こがね丸
巌谷小波



少年文学序


 奇獄小説に読む人の胸のみいためむとする世に、一巻のおさな物語を著す。これも人真似まねせぬ一流のこころなるべし。欧羅巴ヨーロッパの穉物語も多くは波斯ペルシア鸚鵡冊子おうむさっしより伝はり、その本源は印度の古文にありといへば、東洋は実にこの可愛らしき詩形の家元なり。あはれ、ここに染出す新暖簾のれん、本家再興の大望を達して、子々孫々までも巻をかさねて栄へよかしといのるものは、

本郷千駄木町ほんごうせんだぎちょう
鴎外おうがい漁史なり


凡例


一 この書題して「少年文学」といへるは、少年用文学との意味にて、独逸ドイツ語の Jugendschrift (juvenile literature) より来れるなれど、我邦に適当の熟語なければ、仮にかくは名付けつ。鴎外兄がいはゆる穉物語も、同じ心なるべしと思ふ。

一 されば文章に修飾をつとめず、趣向に新奇をもとめず、ひたすら少年の読みやすからんを願ふてわざと例の言文一致も廃しつ。時に五七の句調など用ひて、趣向も文章も天晴あっぱれ時代ぶりたれど、これかへつて少年には、しょうしやすく解しやすからんか。

一 作者この『こがね丸』を編むに当りて、彼のゲーテーの Reineke Fuchs(狐の裁判)その他グリム、アンデルゼン等の Maerchen(奇異談)また我邦には桃太郎かちかち山を初めとし、古きは『今昔こんじゃく物語』、『宇治拾遺うじしゅうい』などより、天明ぶりの黄表紙きびょうし類など、種々思ひ出して、立案の助けとなせしが。されば引用書として、名記するほどにもあらず。

一 ちと手前味噌てまえみそに似たれど、かかる種の物語現代の文学界には、先づ稀有けうのものなるべく、威張いばりていへば一の新現象なり。されば大方の詞友諸君、縦令たといわが作取るに足らずとも、この後諸先輩の続々討て出で賜ふなれば、とかくこの少年文学といふものにつきて、充分あげつらひ賜ひてよト、これもあらかじめ願ふて置く。

一 詞友われをもくして文壇の少年家といふ、そはわがものしたる小説の、多く少年を主人公にしたればなるべし。さるにこの度また少年文学の前坐を務む、思へば争はれぬものなりかし。

庚寅かのえとら臘月ろうげつ。もう八ツ寝るとお正月といふ日

昔桜亭において  漣山人さざなみさんじんしるす


上巻


第一回


 むかし深山みやまの奥に、一匹の虎住みけり。幾星霜いくとしつきをや経たりけん、からだ尋常よのつねこうしよりもおおきく、まなこは百錬の鏡を欺き、ひげ一束ひとつかの針に似て、一度ひとたびゆれば声山谷さんこくとどろかして、こずえの鳥も落ちなんばかり。一さん豺狼さいろう麋鹿びろくおそれ従はぬものとてなかりしかば、虎はますます猛威をたくましうして、自ら金眸きんぼう大王と名乗り、数多あまた獣類けものを眼下に見下みくだして、一山万獣ばんじゅうの君とはなりけり。

 ころしも一月のはじめかた、春とはいへど名のみにて、昨日きのうからの大雪に、野も山も岩も木も、つめた綿わたに包まれて、寒風そぞろに堪えがたきに。金眸は朝よりほらこもりて、ひとうずくまりゐる処へ、かねてより称心きにいりの、聴水ちょうすいといふ古狐ふるぎつねそば伝ひに雪踏みわげて、ようやく洞の入口まで来たり。雪を払ひてにじり入り、まづ慇懃いんぎんに前足をつかへ、「昨日よりの大雪に、外面そともいずる事もならず、洞にのみ籠り給ひて、さぞかし徒然つれづれにおはしつらん」トいへば。金眸は身を起こして、「オー聴水なりしか、よくこそ来りつれ。まことなんじがいふ如く、この大雪にて他出そとでもならねば、独り洞に眠りゐたるに、食物かて漸くむなしくなりて、やや空腹ものほしう覚ゆるぞ。何ぞき獲物はなきや、……この大雪なればなきもむべなり」ト嘆息するを。聴水は打消し、「いやとよ大王。大王もしまこと空腹ものほしくて、食物かてを求め給ふならば、やつがれ好き獲物をまいらせん」「なに好き獲物とや。……そは何処いずこに持来りしぞ」「いなには持ちはべらねど、大王ちとの骨を惜まずして、この雪路ゆきみちを歩みたまはば、僕よき処へ東道あんないせん。怎麼いかに」トいへば。金眸呵々からからと打笑ひ、「やよ聴水。縦令たとひわれ老いたりとて、いずくンぞこれしきの雪を恐れん。かく洞にのみ垂籠たれこめしも、決して寒気をいとふにあらず、獲物あるまじと思へばなり。今爾がいふ処いつわりならずば、すみやか東道あんないせよ、われきてその獲物を取らんに、什麼そもそは何処いずくぞ」トいへば。聴水はしたり顔にて、「大王速かに承引うけがいたまひて、やつがれまことに喜ばしく候。されば暫く心を静め給ひて、わがいふ事を聞き給へ。そもその獲物と申すは、この山のふもとの里なる、荘官しょうやが家の飼犬にて、僕かれには浅からぬ意恨うらみあり。今大王ゆきかれを打取たまはば、これわがための復讐あだがえし、僕が欣喜よろこびこれにかず候」トいふに金眸いぶかりて、「こはしからず。その意恨うらみとは怎麼いかなる仔細しさいぞ、苦しからずば語れかし」「さん候。一昨日おとついの事なりし、僕かの荘官が家のほとりよぎりしに、納屋なやおぼしかたに当りて、鶏の鳴く声す。こは好き獲物よと思ひしかば、すなわち裏の垣より忍び入りて窠宿とや近く往かんとする時、かれ目慧めざとくも僕を見付みつけて、驀地まっしぐらとんかかるに、不意の事なれば僕は狼狽うろたへ、急ぎ元入りし垣の穴より、走り抜けんとする処を、かれわが尻尾しりおくわへて引きもどさんとす、われははらって出でんとす。その勢にこれ見そなはせ、尾の先少しみ取られて、痛きことはなはだしく、生れも付かぬ不具にされたり。かくては大切なるこの尻尾も、老人としより襟巻えりまきにさへ成らねば、いと口惜しく思ひ侍れど。他は犬われは狐、とてもかなはぬ処なれば、復讐あだがえしも思ひとどまりて、意恨うらみのんで過ごせしが。大王、やつがれ不憫ふびん思召おぼしめさば、わがためにあだを返してたべ。さきに獲物をまいらせんといひしも、まことはこの事願はんためなり」ト、いと哀れげにうったうれば。金眸は打点頭うちうなずき、「憎き犬の挙動ふるまいかな。よしよし今に一攫ひとつかみ、目に物見せてくれんずほどに、心安く思ふべし」ト、かつ慰めかつ怒り、やがて聴水をさきに立てて、すねにあまる雪を踏み分けつつ、山を越えたにわたり、ほどなく麓に出でけるに、さきに立ちし聴水は立止まり、「大王、彼処かしこに見ゆる森の陰に、今煙の立昇たちのぼる処は、即ち荘官しょうややしきにて候が、大王自ら踏み込み給ふては、いたずらに人間ひとを驚かすのみにて、かたきの犬は逃げんも知れず。これには僕よき計策はかりごとあり」とて、金眸の耳に口よせ、何やらん耳語ささやきしが、また金眸がさきに立ちて、高慢顔にぞ進みける。


第二回


 ここにこの里の荘官しょうやの家に、月丸つきまる花瀬はなせとて雌雄ふうふの犬ありけり。年頃なさけかけて飼ひけるほどに、よくその恩に感じてや、いとも忠実まめやかつかふれば、年久しく盗人ぬすびとといふ者這入はいらず、家は増々ますます栄えけり。

 降り続く大雪に、伯母おばに逢ひたる心地ここちにや、月丸はつま諸共もろともに、奥なる広庭に戯れゐしが。折から裏の窠宿とやかたに当りて、鶏の叫ぶ声しきりなるに、哮々こうこうと狐の声さへ聞えければ。「さては彼の狐めが、また今日も忍入りしよ。いぬる日あれほどこらしつるに、はやわすれしと覚えたり。憎き奴め用捨はならじ、此度こたびこそは打ち取りてん」ト、雪を蹴立けだてて真一文字に、窠宿の方へ走りゆけば、狐はかくとみるよりも、周章狼狽あわてふためき逃げ行くを、なほのがさじと追駆おっかけて、表門をいでんとする時、一声おうたけりつつ、横間よこあいよりとんで掛るものあり。何者ならんと打見やれば、こはそも怎麼いかにわれよりは、二まわりおおいなる虎の、まなこを怒らしきばをならし、つめらしたるその状態ありさま、恐しなんどいはんかたなし。尋常よのつねの犬なりせば、その場に腰をもぬかすべきに。月丸は原来心たけき犬なれば、そのまま虎にくってかかり、おめき叫んで暫時しばしがほどは、力の限りたたかひしが。元より強弱敵しがたく、無残や肉裂け皮破れて、悲鳴のうちに息たえたる。その死骸なきがらくちくわへ、あと白雪を蹴立けたてつつ、虎はほらへと帰り行く。あとには流るる鮮血ちしおのみ、雪に紅梅の花を散らせり。

 つまの花瀬は最前より、物陰にありてくだんの様子を、残りなくながめゐしが。身は軟弱かよわ雌犬めいぬなり。かつはこのほどより乳房れて、常ならぬ身にしあれば、おっと非業ひごう最期さいごをば、目前まのあたり見ながらも、たすくることさへ成りがたく、ひとり心をもだへつつ、いとも哀れなる声張上げて、しきりにえ立つるにぞ、人々漸く聞きつけて、凡事ただごとならずと立出でて見れば。門前の雪八方に蹴散らしたる上に、血おびただしく流れたるが、見ればはるか山陰やまかげに、一匹の大虎が、嘴に咬へて持て行くものこそ、まさしく月丸が死骸なきがらなれば、「さては彼の虎めにはれしか、今一足早かりせば、阿容々々おめおめかれは殺さじものを」ト、主人あるじ悶蹈あしずりしてくやめども、さて詮術せんすべもあらざれば、悲しみ狂ふ花瀬をかして、その場は漸くに済ませしが。済まぬは花瀬が胸のうち、その日よりして物狂はしく。旦暮あけくれ小屋にのみ入りて、与ふる食物かて果敢々々敷はかばかしくくらはず。怪しき声してなき狂ひ、かどを守ることだにせざれば、物の用にもたたぬなれど、主人は事の由来おこりを知れば、不憫さいとど増さりつつ、心を籠めて介抱なせど。花瀬は次第にやつるるのみにて、今は肉落ち骨ひいで、鼻頭はなかしら全くかわきて、この世の犬とも思はれず、頼み少なき身となりけり。かかる折から月満ちけん、にわかに産の気きざしつつ、苦痛の中に産み落せしは、いとも麗はしき茶色毛の、雄犬ただ一匹なるが。背のあたりに金色の毛混りて、たえなる光を放つにぞ、名をばそのまま黄金丸こがねまると呼びぬ。

 さなきだにやみ疲れし上に、嬰児みどりごを産み落せし事なれば、今まで張りつめし気の、一時にゆるみ出でて、重き枕いよいよ上らず、明日あすをも知れぬ命となりしが。臨終いまわきわに、兼てより懇意こころやすくせし、裏の牧場まきばに飼はれたる、牡丹ぼたんといふ牝牛めうしをば、わが枕ひよせ。苦しき息をほっき、「さて牡丹ぬし。見そなはす如きわらわ容体ありさま、とても在命ながらえる身にしあらねば、臨終の際にただ一こと阿姐あねごに頼み置きたきことあり。妾がおっと月丸ぬしは、いぬる日猛虎金眸きんぼうがために、非業の最期を遂げしとは、阿姐も知り給ふ処なるが。かの時妾目前まのあたり、雄が横死おうしを見ながらに、これをたすけんともせざりしは、見下げ果てたる不貞の犬よと、思ひし獣もありつらんが。元より犬のつまたる身の、たとひその身はほろぶとも、雄が危急を救ふべきは、いふまでもなき事にして、義を知る獣の本分なれば、妾とて心付かぬにはあらねど、かの時命を惜みしは、妾が常ならぬ身なればなり。もし妾も彼処かしこに出でて、虎と争ひたらんには。雄と共に殺されてん。さる時はたれか仇をば討つべきぞ。結句つまりは親子三匹して、命をすつるに異ならねば、これ貞に似て貞にあらず、まことの犬死とはこの事なり。かくと心に思ひしかば、忍びがたき処を忍び、こらえがたきをようやく堪えて、見在みすみす雄を殺せしが。これもひとへにはらを、産み落したるその上にて。仇を討たせんと思へばなり。さるに妾不幸にして、いひ甲斐がいなくも病に打ちし、すでに絶えなん玉の緒を、からつなぎて漸くに、今この児は産み落せしか。これを養育はぐくむことかなはず、折角頼みし仇討ちも、仇になりなん口惜しさ、推量なして給はらば、何卒なにとぞこの児を阿姐あねごの児となし、阿姐がもて育てあげ。かれもし一匹まえの雄犬となりなば、その時こそは妾が今の、この言葉をば伝へ給ひて、妾がためには雄の仇、かれがためには父の仇なる、彼の金眸めを打ち取るやう、力になって給はれかし。頼みといふはこのことのみ。頼む〳〵」トいふ声も、次第に細る冬の虫草葉の露のいともろき、命は犬も同じことなり。


