陽炎座
泉鏡花
|
一
「ここだ、この音なんだよ。」
帽子も靴も艶々と光る、三十ばかりの、しかるべき会社か銀行で当時若手の利けものといった風采。一ツ、容子は似つかわしく外国語で行こう、ヤングゼントルマンというのが、その同伴の、──すらりとして派手に鮮麗な中に、扱帯の結んだ端、羽織の裏、褄はずれ、目立たないで、ちらちらと春風にちらめく処々に薄りと蔭がさす、何か、もの思か、悩が身にありそうな、ぱっと咲いて浅く重る花片に、曇のある趣に似たが、風情は勝る、花の香はその隈から、幽に、行違う人を誘うて時めく。薫を籠めて、藤、菖蒲、色の調う一枚小袖、長襦袢。そのいずれも彩糸は使わないで、ひとえに浅みどりの柳の葉を、針で運んで縫ったように、姿を通して涼しさの靡くと同時に、袖にも褄にもすらすらと寂しの添った、痩せぎすな美しい女に、──今のを、ト言掛けると、婦人は黙って頷いた。
が、もう打頷く咽喉の影が、半襟の縫の薄紅梅に白く映る。……
あれ見よ。この美しい女は、その膚、その簪、その指環の玉も、とする端々透通って色に出る、心の影がほのめくらしい。
「ここだ、この音なんだよ。」
婦人は同伴の男にそう言われて、時に頷いたが、傍でこれを見た松崎と云う、絣の羽織で、鳥打を被った男も、共に心に頷いたのである。
「成程これだろう。」
但し、松崎は、男女、その二人の道ずれでも何でもない。当日ただ一人で、亀井戸へ詣でた帰途であった。
住居は本郷。
江東橋から電車に乗ろうと、水のぬるんだ、草萌の川通りを陽炎に縺れて来て、長崎橋を入江町に掛る頃から、どこともなく、遠くで鳴物の音が聞えはじめた。
松崎は、橋の上に、欄干に凭れて、しばらく彳んで聞入ったほどである。
ちゃんちきちき面白そうに囃すかと思うと、急に修羅太鼓を摺鉦交り、どどんじゃじゃんと鳴らす。亀井戸寄りの町中で、屋台に山形の段々染、錣頭巾で、いろはを揃えた、義士が打入りの石版絵を張廻わして、よぼよぼの飴屋の爺様が、皺くたのまくり手で、人寄せにその鉦太鼓を敲いていたのを、ちっと前に見た身にも、珍らしく響いて、気をそそられ、胸が騒ぐ、ばったりまた激しいのが静まると、ツンツンテンレン、ツンツンテンレン、悠々とした糸が聞えて、……本所駅へ、がたくた引込む、石炭を積んだ大八車の通るのさえ、馬士は銜煙管で、しゃんしゃんと轡が揺れそうな合方となる。
絶えず続いて、音色は替っても、囃子は留まらず、行交う船脚は水に流れ、蜘蛛手に、角ぐむ蘆の根を潜って、消えるかとすれば、ふわふわと浮く。浮けば蝶の羽の上になり下になり、陽炎に乗って揺れながら近づいて、日当の橋の暖い袂にまつわって、ちゃんちき、などと浮かれながら、人の背中を、トンと一つ軽く叩いて、すいと退いて、
──おいで、おいで──
と招いていそうで。
手に取れそうな近い音。
はっ、とその手を出すほどの心になると、橋むこうの、屋根を、ひょいひょいと手踊り雀、電信柱に下向きの傾り燕、一羽気まぐれに浮いた鴎が、どこかの手飼いの鶯交りに、音を捕うる人心を、はッと同音に笑いでもする気勢。
春たけて、日遅く、本所は塵の上に、水に浮んだ島かとばかり、都を離れて静であった。
屋根の埃も紫雲英の紅、朧のような汽車が過ぎる。
その響きにも消えなかった。
二
松崎は、──汽車の轟きの下にも埋れず、何等か妨げ遮るものがあれば、音となく響きとなく、飜然と軽く体を躱わす、形のない、思いのままに勝手な音の湧出ずる、空を舞繞る鼓に翼あるものらしい、その打囃す鳴物が、──向って、斜違の角を広々と黒塀で取廻わした片隅に、低い樹立の松を洩れて、朱塗の堂の屋根が見える、稲荷様と聞いた、境内に、何か催しがある……その音であろうと思った。
けれども、欄干に乗出して、も一つ橋越しに透かして見ると、門は寝静ったように鎖してあった。
いつの間にか、トチトチトン、のんきらしい響に乗って、駅と書いた本所停車場の建札も、駅と読んで、白日、菜の花を視むる心地。真赤な達磨が逆斛斗を打った、忙がしい世の麺麭屋の看板さえ、遠い鎮守の鳥居めく、田圃道でも通る思いで、江東橋の停留所に着く。
空いた電車が五台ばかり、燕が行抜けそうにがらんとしていた。
乗るわ、降りるわ、混合う人数の崩るるごとき火水の戦場往来の兵には、余り透いて、相撲最中の回向院が野原にでもなったような電車の体に、いささか拍子抜けの形で、お望み次第のどれにしようと、大分歩行き廻った草臥も交って、松崎はトボンと立つ。
例の音は地の底から、草の蒸さるるごとく、色に出で萌えて留まらぬ。
「狸囃子と云うんだよ、昔から本所の名物さ。」
「あら、嘘ばっかり。」
ちょうどそこに、美しい女と、その若紳士が居合わせて、こう言を交わしたのを松崎は聞取った。
さては空音ではないらしい。
若紳士が言ったのは、例の、おいてけ堀、片葉の蘆、足洗い屋敷、埋蔵の溝、小豆婆、送り提燈とともに、土地の七不思議に数えられた、幻の音曲である。
言った方も戯に、聞く女も串戯らしく打消したが、松崎は、かえって、うっかりしていた伝説を、夢のように思出した。
興ある事かな。
日は永し。
今宮辺の堂宮の絵馬を見て暮したという、隙な医師と一般、仕事に悩んで持余した身体なり、電車はいつでも乗れる。
となると、家へ帰るにはまだ早い。……どうやら、橋の上で聞いたよりは、ここへ来ると、同じ的の無い中にも、囃子の音が、間近に、判然したらしく思われる。一つは、その声の響くのは、自分ばかりでない事を確めたせいであろう。
その上、世を避けた仙人が碁を打つ響きでもなく、薄隠れの女郎花に露の音信るる声でもない……音色こそ違うが、見世ものの囃子と同じく、気をそそって人を寄せる、鳴ものらしく思うから、傾く耳の誘わるる、寂しい横町へ電車を離れた。
向って日南の、背後は水で、思いがけず一本の菖蒲が町に咲いた、と見た。……その美しい女の影は、分れた背中にひやひやと染む。……
と、チャンチキ、チャンチキ、嘲けるがごとくに囃す。……
がらがらと鳴って、電車が出る。突如として、どどん、じゃん、じゃん。──ぶらぶら歩行き出すと、ツンツンテンレン、ツンツンテンレン。
三
片側はどす黒い、水の淀んだ川に添い、がたがたと物置が並んで、米俵やら、筵やら、炭やら、薪やら、その中を蛇が這うように、ちょろちょろと鼠が縫い行く。
あの鼠が太鼓をたたいて、鼬が笛を吹くのかと思った。……人通り全然なし。
片側は、右のその物置に、ただ戸障子を繋合わせた小家続き。で、一二軒、八百屋、駄菓子屋の店は見えたが、鴉も居らなければ犬も居らぬ。縄暖簾も居酒屋めく米屋の店に、コトンと音をさせて鶏が一羽歩行いていたが、通りかかった松崎を見ると、高らかに一声鳴いた。
太陽はたけなわに白い。
颯と、のんびりした雲から落かかって、目に真蒼に映った、物置の中の竹屋の竹さえ、茂った山吹の葉に見えた。
町はそこから曲る。
と追分で路が替って、木曾街道へ差掛る……左右戸毎の軒行燈。
ここにも、そこにも、ふらふらと、春の日を中へ取って、白く点したらしく、真昼浮出て朦と明るい。いずれも御泊り木賃宿。
で、どの家も、軒より、屋根より、これが身上、その昼行燈ばかりが目に着く。中には、廂先へ高々と燈籠のごとくに釣った、白看板の首を擡げて、屋台骨は地の上に獣のごとく這ったのさえある。
吉野、高橋、清川、槙葉。寝物語や、美濃、近江。ここにあわれを留めたのは屋号にされた遊女達。……ちょっと柳が一本あれば滅びた白昼の廓に斉しい。が、夜寒の代に焼尽して、塚のしるしの小松もあらず……荒寥として砂に人なき光景は、祭礼の夜に地震して、土の下に埋れた町の、壁の肉も、柱の血も、そのまま一落の白髑髏と化し果てたる趣あり。
絶壁の躑躅と見たは、崩れた壁に、ずたずたの襁褓のみ、猿曵が猿に着せるのであろう。
生命の搦む桟橋から、危く傾いた二階の廊下に、日も見ず、背後むきに鼠の布子の背を曲げた首の色の蒼い男を、フト一人見附けたが、軒に掛けた蜘蛛の囲の、ブトリと膨れた蜘蛛の腹より、人間は痩せていた。
ここに照る月、輝く日は、兀げた金銀の雲に乗った、土御門家一流易道、と真赤に目立った看板の路地から糶出した、そればかり。
空を見るさえ覗くよう、軒行燈の白いにつけ、両側の屋根は薄暗い。
この春の日向の道さえ、寂びれた町の形さえ、行燈に似て、しかもその白けた明に映る……
表に、御泊りとかいた字の、その影法師のように、町幅の真ただ中とも思う処に、曳棄てたらしい荷車が一台、屋台を乗せてガタリとある。
近いて見ると、いや、荷の蔭に人が居た。
男か、女か。
と、見た体は、褪せた尻切の茶の筒袖を着て、袖を合わせて、手を拱き、紺の脚絆穿、草鞋掛の細い脚を、車の裏へ、蹈揃えて、衝と伸ばした、抜衣紋に手拭を巻いたので、襟も隠れて見分けは附かぬ。編笠、ひたりと折合わせて、紐を深く被ったなりで、がっくりと俯向いたは、どうやら坐眠りをしていそう。
城の縄張りをした体に、車の轅の中へ、きちんと入って、腰は床几に落したのである。
飴屋か、豆屋か、団子を売るか、いずれにも荷が勝った……おでんを売るには乾いている、その看板がおもしろい。……
四
屋台の正面を横に見せた、両方の柱を白木綿で巻立てたは寂しいが、左右へ渡して紅金巾をひらりと釣った、下に横長な掛行燈。
一………………………………坂東よせ鍋
一………………………………尾上天麩羅
一………………………………大谷おそば
一………………………………市川玉子焼
一………………………………片岡 椀盛
一………………………………嵐 お萩
一………………………………坂東あべ川
一………………………………市村しる粉
一………………………………沢村さしみ
一………………………………中村 洋食
初日出揃い役者役人車輪に相勤め申候
名の上へ、藤の花を末濃の紫。口上あと余白の処に、赤い福面女に、黄色な瓢箪男、蒼い般若の可恐い面。黒の松葺、浅黄の蛤、ちょっと蝶々もあしらって、霞を薄くぼかしてある。
引寄せられて慕って来た、囃子の音には、これだけ気の合ったものは無い。が、松崎は読返してみて苦笑いした。
