白金之絵図
泉鏡花
|
一
片側は空も曇って、今にも一村雨来そうに見える、日中も薄暗い森続きに、畝り畝り遥々と黒い柵を繞らした火薬庫の裏通、寂しい処をとぼとぼと一人通る。
「はあ、これなればこそ可けれ、聞くも可恐しげな煙硝庫が、カラカラとして燥いで、日が当っては大事じゃ。」
と世に疎そうな独言。
大分日焼けのした顔色で、帽子を被らず、手拭を畳んで頭に載せ、半開きの白扇を額に翳した……一方雑樹交りに干潟のような広々とした畑がある。瓜は作らぬが近まわりに番小屋も見えず、稲が無ければ山田守る僧都もおわさぬ。
雲から投出したような遣放しの空地に、西へ廻った日の赤々と射す中に、大根の葉のかなたこなたに青々と伸びたを視めて、
「さて世はめでたい、豊年の秋じゃ、つまみ菜もこれ太根になったよ。」
と、一つ腰を伸して、杖がわりの繻子張の蝙蝠傘の柄に、何の禁厭やら烏瓜の真赤な実、藍、萌黄とも五つばかり、蔓ながらぶらりと提げて、コツンと支いて、面長で、人柄な、頤の細いのが、鼻の下をなお伸して、もう一息、兀の頂辺へ扇子を翳して、
「いや、見失ってはならぬぞ、あの、緑青色した鳶が目当じゃ。」
で、白足袋に穿込んだ日和下駄、コトコトと歩行き出す。
年齢六十に余る、鼠と黒の万筋の袷に黒の三ツ紋の羽織、折目はきちんと正しいが、色のやや褪せたを着、焦茶の織ものの帯を胴ぶくれに、懐大きく、腰下りに締めた、顔は瘠せた、が、目じしの落ちない、鼻筋の通ったお爺さん。
眼鏡はありませんか。緑青色の鳶だと言う、それは聖心女子院とか称うる女学校の屋根に立った避雷針の矢の根である。
もっとも鳥居数は潜っても、世智に長けてはいそうにない。
ここに廻って来る途中、三光坂を上った処で、こう云って路を尋ねた……
「率爾ながら、ちとものを、ちとものを。」
問われたのは、ふらんねるの茶色なのに、白縮緬の兵児帯を締めた髭の有る人だから、事が手軽に行かない。──但し大きな海軍帽を仰向けに被せた二歳ぐらいの男の児を載せた乳母車を曳いて、その坂路を横押に押してニタニタと笑いながら歩行いていたから、親子の情愛は御存じであろうけれども、他人に路を訊かれて喜んで教えるような江戸児ではない。
黙然で、眉と髭と、面中の威厳を緊張せしめる。
老人もう一倍腰を屈めて、
「えい、この辺に聖人と申す学校がござりまする筈で。」
「知らん。」と、苦い顔で極附けるように云った。
「はッ、これはこれは御無礼至極な儀を、実に御歩を留めました。」
がたがたと下りかかる大八車を、ひょいと避けて、挨拶に外した手拭も被らず、そのまま、とぼんと行く。頭の法体に対しても、余り冷淡だったのが気の毒になったのか。
「ああ聖心女学校ではないのかい、それなら有ッじゃね。」
「や、女子の学校?」
「そうですッ。そして聖人ではない、聖心、心ですが。」
「いかさま、そうもござりましょう。実はせんだって通掛りに見ました。聖、何とやらある故に、聖人と覚えました。いや、老人粗忽千万。」
と照れたようにその頭をびたり……といった爺様なのである。
二
その女学校の門を通過ぎた処に、以前は草鞋でも振ら下げて売ったろう。葭簀張ながら二坪ばかり囲を取った茶店が一張。片側に立樹の茂った空地の森を風情にして、如法の婆さんが煮ばなを商う。これは無くてはなるまい。あの、火薬庫を前途にして目黒へ通う赤い道は、かかる秋の日も見るからに暑くるしく、並木の松が欲しそうであるから。
老人は通りがかりにこれを見ると、きちんと畳んだ手拭で額の汗を拭きながら、端の方の床几に掛けた。
「御免なさいよ。」
「はいはい、結構なお日和でございます。」
「されば……じゃが、歩行くにはちと陽気過ぎますの。」
と今時、珍しいまで躾の可い扇子を抜く。
「いえ、御隠居様、こうして日蔭に居りましても汗が出ますでございますよ。何ぞ、シトロンかサイダアでもめしあがりますか。」と商売は馴れたもの。
「いやいや、老人の冷水とやら申す、馴れた口です。お茶を下され。」
「はいはい。」
ちと横幅の広い、元気らしい婆さん。とぼけた手拭、片襷で、古ぼけた塗盆へ、ぐいと一つ形容の拭巾をくれつつ、
「おや、坊ちゃん、お嬢様。」と言う。
十一二の編さげで、袖の長いのが、後について、七八ツのが森の下へ、兎と色鳥ひらりと入った。葭簀越に、老人はこれを透かして、
「ああ、その森の中は通抜けが出来ますかの。」
「これは、余所のお邸様の持地でございまして、はい、いいえ、小児衆は木の実を拾いに入りますのでございますよ。」
「出口に迷いはしませんかの、見受けた処、なかなかどうも、奥が深い。」
「もう口許だけでございます。で、ございますから、榎の実に団栗ぐらい拾いますので、ずっと中へ入りますれば、栗も椎もございますが、よくいたしたもので、そこまでは、可恐がって、お幼いのは、おいたが出来ないのでございます。」
「ははあいかにもの。」
と、飲んだ茶と一緒に、したたか感心して、
「これぞ、自然なる要害、樹の根の乱杭、枝葉の逆茂木とある……広大な空地じゃな。」
「隠居さん、一つお買いなすっちゃどうです。」
と唐突に云った。土方体の半纏着が一人、床几は奥にも空いたのに、婆さんの居る腰掛を小楯に踞んで、梨の皮を剥いていたのが、ぺろりと、白い横銜えに声を掛ける。
真顔に、熟と肩を細く、膝頭に手を置いて、
「滅相もない事を。老人若い時に覚えがあります。今とてもじゃ、足腰が丈夫ならば、飛脚なと致いて通ってみたい。ああ、それもならず……」
と思入ったらしく歎息したので、成程、服装とても秋日和の遊びと見えぬ。この老人の用ありそうな身過ぎのため、と見て取ると、半纏着は気を打って、悄気た顔をして、剥いて落した梨の皮をくるくると指に巻いて、つまらなく笑いながら、
「ははは、野原や、山路のような事を言ってなさらあ、ははは。」
「いやいや、まるで方角の知れぬ奥山へでも入ったようじゃ。昼日中提灯でも松明でも点けたらばと思う気がします。」
がっくりと俯向いて、
「頭ばかりは光れども……」
つるりと撫でた手、頸の窪。
「足許は暗じゃが、のう。」と悄れた肩して膝ばかり、きちんと正しい扇を笏。
と、思わず釣込まれたようになって、二人とも何かそこへ落ちたように、きょろきょろと土間を眗す。葭簀の屋根に二葉三葉。森の影は床几に迫って、雲の白い蒼空から、木の実が降って来たようであった。
三
半纏着は、急に日が蔭ったような足許から、目を上げて、兀げた老人の頭と、手に持った梨の実の白いのを見較べる。
婆さんが口を出して、
「御隠居様は御遠方でいらっしゃるのでございますか。」
「下谷じゃ。」
「そいつあ遠いや、電車でも御大抵じゃねえ。へい、そしてどちらへお越しになるんで。」
「いささかこの辺へ用事があっての。当年たった一度、極暑の砌参ったばかり、一向に覚束ない。その節通りがかりに見ました、大な学校を当にいたした処、唯今立寄って見れば門が違うた。」
腕を伸して、来た方を指すと共に、斉く扇子を膝に支いて身体ごと向直る……それにさえ一息して、