第三回


 いたはしや花瀬は、夫の行衛ゆくえ追ひ駆けて、あとより急ぐ死出しでの山、その日の夕暮にみまかりしかば。主人あるじはいとど不憫ふびんさに、その死骸なきがらひつぎに納め、家の裏なる小山の蔭に、これをうずめて石を置き、月丸の名も共にり付けて、かたばかりの比翼塚、あと懇切ねんごろにぞとぶらひける。

 かくて孤児みなしご黄金丸こがねまるは、西東だにまだ知らぬ、わらの上より牧場なる、牡丹ぼたんもとに養ひ取られ、それより牛の乳をみ、牛の小屋にて生立おいたちしが。次第に成長するにつけ、骨格ほねぐみ尋常よのつねの犬にすぐれ、性質こころばせしくて、天晴あっぱれ頼もしき犬となりけり。

 さてまた牡丹がおっと文角ぶんかくといへるは、性来うまれえて義気深き牛なりければ、花瀬が遺言を堅く守りて、黄金丸の養育に、旦暮あけくれ心を傾けつつ、数多あまたこうしむれに入れて。或時は角闘すもうを取らせ、または競争はしりくらなどさせて、ひたすら力業ちからわざを勉めしむるほどに。その甲斐ありて黄金丸も、力量ちからあくまで強くなりて、大概おおかたの犬とみ合ふても、打ち勝つべう覚えしかば。文角もななめならず喜び、今は時節もよかるべしと、或時黄金丸をひざ近くまねき、さて其方そなたまことの児にあらず、斯様々々云々かようかようしかじかなりと、一伍一什いちぶしじゅうを語り聞かせば。黄金丸聞きもあへず、初めて知るわが身の素性すじょうに、一度ひとたびは驚き一度は悲しみ、また一度は金眸きんぼうが非道を、切歯はぎしりして怒りののしり、「かく聞く上は一日も早く、彼の山へせ登り、仇敵かたき金眸をみ殺さん」ト、敦圉いきまきあらくたちかかるを、文角は霎時しばしと押しとどめ、「しか思ふはことわりなれど、暫くまづわが言葉を、心ろを静めて聞きねかし。原来其方そなたが親の仇敵かたき、ただに彼の金眸のみならず。かれが配下に聴水ちょうすいとて、いと獰悪はらぐろき狐あり。此奴こやつある日鶏を盗みに入りて、はしなく月丸ぬしに見付られ、かれが尻尾を噛み取られしを、深く意恨に思ひけん。自己おのれの力に及ばぬより、彼の虎が威を仮りて、さてはかかる事に及びぬ。しかればまこと仇敵かたきとするは、虎よりもまづ狐なり。さるに今其方そなたが、徒らに猛り狂ふて、金眸が洞に駆入り、かれと雌雄を争ふて、万一誤つて其方負けなば、当の仇敵の狐も殺さず、その身は虎のえじきとならん。これこそわれから死を求むる、火取虫ひとりむしよりおろかなるわざなれ。こと対手あいては年経し大虎、其方は犬の事なれば、縦令たと怎麼いかなる力ありとも、尋常にみ合ふては、彼にかたんこといと難し。それよりは今霎時、きばみがき爪を鍛へ、まづ彼の聴水めを噛み殺し、その上時節のいたるをまって、彼の金眸を打ち取るべし。今匹夫の勇をたのんで、世の胡慮ものわらいを招かんより、無念をこらえて英気を養ひもって時節を待つにはかじ」ト、事を分けたる文角が言葉に、げにもと心に暁得さとりしものから。黄金丸はややありて、「かかる義理ある中なりとは、今日まで露しらず、まこと父君ちちぎみ母君と思ひて、我儘わがまま気儘にすごしたる、無礼の罪は幾重いくえにも、許したまへ」ト、数度あまたたび養育の恩を謝し。さてあらためていへるやう、「知らぬ疇昔むかしは是非もなけれど、かくわが親に仇敵あること、承はりて知る上は、もだして過すは本意ならず、それにつき、ここ一件ひとつの願ひあり、聞入れてたびてんや」「願ひとは何事ぞ、聞し上にて許しもせん」「そは余の事にも候はず、それがしいとまを賜はれかし。某これより諸国をぐり、あまねく強き犬とみ合ふて、まづわが牙を鍛へ。かたわら仇敵の挙動ふるまいに心をつけ、機会おりもあらば名乗りかけて、父のあだかえしてん。年頃受けし御恩をば、返しもへずこれよりまた、御暇おんいとまを取らんとは、義を弁へぬに似たれども、親のためなり許し給へ。もしそれがし幸ひにして、見事父の讐を復し、なほこの命つつがなくば、その時こそは心のまま、御恩に報ゆることあるべし。まづそれまでは文角ぬし、霎時しばしの暇賜はりて……」ト、涙ながらに掻口説かきくどけば、文角は微笑ほほえみて、「さもこそあらめ、よくぞいひし。其方がいはずば此方こなたより、しいても勧めんと思ひしなり。おもいのままに武者修行して、天晴れ父の仇敵かたきを討ちね」ト、いふに黄金丸も勇み立ち。善は急げと支度したくして、「見事金眸が首取らでは、再び主家しゅうかには帰るまじ」ト、殊勝けなげにも言葉をちかひ文角牡丹にわかれを告げ、行衛定めぬ草枕、われから野良犬のらいぬむれに入りぬ。


第四回


 昨日きのう富家ふうかの門を守りて、くびに真鍮の輪をかけし身の、今日は喪家そうかとなりはてて、いぬるにとやなく食するに肉なく、は辻堂の床下ゆかしたに雨露をしのいで、無躾ぶしつけなる土豚もぐらに驚かされ。昼は肴屋さかなや店頭みせさき魚骨ぎょこつを求めて、なさけ知らぬ人のしもと追立おいたてられ。或時は村童さとのこらかれて、大路おおじあだし犬と争ひ、或時は撲犬師いぬころしに襲はれて、藪蔭やぶかげに危き命をひらふ。さるほどに黄金丸は、主家を出でて幾日か、山に暮らし里に明かしけるに。或る日いと広やかなる原野のはらにさし掛りて、行けども行けども里へは出でず。日さへはや暮れなんとするに、宿るべき木陰だになければ、有繋さすがに心細きままに、ひたすら路を急げども。今日は朝より、一滴の水も飲まず、一塊の食もくらはねば、肚饑ひだるきこといはんかたなく。苦しさに堪えかねて、暫時しばし路傍みちのべうずくまるほどに、夕風肌膚はだえを侵し、地気じき骨にとおりて、心地ここち死ぬべう覚えしかば。黄金丸は心細さいやまして、「われ主家を出でしより、到る処の犬とあらそいしが、かつてもののかずともせざりしに。うえてふ敵には勝ちがたく、かくてはこの原の露ときえて、からすえじきとなりなんも知られず。……里まで出づれば食物くいものもあらんに、それさへ四足疲れはてて、今は怎麼いかにともすべきやうなし。ああいひ甲斐なき事かな」ト、途方にうちくれゐたる折しも。何処いずくよりか来りけん、たちまち一団の燐火おにび眼前めのまえに現れて、高くあがり低く照らし、娑々ふわふわと宙を飛び行くさま、われを招くに等しければ。黄金丸はやや暁得さとりて、「さてはわが亡親なきおや魂魄たま、仮にに現はれて、わが危急を救ひ給ふか。阿那あな感謝かたじけなし」ト伏し拝みつつ、その燐火の行くがまにまに、路四、五町も来ると覚しき頃、忽ち鉄砲の音耳近く聞えつ、燐火は消えて見えずなりぬ。こはそも怎麼なる処ぞと、四辺あたりを見廻はせば、此処はおおいなる寺の門前なり。いぶかしと思ふものから、門のうちに入りて見れば。こは大なる古刹ふるでらにして、今は住む人もなきにや、ゆかは落ち柱斜めに、破れたる壁は蔓蘿つたかずらに縫はれ、朽ちたる軒は蜘蛛くもに張られて、物凄ものすごきまでに荒れたるが。折しも秋の末なれば、屋根にひたる芽生めばえかえで、時を得顔えがおに色付きたる、そのひまより、鬼瓦おにがわらの傾きて見ゆるなんぞ、戸隠とがくやま故事ふることも思はれ。尾花たか生茂おいしげれる中に、斜めにたてる石仏いしぼとけは、雪山せつざんに悩む釈迦仏しゃかぶつかと忍ばる。──見ればこけ蒸したる石畳の上に。一羽の雉子きぎす身体みうち弾丸たまを受けしと覚しく、飛ぶこともならでくるしみをるに。こはき獲物よと、急ぎ走りよって足に押へ、すでに喰はんとなせしほどに。忽ちうしろに声ありて、「憎き野良犬、其処そこ動きそ」ト、大喝だいかつせいえかかるに。黄金丸は打驚き、しりえふりかえりて見れば、真白なる猟犬かりいぬの、われを噛まんと身構みがまえたるに、黄金丸も少し焦燥いらつて、「無礼なり何奴なにやつなれば、われを野良犬とののしるぞ」「無礼なりとはなんじが事なり。わが飼主の打取りたまひし、雉子きぎすを爾盗まんとするは、言語に断えし無神狗やまいぬかな」「いな、こはわれ此処にて拾ひしなり」「否、爾が盗みしなり。見れば頸筋に輪もあらず、爾如き奴あればこそ、撲犬師いぬころしが世にえて、わがともがらまで迷惑するなれ」「許しておけば無礼な雑言ぞうごん、重ねていはば手は見せまじ」「そはわれよりこそいふことなれ、爾曹如きと問答無益むやくし。怪我けがせぬうちにその鳥を、われに渡してく逃げずや」「返す返すも舌長し、折角拾ひしこの鳥を、阿容々々おめおめ爾に得させんや」「しゃツ面倒なりかうしてくれん」ト、とんでかかれば黄金丸も、稜威ものものしやと振りはらって、またみ付くをちょう蹴返けかえし、その咽喉のどぶえかまんとすれば、彼方あなたも去る者身を沈めて、黄金丸のももを噬む。黄金丸は饑渇うえに疲れて、勇気日頃に劣れども、また尋常なみなみの犬にあらぬに、彼方かなたもなかなかこれに劣らず、互ひに挑闘いどみたたかふさま、彼の花和尚かおしょう赤松林せきしょうりんに、九紋竜くもんりゅうと争ひけるも、かくやと思ふばかりなり。

 先きのほどより、彼方かなたの木陰に身を忍ばせ、二匹の問答をききゐたる、一匹の黒猫ありしが。今二匹が噬合ひはじめて、互ひに負けじと争ひたる、その間隙すきを見すまして、静かに忍び寄るよと見えしが、やにはに捨てたる雉子きぎすくわへて、脱兎の如く逃げ行くを、ややありて二匹は心付き。南無三なむさんしてやられしと思ひしかども今更追ふても及びもせずと、雉子を咬へて磚𤗼ついじをば、越え行く猫の後姿、打ち見やりつつ茫然ぼうぜんと、噬み合ふくちいたままなり。


