義血侠血
泉鏡花
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一
越中高岡より倶利伽羅下の建場なる石動まで、四里八町が間を定時発の乗り合い馬車あり。
賃銭の廉きがゆえに、旅客はおおかた人力車を捨ててこれに便りぬ。車夫はその不景気を馬車会社に怨みて、人と馬との軋轢ようやくはなはだしきも、わずかに顔役の調和によりて、営業上相干さざるを装えども、折に触れては紛乱を生ずることしばしばなりき。
七月八日の朝、一番発の馬車は乗り合いを揃えんとて、奴はその門前に鈴を打ち振りつつ、
「馬車はいかがです。むちゃに廉くって、腕車よりお疾うござい。さあお乗んなさい。すぐに出ますよ」
甲走る声は鈴の音よりも高く、静かなる朝の街に響き渡れり。通りすがりの婀娜者は歩みを停めて、
「ちょいと小僧さん、石動までいくら? なに十銭だとえ。ふう、廉いね。その代わりおそいだろう」
沢庵を洗い立てたるように色揚げしたる編片の古帽子の下より、奴は猿眼を晃かして、
「ものは可試だ。まあお召しなすってください。腕車よりおそかったら代は戴きません」
かく言ううちも渠の手なる鈴は絶えず噪ぎぬ。
「そんなりっぱなことを言って、きっとだね」
奴は昂然として、
「虚言と坊主の髪は、いったことはありません」
「なんだね、しゃらくさい」
微笑みつつ女子はかく言い捨てて乗り込みたり。
その年紀は二十三、四、姿はしいて満開の花の色を洗いて、清楚たる葉桜の緑浅し。色白く、鼻筋通り、眉に力みありて、眼色にいくぶんのすごみを帯び、見るだに涼しき美人なり。
これはたして何者なるか。髪は櫛巻きに束ねて、素顔を自慢に胭脂のみを点したり。服装は、将棊の駒を大形に散らしたる紺縮みの浴衣に、唐繻子と繻珍の昼夜帯をばゆるく引っ掛けに結びて、空色縮緬の蹴出しを微露し、素足に吾妻下駄、絹張りの日傘に更紗の小包みを持ち添えたり。
挙止侠にして、人を怯れざる気色は、世磨れ、場慣れて、一条縄の繋ぐべからざる魂を表わせり。想うに渠が雪のごとき膚には、剳青淋漓として、悪竜焔を吐くにあらざれば、寡なくも、その左の腕には、双枕に偕老の名や刻みたるべし。
馬車はこの怪しき美人をもって満員となれり。発車の号令は割るるばかりにしばらく響けり。向者より待合所の縁に倚りて、一篇の書を繙ける二十四、五の壮佼あり。盲縞の腹掛け、股引きに汚れたる白小倉の背広を着て、ゴムの解れたる深靴を穿き、鍔広なる麦稈帽子を阿弥陀に被りて、踏ん跨ぎたる膝の間に、茶褐色なる渦毛の犬の太くたくましきを容れて、その頭を撫でつつ、専念に書見したりしが、このとき鈴の音を聞くと斉しく身を起こして、ひらりと御者台に乗り移れり。
渠の形躯は貴公子のごとく華車に、態度は森厳にして、そのうちおのずから活溌の気を含めり。陋しげに日に黧みたる面も熟視れば、清矑明眉、相貌秀でて尋常ならず。とかくは馬蹄の塵に塗れて鞭を揚ぐるの輩にあらざるなり。
御者は書巻を腹掛けの衣兜に収め、革紐を附けたる竹根の鞭を執りて、徐かに手綱を捌きつつ身構うるとき、一輛の人力車ありて南より来たり、疾風のごとく馬車のかたわらを掠めて、瞬く間に一点の黒影となり畢んぬ。
美人はこれを望みて、
「おい小僧さん、腕車よりおそいじゃないか」
奴のいまだ答えざるに先だちて、御者はきと面を抗げ、かすかになれる車の影を見送りて、
「吉公、てめえまた腕車より疾えといったな」
奴は愛嬌よく頭を掻きて、
「ああ、言った。でもそう言わねえと乗らねえもの」
御者は黙して頷きぬ。たちまち鞭の鳴るとともに、二頭の馬は高く嘶きて一文字に跳ね出だせり。不意を吃いたる乗り合いは、座に堪らずしてほとんど転び墜ちなんとせり。奔馬は中を駈けて、見る見る腕車を乗っ越したり。御者はやがて馬の足掻きを緩め、渠に先を越させぬまでに徐々として進行しつ。
車夫は必死となりて、やわか後れじと焦れども、馬車はさながら月を負いたる自家の影のごとく、一歩を進むるごとに一歩を進めて、追えども追えども先んじがたく、ようよう力衰え、息逼りて、今や殪れぬべく覚ゆるころ、高岡より一里を隔つる立野の駅に来たりぬ。
この街道の車夫は組合を設けて、建場建場に連絡を通ずるがゆえに、今この車夫が馬車に後れて、喘ぎ喘ぎ走るを見るより、そこに客待ちせる夥間の一人は、手に唾して躍り出で、
「おい、兄弟しっかりしなよ。馬車の畜生どうしてくりょう」
やにわに対曳きの綱を梶棒に投げ懸くれば、疲れたる車夫は勢いを得て、
「ありがてえ! 頼むよ」
「合点だい!」
それと言うまま挽き出だせり。二人の車夫は勇ましく相呼び相応えつつ、にわかに驚くべき速力をもて走りぬ。やがて町はずれの狭く急なる曲がりかどを争うと見えたりしが、人力車は無二無三に突進して、ついに一歩を抽きけり。
車夫は諸声に凱歌を揚げ、勢いに乗じて二歩を抽き、三歩を抽き、ますます馳せて、軽迅丸の跳るがごとく二、三間を先んじたり。
向者は腕車を流眄に見て、いとも揚々たりし乗り合いの一人は、
「さあ、やられた!」と身を悶えて騒げば、車中いずれも同感の色を動かして、力瘤を握るものあり、地蹈韛を踏むもあり、奴を叱してしきりに喇叭を吹かしむるもあり。御者は縦横に鞭を揮いて、激しく手綱を掻い繰れば、馬背の流汗滂沱として掬すべく、轡頭に噛み出だしたる白泡は木綿の一袋もありぬべし。
かかるほどに車体は一上一下と動揺して、あるいは頓挫し、あるいは傾斜し、ただこれ風の落ち葉を捲き、早瀬の浮き木を弄ぶに異ならず。乗り合いは前後に俯仰し、左右に頽れて、片時も安き心はなく、今にもこの車顛覆るか、ただしはその身投げ落とさるるか。いずれも怪我は免れぬところと、老いたるは震い慄き、若きは凝瞳になりて、ただ一秒ののちを危ぶめり。
七、八町を競争して、幸いに別条なく、馬車は辛くも人力車を追い抽きぬ。乗り合いは思わず手を拍ちて、車も憾くばかりに喝采せり。奴は凱歌の喇叭を吹き鳴らして、後れたる人力車を麾きつつ、踏み段の上に躍れり。ひとり御者のみは喜ぶ気色もなく、意を注ぎて馬を労り駈けさせたり。
怪しき美人は満面に笑みを含みて、起伏常ならざる席に安んずるを、隣たる老人は感に堪えて、
「おまえさんどうもお強い。よく血の道が発りませんね。平気なものだ、女丈夫だ。私なんぞはからきし意気地はない。それもそのはずかい、もう五十八だもの」
その言の訖わらざるに、車は凸凹路を踏みて、がたくりんと跌きぬ。老夫は横様に薙仆されて、半ば禿げたる法然頭はどっさりと美人の膝に枕せり。
「あれ、あぶない!」
と美人はその肩をしかと抱きぬ。
老夫はむくむく身を擡げて、
「へいこれは、これはどうもはばかり様。さぞお痛うございましたろう。御免なすってくださいましよ。いやはや、意気地はありません。これさ馬丁さんや、もし若い衆さん、なんと顛覆るようなことはなかろうの」
御者は見も返らず、勢籠めたる一鞭を加えて、
「わかりません。馬が跌きゃそれまででさ」
老夫は眼を円くして狼狽えぬ。