坂東あべ川、市村しるこ、渠はあまい名を春狐と号して、福面女に、瓢箪男、般若の面、……二十五座の座附きで駈出しの狂言方であったから。──
「串戯じゃないぜ。」
思わず、声を出して独言。
「親仁さん、おう、親仁さん。」
なぞのものぞ、ここに木賃の国、行燈の町に、壁を抜出た楽がきのごとく、陽炎に顕れて、我を諷するがごとき浅黄の頭巾は?……
屋台の様子が、小児を対手で、新粉細工を売るらしい。片岡牛鍋、尾上天麩羅、そこへ並べさせてみよう了簡。
「おい、お爺い。」
と閑なあまりの言葉がたき。わざと中ッ腹に呼んでみたが、寂寞たる事、くろんぼ同然。
で、操の糸の切れたがごとく、手足を突張りながら、ぐたりと眠る……俗には船を漕ぐとこそ言え、これは筏を流す体。
それに対して、そのまま松崎の分った袂は、我ながら蝶が羽繕いをする心地であった。
まだ十歩と離れぬ。
その物売の、布子の円い背中なぞへ、同じ木賃宿のそこが歪みなりの角から、町幅を、一息、苗代形に幅の広くなった処があって、思いがけず甍の堆い屋形が一軒。斜に中空をさして鯉の鱗の背を見るよう、電信柱に棟の霞んで聳えたのがある。
空屋か、知らず、窓も、門も、皮をめくった、面に斉しく、大な節穴が、二ツずつ、がッくり窪んだ眼を揃えて、骸骨を重ねたような。
が、月には尾花か、日向の若草、廂に伸びたも春めいて、町から中へ引込んだだけ、生ぬるいほどほかほかする。
四辺に似ない大構えの空屋に、──二間ばかりの船板塀が水のぬるんだ堰に見えて、その前に、お玉杓子の推競で群る状に、大勢小児が集っていた。
おけらの虫は、もじゃもじゃもじゃと皆動揺めく。
その癖静まって声を立てぬ。
直きその物売の前に立ちながら、この小さな群集の混合ったのに気が附かなかったも道理こそ、松崎は身に染みた狂言最中見ぶつのひっそりした桟敷うらを来たも同じだと思った。
役者は舞台で飛んだり、刎ねたり、子供芝居が、ばたばたばた。
五
大当り、尺的に矢の刺っただけは新粉屋の看板より念入なり。一面藤の花に、蝶々まで同じ絵を彩った一張の紙幕を、船板塀の木戸口に渡して掛けた。正面前の処へ、破筵を三枚ばかり、じとじとしたのを敷込んだが、日に乾くか、怪い陽炎となって、むらむらと立つ、それが舞台。
取巻いた小児の上を、鮒、鯰、黒い頭、緋鯉と見たのは赤い切の結綿仮髪で、幕の藤の花の末を煽って、泳ぐように視められた。が、近附いて見ると、坂東、沢村、市川、中村、尾上、片岡、役者の連名も、如件、おそば、お汁粉、牛鍋なんど、紫の房の下に筆ぶとに記してあった……
松崎が、立寄った時、カイカイカイと、ちょうど塀の内で木が入って、紺の衣服に、黒い帯した、円い臀が、蹠をひょい、と上げて、頭からその幕へ潜ったのを見た。──筵舞台は行儀わるく、両方へ歪んだが。
半月形に、ほかほかとのぼせた顔して、取廻わした、小さな見物、わやわやとまた一動揺。
中に、目の鋭い屑屋が一人、箸と籠を両方に下げて、挟んで食えそうな首は無しか、とじろじろと睨廻わす。
もう一人、袷の引解きらしい、汚れた縞の単衣ものに、綟綟れの三尺で、頬被りした、ずんぐり肥った赤ら顔の兄哥が一人、のっそり腕組をして交る……
二人ばかり、十二三、四五ぐらいな、子守の娘が、横ちょ、と猪首に小児を背負って、唄も唄わず、肩、背を揺る。他は皆、茄子の蔓に蛙の子。
楽屋──その塀の中で、またカチカチと鳴った。
処へ、通から、ばらばらと駈けて来た、別に二三人の小児を先に、奴を振らせた趣で、や! あの美しい女と、中折の下に眉の濃い、若い紳士と並んで来たのは、浮世の底へ霞を引いて、天降ったように見えた。
ここだ、この音だ──と云ったその紳士の言を聞いた、松崎は、やっぱり渠等も囃子の音に誘われて、男女のどちらが言出したか、それは知らぬが、連立って、先刻の電車の終点から、ともに引寄せられて来たものだと思った。
時に、その二人も、松崎も、大方この芝居の鳴物が、遠くまで聞えたのであろうと頷く……囃子はその癖、ここに尋ね当った現下は何も聞えぬ。……
絵の藤の幕間で、木は入ったが舞台は空しい。
「幕が長いぜ、開けろい。遣らねえか、遣らねえか。」
とずんぐり者の頬被は肩を揺った。が、閉ったばかり、いささかも長い幕間でない事が、自分にも可笑しいか、鼻先の手拭の結目を、ひこひこと遣って笑う。
様子が、思いも掛けず、こんな場所、子供芝居の見物の群に来た、美しい女に対して興奮したものらしい。
実際、雲の青い山の奥から、淡彩の友染とも見える、名も知れない一輪の花が、細谷川を里近く流れ出でて、淵の藍に影を留めて人目に触れた風情あり。石斑魚が飛んでも松葉が散っても、そのまま直ぐに、すらすらと行方も知れず流れよう、それをしばらくでも引留めるのは、ただちっとも早く幕を開ける外はない、と松崎の目にも見て取られた。
「頼むぜ頭取。」
頬被がまた喚く。
六
あたかもその時、役者の名の余白に描いた、福面女、瓢箪男の端をばさりと捲ると、月代茶色に、半白のちょん髷仮髪で、眉毛の下った十ばかりの男の児が、渋団扇の柄を引掴んで、ひょこりと登場。
「待ってました。」
と頬被が声を掛けた。
奴は、とぼけた目をきょろんと遣ったが、
「ちぇ、小道具め、しようがねえ。」
と高慢な口を利いて、尻端折りの脚をすってん、刎ねるがごとく、二つ三つ、舞台をくるくると廻るや否や、背後向きに、ちょっきり結びの紺兵児の出尻で、頭から半身また幕へ潜ったが、すぐに摺抜けて出直したのを見れば、うどん、当り屋とのたくらせた穴だらけの古行燈を提げて出て、筵の上へ、ちょんと直すと、奴はその蔭で、膝を折って、膝開けに踏張りながら、件の渋団扇で、ばたばたと煽いで、台辞。
「米が高値いから不景気だ。媽々めにまた叱られべいな。」
でも、ちょっと含羞んだか、日に焼けた顔を真赤に俯向く。同じ色した渋団扇、ばさばさばさ、と遣った処は巧緻いものなり。
「いよ、牛鍋。」と頬被。
片岡牛鍋と云うのであろう、が、役は饂飩屋の親仁である。
チャーン、チャーン……幕の中で鉦を鳴らす。
──迷児の、迷児の、迷児やあ──
呼ばわり連れると、ひょいひょいと三人出た……団粟ほどな背丈を揃えて、紋羽の襟巻を頸に巻いた大屋様。月代が真青で、鬢の膨れた色身な手代、うんざり鬢の侠が一人、これが前へ立って、コトン、コトンと棒を突く。
「や、これ、太吉さん、」
と差配様声を掛ける。中の青月代が、提灯を持替えて、
「はい、はい。」と返事をした。が、界隈の荒れた卵塔場から、葬礼あとを、引攫って来たらしい、その提灯は白張である。
大屋は、カーンと一つ鉦を叩いて、
「大分夜が更けました。」
「亥刻過ぎでございましょう、……ねえ、頭。」
「そうよね。」
と棒をコツン、で、くすくすと笑う。
「笑うな、真面目に真面目に、」と頬被がまた声を掛ける。
差配様が小首を傾け、
「時に、もし、迷児、迷児、と呼んで歩行きますが、誰某と名を申して呼びませいでも、分りますものでござりましょうかね。」
「私もさ、思ってるんで。……どうもね、ただこう、迷児と呼んだんじゃ、前方で誰の事だか見当が附くめえてね、迷児と呼ばれて、はい、手前でござい、と顔を出す奴もねえもんでさ。」とうんざり鬢が引取って言う。
「まずさね……それで闇がりから顔を出せば、飛んだ妖怪でござりますよ。」
青月代の白男が、袖を開いて、両方を掌で圧え、
「御道理でございますとも。それがでございますよ。はい、こうして鉦太鼓で探捜に出ます騒動ではございますが、捜されます御当人の家へ、声が聞えますような近い所で、名を呼びましては、表向の事でも極が悪うございましょう。それも小児や爺婆ならまだしも、取って十九という妙齢の娘の事でございますから。」
と考え考え、切れ切れに台辞を運ぶ。
その内も手を休めず、ばっばっと赤い団扇、火が散るばかり、これは鮮明。
七
青月代は辿々しく、
「で、ございますから、遠慮をしまして、名は呼びません、でございましたが、おっしゃる通り、ただ迷児迷児と喚きました処で分るものではございません。もう大分町も離れました、徐々娘の名を呼びましょう。」
「成程々々、御心附至極の儀。そんなら、ここから一つ名を呼んで捜す事にいたしましょう。頭、音頭を願おうかね。」
「迷児の音頭は遣りつけねえが、ままよ。……差配さん、合方だ。」
チャーンと鉦の音。
「お稲さんやあ、──トこの調子かね。」
「結構でございますね、差配さん。」
差配はも一つ真顔でチャーン。
「さて、呼声に名が入りますと、どうやら遠い処で、幽に、はあい……」と可哀な声。
「変な声だあ。」
と頭は棒を揺って震える真似する。
「この方、総入歯で、若い娘の仮声だちね。いえさ、したが何となく返事をしそうで、大に張合が着きましたよ。」
「その気で一つ伸しましょうよ。」
三人この処で、声を揃えた。チャーン──
「──迷児の、迷児の、お稲さんやあ……」
と一列び、筵の上を六尺ばかり、ぐるりと廻る。手足も小さく仇ない顔して、目立った仮髪の髷ばかり。麦藁細工が化けたようで、黄色の声で長せた事、ものを云う笛を吹くか、と希有に聞える。
美しい女は、すっと薄色の洋傘を閉めた……ヴェールを脱いだように濃い浅黄の影が消える、と露の垂りそうな清い目で、同伴の男に、ト瞳を注ぎながら舞台を見返す……その様子が、しばらく立停ろうと云うらしかった。
「鍋焼饂飩…」
と高らかに、舞台で目を眠るまで仰向いて呼んだ。
「……ああ、腹が空いた、饂飩屋。」
「へいへい、頭、難有うござります。」
うんざり鬢は額を叩いて、
「おっと、礼はまだ早かろう。これから相談だ。ねえ、太吉さん、差配さん、ちょっぴり暖まって、行こうじゃねえかね。」
「賛成。」
と見物の頬被りは、反を打って大に笑う。
仕種を待構えていた、饂飩屋小僧は、これから、割前の相談でもありそうな処を、もどかしがって、
「へい、お待遠様で。」と急いで、渋団扇で三人へ皆配る。
「早いんだい、まだだよ。」
と差配になったのが地声で甲走った。が、それでも、ぞろぞろぞろぞろと口で言い言い三人、指二本で掻込む仕形。
「頭、……御町内様も御苦労様でございます。お捜しなさいますのは、お子供衆で?」