第五回


 鷸蚌いつぼう互ひに争ふ時はついに猟師のえものとなる。それとこれとは異なれども、われ二匹争はずば、彼の猫如きに侮られて、阿容々々おめおめ雉子は取られまじきにト、黄金丸も彼の猟犬かりいぬも、これかれひとしく左右に分れて、ひたすら嘆息なせしかども。今更に悔いてもせんなしト、ようやくに思ひ定めつ。ややありて猟犬は、黄金丸にうち向ひ、「さるにても御身おんみは、什麼そも何処いずこの犬なれば、かかる処にに漂泊さまよひ給ふぞ。最前よりかみあひ見るに、世にも鋭き御身が牙尖きばさきそれがし如きが及ぶ処ならず。もし彼の鳥猫に取られずして、なほも御身と争ひなば、わが身は遂に噬斃かみたおされて、雉子は御身がものとなりてん。……これを思へば彼の猫も、わがためには救死の恩あり。ああ、危ふかりし危ふかりし」ト、数度あまたたび嘆賞するに。黄金丸も言葉を改め、「こは過分なる賛詞ほめことかな。さいふ御身が本事てなみこそ。なかなかおよばぬ処なれト、心ひそかに敬服せり。今は何をかつつむべき、某が名は黄金丸とて、以前は去る人間につかへて、守門の役を勤めしが、宿願ありていとまひ、今かく失主狗はなれいぬとなれども、決して怪しき犬ならず。さてまた御身が尊名怎麼いかに。苦しからずば名乗り給へ」ト、いへば猟犬かりいぬ打点頭うちうなずき、「さもありなんさもこそと、某もすいしたり。さらば御身が言葉にまかせて、某が名も名乗るべし。見らるる如く某は、このあたり猟師かりうどに事ふる、猟犬にて候が。ある時わしとって押へしより、名をば鷲郎わしろうと呼ばれぬ。こは鷲をりし白犬しろいぬなれば、鷲白わししろといふ心なるよし。元よりかずならぬ犬なれども、かりには得たる処あれば、近所の犬ども皆恐れて、某が前に尾をれぬ者もなければ、天下にわれより強き犬は、多くあるまじと誇りつれど。今しも御身が本事てなみを見て、わが慢心をいたく恥ぢたり。そはともあれ、今御身が語られし、宿願の仔細しさいは怎麼にぞや」ト、問ふに黄金丸は四辺あたりを見かへり、「さらば委敷くわしく語りはべらん……」とて、父が非業の死を遂げし事、わが身は牛に養はれし事、それより虎と狐を仇敵かたきとねらひ、主家しゅうかを出でて諸国を遍歴せし事など、落ちなく語り聞かすほどに。鷲郎はしばしば感嘆の声を発せしが、ややありていへるやう、「その事なれば及ばずながら、某一肢の力を添へん。われ彼の金眸きんぼう意恨うらみはなけれど、彼奴きゃつ猛威をたくましうして、余の獣類けものみだりにしいたげ。あまつさへうゆる時は、いちに走りて人間ひとを騒がすなんど、片腹痛き事のみなるに、機会おりもあらばとりひしがんと、常より思ひゐたりしが。名に負ふ金眸は年経し大虎、われ怎麼いかかりけたりとも、互角の勝負なりがたければ、虫を殺して無法なる、かれ挙動ふるまいを見過せしが。今御身が言葉を聞けば、わりふあわす互ひの胸中。これより両犬心を通じ、力を合せて彼奴きゃつねらはば、いづれの時か討たざらん」ト。いふに黄金丸も勇み立ちて、「頼もしし頼もしし、御身すでにそのこころならば、某また何をか恐れん。これより両犬義を結び、親こそかわれこののちは、兄となりおとととなりて、共に力を尽すべし。某この年頃諸所を巡りて、数多あまたの犬とみ合ひたれども、一匹だにわが牙に立つものなく、いと本意ほいなく思ひゐしに。今日不意ゆくりなく御身に出逢であいて、かく頼もしき伴侶ともを得ること、まことなき父の紹介ひきあわせならん。さきに路を照らせし燐火おにびも、今こそ思ひ合はしたれ」ト、ひとり感涙にむせびしが。猟犬は霎時しばしありて、「某今御身とちぎりを結びて、彼の金眸を討たんとすれど、飼主ありては心に任せず。今よりわれも頸輪くびわすてて、御身と共に失主狗はなれいぬとならん」ト、いふを黄金丸は押止おしとどめ、「こはそぞろなり鷲郎ぬし、わがために主をすつる、その志は感謝かたじけなけれど、これ義に似て義にあらず、かへつて不忠の犬とならん。この儀は思ひ止まり給へ」「いやとよ、その心配こころづかいは無用なり。某猟師かりうどの家につかへ、をさをさ猟のわざにもけて、朝夕あけくれ山野を走り巡り、数多の禽獣とりけものを捕ふれども。つらつら思へば、これまことおおいなる不義なり。縦令たとひ主命とはいひながら、罪なき禽獣ものいたずらにいためんは、快き事にあらず。彼の金眸に比べては、その悪五十歩百歩なり。ここをもて某常よりこの生業なりわいを棄てんと、思ふことしきりなりき。今日この機会おりを得しこそさちなれ、断然いとまを取るべし」ト。いひもあへず、頸輪を振切りて、その決心を示すにぞ。黄金丸も今は止むるすべなく、「かく御身の心定まる上は、某また何をかいはん。幸ひなるかなこの寺は、荒果てて住む人なく、われがためには棲居すみかなり。これより両犬に棲みてん」ト、それより連立ちて寺のうちに踏入り、方丈と覚しき所に、畳少し朽ち残りたるをえらびて、其処そこをば棲居と定めける。


第六回


 かくて黄金丸は鷲郎わしろうと義を結びて、兄弟の約をなし、この古刹ふるでらを棲居となせしが。元より養ふ人なければ、食物も思ふにまかせぬにぞ、心ならずも鷲郎は、なれわざとて野山にかりし、小鳥などりきては、ようやくその日のかてとなし、ここに幾日を送りけり。

 或日黄金丸は、用事ありて里に出でし帰途かえるさ、独り畠径はたみち辿たどくに、見れば彼方かなたの山岸の、野菊あまた咲き乱れたるもとに、黄なるけものねぶりをれり。おおきさ犬の如くなれど、何処どこやらわが同種みうちの者とも見えず。近づくままになほよく見れば、耳立ち口とがりて、まさしくこれ狐なるが、その尾のさきの毛抜けて醜し。この時黄金丸思ふやう、「さきに文角ぶんかくぬしが物語に、聴水ちょうすいといふ狐は、かつてわが父月丸つきまるぬしのために、尾の尖かみ切られてなしと聞きぬ。今彼の狐を見るに、尾の尖断離ちぎれたり。恐らくは聴水ならん。阿那あな、有難や感謝かたじけなや。此処にて逢ひしは天の恵みなり。いで一噬ひとかみに……」ト思ひしが。有繋さすが義を知る獣なれば、眠込ねごみを噬まんは快からず。かつは誤りて他の狐ならんには、無益の殺生せっしょうなりと思ひ。やや近く忍びよりて、一声高く「聴水」ト呼べば、くだんの狐は打ち驚き、まなこも開かずそのままに、一けんばかり跌踢けしとんで、あわただしくげんとするを。逃がしはせじと黄金丸は、㗲叫んで追駆おっかくるに。彼方かなたの狐も一生懸命、はたの作物を蹴散けちらして、里のかたへ走りしが、ある人家の外面そとべに、結ひめぐらしたる生垣いけがきを、ひらりおどり越え、家のうちに逃げ入りしにぞ。続いて黄金丸も垣を越え、家の中を走り抜けんとせし時。六才むつばかりなる稚児おさなごの、余念なく遊びゐたるを、過失あやまちて蹴倒せば、たちまわっと泣き叫ぶ。その声を聞きつけて、稚児の親なるべし、三十ばかりなる大男、裏口より飛でいりしが。今走り出でんとする、黄金丸を見るよりも、さては此奴こやつみしならんト、思ひひがめつおおいいかって、あり合ふ手頃の棒おつとり、黄金丸の真向まっこうより、骨も砕けと打ちおろすに、さしもの黄金丸肩を打たれて、「あっ」ト一声叫びもあへず、後に撲地はたと倒るるを、なほ続けさまに打ちたたかれしが。やがて太き麻縄あさなわもて、犇々ひしひしいましめられぬ。そのひまに彼の聴水は、危き命助かりて、行衛ゆくえも知らずなりけるに。黄金丸は、無念に堪へかね、切歯はぎしりしてえ立つれば。「おのれ人間ひとの子をきずつけながら、まだ飽きたらでたけり狂ふか。憎き狂犬やまいぬよ、今に目に物見せんず」ト、ひき立て曳立て裏手なる、えんじゅの幹につなぎけり。

 倶不戴天ぐふたいてんの親のあだ、たまさか見付けて討たんとせしに、その仇は取り逃がし、あまつさへその身は僅少わずかの罪に縛められて邪見のしもとうくる悲しさ。さしもに猛き黄金丸も、人間ひと牙向はむかふこともならねば、ぢつと無念をおさゆれど、くやし涙に地は掘れて、悶踏あしずりに木も動揺ゆらぐめり。

 却説かへつてとく鷲郎は、今朝けさより黄金丸が用事ありとて里へ行きしまま、日暮れても帰り来ぬに、漸く心安からず。幾度いくたびか門に出でて、彼方此方かなたこなたながむれども、それかと思ふ影だに見えねば。万一かれが身の上に、怪我あやまちはなきやと思ふものから。「かれ元より尋常なみなみの犬ならねば、無差むざ撲犬師いぬころしに打たれもせまじ。さるにても心元なや」ト、しきりに案じ煩ひつつ。虚々うかうかとおのれも里のかた呻吟さまよひ出でて、或る人家のかたわらよぎりしに。ふと聞けば、垣のうちにてあやしうめき声す。耳傾けて立聞けば、何処どこやらん黄金丸の声音こわねに似たるに。今は少しも逡巡ためらはず。結ひめぐらしたる生垣の穴より、入らんとすれば生憎あやにくに、枳殻からたちの針腹を指すを、かろうじてくぐりつ。声を知るべに忍びよれば。太きえんじゅくくり付けられて、蠢動うごめきゐるは正しくそれなり。鷲郎はつと走りよりて、黄金丸をいだき起し、耳に口あてて「のう、黄金丸、気をたしかに持ちねかし。われなり、鷲郎なり」ト、呼ぶ声耳に通じけん、黄金丸は苦しげにこうべもたげ、「こは鷲郎なりしか。うれしや」ト、いふさへ息も絶々たえだえなるに、鷲郎は急ぎ縄を噬み切りて、身体みうちきずねぶりつつ、「怎麼いかにや黄金丸、苦しきか。什麼そも何としてこの状態ありさまぞ」ト、かついたはりかつ尋ぬれば。黄金丸は身を震はせ、かくいましめられし事の由来おこりを言葉短に語り聞かせ。「とかくは此処を立ち退かん見付けられなば命危し」ト、いふに鷲郎も心得て、深痍ふかでになやむ黄金丸をわが背に負ひつ、元入りし穴を抜け出でて、わが棲居すみかへと急ぎけり。


第七回


 鷲郎に助けられて、黄金丸は漸く棲居へ帰りしかど、これより身体みうち痛みて堪えがたく。加之しかのみならず右の前足ほねくじけて、物の用にも立ち兼ぬれば、口惜くやしきこと限りなく。「われこのままに不具の犬とならば、年頃の宿願いつかかなへん。この宿願叶はずば、養親やしないおやなる文角ぬしに、また合すべきおもてなし」ト、切歯はぎしりして掻口説かきくどくに、鷲郎もその心中すいしやりて、共に無念の涙にくれしが。「さな嘆きそ。世は七顛八起ななころびやおきといはずや。心静かに養生せば、早晩いつかいえざらん。それがし身辺かたわらにあるからは、心丈夫に持つべし」ト、あるいはののしりあるいは励まし、甲斐々々しく介抱なせど、果敢々々はかばかしきしるしみえぬに、ひたすら心を焦燥いらちけり。或日鷲郎は、食物を取らんために、午前ひるまえよりかりに出で、黄金丸のみ寺に残りてありしが。折しも小春の空長閑のどけく、斜廡ひさしれてさす日影の、払々ほかほかと暖きに、黄金丸はとこをすべり出で、椽端えんがわ端居はしいして、独り鬱陶ものおもいに打ちくれたるに。忽ち天井裏に物音して、救助たすけを呼ぶねずみの声かしましく聞えしが。やがて黄金丸のかたわらに、一匹の鼠走り来て、ももの下に忍び入りつ、救助たすけを乞ふものの如し。黄金丸はいと不憫ふびんに思ひ、くだんの雌鼠を小脇こわきかばひ、そも何者に追はれしにやと、彼方かなたきっト見やれば、れたる板戸の陰に身を忍ばせて、此方こなたうかがふ一匹の黒猫あり。見ればいぬる日鷲郎と、かの雉子きぎすを争ひける時、間隙すきを狙ひて雉子をば、盗み去りし猫なりければ。黄金丸はおおいに怒りて、一飛びにくってかかり、あわてて柱に攀昇よじのぼる黒猫の、尾をくわへて曳きおろし。踏躙ふみにじみ裂きて、立在たちどころに息の根とどめぬ。