「いやさ、転ばぬ前の杖だよ。ほんにお願いだ、気を着けておくれ。若い人と違って年老のことだ、放り出されたらそれまでだよ。もういいかげんにして、徐々とやってもらおうじゃないか。なんと皆さんどうでございます」
「船に乗れば船頭任せ。この馬車にお乗んなすった以上は、わたしに任せたものとして、安心しなければなりません」
「ええ途方もない。どうして安心がなるものか」
呆れはてて老夫は呟けば、御者ははじめて顧みつ。
「それで安心ができなけりゃ、御自分の脚で歩くです」
「はいはい。それは御深切に」
老夫は腹だたしげに御者の面を偸視せり。
後れたる人力車は次の建場にてまた一人を増して、後押しを加えたれども、なおいまだ逮ばざるより、車夫らはますます発憤して、悶ゆる折から松並み木の中ほどにて、前面より空車を挽き来たる二人の車夫に出会いぬ。行き違いさまに、綱曳きは血声を振り立て、
「後生だい、手を仮してくんねえか。あの瓦多馬車の畜生、乗っ越さねえじゃ」
「こっとらの顔が立たねえんだ」と他の一箇は叫べり。
血気事を好む徒は、応と言うがままにその車を道ばたに棄てて、総勢五人の車夫は揉みに揉んで駈けたりければ、二、三町ならずして敵に逐い着き、しばらくは相並びて互いに一歩を争いぬ。
そのとき車夫はいっせいに吶喊して馬を駭ろかせり。馬は懾えて躍り狂いぬ。車はこれがために傾斜して、まさに乗り合いを振り落とさんとせり。
恐怖、叫喚、騒擾、地震における惨状は馬車の中に顕われたり。冷々然たるはひとりかの怪しき美人のみ。
一身をわれに任せよと言いし御者は、風波に掀翻せらるる汽船の、やがて千尋の底に汨没せんずる危急に際して、蒸気機関はなお漾々たる穏波を截ると異ならざる精神をもって、その職を竭くすがごとく、従容として手綱を操り、競争者に後れず前まず、隙だにあらば一躍して乗っ越さんと、睨み合いつつ推し行くさまは、この道堪能の達者と覚しく、いと頼もしく見えたりき。
されども危急の際この頼もしさを見たりしは、わずかにくだんの美人あるのみなり。他はみな見苦しくも慌て忙きて、あまたの神と仏とは心々に祷られき。なおかの美人はこの騒擾の間、終始御者の様子を打ち瞶りたり。
かくて六箇の車輪はあたかも同一の軸にありて転ずるごとく、両々相並びて福岡というに着けり。ここに馬車の休憩所ありて、馬に飲い、客に茶を売るを例とすれども、今日ばかりは素通りなるべし、と乗り合いは心々に想いぬ。
御者はこの店頭に馬を駐めてけり。わが物得つと、車夫はにわかに勢いを増して、手を揮り、声を揚げ、思うままに侮辱して駈け去りぬ。
乗り合いは切歯をしつつ見送りたりしに、車は遠く一団の砂煙に裹まれて、ついに眼界のほかに失われき。
旅商人体の男は最も苛ちて、
「なんと皆さん、業肚じゃございませんか。おとなげのないわけだけれど、こういう行き懸かりになってみると、どうも負けるのは残念だ。おい、馬丁さん、早く行ってくれたまえな」
「それもそうですけれどもな、老者はまことにはやどうも。第一この疝に障りますのでな」
と遠慮がちに訴うるは、美人の膝枕せし老夫なり。馬は群がる蠅と虻との中に優々と水飲み、奴は木蔭の床几に大の字なりに僵れて、むしゃむしゃと菓子を吃らえり。御者は框に息いて巻き莨を燻しつつ茶店の嚊と語りぬ。
「こりゃ急に出そうもない」と一人が呟けば、田舎女房と見えたるがその前面にいて、
「憎々しく落ち着いてるじゃありませんかね」
最初の発言者はますます堪えかねて、
「ときに皆さん、あのとおり御者も骨を折りましたんですから、お互い様にいくらか酒手を奮みまして、もう一骨折ってもらおうじゃございませんか。なにとぞ御賛成を願います」
渠は直ちに帯佩げの蟇口を取り出して、中なる銭を撈りつつ、
「ねえあなた、ここでああ惰けられてしまった日には、仏造って魂入れずでさ、冗談じゃない」
やがて銅貨三銭をもって隗より始めつ。帽子を脱ぎてその中に入れたるを、衆人の前に差し出して、渠はあまねく義捐を募れり。
あるいは勇んで躍り込みたる白銅あり。あるいはしぶしぶ捨てられたる五厘もあり。ここの一銭、かしこの二銭、積もりて十六銭五厘とぞなりにける。
美人は片すみにありて、応募の最終なりき。隗の帽子は巡回して渠の前に着せるとき、世話人は辞を卑うして挨拶せり。
「とんだお附き合いで、どうもおきのどく様でございます」
美人は軽く会釈するとともに、その手は帯の間に入りぬ。小菊にて上包みせる緋塩瀬の紙入れを開きて、渠はむぞうさに半円銀貨を投げ出だせり。
余所目に瞥たる老夫はいたく驚きて面を背けぬ、世話人は頭を掻きて、
「いや、これは剰銭が足りない。私もあいにく小かいのが……」
と腰なる蟇口に手を掛くれば、
「いいえ、いいんですよ」
世話人は呆れて叫びぬ。
「これだけ? 五十銭!」
これを聞ける乗り合いは、さなきだに、何者なるか、怪しき別品と目を着けたりしに、今この散財の婦女子に似気なきより、いよいよ底気味悪く訝れり。
世話人は帽子を揺り動かして銭を鳴らしつつ、
「〆て金六十六銭と五厘! たいしたことになりました。これなら馬は駈けますぜ」
御者はすでに着席して出発の用意せり。世話人は酒手を紙に包みて持ち行きつ。
「おい、若い衆さん、これは皆さんからの酒手だよ。六十六銭と五厘あるのだ。なにぶんひとつ奮発してね。頼むよ」
渠は気軽に御者の肩を拊きて、
「隊長、一晩遊べるぜ」
御者は流眄に紙包みを見遣りて空嘯きぬ。
「酒手で馬は動きません」
わずかに五銭六厘を懐にせる奴は驚きかつ惜しみて、有意的に御者の面を眺めたり。好意を無にせられたる世話人は腹立ちて、
「せっかく皆さんが下さるというのに、それじゃいらないんだね」
車は徐々として進行せり。
「戴く因縁がありませんから」
「そんな生意気なことを言うもんじゃない。骨折り賃だ。まあ野暮を言わずに取っときたまえてことさ」
六十六銭五厘はまさに御者のポケットに闖入せんとせり。渠は固く拒みて、
「思し召しはありがとうございますが、規定の賃銭のほかに骨折り賃を戴く理由がございません」
世話人は推し返されたる紙包みを持て扱いつつ、
「理由も糸瓜もあるものかな。お客が与るというんだから、取っといたらいいじゃないか。こういうものを貰って済まないと思ったら、一骨折って今の腕車を抽いてくれたまえな」
「酒手なんぞは戴かなくっても、十分骨は折ってるです」
世話人は冷笑いぬ。
「そんなりっぱな口を呭いたって、約束が違や世話はねえ」
御者はきと振り顧りて、
「なんですと?」
「この馬車は腕車より迅いという約束だぜ」
儼然として御者は答えぬ。
「そんなお約束はしません」
「おっと、そうは言わせない。なるほど私たちにはしなかったが、この姉さんにはどうだい。六十六銭五厘のうち、一人で五十銭の酒手をお出しなすったのはこのかただよ。あの腕車より迅く行ってもらおうと思やこそ、こうして莫大な酒手も奮もうというのだ。どうだ、先生、恐れ入ったか」
鼻蠢かして世話人は御者の背を指もて撞きぬ。渠は一言を発せず、世話人はすこぶる得意なりき。美人は戯るるがごとくに詰れり。
「馬丁さん、ほんとに約束だよ、どうしたってんだね」