「小児なものかね、妙齢でございますよ。」
と青月代が、襟を扱いて、ちょっと色身で応答う。
「へい、お妙齢、殿方でござりますか、それともお娘御で。」
「妙齢の野郎と云う奴があるもんか、初厄の別嬪さ。」と頭は口で、ぞろりぞろり。
「ああ、さて、走り人でござりますの。」
「はしり人というのじゃないね、同じようでも、いずれ行方は知れんのだが。」
と差配は、チンと洟をかむ。
美しい女の唇に微笑が見えた……
「いつの事、どこから、そのお姿が見えなくなりました。」
と饂飩屋は、渋団扇を筵に支いて、ト中腰になって訊く。
八
差配は溜息と共に気取って頷き、
「いつ、どこでと云ってね、お前、縁日の宵の口や、顔見世の夜明から、見えなくなったというのじゃない。その娘はね、長い間煩らって、寝ていたんだ。それから行方が知れなくなったよ。」
子供芝居の取留めのない台辞でも、ちっと変な事を言う。
「へい。」
舞台の饂飩屋も異な顔で、
「それでは御病気を苦になさって、死ぬ気で駈出したのでござりますかね。」
「寿命だよ。ふん、」と、も一つかんで、差配は鼻紙を袂へ落す。
「御寿命、へい、何にいたせ、それは御心配な事で。お怪我がなければ可うございます。」
「賽の河原は礫原、石があるから躓いて怪我をする事もあろうかね。」と陰気に差配。
「何を言わっしゃります。」
「いえさ、饂飩屋さん、合点の悪い。その娘はもう亡くなったんでございますよ。」と青月代が傍から言った。
「お前様も。死んだ迷児という事が、世の中にござりますかい。」
「六道の闇に迷えば、はて、迷児ではあるまいか。」
「や、そんなら、お前様方は、亡者をお捜しなさりますのか。」
「そのための、この白張提灯。」
と青月代が、白粉の白けた顔を前へ、トぶらりと提げる。
「捜いて、捜いて、暗から闇へ行く路じゃ。」
「ても……気味の悪い事を言いなさる。」
「饂飩屋、どうだ一所に来るか。」
と頭は鬼のごとく棒を突出す。
饂飩屋は、あッと尻餅。
引被せて、青月代が、
「ともに冥途へ連行かん。」
「来れや、来れ。」と差配は異変な声繕。
一堪りもなく、饂飩屋はのめり伏した。渋団扇で、頭を叩くと、ちょん髷仮髪が、がさがさと鳴る。
「占めたぞ。」
「喰遁げ。」
と囁き合うと、三人の児は、ひょいと躍って、蛙のようにポンポン飛込む、と幕の蔭に声ばかり。
──迷児の、迷児の、お稲さんやあ──
描ける藤は、どんよりと重く匂って、おなじ色に、閃々と金糸のきらめく、美しい女の半襟と、陽炎に影を通わす、居周囲は時に寂寞した、楽屋の人数を、狭い処に包んだせいか、張紙幕が中ほどから、見物に向いて、風を孕んだか、と膨れて見える……この影が覆蔽るであろう、破筵は鼠色に濃くなって、蹲み込んだ児等の胸へ持上って、蟻が四五疋、うようよと這った。……が、なぜか、物の本の古びた表面へ、──来れや、来れ……と仮名でかきちらす形がある。
見つつ松崎が思うまで、来れや、来れ……と言った差配の言葉は、怪しいまで陰に響いて、幕の膨らんだにつけても、誰か、大人が居て、蔭で声を助けたらしく聞えたのであった。
見物の児等は、神妙に黙って控えた。
頬被のずんぐり者は、腕を組んで立ったなり、こくりこくりと居眠る……
饂飩屋が、ぼやんとした顔を上げた。さては、差置いた荷のかわりの行燈も、草紙の絵ではない。
蟻は隠れたのである。
九
「狐か、狸か、今のは何じゃい、どえらい目に逢わせくさった。」
と饂飩屋は坂塀はずれに、空屋の大屋根から空を仰いで、茫然する。
美しい女と若い紳士の、並んで立った姿が動いて、両方木賃宿の羽目板の方を見向いたのを、──無台が寂しくなったため、もう帰るのであろうと見れば、さにあらず。
そこへ小さな縁台を据えて、二人の中に、ちょんぼりとした円髷を俯向けに、揉手でお叩頭をする古女房が一人居た。
「さあ、どうぞ、旦那様、奥様、これへお掛け遊ばして、いえ、もう汚いのでございますが、お立ちなすっていらっしゃいますより、ちっとは増でございます。」
と手拭で、ごしごし拭いを掛けつつ云う。その手で──一所に持って出たらしい、踏台が一つに乗せてあるのを下へおろした。
「いや、俺たちは、」
若い紳士は、手首白いのを挙げて、払い退けそうにした。が、美しい女が、意を得たという晴やかな顔して、黙ってそのまま腰を掛けたので。
「難有う。」
渠も斉しく並んだのである。
「はい、失礼を。はいはい、はい、どうも。」と古女房は、まくし掛けて、早口に饒舌りながら、踏台を提げて、小児たちの背後を、ちょこちょこ走り。で、松崎の背後へ廻る。
「貴方様は、どうぞこれへ。はい、はい、はい。」
「恐縮ですな。」
かねて期したるもののごとく猶予らわず腰を落着けた、……松崎は、美しい女とその連とが、去る去らないにかかわらず、──舞台の三人が鉦をチャーンで、迷児の名を呼んだ時から、子供芝居は、とにかくこの一幕を見果てないうちは、足を返すまいと思っていた。
声々に、可哀に、寂しく、遠方を幽に、──そして幽冥の界を暗から闇へ捜廻ると言った、厄年十九の娘の名は、お稲と云ったのを鋭く聞いた──仔細あって忘れられぬ人の名なのであるから。──
「おかみさん、この芝居はどういう筋だい。」
「はいはい、いいえ、貴下、子供が出たらめに致しますので、取留めはございませんよ。何の事でございますか、私どもは一向に分りません。それでも稽古だの何のと申して、それは騒ぎでございましてね、はい、はい、はい。」
で手を揉み手を揉み、正面には顔を上げずに、ひょこひょこして言う。この古女房は、くたびれた藍色の半纏に、茶の着もので、紺足袋に雪駄穿で居たのである。
「馬鹿にしやがれ。へッ、」
と唐突に毒を吐いたは、立睡りで居た頬被りで、弥蔵の肱を、ぐいぐいと懐中から、八ツ当りに突掛けながら、
「人、面白くもねえ、貴方様お掛け遊ばせが聞いて呆れら。おはいはい、襟許に着きやがって、へッ。俺の方が初手ッから立ってるんだ。衣類に脚が生えやしめえし……草臥れるんなら、こっちが前だい。服装で価値づけをしやがって、畜生め。ああ、人間下りたくはねえもんだ。」
古女房は聞かない振で、ちょこちょこと走って退いた。一体、縁台まで持添えて、どこから出て来たのか、それは知らない。そうして引返したのは町の方。
そこに、先刻の編笠目深な新粉細工が、出岬に霞んだ捨小舟という形ちで、寂寞としてまだ一人居る。その方へ、ひょこひょこ行く。
ト頬被りは、じろりと見遣って、
「ざまあ見ろ、巫女の宰取、活きた兄哥の魂が分るかい。へッ、」と肩をしゃくりながら、ぶらりと見物の群を離れた。
ついでに言おう、人間を挟みそうに、籠と竹箸を構えた薄気味の悪い、黙然の屑屋は、古女房が、そっち側の二人に、縁台を進めた時、ギロリと踏台の横穴を覗いたが、それ切りフイと居なくなった。……
いま、腰を掛けた踏台の中には、ト松崎が見ても一枚の屑も無い。
十
「おい、出て来ねえな、おお、大入道、出じゃねえか、遅いなあ。」
少々舞台に間が明いて、魅まれたなりの饂飩小僧は、てれた顔で、……幕越しに楽屋を呼んだ。
幕の端から、以前の青月代が、黒坊の気か、俯向けに仮髪ばかりを覗かせた。が、そこの絵の、狐の面が抜出したとも見えるし、古綿の黒雲から、新粉細工の三日月が覗くとも視められる。
「まだじゃねえか、まだお前、その行燈がかがみにならねえよ……科が抜けてるぜ、早く演んねえな。」
と云って、すぽりと引込む。──はてな、行燈が、かがみに化ける……と松崎は地の凸凹する蹈台の腰を乗出す。
同じ思いか、面影も映しそうに、美しい女は凝と視た。ひとり紳士は気の無い顔して、反身ながらぐったりと凭掛った、杖の柄を手袋の尖で突いたものなり。
饂飩屋は、行燈に向直ると、誰も居ないのに、一人で、へたへたと挨拶する。
「光栄なさいまし。……直ぐと暖めて差上げます。今、もし、飛んだお前さん、馬鹿な目に逢いましてね、火も台なしでござります。へい、辻の橋の玄徳稲荷様は、御身分柄、こんな悪戯はなさりません。狸か獺でござりましょう。迷児の迷児の、──と鉦を敲いて来やがって饂飩を八杯攫らいました……お前さん。」
と滑稽た眉毛を、寄せたり、離したり、目をくしゃくしゃと饒舌ったが、
「や、一言も、お返事なしだね、黙然坊様。鼻だの、口だの、ぴこぴこ動いてばかり。……あれ、誰か客人だと思ったら──私の顔だ──道理で、兄弟分だと頼母しかったに……宙に流れる川はなし──七夕様でもないものが、銀河には映るまい。星も隠れた、真暗、」
と仰向けに、空を視る、と仕掛けがあったか、頭の上のその板塀越、幕の内か潜らして、両方を竹で張った、真黒な布の一張、筵の上へ、ふわりと投げて颯と拡げた。
と見て、知りつつ松崎は、俄然として雲が湧いたか、とぎょっとした、──電車はあっても──本郷から遠路を掛けた当日。麗さも長閑さも、余り積って身に染むばかり暖かさが過ぎたので、思いがけない俄雨を憂慮ぬではなかった処。
彼方の新粉屋が、ものの遠いように霞むにつけても、家路遥かな思いがある。
また、余所は知らず、目の前のざっと劇場ほどなその空屋の裡には、本所の空一面に漲らす黒雲は、畳込んで余りあるがごとくに見えた。
暗い舞台で、小さな、そして爺様の饂飩屋は、おっかな、吃驚、わなわな大袈裟に震えながら、
「何に映る……私が顔だ、──行燈か。まさかとは思うが、行燈か、行燈か?……返事をせまいぞ。この上手前に口を利かれては叶わねえ。何分頼むよ。……面の皮は、雨風にめくれたあとを、幾たびも張替えたが、火事には人先に持って遁げる何十年以来の古馴染だ。
馴染がいに口を利くなよ、私が呼んでも口を利くなよ。はて、何に映る顔だ知らん。……口を利くな、口を利くな。」
……と背の低いのが、滅入込みそうに、大な仮髪の頸を窘め、ひッつりそうな拳を二つ、耳の処へ威すがごとく、張肱に、しっかと握って、腰をくなくなと、抜足差足。
で、目を据え、眉を張って、行燈に擦寄り擦寄り、
「はて、何に映った顔だ知らん、行燈か、行燈か、……口を利くなよ、行燈か。」
と熟と覗く。
途端に、沈んだが、通る声で、
「私……行燈だよ。」