 この時雌鼠は恐る恐る黄金丸の前へひ寄りて、慇懃いんぎんに前足をつかへ、数度あまたたびこうべを垂れて、再生の恩を謝すほどに、黄金丸は莞爾にっこと打ちみ、「なんじ何処いずこむ鼠ぞ。また彼の猫は怎麼いかなる故に、爾をきずつけんとはなせしぞ」ト、尋ぬれば。鼠は少しくひざを進め、「さればよ殿との聞き給へ。わらわが名は阿駒おこまと呼びて、この天井に棲む鼠にてはべり。またこの猫は烏円うばたまとて、このあたりに棲む無頼猫どらねこなるが。かねてより妾に懸想けそうし、道ならぬたわぶれなせど。妾は定まるおっとあれば、更に承引うけひく色もなく、常に強面つれなき返辞もて、かへつてかれたしなめしが。かくても思切れずやありけん、今しも妾が巣に忍び来て、無残にも妾が雄を噬みころし、妾を奪ひ去らんとするより、逃げ惑ふて遂にかく、殿の枕辺まくらべを騒がせし、無礼の罪は許したまへ」ト、涙ながらに物語れば、黄金丸も不憫の者よト、くだんの鼠を慰めつつ、彼の烏円を尻目しりめにかけ、「さりとては憎き猫かな。這奴しゃつはいぬる日わが鳥を、盗み去りしことあれば、われまた意恨うらみなきにあらず。年頃なせし悪事の天罰、今報ひ来てかく成りしは、まことに気味よき事なりけり」ト、いふ折から彼の鷲郎は、小鳥二、三羽くちはへて、かりより帰り来りしが。この体態ていたらくを見て、事の由来おこりを尋ぬるに、黄金丸はありし仕末を落ちなく語れば。鷲郎もその功労てがらを称賛しつ、「かくては御身が疾病いたつきも、遠ほからずして癒ゆべし」など、いひて共に打ち興じ。やがて持ち来りし小鳥と共に、烏円が肉を裂きて、思ひのままにこれをくらひぬ。

 さてこの時より彼の阿駒は、再生の恩に感じけん、朝夕あけくれ黄金丸が傍にかしずきて、何くれとなく忠実まめやかに働くにぞ、黄金丸もその厚意こころよみし、なさけかけて使ひけるが、もとこの阿駒といふ鼠は、去る香具師こうぐしに飼はれて、種々さまざまの芸を仕込まれ、縁日の見世物みせものいでし身なりしを、ゆえありて小屋を忍出で、今この古刹ふるでらに住むものなれば。折々は黄金丸が枕辺にて、有漏覚うろおぼえの舞の手振てぶり、または綱渡り籠抜かごぬけなんど。むかとったる杵柄きねづかの、覚束おぼつかなくもかなでけるに、黄金丸も興に入りて、病苦もために忘れけり。


第八回


 黄金丸が病に伏してより、やや一月にも余りしほどに、身体みうちの痛みもせしかど、前足いまだえずして、歩行もいと苦しければ、心しきりに焦燥いらちつつ、「このままに打ち過ぎんには、遂に生れもつかぬ跛犬となりて、親のあださへ討ちがたけん。今のあいだによき薬を得て、足をいやさではかなふまじ」ト、その薬をたずねるほどに。或日鷲郎はあわただしく他より帰りて、黄金丸にいへるやう、「やよ黄金丸喜びね。それがし今日医師くすしを聞得たり」トいふに。黄金丸はひざを進め、「こは耳寄りなることかな、その医師とは何処いずこたれぞ」ト、連忙いそがはしく問へば、鷲郎はこたへて、「さればよ。某今日里に遊びて、古き友達に邂逅めぐりあひけるが。その犬語るやう、此処を去ること南の方一里ばかりに、木賊とくさが原といふ処ありて、其処に朱目あかめおきなとて、とうとき兎住めり。この翁若き時は、彼の柴刈しばかりのじじがために、仇敵かたきたぬきを海に沈めしことありしが。その功によりて月宮殿げっきゅうでんより、霊杵れいきょ霊臼れいきゅうとを賜はり、そをもてよろずの薬をきて、今はゆたかに世を送れるが。この翁がもとにゆかば、大概おおかた獣類けもの疾病やまいは、癒えずといふことなしとかや。その犬もいぬる日村童さとのこに石を打たれて、左の後足あとあしを破られしが、くだんの翁が薬を得て、そのきずとみに癒しとぞ。さればわれ直ちに往きて、薬を得て来んとは思ひしかど。御身自ら彼が許にゆきて、親しくその痍を見せなば、なほ便宜たよりよからんと思ひて、われは行かでやみぬ。御身少しは苦しくとも、全く歩行出来ぬにはあらじ、明日あすにも心地よくば、試みに往きて見よ」ト、いふに黄金丸は打喜び、「そはまことに嬉しき事かな。さばれかく貴き医師くすしのあることを、今日まで知らざりしおぞましさよ。とかくは明日往きて薬を求めん」ト、海月くらげの骨を得し心地して、その翌日あけのひ朝未明あさまだきより立ち出で、教へられし路を辿たどりて、木賊とくさが原に来て見るに。はじかえでなんどの色々に染めなしたる木立こだちうちに、柴垣結ひめぐらしたる草庵いおりあり。丸木の柱に木賊もてのきとなし。竹椽ちくえん清らかに、かけひの水も音澄みて、いかさま由緒よしある獣の棲居すみかと覚し。黄金丸は柴門しばのとに立寄りて、丁々ほとほとおとなへば。中より「ぞ」ト声して、朱目あかめ自ら立出づるに。見れば耳長く毛は真白ましろに、まなこくれないに光ありて、一目みるから尋常よのつねの兎とも覚えぬに。黄金丸はまづうやうやしく礼を施し、さて病の由を申聞もうしきこえて、薬を賜はらんといふに、彼の翁心得て、まづそのきずを打見やり、霎時しばしねぶりて後、何やらん薬をすりつけて。さていへるやう、「わがこの薬は、かしこくも月宮殿げっきゅうでん嫦娥じょうがみずから伝授したまひし霊法なれば、縦令たとい怎麼いかなる難症なりとも、とみにいゆることしんの如し。今御身が痍を見るに、時期ときおくれたればやや重けれど、今宵こよいうちには癒やして進ずべし。ともかくも明日あす再び来たまへ、いささか御身に尋ねたき事もあれば……」ト、いふに黄金丸打よろこび、やがて別を告げて立帰りしが。みちすがらある森の木陰をよぎりしに、忽ち生茂おいしげりたる木立のうちより、ひょうト音して飛び来る矢あり。心得たりと黄金丸は、身をひねりてその矢をば、発止はっしト牙にみとめつ、矢の来しかたきっト見れば。二抱ふたかかへもある赤松の、幹両股ふたまたになりたる処に、一匹の黒猿昇りゐて、左手ゆんでに黒木の弓を持ち、右手めてに青竹の矢を採りて、なほ二の矢をつがへんとせしが。黄金丸がつけし、まなこの光に恐れけん、その矢もはなたで、あわただしく枝に走り昇り、こずえ伝ひに木隠こがくれて、忽ち姿は見えずなりぬ。かくて次の日になりけるに、不思議なるかなえたる足、朱目が言葉に露たがはず、全く癒えて常に異ならねば。黄金丸は雀躍こおどりして喜び。急ぎ礼にゆかんとて、ちとばかりの豆滓きらずを携へ、朱目がもとに行きて、全快の由申聞もうしきこえ、言葉を尽して喜悦よろこびべつ。「失主狗はなれいぬにて思ふに任せねど、心ばかりの薬礼なり。ねがわくは納め給へ」ト、彼の豆滓を差しいだせば。朱目も喜びてこれを納め。ややありていへるやう、「昨日きのう御身に聞きたきことありといひしが、余の事ならず」ト、いひさしてかたちをあらため、「それがし幾歳いくとせ劫量こうろうて、やや神通を得てしかば、おのずから獣の相を見ることを覚えて、とおひとつあやまりなし。今御身が相を見るに、世にもまれなる名犬にして、しかも力量ちから万獣ばんじゅうひいでたるが、遠からずして、抜群の功名あらん。某この年月としつき数多あまたの獣に逢ひたれども、御身が如きはかつて知らず。思ふに必ず由緒よしある身ならん、その素性聞かまほし」トありしかば。黄金丸少しもつつまず、おのが素性来歴を語れば。朱目は聞いて膝を打ち。「それにてわれも会得えとくしたり。総じて獣類けものは胎生なれど、多くは雌雄数匹すひきはらみて、一親一子はいと稀なり。さるに御身はただ一匹にて生まれしかば、その力五、六匹を兼ねたり。加之しかのみならず牛に養はれて、牛の乳にはぐくまれしかば、また牛の力量をも受得うけえて、けだし尋常よのつねの犬の猛きにあらず。さるに怎麼いかなればかく、おぞくも足をやぶられ給ひし」ト、いぶかり問へば黄金丸は、「これには深き仔細しさいあり。原来某は、彼の金眸と聴水を、倶不戴天ぐふたいてんあだねらふて、常に油断ゆだんなかりしが。いぬる日くだんの聴水を、途中にて見付しかば、名乗りかけて討たんとせしに、かへつてかれ方便たばかられて、遂にかかる不覚を取りぬ」ト、彼のときの事つぶさに語りつつ、「思へば憎き彼の聴水、重ねて見当らばただ一噬みと、朝夕あけくれ心をばれども、彼も用心して更に里方へ出でざれば、意恨うらみを返す手掛りなく、無念に得堪えず候」ト、いひおわりて切歯はがみをすれば、朱目も点頭うなずきて、「御身が心はわれとくすいしぬ、さこそ無念におはすらめ。さりながら黄金ぬし。御身まことかれを討たんとならば。われに計略はかりごとあり、及ばぬまでも試み給はずや、およきつねたぬきたぐいは、その性質さがいたっ狡猾わるがしこく、猜疑うたがい深き獣なれば、なまじいにたくみたりとも、容易たやすく捕へ得つべうもあらねど。その好む処には、君子も迷ふものと聞く、かれが好むものをもて、釣りいだしてわなに落さんには、さのみ難きことにあらず」トいふに。黄金丸は打喜び、「その釣り落す罠とやらんは、かねてより聞きつれど、某いまだ見し事なし。怎麼いかにして作り候や」「そは斯様々々かようかようにしてこしらへ、それにえばをかけ置くなり」「してかれが好む物とは」「そは鼠の天麩羅てんぷらとて、こえ太りたる雌鼠を、油に揚げて掛けおくなり。さすればその香気かれが鼻を穿うがちて、心魂忽ち空になり、われを忘れて大概おおかたは、その罠に落つるものなり。これよく猟師かりうどのなす処にして、かの狂言にもあるにあらずや。御身これより帰りたまはば、まづその如く罠を仕掛て、他がきたるを待ち給へ。今宵あたりは彼の狐の、その香気に浮かれ出でて、御身が罠に落ちんも知れず」ト、懇切ねんごろに教へしかば。「こはきことを聞き得たり」ト、数度あまたたび喜び聞え、なほ四方山よもやまの物語に、時刻を移しけるほどに、日も山端やまのはかたぶきて、ねぐらに騒ぐ群烏むらがらすの、声かしましく聞えしかば。「こは意外長坐しぬ、ゆるしたまへ」ト会釈しつつ、わが棲居すみかをさして帰り行く、途すがら例の森陰まで来たりしに、昨日の如く木の上より、矢を射かくるものありしが。此度こたびは黄金丸肩をかすらして、思はず身をも沈めつ、大声あげて「おのれ今日も狼藉ろうぜきなすや、引捕ひっとらへてくれんず」ト、走りよって木の上を見れば、果して昨日の猿にて、黄金丸の姿を見るより、またも木葉このはうちに隠れしが、われに木伝こづたふ術あらねば、追駆おっかけて捕ふることもならず。憎き猿めと思ふのみ、そのままにして打棄てたれど。「さるにても何故なにゆえに彼の猿は、一度ならず二度までも、われを射んとはしたりけん。われら猿とは古代いにしえより、仲しきもののたとえに呼ばれて、互ひにきばを鳴らし合ふ身なれど、かくわれのみが彼の猿に、執念しゅうねく狙はるる覚えはなし。明日にもあれ再び出でなば、引捕ひっとらへてたださんものを」ト、その日は怒りを忍びて帰りぬ。──畢竟ひっきょうこの猿は何者ぞ。また狐罠の落着なりゆき怎麼いかん。そは次のまきを読みて知れかし。


