと瞬いたんです。何事も思いません。大阪中の詫言を一人でされた気がしたぜ。」
男衆は頭を下げた。
「御道理で。」
「いや、まったく。心配しないで楽に居て、御覧々々と重ねて云うと、芝居で泣いたなりのしっとりした眉を、嬉しそうに莞爾して、向うを向いたが、ちょっと白い指で圧えながら、その花簪を抜いたはどうだい。染分の総だけも、目障りになるまいという、しおらしいんだね。
(酒だ、酒だ。疾くせい、のろま!)とぎっくり、と胸を張反らして、目を剥く。こいつが、どろんと濁って血走ってら。ぐしゃぐしゃ見上げ皺が揉上って筋だらけ。その癖、すぺりと髯のない、まだ三十くらい、若いんです。
(はいはい、たった今、直きに、)とひょこひょこと敷居に擦附ける、若衆は叩頭をしいしい、(御寮人様、行届きまへん処は、何分、)と、こう内証で云った。
その御寮人と云われた、……旦那の背後に、……髪はやっぱり銀杏返しだっけ……お召の半コオトを着たなりで控えたのが、」
「へい、成程、背後に居ました。」
「お珊の方かね、天満橋で見た先刻のだ。もっとも東の雛壇をずらりと通して、柳桜が、色と姿を競った中にも、ちょっとはあるまいと思う、容色は容色と見たけれども、歯痒いほど意気地のない、何て腑の抜けた、と今日より十段も見劣りがしたって訳は。……
いずれ妾だろう。慰まれものには違いないが、若い衆も、(御寮人、)と奉って、何分、旦那を頼む、と云う。
取巻きの芸妓たち、三人五人の手前もある。やけに土砂を振掛けても、突張返った洋服の亡者一個、掌に引丸げて、捌を附けなけりゃ立ちますまい。
ところが不可い。その騒ぐ事、暴れる事、桟敷へ狼を飼ったようです。(泣くな、わい等、)と喚く──君の親方が立女形で満場水を打ったよう、千百の見物が、目も口も頭も肩も、幅の広いただ一人の形になって、啜泣きの声ばかり、誰が持った手巾も、夜会草の花を昼間見るように、ぐっしょり萎んで、火影の映るのが血を絞るような処だっけ──(芝居を見て泣く奴があるものかい、や、怪体な!
舞台でも何を泣えくさるんじゃい。かッと喧嘩を遣れ、面白うないぞ! 打殺して見せてくれ。やい、腸を掴出せ、へん、馬鹿な、)とニヤリと笑う。いや、そのね、ニヤリと北叟笑みをする凄さと云ったら。……待てよ、この御寮人が内証で情人をこしらえる。嫉妬でその妾の腸を引摺り出す時、きっと、そんな笑い方をする男に相違ないと思った。
可哀を留めたのは取巻連さ。
夢中になって、芝居を見ながら、旦那が喚くたびに、はっとするそうで、皆が申合わせた形で、ふらりと手を挙げる。……片手をだよ。……こりゃ、私の前を塞いだ肥満女も同じく遣った。
その癖、黙然でね、チトもしお静に、とも言い得ない。
すると、旦那です……(馬鹿め、止めちまえ、)と言いながら、片手づきの反身の肩を、御寮人さ、そのお珊の方の胸の処へ突つけて、ぐたりとなった。……右の片手を逆に伸して、引合せたコオトの襟を引掴んで、何か、自分の胸が窮屈そうに、こう踠いて、引開けようとしたんだがね、思う通りにならなかったもんだから、(ええ)と云うと、かと開けた、細い黄金鎖が晃然と光る。帯を掴んで、ぐい、と引いて、婦の膝を、洋服の尻へ掻込んだりと思うと、もろに凭懸った奴が、ずるずると辷って、それなり真仰向けさ。傍若無人だ。」
九
「膝枕をしたもんです。その野分に、衣紋が崩れて、褄が乱れた。旦那の頭は下掻の褄を裂いた体に、紅入友染の、膝の長襦袢にのめずって、靴足袋をぬいと二ツ、仕切を空へ突出したと思え。
大蛇のような鼾を掻く。……妾はいいなぶりものにされたじゃないか。私は浅ましいと思った。大入の芝居の桟敷で。
江戸児だと、見たが可い! 野郎がそんな不状をすると、それが情人なら簪でも刺殺す……金子で売った身体だったら、思切って、衝と立って、袖を払って帰るんだ。
処を、どうです。それなりに身を任せて、静として、しかも入身に娜々としているじゃないか。
掴寄せられた帯も弛んで、結び目のずるりと下った、扱帯の浅葱は冷たそうに、提灯の明を引いて、寂しく婦の姿を庇う。それがせめてもの思遣りに見えたけれども、それさえ、そうした度の過ぎた酒と色に血の荒びた、神経のとげとげした、狼の手で掴出された、青光のする腸のように見えて、あわれに無慚な光景だっけ。」
「……へい、そうですかね、」と云った男衆の声は、なぜか腑に落ちぬらしく聞えたのである。
「聞きゃ、道成寺を舞った時、腹巻の下へ蛇を緊めた姉さんだと云うじゃないか。……その扱帯が鎌首を擡げりゃ可かったのにさ。」
「まったくですよ。それがために、貴方ね、舞の師匠から、その道成寺、葵の上などという執着の深いものは、立方禁制と言渡されて、破門だけは免れたッて、奥行きのある婦ですが……金子の力で、旦那にゃ自由にならないじゃなりますまいよ。」
「気の毒だね。」
「とおっしゃると、筋も骨も抜けたように聞えますけれど、その癖、随分、したい三昧、我儘を、するのを、旦那の方で制し切れないッて、評判をしますがね。」
「金子でその我ままをさせてもらうだけに、また旦那にも桟敷で帯を解かれるような我儘をされるんです。身体を売って栄耀栄華さ、それが浅ましいと云うんじゃないか。」
「ですがね、」
と男衆は、雪駄ちゃらちゃら、で、日南の横顔、小首を捻って、
「我儘も品によりまさ。金剛石や黄金鎖なら妾の身じゃ、我儘という申立てにもなりませんがね。
自動車のプウプウも血の道に触るか何かで、ある時なんざ、奴の日傘で、青葉時に、それ女大名の信長公でさ。鳴かずんば鳴かして見しょう、日中に時鳥を聞くんだ、という触込みで、天王寺へ練込みましたさ、貴方。
幇間が先へ廻って、あの五重の塔の天辺へ上って、わなわな震えながら雲雀笛をピイ、はどうです。
そんな我儘より、もっと偉いのは、しかもその日だって云うんですがね。
御堂横から蓮の池へ廻る広場、大銀杏の根方に筵を敷いて、すととん、すととん、と太鼓を敲いて、猿を踊らしていた小僧を、御寮人お珊の方、扇子を半開か何かで、こう反身で見ると、(可愛らしいぼんちやな。)で、俳優の誰とかに肖てるッて御意の上……(私は人の妾やよって、えらい相違もないやろけれど、畜生に世話になるより、ちっとは優や。旦那に頼んで出世させて上げる、来なはれ、)と直ぐに貴方。
その場から連れて戻って、否応なしに、旦を説付けて、たちまち大店の手代分。大道稼ぎの猿廻しを、縞もの揃いにきちんと取立てたなんぞはいかがで。私は膝を突つく腕に、ちっとは実があると思うんですが。」
初阪はこれを聞くと、様子が違って、
「さあ、事だよ! すると、昨夜のはその猿廻しだ。」
十
「いや、黒服の狂犬は、まだ妾の膝枕で、ふんぞり返って高鼾。それさえ見てはいられないのに、……その手代に違いない。……当時の久松といったのが、前垂がけで、何か急用と見えて、逢いに来てからの狼藉が、まったく目に余ったんだ。
悪口吐くのに、(猿曳め、)と云ったが、それで分った。けずり廻しとか、摺古木とか、獣めとかいう事だろう。大阪では(猿曳)と怒鳴るのかと思ったが。じゃ、そのお珊の方が取立てた、銀杏の下の芸人に疑いない。
となると!……あの、婦はなお済まないぜ。
自分の世話をした若手代が、目の前で、額を煙管で打たれるのを、もじもじと見ていたろうじゃないか。」
「煙管で、へい?……」
「ああ、垂々と血が出た。それをどうにもし得ないんだ。じゃ、天王寺の境内で、猿曳を拾上げたって何の功にもなりゃしない。
まあね、……旦那は寝たろう。取巻きの芸妓一統、互にほっとしたらしい。が、私に言わせりゃその徒だって働きがないじゃないか。何のための取巻なんです。ここは腕があると、取仕切って、御寮人に楽をさせる処さね。その柔かい膝に、友染も露出になるまで、石頭の拷問に掛けて、芝居で泣いていては済みそうもないんだが。
可しさ、それも。
と、そこへ、酒肴、水菓子を添えて運んで来た。するとね、円髷に結った仲居らしいのが、世話をして、御連中、いずれもお一ツずつは、いい気なもんです。
さすがに、御寮人は、頭をちょっと振って受けなかった。
それにも構わず……(さあ一ツ。)か何かで、美濃から近江、こちらの桟敷に溢れてる大きなお臀を、隣から手を伸して猪口の縁でコトコトと音信れると、片手で簪を撮んで、ごしごしと鬢の毛を突掻き突掻き、ぐしゃりと挫げたように仕切に凭れて、乗出して舞台を見い見い、片手を背後へ伸ばして、猪口を引傾けたまま受ける、注ぐ、それ、溢す。(わややな、)と云う。
そいつが、私の胸の前で、手と手を千鳥がけに始ったんだから驚くだろう。御免も失礼も、会釈一つするんじゃない。
しかし憎くはなかったぜ。君の親方が舞台に出ていて、皆が夢中で遣る事なんだ。
憎いのは一人狂犬さ。
やっと静まったと思う間もない。
(酒か、)と喚くと、むくむくと起かかって、引担ぐような肱の上へ、妾の膝で頭を載せた。
(注げ! 馬鹿めが、)と猪口を叱って、茶碗で、苦い顔して、がぶがぶと掻喫う処へ、……色の白い、ちと纎弱い、と云った柄さ。中脊の若いのが、縞の羽織で、廊下をちょこちょこと来て、ト手をちゃんと支いた。