「それは表門でござった……坂も広い。私が覚えたのは、もそっと道が狭うて、急な上坂の中途の処、煉瓦塀が火のように赤う見えた。片側は一面な野の草で、蒸れの可恐い処でありましたよ。」
「それは裏門でございますよ。道理こそ、この森を抜けられまいか、とお尋ねなさった、お目当は違いませぬ。森の中から背面の大畠が抜けられますと道は近うございますけれども、空地でもそれが出来ませんので、これから、ずっと煙硝庫の黒塀について、上ったり、下ったり、大廻りをなさらなければなりませぬ。何でございますか、女学校に御用事はございませんか。それだと表門でも用は足りましょうでござりますよ。」と婆さんは一度掛けた腰掛をまた立って、森を覗いたり、通を視たり。
「いやいや、そこを目当に、別に尋ねます処があります。」
「ちゃんとわかっているんですかい、おいでなさる先方ってのは。こう寂しくって疎在でね、家の分りにくい処ですぜ。」と、煙草盆は有るものを、口許で燐寸を𤏋、と目を細うして仰向いて、半分消しておいた煙草をつける。
「余り確かでもないのでの。また家は分るにしてもじゃ。」
と扇子を倒すのと、片膝力なく叩くのと、打傾くのがほとんど一緒で、
「仔細なく当方の願が届くかどうかの、さて、」
と沈む……近頃見附けた縁類へ、無心合力にでも行きそうに聞えて、
「何せい、煙硝庫と聞いたばかりでも、清水が湧くようではない。ちと更まっては出たれども、また一つ山を越すのじゃ、御免を被る。一度羽織を脱いで参ろう。ああ、いやお婆さん、それには及ばぬ。」
紋着の羽織を脱いだのを、本畳みに、スーッスーッと襟を伸して、ひらりと焦茶の紐を捌いて、縺れたように手を控え、
「扮装ばかり凜々しいが、足許はやっぱり暗夜じゃの。」と裾も暗いように、また陰気。
半纏着は腕組して、
「まったく、足許が悪いんですかい、負って行く事もならねえしと……隠居さん、提灯でも上げてえようだ。」
「夜だとほんとうにお貸し申すんだがねえ。」
「どうですえ、その森ン中の暗い枝に、烏瓜ッてやつが点っていまさあ。真紅なのは提灯みたいだ。ねえ、持っておいでなさらねえか、何かの禁厭になろうも知れませんや。」
「はあ、烏瓜の提灯か。」
目を瞑って、
「それも一段の趣じゃが、まだ持って出たという験を聞かぬ。」と羽織を脱いでなお痩せた二の腕を扇子で擦る。
四
「凍傷の薬を売ってお歩行きなさりはしまいし、人。」
と婆さんは、老いたる客の真面目なのを気の毒らしく、半纏着の背中を立身で圧えて、
「可い加減な、前例にも禁厭にも、烏瓜の提灯だなんぞと云って、狐が点すようじゃないかね。」
「狐が点す……何。」
と顔を蔽うた皺を払って、雲の晴れた目を睜る、と水を切った光が添った。
「何、狐が点すか。面白い。」
扇子を颯と胸に開くと、懐中を広く身を正して、
「どれ、どこに……おお、あの葉がくれに点れて紅いわ。お職人、いい事を云って下さった。どれ一つぶら下げて参るとします。」
「ああ、隠居さん、気に入ったら私が引ちぎって持って来らあ。……串戯にゃ言ったからって、お年寄のために働くんだ。先祖代々、これにばかりは叱言を言うめえ、どっこい。」と立つ。
老人は肩を揉んで、頭を下げ、
「これは何ともお手を頂く。」
「何の、隠居さん、なあ、おっかあ、今日は父親の命日よ。」
と、葭簀を出る、と入違いに境界の柵の弛んだ鋼線を跨ぐ時、莨を勢よく、ポンと投げて、裏つきの破足袋、ずしッと草を踏んだ。
紅いその実は高かった。
音が、かさかさと此方に響いて、樹を抱いた半纏は、梨子を食った獣のごとく、向顱巻で葉を分ける。
「気を付きょうぞ。少い人、落ちまい……」と伸上る。
「大丈夫でございますよ。電信柱の突尖へ腰を掛ける人でございますからね。」
「むむ、侠勇じゃな……杖とも柱とも思うぞ、老人、その狐の提灯で道を照す……」
「可厭ではございませんかね、この真昼間。」
「そこが縁起じゃ、禁厭とも言うのじゃよ、金烏玉兎と聞くは──この赫々とした日輪の中には三脚の鴉が棲むと言うげな、日中の道を照す、老人が、暗い心の補助に、烏瓜の灯は天の与えと心得る。難有い。」と掌を額に翳す。
婆さんは希有な顔して、
「でも、狐火か何ぞのようで、薄気味が悪いようでございますね。」
「成程、……狐火、……それは耳より。ふん……かほどの森じゃ、狐も居ろうかの。」
「ええ、で、ございますのでね、……居りますよ。」
「見たか。」
「前には、それは見たこともございますとも。」
老人これを聞くと腰を入れて、
「ああ、たのもしい。」
「ええ……」
と退った、今のその……たのもしい老人の声の力に圧されたのである。
「さて、鳴くか。」
「へい?……」
「やはりその、」
と張肱になった呼吸を胸に、下腹を、ずん、と据えると、
「カーン! というて?」
どさりと樹から下りた音。瓜がぶらり、赤く宙に動いて、カラカラと森に響く。
婆さんの顔を見よ。
半纏着が飛んで帰って、同じくきょとつく目を合せた。
「驚いた……烏が一斉に飛びやあがった。何だい、今の、あの声は。……烏瓜を挘っただけで下りりゃ可いのに、何だかこう、樹の枝に、茸があったもんだから。」
五
「これ、これ、いやさ、これ。」
「はあ、お呼びなされたは私の事で。」
と、羽織の紐を、両手で結びながら答えたのは先刻の老人。一方青煉瓦の、それは女学校。片側波を打った亜鉛塀に、ボヘミヤ人の数珠のごとく、烏瓜を引掛けた、件の繻子張を凭せながら、畳んで懐中に入れていた、その羽織を引出して、今着直した処なのである。
また妙な処で御装束。
雷神山の急昇りな坂を上って、一畝り、町裏の路地の隅、およそ礫川の工廠ぐらいは空地を取って、周囲はまだも広かろう。町も世界も離れたような、一廓の蒼空に、老人がいわゆる緑青色の鳶の舞う聖心女学院、西暦を算して紀元幾千年めかに相当する時、その一部分が武蔵野の丘に開いた新開の町の一部分に接触するのは、ただここばかりかも知れぬ。外廓のその煉瓦と、角邸の亜鉛塀とが向合って、道の幅がぎしりと狭い。
さて、その青鳶も樹に留った体に、四階造の窓硝子の上から順々、日射に晃々と数えられて、仰ぐと避雷針が真上に見える。
この突当りの片隅が、学校の通用門で、それから、ものの半町程、両側の家邸。いずれも雑樹林や、畑を抱く。この荒地の、まばら垣と向合ったのが、火薬庫の長々とした塀になる。──人通りも何にも無い。地図の上へ鉛筆で楽書したも同然な道である。
そこを──三光坂上の葭簀張を出た──この老人はうら枯を摘んだ籠をただ一人で手に提げつつ、曠野の路を辿るがごとく、烏瓜のぽっちりと赤いのを、蝙蝠傘に搦めて支いて、青い鳶を目的に、扇で日を避け、日和下駄を踏んで、大廻りに、まずその寂しい町へ入って来たのであった。
いや、火薬庫の暗い森を背中から離すと、邸構えの寂しい町も、桜の落葉に日が燃えて、梅の枝にほんのりと薄綿の霧が薫る……百日紅の枯れながら、二つ三つ咲残ったのも、何となく思出の暑さを見せて、世はまださして秋の末でもなさそうに心強い。
そこをあちこち、覗いたり、視たり、立留ったり、考えたり、庭前、垣根、格子の中。
「はてな。」