なお渠は緘黙せり。その脣を鼓動すべき力は、渠の両腕に奮いて、馬蹄たちまち高く挙ぐれば、車輪はその輻の見るべからざるまでに快転せり。乗り合いは再び地上の瀾に盪られて、浮沈の憂き目に遭いぬ。
縦騁五分間ののち、前途はるかに競争者の影を認め得たり。しかれども時遅れたれば、容易に追迫すべくもあらざりき。しこうして到着地なる石動はもはや間近になれり。今にして一躍のもとに乗り越さずんば、ついに失敗を取らざるを得ざるべきなり。憐れむべし過度の馳騖に疲れ果てたる馬は、力なげに俛れたる首を聯べて、策てども走れども、足は重りて地を離れかねたりき。
何思いけん、御者は地上に下り立ちたり。乗り合いはこはそもいかにと見る間に、渠は手早く、一頭の馬を解き放ちて、
「姉さん済みませんが、ちょっと下りてください」
乗り合いは顔を見合わせて、この謎を解くに苦しめり。美人は渠の言うがままに車を下れば、
「どうかこちらへ」と御者はおのれの立てる馬のそばに招きぬ。美人はますますその意を得ざれども、なお渠の言うがままに進み寄りぬ。御者はものをも言わず美人を引っ抱えて、ひらりと馬に跨りたり。
魂消たるは乗り合いなり。乗り合いは実に魂消たるなり。渠らは千体仏のごとく面を鳩め、あけらかんと頤を垂れて、おそらくは画にも観るべからざるこの不思議の為体に眼を奪われたりしに、その馬は奇怪なる御者と、奇怪なる美人と、奇怪なる挙動とを載せてましぐらに馳せ去りぬ。車上の見物はようやくわれに復りて響動めり。
「いったいどうしたんでしょう」
「まず乗せ逃げとでもいうんでしょう」
「へえ、なんでございます」
「客の逃げたのが乗り逃げ。御者のほうで逃げたのだから乗せ逃げでしょう」
例の老夫は頭を悼り悼り呟けり。
「いや洒落どころか。こりゃ、まあどうしてくれるつもりだ」
不審の眉を攅めたる前の世話人は、腕を拱きつつ座中を眗して、
「皆さん、なんと思し召す? こりゃ尋常事じゃありませんぜ。ばかを見たのはわれわれですよ。全く駈け落ちですな。どうもあの女がさ、尋常の鼠じゃあんめえと睨んでおきましたが、こりゃあまさにそうだった。しかしいい女だ」
「私は急ぎの用を抱えている身だから、こうして安閑としてはいられない。なんとこの小僧に頼んで、一匹の馬で遣ってもらおうじゃございませんか。ばかばかしい、銭を出して、あの醜態を見せられて、置き去りを吃うやつもないものだ」
「全くそうでごさいますよ。ほんとに巫山戯た真似をする野郎だ。小僧早く遣ってくんな」
奴は途方に暮れて、曩より車の前後に出没したりしが、
「どうもおきのどく様です」
「おきのどく様は知れてらあ。いつまでこうしておくんだ。早く遣ってくれ、遣ってくれ!」
「私にはまだよく馬が動きません」
「活きてるものの動かないという法があるものか」
「臀部を引っ撲け引っ撲け」
奴は苦笑いしつつ、
「そんなことを言ったっていけません。二頭曳きの車ですから、馬が一匹じゃ遣り切れません」
「そんならここで下りるから銭を返してくれ」
腹立つ者、無理言う者、呟く者、罵る者、迷惑せる者、乗り合いの不平は奴の一身に湊まれり。渠はさんざんに苛まれてついに涙ぐみ、身の措き所に窮して、辛くも車の後に竦みたりき。乗り合いはますます躁ぎて、敵手なき喧嘩に狂いぬ。
御者は真一文字に馬を飛ばして、雲を霞と走りければ、美人は魂身に添わず、目を閉じ、息を凝らし、五体を縮めて、力の限り渠の腰に縋りつ。風は䬒々と両腋に起こりて毛髪竪ち、道はさながら河のごとく、濁流脚下に奔注して、身はこれ虚空を転ぶに似たり。
渠は実に死すべしと念いぬ。しだいに風歇み、馬駐まると覚えて、直ちに昏倒して正気を失いぬ。これ御者が静かに馬より扶け下ろして、茶店の座敷に舁き入れたりしときなり。渠はこの介抱を主の嫗に嘱みて、その身は息をも継かず再び羸馬に策ちて、もと来し路を急ぎけり。
ほどなく美人は醒めて、こは石動の棒端なるを覚りぬ。御者はすでにあらず。渠はその名を嫗に訊ねて、金さんなるを知りぬ。その為人を問えば、方正謹厳、その行ないを質せば学問好き。
二
金沢なる浅野川の磧は、宵々ごとに納涼の人出のために熱了せられぬ。この節を機として、諸国より入り込みたる野師らは、磧も狭しと見世物小屋を掛け聯ねて、猿芝居、娘軽業、山雀の芸当、剣の刃渡り、活き人形、名所の覗き機関、電気手品、盲人相撲、評判の大蛇、天狗の骸骨、手なし娘、子供の玉乗りなどいちいち数うるに遑あらず。
なかんずく大評判、大当たりは、滝の白糸が水芸なり。太夫滝の白糸は妙齢一八、九の別品にて、その技芸は容色と相称いて、市中の人気山のごとし。されば他はみな晩景の開場なるにかかわらず、これのみひとり昼夜二回の興行ともに、その大入りは永当たり。
時まさに午後一時、撃柝一声、囃子は鳴りを鎮むるとき、口上は渠がいわゆる不弁舌なる弁を揮いて前口上を陳べ了われば、たちまち起こる緩絃朗笛の節を履みて、静々歩み出でたるは、当座の太夫元滝の白糸、高島田に奴元結い掛けて、脂粉こまやかに桃花の媚びを粧い、朱鷺色縮緬の単衣に、銀糸の浪の刺繍ある水色絽の𧘕𧘔を着けたり。渠はしとやかに舞台よき所に進みて、一礼を施せば、待ち構えたりし見物は声々に喚きぬ。
「いよう、待ってました大明神様!」
「あでやかあでやか」
「ようよう金沢暴し!」
「ここな命取り!」
喝采の声のうちに渠は徐かに面を擡げて、情を含みて浅笑せり。口上は扇を挙げて一咳し、
「東西! お目通りに控えさせましたるは、当座の太夫元滝の白糸にござりまする。お目見え相済みますれば、さっそくながら本芸に取り掛からせまする。最初腕調べとして御覧に入れまするは、露に蝶の狂いを象りまして、(花野の曙)。ありゃ来た、よいよいよいさて」
さて太夫はなみなみ水を盛りたるコップを左手に把りて、右手には黄白二面の扇子を開き、やと声発けて交互に投げ上ぐれば、露を争う蝶一双、縦横上下に逐いつ、逐われつ、雫も滴さず翼も息めず、太夫の手にも住まらで、空に文織る練磨の手術、今じゃ今じゃと、木戸番は濁声高く喚わりつつ、外面の幕を引き揚げたるとき、演芸中の太夫はふと外の方に眼を遣りたりしに、何にか心を奪われけん、はたとコップを取り落とせり。
口上は狼狽して走り寄りぬ。見物はその為損じをどっと囃しぬ。太夫は受け住めたる扇を手にしたるまま、その瞳をなお外の方に凝らしつつ、つかつかと土間に下りたり。
口上はいよいよ狼狽して、為ん方を知らざりき。見物は呆れ果てて息を斂め、満場斉しく頭を回らして太夫の挙動を打ち瞶れり。
白糸は群れいる客を推し排け、掻き排け、
「御免あそばせ、ちょいと御免あそばせ」
あわただしく木戸口に走り出で、項を延べて目送せり。その視線中に御者体の壮佼あり。
何事や起こりたると、見物は白糸の踵より、どろどろと乱れ出ずる喧擾に、くだんの男は振り返りぬ。白糸ははじめてその面を見るを得たり。渠は色白く瀟洒なりき。
「おや、違ってた!」
かく独語ちて、太夫はすごすご木戸を入りぬ。
三
夜はすでに十一時に近づきぬ。磧は凄涼として一箇の人影を見ず、天高く、露気ひややかに、月のみぞひとり澄めりける。