(何や、)と一ツ突慳貪に云って睨みつけたが、低声で、若いのが何か口上を云うのを、フーフーと鼻で呼吸をしながら、目を瞑って、真仰向けに聞いたもんです。
(旦那の、)旦那と云うんだ。(旦那のここに居るのがどないして知れた、何や、)とまた怒鳴って、(判然ぬかしおれ。何や? 番頭が……ふ、ふ、ふ、ふん、)と嘲けるような、あの、凄い笑顔。やがて、苦々しそうに、そして切なそうに、眉を顰めて、唇を引結ぶと、グウグウとまた鼾を掻出す。
いや、しばらく起きない。
若手代は、膝へ手を支いたなり、中腰でね、こう困ったらしく俯向いたッきり。女連は、芝居に身が入って言も掛けず。
その中に幕が閉った。
満場わッと鳴って、ぎっしり詰ったのが、真黒に両方の廊下へ溢れる。
しばらくして、大分鎮まった時だった。幕あきに間もなさそうで、急足になる往来の中を、また竹の扉からひょいと出たのは、娘を世話した男衆でね。手に弁当を一つ持っていました。
(はいよ、お弁当、)と云って、娘に差出して、渡そうとしたっけが……」
十一
「そこに私も居る、……知らぬ間に肥満女の込入ったのと、振向いた娘の顔とを等分に見較べて(和女、極が悪いやろ。そしたら私が方へ来て食りなはるか。ああ、そうしなはれ、)と莞爾々々笑う、気の可い男さ。(太いお邪魔にござります。)と、屈んで私に挨拶して、一人で合点して弁当を持ったまま、ずいと引退った。
娘がね、仕切に手を支くと、向直って、抜いた花簪を載せている、涙に濡れた、細り畳んだ手拭を置いた、友染の前垂れの膝を浮かして、ちょっと考えるようにしたっけ。その手拭を軽く持って、上気した襟のあたりを二つ三つ煽ぎながら、可愛い足袋で、腰を据えて、すっと出て行く。……
私は煙草がなくなったから、背後の運動場へ買いに出た。
余り見かねたから、背後向きになっていたがね、出しなに見ると、狂犬はそのまま膝枕で、例の鼾で、若い手代はどこへ立ったか居なかった。
西の運動場には、店が一つしかない。もう幕が開く処、見物は残らず場所へ坐直している、ここらは大阪は行儀が可いよ。それに、大人で、身の入った芝居ほど、運動場は寂しいもんです。
風は冷し、呼吸ぬきかたがた、買った敷島をそこで吸附けて、喫かしながら、堅い薄縁の板の上を、足袋の裏冷々と、快い心持で辷らして、懐手で、一人で桟敷へ帰って来ると、斜違に薄暗い便所が見えます。
そのね、手水鉢の前に、大な影法師見るように、脚榻に腰を掛けて、綿の厚い寝ン寝子で踞ってるのが、何だっけ、君が云った、その伝五郎。」
「ぼけましたよ、ええ、裟婆気な駕籠屋でした。」
「まったくだね、股引の裾をぐい、と端折った処は豪勢だが、下腹がこけて、どんつくの圧に打たれて、猫背にへたへたと滅入込んで、臍から頤が生えたようです。
十四五枚も、堆く懐に畳んで持った手拭は、汚れてはおらないが、その風だから手拭きに出してくれるのが、鼻紙の配分をするようさね、潰れた古無尽の帳面の亡者にそっくり。
一度、前幕のはじめに行って、手を洗った時、そう思った。
小さな銀貨を一個握らせると、両手で、頭の上へ押頂いて、(沢山に難有、難有、難有、)と懐中へ頤を突込んで礼をするのが、何となく、ものの可哀が身に染みた。
その爺さんがね、見ると……その時、角兵衛という風で、頭を動かす……坐睡りか、と思うと悶いたんだ。仰向けに反って、両手の握拳で、肩を敲こうとするが、ひッつるばかりで手が動かぬ。
うん、と云う。
や、老人の早打肩。危いと思った時、幕あきの鳴ものが、チャンと入って、下座の三味線が、ト手首を口へ取って、湿をくれたのが、ちらりと見える。
どこか、もの蔭から、はらはらと走って出たのはその娘で。
突然、爺様の背中へ掴まると、手水鉢の傍に、南天の実の撓々と、霜に伏さった冷い緋鹿子、真白な小腕で、どんつくの肩をたたくじゃないか。
青苔の緑青がぶくぶく禿げた、湿った貼の香のぷんとする、山の書割の立て掛けてある暗い処へ凭懸って、ああ、さすがにここも都だ、としきりに可懐く熟と視た。
そこへ、手水鉢へ来て、手を洗ったのが、若い手代──君が云う、その美少年の猿廻。」
十二
「急いで手拭を懐中へ突込むと、若手代はそこいらしきりに前後を眗した、……私は書割の山の陰に潜んでいたろう。
誰も居ないと見定めると、直ぐに、娘をわきへ推遣って、手代が自分で、爺様の肩を敲き出した。
二人はいい中で居るらしい、一目見て様子で知れる、」
「ほう、」
と唐突に声を揚げて、男衆は小溝を一つ向うへ跳んだ。初阪は小さな石橋を渡った時。
「私は旅行をした効があると思った。
声は届かないけれども、趣でよく分る。……両手を働かせながら、若手代は、顔で教えて、ここは可い、自分が介抱するから、あっちへ行って芝居を見るように、と勧めるんです。娘が肯かないのを、優しく叱るらしく見えると、あいあいと頷く風でね、老年を勦る男の深切を、嬉しそうに、二三度見返りながら、娘はいそいそと桟敷へ帰る。その竹の扉を出る時、ちょっと襟を合せましたよ。
私も帰った。
間もなく、何、さしたる事でもなかったろう。すぐに肩癖は解れた、と見えて、若い人は、隣の桟敷際へ戻って来て、廊下へ支膝、以前のごとし。……
真中へ挟った私を御覧。美しい絹糸で、身体中かがられる、何だか擽い気持に胸が緊って、妙に窮屈な事といったらない。
狂犬がむっくり、鼻息を吹直した。
(柿があるか、剥けやい、)と涎で滑々した口を切って、絹も膚にくい込もう、長い間枕した、妾の膝で、真赤な目を睜くと、手代をじろり、さも軽蔑したように見て、(何しとる? 汝ゃ!)と口汚く、まず怒鳴った。
(何じゃ、返事を待った、間抜け。勘定欲い、と取りに来た金子なら、払うてやるは知れた事や。何吐す。……三百や五百の金。うんも、すんもあるものかい、鼻かんで敲きつけろ、と番頭にそう吐かせ。)
(はい、)と、手を支く。
(さっさと去ね、こない場所へのこのこと面出しおって、何さらす、去ねやい。)
(はい、)とそれでも用ずみ。前垂の下で手を揉みながら、手代が立って、五足ばかり行きかかると、
(多一、多一、)と呼んだ。若い人は、多一と云うんだ。
(待てい、)と云う。はっと引返して、また手を支くと、婦の膝をはらばいに乗出して、(何じゃな、向うから金子くれい、と使が来て店で待つじゃな。人寄越いたら催促やい。誰や思う、丸官、)と云ったように覚えている。……」
「ええ、丸田官蔵、船場の大金持です。」
「そうかね、(丸官は催促されて金子出いた覚えはない。へへん、)と云って、取巻の芸妓徒の顔をずらりと見渡すと、例の凄いので嘲笑って、軍鶏が蹴つけるように、ポンと起きたが、(寄越せ、)で、一人剥いていた柿を引手繰る、と仕切に肱を立てて、頤を、新高に居るどこかの島田髷の上に突出して、丸噛りに、ぼりぼりと喰かきながら、(留めちまえ、)と舞台へ喚く。
御寮人は、ぞろりと褄を引合せる。多一は、その袖の蔭に、踞っていたんだね。
するとね、くいほじった柿の核を、ぴょいぴょいと桟敷中へ吐散らして、あはは、あはは、と面相の崩れるばかり、大口を開いて笑ったっけ。
(鉄砲打て、戦争押始めろ。大砲でも放さんかい、陰気な芝居や、馬鹿、)と云うと、また急に、険しい、苦い、尖った顔をして、じろりと多一を睨みつけた。
(何しとる、うむ、)と押潰すように云います。
(それでは、番頭さんに、その通り申聞けますでございます、)とまた立って、多一が歩行き出すと(こら!)と呼んで呼び留めた。
(丁稚々々、)と今度は云うのさ。」
聞く男衆は歎息した。
「難物ですなあ。」
十三
「それからの狂犬が、条理違いの難題といっちゃ、聞いていられなかったぜ。
(汝ゃ、はいはいで、用を済まいた顔色で、人間並に桟敷裏を足ばかりで立って行くが、帰ったら番頭に何と言うて返事さらすんや。何や! 払うな、と俺が吩咐けたからその通り申します、と申しますが、呆れるわい、これ、払うべき金子を払わいで、主人の一分が立つと思うか。(五百円や三百円、)と大な声して、(端金子、)で、底力を入れて塗りつけるように声を密めて……(な、端金子を、ああもこうもあるものかい。俺が払うな、と言うたかて払え。さっさと一束にして突付けろ。帰れ! 大白痴、その位な事が分らんか。)
で、また追立てて、立掛ける、とまたしても、(待ちおれ。)だ。
(分ったか、何、分った、偉い! 出来す、)と云ってね、ふふん、と例の厭な笑方をして、それ、直ぐに芸妓連の顔をぎょろり。
(分ったら言うてみい、帰って何と返事をする、饒舌れ。一応は聞いておく。丸官後学のために承りたい、ふん、)と鼻を仰向けに耳を多一に突附けて、そこにありあわせた、御寮人の黄金煙管を握って、立続けに、ふかふか吹かす。
(判然言え、判然、ちゃんと口上をもって吐かせ。うん、番頭に、番頭に、番頭に、何だ、金子を払え?……黙れ! 沙汰過ぎた青二才、)と可恐い顔になった。(誰が?)と吠えるような声で、(誰が払えと言った。誰が、これ、五百円は大金だぞ!