「わい、」と叫んで、饂飩屋は舞台を飛退く。
十一
この古行燈が、仇も情も、赤くこぼれた丁子のごとく、煤の中に色を籠めて消えずにいて、それが、針の穴を通して、不意に口を利いたような女の声には、松崎もぎょっとした。
饂飩屋は吃驚の呼吸を引いて、きょとんとしたが
「俺あ可厭だぜ。」と押殺した低声で独言を云ったと思うと、ばさりと幕摺れに、ふらついて、隅から蹌踉け込んで見えなくなった。
時に──私……行燈だよ、──と云ったのは、美しい女である事に、松崎も心附いて、──驚いて楽屋へ遁げた小児の状の可笑さに、莞爾、笑を含んだ、燃ゆるがごときその女の唇を見た。
「つい言ッちまったのよ。」
と紳士を見向く。
「困った人だね、」
と杖を取って、立構えをしながら、
「さあ、行こうか。」
「可いわ、もうちっと……」
「恐怖いよう。」
と子守の袂にぶら下った小さな児が袖を引張って言う。
「こわいものかね、行燈じゃないわ。……綺麗な奥さんが言ったんだわ。」とその子守は背の子を揺り上げた。
舞台を取巻いた大勢が、わやわやとざわついて、同音に、声を揚げて皆笑った……小さいのが二側三側、ぐるりと黒く塊ったのが、変にここまで間を措いて、思出したように、遁込んだ饂飩屋の滑稽な図を笑ったので、どっというのが、一つ、町を越した空屋の裏あたりに響いて、壁を隔てて聞くようにぼやけて寂しい。
「東西、東西。」
青月代が、例の色身に白い、膨りした童顔を真正面に舞台に出て、猫が耳を撫でる……トいった風で、手を挙げて、見物を制しながら、おでんと書いた角行燈をひょいと廻して、ト立直して裏を見せると、かねて用意がしてあった……その一小間が藍を濃く真青に塗ってあった。
行燈が化けると云った、これが、かがみのつもりでもあろう、が、上を蔽うた黒布の下に、色が沈んで、際立って、ちょうど、間近な縁台の、美しい女と向合せに据えたので、雪なす面に影を投げて、媚かしくも凄くも見える。
青月代は飜然と潜った。
それまでは、どれもこれも、吹矢に当って、バッタリと細工ものが顕れる形に、幕へ出入りのひょっこらさ加減、絵に描いた、小松葺、大きな蛤十ばかり一所に転げて出そうであったが。
舞台に姿見の蒼い時よ。
はじめて、白玉のごとき姿を顕す……一人の立女形、撫肩しなりと脛をしめつつ褄を取った状に、内端に可愛らしい足を運んで出た。糸も掛けない素の白身、雪の練糸を繰るように、しなやかなものである。
背丈恰好、それも十一二の男の児が、文金高髷の仮髪して、含羞だか、それとも芝居の筋の襯染のためか、胸を啣える俯向き加減、前髪の冷たさが、身に染む風情に、すべすべと白い肩をすくめて、乳を隠す嬌態らしい、片手柔い肱を外に、指を反らして、ひたりと附けた、その頤のあたりを蔽い、額も見せないで、なよなよと筵に雪の踵を散らして、静に、行燈の紙の青い前。
十二
綿かと思う柔な背を見物へ背後むきに、その擬えし姿見に向って、筵に坐ると、しなった、細い線を、左の白脛に引いて片膝を立てた。
この膝は、松崎の方へ向く。右の掻込んで、その腰を据えた方に、美しい女と紳士の縁台がある。
まだ顔を見せないで、打向った青行燈の抽斗を抜くと、そこに小道具の支度があった……白粉刷毛の、夢の覚際の合歓の花、ほんのりとあるのを取って、媚かしく化粧をし出す。
知ってはいても、それが男の児とは思われない。耳朶に黒子も見えぬ、滑かな美しさ。松崎は、むざと集って血を吸うのが傷しさに、蹈台の蚊をしきりに気にした
蹈台の蚊は、おかしいけれども、はじめ腰掛けた時から、間を措いては、ぶんと一つ、ぶんとまた一つ、穴から唸って出る……足と足を摺合わせたり、頭を掉ったり、避けつ払いつしていたが、日脚の加減か、この折から、ぶくぶくと溝から泡の噴く体に数を増した。
人情、なぜか、筵の上のその皓体に集らせたくないので、背後へ、町へ、両の袂を叩いて払った。
そして、この血に餓えて呻く虫の、次第に勢を加えたにつけても、天気模様の憂慮しさに、居ながら見渡されるだけの空を覗いたが、どこのか煙筒の煙の、一方に雪崩れたらしい隈はあったが、黒しと怪む雲はなかった。ただ、町の静さ。板の間の乾びた、人なき、広い湯殿のようで、暖い霞の輝いて淀んで、漾い且つ漲る中に、蚊を思うと、その形、むらむら波を泳ぐ海月に似て、槊を横えて、餓えたる虎の唄を唄って刎ねる。……
この影がさしたら、四ツ目あたりに咲き掛けた紅白の牡丹も曇ろう。……嘴を鳴らして、ひらりひらりと縦横無尽に踊る。
が、現なの光景は、長閑な日中の、それが極度であった。──
やがて、蚊ばかりではない、舞台で狐やら狸やら、太鼓を敲き笛を吹く……本所名代の楽器に合わせて、猫が三疋。小夜具を被って、仁王立、一斗樽の三ツ目入道、裸の小児と一所になって、さす手の扇、ひく手の手拭、揃って人も無げに踊出した頃は、俄雨を運ぶ機関車のごとき黒雲が、音もしないで、浮世の破めを切張の、木賃宿の数の行燈、薄暗いまで屋根を圧して、むくむくと、両国橋から本所の空を渡ったのである。
次第は前後した。
これより前、姿見に向った裸の児が、濃い化粧で、襟白粉を襟長く、くッきりと粧うと、カタンと言わして、刷毛と一所に、白粉を行燈の抽斗に蔵った時、しなりとした、立膝のままで、見物へ、ひょいと顔を見せたと思え。
島田ばかりが房々と、やあ、目も鼻も無い、のっぺらぼう。
唇ばかり、埋め果てぬ、雪の紅梅、蕊白く莞爾した。
はっと美しい女は身を引いて、肩を摺った羽織の手先を白々と紳士の膝へ。
額も頬も一分、三分、小鼻も隠れたまで、いや塗ったとこそ言え。白粉で消した顔とは思うが、松崎さえ一目見ると変な気がした。
そこへ、件の三ツ目入道、どろどろどろと顕れけり
十三
樽を張子で、鼠色の大入道、金銀張分けの大の眼を、行燈見越に立はだかる、と縄からげの貧乏徳利をぬいと突出す。
「丑満の鐘を待兼ねたやい。……わりゃ雪女。」
とドス声で甲を殺す……この熊漢の前に、月からこぼれた白い兎、天人の落し児といった風情の、一束ねの、雪の膚は、さては化夥間の雪女であった。
「これい、化粧が出来たら酌をしろ、ええ。」
と、どか胡坐、で、着ものの裾が堆い。
その地響きが膚に応えて、震える状に、脇の下を窄めるから、雪女は横坐りに、
「あい、」と手を支く。
「そりゃ、」
と徳利を突出した、入道は懐から、鮑貝を掴取って、胸を広く、腕へ引着け、雁の首を捻じるがごとく白鳥の口から注がせて、
「わりゃ、わなわなと震えるが、素膚に感じるか、いやさ、寒いか。」と、じろじろと視めて寛々たり。
雪女細い声。
「はい……冷とうござんすわいな。」
「ふん、それはな、三途河の奪衣婆に衣を剥がれて、まだ間が無うて馴れぬからだ。ひくひくせずと堪えくされ。雪女が寒いと吐すと、火が火を熱い、水が水を冷い、貧乏人が空腹いと云うようなものだ。汝が勝手の我ままだ。」
「情ない事おっしゃいます、辛うて辛うてなりませんもの。」
とやっぱり戦く。その姿、あわれに寂しく、生々とした白魚の亡者に似ている。
「もっともな、わりゃ……」
言い掛けた時であった。この見越入道、ふと絶句で、大な樽の面を振って、三つ目を六つに晃々ときょろつかす。
幕の蔭と思う絵の裏で、誰とも知らず、静まった藤の房に、生温い風の染む気勢で、
「……紅蓮、大紅蓮、紅蓮、大紅蓮……」と後見をつけたものがある。
「紅蓮、大紅蓮の地獄に来って、」
と大入道は樽の首を揺据えた。
「わりゃ雪女となりおった。が、魔道の酌取、枕添、芸妓、遊女のかえ名と云うのだ。娑婆、人間の処女で……」
また絶句して、うむと一つ、樽に呼吸を詰めて支えると、ポカンとした叩頭をして、
「何だっけね、」
と可愛い声。
「お稲、」と雪女が小さく言った。
松崎は耳を澄ます。
と同時であった。
「……お稲、お稲さんですって、……」と目のふちに、薄く、行燈の青い影が射した。美しい女は、ふと紳士を見た。
「お稲荷、稲荷さんと云うんだね、白狐の化けた処なんだろう。」
わけもなくそう云って、紳士は、ぱっと巻莨に火を点ずる。
その火が狐火のように見えた。
「ああ、そうなのね。」
美しい女は頷いたのである。
松崎も、聞いて、成程そうらしくも見て取った。
「むむ、そのお稲で居た時の身の上話、酒の肴に聞かさんかい。や、ただわなわなと震えくさる、まだ間が無うて馴れぬからだ。こりゃ、」
と肩へむずと手を掛けると、ひれ伏して、雪女は溶けるように潸然と泣く。
十四
「陰気だ陰気だ、此奴滅入って気が浮かん、こりゃ、汝等出て燥げやい。」
三ツ目入道、懐手の袖を刎ねて、飽貝の杯を、大く弧を描いて楽屋を招く。
これの合図に、相馬内裏古御所の管絃。笛、太鼓に鉦を合わせて、トッピキ、ひゃら、ひゃら、テケレンどん、幕を煽って、どやどやと異類異形が踊って出でた。
狐が笛吹く、狸が太鼓。猫が三疋、赤手拭、すッとこ被り、吉原かぶり、ちょと吹流し、と気取るも交って、猫じゃ猫じゃの拍子を合わせ、トコトンと筵を踏むと、塵埃立交る、舞台に赤黒い渦を巻いて、吹流しが腰をしゃなりと流すと、すッとこ被りが、ひょいと刎ねる、と吉原被りは、ト招ぎの手附。
狸の面、と、狐の面は、差配の禿と、青月代の仮髪のまま、饂飩屋の半白頭は、どっち付かず、鼬のような面を着て、これが鉦で。
時々、きちきちきちきちという。狐はお定りのコンを鳴く。狸はあやふやに、モウと唸って、膝にのせた、腹鼓。
囃子に合わせて、猫が三疋、踊る、踊る、いや踊る事わ。
青い行燈とその前に突伏した、雪女の島田のまわりを、ぐるりぐるりと廻るうちに、三ツ目入道も、ぬいと立って、のしのしと踊出す。
続いて囃方惣踊り。フト合方が、がらりと替って、楽屋で三味線の音を入れた。
──必ずこの事、この事必ず、丹波の太郎に沙汰するな、この事、必ず、丹波の太郎に沙汰するな──
と揃って、異口同音に呼ばわりながら、水車を舞込むごとく、次第びきに、ぐるぐるぐる。……幕へ衝と消える時は、何ものか居て、操りの糸を引手繰るように颯と隠れた。
筵舞台に残ったのは、青行燈と雪女。
悄れて、一人、ただうなだれているのであった。