熱鬧を極めたりし露店はことごとく形を斂めて、ただここかしこに見世物小屋の板囲いを洩るる燈火は、かすかに宵のほどの名残を留めつ。河は長く流れて、向山の松風静かに度る処、天神橋の欄干に靠れて、うとうとと交睫む漢子あり。
渠は山に倚り、水に臨み、清風を担い、明月を戴き、了然たる一身、蕭然たる四境、自然の清福を占領して、いと心地よげに見えたりき。
折から磧の小屋より顕われたる婀娜者あり。紺絞りの首抜きの浴衣を着て、赤毛布を引き絡い、身を持て余したるがごとくに歩みを運び、下駄の爪頭に戞々と礫を蹴遣りつつ、流れに沿いて逍遥いたりしが、瑠璃色に澄み渡れる空を打ち仰ぎて、
「ああ、いいお月夜だ。寝るには惜しい」
川風はさっと渠の鬢を吹き乱せり。
「ああ、薄ら寒くなってきた」
しかと毛布を絡いて、渠はあたりを眗しぬ。
「人っ子一人いやしない。なんだ、ほんとに、暑いときはわあわあ騒いで、涼しくなる時分には寝てしまうのか。ふふ、人間というものはいこじなもんだ。涼むんならこういうときじゃないか。どれ、橋の上へでも行ってみようか。人さえいなけりゃ、どこでもいい景色なもんだ」
渠は再び徐々として歩を移せり。
この女は滝の白糸なり。渠らの仲間は便宜上旅籠を取らずして、小屋を家とせるもの寡なからず。白糸も然なり。
やがて渠は橋に来りぬ。吾妻下駄の音は天地の寂黙を破りて、からんころんと月に響けり。渠はその音の可愛さに、なおしいて響かせつつ、橋の央近く来たれるとき、やにわに左手を抗げてその高髷を攫み、
「ええもう重っ苦しい。ちょっうるせえ!」
暴々しく引き解きて、手早くぐるぐる巻きにせり。
「ああこれで清々した。二十四にもなって高島田に厚化粧でもあるまい」
かくて白糸は水を聴き、月を望み、夜色の幽静を賞して、ようやく橋の半ばを過ぎぬ。渠はたちまちのんきなる人の姿を認めぬ。何者かこれ、天地を枕衾として露下月前に快眠せる漢子は、数歩のうちにありて齁を立てつ。
「おや! いい気なものだよ。だれだい、新じゃないか」
囃子方に新という者あり。宵より出でていまだ小屋に還らざれば、それかと白糸は間近に寄りて、男の寝顔を覰きたり。
新はいまだかくのごとくのんきならざるなり。渠ははたして新にはあらざりき。新の相貌はかくのごとく威儀あるものにあらざるなり。渠は千の新を合わせて、なおかつ勝ること千の新なるべき異常の面魂なりき。
その眉は長くこまやかに、睡れる眸子も凛如として、正しく結びたる脣は、夢中も放心せざる渠が意気の俊爽なるを語れり。漆のごとき髪はやや生いて、広き額に垂れたるが、吹き揚ぐる川風に絶えず戦げり。
つくづく視めたりし白糸はたちまち色を作して叫びぬ。
「あら、まあ! 金さんだよ」
欄干に眠れるはこれ余人ならず、例の乗り合い馬車の馭者なり。
「どうして今時分こんなところにねえ」
渠は跫音を忍びて、再び男に寄り添いつつ、
「ほんとに罪のない顔をして寝ているよ」
恍惚として瞳を凝らしたりしが、にわかにおのれが絡いし毛布を脱ぎて被せ懸けたれども、馭者は夢にも知らで熟睡せり。
白糸は欄干に腰を憩めて、しばらくなすこともあらざりしが、突然声を揚げて、
「ええひどい蚊だ」膝のあたりをはたと拊てり。この音にや驚きけん、馭者は眼覚まして、叭まじりに、
「ああ、寝た。もう何時か知らん」
思い寄らざりしわがかたわらに媚めける声ありて、
「もうかれこれ一時ですよ」
馭者は愕然として顧みれば、わが肩に見覚えぬ毛布ありて、深夜の寒を護れり。
「や、毛布を着せてくだすったのは! あなた? でございますか」
白糸は微笑を含みて、呆れたる馭者の面を視つつ、
「夜露に打たれると体の毒ですよ」
馭者は黙して一礼せり。白糸はうれしげに身を進めて、
「あなた、その後は御機嫌よう」
いよいよ呆れたる馭者は少しく身を退りて、仮初ながら、狐狸変化のものにはあらずやと心ひそかに疑えり。月を浴びてものすごきまで美しき女の顔を、無遠慮に打ち眺めたる渠の眼色は、顰める眉の下より異彩を放てり。
「どなたでしたか、いっこう存じません」
白糸は片頬笑みて、
「あれ、情なしだねえ。私は忘れやしないよ」
「はてな」と馭者は首を傾けたり。
「金さん」と女はなれなれしく呼びかけぬ。
馭者はいたく驚けり。月下の美人生面にしてわが名を識る。馭者たる者だれか驚かざらんや。渠は実にいまだかつて信ぜざりし狐狸の類にはあらずや、と心はじめて惑いぬ。
「おまえさんはよっぽど情なしだよ。自分の抱いた女を忘れるなんということがあるものかね」
「抱いた? 私が?」
「ああ、お前さんに抱かれたのさ」
「どこで?」
「いい所で!」
袖を掩いて白糸は嫣然一笑せり。
馭者は深く思案に暮れたりしが、ようよう傾けし首を正して言えり。
「抱いた記憶はないが、なるほどどこかで見たようだ」
「見たようだもないもんだ。高岡から馬車に乗ったとき、人力車と競走をして、石動手前からおまえさんに抱かれて、馬上の合い乗りをした女さ」
「おお! そうだ」横手を拍ちて、馭者は大声を発せり、白糸はその声に驚かされて、
「ええびっくりした。ねえおまえさん、覚えておいでだろう」
「うむ、覚えとる。そうだった、そうだった」
馭者は脣辺に微笑を浮かべて、再び横手を拍てり。
「でも言われるまで憶い出さないなんざあ、あんまり不実すぎるのねえ」
「いや、不実というわけではないけれど、毎日何十人という客の顔を、いちいち覚えていられるものではない」
「それはごもっともさ。そうだけれども、馬上の合い乗りをするお客は毎日はありますまい」
「あんなことが毎日あられてたまるものか」
二人は相見て笑いぬ。ときに数杵の鐘声遠く響きて、月はますます白く、空はますます澄めり。
白糸はあらためて馭者に向かい、
「おまえさん、金沢へは何日、どうしてお出でなすったの?」
四顧寥廓として、ただ山水と明月とあるのみ。飂戻たる天風はおもむろに馭者の毛布を飄せり。
「実はあっちを浪人してね……」
「おやまあ、どうして?」
「これも君ゆえさ」と笑えば、
「御冗談もんだよ」と白糸は流眄に見遣りぬ。
「いや、それはともかくも、話説をせんけりゃ解らん」
馭者は懐裡を捜りて、油紙の蒲簀莨入れを取り出だし、いそがわしく一服を喫して、直ちに物語の端を発かんとせり。白糸は渠が吸い殻を撃くを待ちて、
「済みませんが、一服貸してくださいな」
馭者は言下に莨入れとマッチとを手渡して、
「煙管が壅ってます」
「いいえ、結構」
白糸は一吃を試みぬ。はたしてその言のごとく、煙管は不快き脂の音のみして、煙の通うこと縷よりわずかなり。
「なるほどこれは壅ってる」
「それで吸うにはよっぽど力が要るのだ」
「ばかにしないねえ」
美人は紙縷を撚りて、煙管を通し、溝泥のごとき脂に面を皺めて、
「こら! 御覧な、無性だねえ。おまえさん寡夫かい」
「もちろん」
「おや、もちろんとは御挨拶だ。でも、情婦の一人や半分はありましょう」
「ばかな!」と馭者は一喝せり。
「じゃないの?」
「知れたこと」
「ほんとに?」
「くどいなあ」
渠はこの問答を忌まわしげに空嘯きぬ。
「おまえさんの壮年で、独身で、情婦がないなんて、ほんとに男子の恥辱だよ。私が似合わしいのを一人世話してあげようか」