   上巻終


下巻


第九回


 かくて黄金丸は、ひたすら帰途かえりを急ぎしが、路程みちのほども近くはあらず、かつは途中にて狼藉せし、猿を追駆おいかけなどせしほどに。意外おもいのほかに暇どりて、日も全く西に沈み、夕月田面たのもに映るころようやくにして帰り着けば。鷲郎わしろうははや門にりて、黄金丸が帰着かえりを待ちわびけん。かれが姿を見るよりも、連忙いそがわしく走り迎へつ、「やよ、黄金丸、今日はなにとてかくはおそかりし。待たるる身より待つわが身の、気遣きづかはしさをすいしてよ。いぬる日の事など思ひ出でて、安き心はなきものを」ト、喞言かことがましく聞ゆれば、黄金丸は呵々かやかやと打ち笑ひて、「さな恨みそ。今日は朱目あかめぬしに引止められて、思はず会話はなしに時を移し、かくは帰着かえりおくれしなり。構へて待たせし心ならねば……」ト、ぶるに鷲郎も深くはとがめず、やがて笑ひにまぎらしつつ、そのままうちに引入れて、共に夕餉ゆうげくらひ果てぬ。

 しばらくして黄金丸は、鷲郎に打向ひて、今日朱目がもとにて聞きし事ども委敷くわしく語り、「かかる良計ある上は、すみやかに彼の聴水を、おびいだしてとらえんず」ト、いへば鷲郎もうち点頭うなずき、「狐を釣るにねずみ天麩羅てんぷらを用ふる由は、われ猟師かりうどつかへし故、とくよりその法は知りて、わなの掛け方も心得つれど、さてそのえばに供すべき、鼠のあらぬに逡巡ためらひぬ」ト、いひつつ天井を打眺うちながめ、少しく声を低めて、「御身がかつてたすけたる、彼の阿駒おこまこそ屈竟くっきょうなれど。かれ頃日このごろはわれなずみて、いと忠実まめやかかしずけば、そを無残に殺さんこと、情も知らぬ無神狗やまいぬなら知らず、かりにも義を知るわがともがらの、すに忍びぬ処ならずや」「まことに御身がいふ如く、われもみちすがら考ふるに、まづの阿駒に気は付きたれど。われその必死を救ひながら、今またかれが命を取らば、怎麼いかにも恩をするに似て、わが身も快くは思はず。とてもかくてもこの外に、鼠をさがらんにかじ」ト、言葉いまだおわらざるに、たちまち「あっ」と叫ぶ声して、鴨居かもいより撲地はた顛落まろびおつるものあり。二匹は思はず左右に分れ、落ちたるものをきっと見れば、今しも二匹がうわさしたる、かの阿駒なりけるが。なにとかしたりけん、口より血おびただしく流れいずるに。鷲郎は急ぎいだき起しつ、「こや阿駒、怎麼にせしぞ」「見ればおもても血にまみれたるに、……また猫にや追はれけん」「いたちにや襲はれたる」「くいへ仇敵かたきは討ちてやらんに」ト、これかれひとしくいたはり問へば。阿駒は苦しき息の下より、「いやとよ。猫にも追はれず、鼬にも襲はれず、わらわ自らかく成りはべり」「さは何故の生害しょうがいぞ」「仔細ぞあらん聞かまほし」ト、また連忙いそがわしくといかくれば。阿駒は潸然はらはらと涙を落し、「さても情深き殿たちかな。かかる殿のためにぞならば、すつる命もおしくはあらず。──妾が自害は黄金ぬしが、御用に立たんねがいに侍り」「さては今の物語を」「なんじは残らず……」「鴨居の上にて聞いて侍り。──妾いぬる日烏円うばたまめに、無態の恋慕しかけられて、すでかれつめに掛り、絶えなんとせし玉の緒を、黄金ぬしの御情おんなさけにて、不思議につなぎ候ひしが。かの時わがおっと烏円うばたまのために、非業の死をば遂げ給ひ。残るは妾ただ一匹、年頃契り深からず、石見銀山いわみぎんざん桝落ますおとし、地獄落しも何のその。縦令たとひ石油の火の中も、たらいの水の底までも、死なば共にとちこふたる、恋し雄に先立たれ、何がこの世の快楽たのしみぞ。生きて甲斐なきわが身をば、かく存命ながらへて今日までも、君にかしずきまゐらせしは、妾がために雄の仇なる、かの烏円をその場を去らせず、討ちて給ひし黄金ぬしが、御情にほだされて、早晩いつかは君の御為おんために、この命をまいらせんと、思ふ心のあればのみ。かくて今宵図らずも、殿たち二匹の物語を、鴨居の上にてれ聞きつ。さても嬉しや今宵こそ、御恩に報ゆる時来れと、心ひそかに喜ぶものから。今殿たちが言葉にては、とても妾をきばにかけて、殺しては給はらじと、思ひ定めつさてはかく、われから咽喉のどみはべり。恩のために捨る命の。露ばかりも惜しくは侍らず。まいてや雄は妾より、先立ち登る死出の山、峰にひたる若草の、根をかじりてやわれを待つらん。追駆け行くこそなかなかに、心楽しく侍るかし。願ふはわが身をこのままに、天麩羅とやらんにしたまひて、彼の聴水を打つてべ。日頃大黒天だいこくてんに願ひたる、その甲斐ありて今ぞかく、わが身は恩ある黄金ぬしの、御用に立たん嬉れしさよ。……ああ苦しや申すもこれまで、おさらばさらば」ト夕告ゆうつげの、とり乱したる前き合せ。西に向ふて双掌もろてを組み、まなこを閉ぢてそのままに、息絶えけるぞ殊勝なる。

 二匹の犬ははじめより耳そばたてて、阿駒おこまが語る由を聞きしが。黄金丸はまづ嗟嘆さたんして、「さても珍しき鼠かな。国には盗人ぬすびと家に鼠と、人間ひとに憎まれいやしめらるる、鼠なれどもかくまでに、恩には感じ義にはいさめり。これを彼の猫の三年こうても、三日にして主を忘るてふ、烏円如きに比べては、雪と炭との差別けじめあり。むかし唐土もろこし蔡嘉夫さいかふといふ人間ひと、水を避けて南壟なんろうに住す。或夜おおいなる鼠浮び来て、嘉夫がとこほとりに伏しけるを、あわれみて飯を与へしが。かくて水退きて後、くだんの鼠青絹玉顆せいけんぎょくかささげて、奴に恩を謝せしとかや。今この阿駒もその類か。復讐ふくしゅう報恩むくいに復讐の、用に立ちしも不思議の約束、思へばのがれぬ因果なりけん。さばれいきとし生ける者、何かは命を惜まざる。あしたに生れゆうべに死すてふ、蜉蝣ふゆといふ虫だにも、追へばのがれんとするにあらずや。ましてこの鼠の、恩のためとはいひながら、自ら死して天麩羅てんぷらの、辛き思ひをなさんとは、まことに得がたき阿駒が忠節、むるになほ言葉なし。……とまれかれ願望のぞみに任せ、無残なれども油に揚げ。彼の聴水ちょうすいつりよせて、首尾よく彼奴きゃつを討取らば、いささ菩提ぼだいたねともなりなん、善は急げ」ト勇み立ちて、黄金丸まづ阿駒の死骸なきがらを調理すれば、鷲郎はまた庭にり立ち、青竹を拾ひ来りて、罠の用意にぞ掛りける。


第十回


 不題ここにまた彼の聴水は、いぬる日途中にて黄金丸に出逢ひ、すでに命も取らるべき処を、かろうじて身一ツを助かりしが。その時よりして畏気おじけ附き、白昼ひるは更なり、も里方へはいで来らず、をさをさ油断ゆだんなかりしが。そののち他の獣風聞うわさを聞けば、彼の黄金丸はそのゆうべいた人間ひと打擲ちょうちゃくされて、そがために前足えしといふに。少しく安堵あんどの思ひをなし、忍び忍びに里方へ出でて、それとなく様子をさぐれば、そのきず意外おもいのほか重くして、日をれどもえず。さるによつて明日あすよりは、木賊とくさはら朱目あかめもとに行きて、療治をはんといふことまで、怎麼いかにしけんさぐりしりつ、「こはておけぬ事どもかな、かれもし朱目が薬によりて、その痍全く愈えたらんには、再び怎麼なる憂苦うきめをや見ん。とかく彼奴きゃつを亡きものにせでは、まくらを高くねぶられじ」ト、とさまかうさま思ひめぐらせしが。忽ち小膝こひざはたち、「ここによきはかりごとこそあれ、頃日このころ金眸きんぼう大王が御内みうちつかへて、新参なれどもまめだちて働けば、大王の寵愛おおぼえ浅からぬ、彼の黒衣こくえこそよかんめれ。彼の猿弓を引くわざけて、先つ年かれが叔父沢蟹さわがにと合戦せし時も、軍功少からざりしと聞く。そののち叔父はうすたれ、かれは木から落猿おちざるとなつて、この山に漂泊さまよひ来つ、金眸大王に事へしなれど、むかしとったる杵柄きねづかとやら、一束ひとつかの矢一張ひとはりの弓だに持たさば、彼の黄金丸如きは、事もなく射殺いころしてん。まづかれもときて、事の由来おこり白地あからさまに語り、このことを頼むにかじ」ト思ふにぞ、直ちに黒衣が許へ走り往きつ、ひたすらに頼みければ。元より彼の黒衣も、心姦佞ねじけし悪猿なれば、異議なく承引うけあひ、「われも久しくためさねば、少しは腕も鈍りたらんが。多寡たかの知れたる犬一匹、われ一矢にて射て取らんに、何の難き事かあらん。さらば先づ弓矢を作りて、明日かれの朱目が許より、帰る処を待ち伏せて、見事仕止めてくれんず」ト、いと頼もしげに見えければ。聴水は打ち喜び、「よろづは和主おぬしまかすべければ、よきに計ひ給ひてよ。謝礼は和主が望むにまかせん」ト。それより共に手伝ひつつ、はじの弓に鬼蔦おにづたつるをかけ、生竹なまだけく削りて矢となし、用意やがてととのひける。

 さて次日つぎのひの夕暮、聴水はくだんの黒衣が許に往きて、首尾怎麼いかにと尋ぬるに。黒衣まづ誇貌ほこりがお冷笑あざわらひて「さればよ聴水ぬし聞き給へ。われ今日かの木賊とくさはらに行き、路傍みちのほとりなる松の幹の、よき処に坐をしめて、黄金丸が帰来かえりを待ちけるが。われいまだかれを見しことなければ、もし過失あやまちての犬をきずつけ、後のわざわいをまねかんも本意ほいなしと、案じわづらひてゐけるほどに。暫時しばらくして彼方かなたより、茶色毛の犬の、しかも一そくえたるが、覚束おぼつかなくも歩み来ぬ。かねて和主が物語に、かれはその毛茶色にて、右の前足痿えしとききしかば。必定ひつじょうこれなんめりと思ひ。矢比やごろを測つてひょうと放てば。竄点ねらい誤たず、かれが右のまなこ篦深のぶかくも突立つったちしかば、さしもにたけき黄金丸も、何かはもってたまるべき、たちま撲地はたと倒れしが四足を悶掻もがいてしんでけり。仕済ましたりと思ひつつ、松より寸留々々するすると走り下りて、かれむくろを取らんとせしに、何処いずくより来りけん一人の大男、思ふに撲犬師いぬころしなるべし、手に太やかなる棒持ちたるが、歩みよってわれをさえぎり、なほ争はば彼の棒もて、われを打たんずいきおいに。われもかれさへ亡きものにせば、躯はさのみ要なければ、わが功名てがら横奪よこどりされて、残念なれども争ふて、きずつけられんも無益むやくしと思ひ、そのまま棄てて帰り来ぬ。されども聴水ぬし、かれたしかに仕止めたれば、証拠の躯はよし見ずとも、心強く思はれよ。ああ彼の黄金丸も今頃は、革屋かわやが軒に鉤下つりさげられてん。思へばわれに意恨うらみもなきに、無残なことをしてけり」ト、事実まことしやかに物語れば、聴水喜ぶことななめならず、「こは有難し、われもこれより気強くならん。原来彼の黄金丸は、われのみならずかしこくも、大王までを仇敵かたきねらふて、かれ足痍あしのきずいえなば、この山に討入うちいりて、大王をたおさんと計る由。……怎麼いかかれ畑時能が飼
ひし犬の名
)の智勇ありとも、わが大王に牙向はむかはんこと蜀犬しょっけんの日をゆる、愚を極めしわざなれども。大王これをきこし召して、いささか心に恐れ給へば、佻々かるがるしくは他出そとでもしたまはず。さるをいま和主が、一ぜんもと射殺いころしたれば、わがためにうれいを去りしのみか、取不直とりもなおさず大王が、眼上めのうえこぶを払ひしに等し。今より後は大王も、枕を高く休みたまはん、これひとへに和主が働き、その功実に抜群なりかし。われはこれより大王にまみえ、和主が働きを申上げて、重き恩賞得さすべし。」とて、いと嬉しげに立去りけり。