上なる黒い布は、ひらひらと重くなった……空は化物どもが惣踊りに踊る頃から、次第に黒くなったのである。
美しい女は、はずして、膝の上に手首に掛けた、薄色のショオルを取って、撫肩の頸に掛けて身繕い。
此方に松崎ももう立とうとした。
青月代が、ひょいと覗いた。幕の隙間へ頤を乗せて、
「誰か、おい、前掛を貸してくんな、」と見物を左右に呼んだ。
「前掛を貸しておくれよ、……よう、誰でも。」
美しい女から、七八人小児を離れて、二人並んでいた子守の娘が、これを聞くと真先にあとじさりをした。言訳だけも赤い紐の前掛をしていたのは、その二人ぐらいなもので、……他は皆、横撫での袖とくいこぼしの膝、光るのはただ垢ばかり。
傍から、また饂飩屋が出て舞台へ立った。
「これから女形が演処なんだぜ。居所がわりになるんだけれど、今度は亡者じゃねえよ、活きてる娘の役だもの。裸では不可えや、前垂を貸しとくれよ。誰か、」
「後生だってば、」
と青月代も口を添える。
子守の娘はまた退った。
幼い達は妙にてれて、舞台の前で、土をいじッて俯向いたのもあるし、ちょろちょろ町の方へ立つのもあった。
「吝れだなあ。」
饂飩屋がチョッ、舌打する。
「貸してくれってんだぜ、……きっと返すッてえに。……可哀相じゃないか、雪女になったなりで裸で居ら。この、お稲さんに着せるんだよ。」
と青月代も前へ出て、雪女の背筋のあたりを冷たそうに、ひたりと叩いた……
「前掛でなくては。不可いの?」
美しい人はすッと立った。
紳士は仰向いて、妙な顔色。
松崎の、うっかり帰られなくなったのは言うまでもなかろう。
十五
「兄さん、他のものじゃ間に合わない?」
あきれ顔な舞台の二人に、美しい女は親しげにそう云った。
「他の物って、」と青月代は、ちょんぼり眉で目をぱちくる。
「羽織では。」
美しい女は華奢な手を衣紋に当てた。
「羽織なら、ねえ、おい。」
「ああ、そんな旨え事はねえんだけれど、前掛でさえ、しみったれているんだもの、貸すもんか。それだしね、羽織なんて誰も持ってやしませんぜ。」
と饂飩屋は吐出すように云う。成程、羽織を着たものは、ものの欠片も見えぬ。
「可ければ、私のを貸してあげるよ。」
美しい女は、言の下に羽織を脱いだ、手のしないは、白魚が柳を潜って、裏は篝火がちらめいた、雁がねむすびの紋と見た。
「品子さん、」
紳士は留めようとして、ずッと立つ。
「可いのよ、貴方。」
と見返りもしないで、
「帯がないじゃないか、さあ、これが可いわ。」と一所に肩を辷った、その白と、薄紫と、山が霞んだような派手な羅のショオルを落してやる……
雪女は、早く心得て、ふわりとその羽織を着た、黒縮緬の紋着に緋を襲ねて、霞を腰に、前へすらりと結んだ姿は、あたかも可し、小児の丈に裾を曳いて、振袖長く、影も三尺、左右に水が垂れるばかり、その不思議な媚しさは、貸小袖に魂が入って立ったとも見えるし、行燈の灯を覆うた裲襠の袂に、蝴蝶が宿って、夢が徜徉とも見える。
「難有う、」
「奥さん難有う。」
互に、青月代と饂飩屋が、仮髪を叩いて喜び顔。
雪女の、その……擬えた……姿見に向って立つ後姿を、美しい女は、と視めて、
「島田も可いこと、それなりで角かくしをさしたいようだわ……ああ、でも扱帯を前帯じゃどう。遊女のようではなくって、」
「構わないの、お稲さんが寝衣の処だから、」
「ああ、ちょっと。」
と美しい女が留める間に、聞かれた饂飩屋はツイと引込む。
「あら、やっぱりお稲さん、お稲さんですわ、貴方。」
と言う。紳士を顧みた美しい女の睫が動いて、目瞼が屹と引緊った。
「何、稲荷だよ、おい、稲荷だろう。」
紳士も並んで、見物の小児の上から、舞台へ中折を覗かせた。
「ねえ、この人の名は?……」
黒縮緬の雪女は、さすが一座に立女形の見識を取ったか、島田の一さえ、端然と済まして口を利こうとしないので、美しい女はまた青月代に、そう訊いた。
「嵐お萩ッてえの……東西々々。」
と飜然と隠れる。
「芸名ではない。役の娘の名を聞かしておくれ、何て云うの、よ、お前。」
と美しい女は、やや急込んで言って、病身らしく胸を圧えた。脱いだ羽織の、肩寒そうな一枚小袖の嬌娜姿、雲を出でたる月かと視れば、離れた雲は、雪女に影を宿して、墨絵に艶ある青柳の枝。
春の月の凄きまで、蒼青な、姿見の前に、立直って、
「お稲です。」
と云って、ふと見向いた顔は、目鼻だち、水に朧なものではなかった。
十六
舞台は居所がわりになるのだ、と楽屋のものが云った、──俳優は人に知らさないのを手際に化ものの踊るうち、俯向伏している間に、玉の曇を拭ったらしい。……眉は鮮麗に、目はぱっちりと張を持って、口許の凜とした……やや強いが、妙齢のふっくりとした、濃い生際に白粉の際立たぬ、色白な娘のその顔。
松崎は見て悚然とした……
名さえ──お稲です──
肖たとは迂哉。今年如月、紅梅に太陽の白き朝、同じ町内、御殿町あたりのある家の門を、内端な、しめやかな葬式になって出た。……その日は霜が消えなかった──居周囲の細君女房連が、湯屋でも、髪結でもまだ風説を絶さぬ、お稲ちゃんと云った評判娘にそっくりなのであった。
「私も今はじめて聞いて吃驚したの。」
その時、松崎の女房は、二階へばたばたと駈上り、御注進と云う処を、鎧が縞の半纏で、草摺短な格子の前掛、ものが無常だけに、ト手は飜さず、すなわち尋常に黒繻子の襟を合わせて、火鉢の向うへ中腰で細くなる……
髪も櫛巻、透切れのした繻子の帯、この段何とも致方がない。亭主、号が春狐であるから、名だけは蘭菊とでも奢っておけ。
春狐は小机を横に、座蒲団から斜になって、
「へーい、ちっとも知らなかった。」
「私もさ……今ね、内の出窓の前に、お隣家の女房さんが立って、通の方を見てしくしく泣いていなさるから、どうしたんですって聞いたんです。可哀相に……お稲ちゃんのお葬式が出る所だって、他家の娘でも最惜くってしようがないって云うんでしょう。──そう云えば成程何だわね、この節じゃ多日姿を見なかったわね、よくお前さん、それ、あの娘が通ると云うと、箸をカチリと置いて出窓から、お覗きだっけがね。」
苦笑いで、春狐子。
「余計な事を言いなさんな、……しかし惜いね、ちょっとないぜ、ここいらには、あのくらいな一枚絵は。」
「うっかり下町にだってあるもんですか。」
「などと云うがね、お前もお長屋月並だ。……生きてるうちは、そうまでは讃めない奴さ、顔がちっと強すぎる、何のってな。」
「ええ、それは廂髪でお茶の水へ通ってた時ですわ。もう去年の春から、娘になって、島田に結ってからといったら、……そりゃ、くいつきたいようだったの。
髮のいい事なんて、もっとも盛も盛だけれども。」
「幾歳だ。」
「十九……明けてですよ。」
「ああ、」と思わず煙管を落した。
「勿論、お婿さんは知らずらしいね。」
「ええ、そのお婿さんの事で、まあ亡くなったんですよ。」
はっと思い、
「や、自殺か。」
「おお吃驚した……慌てるわねえ、お前さんは。いいえ、自殺じゃないけれども、私の考えだと、やっぱり同一だわ、自殺をしたのも。」
「じゃどうしたんだよ。」
「それがだわね。」
「焦ったい女だな。」
「ですから静にお聞きなさいなね、稲ちゃんの内じゃ、成りたけ内証に秘していたんだそうですけれど、あの娘はね、去年の夏ごろから──その事で──狂気になったんですって。」
「あの、綺麗な娘が。」
「まったくねえ。」
と俯向いて、も一つ半纏の襟を合わせる。
十七
「妙齢で、あの容色ですからね、もう前にから、いろいろ縁談もあったそうですけれど、お極りの長し短しでいた処、お稲ちゃんが二三年前まで上っていなすった……でも年二季の大温習には高台へ出たんだそうです……長唄のお師匠さんの橋渡しで。
家は千駄木辺で、お父さんは陸軍の大佐だか少将だか、それで非職てるの。その息子さんが新しい法学士なんですって……そこからね、是非、お嫁さんに欲いって言ったんですとさ。
途中で、時々顔を見合って、もう見合いなんか済んでるの。男の方は大変な惚方なのよ。もっとも家同士、知合いというんでも何でもないんですから、口を利いたことなんて、そりゃなかったんでしょうけれど、ほんに思えば思わるるとやらだわね。」
半纏着の蘭菊は、指のさきで、火鉢の縁へちょいと当って、
「お稲ちゃんの方でも、嬉しくない事はなかったんでしょう。……でね、内々その気だったんだって、……お師匠さんは云うんですとさ、──隣家の女房さんの、これは談話よ。」
まだ卒業前ですから、お取極めは、いずれ学校が済んでからッて事で、のびのびになっていたんだそうですがね。
去年の春、お茶の水の試験が済むと、さあ、その翌日にでも結納を取替わせる勢で、男の方から急込んで来たんでしょう。
けれども、こっちぢゃ煮切らない、というのがね──あの、娘にはお母さんがありません。お父さんというのは病身で、滅多に戸外へも出なさらない、何でも中気か何からしいんです──後家さんで、その妹さん、お稲ちゃんには叔母に当る、お婆さんのハイカラが取締って、あの娘の兄さん夫婦が、すっかり内の事を遣っているんだわね。
その兄さんというのが、何とか云う、朝鮮にも、満洲とか、台湾にも出店のある、大な株式会社に、才子で勤めているんです。
その何ですとさ、会社の重役の放蕩息子が、ダイヤの指輪で、春の歌留多に、ニチャリと、お稲ちゃんの手を圧えて、おお可厭だ。」
と払う真似して、
「それで、落第、もう沢山。」
「どうだか。」
「ほんとうですとも。それからそのニチャリが、」
「右のな、」
と春狐は、ああと歎息する。
「ええ、ぞっこんとなって、お稲ちゃんをたってと云うの、これには嫂が一はながけに乗ったでしょう。」
「極りでいやあがる。」
「大分、お芝居になって来たわね。」
「余計な事を言わないで……それから、」
「兄さんの才子も、やっぱりその気だもんですからね、いよいよという談話の時、きっぱり兄さんから断ってしまったんですって──無い御縁とおあきらめ下さい、か何かでさ。」
「その法学士の方をだな、──無い御縁が凄じいや、てめえが勝手に人の縁を、頤にしゃぼん玉の泡沫を塗って、鼻の下を伸ばしながら横撫でに粧やあがる西洋剃刀で切ったんじゃないか。」