馭者は傲然として、
「そんなものは要らんよ」
「おや、ご免なさいまし。さあ、お掃除ができたから、一服戴こう」
白糸はまず二服を吃して、三服目を馭者に、
「あい、上げましょう」
「これはありがとう。ああよく通ったね」
「また壅ったときは、いつでも持ってお出でなさい」
大口開いて馭者は心快げに笑えり。白糸は再び煙管を仮りて、のどかに烟を吹きつつ、
「今の顛末というのを聞かしてくださいな」
馭者は頷きて、立てりし態を変えて、斜めに欄干に倚り、
「あのとき、あんな乱暴を行って、とうとう人力車を乗っ越したのはよかったが、きゃつらはあれを非常に口惜しがってね、会社へむずかしい掛け合いを始めたのだ」
美人は眉を昂げて、
「なんだってまた?」
「何もかにも理窟なんぞはありゃせん。あの一件を根に持って、喧嘩を仕掛けに来たのさね」
「うむ、生意気な! どうしたい?」
「相手になると、事がめんどうになって、実は双方とも商売のじゃまになるのだ。そこで、会社のほうでは穏便がいいというので、むろん片手落ちの裁判だけれど、私が因果を含められて、雇を解かれたのさ」
白糸は身に沁む夜風にわれとわが身を抱きて、
「まあ、おきのどくだったねえ」
渠は慰むる語なきがごとき面色なりき。馭者は冷笑いて、
「なあに、高が馬方だ」
「けれどもさ、まことにおきのどくなことをしたねえ、いわば私のためだもの」
美人は愁然として腕を拱きぬ。馭者はまじめに、
「その代わり煙管の掃除をしてもらった」
「あら、冗談じゃないよ、この人は。そうしておまえさんこれからどうするつもりなの?」
「どうといって、やっぱり食う算段さ。高岡に彷徨いていたって始まらんので、金沢には士官がいるから、馬丁の口でもあるだろうと思って、探しに出て来た。今日も朝から一日奔走いたので、すっかり憊れてしまって、晩方一風呂入ったところが、暑くて寝られんから、ぶらぶら納涼に出掛けて、ここで月を観ていたうちに、いい心地になって睡こんでしまった」
「おや、そう。そうして口はありましたか」
「ない!」と馭者は頭を掉りぬ。
白糸はしばらく沈吟したりしが、
「あなた、こんなことを申しちゃ生意気だけれど、お見受け申したところが、馬丁なんぞをなさるような御人体じゃないね」
馭者は長嘆せり。
「生得からの馬丁でもないさ」
美人は黙して頷きぬ。
「愚痴じゃあるが、聞いてくれるか」
わびしげなる男の顔をつくづく視めて、白糸は渠の物語るを待てり。
「私は金沢の士族だが、少し仔細があって、幼少ころに家は高岡へ引っ越したのだ。そののち私一人金沢へ出て来て、ある学校へ入っているうち、阿爺に亡くなられて、ちょうど三年前だね、余儀なく中途で学問は廃止さ。それから高岡へ還ってみると、その日から稼ぎ人というものがないのだ。私が母親を過ごさにゃならんのだ。何を言うにも、まだ書生中の体だろう、食うほどの芸はなし、実は弱ったね。亡父は馬の家じゃなかったけれど、大の所好で、馬術では藩で鳴らしたものだそうだ。それだから、私も小児の時分稽古をして、少しは所得があるので、馬車会社へ住み込んで、馭者となった。それでまず活計を立てているという、まことに愧ずかしい次第さ。しかし、私だってまさか馬方で果てる了簡でもない、目的も希望もあるのだけれど、ままにならぬが浮き世かね」
渠は茫々たる天を仰ぎて、しばらく悵然たりき。その面上にはいうべからざる悲憤の色を見たり。白糸は情に勝えざる声音にて、
「そりゃあ、もうだれしも浮き世ですよ」
「うむ、まあ、浮き世とあきらめておくのだ」
「今おまえさんのおっしゃった希望というのは、私たちには聞いても解りはしますまいけれど、なんぞ、その、学問のことでしょうね?」
「そう、法律という学問の修行さ」
「学問をするなら、金沢なんぞより東京のほうがいいというじゃありませんか」
馭者は苦笑いして、
「そうとも」
「それじゃいっそ東京へお出でなさればいいのにねえ」
「行けりゃ行くさ。そこが浮き世じゃないか」
白糸は軽く小膝を拊ちて、
「黄金の世の中ですか」
「地獄の沙汰さえ、なあ」
再び馭者は苦笑いせり。
白糸は事もなげに、
「じゃあなた、お出でなさいな、ねえ、東京へさ。もし、腹を立っちゃいけませんよ、失礼だが、私が仕送ってあげようじゃありませんか」
深沈なる馭者の魂も、このとき跳るばかりに動きぬ。渠は驚くよりむしろ呆れたり。呆るるよりむしろ慄きたるなり。渠は色を変えて、この美しき魔性のものを睨めたりけり。さきに半円の酒銭を投じて、他の一銭よりも吝しまざりしこの美人の胆は、拾人の乗り合いをしてそぞろに寒心せしめたりき。銀貨一片に瞪目せし乗り合いよ、君らをして今夜天神橋上の壮語を聞かしめなば、肝胆たちまち破れて、血は耳に迸出らん。花顔柳腰の人、そもそもなんじは狐狸か、変化か、魔性か。おそらくは胭脂の怪物なるべし。またこれ一種の魔性たる馭者だも驚きかつ慄けり。
馭者は美人の意をその面に読まんとしたりしが、能わずしてついに呻き出だせり。
「なんだって?」
美人も希有なる面色にて反問せり。
「なんだってとは?」
「どういうわけで」
「わけも何もありはしない、ただおまえさんに仕送りがしてみたいのさ」
「酔興な!」と馭者はその愚に唾するがごとく独語ちぬ。
「酔興さ。私も酔興だから、おまえさんも酔興に一番私の志を受けてみる気はなしかい。ええ、金さん、どうだね」
馭者はしきりに打ち案じて、とこうの分別に迷いぬ。
「そんなに慮えることはないじゃないか」
「しかし、縁も由縁もないものに……」
「縁というものも始めは他人どうし。ここでおまえさんが私の志を受けてくだされば、それがつまり縁になるんだろうじゃありませんかね」
「恩を受ければ報さんければならぬ義務がある。その責任が重いから……」
「それで断わるとお言いのかい。なんだねえ、報恩ができるの、できないのと、そんなことを苦にするおまえさんでもなかろうじゃないか。私だって泥坊に伯父さんがあるのじゃなし、知りもしない人を捉えて、やたらにお金を貢いでたまるものかね。私はおまえさんだから貢いでみたいのさ。いくらいやだとお言いでも、私は貢ぐよ。後生だから貢がしてくださいよ。ねえ、いいでしょう、いいよう! うんとお言いよ。構うものかね、遠慮も何も要るものじゃない。私はおまえさんの希望というのが愜いさえすれば、それでいいのだ。それが私への報恩さ、いいじゃないか。私はおまえさんはきっとりっぱな人物になれると想うから、ぜひりっぱな人物にしてみたくってたまらないんだもの。後生だから早く勉強して、りっぱな人物になってくださいよう」
その音柔媚なれども言々風霜を挟みて、凛たり、烈たり。馭者は感奮して、両眼に熱涙を浮かべ、
「うん、せっかくのお志だ。ご恩に預かりましょう」
渠は襟を正して、うやうやしく白糸の前に頭を下げたり。
「なんですねえ、いやに改まってさ。そう、そんなら私の志を受けてくださるの?」
美人は喜色満面に溢るるばかりなり。
「お世話になります」
「いやだよ、もう金さん、そんなていねいな語を遣われると、私は気が逼るから、やっぱり書生言葉を遣ってくださいよ。ほんとに凛々しくって、私は書生言葉は大好きさ」