屋の棟を仰いだり、後退りをまたしてみたり。
「確に……」
歩行出して、
「いや、待てよ……」
と首を窘めて、こそこそと立退いたのは、日当りの可い出窓の前で。
「違うかの。」と独言。変に、跫音を忍ぶ形で、そのまま通過ぎると、女学校のその通用門を正面に見た。
「このあたり……ああ緑青色の鳶じゃ、待て、待て、念のためよ。」
あの、輝くのは目ではないか、もし、それだと、一伸しに攫って持って行かれよう。金魚の木伊乃に似たるもの、狐の提灯、烏瓜を、更めて、蝙蝠傘の柄ぐるみ、ちょうと腕長に前へ突出し、
「迷うまいぞ、迷うな。」
と云い云い……(これ、これ、いやさ、これ。……)ここに言咎められている処は、いましがた一度通ったのである。
そこを通って、両方の塀の間を、鈍い稲妻形に畝って、狭い四角から坂の上へ、にょい、と皺面を出した……
坂下の下界の住人は驚いたろう。山の爺が雲から覗く。眼界濶然として目黒に豁け、大崎に伸び、伊皿子かけて一渡り麻布を望む。烏は鴎が浮いたよう、遠近の森は晴れた島、目近き雷神の一本の大栂の、旗のごとく、剣のごとく聳えたのは、巨船天を摩す柱に似て、屋根の浪の風なきに、泡の沫か、白い小菊が、ちらちらと日に輝く。白金の草は深けれども、君が住居と思えばよしや、玉の台は富士である。
六
「相違ない、これじゃ。」
あの怪しげな烏瓜を、坂の上の藪から提灯、逆上せるほどな日向に突出す、痩せた頬の片靨は気味が悪い。
そこで、坂を下りるのかと思うと、違った。……老人は、すぐに身体ごと、ぐるりと下駄を返して、元の塀についてまた戻る……さては先日、極暑の折を上ったというこの坂で、心当りを確めたものであろう。とすると、狙をつけつつ、こそこそと退いてござったあの町中の出窓などが、老人の目的ではないか。
裏に、眉のあとの美しい、色白なのが居ようも知れぬ。
それ、うそうそとまた参った……一度屈腰になって、静と火薬庫の方へ通抜けて、隣邸の冠木門を覗く梅ヶ枝の影に縋って留ると、件の出窓に、鼻の下を伸して立ったが、眉をくしゃくしゃと目を瞑って、首を振って、とぼとぼと引返して、さあらぬ垣越。百日紅の燃残りを、真向に仰いで、日影を吸うと、出損なった嚔をウッと吸って、扇子の隙なく袖を圧える。
そのまま、立直って、徐々と、も一度戻って、五段ばかり石を築いた小高い格子戸の前を行過ぎた。が溝はなしに柵を一小間、ここに南天の実が赤く、根にさふらんの花が芬と薫るのと並んで、その出窓があって、窓硝子の上へ真白に塗った鉄の格子、まだ色づかない、蔦の葉が桟に縋って廂に這う。
思わず、そこへ、日向にのぼせた赤い顔の皺面で、鼻筋の通ったのを、まともに、伸かかって、ハタと着ける、と、颯と映るは真紅の肱附。牡丹たちまち驚いて飜れば、花弁から、はっと分れて、向うへ飛んだは蝴蝶のような白い顔、襟の浅葱の洩れたのも、空が映って美しい。
老人転倒せまい事か。──やあ、緑青色の夥間に恥じよ、染殿の御后を垣間見た、天狗が通力を失って、羽の折れた鵄となって都大路にふたふたと羽搏ったごとく……慌しい遁げ方して、通用門から、どたりと廻る。とやっとそこで、吻と息。
ちょうどその時、通用門にひったりと附着いて、後背むきに立った男が二人居た。一人は、小倉の袴、絣の衣服、羽織を着ず。一人は霜降の背広を着たのが、ふり向いて同じように、じろりと此方を見たばかり。道端の事、とあえて意にも留めない様子で、同じように爪さきを刻んでいると、空の鵄が暗号でもしたらしい、一枚びらき馬蹄形の重い扉が、長閑な小春に、ズンと響くと、がらがらぎいと鎖で開いて、二人を、裡へ吸って、ずーんと閉った。
保険か何ぞの勧誘員が、紹介人と一所に来たらしい風采なのを、さも恋路ででもあるように、老人感に堪えた顔色で、
「ああああ、うまうまと入ったわ──女の学校じゃと云うに。いや、この構えは、さながら二の丸の御守殿とあるものを、さりとては羨しい。じゃが、女に逢うには服礼が利益かい。袴に、洋服よ。」
と気が付いた……ものらしい……で、懐中へ顎で見当をつけながら、まずその古めかしい洋傘を向うの亜鉛塀へ押つけようとして、べたりと塗くった楽書を読む。
「何じゃ──(八百半の料理はまずいまずい、)はあ、可厭な事を云う、……まるで私に面当じゃ。」
ふと眉を顰めた、口許が、きりりと緊って、次なるを、も一つ読む。
「──(小森屋の酒は上等。)ふんふん、ああたのもしい。何じゃ、(但し半分は水。)……と、はてな……?
勘助のがんもどきは割にうまいぞ──むむむむ割にうまいか、これは大沼勘六が事じゃ。」と云った。
ここに老人が呟いた、大沼勘六、その名を聞け、彼は名取の狂言師、鷺流当代の家元である。
七
「料理が、まずくて、雁もどきがうまい、……と云うか。人も違うて、芸にこそよれ、じゃが、成程まずいか、ははっ。」
溜息を深うして、
「ややまた、べらぼうとある……はあ、いかさま、この(──)長いのが、べら棒と云うものか。」
あたかも、差置いた洋傘の柄につながった、消炭で描いた棒を視めて、虚気に、きょとんとする処へ、坂の上なる小藪の前へ、きりきりと舞って出て、老人の姿を見ると、ドンと下りざまに大な破靴ぐるみ自転車をずるずると曳いて寄ったは、横びしゃげて色の青い、猿眼の中小僧。
「やい!」と唐突に怒鳴付けた。
と、ひょろりとする老人の鼻の先へ、泥を掴んだような握拳を、ぬっと出して、
「こン爺い、汝だな、楽書をしやがるのは、八百半の料理がまずいとは何だ、やい。」
「これは早や思いも寄りませぬ。が、何かの、この八百半と云うのは、お身の身内かの。」
「そうよ、まずい八百半の番頭だい、こン爺い。」
と評判の悪垂が、いいざまに、ひょいと歯を剥いて唾を吐くと、べッとりと袖へ。これが熨斗目ともありそうな、柔和な人品穏かに、
「私は楽書はせぬけれどの、まずいと云うのを決して怒るな、これ、まずければ、私と親類じゃでのう。」
「何だ、まずいのが親類だ──ええ、畜生!」と云った。が、老人の事ではない。前生の仇が犬になって、あとをつけて追って来た、面の長い白斑で、やにわに胴を地に摺って、尻尾を巻いて吠えかかる。
「畜生、叱……畜生。」と拳を揮廻すのが棄鞭で、把手にしがみついて、さすがの悪垂真俯向けになって邸町へ敗走に及ぶのを、斑犬は波を打って颯と追った。
老人は、手拭で引摺って袖を拭きつつ、見送って、
「……緑樹影沈んでは魚樹に上る景色あり、月海上に浮んでは兎も波を走るか、……いやいや、面白い事はない。」
で、羽織を出して着たのであった。
頸窪に胡摩塩斑で、赤禿げに額の抜けた、面に、てらてらと沢があって、でっぷりと肥った、が、小鼻の皺のだらりと深い。引捻れた唇の、五十余りの大柄な漢が、酒焼の胸を露出に、べろりと兵児帯。琉球擬いの羽織を被たが、引かけざまに出て来たか、羽織のその襟が折れず、肩をだらしなく両方を懐手で、ぎくり、と曲角から睨んで出た、(これこれ、いやさ、これ。)が、これなのである。
「何ぞ、老人に用の儀でも。」
と慇懃に会釈する。
赭顔は、でっぷりとした頬を張って、
「いやさ、用とはこっちから云う事じゃろうが、うう御老人。」と重く云う。