「ねえ……鬱いでいましたとさ、お稲ちゃんは、初心だし、世間見ずだから、口へ出しては何にも言わなかったそうだけれど……段々、御飯が少くなってね、好なものもちっとも食べない。
その癖、身じまいをする事ったら、髪も朝に夕に撫でつけて、鬢の毛一筋こぼしていた事はない。肌着も毎日のように取替えて、欠かさずに湯に入って、綺麗にお化粧をして、寝る時はきっと寝白粧をしたんですって。
皓歯に紅よ、凄いようじゃない事、夜が更けた、色艶は。
そして二三度見つかりましたとさ。起返って、帯をお太鼓にきちんと〆めるのを──お稲や、何をおしだって、叔母さんが咎めた時、──私はお母さんの許へ行くの──
そう云ってね、枕許へちゃんと坐って、ぱっちり目を開けて天井を見ているから、起きてるのかと思うと、現で正体がないんですとさ。
思詰めたものだわねえ。」
十八
「まだね。危いってないの。聞いても、ひやひやするのはね、夜中に密と箪笥の抽斗を開けたんですよ。」
「法学士の見合いの写真?……」
「いいえ、そんなら可いけれど、短刀を密と持ったの、お母さんの守護刀だそうですよ……そんな身だしなみのあったお母さんの娘なんだから、お稲ちゃんの、あの、きりりとして……妙齢で可愛い中にも品の可かった事を御覧なさい。」
「余り言うのはよせ、何だか気を受けて、それ、床の間の花が、」
「あれ、」
と見向く、と朱鷺色に白の透しの乙女椿がほつりと一輪。
熟と視たが、狭い座敷で袖が届く、女房は、くの字に身を開いて、色のうつるよう掌に据えて俯向いた。
隙間もる冷い風。
「ああ、四辻がざわざわする、お葬式が行くんですよ。」
と前掛の片膝、障子へ片手。
「二階の欄干から見る奴があるものか。見送るなら門へお出な。」
「止しましょう、おもいの種だから……」
と胸を抱いて、
「この一輪は蔭ながら、お手向けになったわね。」と、鼻紙へ密と置くと、冷い風に淡い紅……女心はかくやらむ。
窓の障子に薄日が映した。
「じゃ死のうという短刀で怪我でもして、病院へ入ったのかい。」
「いいえ、それはもう、家中で要害が厳重よ。寝る時分には、切れものという切れものは、そっくり一つ所へ蔵って、錠をおろして、兄さんがその鍵を握って寝たんだっていうんですもの。」
「ははあ、重役の忰に奉って、手繰りつく出世の蔓、お大事なもんですからな。……会社でも鍵を預る男だろう。あの娘の兄と云えば、まだ若かろうに何の真似だい。」
「お稲ちゃんは、またそんなでいて、しくしく泣き暮らしてでも、お在だったかと思うと、そうじゃないの……精々裁縫をするんですって。自分のものは、肌のものから、足袋まで、綺麗に片づけて、火熨斗を掛けて、ちゃんと蔵って、それなり手を通さないでも、ものの十日も経つと、また出して見て洗い直すまでにして、頼まれたものは、兄さんの嬰児のおしめさえ折りめの着くほど洗濯してさ。」
「おやおや、兄の嬰児の洗濯かね。」
「嫂というのが、ぞろりとして何にもしやしませんやね。またちょっとふめるんだわ。そりゃお稲ちゃんの傍へは寄附けもしませんけれども。それでもね、妹が美しいから負けないようにって、──どういう了簡ですかね、兄さんが容色望みで娶ったっていうんですから……
小児は二人あるし、家は大勢だし、小体に暮していて、別に女中っても居ないんですもの、お守りから何から、皆、お稲ちゃんがしたんだわ。」
「ははあ、その児だ……」
ともすると、──それが夕暮が多かった──嬰児を背負って、別にあやすでもなく、結いたての島田で、夕化粧したのが、顔をまっすぐに、清い目を睜って、蝙蝠も柳も無しに、何を見るともなく、熟と暮れかかる向側の屋根を視めて、其家の門口に彳んだ姿を、松崎は両三度、通りがかりに見た事がある。
面影は、その時の見覚えで。
出窓の硝子越に、娘の方が往かえりの節などは、一体傍目も触らないで、竹をこぼるる露のごとく、すいすいと歩行く振、打水にも褄のなずまぬ、はで姿、と思うばかりで、それはよくは目に留まらなかった。
が、思い当る……葬式の出たあとでも、お稲はその身の亡骸の、白い柩で行く状を、あの、門に一人立って、さも恍惚と見送っているらしかった。
十九
女房は語続けた──
「お稲ちゃんが、そんなに美しく身のまわりの始末をしたのも、あとで人に見られて恥かしくないように躾んでいたんだわね──そして隙さえあれば、直ぐに死ぬ気で居たんでしょう、寝しなにお化粧をするのなんか。
ですから、病院へ入ったあとで、針箱の抽斗にも、畳紙の中にも、皺になった千代紙一枚もなく……油染みた手柄一掛もなかったんですって。綺麗にしておいたんだわ……友達から来た手紙なんか、中には焼いたのもあるんですって、……心掛けたじゃありませんか。惜まれる娘は違うわね。
ぐっと取詰めて、気が違った日は、晩方、髪結さんが来て、鏡台に向っていた時ですって。夏の事でね、庭に紫陽花が咲いていたせいか、知らないけれど、その姿見の蒼さったら、月もささなかったって云うんですがね。──そして、お稲ちゃんのその時の顔ぐらい、色の白いって事は覚えないんですとさ──
髪結さんが、隣家の女房へ談話なんです。
同一のが廻りますからね。
隣家と、お稲ちゃん許と、同一のは、そりゃ可いけれど、まあ、飛んでもない事……その法学士さんの家が、一つ髪結さんだったんでしょう。だもんだから、つい、その頃、法学士さんに、余所からお嫁さんが来て、……箱根へ新婚旅行をして帰った日に頼まれて行って、初結いをしたって事を……可ござんすか……お稲ちゃんの島田を結いながら、髪結さんが話したんです。」
「ああ、悪い。」
と春狐は聞きながら、眉を顰めた。
同じように、打顰んで、蘭菊は、つげの櫛で鬢の毛を、ぐいと撫でた。
「……気を附けないと……何でも髪結さんが、得意先の女の髪を一条ずつ取って来て、内証で人のと人のと結び合わせて蔵っておいて御覧なさい。
世間は直ぐに戦争よりは余計乱れると、私、思うんですよ。
お稲さんは黙って俯向いていたんですって。左挿しに、毛筋を通して銀の平打を挿込んだ時、先が突刺りやしないかと思った。はっと髪結さんが抜戻した発奮で、飛石へカチリと落ちました。……
──口惜しい──とお稲ちゃんが言ったんですって。根揃え自慢で緊めたばかりの元結が、プッツリ切れ、背中へ音がして颯と乱れたから、髪結さんは尻餅をつきましたとさ。
でも、髪結さんは、あの娘の髪の事ばかり言って惜がってるそうですよ。あんな、美しい、柔軟な、艶の可い髪は見た事がないってね、──死骸を病院から引取る時も、こう横に抱いて、看護婦が二人で担架へ移そうとすると、背中から、ずッとかかって、裾よりか長うござんしたって……ほんとうに丈にも余るというんだわね。」
「ああ……聞いても惜い……何のために、髪までそんなに美しく世の中へ生れて来たんだ。」
春狐は思わず、詰るがごとく急込んで火鉢を敲いた。
「ねえ、私にだって分りませんわ。」
「で、どうしたんだい。」
「お稲ちゃんは、髪を結った、その時きり、夢中なの。別に駈出すの、手が掛るのって事はなかったんだそうですけれど、たださえ細った食が、もうまるっきり通りますまい。
賺しても、叱っても。
しようがないから、病院へ入れたんです。お医者さんも初から首をお傾げだったそうですよ。
まあね。それでも出来るだけ手当をしたにはしたそうだけれど、やっぱり、……ねえ……おとむらいになってしまって──」
と薄りした目のうちが、颯とさめると、ほろりとする。
二十
春狐は肩を聳かした。
「なったんじゃない……葬式にされたんだ。殺されたんだよ。だから言わない事じゃない、言語道断だ、不埒だよ。妹を餌に、鰌が滝登りをしようなんて。」
「ええ、そうよ……ですからね、兄って人もお稲ちゃんが病院へ入って、もう不可ないっていう時分から、酷く何かを気にしてさ。嬰児が先に死ぬし、それに、この葬式の中だ、というのに、嫂だわね、御自慢の細君が、またどっと病気で寝ているもんだから、ああ稲がとりに来たとりに来たって、蔭ではそう云っていますとさ。」
「待っていた、そうだろう。その何だ、ハイカラな叔母なんぞを血祭りに、家中鏖殺に願いたい。ついでにお父さんの中気だけ治してな。」と妙に笑った。
「まあ、」
と目を睜って、
「串戯じゃないわ、人の気も知らないで。」
「無論、串戯ではないがね、女言濫りに信ずべからず、半分は嘘だろう。」
「いいえ!」
「まあさ、お前の前だがね、隣の女房というのが、また、とかく大袈裟なんですからな。」
「勝手になさいよ、人に散々饒舌らしといて、嘘じゃないわ。ねえ、お稲ちゃん、女は女同士だわね。」
と乙女椿に頬摺りして、鼻紙に据えて立つ……
実はそれさえ身に染みた。
床の間にも残ったが、と見ると、莟の堅いのと、幽に開いた二輪のみ。
「ちょっと、お待ち。」
「何、」と襖に手を掛ける。
「でも、少し気になるよ、肝心、焦れ死をされた、法学士の方は、別に聞いた沙汰なしかい。」
「先方でもね、お稲ちゃんがその容体だってのを聞いて、それはそれは気の毒がってね──法学士さんというのが、その若い奥さんに、真になって言ったんだって──お前は二度目だ。後妻だと思ってくれ。お稲さんとは、確に結婚したつもりだって──」
春狐はふと黙ってそれには答えず……
「ああ、その椿は、成りたけ川へ。」
「流しましょうね、ちょっと拝んで、」
と二階を下りる、……その一輪の朱鷺色さえ、消えた娘の面影に立った。
が、幻ならず、最も目に刻んで忘れないのは、あの、夕暮を、門に立って、恍惚空を視めた、およそ宇宙の極まる所は、艶やかに且つ黒きその一点の秘密であろうと思う、お稲の双の瞳であった。
同じその瞳である。同じその面影である。……
──お稲です──
と云って、振向いた時の、舞台の顔は、あまつさえ、凝えたにせよ、向って姿見の真蒼なと云う行燈があろうではないか。
美しい女は屹と紳士を振向いた。
「貴方。」
若い紳士は、杖を小脇に、細い筒袴で、伸掛って覗いて、
「稲荷だろう、おい、狐が化けた所なんだろう。」と中折の廂で押つけるように言った。