第十一回


 かくて聴水は、黒衣こくえ棲居すみかを立出でしが、かれが言葉を虚誕いつわりなりとは、月にきらめく路傍みちのべの、露ほども暁得さとらねば、ただ嬉しさに堪えがたく、「明日よりは天下晴れて、里へも野へも出らるるぞ。のう、嬉れしやよろこばしや」ト。ながひとやつながれし人間ひとの、急に社会このよへ出でし心地して、足も空に金眸きんぼうほらきたれば。金眸は折しも最愛の、照射ともしといへる侍妾そばめの鹿を、ほとり近くまねきよせて、酒宴に余念なかりけるが。聴水はかくと見るより、まづ慇懃いんぎんに安否を尋ね。さて今日斯様かようのことありしとて、黒衣が黄金丸を射殺せし由を、白地ありのままに物語れば。金眸もななめならず喜びて、「そはおおいなる功名てがらなりし。さばれなんじ何とてかれを伴はざる、他に褒美ほうびを取らせんものを」ト、いへば聴水は、「やつがれしか思ひしかども、今ははや夜もけたれば、今宵は思ひとどまり給ふて、明日の夜更に他をまねき、酒宴を張らせ給へかし。さすれば僕明日里へ行きて、下物さかな数多あまたもとめて参らん」ト、いふに金眸も点頭うなずきて、「とかくは爾よきに計らへ」「おおせかしこまり候」とて。聴水は一礼なし、おの棲居すみかへ帰りける。

 さてその翌朝あけのあさ、聴水は身支度みじたくなし、里のかたへ出で来つ。の畠彼処かしこくりやと、日暮るるまで求食あさりしかど、はかばかしき獲物もなければ、尋ねあぐみてある藪陰やぶかげいこひけるに。忽ち車のきしる音して、一匹の大牛おおうしおおいなる荷車をき、これに一人の牛飼つきて、罵立ののしりたてつつ此方こなたをさして来れり。聴水は身を潜めてくだんの車の上を見れば。何処いずくの津より運び来にけん、俵にしたる米のほかに、塩鮭しおざけ干鰯ほしかなんど数多あまた積めるに。こはき物を見付けつと、なほ隠れて車をり過し、ひらりとその上に飛び乗りて、積みたるさかなをば音せぬやうに、少しづつ路上みちのべ投落なげおとすを、牛飼は少しも心付かず。ただかの牛のみ、車の次第に軽くなるに、いぶかしとや思ひけん、折々立止まりて見返るを。牛飼はまだ暁得さとらねば、かへつて牛の怠るなりと思ひて、ひたすら罵り打ち立てて行きぬ。とかくして一町ばかり来るほどに、肴大方取下してければ、はや用なしと車を飛び下り。投げたる肴を一ツに拾ひ集め、これを山へ運ばんとするに。かさ意外おもいのほかに高くなりて、一匹にては持ても往かれず。さりとて残し置かんも口惜し、こは怎麼いかにせんと案じ煩ひて、霎時しばしたたずみける処に。彼方あなたの森の陰より、驀地まっしぐら此方こなたをさしてせ来る獣あり。何者ならんと打見やれば。こは彼の黒衣にて。小脇に弓矢をかかへしまま、側目わきめもふらず走り過ぎんとするに。聴水は連忙いそがわしく呼び止めて、「喃々のうのう、黒衣ぬし待ちたまへ」と、声をかくれば。漸くに心付きし、黒衣は立止まり、聴水のかたを見返りしが。ただ眼を見張りたるのみにて、いまだ一言も発し得ぬに。聴水は可笑おかしさをこらえて、「あわただし何事ぞや。おもての色も常ならぬに……物にや追はれ給ひたる」ト、といかくれば。黒衣は初めて太息といきき、「さても恐しや。今かの森の中にて、黄金こがね……黄金色なる鳥を見しかば。一矢に射止めんとしたりしに、あに計らんやかれおおいなるわしにて、われを見るより一攫ひとつかみに、攫みかからんと走り来ぬ。ああ 恐しや恐しや」ト、胸をでつつ物語れば。聴水は打ち笑ひ、「そはまこと危急あやうかりし。さりながら黒衣ぬし、今日は和主は客品かくぼんにて、居ながら佳肴かこうくらひ得んに、なにを苦しんでか自らかりに出で、かへつてかかる危急き目に逢ふぞ。毛を吹いてきずを求むる、酔狂ものずきもよきほどにしたまへ。そはともあれわれ今日は大王の御命おおせを受け、和主を今宵招かんため、今朝けさより里へ求食あさり来つ、かくまで下物さかなは獲たれども、余りにかさ多ければ、独りにては運び得ず、思量しあんにくれし処なり。今和主の来りしこそさちなれ、大王もさこそ待ち侘びておわさんに、和主も共に手伝ひて、この下物さかなを運びてたべ。なさけあだしためならず、皆これ和主にまいらせんためなり」ト、いふに黒衣も打ちわらいて、「そはいとやすき事なり。幸ひこれに弓あれば、これにて共にき往かん。まづ待ち給へせん用あり」ト。やがておおいなる古菰ふるごもを拾ひきつ、これに肴を包みて上よりなわをかけ。くだんの弓をさし入れて、人間ひと駕籠かごなど扛くやうに、二匹前後まえうしろにこれをになひ、金眸が洞へと急ぎけり。


第十二回


 聴水黒衣の二匹の獣は、彼の塩鮭しおざけ干鰯ほしかなんどを、すべて一包みにして、金眸が洞へ扛きもて往き。やがてこれを調理して、数多あまた獣類けものを呼びつどひ、酒宴を初めけるほどに。皆々黒衣が昨日の働きを聞て、口を極めて称賛ほめそやすに、黒衣はいと得意顔に、鼻うごめかしてゐたりける。金眸も常に念頭こころけゐて、後日の憂ひを気遣ひし、彼の黄金丸を失ひし事なれば、その喜悦よろこびに心ゆるみて、常よりは酒を過ごし、いと興づきて見えけるに。聴水も黒衣も、ここ先途せんど機嫌きげんを取り。聴水がうたへば黒衣が舞ひ、彼が篠田しのだの森をおどれば、これはあり合ふ藤蔓ふじづるを張りて、綱渡りの芸などするに、金眸ますます興に入りて、しきりに笑ひ動揺どよめきしが。やがてえいも十二分にまはりけん、照射ともしが膝を枕にして、前後も知らず高鼾たかいびき霎時しばしこだまに響きけり。かくて時刻も移りしかば、はや退まからんと聴水は、他の獣わかれを告げ、金眸が洞を立出でて、倰僜よろめく足を踏〆ふみしめ踏〆め、わが棲居すみかへと辿たどりゆくに。このとき空は雲晴れて、十日ばかりの月の影、くまなくえて清らかなれば、野も林も一面ひとつらに、白昼まひるの如く見え渡りて、得も言はれざる眺望ながめなるに。聴水は虚々うかうかと、わがへ帰ることも忘れて、次第にふもとかたへ来りつ、ある切株に腰うちかけて、霎時しばし月を眺めしが。「ああ、心地や今日の月は、殊更ことさら冴え渡りて見えたるぞ。これも日頃気疎けぶたしと思ふ、黄金を亡き者にしたれば、胸にこだはる雲霧の、一時に晴れし故なるべし。……さても照りたる月かな、われもし狸ならんには、腹鼓も打たんに」ト、彼の黒衣が虚誕いつわりを、それとも知らで聴水が、佻々かるがるしくも信ぜしこそ、年頃なせし悪業の、天罰ここに報い来て、今てる空の月影は、即ちその身の運のつき、とは暁得さとらずしてひたすらに、興じゐるこそ愚なれ。

 折しも微吹そよふく風のまにまに、何処いずくより来るとも知らず、いともたえなるかおりあり。怪しと思ひなほぎ見れば、正にこれおのが好物、鼠の天麩羅てんぷらの香なるに。聴水忽ちまなこを細くし、「さてもうまくさや、うまくさや。何処いずくの誰がわがために、かかる馳走ちそうこしらへたる。いできて管待もてなしうけん」ト、みちなきくさむらを踏み分けつつ、香を知辺しるべ辿たどり往くに、いよいよその物近く覚えて、香しきりに鼻をつにぞ。心魂こころも今は空になり、其処そこかと求食あさるほどに、小笹おざさ一叢ひとむら茂れる中に、ようやく見当る鼠の天麩羅てんぷら。得たりと飛び付きはんとすれば、忽ち発止ぱっしと物音して、その身のくびは物にめられぬ。「南無三なむさんわなにてありけるか。おぞくもられし口惜くちおしさよ。さばれ人間ひとの来らぬ間に、のがるるまでは逃れて見ん」ト。力の限り悶掻もがけども、更にそのせんなきのみか咽喉のどは次第にしばり行きて、苦しきこといはんかたなし。

 かかる処へ、左右の小笹哦嗟々々がさがさと音して、立出たちいずるものありけり。「さてはいよいよ猟師かりうどよ」ト、見やればこれ人間ひとならず、いとたくましき二匹の犬なり。この時右手めてなる犬は進みよりて、「やをれ聴水われを見識みしれりや」ト、いふに聴水覚束おぼつかなくも、彼の犬を見やれば、こは怎麼いかに、昨日黒衣に射らせたる黄金丸なるに。再びいたく驚きて、物いはんとするに声は出でず、まなこを見はりてもだゆるのみ。犬はなほ語をぎて、「怎麼に苦しきか、さもありなん。されど耳あらばよく聞けかし。なんじよくこそわが父をたぶらかして、金眸にははしたれ。われもまた爾がためには、罪もなきに人間ひとに打たれて、いたく足をきずつけられたれば、重なる意恨うらみいと深かり。然るに爾そののちは、われを恐れて里方へは、少しも姿をいださざる故、意恨をはらす事ならで、いとも本意ほいなく思ふ折から。朱目あかめぬしが教へに従ひ、今宵此処に罠をかけて、ひそかに爾がきたるを待ちしに。さきにわがため命をすてし、阿駒おこま赤心まごころ通じけん、おぞくも爾釣り寄せられて、罠に落ちしもがれぬ天命。今こそ爾を思ひのままに、肉を破り骨を砕き、寸断々々ずたずたに噛みさきて、わが意恨うらみを晴らすべきぞ。思知つたか聴水」ト、いひもあへず左右より、つかみかかつて噛まんとするに。思ひも懸けず後より、「やよ黄金丸しばらく待ちね。それがしいささか思ふ由あり。這奴しゃつが命は今霎時しばし、助け得させよ」ト、声かけつつ、徐々しずしず立出たちいずるものあり。二匹は驚き何者ぞと、月光つきあかりすかし見れば。何時いつのほどにか来りけん、これなん黄金丸が養親やしないおや牡牛おうし文角ぶんかくなりけるにぞ。「これはこれは」トばかりにて、二匹は再びきもを消しぬ。