「貴方は?」
「いやさ、名を聞くなら其許からと云う処だが、何も面倒だ。俺は小室と云う、むむ小室と云う、この辺の家主なり、差配なりだ。それがどうしたと言いたい。
ねえ、老人。
いやさ、貴公、貴公先刻から、この町内を北から南へ行ったり来たり、のそのそ歩行いたり、窺ったり、何ぞ、用かと云うのだ。な、それだに因ってだ。」
もの云う頬がだぶだぶとする。
「されば……」
「いやさ、さればじゃなかろう。裏へ入れば、こまごまとした貸家もある、それはある。が、表のこの町内は、俺が許と、あと二三軒、しかも大々とした邸だ。一遍通り門札を見ても分る。いやさ、猫でも、犬でも分る。
一体、何家を捜す? いやさ捜さずともだが、仮にだ。いやさ、七くどう云う事はない、何で俺が門を窺うた。唐突に窓を覗いたんだい。」
すっと出て、
「さては……」
「何が(さては。)だい。」
と噛んでいた小楊枝を、そッぽう向いて、フッと地へ吐く。
八
老人は膝に扇子、恭しく腰を屈め、
「これは御大人、お初に御意を得ます、……何とも何とも、御無礼の段は改めて御詫をします。
さて、つかん事を伺いまするが、さて、貴方に、お一方、お娘御がおいでなさりはせまいか。」
と、思込んだ状して言った。
「娘……ああ、女のかね。」
唐突に他の家の秘蔵を聞くは、此奴怪しからずの口吻、半ば嘲けって、はぐらかす。
いよいよ真顔で、
「されば、おあねえ様であらっしゃります。」
「姉だか、妹だか、一人居ます。一人娘だよ。いやさ、大事な娘だよ。」
「ははっ、御道理千万な儀で。」
「それが、どうしたと云うんですえ。」と、余り老人の慇懃さに、膨れた頬を手で圧えた。
「私、取って六十七歳、ええ、この年故に、この年なれば御免を蒙る。が、それにしても汗が出ます。」
と額を拭って、咳をした……
「何とぞいたして御大人、貴方の思召をもちまして、お娘御、おあねえ様に、でござる、ちょっと、御意を得ますわけには相成りませぬか。」
「ふん、娘にかい。」
「何とも。」
「変だねえ、娘に用があるなら俺に言え、と云うのだが、それは別だ。いやあえて怪しい御仁とも見受けはせんが、まあね、この陽気だから落着くが可うござす。一体、何の用なんだい。」
「いや、それに就いて罷出ました……無面目に、お家を窺い、御叱を蒙ったで、恐縮いたすにつけても、前後申後れましてござるが、老人は下谷御徒士町に借宅します、萩原与五郎と申して未熟な狂言師でござる。」と名告る。
「ははあ、茶番かね。」と言った。
しかり、茶番である。が、ここに名告るは惜かりし。与五郎老人は、野雪と号して、鷺流名誉の耆宿なのである。
「おお、父上、こんな処に。」
「お町か、何だ。」
と赭ら顔の家主が云った。
小春の雲の、あの青鳶も、この人のために方角を替えよ。姿も風采も鶴に似て、清楚と、端正を兼備えた。襟の浅葱と、薄紅梅。瞼もほんのりと日南の面影。
手にした帽子の中山高を、家主の袖に差寄せながら、
「帽子をお被んなさいましッて、お母さんが。……裏へ見廻りにいらしったかと思ったんです。」
と、見迎えて一足退いて、亜鉛塀に背の附くまで、ほとんど固くなった与五郎は、たちまち得も言われない嬉しげな、まぶしらしい、そして懐しそうな顔をして、
「や、や、や、貴女、貴女じゃった、貴女。」と袖を開き、胸を曳いて、縋りもつかんず、しかも押戴かんず風情である。
疑と、驚きに、浅葱が細く、揺るるがごとく、父の家主の袖を覗いて、睜った瞳は玲瓏として清しい。
家主は、かたいやつを、誇らしげにスポンと被って、腕組をずばりとしながら、
「何かい、……この老人を、お町、お前知っとるかい。」
「はい。」
と云うのが含み声、優しく爽に聞えたが、ちと覚束なさそうな響が籠った。
「ああ、しばらく、一旦の御見、路傍の老耄です。令嬢、お見忘れは道理じゃ。もし、これ、この夏、八月の下旬、彼これ八ツ下り四時頃と覚えます。この邸町、御宅の処で、迷いに迷いました、路を尋ねて、お優しく御懇に、貴女にお導きを頂いた老耄でござるわよ。」
と、家主の前も忘れたか、気味の悪いほど莞爾々々する。
「の、令嬢。」
「ああ、存じております。」
鶴は裾まで、素足の白さ、水のような青い端緒。
九
「貴女はその時、お隣家か、その先か、門に梅の樹の有る館の前に、彼家の乳母と見えました、円髷に結うた婦の、嬰坊を抱いたと一所に、垣根に立ってござって……」
と老人は手真似して、
「ちょうちちょうちあわわ、と云うてな、その児をあやして、お色の白い、手を敲いておいでなさる。処へ、空車を曳かせて老人、車夫めに、何と、ぶつぶつ小言を云われながら迷うて参った。
尋ねる家が、余り知れないで、既に車夫にも見離されました。足を曳いて、雷神坂と承る、あれなる坂をば喘ぎましてな。
一旦、この辺も捜したなれども、かつて知れず、早や目もくらみ、心も弱果てました。処へ、煙硝庫の上と思うに、夕立模様の雲は出ます。東西も弁えぬこの荒野とも存ずる空に、また、あの怪鳥の鳶の無気味さ。早や、既に立窘みにもなりましょうず処──令嬢お姿を見掛けましたわ。
さて、地獄で天女とも思いながら、年は取っても見ず知らぬ御婦人には左右のうはものを申し難い。なれども、いたいけに児をあやしてござる。お優しさにつけ、ずかずかと立寄りまして、慮外ながら伺いましたじゃ。
が、御存じない。いやこれは然もそう、深窓に姫御前とあろうお人の、他所の番地をずがずがお弁別のないはその筈よ。
硫黄が島の僧都一人、縋る纜切れまして、胸も苦しゅうなりましたに、貴女、その時、フトお思いつきなされまして、いやとよ、一段の事とて、のう。
御妙齢なが見得もなし。世帯崩しに、はらはらとお急ぎなされ、それ、御家の格子をすっと入って、その時じゃ──その時覚えました、あれなる出窓じゃ──
何と、その出窓の下に……令嬢、お机などござって、傍の本箱、お手文庫の中などより、お持出でと存じられます。寺、社に丹を塗り、番地に数の字を記いた、これが白金の地図でと、おおせで、老人の前でお手に取って展いて下され、尋ねます家を、あれか、これかと、いやこの目の疎いを思遣って、御自分に御精魂な、須弥磐石のたとえに申す、芥子粒ほどな黒い字を、爪紅の先にお拾い下され、その清らかな目にお読みなさって……その……解りました時の嬉しさ。
御心の優しさ、御教えの尊さ、お智慧の見事さ、お姿の﨟たい事。
二度目には雷神坂を、しゃ、雲に乗って飛ぶように、車の上から、見晴しの景色を視めながら、口の裡に小唄謡うて、高砂で下りました、ははっ。」
と、踞むと、扇子を前半に帯にさして、両手を膝へ、土下座もしたそうに腰を折って、
「さて、その時の御深切、老人心魂に徹しまして、寝食ともに忘れませぬ。千万忝う存じまするぞ。」
「まあ。」
と娘は、またたきもしなかった目を、まつげ深く衝と見伏せる。
この狂人は、突飛ばされず、打てもせず、あしらいかねた顔色で、家主は不承々々に中山高の庇を、堅いから、こつんこつんこつんと弾く。