丸官、たかを聞いてさえぶるぶるする。これ、この通り震えるわい。)で、胴肩を一つに揺り上げて、(大胆ものめが、土性骨の太い奴や。主人のものだとたかを括って、大金を何の糟とも思いくさらん、乞食を忘れたか。)
と言う。
目に涙を一杯ためて、(御免下さいまし、)と、退って廊下へ手を支くと、(あやまるに及ばん、よく、考えて、何と計らうべきか、そこへくい附いて分別して返答せい。……石になるまで、汝ゃ動くな。)とまた柿を引手繰って、かツかツと喰いかきながら、(止めちまえ、馬鹿、)と舞台へ怒鳴る。
(旦那様、旦那様、)多一が震声で呼んだと思え。
(早いな、汝がような下根な奴には、三年かかろうと思うた分別が、立処は偉い。俺を呼ぶからには工夫が着いたな。まず、褒美を遣る。そりゃ頂け、)と柿の蔕を、色白な多一の頬へたたきつけた。
(もし、御寮人様、)と熟と顔を見て、(どうしましたら宜しいのでございましょう、)と縋るようにして言ったか言わぬに、(猿曳め、汝ゃ、婦に、……畜生、)と喚くが疾いか、伸掛って、ピシリと雁首で額を打ったよ。羅宇が真中から折れた。
こちらの桟敷に居た娘が、誰より先に、ハッと仕切へ顔を伏せる、と気を打たれたか、驚いた顔をして、新高の、ちょうど下に居た一人商人風の男が、中腰に立って上を見た。
芸妓達も一時に振向いて目を合せた、が、それだけさ。多一が圧えた手の指から、たらたらと糸すじのように血の流れるのを見たばかり、どうにも手のつけようがなさそうな容子には弱ったね。おまけに知らない振をして、そのまま芝居を見る姉さんがあるじゃないか。
私は、ふいと立って、部屋へ帰った。
傍に居ちゃ、もうこっちが撮出されるまでも、横面一ツ打挫がなくッては、新橋へ帰られまい。が、私が取組合った、となると、随分舞台から飛んで来かねない友だちが一人居るんだからね。
頭痛がする、と楽屋へ横になったッきり、あとの事は知りません。道頓堀で、別に半鐘を打たなかったから、あれなり、ぐしゃぐしゃと消えたんだろう。
その婦だ、呆れたぐうたらだと思ったが、」
「もし、もし、」
と男衆が、初阪の袖を、ぐい、と引いた。
十四
歩行くともなく話しながらも、男の足は早かった。と見ると、二人から十四五間、真直に見渡す。──狭いが、群集の夥しい町筋を、斜めに奴を連れて帰る──二個、前後にすっと並んだ薄色の洋傘は、大輪の芙蓉の太陽を浴びて、冷たく輝くがごとくに見えた。
水打った地に、裳の綾の影も射す、色は四辺を払ったのである。
「やあ、居る……」
と、思わず初阪が声を立てる、ト両側を詰めた屋ごとの店、累り合って露店もあり。軒にも、路にも、透間のない人立したが、いずれも言合せたように、その後姿を見送っていたらしいから、一見赤毛布のその風采で、慌しく(居る、)と云えば、件の婦に吃驚した事は、往来の人の、近間なのには残らず分った。
意気な案内者大に弱って、
「驚いては不可ません。天満の青物市です。……それ、真正面に、御鳥居を御覧なさい。」
はじめて心付くと、先刻視めた城に対して、稜威は高し、宮居の屋根。雲に連なる甍の棟は、玉を刻んだ峰である。
向って鳥居から町一筋、朝市の済んだあと、日蔽の葭簀を払った、両側の組柱は、鉄橋の木賃に似て、男も婦も、折から市人の服装は皆黒いのに、一ツ鮮麗に行く美人の姿のために、さながら、市松障子の屋台した、菊の花壇のごとくに見えた。
「音に聞いた天満の市へ、突然入ったから驚いたんです。」
「そうでしょう。」
擦違った人は、初阪の顔を見て皆笑を含む。
両人は苦笑した。
「ほっこり、暖い、暖い。」
蒸芋の湯気の中に、紺の鯉口した女房が、ぬっくりと立って呼ぶ。
「おでんや、おでん!」
「饂飩あがんなはらんか、饂飩。」
「煎餅買いなはれ、買いなはれ。」
鮨の香気が芬として、あるが中に、硝子戸越の紅は、住吉の浦の鯛、淡路島の蝦であろう。市場の人の紺足袋に、はらはらと散った青い菜は、皆天王寺の蕪と見た。……頬被したお百姓、空籠荷うて行違う。
軒より高い競売もある。
傘さした飴屋の前で、奥深い白木の階に、二人まず、帽子を手に取った時であった。──前途へ、今大鳥居を潜るよと見た、見る目も彩な、お珊の姿が、それまでは、よわよわと気病の床を小春日和に、庭下駄がけで、我が別荘の背戸へ出たよう、扱帯で褄取らぬばかりに、日の本の東西にただ二つの市の中を、徐々と拾ったのが、たちまち電のごとく、颯と、照々とある円柱に影を残して、鳥居際から衝と左へ切れた。
が、目にも留まらぬばかり、掻消すがごとくに見えなくなった。
高く競売屋が居る、古いが、黒くがっしりした屋根越の其方の空、一点の雲もなく、冴えた水色の隈なき中に、浅葱や、樺や、朱や、青や、色づき初めた銀杏の梢に、風の戦ぐ、と視めたのは、皆見世ものの立幟。
太鼓に、鉦に、ひしひしと、打寄する跫音の、遠巻きめいて、遥に淀川にも響くと聞きしは、誓文払いに出盛る人数。お珊も暮るれば練るという、宝の市の夜をかけた、大阪中の賑いである。
十五
「御覧なさい、これが亀の池です。」
と云う、男衆の目は、──ここに人を渡すために架けたと云うより、築山の景色に刻んだような、天満宮の境内を左へ入って、池を渡る橋の上で──池は視ないで、向う岸へ外れた。
階を昇って跪いた時、言い知らぬ神霊に、引緊った身の、拍手も堅く附着たのが、このところまで退出て、やっと掌の開くを覚えながら、岸に、そのお珊の彳んだのを見たのであった。
麩でも投げたか、奴と二人で、同じ状に洋傘を傾けて、熟と池の面を見入っている。
初阪は、不思議な物語に伝える類の、同じ百里の旅人である。天満の橋を渡る時、ふとどこともなく立顕れた、世にも凄いまで美しい婦の手から、一通玉章を秘めた文箱を託って来て、ここなる池で、かつて暗示された、別な美人が受取りに出たような気がしてならぬ。
しかもそれは、途中互にもの言うにさえ、声の疲れた……激しい人の波を泳いで来た、殷賑、心斎橋、高麗橋と相並ぶ、天満の町筋を徹してであるにもかかわらず、説き難き一種寂寞の感が身に迫った。参詣群集、隙間のない、宮、社の、フトした空地は、こうした水ある処に、思いかけぬ寂しさを、日中は分けて見る事がおりおりある。
ちょうど池の辺には、この時、他に人影も見えなかった。……
橋の上に小児を連れた乳母が居たが、此方から連立って、二人が行掛った機会に、
「さあ、のの様の方へ行こか。」と云って、手を引いて、宮の方へ徐々帰った。その状が、人間界へ立帰るごとくに見えた。
池は小さくて、武蔵野の埴生の小屋が今あらば、その潦ばかりだけれども、深翠に萌黄を累ねた、水の古さに藻が暗く、取廻わした石垣も、草は枯れつつ苔滑。牡丹を彫らぬ欄干も、巌を削った趣がある。あまつさえ、水底に主が棲む……その逸するのを封ずるために、雲に結えて鉄の網を張り詰めたように、百千の細な影が、漣立って、ふらふらと数知れず、薄黒く池の中に浮いたのは、亀の池の名に負える、水に充満た亀なのであった。
枯蓮もばらばらと、折れた茎に、トただ一つ留ったのは、硫黄ヶ島の赤蜻蛉。
鯡鯉の背は飜々と、お珊の裳の影に靡く。
居たのは、つい、橋の其方であった。
半襟は、黒に、蘆の穂が幽に白い、紺地によりがらみの細い格子、お召縮緬の一枚小袖、ついわざとらしいまで、不断着で出たらしい。コオトも着ない、羽織の色が、派手に、渋く、そして際立って、ぱっと目についた。
髪の艶も、色の白さも、そのために一際目立つ、──糸織か、一楽らしいくすんだ中に、晃々と冴えがある、きっぱりした地の藍鼠に、小豆色と茶と紺と、すらすらと色の通った縞の乱立。
蒼空の澄んだのに、水の色が袖に迫って、藍は青に、小豆は紅に、茶は萌黄に、紺は紫の隈を染めて、明い中に影さすばかり。帯も長襦袢もこれに消えて、山深き処、年古る池に、ただその、すらりと雪を束ねたのに、霧ながら木の葉に綾なす、虹を取って、細く滑かに美しく、肩に掛けて背に捌き、腰に流したようである。汀は水を取廻わして、冷い若木の薄もみじ。
光線は白かった。
十六
その艶なのが、女の童を従えた風で、奴と彳む。……汀に寄って……流木めいた板が一枚、ぶくぶくと浮いて、苔塗れに生簀の蓋のように見えるのがあった。日は水を劃って、その板の上ばかり、たとえば温かさを積重ねた心持にふわふわ当る。