第十三回


 かかる処へ文角の来らんとは、思ひ設けぬ事なれば、黄金丸驚くこと大方ならず。「珍らしや文角ぬし。什麼そも何として此処にはきたりたまひたる。そはとまれかくもあれ、そののちは御健勝にて喜ばし」ト、一礼すれば文角は点頭うなずき、「その驚きはことわりなれど、これにはちとの仔細あり。さて其処にゐる犬殿は」ト、鷲郎わしろうゆびさし問へば。黄金丸も見返りて、「こは鷲郎ぬしとて、いぬる日斯様々々かようかようの事より、図らず兄弟のちかひをなせし、世にも頼もしき勇犬なり。さて鷲郎この牛殿は、日頃それがしうわさしたる、養親の文角ぬしなり」ト、互に紹介ひきあわすれば。文角も鷲郎も、うやうやしく一礼なし、初対面の挨拶あいさつもすめば。黄金丸また文角にむかひて、「さるにても文角ぬしには、怎麼いかなる仔細のそうろうて、今宵此処には来たまひたる」ト、連忙いそがわしく尋ぬれば。「さればとよよくききね、われ元より御身たちと、今宵此処にて邂逅めぐりあはんとは、夢にだも知らざりしが。今日しも主家のこものかれて、このあたりなる市場へ、塩鮭干鰯ほしか米なんどを、車につみて運び来りしが。彼の大藪おおやぶの陰を通る時、一匹の狐物陰より現はれて、わが車の上に飛び乗り、さかなとって投げおろすに。しゃツ憎き野良狐めト、よくよく見れば年頃日頃、憎しと思ふ聴水なれば。這奴しゃついまだ黄金丸が牙にかからず、なほこの辺を徘徊はいかいして、かかる悪事を働けるや。いで一突きに突止めんと、気はあせれども怎麼にせん、われは車にけられたれば、心のままに働けず。これを廝に告げんとすれど、悲しや言語ことば通ぜざれば、かれは少しも心付かで、阿容々々おめおめ肴を盗み取られ。やがて市場に着きし後、代物しろもの三分みつひとつは、あらぬに初めて心付き。廝はいた狼狽うろたへて、さまざまにののしり狂ひ。さては途中にふり落せしならんと、引返して求むれど、これかと思ふ影だに見えぬに、今はたせんなしとあきらめしが。あきらめられぬはわが心中。彼の聴水が所業しわざなること、目前まのあたり見て知りしかば、いかにも無念さやるせなく。ことにはかれは黄金丸が、倶不戴天ぐふたいてんあだなれば、意恨はかの事のみにあらず。よしよし今宵は引捕ひっとらへて、後黄金丸に逢ひし時、土産みやげになして取らせんものと、心に思ひ定めつつ。さきに牛小屋を忍び出でて、其処よ此処よと尋ねめぐり、はしなくこの場に来合せて、思ひもかけぬ御身たちに、邂逅ふさへ不思議なるに、憎しと思ふかの聴水も、かく捕はれしこそ嬉しけれ」ト、語るを聞きて黄金丸は、「さは文角ぬしにまで、かかる悪戯いたずらしけるよな。返す返すも憎き聴水、いで思ひ知らせんず」ト、みかかるをば文角は、再び霎時しばしと押し隔て、「さな焦燥いらちそ黄金丸。かれすでに罠に落ちたる上は、俎板まないたの上なるうおに等しく、殺すもいかすも思ひのままなり。されども彼の聴水は、金眸が股肱ここうの臣なれば、かれを責めなばおのずから、金眸がほらの様子も知れなんに、暫くわがさんやうを見よ」ト、いひつつ進みよりて、聴水が襟頭えりがみ引掴ひっつかみ、罠をゆるめてわがひざの下に引きえつ。「いかにや聴水。かくわれが計略に落ちしからは、なんじが悪運もはやこれまでとあきらめよ。原来爾は稲荷大明神いなりだいみょうじん神使かみつかいなれば、よくその分を守る時は、人もとうとみてきずつくまじきに。性邪悪よこしまにして慾深ければ、奉納のあげ豆腐をて足れりとせず。われから宝珠を棄てて、明神の神祠みやしろを抜け出で、穴も定めぬ野良狐となりて、彼の山に漂泊さまよひ行きつ。金眸がひげちりをはらひ、阿諛あゆたくましうして、その威を仮り、数多あまた獣類けものを害せしこと、その罪諏訪すわの湖よりも深く、また那須野なすのはらよりもおおいなり。さばれ爾が尾いまだ九ツにけず、三国さんごく飛行ひぎょうの神通なければ、つひにおぞくも罠に落ちて、この野の露と消えんこと、けだしのがれぬ因果応報、大明神の冥罰みょうばつのほど、今こそ思ひ知れよかし。されども爾確乎たしかに聞け。過ちて改むるにはばかることなく、末期まつごの念仏一声には、怎麼いかなる罪障も消滅するとぞ、爾今前非を悔いなば、すみやかに心を翻へして、われがために尋ぬることを答へよ。すでに爾も知る如く、年頃われ曹彼の金眸をあだと狙ひ。機会おりもあらば討入りて、かれが髭首かかんと思へと。怎麼にせん他が棲む山、みちけんにして案内知りがたく。加之しかのみならず洞のうちには、怎麼なる猛獣はんべりて、怎麼いかなる守備そなえある事すら、更に探り知る由なければ、今日までかくは逡巡ためらひしが、早晩いつか爾を捕へなば、糺問なして語らせんと、日頃思ひゐたりしなり。されば今われが前にて、彼の金眸が洞の様子、またあの山の要害怎麼に、委敷くわしく語り聞かすべし。かくてもなお他を重んじ、事の真実まことを語らずば、その時こそは爾をば、われ曹三匹かわる更る。角に掛け牙に裂き、思ひのままに憂苦うきめを見せん。もしまたいはば一思ひに、息の根止めて楽に死なさん。とても逃れぬ命なれば、臨終いまわの爾が一言にて、地獄にも落ち極楽にも往かん。とく思量しあんして返答せよ」ト、あるいはおどしあるいはすかし、言葉を尽していひ聞かすれば。聴水は何思ひけん、両眼より溢落はふりおつる涙きあへず。「ああわれ誤てり誤てり。道理ことわりめし文角ぬしが、今の言葉にやつがれが、幾星霜いくとしつきの迷夢め、今宵ぞ悟るわが身の罪障思へば恐しき事なりかし。とまれ文角ぬし、和殿わどのが言葉にせめられて、今こそ一の思ひ出に、聴水物語り候べし。黄金ぬしも聞き給へ」ト、いひつつしわぶき一咳ひとつして、く息も苦しげなり。


第十四回


 この時文角は、捕へし襟頭えりがしら少しゆるめつ、されどもいささか油断せず。「いふ事あらばくいへかし。この期に及びわれを欺き、間隙すきねらふて逃げんとするも、やはかそのに乗るべきぞ」ト、いへば聴水こうべを打ちふり、「その猜疑うたがいことわりなれど、やつがれすでに罪を悔い、心を翻へせしからは、などて卑怯ひきょうなる挙動ふるまいをせんや。さるにても黄金ぬしは、怎麼いかにしてかくつつがなきぞ」ト。いぶかり問へば冷笑あざわらひて、「われまことなんじたばかられて、いぬる日人間ひとの家に踏み込み、いた打擲ちょうちゃくされし上に、裏のえんじゅつながれて、明けなば皮もはがれんずるを、この鷲郎に救ひいだされ、危急あやうき命は辛く拾ひつ。その時足をくじかれて、霎時しばしは歩行もならざりしが。これさへ朱目あかめおきなが薬に、かく以前もとの身になりにしぞ」ト、足踏あしぶみして見すれば。聴水は皆まで聞かず、「いやとよ、和殿が彼時かのとき人間ひとに打たれて、足をやぶられたまひし事は、僕ひそかに探り知れど。僕がいふはその事ならず。──さても和殿に追はれし日より、わが身仇敵かたき附狙つけねらはれては、何時いつまた怎麼なる事ありて、われ遂に討たれんも知れず。とかく和殿を亡き者にせでは、わが胸到底安からじト、左様右様とさまこうさま思ひめぐらし。機会おりうかがふとも知らず、和殿は昨日彼のきずのために、朱目の翁を訪れたまふこと、ひそかに聞きて打ち喜び。直ちにわが腹心の友なる、黒衣と申す猿に頼みて、途中に和殿を射させしに、見事仕止めつと聞きつるが。……さては彼奴きゃつに欺かれしか」ト。いへば黄金丸呵々からからと打ち笑ひ、「それにてわれも会得したり。いまだ鷲郎にも語らざりしが。昨日朱目が許より帰途かえるさ、森の木陰を通りしに、われを狙ふて矢を放つものあり。畢竟ひっきょう村童們さとのこら悪戯いたずらならんと、その矢をくちひ止めつつ、矢の来しかたを打見やれば。こは人間と思ひのほか、おおいなる猿なりければ。にっくき奴めとにらまへしに、そのまま這奴しゃつは逃げせぬ。されどもわれ彼の猿に、意恨うらみを受くべきおぼえなければ、何故なにゆえかかる事をすにやト、更に心に落ちざりしに、今爾が言葉によりて、かれが狼藉の所以ゆえも知りぬ。然るにかれ今日もまた、同じ処に忍びゐて。われを射んとしたりしかど。此度こたびもその矢われには当らず、肩のあたりをかすらして、後の木根きのねに立ちしのみ」ト。聞くに聴水は歯を咬切くいしばり、「口惜しや腹立ちや。聴水ともいはれし古狐が、黒衣ごとき山猿に、阿容々々おめおめ欺かれし悔しさよ。かかることもあらんかと、覚束なく思へばこそ、昨夕ゆうべ他がを訪づれて、首尾怎麼いかなりしと尋ねしなれ。さるにかれ事もなげに、見事仕止めて帰りぬト、語るをわれも信ぜしが。今はた思へば彼時に、むくろ人間ひとに取られしなどと、いひくろめしも虚誕いつわりの、尾を見せじと思へばなるべし。かくて他われを欺きしも、もしこののち和殿に逢ふことあらば、事発覚あらわれんと思ひしより、再び今日も森に忍びて、和殿を射んとはしたりしならん。それにて思ひ合すれば、さきに藪陰にて他に逢ひし時、いたく物にぢたる様子なりしが、これも黄金ぬしに追はれし故なるべし。さりとは露ほども心付かざりしこそ、返す返すも不覚なれ。……ああ、これも皆聴水が、悪事のむくいなりと思へば、他を恨みん由あらねど。這奴しゃつなかりせば今宵もかく、罠目わなめの恥辱はうけまじきに」ト、くい八千度百千度やちたびももちたび、眼を釣りあげてもだえしが。ややありて胸押ししずめ、「ああ悔いても及ぶことかは。とてもかくてもすつる命の、ただこの上は文角ぬしの、言葉にまかせて金眸が、洞の様子を語り申さん。──そもかの金眸大王が洞は、麓を去ること二里あまり、山を越え谷をわたること、その数幾つといふことを知らねど。もし間道より登る時は、わずか十町ばかりにして、その洞口ほらのくちに達しつべし。さてまた大王が配下には、鯀化こんかひぐま黒面こくめんしし)を初めとして、猛き獣なきにあらねど。そは皆各所の山に分れて、おのが持場を守りたれば、常には洞のほとりにあらずただやつがれとかの黒衣のみ、旦暮あけくれ大王のかたわらに侍りて、かれが機嫌をとるものから。このほど大王何処いずくよりか、照射ともしといへる女鹿めじかを連れ給ひ、そが容色におぼれたまへば、われちょうは日々にがれて、ひそかに恨めしく思ひしなり。かくて僕いぬる日、黄金ぬしに追れしより、かの月丸つきまる遺児わすれがたみ、僕及び大王を、仇敵かたきと狙ふ由なりと、金眸に告げしかば。れもまた少しく恐れて、くだんの鯀化、黒面などを呼びよせ、洞ちかく守護さしつつ、自身おのれ佻々かるがるしく他出そとでしたまはざりしが。これさへ昨日黒衣めが、和殿を打ちしと聞き給ひ、喜ぶことななめならず、たちま守護まもりを解かしめつ。今宵は黄金丸を亡き者にせしいわいなりとて、さかんに酒宴を張らせたまひ。僕もその席に侍りて、先のほどまで酒みしが、独り早く退まかいでつ、その帰途かえるさにかかる状態ありさま、思へば死神の誘ひしならん」ト。いふに黄金丸は立上りて、彼方あなたの山をきっにらめつ、「さては今宵彼の洞にて、金眸はじめ配下の獣酒宴さかもりなしてたわぶれゐるとや。時節到来今宵こそ。宿願成就する時なれ。阿那あな喜ばしやうれしや」ト、天に喜び地に喜び、さながら物に狂へる如し。聴水はなほ語をぎて、「に今宵こそ屈竟くっきょうなれ。さきに僕退出まかりでし時は、大王は照射ともしが膝を枕として、前後も知らず酔臥えいふしたまひ。そのほとりには黒衣めが、興に乗じて躍りゐしのみ、余の獣們は腹を満たして、各自おのおの棲居すみかに帰りしかば、洞には絶えて守護まもりなし。これより彼処かしこへ向ひたまはば、かの間道よりのぼりたまへ。少しは路の嶮岨けわしけれど、幸ひ今宵は月冴えたれば、辿たどるに迷ふことはあらじ。その間道は……あれみそなはせ、彼処かしこに見ゆる一叢ひとむらの、杉の森の小陰こかげより、小川を渡りて東へ行くなり。さてまた洞は岩畳み、鬼蔦おにづたあまたひつきたれど、ほとりにえのきの大樹あれば、そを目印めじるしに討入りたまへ」ト、残る隈なく教ふるにぞ。鷲郎聞きて感嘆なし、「げにや悪に強きものは、また善にも強しといふ。なんじ今前非を悔いて、吾がために討入りの、計策はかりごとを教ふることまめなり。さればわれその厚意こころざしで、おつつけ彼の黒衣とやらんをうって、爾がためにうらみすすがん。心安く成仏じょうぶつせよ」「こは有難き御命おおせかな。かくては思ひ置くこともなし、くわが咽喉のどみたまへ」ト。覚悟むればなかなかに、ちっとも騒がぬ狐が本性。天晴あっぱれなりとたたへつつ、黄金丸は牙をらし、やがて咽喉をぞ噬み切りける。