「解りました、何、そのくらいな事を。いやさ、しかし、早い話が、お前さん、ああ、何とか云った、与五郎さんかね。その狂言師のお前さんが、内の娘に三光町の地図で道を教えてもらったとこう云うのだ。」
「で、その道を教えて下さったに……就きまして、」
「まあさ、……いやさ、分ったよ。早い話が、その礼を言いに来たんだ、礼を。……何さ、それにも及ぶまいに、下谷御徒士町、遠方だ、御苦労です。早い話が、わざわざおいでなすったんで、茶でも進ぜたい、進ぜたい、が、早い話が、家内に取込みがある、妻が煩うとる。」
「いや、まことに、それは……」
「まあさ、余りお饒舌なさらんが可い。ね、だによって、お構いも申されぬ。で、お引取なさい、これで失礼しよう。」
「あ、もし。さて、また。」
「何だ、また(さて。)さて、(また。)かい。」
十
与五郎は、早や懐手をぶりりと揺って行こうとする、家主に、縋るがごとく手を指して、
「さて……や、これはまたお耳障り。いや就きまして……令嬢に折入ってお願いの儀が有りまして、幾重にも御遠慮は申しながら、辛抱に堪えかねて罷出ました。
次第と申すは、余の事、別儀でもござりませぬ。
老人、あの当時、……されば後月、九月の上旬。上野辺のある舞台において、初番に間狂言、那須の語。本役には釣狐のシテ、白蔵主を致しまする筈。……で、これは、当流においても許しもの、易からぬ重い芸でありましての、われら同志においても、一代の間に指を折るほども相勤めませぬ。
近頃、お能の方は旭影、輝く勢。情なや残念なこの狂言は、役人も白日の星でござって、やがて日も入り暗夜の始末。しかるに思召しの深い方がござって、一舞台、われらのためにお世話なさって、別しては老人にその釣狐仕れの御意じゃ。仕るは狐の化、なれども日頃の鬱懐を開いて、思うままに舞台に立ちます、熊が穴を出ました意気込、雲雀ではなけれども虹を取って引く勢での……」
と口とは反対、悄れた顔して、娘の方に目を遣って、
「貴女に道を尋ねました、あの日も、実は、そのお肝入り下さるお邸へ、打合せ申したい事があって罷出る処でござったよ。
時に、後月のその舞台は、ちょっと清書にいたし、方々の御内見に入れますので、世間晴れての勤めは、更めて来霜月の初旬、さるその日本の舞台に立つ筈でござる。が、剣も玉も下磨きこそ大事、やがては一拭いかけまするだけの事。先月の勤めに一方ならず苦労いたし、外を歩行くも、から脛を踏んでとぼつきます……と申すが、早や三十年近う過ぎました、老人が四十代、ただ一度、芝の舞台で、この釣狐の一役を、その時は家元、先代の名人がアドの猟人をば附合うてくれられた。それより中絶をしていますに因って、手馴れねば覚束ない、……この与五郎が、さて覚束のうては、余はいずれも若い人、まだ小児でござる。
折からにつけ忘れませぬは、亡き師匠、かつは昔勤めました舞台の可懐さに、あの日、その邸の用も首尾すまいて、芝の公園に参って、もみじ山のあたりを俳徊いたし、何とも涙に暮れました。帰りがけに、大門前の蕎麦屋で一酌傾け、思いの外の酔心に、フト思出しましたは、老人一人の姪がござる。
これが海軍の軍人に縁付いて、近頃相州の逗子に居ります。至って心の優しい婦人で、鮮しい刺身を進じょう、海の月を見に来い、と音信のたびに云うてくれます。この時と、一段思付いて、遠くもござらぬ、新橋駅から乗りました。が、夏の夜は短うて、最早や十時。この汽車は大船が乗換えでありましての、もっとも両三度は存じております。鎌倉、横須賀は、勤めにも参った事です──
時に、乗込みましたのが、二等と云う縹色の濁った天鵝絨仕立、ずっと奥深い長い部屋で、何とやら陰気での、人も沢山は見えませいで、この方、乗りました砌には、早や新聞を顔に乗せて、長々と寝た人も見えました。
入口の片隅に、フト燈の暗い影に、背屈まった和尚がござる! 鼠色の長頭巾、ト二尺ばかり頭を長う、肩にすんなりと垂を捌いて、墨染の法衣の袖を胸で捲いて、寂寞として踞った姿を見ました……
何心もありませぬ。老人、その前を通って、ずっとの片端、和尚どのと同じ側の向うの隅で、腰を落しつけて、何か、のかぬ中の老和尚、死なば後前、冥土の路の松並木では、遠い処に、影も、顔も見合おうず、と振向いて見まするとの……」
娘は浅葱の清らかな襟を合す。
父爺の家主は、棄てた楊枝を惜しそうに、チョッと歯ぜせりをしながら、あとを探して、時々唾吐く。
十一
「早や遠い彼方に、右の和尚どの、形朦朧として、灰をば束ねたように見えました処、汽車が、ぐらぐらと揺れ出すにつけて、吹散った体になって消えました、と申すが、怪しいでは決してござらぬ。居所が離れ陰気な部屋の深いせいで、また寂い汽車でござったのでの。
さて、品川も大森も、海も畠も佳い月夜じゃ。ざんざと鳴るわの。蘆の葉のよい女郎、口吟む心持、一段のうちに、風はそよそよと吹く……老人、昼間息せいて、もっての外草臥れた処へ酔がとろりと出ました。寝るともなしに、うとうととしたと思えば、さて早や、ぐっすりと寝込んだて。
大船、おおふなと申す……驚破や乗越す、京へ上るわ、と慌しゅう帯を直し、棚の包を引抱いて、洋傘取るが据眼、きょろついて戸を出ました。月は晃々と露もある、停車場のたたきを歩行くのが、人におくれて我一人……
ひとつ映りまする我が影を、や、これ狐にもなれ、と思う心に連立って、あの、屋根のある階子を上る、中空に架けた高い空橋を渡り掛ける、とな、令嬢、さて、ここじゃ。
橋がかりを、四五間がほど前へ立って、コトコトと行くのが、以前の和尚。痩せに痩せた干瓢、ひょろりとある、脊丈のまた高いのが、かの墨染の法衣の裳を長く、しょびしょびとうしろに曳いて、前かがみの、すぼけた肩、長頭巾を重げに、まるで影法師のように、ふわりふわりと見えます。」
と云うとふとそこへ、語るものが口から吐いた、鉄拐のごとき魍魎が土塀に映った、……それは老人の影であった。
「や、これはそも、老人の魂の抜出した形かと思うたです、──誰も居ませぬ、中有の橋でな。
しかる処、前途の段をば、ぼくぼくと靴穿で上って来た駅夫どのが一人あります。それが、この方へ向って、その和尚と摺違うた時じゃが、の。」
与五郎は呼吸を吐いて、
「和尚が長い頭巾の頭を、木菟むくりと擡ると、片足を膝頭へ巻いて上げ、一本の脛をつッかえ棒に、黒い尻をはっと振ると、組違えに、トンと廻って、両の拳を、はったりと杖に支いて、
(横須賀行はこちらかや。)
追掛けに、また一遍、片足を膝頭へ巻いて上げ、一本の脛を突支棒に、黒い尻をはっと揺ると、組違えにトンと廻って、
(横須賀行はこちらかや。)
と、早や此方ざまに参った駅夫どのに、くるりと肩ぐるみに振向いた。二度見ました。痩和尚の黄色がかった青い長面。で、てらてらと仇光る……姿こそ枯れたれ、石も点頭くばかり、行澄いた和尚と見えて、童顔、鶴齢と世に申す、七十にも余ったに、七八歳と思う、軽いキャキャとした小児の声。
で、またとぼとぼと杖に縋って、向う下りに、この姿が、階子段に隠れましたを、熟と視ると、老人思わず知らず、べたりと坐った。