「恩人に向かって済まんけれども、それじゃぞんざいな言葉を遣おう」
「ああ、それがいいんですよ」
「しかしね、ここに一つ窮ったのは、私が東京へ行ってしまうと、母親がひとりで……」
「それは御心配なく。及ばずながら私がね……」
馭者は夢みる心地しつつ耳を傾けたり。白糸は誠を面に露わして、
「きっとお世話をしますから」
「いや、どうも重ね重ね、それでは実に済まん。私もこの報恩には、おまえさんのために力の及ぶだけのことはしなければならんが、何かお所望はありませんか」
「だからさ、私の所望はおまえさんの希望が愜いさえすれば……」
「それはいかん! 自分の所望を遂げるために恩を受けて、その望みを果たしたで、報恩になるものではない。それはただ恩に対するところのわが身だけの義務というもので、けっして恩人に対する義務ではない」
「でも私が承知ならいいじゃありませんかね」
「いくらおまえさんが承知でも、私が不承知だ」
「おや、まあ、いやにむずかしいのね」
かく言いつつ美人は微笑みぬ。
「いや、理屈を言うわけではないがね、目的を達するのを報恩といえば、乞食も同然だ。乞食が銭をもらう、それで食っていく、渠らの目的は食うのだ。食っていけるからそれが方々で銭を乞った報恩になるとはいわれまい。私は馬方こそするが、まだ乞食はしたくない。もとよりお志は受けたいのは山々だ。どうか、ねえ、受けられるようにして受けさしてください。すれば、私は喜んで受ける。さもなければ、せっかくだけれどお断わり申そう」
とみには返す語もなくて、白糸は頭を低れたりしが、やがて馭者の面を見るがごとく見ざるがごとく覰いつつ、
「じゃ言いましょうか」
「うん、承ろう」と男はやや容を正せり。
「ちっと羞ずかしいことさ」
「なんなりとも」
「諾いてくださるか。いずれおまえさんの身に適ったことじゃあるけれども」
「一応聴いた上でなければ、返事はできんけれど、身に適ったことなら、ずいぶん諾くさ」
白糸は鬢の乱れを掻き上げて、いくぶんの赧羞しさを紛らわさんとせり。馭者は月に向かえる美人の姿の輝くばかりなるを打ち瞶りつつ、固唾を嚥みてその語るを待てり。白糸は始めに口籠もりたりしが、直ちに心を定めたる気色にて、
「処女のように羞ずかしがることもない、いい婆のくせにさ。私の所望というのはね、おまえさんにかわいがってもらいたいの」
「ええ!」と馭者は鋭く叫びぬ。
「あれ、そんなこわい顔をしなくったっていいじゃありませんか。何も内君にしてくれと言うんじゃなし。ただ他人らしくなく、生涯親類のようにして暮らしたいと言うんでさね」
馭者は遅疑せず、渠の語るを追いて潔く答えぬ。
「よろしい。けっしてもう他人ではない」
涼しき眼と凛々しき眼とは、無量の意を含みて相合えり。渠らは無言の数秒の間に、不能語、不可説なる至微至妙の霊語を交えたりき。渠らが十年語りて尽くすべからざる心底の磅礴は、実にこの瞬息において神会黙契されけるなり。ややありて、まず馭者は口を開きぬ。
「私は高岡の片原町で、村越欣弥という者だ」
「私は水島友といいます」
「水島友? そうしてお宅は?」
白糸ははたと語に塞りぬ。渠は定まれる家のあらざればなり。
「お宅はちっと窮ったねえ」
「だって、家のないものがあるものか」
「それがないのだからさ」
天下に家なきは何者ぞ。乞食の徒といえども、なおかつ雨露を凌ぐべき蔭に眠らずや。世上の例をもってせば、この人まさに金屋に入り、瑶輿に乗るべきなり。しかるを渠は無宿と言う。その行ないすでに奇にして、その心また奇なりといえども、いまだこの言の奇なるには如かず、と馭者は思えり。
「それじゃどこにいるのだ」
「あすこさ」と美人は磧の小屋を指させり。
馭者はそなたを望みて、
「あすことは?」
「見世物小屋さ」と白糸は異様の微笑を含みぬ。
「ははあ、見世物小屋とは異っている」
馭者は心ひそかに驚きたるなり。渠はもとよりこの女をもって良家の女子とは思い懸けざりき、寡なくとも、海に山に五百年の怪物たるを看破したりけれども、見世物小屋に起き臥しせる乞食芸人の徒ならんとは、実に意表に出でたりしなり。とはいえども渠はさあらぬ体に答えたりき。白糸は渠の心を酌みておのれを嘲りぬ。
「あんまり異りすぎてるわね」
「見世物の三味線でも弾いているのかい」
「これでも太夫元さ。太夫だけになお悪いかもしれない」
馭者は軽侮の色をも露わさず、
「はあ、太夫! なんの太夫?」
「無官の太夫じゃない、水芸の太夫さ。あんまり聞いておくれでないよ、面目が悪いからさ」
馭者はますますまじめにて、
「水芸の太夫? ははあ、それじゃこのごろ評判の……」
かく言いつつ珍しげに女の面を覰きぬ。白糸はさっと赧む顔を背けつつ、
「ああもうたくさん、堪忍しておくれよ」
「滝の白糸というのはおまえさんか」
白糸は渠の語を手もて制しつ。
「もういいってばさ!」
「うん、なるほど!」と心の問うところに答え得たる風情にて、欣弥は頷けり。白糸はいよいよ羞じらいて、
「いやだよ、もう。何がなるほどなんだね」
「非常にいい女だと聞いていたが、なるほど……」
「もういいってばさ」
つと身を寄せて、白糸はやにわに欣弥を撞きたり。
「ええあぶねえ! いい女だからいいと言うのに、撞き飛ばすことはないじゃないか」
「人をばかにするからさ」
「ばかにするものか。実に美しい、何歳になるのだ」
「おまえさん何歳になるの?」
「私は二十六だ」
「おや六なの? まだ若いねえ。私なんぞはもう婆だね」
「何歳さ」
「言うと愛想を尽かされるからいや」
「ばかな! ほんとに何歳だよ」
「もう婆だってば。四さ」
「二十四か! 若いね。二十歳ぐらいかと想った」
「何か奢りましょうよ」
白糸は帯の間より白縮緬の袱紗包みを取り出だせり。解けば一束の紙幣を紙包みにしたるなり。
「これに三十円あります。まあこれだけ進げておきますから、家の処置をつけて、一日も早く東京へおいでなさいな」
「家の処置といって、別に金円の要るようなことはなし、そんなには要らない」
「いいからお持ちなさいよ」
「全額もらったらおまえさんが窮るだろう」
「私はまた明日入る口があるからさ」
「どうも済まんなあ」
欣弥は受け取りたる紙幣を軽く戴きて懐にせり。時に通り懸かりたる夜稼ぎの車夫は、怪しむべき月下の密会を一瞥して、
「お合い乗り、都合で、いかがで」
渠は愚弄の態度を示して、両箇のかたわらに立ち住まりぬ。白糸はわずかに顧眄りて、棄つるがごとく言い放てり。
「要らないよ」
「そうおっしゃらずにお召しなすって。へへへへへ」
「なんだね、人をばかにして。一人乗りに同乗ができるかい」
「そこはまたお話合いで、よろしいようにしてお乗んなすってください」
おもしろ半分に夤るを、白糸は鼻の端に遇いて、
「おまえもとんだ苦労性だよ。他のことよりは、早く還って、内君でも悦ばしておやんな」
さすがに車夫もこの姉御の与しやすからざるを知りぬ。
「へい、これははばかり様。まああなたもお楽しみなさいまし」