第十五回


 黄金丸はまづ聴水を噬みころして、喜ぶこと限りなく、勇気日頃に十倍して、直ちに洞へむかはんと、連忙いそがわしく用意をなし。文角鷲郎もろともに、彼の聴水が教へし路を、ひたすら急ぎ往くほどに、やがて山の峡間はざまに出でしが、これより路次第に嶮岨けわしく。荊棘けいきょくいやが上にひ茂りて、折々行方ゆくてさえぎり。松柏しょうはく月をおおひては、暗きこといはんかたなく、ややもすれば岩に足をとられて、千仞せんじんたにに落ちんとす。鷲郎は原来猟犬かりいぬにて、かかる路には慣れたれば、「われ東道あんないせん」とて先に立ち、なほ路を急ぎけるほどに、とかくしてある尾上おのえに出でしが。此処はただ草のみ生ひて、樹はまれなれば月光つきあかりに、路の便たよりもいとやすかり。かかる処に路傍みちのほとりくさむらより、つと走り出でて、鷲郎が前を横切るものあり。「しゃつ伏勢ござんなれ」ト、身構へしつつきっと見れば、いとおおいなる黒猿の、おもて蘇枋すおう髣髴さもにたるが、酒に酔ひたる人間ひとの如く、倰僜よろめきよろめき彼方かなたに行きて、太き松の幹にすがりつ、よじ登らんとあせれども、怎麼いかにしけん登り得ず。幾度いくたびかすべり落ちては、また登りつかんとするに。鷲郎は見返りて、黄金丸に打向ひ、「怎麼に黄金丸、彼処かしこを見ずや。松の幹に攀らんとして、しきりにあせる一匹の猿あり。もし彼の黒衣にてはあらぬか」ト、し示せば黄金丸は眺めやりて、「いかさま見違みまごふべきもあらぬ黒衣なり。彼奴きゃつ松の幹に登らんとして登り得ぬは、思ふに今まで金眸が洞にありて、酒を飲みしにやあらん。引捕ひっとらへて吟味せば、洞の様子も知れなんに……」「かれ果して黒衣ならば、われまづ往きて他をまん。さきに聴水とも約したれば」ト、いひつつ走りよりて、「やをれ黒衣、にぐるとて逃さんや」ト、一声高くえかくれば。猿ははたと地に平伏ひれふして、熟柿じゅくし臭き息をき、「こは何処いずくの犬殿にて渡らせ給ふぞ。やつがれはこのあたりいやしき山猿にて候。今のたもふ黒衣とは、僕が無二の友ならねば、元より僕が事にも候はず」ト。いふ時鷲郎が後より、黄金丸は歩み来て、呵々からからと打笑ひ、「なんじ黒衣。縦令たとひ酒に酔ひたりともわがおもては見忘れまじ。われは昨日木賊とくさはらにて、爾に射られんとせし黄金丸なるぞ」ト、罵れば。他なほ知らぬがほにて、「黄金殿か白銀しろかね殿か、われは一向親交ちかづきなし。くろがねを掘りに来給ふとも、この山にはあかがねも出はせじ」ト、訳も解らぬことをいふに。「酔ひたる者と問答無益し、ただ一噬み」ト寄らんとすれば、黒衣は慌しく松の幹にすがりつつ、「こは情なの犬殿かな。和殿も知らぬことはあるまじ、わが先祖とおつおや巌上甕猿いわのえのみかざるは。和殿が先祖文石大白君あやしのおおしろぎみと共に、ひとし桃太郎子もものおおいらつこに従ひて、淤邇賀島おにがじまに押し渡り、軍功少からざりけるに。何時いつのほどよりかひまを生じて、互に牙をならし争ふこと、まことに本意なき事ならずや。さるによつてやつがれは、常に和殿を貴とみ、早晩いつかよしみを通ぜんとこそ思へ、いささかも仇する心はなきに、何罪科なにとがあつて僕を、かまんとはしたまふぞ。山王権現のたたりも恐れ給はずや」ト、様々にいひ紛らし、間隙すきまを見て逃げんと構ふるにぞ。鷲郎おおい焦燥いらちて、「なんじ悪猿、怎麼いかに人間に近ければとて、かくはわれを侮るぞ。われ曹くより爾が罪を知れり。たとひ言葉をたくみにして、いひのがれんと計るとも、われ曹いかで欺かれんや。重ねて虚誕いつわりいへぬやう、いでその息の根止めてくれん」ト、㗲おめきさけんで飛びかかるほどに。元より悟空ごくうが神通なき身の、まいて酒に酔ひたれば、いかで犬にかなふべき、黒衣は忽ちひ殺されぬ。


第十六回


 鷲郎は黒衣が首級くびを咬ひ断離ちぎり、血祭よしと喜びて、これをくちひっさげつつ、なほ奥深く辿たどり行くに。忽ち路きわまり山そびえて、進むべき岨道そばみちだになし。「こはいぶかし、路にや迷ふたる」ト、彼方あなたすかし見れば、年りたるえのき小暗おぐらく茂りたる陰に、これかと見ゆる洞ありけり。「さては金眸が棲居すみかなんめり」ト、なほ近く進み寄りて見れば、彼の聴水がいひしにたがはず、岩高く聳えて、のみもて削れるが如く、これに鬼蔦のひ付きたるが、折から紅葉もみじして、さながら絵がける屏風びょうぶに似たり。また洞の外には累々たる白骨の、うずたかく積みてあるは、年頃金眸が取りくらひたる、鳥獣とりけものの骨なるべし。黄金丸はまづ洞口ほらぐちによりて。うちの様子をうかがふに、ただ暗うしてしかとは知れねど、奥まりたるかたよりいびきの声高くれて、地軸の鳴るかと疑はる。「さてはかれなほ熟睡うまいしてをり、このひまおどり入らば、たやすく打ち取りてん」ト。黄金丸は鷲郎とおもてを見合せ、「ぬかり給ふな」「脱りはせじ」ト、互に励ましつ励まされつ。やがて両犬進み入りて、今しも照射ともしともろともに、岩角いわかどを枕としてねぶりゐる、金眸が脾腹ひばらちょうれば。蹴られて金眸岸破がば跳起はねおき、一声えて立上らんとするを、起しもあへず鷲郎が、襟頭えりがみはへて引据ゆれば。そのひまに逃げんとする、照射は洞の出口にて、文角がために突止められぬ、この時黄金丸は声をふり立て、「やをれ金眸たしかに聞け。われはなんじ毒牙どくがにかかり、非業にも最期をとげたる、月丸が遺児わすれがたみ、黄金丸といふ犬なり。彼時かのときわれ母の胎内にありしが、そののち養親やしないおや文角ぬしに、委敷くわしき事は聞きて知りつ。爾がためには父のみか、母もやみ歿みまかりたれば、取不直とりもなおさず両親ふたおやあだ、年頃つもる意恨の牙先、今こそ思ひ知らすべし」ト。名乗りかくれば金眸は、恐ろしきまなこを見張り、「爾は昨日黒衣がために、射殺されたる野良犬ならずや。さては妄執もうしゅう晴れやらで、わが酔臥えいふせしひま著入つけいり、たたりをなさんず心なるか。阿那あな嗚呼おこ白物しれものよ」ト。いはせも果てず冷笑あざわらひ、「おろかや金眸。爾も黒衣に欺かれしよな。かれが如き山猿に、射殺さるべき黄金丸ならんや。爾が股肱ここうと頼みつる、聴水もさきに殺しつ。その黒衣といふ山猿さへ、われはや咬ひ殺してここにあり」ト、携へ来りし黒衣が首級くびを、金眸が前へ投げれば。金眸はおおいに怒り、「さては黒衣が虚誕いつわりなりしか。さばれ何ほどの事かあらん」ト、いひつつ、鷲郎を払ひのけ、黄金丸につかみかかるを、ひっぱづして肩をめば。金眸もとおさず黄金丸が、太股ふとももを噛まんとす。噛ましはせじと横間よこあいより、鷲郎はおどかかって、金眸がほおを噛めば。その隙に黄金丸は跳起きて、金眸がひらりとまたがり、耳を噛んで左右に振る。金眸は痛さに身をもがきつつ、鷲郎が横腹を引𤔩ひきつかめば、「呀嗟あなや」と叫んで身を翻へし、少し退しさつて洞口のかたへ、行くを続いておっかくれば。猛然として文角が、立閉たちふさがりつつ角を振りたて、寄らば突かんと身構みがまえたり。「さては加勢の者ありや。しゃものものし金眸が、死物狂ひの本事てなみを見せん」ト、いよいよ猛り狂ふほどに。そのゆる声百雷の、一時に落ちきたるが如く、山谷さんこくために震動して、物凄きこといはん方なし。

 去るほどに三匹の獣は、互ひに尽す秘術剽挑はやわざ、右にき左に躍り、縦横無礙むげれまはりて、半時はんときばかりもたたかひしが。金眸は先刻さきより飲みし酒に、四足の働き心にまかせず。対手あいては名に負ふ黄金丸、鷲郎も尋常なみなみの犬ならねば、さしもの金眸も敵しがたくや、少しひるんで見えける処を、得たりと著入つけいる黄金丸、金眸が咽喉のんどをねらひ、あごも透れとみつけ、鷲郎もすかさず後より、金眸が睾丸ふぐりをば、力をこめて噬みたるにぞ。灸所きゅうしょの痛手に金眸は、一声おうと叫びつつ、あえなくむくろは倒れしが。これに心の張り弓も、一度に弛みて両犬は、左右にどう俯伏ひれふして、霎時しばしは起きも得ざりけり。

 文角は今まで洞口にありて、二匹の犬の働きを、まなこも放たず見てありしが、この時おもむろに進み入り、悶絶なせし二匹をば、さまざまにねぶいたはり。漸く元にかえりしを見て、今宵の働きを言葉を極めて称賛ほめたたへつ。やがて金眸が首級くびを噬み切り、これを文角が角に着けて、そのまま山をくだり、荘官しょうやが家にと急ぎけり、かくて黄金丸は主家に帰り、くだんの金眸が首級くびを奉れば。主人あるじ大概おおかたすいしやりて、喜ぶことななめならず、「さても出来でかしたり黄金丸、また鷲郎も天晴あっぱれなるぞ。その父のあだうちしといはば、事わたくしの意恨にして、深くむるに足らざれど。年頃数多あまた獣類けものしいたげ、あまつさへ人間をきずつけ、猛威日々にたくましかりし、彼の金眸を討ち取りて、獣類けもののために害を除き、人間のためにうれいを払ひしは、その功けだし莫大ばくだいなり」トて、言葉の限り称賛ほめたたへつ、さて黄金丸には金の頸輪くびわ、鷲郎には銀の頸輪とらして、共に家の守衛まもりとなせしが。二匹もその恩に感じて、忠勤怠らざりしとなん。めでたしめでたし。

底本:「日本児童文学名作集(上)」岩波文庫、岩波書店

   1994(平成6)年216日第1刷発行

底本の親本:「こがね丸」博文館

   1891(明治24)年1月初版発行

※「ルビは現代仮名遣い」とする底本の編集方針にそい、ルビの拗促音は小書きしました。

※ルビの「却説かへってとく」は、歴史的仮名遣いのままと思われますが、底本通りとしました。

※「堪え」のように歴史的仮名遣いの規則に合わない表記も、すべて底本通りとしました。

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:hongming

校正:門田裕志

2001年1222日公開

2012年919日修正

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