あれよあれよ、古狐が、坊主に化けた白蔵主。したり、あの凄さ。寂さ。我は化けんと思えども、人はいかに見るやらん。尻尾を案じた後姿、振返り、見返る処の、科、趣。八幡、これに極った、と鬼神が教を給うた存念。且つはまた、老人が、工夫、辛労、日頃の思が、影となって顕れた、これでこそと、なあ。」
与五郎、がっくりと胸を縮めて、
「ああ、業は誇るまいものでござる。
舞台の当日、流儀の晴業、一世の面目、近頃衰えた当流にただ一人、(古沼の星)と呼ばれて、白昼にも頭が光る、と人も言い、我も許した、この野雪与五郎。装束澄いて床几を離れ、揚幕を切って!……出る! 月の荒野に渺々として化法師の狐ひとつ、風を吹かして通ると思せ。いかなこと土間も桟敷も正面も、ワイワイがやがやと云う……縁日同然。」
十二
「立って歩行く、雑談は始まる、茶をくれい、と呼ぶもあれば、鰻飯を誂えたにこの弁当は違う、と喚く。下足の札をカチカチ敲く。中には、前番のお能のロンギを、野声を放って習うもござる。
が、おのれ見よ。与五郎、鬼神相伝の秘術を見しょう。と思うのが汽車の和尚じゃ。この心を見物衆の重石に置いて、呼吸を練り、気を鍛え、やがて、件の白蔵主。
那須野ヶ原の古樹の杭に腰を掛け、三国伝来の妖狐を放って、殺生石の毒を浴せ、当番のワキ猟師、大沼善八を折伏して、さて、ここでこそと、横須賀行の和尚の姿を、それ、髣髴して、舞台に顕す……しゃ、習よ、芸よ、術よとて、胡麻の油で揚げすまいた鼠の罠に狂いかかると、わっと云うのが可笑しさを囃すので、小児は一同、声を上げて哄と笑う。華族の後室が抱いてござった狆が吠えないばかりですわ。
何と、それ狂言は、おかしいものには作したれども、この釣狐に限っては、人に笑わるべきものでない。
凄う、寂しゅう、可恐しげはさてないまでも、不気味でなければなりませぬ。何と!」
とせき込んで言ったと思うと、野雪老人は、がっくりと下駄を、腰に支いて、路傍へ膝を立てた。
「さればこそ、先、師匠をはじめ、前々に、故人がこの狂言をいたした時は、土間は野となり、一二の松は遠方の森となり、橋がかりは細流となり、見ぶつの男女は、草となり、木の葉となり、石となって、舞台ただ充満の古狐、もっとも奇特は、鼠の油のそれよりも、狐のにおいが芬といたいた……ものでござって、上手が占めた鼓に劣らず、声が、タンタンと響きました。
何事ぞ、この未熟、蒙昧、愚癡、無知のから白癡、二十五座の狐を見ても、小児たちは笑いませぬに。なあ、──
最早、生効も無いと存じながら、死んだ女房の遺言でも止められぬ河豚を食べても死ねませぬは、更に一度、来月はじめの舞台が有って、おのれ、この度こそ、と思う、未練ばかりの故でござる。
寝食も忘れまして……気落ちいたし、心萎え、身体は疲れ衰えながら、執着の一念ばかりは呪詛の弓に毒の矢を番えましても、目が晦んで、的が見えず、芸道の暗となって、老人、今は弱果てました。
時に蒼空の澄渡った、」
と心激しくみひらけば、大なる瞳、屹と仰ぎ、
「秋の雲、靉靆と、あの鵄たちまち孔雀となって、その翼に召したりとも思うお姿、さながら夢枕にお立ちあるように思出しましたは、貴女、令嬢様、貴女の事じゃ。」
お町は謹で袖を合せた。玉あたたかき顔の優い眉の曇ったのは、その黒髪の影である。
「老人、唯今の心地を申さば、炎天に頭を曝し、可恐い雲を一方の空に視て、果てしもない、この野原を、足を焦し、手を焼いて、徘徊い歩行くと同然でござる。時に道を教えて下された、ああ、尊さ、嬉さ、おん可懐さを存ずるにつけて……夜汽車の和尚の、室をぐるりと廻った姿も、同じ日の事なれば、令嬢の、袖口から、いや、その……あの、絵図面の中から、抜出しましたもののように思われてなりませぬ。
さように思えば、ここに、絵図面をお展き下されて、貴女と二人立って見ましたは、およそ天ヶ下の芸道の、秘密の巻もの、奥許しの折紙を、お授け下されたおもい致す!
姫、神とも存ずる、令嬢。
分別の尽き、工夫に詰って、情なくも教を頂く師には先立たれましたる老耄。他に縋ろうようがない。ただ、偏に、令嬢様と思詰めて、とぼとぼと夢見たように参りました。
が、但し、土地の、あの図に、何と秘密が有ろうとは存じませぬ。貴女の、お胸、お心に、お袖の裏に、何となく教が籠る、と心得まする。
何とぞ、貴女の、御身からいたいて、人に囃され、小児たちに笑われませぬ、白蔵王の法衣のこなし、古狐の尾の真実の化方を御教えに預りたい……」
「これ、これ、いやさ、これ。」
「しばらく! さりとても、令嬢様、御年紀、またお髪の様子。」
娘は髪に手を当てた、が、容づくるとは見えず、袖口の微な紅、腕も端麗なものであった。
「舞、手踊、振、所作のおたしなみは格別、当世西洋の学問をこそ遊ばせ、能楽の間の狂言のお心得あろうとはかつて存ぜぬ。
あるいは、何かの因縁で、斯道なにがしの名人のこぼれ種、不思議に咲いた花ならば、われらのためには優曇華なれども、ちとそれは考え過ぎます。
それとも当時、新しいお学問の力をもってお導き下さりょうか。
さりとて痩せたれども与五郎、科や、振は習いませぬぞよ。師は心にある。目にある、胸にある……
近々とお姿を見、影を去って、跪いて工夫がしたい! 折入ってお願いは、相叶うことならば、お台所の隅、お玄関の端になりとも、一七日、二七日、お差置きを願いたい。」
「本気か、これ、おい。」と家主が怒鳴った。
胸を打って、
「血判でござる。成らずば、御門、溝石の上になりとも、老人、腰掛に弁当を持参いたす。平に、この儀お聞済が願いたい。
口惜や、われら、上根ならば、この、これなる烏瓜一顆、ここに一目、令嬢を見ただけにて、秘事の悟も開けましょうに、無念やな、老の眼の涙に曇るばかりにて、心の霧が晴れませぬ。
や、令嬢、お聞済。この通りでござる。」
とて、開いた扇子に手を支いた。埃は颯と、名家の紋の橘の左右に散った。
思わず、ハッと吐息して、羽織の袖を、斉く清く土に敷く、お町の小腕、むずと取って、引立てて、
「馬鹿、狂人だ。此奴あ。おい、そんな事を取上げた日には、これ、この頃の画工に頼まれたら、大切な娘の衣服を脱いで、いやさ、素裸体にして見せねばならんわ。色情狂の、爺の癖に。」
十三
「生蕎麦、もりかけ二銭とある……場末の町じゃな。ははあ煮たて豌豆、古道具、古着の類。何じゃ、片仮名をもってキミョウニナオル丸、疝気寸白虫根切、となのった、……むむむむ疝気寸白は厭わぬが、愚鈍を根切りの薬はないか。
ここに、牛豚開店と見ゆる。見世ものではない。こりゃ牛鋪じゃ。が、店を開くは、さてめでたいぞ。
ほう、按腹鍼療、蒲生鉄斎、蒲生鉄斎、はて達人ともある姓名じゃ。ああ、羨しい。おお、琴曲教授。や、この町にいたいて、村雨松風の調べ。さて奥床い事のう。──べ、べ、べ、べッかッこ。」
と、ちょろりと舌を出して横舐を、遣ったのは、魚勘の小僧で、赤八、と云うが青い顔色、岡持を振ら下げたなりで道草を食散らす。
三光町の裏小路、ごまごまとした中を、同じ場末の、麻布田島町へ続く、炭団を干した薪屋の露地で、下駄の歯入れがコツコツと行るのを見ながら、二三人共同栓に集った、かみさん一人、これを聞いて、