羽織に、ショオルを前結び。またそれが、人形に着せたように、しっくりと姿に合って、真向きに直った顔を見よ。
「いいえ、私はお稲です。」
紳士は、射られたように、縁台へ退った。
美しい女の褄は、真菰がくれの花菖蒲、で、すらりと筵の端に掛った……
「ああ、お稲さん。」
と、あたかもその人のように呼びかけて、
「そう。そして、どうするの。」
お稲は黙って顔を見上げた。
小さなその姿は、ちょうど、美しい女が、脱いだ羽織をしなやかに、肱に掛けた位置に、なよなよとして見える。
「止せ!品子さん。」
「可いわ。」
「見っともないよ。」
「私は構わないの。」
二十一
「ねえ、お稲さん、どうするの。」
とまた優しく聞いた。
「どうするって、何、小母さん。」
役者は、ために羽織を脱いだ御贔屓に対して、舞台ながらもおとなしい。
「あのね、この芝居はどういう脚色なの、それが聞きたいの。」
「小母さん見ていらっしゃい。」
と云った。
その間も、縁台に掛けたり、立ったり、若い紳士は気が気ではなさそうであった。
「おい、もう帰ろうよ、暗くなった。」
雲にも、人にも、松崎は胸が轟く。
「待ってて下さい。」
と見返りもしないで、
「見ますよ、見るけれどもね、ちょっと聞かして下さいな。ね、いい児だから。」
「だって、言ったって、芝居だって、同一なんですもの、見ていらっしゃい。」
「急ぐから、先へ聞きたいの、ええ、不可い。」
お稲は黙って頭を掉る。
「まあ、強情だわねえ。」
「強情ではござりませぬ。」
と思いがけず幕の中から、皺がれた声を掛けた。美しい女は瞳を注いだ、松崎は衝と踏台を離れて立った。──その声は見越入道が絶句した時、──紅蓮大紅蓮とつけて教えた、目に見えぬものと同一であった。
「役者は役をしますのじゃ。何も知りませぬ。貴女がお急ぎであらばの、衣裳をお返し申すが可い。」
と半ば舞台に指揮をする。
「いいえ、羽織なんか、どうでも可いの、ただ私、気になるんです。役者が知らないなら、誰でも構いません。差支えなかったら聞かして下さい。一体ここはどこなんです。」
「六道の辻の小屋がけ芝居じゃ。」
と幕が動くように向うで言った。
松崎は、思わず紳士と目を見合った。小児なぞは眼中にない、男は二人のみだったから。
美しい女は、かえって恐れげもなくこう言った。
「ああ、分りました、そしてお前さんは?」
「いろいろの魂を瓶に入れて持っている狂言方じゃ。たって望みならば聞かせようかの。」
「ええ、どうぞ。」
と少々しいのが、あわれに聞えた。
「そこへ……髪結が一人出るわいの。」
松崎は骨の硬くなるのを知ったのである。
「それが、そのお稲の髪を結うわいの。髪結の口からの、若い男と、美しい女と、祝言して仲の睦じい話をするのじゃ。
その男というのはの、聞かっしゃれ、お稲の恋じゃわいの、命じゃわいの。
もうもう今までとてもな、腹の汚い、慾に眼の眩んだ、兄御のために妨げられて、双方で思い思うた、繋がる縁が繋がれぬ、その切なさで、あわれや、かぼそい、白い女が、紅蓮、大紅蓮、……」
ああ、可厭な。
「阿鼻焦熱の苦悩から、手足がはり、肉を切こまざいた血の池の中で、悶え苦んで、半ば活き、半ば死んで、生きもやらねば死にも遣らず、死にも遣らねば生きも遣らず、呻き悩んでいた所じゃ。
また万に一つもと、果敢い、細い、蓮の糸を頼んだ縁は、その話で、鼠の牙にフッツリと食切られたが、……
ドンと落ちた穴の底は、狂気の病院入じゃ。この段替ればいの、狂乱の所作じゃぞや。」
と言う。風が添ったか、紙の幕が、煽つ──煽つ。お稲は言につれて、すべて科を思ったか、振が手にうっかり乗って、恍惚と目を睜った。……
二十二
「どうするの、それから。」
細い、が透る、力ある音調である。美しい女のその声に、この折から、背後のみ見返られて、雲のひだ染みに蔽いかかる、桟敷裏とも思う町を、影法師のごとくようやく人脚の繁くなるのに気を取られていた、松崎は、また目を舞台に引附けられた。
舞台を見返す瞬間、むこうから、先刻の編笠を被った鴉ような新粉細工が、ふと身を起して、うそうそと出て来るのを認めた。且つそれが、古綿のようにむくむくと、雲の白さが一団残って、底に幽に蒼空の見える……遥かに遠い所から、たとえば、ものの一里も離れた前途から、黒雲を背後に曳いて襲い来るごとく見て取られた。
それ、もうそこに、編笠を深く、舞台を覗く。
いつの間にか帰って来て、三人に床几を貸した古女房も交って立つ。
彼処に置捨てた屋台車が、主を追うて自ら軋るかと、響が地を畝って、轟々と雷の音。絵の藤も風に颯と黒い。その幕の彼方から、紅蓮、大紅蓮のその声、舌も赤う、ひらめくと覚えて、めらめらと饒舌る。……
「まだ後が聞きとうござりますか。お稲は狂死に死ぬるのじゃ。や、じゃが、家眷親属の余所で見る眼には、鼻筋の透った、柳の眉毛、目を糸のように、睫毛を黒う塞いで、の、長煩らいの死ぬ身には塵も据らず、色が抜けるほど白いばかり。さまで痩せもせず、苦患も無しに、家眷息絶ゆるとは見たれども、の、心の裡の苦痛はよな、人の知らぬ苦痛はよな。その段を芝居で見せるのじゃ。」
「そして、後は、」
と美しい女は、白い両手で、確と紫の襟を圧えた。
「死骸になっての、空蝉の藻脱けた膚は、人間の手を離れて牛頭馬頭の腕に上下から掴まれる。や、そこを見せたい。その娘の仮髪ぢゃ、お稲の髪には念を入れた。……島田が乱れて、糸も切もかからぬ膚を黒く輝く、吾が天女の後光のように包むを見さい。末は踵に余って曳くぞの。
鼓草の花の散るように、娘の身体は幻に消えても、その黒髪は、金輪、奈落、長く深く残って朽ちぬ。百年、千歳、失せず、枯れず、次第に伸びて艶を増す。その髪千筋一筋ずつ、獣が食えば野の草から、鳥が啄めば峰の花から、同じお稲の、同じ姿容となって、一人ずつ世に生れて、また同一年、同一月日に、親兄弟、家眷親属、己が身勝手な利慾のために、恋をせかれ、情を破られ、縁を断られて、同一思いで、狂死するわいの。あの、厄年の十九を見され、五人、三人一時に亡せるじゃろうがの。死ねば思いが黒髪に残ってその一筋がまた同じ女と生れる、生きかわるわいの。死にかわるわいの。
その誰もが皆揃うて、親兄弟を恨む、家眷親属を恨む、人を恨む、世を恨む、人間五常の道乱れて、黒白も分かず、日を蔽い、月を塗る……魔道の呪詛じゃ、何と! 魔の呪詛を見せますのじゃ、そこをよう見さっしゃるが可い。
お稲の髪の、乱れて摩く処をのう。」
「死んだお稲さんの髪が乱れて……」
と美しい女は、衝と鬢に手を遣ったが、ほつれ毛よりも指が揺いで、
「そして、それからはえ?」
と屹と言う
「此方、親があらば叱らさりょう。よう、それからと聞きたがるの、根問いをするのは、愛嬌が無うてようないぞ。女子は分けて、うら問い葉問をせぬものじゃ。」
雲の暗さが増すと、あたりに黒く艶が映す。
その中に、美しい女は、声も白いまで際立って、
「いいえ、聞きたい。」
二十三
「たって聞きたくばの、こうさしゃれ。」
幕の蔭で、間を置いて、落着いて、
「お稲の芝居は死骸の黒髪の長いまでじゃ。ここでは知らぬによって、後は去んで、二度添どのに聞かっしゃれ、二度添いの女子に聞かっしゃれ。」
「二度添とは? 何です、二度添とは。」
扱帯を手繰るように繰返して問返した。
「か、知らぬか、のう。二度添とはの、二度目の妻の事じゃ。男に取替えられた玩弄の女子じゃ。古い手に摘まれた、新しい花の事いの。後妻じゃ、後妻と申しますものじゃわいのう。」
ト一度引かかったように見えたが、ちらりと筵の端を、雲の影に踏んで、美しい女の雪なす足袋は、友染凄く舞台に乗った。
目を明かに凝と視て、
「その後妻とは、二度添とは誰れ、そこに居る人。」と肩を斜め、手を、錆びたが楯のごとく、行燈に確と置く。
「おおおお、誰や知らぬ、その二度添というのはの、……お稲が望が遂げなんだ、縁の切れた男に、後で枕添となった女子の事いの。……娑婆はめでたや、虫の可い、その男はの、我が手で水を向けて、娘の心を誘うておいて、弓でも矢でも貫こう心はなく、先方の兄者に、ただ断り言われただけで指を銜えて退ったいの、その上にの。
我勝手や。娘がこがれ死をしたと聞けば、おのれが顔をかがみで見るまで、自惚れての。何と、早や懐中に抱いた気で、お稲はその身の前妻じゃ。──
との、まだお稲が死なぬ前に、ちゃッと祝言した花嫁御寮に向うての、──お主は後妻じゃ、二度目ぢゃと思うておくれい、──との。何と虫が可かろうが。その芋虫にまた早や、台も蕊も嘗められる、二度添どのもあるわいの。」
と言うかと思う、声の下で、
「ほほほほほ」
と口紅がこぼれたように、散って舞うよと花やかに笑った。
ああ、膚が透く、心が映る、美しい女の身の震う影が隈なく衣の柳条に搦んで揺れた。
「帰ろう、品子、何をしとる。」
紳士はずかずかと寄って、
「詰らん、さあ、帰るんです、帰るんだ。」
とせり着くように云ったが、身動きもしないのを見て、堪りかねた体で、ぐいと美しい女の肩を取った。
「帰らんですか、おい、帰らんのか。」
その手は衝と袖で払われた。
「貴方は何です。女の身体に、勝手に手を触って可いんですか。他人の癖に、……」
「何だ、他人とは。」
憤気になると、……
「舞台へ、靴で、誰、お前は。」
先刻から、ただ柳が枝垂れたように行燈に凭れていた、黒紋着のその雪女が、りんとなって、両手で紳士の胸を圧した。
トはっとした体で、よろよろと退ったが、腰も据らず、ひょろついて来て縋るように寄ったと思うと、松崎は、不意にギクと手首を持たれた。
「貴方を、伴侶、伴侶と思います。あ、あ、あの、楽屋の中が、探険、……」
紳士は探険と言った。
「た、た、探険したい。手を貸して下さい。御、御助力が願いたい。」
「それはよくない。不可ません。見物は、みだりに芝居の楽屋へ入るものではないんです。」
「そ、そんなら、妻を──人の見る前、夫が力ずくでは見っともない。貴方、連出して下さい、引張出して下さい、願います。僕を、他人だなんて僕を、……妻は発狂しました。」
二十四