それへ、ほかほかと甲を干した、木の葉に交って青銭の散った状して、大小の亀は十ウ二十、磧の石の数々居た。中には軽石のごときが交って。──
いずれ一度は擒となって、供養にとて放された、が狭い池で、昔売買をされたという黒奴の男女を思出させる。島、海、沢、藪をかけた集り勢、これほどの数が込合ったら、月には波立ち、暗夜には潜んで、ひそひそと身の上話がはじまろう。
故郷なる、何を見るやら、向は違っても一つ一つ、首を据えて目を睜る。が、人も、もの言わず、活ものがこれだけ居て余りの静かさ。どれかが幽に、えへん、と咳払をしそうで寂しい。
一頭、ぬっと、ざらざらな首を伸ばして、長く反って、汀を仰いだのがあった。心は、初阪等二人と斉しく、絹糸の虹を視めたに違いない。
「気味の悪いもんですね、よく見るといかにも頭つきが似ていますぜ。」
男衆は両手を池の上へ出しながら、橋の欄干に凭れて低声で云う。あえて忍音には及ばぬ事を。けれども、……ここで云うのは、直に話すほど、間近な人に皆聞える。
「まったく、魚じゃ鯔の面色が瓜二つだよ。」
その何に似ているかは言わずとも知れよう。
「ああああ、板の下から潜出して、一つ水の中から顕れたのがあります。大分大きゅうがすせ。」
成程、たらたらと漆のような腹を正的に、甲に濡色の薄紅をさしたのが、仰向けに鰓を此方へ、むっくりとして、そして頭の尖に黄色く輪取った、その目が凸にくるりと見えて、鱗のざらめく蒼味がかった手を、ト板の縁へ突張って、水から半分ぬい、と出た。
「大将、甲羅干しに板へ出る気だ。それ乗ります。」
と男衆の云った時、爪が外れて、ストンと落ちた。
が、直ぐにすぼりと胸を浮かす。
「今度は乗るぜ。」
やがて、甲羅を、残らず藻の上へ水から離して踏張った。が、力足らず、乗出した勢が余って、取外ずすと、ずんと沈む。
「や、不可い。」
たちまち猛然としてまた浮いた。
で、のしり、のしりと板へ手をかけ、見るも不器用に、堅い体を伸上げる。
「しっかりしっかり、今度は大丈夫。あ、また辷った。大事な処で。」と男衆は胸を乗出す。
汀のお珊は、褄をすらりと足をちょいと踏替えた。奴島田は、洋傘を畳んで支いて、直ぐ目の下を、前髪に手庇して覗込む。
この度は、場処を替えようとするらしい。
斜に甲羅を、板に添って、手を掛けながら、するすると泳ぐ。これが、棹で操るがごとくになって、夥多の可心持に乾いた亀の子を、カラカラと載せたままで、水をゆらゆらと流れて辷った。が、熟として嚔したもの一つない。
板の一方は細いのである。
そこへ、手を伸ばすと、腹へ抱込めそうに見えた。
いや、困った事は、重量に圧されて、板が引傾いたために、だふん、と潜る。
「ほい、しまった。いや、串戯じゃない。しっかり頼むぜ。」
と、男衆は欄干をトントン叩く。
あせる、と見えて、むらむらと紋が騒ぐ、と月影ばかり藻が分れて、端を探り探り手が掛った。と思うと、ずぼりと出る。
「蛙だと青柳硯と云うんです。」
「まったくさ。」
十七
けれども、その時もし遂げなかった。
「ああ、惜い。」
男衆も共に、ただ一息と思う処で、亀の、どぶりと沈むごとに、思わず声を掛けて、手のものを落す心地で。
「執念深いもんですね。」
「あれ迄にしたんだ、揚げてやりたい。が、もう弱ったかな。」
と言う間もなかった。
この時は、手の鱗も逆立つまで、しゃっきりと、爪を大きく開ける、と甲の揺ぐばかり力が入って、その手を扁平く板について、白く乾いた小さな亀の背に掛けた。
「ははあ、考えた。」
「あいつを力に取って伸上るんです、や、や、どッこい。やれ情ない。」
ざぶりと他愛なく、またもや沈む。
男衆が時計を視た。
「もう二時半です、これから中の島を廻るんですから、徐々帰りましょう。」
「しかし、何だか、揚るのを見ないじゃ気が残るようだね。」
「え、私も気になりますがね、だって、日が暮れるまで掛るかも知れませんから。」
「妙に残惜いようだよ。」
男衆は、汀の婦にちょいと目を遣って、密と片頬笑して声を潜めた。
「串戯じゃありませんぜ。ね、それ、何だか薄りと美しい五色の霧が、冷々と掛るようです。……変に凄いようですぜ。亀が昇天するのかも知れません。板に上ると、その機会に、黒雲を捲起して、震動雷電……」
「さあ、出掛けよう。」
二人は肩を寒くして、コトコトと橋の中央から取って返す。
やがて、渡果てようとした時である。
「ちょっと、ちょっと。」
と背後から、優いが張のある、朗かな、そして幅のある声して呼んだ。何等の仔細なしには済むまいと思った半日。それそれ、言わぬ事か、それ言わぬ事か。
袖を合せて、前後に、ト斉しく振返ると、洋傘は畳んで、それは奴に持たした。縺毛一条もない黒髪は、取って捌いたかと思うばかり、痩ぎすな、透通るような頬を包んで、正面に顔を合せた、襟はさぞ、雪なす咽喉が細かった。
「手前どもで、」と男衆は如才ない会釈をする。
奴は黙って、片手をその膝のあたりへ下げた。
「そうどす。」と判然云って莞爾する、瞼に薄く色が染まって、類なき紅葉の中の俤である。
「一遍お待ちやす……思を遂げんと気がかりなよって、見ていておくれやす。私が手伝うさかいな。」
猶予いあえず、バチンと蓮の果の飛ぶ音が響いた。お珊は帯留の黄金金具、緑の照々と輝く玉を、烏羽玉の夜の帯から星を手に取るよ、と自魚の指に外ずして、見得もなく、友染を柔な膝なりに、腰をなよなよと汀に低く居て──あたかも腹を空に突張ってにょいと上げた、藻を押分けた──亀の手に、縋れよ、引かむ、とすらりと投げた。
帯留は、銀の曇ったような打紐と見えた。
その尖は水に潜って、亀の子は、ばくりと紐を噛む、ト袖口を軽く袂を絞った、小腕白く雪を伸べた。が、重量がかかるか、引く手に幽に脈を打つ。その二の腕、顔、襟、頸、膚に白い処は云うまでもない、袖、褄の、艶に色めく姿、爪尖まで、──さながら、細い黒髪の毛筋をもって、線を引いて、描き取った姿絵のようであった。
十八
池の面は、蒼く、お珊の唇のあたりに影を籠めた。
風少し吹添って、城ある乾の天暗く、天満宮の屋の棟が淀り曇った。いずこともなく、はたはたと帆を打つ響きは、幟の声、町には黄なる煙が走ろう、数万人の形を掠めて。……この水のある空ばかり、雲に硝子を嵌めたるごとく、美女の虹の姿は、姿見の中に映るかと、五色の絹を透通して、色を染めた木の葉は淡く、松の影が颯と濃い。
打紐にまた脈を打って、紫の血が通うばかり、時に、腕の色ながら、しろじろと鱗が光って、その友染に搦んだなりに懐中から一条の蛇の蜿り出た、思いかけず、ものの凄じい形になった。
「あ、」
と云う声して、手を放すと、蛇の目輝く緑の玉は、光を消して、亀の口に銜えたまま、するするする、と水脚を引いてそのまま底に沈んだのである。
奴はじりじりと後に退った。
お珊は汀にすっくと立った。が、血が留って、俤は瑪瑙の白さを削ったのであった。
この婦が、一念懸けて、すると云うに、誰が何を妨げ得よう。
日も待たず、その翌の日の夕暮時、宝の市へ練出す前に、──丸官が昨夜芝居で振舞った、酒の上の暴虐の負債を果させるため、とあって、──南新地の浪屋の奥二階。金屏風を引繞らした、四海波静に青畳の八畳で、お珊自分に、雌蝶雄蝶の長柄を取って、橘活けた床の間の正面に、美少年の多一と、さて、名はお美津と云う、逢阪の辻、餅屋の娘を、二人並べて据えたのである。
晴の装束は、お珊が金子に飽かして間に合わせた、宝の市の衣裳であった。
まず上席のお美津を謂おう。髪は結いたての水の垂るるような、十六七が潰し島田。前髪をふっくり取って、両端へはらりと分けた、遠山の眉にかかる柳の糸の振分は、大阪に呼んで(いたずら)とか。緋縮緬のかけおろし。橘に実を抱かせた笄を両方に、雲井の薫をたきしめた、烏帽子、狩衣。朱総の紐は、お珊が手にこそ引結うたれ。着つけは桃に薄霞、朱鷺色絹に白い裏、膚の雪の紅の襲に透くよう媚かしく、白の紗の、その狩衣を装い澄まして、黒繻子の帯、箱文庫。
含羞む瞼を染めて、玉の項を差俯向く、ト見ると、雛鶴一羽、松の羽衣掻取って、曙の雲の上なる、宴に召さるる風情がある。
同じ烏帽子、紫の紐を深く、袖を並べて面伏そうな、多一は浅葱紗の素袍着て、白衣の袖を粛ましやかに、膝に両手を差置いた。
前なるお美津は、小鼓に八雲琴、六人ずつが両側に、ハオ、イヤ、と拍子を取って、金蒔絵に銀鋲打った欄干づき、輻も漆の車屋台に、前囃子とて楽を奏する、その十二人と同じ風俗。