「何だい、その言種は、活動写真のかい、おい。」
「違わあ。へッ、違いますでござんやすだ。こりゃあ、雷神坂上の富士見の台の差配のお嬢さんに惚れやあがってね。」
「ああ、あの別嬪さんの。」
「そうよ、でね、其奴が、よぼよぼの爺でね。」
「おや、へい。」
「色情狂で、おまけに狐憑と来ていら。毎日のように、差配の家の前をうろついて附纏うんだ。昨日もね、門口の段に腰を掛けている処を、大な旦那が襟首を持って引摺出した。お嬢さんが縋りついて留めてたがね。へッ被成もんだ、あの爺を庇う位なら、俺の頬辺ぐらい指で突いてくれるが可い、と其奴が癪に障ったからよ。自転車を下りて見ていたんだが、爺の背中へ、足蹴に砂を打っかけて遁げて来たんだ。
それ、そりゃ昨日の事だがね。串戯じゃねえや。お嬢さんを張りに来るのに弁当を持ってやあがる、握飯の。」
「成程、変だ。」……歯入屋が言った。
「そうよ、其奴を、旦が踏潰して怒ってると、そら、俺を追掛けやがる斑犬が、ぱくぱく食やがった、おかしかったい、それが昨日さ。」
「分ったよ、昨日は。」
「その前もね、毎日だ。どこかで見掛ける。いつも雷神坂を下りて、この町内をとぼくさとぼくさ。その癖のん気よ。角の蕎麦屋から一軒々々、きょろりと見ちゃ、毎日おなじような独語を言わあ。」
「其奴が、(もりかけ二銭とある)だな、生意気だな、狂人の癖にしやあがって、(場末)だなんて吐しやがって。」と歯入屋が、おはむきの世辞を云って、女房達をじろりと見る奴。
「それからキミョウニナオル丸、牛豚開店までやりやがって、按摩ン許が蒲生鉄斎、たつじんだ、土瓶だとよ、薬罐めえ、笑かしやがら。何か悪戯をしてやろうと思って、うしろへ附いちゃあ歩行くから、大概口上を覚えたぜ。今もね、そこへ来たんぜ。」
「来るえ。」と、一所に云う。
「見ねえ、一番、尻尾を出させる考えを着けたから、駈抜けて先へ来たんだ。──そら、そら、来たい、あの爺だ──ね。」
と、琴曲の看板を見て、例のごとく、帽子も被らず、洋傘を支いて、据腰に与五郎老人、うかうかと通りかかる。
「あれ! 何をする。」
と言う間も無かった。……おしめも褌も一所に掛けた、路地の物干棹を引ぱずすと、途端の与五郎の裾を狙って、青小僧、蹈出す足と支く足の真中へスッと差した。はずみにかかって、あわれ与五郎、でんぐりかえしを打った時、
「や、」と倒れながら、激しい矢声を、掛けるが響くと、宙で撓めて、とんぼを切って、ひらりと翻った。古今の手練、透かさぬ早業、頭を倒に、地には着かぬ、が、無慚な老体、蹌踉となって倒れる背を、側の向うの電信柱にはたとつける、と摺抜けに支えもあえず、ぼったら焼の鍋を敷いた、駄菓子屋の小店の前なる、縁台に摚と落つ。
走り寄ったは婦ども。ばらばらと来たのは小児で。
鷺の森の稲荷の前から、と、見て、手に薬瓶の紫を提げた、美しい若い娘が、袖の縞を乱して駈寄る。
「怪我は。」
「吉祥院前の接骨医へ早く……」
「お怪我は?」
与五郎野雪老人は、品ある顔をけろりとして、
「やあ、小児たち、笑わぬか、笑え、あはは、と笑え。爺が釣狐の舞台もの、ここへ運べば楽なものじゃ──我は化けたと思えども、人はいかに見るやらん。」
と半眼に、従容として口誦して、
「あれ、あの意気が大事じゃよ。」
と、頭を垂れて、ハッと云って、俯向く背を、人目も恥じず、衝と抱いて、手巾も取りあえず、袖にはらはらと落涙したのは、世にも端麗なお町である。
「お手を取ります、お爺様、さ、私と一所に。」
十四
円に桔梗の紋を染めた、厳めしい馬乗提灯が、暗夜にほのかに浮くと、これを捧げた手は、灯よりも白く、黒髪が艶々と映って、ほんのりと明い顔は、お町である。
と、眉に翳すようにして、雪の頸を、やや打傾けて優しく見込む。提灯の前にすくすくと並んだのは、順に数の重なった朱塗の鳥居で、優しい姿を迎えたれば、あたかも紅の色を染めた錦木の風情である。
一方は灰汁のような卵塔場、他は漆のごとき崖である。
富士見の台なる、茶枳尼天の広前で、いまお町が立った背後に、
此の一廓、富士見稲荷鎮守の地につき、家々の畜犬堅く無用たるべきもの也。地主。
と記した制札が見えよう。それからは家続きで、ちょうどお町の、あの家の背後に当る、が、その間に寺院のその墓地がある。突切れば近いが、避けて来れば雷神坂の上まで、土塀を一廻りして、藪畳の前を抜ける事になる。
お町は片手に、盆の上に白い切を掛けたのを、しなやかな羽織の袖に捧げていた。暗い中に、向うに、もう一つぼうと白いのは涎掛で、その中から目の釣った、尖った真蒼な顔の見えるのは、青石の御前立、この狐が昼も凄い。
見込んで提灯が低くなって、裾が鳥居を潜ると、一体、聖心女学院の生徒で、昼は袴を穿く深い裾も──風情は萩の花で、鳥居もとに彼方、此方、露ながら明く映って、友染を捌くのが、内端な中に媚かしい。
狐の顔が明先にスッと来て近くと、その背後へ、真黒な格子が出て、下の石段に踞った法然あたまは与五郎である。
老人は、石の壇に、用意の毛布を引束ねて敷いて、寂寞として腰を据えつつ、両手を膝に端坐した。
「お爺様。」
と云う、提灯の柄が賽銭箱について、件の青狐の像と、しなった背中合せにお町は老人の右へ行く。
「やあ、」
もっての外元気の可い声を掛けたが、それまで目を瞑っていたらしい、夢から覚めた面色で、
「またしてもお見舞……令嬢、早や、それでは痛入る。──老人にお教へ下さると云うではなけれど、絵図面が事の起因ゆえ、土地に縁があろうと思えば、もしや、この明神に念願を掛けたらば──と貴女がお心付け下された。暗夜に燈火、大智識のお言葉じゃ。
何か、わざと仔細らしく、夜中にこれへ出ませいでもの事なれども、朝、昼、晩、日のあるうちは、令嬢のお目に留って、易からぬお心遣い、お見舞を受けまする。かつは親御様の前、別して御尊父に忍んで遊ばす姫御前の御身に対し、別事あってならぬと存じ、御遠慮を申すによって、わざと夜陰を選んで参りますものを、何としてこの暗いに。これでは老人、身の置きどころを覚えませぬ。第一唯今も申す親御様に、」
「いえ、母は、よく初手からの事を存じております。煩っておりませんと、もっと以前にどうにもしたいのでございますッて。ほんとうにお爺様、貴老の御心労をお察し申して、母は蔭ながら泣いております。」
「ああ、勿体至極もござらん。その儀もかねてうけたまわり、老人心魂に徹しております。」
「私も一所に泣くんですわ。ほんとうに私の身体で出来ます事でしたら、どうにもしてお上げ申したいんでございますよ。それこそね、あの、貴老が遊ばす、お狂言の罠にかかるために、私の身体を油でいためてでも差上げたいくらいに思うんですが……それはお察しなさいましよ。」
「言語道断」と与五郎は石段をずるりと辷った。
十五
「そして、別にお触りはございませんの。おとしよりが、こんなに、まあ、御苦労を遊ばして。」
「いや、老人、胸が、むず痒うて、ただ身体の震えまする外、ここに参ってからはまた格別一段の元気じゃ、身体は決してお案じ下さりょう事はない。かえって何かの悟を得ようと心嬉しいばかりでござる。が、御母堂様は。」