渠は直ちに踵を回らして、鼻唄まじりに行き過ぎぬ。欣弥は何思いけん、
「おい、車夫!」とにわかに呼び住めたり。
車夫は頭を振り向けて、
「へえ、やっぱりお合い乗りですかね」
「ばか言え! 伏木まで行くか」
渠の答うるに先だちて、白糸は驚きかつ怪しみて問えり。
「伏木……あの、伏木まで?」
伏木はけだし上都の道、越後直江津まで汽船便ある港なり。欣弥は平然として、
「これからすぐに発とうと思う」
「これから⁈」と白糸はさすがに心を轟かせり。
欣弥は頷きたりし頭をそのまま低れて、見るべき物もあらぬ橋の上に瞳を凝らしつつ、その胸中は二途の分別を追うに忙しかりき。
「これからとはあんまり早急じゃありませんか。まだお話したいこともあるのだから、今夜はともかくも、ねえ」
一面は欣弥を説き、一面は車夫に向かい、
「若い衆さん、済まないけれど、これを持って行っとくれよ」
渠が紙入れを捜るとき、欣弥はあわただしく、
「車夫、待っとれ。行っちゃいかんぜ」
「あれさ、いいやね。さあ、若い衆さんこれを持って行っとくれよ」
五銭の白銅を把りて、まさに渡さんとせり。欣弥はその間に分け入りて、
「少し都合があるのだから、これから遣ってくれ」
渠は十分に決心の色を露わせり。白糸はとうていその動かす能わざるを覚りて、潔く未練を棄てぬ。
「そう。それじゃ無理に留めないけれども……」
このとき両箇の眼は期せずして合えり。
「そうしてお母さんには?」
「道で寄って暇乞いをする、ぜひ高岡を通るのだから」
「じゃ町はずれまで送りましょう。若衆さん、もう一台ないかねえ」
「四、五町行きゃいくらもありまさあ。そこまでだからいっしょに召していらっしゃい」
「お巫山戯でないよ」
欣弥はすでに車上にありて、
「車夫、どうだろう。二人乗ったら毀れるかなあ、この車は?」
「なあにだいじょうぶ。姉さんほんとにお召しなさいよ」
「構うことはない。早く乗った乗った」
欣弥は手招けば、白糸は微笑む。その肩を車夫はとんと拊ちて、
「とうとう異な寸法になりましたぜ」
「いやだよ、欣さん」
「いいさ、いいさ!」と欣弥は一笑せり。
月はようやく傾きて、鶏声ほのかに白し。
四
滝の白糸は越後の国新潟の産にして、その地特有の麗質を備えたるが上に、その手練の水芸は、ほとんど人間業を離れて、すこぶる驚くべきものなりき。さればいたるところ大入り叶わざるなきがゆえに、四方の金主は渠を争いて、ついに例なき莫大の給金を払うに到れり。
渠は親もあらず、同胞もあらず、情夫とてもあらざれば、一切の収入はことごとくこれをわが身ひとつに費やすべく、加うるに、豁達豪放の気は、この余裕あるがためにますます膨張して、十金を獲れば二十金を散ずべき勢いをもって、得るままに撒き散らせり。これ一つには、金銭を獲るの難きを渠は知らざりしゆえなり。
渠はまた貴族的生活を喜ばず、好みて下等社会の境遇を甘んじ、衣食の美と辺幅の修飾とを求めざりき。渠のあまりに平民的なる、その度を放越して鉄拐となりぬ。往々見るところの女流の鉄拐は、すべて汚行と、罪業と、悪徳との養成にあらざるなし。白糸の鉄拐はこれを天真に発して、きわめて純潔清浄なるものなり。
渠は思うままにこの鉄拐を振り舞わして、天高く、地広く、この幾歳をのどかに過ごしたりけるが、いまやすなわちしからざるなり。村越欣弥は渠が然諾を信じて東京に遊学せり。高岡に住めるその母は、箸を控えて渠が饋餉を待てり。白糸は月々渠らを扶持すべき責任ある世帯持ちの身となれり。
従来の滝の白糸は、まさにその放逸を縛し、その奇骨を挫ぎて、世話女房のお友とならざるを得ざるべきなり。渠はついにその責任のために石を巻き、鉄を捩じ、屈すべからざる節を屈して、勤倹小心の婦人となりぬ。その行ないにおいてはなおかつ滝の白糸たる活気をば有ちつつ、その精神は全く村越友として経営苦労しつ。その間は実に三年の長きに亙れり。
あるいは富山に赴き、高岡に買われ、はた大聖寺福井に行き、遠くは故郷の新潟に興行し、身を厭わず八方に稼ぎ廻りて、幸いにいずくも外さざりければ、あるいは血をも濺がざるべからざる至重の責任も、その収入によりて難なく果たされき。
されども見世物の類は春夏の二季を黄金期とせり。秋は漸く寂しく、冬は霜枯れの哀れむべきを免れざるなり。いわんや北国の雪世界はほとんど一年の三分の一を白き物の中に蟄居せざるべからざるや。ことに時候を論ぜざる見世物と異なりて、渠の演芸はおのずから夏炉冬扇のきらいあり。その喝采は全く暑中にありて、冬季は坐食す。
よし渠は糊口に窮せざるも、月々十数円の工面は尋常手段の及ぶべきにあらざるなり。渠はいかにしてかなき袖を振りける? 魚は木に縁りて求むべからず、渠は他日の興行を質入れして前借りしたりしなり。
その一年、その二年は、とにもかくにもかくのごとき算段によりて過ごしぬ。その三年ののちは、さすがに八方塞がりて、融通の道も絶えなむとせり。
翌年の初夏金沢の招魂祭を当て込みて、白糸の水芸は興行せられたりき。渠は例の美しき姿と妙なる技とをもって、希有の人気を取りたりしかば、即座に越前福井なるなにがしという金主附きて、金沢を打ち揚げしだい、二箇月間三百円にて雇わんとの相談は調いき。
白糸は諸方に負債ある旨を打ち明けて、その三分の二を前借りし、不義理なる借金を払いて、手もとに百余円を剰してけり。これをもってせば欣弥母子が半年の扶持に足るべしとて、渠は顰みたりし愁眉を開けり。
されども欣弥は実際半年間の仕送りを要せざるなり。
渠の希望はすでに手の達くばかりに近づきて、わずかにここ二、三箇月を支うるを得ば足れり。無頓着なる白糸はただその健康を尋ぬるのみに安んじて、あえてその成業の期を問わず、欣弥もまたあながちこれを告げんとは為さざりき。その約に負かざらんことを虞るる者と、恩中に恩を顧みざる者とは、おのおのその務むべきところを務むるに専なりき。
かくて翌日まさに福井に向かいて発足すべき三日目の夜の興行を闋わりたりしは、一時に垂んとするころなりき。白昼を欺くばかりなりし公園内の万燈は全く消えて、雨催の天に月はあれども、四面滃浡として煙の布くがごとく、淡墨を流せる森のかなたに、たちまち跫音の響きて、がやがやと罵る声せるは、見世物師らが打ち連れ立ちて公園を引き払うにぞありける。この一群れの迹に残りて語合う女あり。
「ちょいと、お隣の長松さんや、明日はどこへ行きなさる?」
年増の抱ける猿の頭を撫でて、かく訊ねしは、猿芝居と小屋を並べし轆轤首の因果娘なり。
「はい、明日は福井まで参じます」
年増は猿に代わりて答えぬ。轆轤首は愛相よく、
「おおおお、それはまあ遠い所へ」
「はい、ちと遠方でございますと言いなよ。これ、長松、ここがの、金沢の兼六園といって、百万石のお庭だよ。千代公のほうは二度目だけれど、おまえははじめてだ。さあよく見物しなよ」
渠は抱きし猿を放ち遣りぬ。
折からあなたの池のあたりに、マッチの火のぱっと燃えたる影に、頬被りせる男の顔は赤く顕われぬ。黒き影法師も両三箇そのかたわらに見えたりき。因果娘は偸視て、
「おや、出刃打ちの連中があすこに憩んでいなさるようだ」