後囃子が、また幕打った高い屋台に、これは男の稚児ばかり、すり鉦に太鼓を合わせて、同じく揃う十二人と、多一は同じ装束である。
二人を前に、銚子を控えて、人交ぜもしなかった……その時お珊の装は、また立勝って目覚しや。
十九
宝の市の屋台に付いて、市女また姫とも称うる十二人の美女が練る。……
練衣小袿の紅の袴、とばかりでは言足らぬ。ただその上下を装束くにも、支度の夜は丑満頃より、女紅場に顔を揃えて一人々々沐浴をするが、雪の膚も、白脛も、その湯は一人ずつ紅を流し、白粉を汲替える。髪を洗い、櫛を入れ、丈より長く解捌いて、緑の雫すらすらと、香枕の香に霞むを待てば、鶏の声しばしば聞えて、元結に染む霜の鐘の音。血る潔く清き身に、唐衣を着け、袴を穿くと、しらしらと早や旭の影が、霧を破って色を映す。
さて住吉の朝ぼらけ、白妙の松の樹の間を、静々と詣で進む、路の裳を、皐月御殿、市の式殿にはじめて解いて、市の姫は十二人。袴を十二長く引く。……
その市の姫十二人、御殿の正面に揖して出づれば、神官、威儀正しく彼処にあり。土器の神酒、結び昆布。やがて檜扇を授けらる。これを受けて、席に帰って、緋や、萌黄や、金銀の縫箔光を放って、板戸も松の絵の影に、雲白く梢を繞る松林に日の射す中に、一列に並居る時、巫子するすると立出でて、美女の面一人ごとに、式の白粉を施し、紅をさし、墨もて黛を描く、と聞く。
素顔の雪に化粧して、皓歯に紅を濃く含み、神々しく気高いまで、お珊はここに、黛さえほんのりと描いている。が、女紅場の沐浴に、美しき膚を衆に抽き、解き揃えた黒髪は、夥間の丈を圧えたけれども、一人渠は、住吉の式に連る事をしなかった。
間際に人が欠けては事が済まぬ。
世話人一同、袴腰を捻返して狼狽えたが、お珊が思うままな金子の力で、身代りの婦が急に立った。
で、これのみ巫女の手を借りぬ、容色も南地第一人。袴の色の緋よりも冴えた、笹紅の口許に美しく微笑んだ。
「多一さん、美津さん、ちょっと、どないな気がおしやす。」
唐織衣に思いもよらぬ、生地の芸妓で、心易げに、島台を前に、声を掛ける。
素袍の紗に透通る、燈の影に浅葱とて、月夜に色の白いよう、多一は照らされた面色だった。
「なあ?」とお珊が聞返す、胸を薄く数を襲ねた、雪の深い襲ねの襟に、檜扇を取って挿していた。
「御寮人様。」
と手を下げて、
「何も、何も、私は申されませぬ。あの、ただ夢のようにござります。」とやっと云って、烏帽子を正しく、はじめて上げた、女のような優しい眉の、右を残して斜めに巻いたは、笞の疵に、無慚な繃帯。
お珊は黒目がちに、熟と睜って、
「ほんに、そう云うたら夢やな。」
と清らかな襖のあたり、座敷を衝と眗した。
ト柱、襖、その金屏風に、人の影が残らず映った。
映って、そして、緋に、紫に、朱鷺色に、二人の烏帽子、素袍、狩衣、彩あるままに色の影。ことにお珊の黒髪が、一条長く、横雲掛けて見えたのである。
二十
時に、間を隔てた、同じ浪屋の表二階に並んだ座敷は、残らず丸官が借り占めて、同じ宗右衛門町に軒を揃えた、両側の揚屋と斉しく、毛氈を聯ねた中に、やがて時刻に、ここを出て、一まず女紅場で列を整え、先立ちの露払い、十人の稚児が通り、前囃子の屋台を挟んで、そこに、十二人の姫が続く。第五番に、檜扇取って練る約束の、我がお珊の、市随一の曠の姿を見ようため、芸妓、幇間をずらりと並べて、宵からここに座を構えた。
が、その座敷もまだ寂寞して、時々、階子段、廊下などに、遠い跫音、近く床しき衣摺の音のみ聞ゆる。
お珊は袖を開き、居直って、
「まあな、ほんに夢のようにあろな。私かて、夢かと思う。」
と、﨟丈けた黛、恍惚と、多一の顔を瞻りながら、
「けど、何の、何の夢やおへん。たとい夢やかて。……丸官はんの方もな、私が身に替えて、承知させた……三々九度やさかい、ああした我ままな、好勝手な、朝云うた事は晩に変えやはる人やけど、こればかりは、私が附いているよって、承合うて、どないしたかて夢にはせぬ。……あんじょう思うておくんなはれや。
美津さん、」
と娘の前髪に、瞳を返して、
「不思議な御縁やな。ほほ、」
手を口許に翳したが、
「こう云うたかて、多一さんと貴女とは、前世から約束したほど、深い交情でおいでる様子。今更ではあるまいけれど、私とは不思議な御縁やな。
思うてみれば、一昨日の夜さり、中の芝居で見たまでは天王寺の常楽会にも、天神様の御縁日にも、ついぞ出会うた事もなかったな。
一見でこうなった。
貴女な、ようこそ、芝居の裏で、お爺はんの肩摺って上げなはった。多一さんも人目忍んで、貴女の孝行手伝わはった。……自分介抱するよって、一条なと、可愛い可愛い女房はんに、沢山芝居を見せたい心や。またな、その心を汲取って、鶉へ嬉々お帰りやした、貴女の優しい、仇気ない、可愛らしさも身に染みて。……
私はな、丸官はんに、軋々と……四角な天窓乗せられて、鶉の仕切も拷問の柱とやら、膝も骨も砕けるほど、辛い苦しい堪え難い、石を抱く責苦に逢うような中でも、身節も弛んで、恍惚するまで視めていた。あの………扉の、お仕置場らしい青竹の矢来の向うに……貴女等の光景をば。──
悪事は虎の千里走る、好い事は、花の香ほども外へは漏れぬ言うけれど、貴女二人は孝行の徳、恋の功、恩愛の報だすせ。誰も知るまい、私一人、よう知った。
逢阪に店がある、餅屋の評判のお娘さん、御両親は、どちらも行方知れずなった、その借銭やら何やらで、苦労しなはる、あのお爺さんの孫や事まで、人に聞いて知ったよって、ふとな、彼やこれや談合しよう気になったも、私ばかりの心やない。
天満の天神様へ行た、その帰途に、つい虚気々々と、もう黄昏やいう時を、寄ってみたい気になって、貴女の餅屋へ土産買う振りで入ったら、」
と微笑みながら、二人を前に。
「多一さんが、使の間をちょっと逢いに寄って、町並灯の点された中に、その店だけは灯もつけぬ、暗いに島田が黒かったえ。そのな、繃帯が白う見えた。」
二十一
小指を外らして指の輪を、我目の前へ、……お珊はそれが縁を結ぶ禁厭であるようにした。
「密々、話していやはったな。……そこへ、私が行合わせたも、この杯の瑞祥だすぜ。
ここで夫婦にならはったら、直ぐにな、別に店を出してもらうなり、世帯持ってそこから本店へ通うなり、あの、お爺はんと、三人、あんじょ暮らして行かはるように、私がちゃと引受けた。弟、妹の分にして、丸官はんに否は言わせぬ。よって、安心おしやすや。え、嬉しいやろ。美津さんが、あの、嬉しそうなえ。
どうや、九太夫はん。」
と云った、お珊は、密と声を立てて、打解けた笑顔になった。
多一は素袍の浅葱を濃く、袖を緊めて、またその顔を、はッと伏せる。
「ほほほほ多一さん、貴下、そうむつかしゅうせずと、胡坐組む気で、杯しなはれ。私かて、丸官はんの傍に居るのやない、この一月は籍のある、富田屋の以前の芸妓、そのつもりで酌をするのえ。
仮祝言や、儀式も作法も預かるよってな。後にまたあらためて、歴然とした媒妁人立てる。その媒妁人やったら、この席でこないな串戯は言えやへん。
そない極らずといておくれやす。なあ、九太夫はん。」
「御寮人様。」
と片手を畳へ、
「私はもう何も存じません、胸一杯で、ものも申されぬようにござります。が、その九太夫は情のうござります。」
と、術なき中にも、ものの嬉しそうな笑を含んだ。
「そうやかて、貴方、一昨日の暮方、餅屋の土間に、……そないして、話していなはった処へ、私が、ト行た……姿を見ると、腰掛框の縁の下へ、慌てもうて、潜って隠れやはったやないかいな。」
言う──それは事実であった。──
「はい、唯今でこそ申します、御寮人様がまたお意地の悪い。その框へ腰をお掛けなされまして、盆にあんころ餅寄越せ、茶を持てと、この美津に御意ござります。
その上、入る穴はなし、貴女様の召しものの薫が、魔薬とやらを嗅ぎますようで、気が遠くなりました。
その辛さより、犬になってのこのこと、下屋を這出しました時が、なお術のうござりましてござります。」