「母はね、お爺様、寝ましたきり、食が細って困るんです。」
「南無三宝。」
「今夜は、ちと更けましてから、それでも蕎麦かきをして食べてみよう、とそう言いましてね、ちょうど父の在所から届きました新蕎麦の粉がありましたものですから、私が枕頭で拵えました。父は、あの一晩泊りにその在へ参って留守なのです。母とまた、お爺様、貴老の事をそう申して……きっとお社においでなさるに違いない、内へお迎えをしたいんですけれど、ああ云った父の手前、留守ではなおさら不可ません。」
「おおおお、いかにも。」
「蕎麦かきは暖ると申します。差上げたらば、と母と二人でそう申しましてね、あの、ここへ持って参りました。おかわりを添えてございますわ。お可厭でなくば召上って下さいましな。」
「や、蕎麦掻を……されば匂う。来世は雁に生りょうとも、新蕎麦と河豚は老人、生命に掛けて好きでござる。そればかりは決して御辞儀申さぬぞ。林間に酒こそ暖めませぬが、大宮人の風流。」
と露店でも開くがごとく、与五郎一廻りして毛布を拡げて、石段の前の敷石に、しゃんと坐る、と居直った声が曇った。
また魅せられたような、お町も、その端へ腰を下して、世帯ぶった手捌きで、白いを取ったは布巾である。
与五郎、盆を前に両手を支き、
「ああ、今夜唯今、与五郎芸人の身の冥加を覚えました。……ついては、新蕎麦の御祝儀に、爺が貴女に御伽を話す。……われら覚えました狂言の中に、鬼瓦と申すがあっての、至極初心なものなれども、これがなかなかの習事じゃ。──まず都へ上って年を経て、やがて国許へ立帰る侍が、大路の棟の鬼瓦を視めて、故郷に残いて、月日を過ごいた、女房の顔を思出で、絶て久しい可懐さに、あの鬼瓦がその顔に瓜二つじゃと申しての、声を放って泣くという──人は何とも思わねども、学問遊ばし利発な貴女じゃ、言わいでも分りましょう。絵なり、像なり、天女、美女、よしや傾城の肖顔にせい、美しい容色が肖たと云うて、涙を流すならば仔細ない。誰も泣きます。鬼瓦さながらでは、ソッとも、嘘にも泣けませぬ。
泣け! 泣かぬか! 泣け、と云うて、先師匠が、老人を、月夜七晩、雨戸の外に夜あかしに立たせまして、その家の、棟の瓦を睨ませて、動くことさえさせませなんだ。
十六夜の夜半でござった。師匠の御新造の思召とて、師匠の娘御が、ソッと忍んで、蕎麦、蕎麦かきを……」
と言が途絶え、膝に、しかと拳を当て、
「袖にかくして持ってござった。それを柿の樹の大な葉の桐のような影で食べました。鬼瓦ではなけれども、その時に涙を流いて、やがて、立って、月を見れば、棟を見れば、鬼瓦を見れば、ほろほろと泣けました。
さて、その娘が縁あって、われら宿の妻に罷成る、老人三十二歳の時。──あれは一昨年果てました。老の身の杖柱、やがては家の芸のただ一人の話対手、舞台で分別に及ばぬ時は、師の記念とも存じ、心腹を語ったに──いまは惜からぬ生命と思い、世に亡い女房が遺言で、止めい、と申す河豚を食べても、まだ死ねませぬは因果でござるよ。
この度の釣狐も、首尾よく化澄まし、師匠の外聞、女房の追善とも思詰めたに、式のごとき恥辱を取る。
さて、申すまじき事なれども、せんだって計らずもおがみました、貴方のお姿、お顔だちが、さてさて申すまじき事なれども、過去りました、あの、そのものに、いやいや貴女、令嬢、貴女とは申すまい、親御でおわす母君が。いやいや……恐多い申すまい。……この蕎麦掻が、よう似ました。……
やあ、雁が鳴きます。」
「おお、……雁が鳴く。」
与五郎は、肩をせめて胸をわななかして、はらはらと落涙した。
「お爺様、さ、そして、懐炉をお入れなさいまし、懐中に私が暖めて参りました。母も胸へ着けましたよ。」
「ええ!」と思わず、皺手をかけたは、真綿のようなお町の手。
「親御様へお心遣い……あまつさえ外道のような老人へ御気扱、前お見上げ申したより、玉を削って、お顔にやつれが見えます。のう……これは何をお泣きなさる。」
「胸がせまって、ただ胸がせまって──お爺様、貴老がおいとしゅうてなりません。しっかり抱いて上げたいわねえ。」と夜半に莟む、この一輪の赤い花、露を傷んで萎れたのである。
人は知るまい。世に不思議な、この二人の、毛布にひしと寄添ったを、あの青い石の狐が、顔をぐるりと向けて、鼻で覗いた……
「これは……」
老人は懐炉を取って頂く時、お町が襟を開くのに搦んで落ちた、折本らしいものを見た。
「……町は基督教の学校へ行くんですが、お導き申したというお社だし、はじめがこの絵図から起ったのですから、これをしるしにお納め申して、同じに願掛をしてお上げなさいと、あの母がそう申します。……私もその心で、今夜持って参りましたよ。」
与五郎野雪、これを聞くと、拳を握って、舞の構えに、正しく屹と膝を立てて、
「むむ、いや、かさねがさね……たといキリシタンバテレンとは云え、お宗旨までは尋常事ではない。この事、その事。新蕎麦に月は射さぬが、暗は、ものじゃ、冥土の女房に逢う思。この燈火は貴女の導き。やあ、絵図面をお展き下され、老人思う所存が出来た!」
と熟と睜った、目の冴は、勇士が剣を撓むるがごとく、袖を抱いてすッくと立つ、姿を絞って、じりじりと、絵図の面に──捻向く血相、暗い影が颯と射して、線を描いた紙の上を、フッと抜け出した足が宙へ。
「カーン。」と一喝。百にもあまる朱の鳥居を一飛びにスーッと抜ける、と影は燈に、空を飛んで、梢を伝う姿が消える、と谺か、非ずや、雷神坂の途半ばのあたりに、暗を裂く声、
「カーン。」と響いた。
「あれえ。」
「いや、怪いものではありません。」
「老人の夥間ですよ。」
社の裏を連立って、眉目俊秀な青年二人、姿も対に、暗中から出たのであった。
「では、やっぱりお狂言の?……」
「いや、能楽の方です。──大師匠方に内弟子の私たち。」
「老人の、あの苦心に見倣え、と先生の命令で出向いています。」
と、斉しく深くした帽子を脱いで、お町に礼して、見た顔の、蝋燭の灯に二人の瞼が露に濡れていた。
「若先生。」
「おお大沼さん。」
「貴方もかい。」
大沼善八は、靴を穿いた、裾からげで、正宗の四合壜を紐からげにして提げていた。
「対手が、あの意気込じゃあ、安閑としていられません。寒い!(がたがたと震えて、)いつでもお爺さんに河豚鍋のおつきあいで嘲笑われる腹癒せに、内証で、……おお、寒! ちびちびと敵を取ろうと思ったが、恐入って飲めんのでした。──お嬢さん、貴女は、氏神でおいでなさる。」
底本:「泉鏡花集成6」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年3月21日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第十六卷」岩波書店
1942(昭和17)年4月20日発行
入力:門田裕志
校正:高柳典子
2007年2月11日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。