「いいえ、御心配には及びません。」
松崎は先んじられた……そして美しい女は、淵の測り知るべからざる水底の深き瞳を、鋭く紳士の面に流して
「私は確です。発狂するなら貴方がなさい、御令妹のお稲さんのために。」
と、爽かに言った。
「私とは、他人なんです。」
「他人、何だ、何だ。」
と喘ぐ、
「ですが、私に考えがあって、ちょっと知己になっていたばかりなんです。」
美しい女は、そんなものは、と打棄る風情で、屹とまた幕に向って立直った。
「そこに居る人……お前さんは不思議に、よく何か知っておいでだね、地獄、魔界の事まで御存じだね。豪いのね。でも悪魔、変化ばかりではない、人間にも神通があります。私が問うたら、お前さんは、去って聞けと言いましたね。
私は即座に、その二度添、そのうわなり、その後妻に、今ここで聞きました。……
お稲さんが亡くなってから、あとのその後妻の芝居を、お前さんに聞かせましょうか。聞かせましょうか。それともお前さんは御存じかい。」
幕の内で、
「朧気じゃ、冥土の霧で朧気じゃ。はっきりした事を聞きたいのう。」
「ええ、聞かしてあげましょう。──男に取替えられた玩弄は、古い手に摘まれた新しい花は、はじめは何にも知らなかったんです。清い、美しい、朝露に、旭に向って咲いたのだと人なみに思っていました。ですが、蝶が来て、一所に遊ぶ間もなかったんです。
お稲さんの事を聞かされました。玩弄は取替えられたんです、花は古い手に摘れたんです……男は、潔い白い花を、後妻になれと言いました。
贅沢です、生意気です、行過ぎています。思った恋をし遂げないで、引込んだら断念めれば可い、そのために恋人が、そうまでにして生命を棄てたと思ったら、自分も死ねば可いんです。死なれなければ、死んだ気になって、お念仏を唱えていれば可いんです。
力が、男に足りないで、殺させた女を前妻だ、と一人極めにして、その上に、新妻を後妻になれ、後妻にする、後妻の気でおれ、といけ洒亜々々として、髪を光らしながら、鰌髭の生えた口で言うのは何事でしょうね。」
「いよいよ発狂だ、人の前で見っともない。」
紳士は肩で息をした、その手は松崎に縋っている。……
「ええ、人の前で、見っともないと云って、ここには幾多居ます。指を折って数えるほどもない。夫が私を後妻にしたのは、大勢の前、世間の前、何千人、何万人の前だか知れません。
夫も夫、お稲さんの恋を破った。そこにおいでの他人も他人、皆、女の仇です。
幕の中の人、お聞きなさい。
二度添にされた後妻はね……それから夫の言に、わざと喜んで従いました。
涙を流して同情して、いっそ、後妻と云うんなら、お稲さんの妹分になって、お稲さんにあやかりましょう。そのうまれ代わりになりましょう、と云って、表向きつてを求めて、お稲さんの実家に行って、そして私を──その後妻を──兄さんの妹分にして下さい、と言ったんです。
そこに居る他人は、涙を流して喜びました。もっとも、そこに居るようなハイカラさんは、少い女が、兄さん、とさえ云ってやれば、何でも彼でも涙を流すに極っています。
私は精々と出入りしました。先方からも毎日のように来るんです。そして兄さん、兄さんと、云ううちには、きっと袖を引くに極っているんです。しかも奥さんは永々の病気の処、私はそれが望みでした。」
電が、南辻橋、北の辻橋、菊川橋、撞木橋、川を射て、橋に輝くか、と衝と町を徹った。
二十五
「その望みが叶ったんです。
そして、今日も、夫婦のような顔をして、二人づれで、お稲さんの墓参りに来たんです──夫は、私がこうするのを、お稲さんの霊魂が乗りうつったんだと云って、無性に喜んでいるんです。
殺した妹の墓の土もまだ乾かないのに、私と一所に、墓参りをして、御覧なさい、裁下ろしの洋服の襟に、乙女椿の花を挿して、お稲は、こういう娘だったと、平気で言います。
その気ですからね。」
紳士の身体は靴を刻んで、揺上がるようだったが、ト松崎が留めたにもかかわらず、かッと握拳で耳を圧えて、横なぐれに倒れそうになって、たちまち射るがごとく町を飛んだ。その状は、人の見る目に可笑くあるまい、礫のごとき大粒の雨。
雨の音で、寂寞する、と雲にむせるように息が詰った。
「幕の内の人、」
美しい女は、吐息して、更めて呼掛けて、
「お前さんが言った、その二度添いの談話は分ったんですか。」
「それから、」
と雨に濡れたような声して言う。
「これが知れたら、男二人はどうなります。その親兄弟は? その家族はどうなると思います。それが幕なのです。」
「さて、その後はどうなるのじゃ。」
「あら、……」
もどかしや。
「お前さんも、根問をするのね。それで可いではありませんか。」
「いや、可うないわいの、まだ肝心な事が残ったぞ。」
「肝心な事って何です。」
「はて、此方も、」
雨に、つと口を寄せた気勢で、
「知れた事じゃ……肝心のその二度添どのはどうなるいの。」
聞くにも堪えじ、と美しい女の眦が上った。
「ええ、廻りくどい! 私ですよ。」
と激した状で、衝と行燈を離れて、横ざまに幕の出入口に寄った。流るるような舞台の姿は、斜めに電光に颯と送られた。……
「分っているがの。」
と鷹揚に言って、
「さてじゃ、此方の身は果はどうなるのじゃ。」
「…………」
ふと黙って、美しい女は、行燈に、しょんぼりと残ったお稲の姿にその眦を返しながら、
「お前さんの方の芝居は? この女はどうなる幕です。」
「おいの、……や、紛れて声を掛けなんだじゃで、お稲は殊勝気に舞台じゃった。──雨に濡りょうに……折角の御見物じゃ、幕切れだけ、ものを見しょうな。」
と言うかと思うと、唐突にどろどろと太鼓が鳴った。音を綯交ぜに波打つ雷鳴る。
猫が一疋と鼬が出た。
ト無慙や、行燈の前に、仰向けに、一個が頭を、一個が白脛を取って、宙に釣ると、綰ねの緩んだ扱帯が抜けて、紅裏が肩を辷った……雪女は細りとあからさまになったと思うと、すらりと落した、肩なぞえの手を枕に、がっくりと頸が下って、目を眠った。その面影に颯と影、黒髪が丈に乱れて、舞台より長く敷いたのを、兇悪異変な面二つ、ただ面のごとく行燈より高い所を、ずるずると引いて、美しい女の前を通る。
幕に、それが消える時、風が擲つがごとく、虚空から、──雨交りに、電光の青き中を、朱鷺色が八重に縫う乙女椿の花一輪。はたと幕に当って崩れもせず……お稲の玉なす胸に留まって、たちまち隠れた。
美しい女は筵に爪立って身悶えしつつ、
「お稲さんは、お稲さんは、これからどうなるんです、どうなるんです。」
「むむ、くどいの、あとは魔界のものじゃ。雪女となっての、三つ目入道、大入道の、酌なと伽なとしょうぞいの。わはは、」
と笑った。
美しい女は、額を当てて、幕を掴んで、
「生意気な事をお言いでない。幕の中の人、悪魔、私も女だよ、十九だよ……お稲さんと同じ死骸になるんだけれど、誰が、誰が、酌なんか、……可哀相にお稲さんを──女はね、女はね、そんな弱いものじゃない。私を御覧。」
はたた、はたた神。
南無三宝、電光に幕あるのみ。
「あれえ。」と聞えた。
瞬間、松崎は猶予ったが、棄ておかれぬのは、続いて、編笠した烏と古女房が、衝と幕を揚げて追込んだ事である。
手を掛けると、触るものなく、篠つく雨の簾が落ちた。
と見ると、声のしたものは何も見えない。三つ目入道、狐、狸、猫も鼬もごちゃごちゃと小さく固まっていたが、松崎の殺進に、気を打たれたか、ばらばらと、奥へ遁げる。と果しもなく野原のごとく広い中に、塚を崩した空洞と思う、穴がぽかぽかと大く窪んで蜂の巣を拡げたような、その穴の中へ、すぽん、と一個ずつ飛込んで、ト貝鮹と云うものめく……頭だけ出して、ケラケラと笑って失せた。
何等の魔性ぞ。這奴等が群り居た、土間の雨に、引挘られた衣の綾を、驚破や、蹂躙られた美しい女かと見ると、帯ばかり、扱帯ばかり、花片ばかり、葉ばかりぞ乱れたる。
途端に海のような、真昼を見た。
広場は荒廃して日久しき染物屋らしい。縦横に並んだのは、いずれも絵の具の大瓶である。
あわれ、その、せめて紫の瓶なれかし。鉄のひびわれたごとき、遠くの壁際の瓶の穴に、美しい女の姿があった。頭を編笠が抱えた、手も胸も、面影も、しろしろと、あの、舞台のお稲そのままに見えたが、ただ既に空洞へ入って、底から足を曳くものがあろう、美しい女は、半身を上に曲げて、腰のあたりは隠れたのである。
雪のような胸には、同じ朱鷺色の椿がある。
叫んで、走りかかると、瓶の区劃に躓いて倒れた手に、はっと留南奇して、ひやひやと、氷のごとく触ったのは、まさしく面影を、垂れた腕にのせながら土間を敷いて、長くそこまで靡くのを認めた、美しい女の黒髪の末なのであった。
この黒髪は二筋三筋指にかかって手に残った。
海に沈んだか、と目に何も見えぬ。
四ツの壁は、流るる電と輝く雨である。とどろとどろと鳴るかみは、大灘の波の唸りである。
「おでんや──おでん。」
戸外を行く、しかも女の声。
我に返って、這うように、空屋の木戸を出ると、雨上りの星が晃々。
後で伝え聞くと、同一時、同一所から、その法学士の新夫人の、行方の知れなくなったのは事実とか。……松崎は実は、うら少い娘の余り果敢なさに、亀井戸詣の帰途、その界隈に、名誉の巫子を尋ねて、そのくちよせを聞いたのであった……霊の来った状は秘密だから言うまい。魂の上る時、巫子は、空を探って、何もない所から、弦にかかった三筋ばかりの、長い黒髪を、お稲の記念ぞとて授けたのを、とやせんとばかりで迷の巷。
黒髪は消えなかった。
底本:「泉鏡花集成6」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年3月21日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第十五卷」岩波書店
1940(昭和15)年9月20日発行
※誤植箇所の確認には底本の親本を用いました。
入力:門田裕志
校正:高柳典子
2007年2月12日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。