「ほほほ可厭な、この人は。……最初はな、内証で情婦に逢やはるより何の余所の人でないものを、私の姿を見て隠れやはった心の裡が、水臭いようにあって、口惜いと思うたけれど、な、……手を支いて詫言やはる……その時に、門のとまりに、ちょんと乗って、むぐむぐ柿を頬張っていた、あの、大な猿が、土間へ跳下りて、貴下と一所に、頭を土へ附けたのには、つい、おろおろと涙が出たえ。
柿は、貴下の土産やったそうに聞くな。
天王寺の境内で、以前舞わしてやった、あの猿。どないなった問うた時、ちと知縁のものがあって、その方へ、とばかり言うて、預けた先方を話しなはらん、住吉辺の田舎へなと思うたら、大切な許に居るやもの。
おお、それなりで、貴方たちを、私が方へ、無理に連れもうて来てしもうたが、うっかりしたな、お爺はんは、今夜は私の市女笠持って附いてもらうよって、それも留守。あの、猿はどうしたやろな。」
「はい、」
と娘が引取った、我が身の姿と、この場の光景、踊のさらいに台辞を云うよう、細く透る、が声震えて、
「お爺さんが留守の時も、あの、戸を閉めた中に居て、ような、いつも留守してくれますのえ。」
二十二
「飼主とは申しましても、かえって私の方が養われました、あの、猿でさえ、……」
多一は片手に胸を圧えて、
「御寮人様は申すまでもござりません、大道からお拾い下さりました。……また旦那様の目を盗みまして、私は実に、畜生にも劣りました、……」
「何や……怪我に貴方は何やかて、美津さんは天人や、その人の夫やもの。まあ、二人して装束をお見やす、雛を並べたようやないか。
けどな、多一さん、貴下な、九太夫やったり、そのな、額の疵で、床下から出やはった処は仁木どすせ。沢山忠義な家来ではどちらやかてなさそうな。」
と軽口に、奥もなく云うて退けたが、ほんのりと潤みのある、瞼に淡く影が映した。
「ああ、わやく云う事やない。……貴方、その疵、ほんとにもう疼痛はないか。こないした嬉しさに、ずきずきしたかて忘らりょう。けど、疵は刻んで消えまいな。私が傍に居たものを。美津さんの大事な男に、怪我させて済まなんだな。
そやけど、美津さん、怨みにばかり、思いやすな。何百人か人目の前で、打擲されて、熟と堪えていやはったも、辛抱しとげて、貴女と一所に、添遂げたいばかりなんえ。そしたら、男の心中の極印打ったも同じ事、喜んだかて可いのどす。」
お美津は堪えず、目に袖を当てようとした。が、朱鷺色衣に裏白きは、神の前なる薄紅梅、涙に濡らすは勿体ない。緋縮緬を手に搦む、襦袢は席の乱れとて、強いて堪えた頬の靨に、前髪の艶しとしとと。
お珊は眦を多一に返して、
「な、多一さんもそうだすやろな。」
「はい!」と聞返すようにする。
「丸官はんに、柿の核吹かけられたり、口車に綱つけて廊下を引摺廻されたり、羅宇のポッキリ折れたまで、そないに打擲されやして、死身になって堪えなはったも、誰にした辛抱でもない、皆、美津さんのためやろな。」
「…………」
「なあ、貴方、」
「…………」
「ええ、多一さん、新枕の初言葉と、私もここでちゃんと聞く。……女子は女子同士やよって、美津さんの味方して、私が聞きたい。貴方はそうはなかろうけど、男は浮気な……」
と見る、月がぱっちりと輝いた。多一は俯向いて見なかった。
「……ものやさかい、美津さんの後の手券に、貴方の心を取っておく。ああまで堪えやした辛抱は、皆女子へ、」
「ええ、」
「あの、美津さんへの心中だてかえ。」
多一はハッと畳に手を……その素袍、指貫に、刀なき腰は寂しいものであった。
「御寮人様、御推量を願いとうござります。誓文それに相違ござりません。」
お美津の両手も、鶴の白羽の狩衣に、玉を揃えて、前髪摺れに支いていた、簪の橘薫りもする。
「おお……嬉し……」
と胸を張って、思わず、つい云う。声の綾に、我を忘れて、道成寺の一条の真紅の糸が、鮮麗に織込まれた。
それは禁制の錦であった。
ふと心付いた状して、動悸を鎮めるげに、襟なる檜扇の端をしっかと圧えて、ト後を見て、襖にすらり靡いた、その下げ髪の丈を視めた。
お珊の姿は陰々とした。
二十三
夫婦が二人、その若い顔を上げた時、お珊は何気なき面色した。
「ほんになあ、くどいようなが多一さん、よう辛抱しやはった。中の芝居で、あの事がなかったら、幾ら私が無理云うたかて、丸官はんにこの祝言を承知さす事はようせんもの。……そりゃな、夫婦にはならはったかて、立行くように世帯が出来んとならんやないか。
通い勤めなり、別に資本出すなりと、丸官はんに、応、言わせたも、皆、貴方が、美津さんのために堪えなはった、心中立一つやな。十年七年の奉公を一度に済ましなはったも同じ事。
額の疵は、その烏帽子に、金剛石を飾ったような光が映す……おお、天晴なお婿はん。
さあ、お嫁はん、お酌しょうな。」
と軽く云ったが、艶麗に、しかも威儀ある座を正して、
「お盞。」
で、長柄の銚子に手を添えた。
朱塗の蒔絵の三組は、浪に夕日の影を重ねて、蓬莱の島の松の葉越に、いかにせし、鶴は狩衣の袖をすくめて、その盞を取ろうとせぬ。
「さ、お受けや。」
と、お珊が二度ばかり勧めたけれども、騒立つらしい胸の響きに、烏帽子の総の揺るるのみ。美津は遣瀬なげに手を控える。
ト熟と視て、
「おお、まだ年の行かぬ、嬰児はんや。多一はんと、酒事しやはった覚えがないな。貴女盞を先へ取るのを遠慮やないか。三々九度は、嫁はんが初手に受けるが法やけれど、別に儀式だった祝言やないよって、どうなと構わん。
そやったら多一さん、貴方先へお受けやす。」
「はい、」と斉しく逡巡する。
「どうしやはったえ。」
「御寮人様、一生に一度の事でござります。とてもの事に、ものが逆になりませんよう、やっぱり美津から……」
とちょっと目を合せた。
「女から、お盞を頂かして下さりまし。」
「そやかて、含羞でいて取んなはらん。……何や、貴方がた、おかしなえ。」
ふと気色ばんだお珊の状に、座が寂として白けた時、表座敷に、テンテン、と二ツ三ツ、音じめの音が響いたのである。
二人は黙って差俯向く。……
お珊は、するりと膝を寄せた。屹として、
「早うおしや! 邪魔が入るとならんよって、私も直きに女紅場へ行かんとならんえ。……な、あの、酌人が不足なかい。」
二人は、せわしげに瞳を合して、しきりに目でものを云っていた。
「もし、」
と多一が急いた声で、
「御寮人様、この上になお罰が当ります。不足やなんの、さような事がありまして可いものでござりますか。御免下さりまし、申しましょう。貴女様、その召しました、両方のお袂の中が動きます。……美津は、あの、それが可恐いのでござります。」と判然云った。
と、頤を檜扇に、白小袖の底を透して、
「これか、」
と投げたように言いながら、衝と、両手を中へ、袂を探って、肩をふらりと、なよなよとその唐織の袖を垂れたが、品を崩して、お手玉持つよ、と若々しい、仇気ない風があった。
「何や、この二条の蛇が可恐い云うて?……両方とも、言合わせたように、貴方二人が、自分たちで、心願掛けたものどっせ。
餅屋の店で逢うた時、多一さん、貴方はこの袋一つ持っていた。な、買うて来るついではあって、一夜祈はあげたけれど、用の間が忙しゅうて、夜さり高津の蛇穴へ放しに行く隙がない、頼まれて欲い──云うて、美津さんに託きょう、とそれが用で顔見に行かはった云うたやないか。」
二十四
「美津さんもまた、日が暮れたら、高津へ行て放す心やった云うて、自分でも一筋。同じ袋に入ったのが、二ツ、ちょんと、あの、猿の留木の下に揃えてあって、──その時、私に打明けて二人して言やはったは、つい一昨日の晩方や。
それもこれも、貴方がた、芝居の事があってから、あんな奉公早う罷めて、すぐにも夫婦になれるようにと、身体は両方別れていて、言合せはせぬけれど、同じ日、同じ時に、同じ祈を掛けやはる。……
蛇も二筋落合うた。
案の定、その場から、思いが叶うた、お二人さん。
あすこのな、蛇屋に蛇は多けれど、貴方がたのこの二条ほど、験のあったは外にはないやろ。私かて、親はなし、稚い時から勤をした、辛い事、悲しい事、口惜しい事、恋しい事、」
と懐手のまま、目を睜って、
「死にたいほどの事もある。……何々の思が遂げたいよって、貴方二人に類似りたさに、同じ蛇を預った。今少し、身に附けていたいよって、こうしておいておくれやす。
貴方、結ぶの神やないか。
けどな、思い詰めては、自分の手でも持ったもの。一度、願が叶うた上では、人の袂にあるのさえ、美津さん、婦は、蛇は、可厭らしな!
よう貴女、これを持つまで、多一さんを思やはった、婦同士や、察せいでか。──袂にあったら、粗相して落すとならん。憂慮なやろさかい、私がこうするよって、大事ないえ。」
と袖の中にて手を引けば、内懐の乳のあたり、浪打つように膨らみたり。
「婦の急所で圧えておく。……乳銜えられて、私が死のうと、盞の影も覗かせぬ。さ、美津さん、まず、お前に。」
お珊は長柄をちょうと取る。
美津は盞を震えて受けた。
手の震えで滴々と露散るごとき酒の雫、蛇の色ならずや、酌参るお珊の手を掛けて燈の影ながら、青白き艶が映ったのである。
はたはたとお珊が手を拍くと、かねて心得さしてあったろう。廊下の障子の開く音して、すらすらと足袋摺に、一間を過ぎて、また静にこの襖を開けて、
「お召し、」
とそこへ手を支いた、裾模様の振袖は、島田の丈長、舞妓にあらず、家から斉眉いて来ている奴であった。
「可いかい。」
「はい。」と言いさま、はらはらと小走りに、もとの廊下へ一度出て、その中庭を角にした、向うの襖をすらりと開けると、閨紅に、翠の夜具。枕頭にまた一人、同じ姿の奴が居る。
お珊が黙って、此方から差覗いて立ったのは、竜田姫の彳んで、霜葉の錦の谿深く、夕映えたるを望める光景。居たのが立って、入ったのと、奴二人の、同じ八尺対扮装。紫の袖、白襟が、紫の袖、白襟が。
袖口燃ゆる緋縮緬、ひらりと折目に手を掛けて、きりきりと左右へ廻して、枕を蔽う六枚屏風、表に描いたも、錦葉なるべし、裏に白銀の水が走る。
「あちらへ。」
お珊が二人を導いた時、とかくして座を立った、美津が狩衣の袴の裾は、膝を露顕な素足なるに、恐ろしい深山路の霜を踏んで、あやしき神の犠牲に行く……なぜか畳は辿々しく、ものあわれに見えたのである。奴二人は姿を隠した。
二十五
屏風を隔てて、この紅の袴した媒人は、花やかに笑ったのである。
一人を褥の上に据えて、お珊がやがて、一人を、そのあとから閨へ送ると、前のが、屏風の片端から、烏帽子のなりで、するりと抜ける。
下髪であとを追って、手を取って、枕頭から送込むと、そこに据えたのが、すっと立って、裾から屏風を抜けて出る。トすぐに続いて、縋って抱くばかりにして、送込むと、おさえておいたのが、はらはら出る。
素袍、狩衣、唐衣、綾と錦の影を交えて、風ある状に、裾袂、追いつ追われつ、ひらひらと立舞う風情に閨を繞った。巫山の雲に桟懸れば、名もなき恋の淵あらむ。左、橘、右、桜、衣の模様の色香を浮かして、水は巴に渦を巻く。
「おほほほほ、」
呼吸も絶ゆげな、なえたような美津の背を、屏風の外で抱えた時、お珊は、その花やかな笑を聞かしたのである。
好き機会とや思いけん。
廊下に跫音、ばたばたと早く刻んで、羽織袴の、宝の市の世話人一人、真先に、すっすっすっと来る、当浪屋の女房さん、仲居まじりに、奴が続いて、迎いの人数。
口々に、
「御寮人様。」
「お珊様。」
「女紅場では、屋台の組も乗込みました。」
「貴女ばかりを待兼ねてござります。」
襖の中から、
「車は?」
と静に云う。
「綱も申し着けました、」と世話人が答えたのである。
「待たせはせぬえ、大事な処へ、何や!」
と声が凜とした。
黙って、すたすた、一同は廊下を引く。
とばかりあって、襖をあけた時、今度は美津が閨に隠れて、枕も、袖も見えなんだ。
多一が屏風の外に居て、床の柱の、釣籠の、白玉椿の葉の艶より、ぼんやりとした素袍で立った。
襖がくれの半身で、廊下の後前を熟と視て、人の影もなかった途端に、振返ると、引寄せた。お珊の腕が頸にかかると、倒れるように、ハタと膝を支いた、多一の唇に、俯向きざまに、衝と。──
丸官の座敷を、表に視めて、左右に開いたに立寄りもせず、階子段を颯と下りる、とたちまち門へ姿が出た。
軒を離れて、俥に乗る時、欄干に立った、丸官、と顔を上下に合すや否や、矢を射るような二人曳。あれよ、あれよと云うばかり、廓の灯に影を散らした、群集はぱっと道を分けた。
宝の市の見物は、これよりして早や宗右衛門町の両側に、人垣を築いて見送ったのである。
その年十月十九日、宝の市の最後の夜は、稚児、市女、順々に、後圧えの消防夫が、篝火赤き女紅場の庭を離れる時から、屋台の囃子、姫たちなど、傍目も触らぬ婦たちは、さもないが、真先に神輿を荷うた白丁はじめ、立傘、市女笠持ちの人足など、頻りに気にしては空を視めた。
通り筋の、屋根に、廂に、しばしば鴉が鳴いたのである。
次第に数が増すと、まざまざと、薄月の曇った空に、嘴も翼も見えて、やがては、練ものの上を飛交わす。
列が道頓堀に小休みをした時は、立並ぶ芝居の中の見物さえ、頻りに鴉鳴を聞いた、と後で云う。……
二十六
「宗八、宗八。」
浪屋の表座敷、床の間の正面に、丸田官蔵、この成金、何の好みか、例なる詰襟の紺の洋服、高胡坐、座にある幇間を大音に呼ぶ。
「はッ、」
「き様、逢阪のあんころ餅へ、使者に、後押で駈着けて、今帰った処じゃな。」
「御意にござります、へい。」
「何か、直ぐに連れてここへ来る手筈じゃった、猿は、留木から落ちて縁の下へ半分身体を突込んで、斃死ていたげに云う……嘘でないな。」
「実説正銘にござりまして、へい。餅屋店では、爺の伝五めに、今夜、貴方様、お珊の方様、」
と額を敲いて、
「すなわち、御寮人様、市へお練出しのお供を、お好とあって承ります。……さてまた、名代娘のお美津さんは、御夫婦これに──ええ、すなわち逢阪の辻店は、戸を寄せ掛けた明巣にござります。
処へ宗八、丸官閣下お使者といたし、車を一散に乗着けまして、隣家の豆屋の女房立会い、戸を押開いて見ましたれば、いや、はや、何とも悪食がないたいた様子、お望みの猿は血を吐いて斃ち果てておりましたに毛頭相違ござりません。」
「うむ。」
と苦切って頷きながら、
「多一、あれを聞いたかい、その通りや。」と、ぐっと見下ろす。
一座の末に、うら若い新夫婦は、平伏していたのである。
これより先、余り御無体、お待ちや、などと、慌しい婦まじりの声の中に、丸官の形、猛然と躍上って、廊下を鳴らして魔のごとく、二人の閏へ押寄せた。
襖をどんと突明けると、床の間の白玉椿、怪しき明星のごとき別天地に、こは思いも掛けず、二人の姿は、綾の帳にも蔽われず、指貫やなど、烏帽子の紐も解かないで、屏風の外に、美津は多一の膝に俯し、多一は美津の背に額を附けて、五人囃子の雛二個、袖を合せたようであった。
揃って、胸先がキヤキヤと痛むと云う。
「酒啖え、意気地なし!」
で、有無を言わせず、表二階へ引出された。
欄干の緋の毛氈は似たりしが、今夜は額を破るのでない。
「練ものを待つ内、退屈じゃ。多一やい、皆への馳走に猿を舞わいて見せてくれ。恥辱ではない。汝ゃ、丁稚から飛上って、今夜から、大阪の旦那の一人。旧を忘れぬためという……取立てた主人の訓戒と思え。
呼べ、と言えば、婦どもが愚図々々吐す。新枕は長鳴鶏の夜があけるまでは待かねる。
主従は三世の中じゃ、遠慮なしに閨へ推参に及んだ、悪く思うまいな。汝ゃ、天王寺境内に太鼓たたいていて、ちょこんと猿負背で、小屋へ帰りがけに、太夫どのに餅買うて、汝も食いおった、行帰りから、その娘は馴染じゃげな。足洗うて、丁稚になるとて、右の猿は餅屋へ預けて、現に猿ヶ餅と云うこと、ここに居る婦どもが知った中。
田畝の鼠が、蝙蝠になった、その素袍ひらつかいたかて、今更隠すには当らぬやて。
かえって卑怯じゃ。
遣ってくれい。
が、聞く通り、ちゃと早手廻しに使者を立てた、宗八が帰っての口上、あの通り。
残念な、猿太夫は斃ちたとあるわい。
唄なと歌え、形なと見せおれ。
何吐す、」
と、とりなしを云った二三人の年増の芸妓を睨廻いて、
「やい、多一!」
二十七
「致します、致します。」
と呼吸を切って、
「皆さん御免なさりまし。」
多一はすっと衣紋を扱いた。
浅葱の素袍、侍烏帽子が、丸官と向う正面。芸妓、舞妓は左右に開く。
その時、膝に手を支いて、
「……ま猿めでとうのう仕る、踊るが手許立廻り、肩に小腰をゆすり合せ、静やかに舞うたりけり……」
声を張った、扇拍子、畳を軽く拍ちながら、「筑紫下りの西国船、艫に八挺、舳に八挺、十六挺の櫓櫂を立てて……」
「やんややんや。ああ惜い、太夫が居らぬ。千代鶴やい、猿になれ。一若、立たぬか、立たぬか、此奴。ええ! 婆どもでまけてやろう、古猿になれ、此奴等……立たぬな、おのれ。」
と立身上りに、盞を取って投げると、杯洗の縁にカチリと砕けて、颯と欠らが四辺に散った。
色めき白ける燈に、一重瞼の目を清しく、美津は伏せたる面を上げた。
「ああ、皆さん、私が猿を舞いまっせ。旦那さん、男のためどす。畜生になってな、私が天王寺の銀杏の下で、トントン踊って、養うよってな。世帯せいでも大事ない、もう貴下、多一さんを虐めんとおくれやす。
ちゃと隙もろうて去ぬよって、多一さん、さあ、唄いいな、続いて、」
と、襟の扇子を衝と抜いて、すらすらと座へ立った。江戸は紫、京は紅、雪の狩衣被けながら、下萌ゆる血の、うら若草、萌黄は難波の色である。
丸官は掌を握った。
多一の声は凜々として、
「しもにんにんの宝の中に──火取る玉、水取る玉……イヤア、」
と一つ掛けた声が、たちまち切なそうに掠れた時よ。
(ハオ、イヤア、ハオ、イヤア、)霜夜を且つちる錦葉の音かと、虚空に響いた鼓の掛声。
(コンコンチキチン、コンチキチン、コンチキチン、カラ、タッポッポ)摺鉦入れた後囃子が、遥に交って聞えたは、先駆すでに町を渡って、前囃子の間近な気勢。
が、座を乱すものは一人もなかった。
「船の中には何とお寝るぞ、苫を敷寝に、苫を敷寝に楫枕、楫枕。」
玉を伸べたる脛もめげず、ツト美津は、畳に投げて手枕した。
その時は、別に変った様子もなかった。
多一が次第に、歯も軋むか、と声を絞って、
「葉越しの葉越しの月の影、松の葉越の月見れば、しばし曇りてまた冴ゆる、しばし曇りてまた冴ゆる、しばし曇りてまた冴ゆる……」
ト袖を捲いて、扇子を翳し、胸を反らして熟と仰いだ、美津の瞳は氷れるごとく、瞬もせず睜ると斉しく、笑靨に颯と影がさして、爪立つ足が震えたと思うと、唇をゆがめた皓歯に、莟のような血を噛んだが、烏帽子の紐の乱れかかって、胸に千条の鮮血。
「あ、」
と一声して、ばったり倒れる。人目も振も、しどろになって背に縋った。多一の片手の掌も、我が唇を圧余って、血汐は指を溢れ落ちた。
一座わっと立騒ぐ。階子へ遁げて落ちたのさえある。
引仰向けてしっかと抱き、
「美津さん!……二、二人は毒害された、お珊、お珊、御寮人、お珊め、婦!」
二十八
「床几、」
と、前後の屋台の間に、市女の姫の第五人目で、お珊が朗かな声を掛けた。背後に二人、朱の台傘を廂より高々と地摺の黒髪にさしかけたのは、白丁扮装の駕寵人足。並んで、萌黄紗に朱の総結んだ、市女笠を捧げて従ったのは、特にお珊が望んだという、お美津の爺の伝五郎。
印半纏、股引、腹掛けの若いものが、さし心得て、露じとりの地に据えた床几に、お珊は真先に腰を掛けた。が、これは我儘ではない。練ものは、揃って、宗右衛門町のここに休むのが習であった。
屋台の前なる稚児をはじめ、間をものの二間ばかりずつ、真直に取って、十二人が十二の衣、色を勝った南地の芸妓が、揃って、一人ずつ皆床几に掛かる。
台傘の朱は、総二階一面軒ごとの緋の毛氈に、色映交わして、千本植えたる桜の梢、廊の空に咲かかる。白の狩衣、紅梅小袖、灯の影にちらちらと、囃子の舞妓、芸妓など、霧に揺据って、小鼓、八雲琴の調を休むと、後囃子なる素袍の稚児が、浅葱桜を織交ぜて、すり鉦、太鼓の音も憩う。動揺渡る見物は、大河の水を堰いたよう、見渡す限り列のある間、──一尺ごとに百目蝋燭、裸火を煽らし立てた、黒塗に台附の柵の堤を築いて、両方へ押分けたれば、練もののみが静まり返って、人形のように美しく且つ凄い。
ただその中を、福草履ひたひたと地を刻んで、袴の裾を忙しそう。二人三人、世話人が、列の柵摺れに往きつ還りつ、時々顔を合わせて、二人囁く、直ぐに別れてまた一人、別な世話人とちょっと出遇う。中に一人落しものをしたように、うろうろと、市女たちの足許を覗いて歩行くものもあって、大な蟻の働振、さも事ありげに見えるばかりか、傘さしかけた白丁どもも、三人ならず、五人ならず、眉を顰め口を開けて空を見た。
その空は、暗く濁って、ところどころ朱の色を交えて曇った。中を一条、列を切って、どこからともなく白気が渡って、細々と長く、遥に城ある方に靡く。これを、あたりの湯屋の煙、また、遠い煙筒の煙が、風の死したる大阪の空を、あらん限り縫うとも言った。
宵には風があった。それは冷たかったけれども、小春凪の日の余残に、薄月さえ朧々と底の暖いと思ったが、道頓堀で小休みして、やがて太左衛門橋を練込む頃から、真暗になったのである。
鴉は次第に数を増した。のみならず、白気の怪みもあるせいか、誰云うとなく、今夜十二人の市女の中に、姫の数が一人多い。すべて十三人あると言交わす。
世話人徒が、妙に気にして、それとなく、一人々々数えてみると、なるほど一人姫が多い。誰も彼も多いと云う。
念のために、他所見ながら顔を覗いて、名を銘々に心に留めると、決して姫が殖えたのではない。定の通り十二人。で、また見渡すと十三人。
……式の最初、住吉詣の東雲に、女紅場で支度はしたが、急にお珊が気が変って、社へ参らぬ、と言ったために一人俄拵えに数を殖やした。が、それは伊丹幸の政巳と云って、お珊が稚い時から可愛がった妹分。その女は、と探ってみると、現に丸官に呼ばれて、浪屋の表座敷に居ると云うから、その身代りが交ったというのでもないのに。……
それさえ尋常ならず、とひしめく処に、搗てて加えて易からぬは、世話人の一人が見附けた──屋台が道頓堀を越す頃から、橋へかけて、列の中に、たらたら、たらたらと一雫ずつ、血が落ちていると云うのである。
二十九
一人多い、その姫の影は朧でも、血のしたたりは現に見て、誰が目にも正しく留った。
灯の影に地を探って、穏ならず、うそうそ捜ものをして歩行くのは、その血のあとを辿るのであろう。
消防夫にも、駕籠屋にも、あえて怪我をしたらしいのはない。婦たちにも様子は見えぬ。もっとも、南地第一の大事な市の列に立てば、些細な疵なら、弱い舞妓も我慢して秘して退けよう。
が、市に取っては、上もなき可忌しさで。
世話人は皆激しく顰んだ。
知らずや人々。お珊は既に、襟に秘し持った縫針で、裏を透して、左の手首の動脈を刺し貫いていたのである。
ただ、初から不思議な血のあとを拾って、列を縫って検べて行くと、静々と揃って練る時から、お珊の袴の影で留ったのを人を知った。
ここに休んでから、それとなく、五人目の姫の顔を差覗くものもあった。けれども端然としていた。黛の他に玲瓏として顔に一点の雲もなかった。が、右手に捧げた橘に見入るのであろう、寂しく目を閉じていたと云う。
時に、途中ではさもなかった。ここに休む内に、怪しき気のこと、点滴る血の事、就中、姫の数の幻に一人多い事が、いつとなく、伝えられて、烈しく女どもの気を打った。
自然と、髪を垂れ、袖を合せて、床几なる姫は皆、斉しくお珊が臨終の姿と同じ、肩のさみしい風情となった。
血だらけだ、血だらけだ、血だらけの稚児だ──と叫ぶ──柵の外の群集の波を、鯱に追われて泳ぐがごとく、多一の顔が真蒼に顕れた。
「お呼びや、私をお知らせや。」
とお珊が云った。
伝五爺は、懐を大きく、仰天した皺嗄声を振絞って、
「多一か、多一はん──御寮人様はここじゃ。」と喚く。
早や柵の上を蹌踉めき越えて、虚空を掴んで探したのが、立直って、衝と寄った。
が、床几の前に、ぱったり倒れて、起直りざまの目の色は、口よりも血走った。
「ああ、待遠な、多一さん、」
と黒髪揺ぐ、吐息と共に、男の肩に手を掛けた。
「毒には加減をしたけれど、私が先へ死にそうでな、幾たび目をば瞑ったやろ。やっとここまで堪えたえ。も一度顔を、と思うよって……」
丸官の握拳が、時に、瓦の欠片のごとく、群集を打ちのめして掻分ける。
「傘でかくしておくれやす。や、」と云う。
台傘が颯と斜めになった。が、丸官の忿怒は遮り果てない。
靴足袋で青い足が、柵を踏んで乗ろうとするのを、一目見ると、懐中へ衝と手を入れて、両方へ振って、扱いて、投げた。既に袋を出ていた蛇は、二筋電のごとく光って飛んだ。
わ、と立騒ぐ群集の中へ、丸官の影は揉込まれた。一人渠のみならず、もの見高く、推掛った両側の千人は、一斉に動揺を立て、悲鳴を揚げて、泣く、叫ぶ。茶屋揚屋の軒に余って、土足の泥波を店へ哄と……津波の余残は太左衛門橋、戒橋、相生橋に溢れかかり、畳屋町、笠屋町、玉屋町を横筋に渦巻き落ちる。
見よ、見よ、鴉が蔽いかかって、人の目、頭に、嘴を鳴らすを。
お珊に詰寄る世話人は、また不思議にも、蛇が、蛇が、と遁惑うた。その数はただ二条ではない。
屋台から舞妓が一人倒に落ちた。そこに、めらめらと鎌首を立て、這いかかったためである。
それ、怪我人よ、人死よ、とそこもここも湧揚る。
お珊は、心静に多一を抱いた。
「よう、顔見せておくれやす。」
「口惜い。御寮人、」と、血を吐きながら頭を振る。
「貴方ばかり殺しはせん。これお見やす、」と忘れたように、血が涸れて、蒼白んで、早や動かし得ぬ指を離すと、刻んだように。しっかと持った、その脈を刺した手の橘の、鮮血に染まったのが、重く多一の膝に落ちた。
男はしばらく凝視めていた。
「口惜いは私こそ、……多一さん。女は世間に何にも出来ん。恋し、愛しい事だけには、立派に我ままして見しょう。
宝市のこの服装で、大阪中の人の見る前で、貴方の手を引いて……なあ、見事丸官を蹴て見しょう、と命をかけて思うたに。……先刻盞させる時も、押返して問うたもの、お珊、お前へ心中立や、と一言いうてくれはらぬ。
一昨日の芝居の難儀も、こうした内証があるよって、私のために、堪えやはった辛抱やったら、一生にたった一度の、嬉しい思いをしようもの、多一さん、貴下は二十。三つ上の姉で居て、何でこうまで迷うたやら、堪忍しておくれや。」
とて、はじめて、はらはらと落涙した。
絶入る耳に聞分けて、納得したか、一度は頷いたが、
「私は、私は、御寮人、生命が惜いと申しません。可哀気に、何で、何で、お美津を……」
と聞きも果さず……
「わあ、」と魂切る。
伝五爺の胸を圧えて、
「人が立騒いで邪魔したら、撒散かいて払い退きょうと、お前に預けた、金貨銀貨が、その懐中に沢山ある。不思議な事で、使わいで済んだよって、それもって、な、えらい不足なやろけれど、不足、不足なやろけれど、……ああ、術ない、もう身がなえて声も出ぬ。
お聞きやす、多一さん、美津さんは、一所に連れずと、一人活かいておきたかった。貴方と二人、人は交ぜず、死ぬのが私は本望なが、まだこの上、貴方にも美津さんにも、済まん事や思うたによってな。
違うたかえ、分ったかえ、冥土へ行てかて、二人をば並べておく、……遣瀬ない、私の身にもなってお見や。」
幽ながらに声は透る。
「多一さん、手を取って……手を取って……離さずと……──左のこの手の動く方は、義理やあの娘の手をば私が引く。……さあ、三人で行こうな。」
と床几を離れて、すっくと立つ。身動ぎに乱るる黒髪。髻ふつ、と真中から二岐に颯となる。半ばを多一に振掛けた、半ばを握って捌いたのを、翳すばかりに、浪屋の二階を指麾いた。
「おいでや、美津さんえ、……美津さんえ。」
練ものの列は疾く、ばらばらに糸が断れた。が、十一の姫ばかりは、さすが各目に名を恥じて、落ちたる市女笠、折れたる台傘、飛々に、背を潜め、顔を蔽い、膝を折敷きなどしながらも、嵐のごとく、中の島籠めた群集が叫喚の凄じき中に、紅の袴一人々々、点々として皆留まった。
と見ると、雲の黒き下に、次第に不知火の消え行く光景。行方も分かぬ三人に、遠く遠く前途を示す、それが光なき十一の緋の炎と見えた。
お珊は、幽に、目も遥々と、一人ずつ、その十一の燈を視た。
底本:「泉鏡花集成6」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年3月21日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第十四卷」岩波書店
1942(昭和17)年3月10日発行
※誤植の確認には底本の親本を参照しました。
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2006年11月2日作成
青空文庫作成ファイル:
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