「どれどれ」と見向く年増の背後に声ありて、
「おい、そろそろ出掛けようぜ」
旅装束したる四、五人の男は二人のそばに立ち住まりぬ。年増は直ちに猿を抱き取りて、
「そんなら、姉さん」
「参りましょうかね」
両箇の女は渠らとともに行きぬ。続きて一団また一団、大蛇を籠に入れて荷う者と、馬に跨りて行く曲馬芝居の座頭とを先に立てて、さまざまの動物と異形の人類が、絡繹として森蔭に列を成せるその状は、げに百鬼夜行一幅の活図なり。
ややありて渠らはみな行き尽くせり。公園は森邃として月色ますます昏く、夜はいまや全くその死寂に眠れるとき、谽谺に響き、水に鳴りて、魂消る一声、
「あれえ!」
五
水は沈濁して油のごとき霞が池の汀に、生死も分かず仆れたる婦人あり。四肢を弛めて地に領伏し、身動きもせでしばらく横たわりたりしが、ようよう枕を返して、がっくりと頭を俛れ、やがて草の根を力におぼつかなくも立ち起がりて、踽く体をかたわらなる露根松に辛くも支えたり。
その浴衣は所々引き裂け、帯は半ば解けて脛を露わし、高島田は面影を留めぬまでに打ち頽れたり。こはこれ、盗難に遇えりし滝の白糸が姿なり。
渠はこの夜の演芸を闋わりしのち、連日の疲労一時に発して、楽屋の涼しき所に交睫みたりき。一座の連中は早くも荷物を取纏めて、いざ引き払わんと、太夫の夢を喚びたりしに、渠は快眠を惜しみて、一足先に行けと現に言い放ちて、再び熟睡せり。渠らは豪放なる太夫の平常を識りければ、その言うままに捨て置きて立ち去りけるなり。
程経て白糸は目覚ましぬ。この空小屋のうちに仮寝せし渠の懐には、欣弥が半年の学資を蔵めたるなり。されども渠は危うかりしとも思わず、昼の暑さに引き替えて、涼しき真夜中の幽静なるを喜びつつ、福井の金主が待てる旅宿に赴かんとて、そこまで来たりけるに、ばらばらと小蔭より躍り出ずる人数あり。
みなこれ屈竟の大男、いずれも手拭いに面を覆みたるが五人ばかり、手に手に研ぎ澄ましたる出刃庖丁を提げて、白糸を追っ取り巻きぬ。
心剛なる女なれども、渠はさすがに驚きて佇めり。狼藉者の一個は濁声を潜めて、
「おう、姉さん、懐中のものを出しねえ」
「じたばたすると、これだよ、これだよ」
かく言いつつ他の一個はその庖丁を白糸の前に閃かせば、四挺の出刃もいっせいに晃きて、女の眼を脅かせり。
白糸はすでにその身は釜中の魚たることを覚悟せり。心はいささかも屈せざれども、力の及ぶべからざるをいかにせん。進みて敵すべからず、退きては遁るること難し。
渠はその平生においてかつ百金を吝しまざるなり。されども今夜懐にせる百金は、尋常一様の千万金に直するものにして、渠が半身の精血とも謂っつべきなり。渠は換えがたく吝しめり。今ここにこれを失わんか、渠はほとんど再びこれを獲るの道あらざるなり。されども渠はついに失わざるべからざるか、豪放豁達の女丈夫も途方に暮れたりき。
「何をぐずぐずしてやがるんで! サッサと出せ、出せ」
白糸は死守せんものと決心せり。渠の脣は黒くなりぬ。渠の声はいたく震いぬ。
「これは与られないよ」
「与れなけりゃ、ふんだくるばかりだ」
「遣っつけろ、遣っつけろ!」
その声を聞くとひとしく、白糸は背後より組み付かれぬ。振り払わんとする間もあらで、胸も挫ぐるばかりの翼緊めに遭えり。たちまち暴くれたる四隻の手は、乱雑に渠の帯の間と内懐とを撈せり。
「あれえ!」と叫びて援いを求めたりしは、このときの血声なりき。
「あった、あった」と一個の賊は呼びぬ。
「あったか、あったか」と両三人の声は譍えぬ。
白糸は猿轡を吃されて、手取り足取り地上に推し伏せられつ。されども渠は絶えず身を悶えて、跋ね覆えさんとしたりしなり。にわかに渠らの力は弛みぬ。虚さず白糸は起き復るところを、はたと踢仆されたり。賊はその隙に逃げ失せて行くえを知らず。
惜しみても、惜しみてもなお余りある百金は、ついに還らざるものとなりぬ。白糸の胸中は沸くがごとく、焚ゆるがごとく、万感の心を衝くに任せて、無念已む方なき松の下蔭に立ち尽くして、夜の更くるをも知らざりき。
「ああ、しかたがない、何も約束だと断念めるのだ。なんの百ぐらい! 惜しくはないけれど、欣さんに済まない。さぞ欣さんが困るだろうねえ。ええ、どうしよう、どうしたらよかろう⁈」
渠はひしとわが身を抱きて、松の幹に打ち当てつ。ふとかたわらを見れば、漾々たる霞が池は、霜の置きたるように微黯き月影を宿せり。
白糸の眼色はその精神の全力を鍾めたるかと覚しきばかりの光を帯びて、病めるに似たる水の面を屹と視たり。
「ええ、もうなんともかとも謂えないいやな心地だ。この水を飲んだら、さぞ胸が清々するだろう! ああ死にたい。こんな思いをするくらいなら死んだほうがましだ。死のう! 死のう!」
渠は胸中の劇熱を消さんがために、この万斛の水をば飲み尽くさんと覚悟せるなり。渠はすでに前後を忘じて、一心死を急ぎつつ、蹌踉と汀に寄れば、足下に物ありて晃きぬ。思わず渠の目はこれに住まりぬ。出刃庖丁なり!
これ悪漢が持てりし兇器なるが、渠らは白糸を手籠めにせしとき、かれこれ悶着の間に取り遺せしを、忘れて捨て行きたるなり。
白糸はたちまち慄然として寒さを感えたりしが、やがて拾い取りて月に翳しつつ、
「これを証拠に訴えれば手掛かりがあるだろう。そのうちにはまたなんとか都合もできよう。……これは今死ぬのは。……」
この証拠物件を獲たるがために、渠はその死を思い遏りて、いちはやく警察署に赴かんと、心変わればいまさら忌まわしきこの汀を離れて、渠は推し仆されたりしあたりを過ぎぬ。無念の情は勃然として起これり。繊弱き女子の身なりしことの口惜しさ! 男子にてあらましかばなど、言い効もなき意気地なさを憶い出でて、しばしはその恨めしき地を去るに忍びざりき。
渠は再び草の上に一物を見出だせり。近づきてとくと視れば、浅葱地に白く七宝繋ぎの洗い晒したる浴衣の片袖にぞありける。
またこれ賊の遺物なるを白糸は暁りぬ。けだし渠が狼藉を禦ぎし折に、引き断りたる賊の衣の一片なるべし。渠はこれをも拾い取り、出刃を裹みて懐中に推し入れたり。
夜はますます闌けて、霄はいよいよ曇りぬ。湿りたる空気は重く沈みて、柳の葉末も動かざりき。歩むにつれて、足下の叢より池に跋ね込む蛙は、礫を打つがごとく水を鳴らせり。
行く行く項を低れて、渠は深くも思い悩みぬ。
「だが、警察署へ訴えたところで、じきにあいつらが捕ろうか。捕ったところで、うまく金子が戻るだろうか。あぶないものだ。そんなことを期にしてぐずぐずしているうちには、欣さんが食うに窮ってくる。私の仕送りを頼みにしている身の上なのだから、お金が到かなかった日には、どんなに窮るだろう。はてなあ! 福井の金主のほうは、三百円のうち二百円前借りをしたのだから、まだ百円というものはあるのだ。貸すだろうか、貸すまい。貸さない、貸さない、とても貸さない! 二百円のときでもあんなに渋ったのだ。けれども、こういう事情だとすっかり打ち明けて、ひとつ泣き付いてみようかしらん。だめなことだ、あの老爺だもの。のべつに小癪に障ることばっかり陳べやがって、もうもうほんとに顔を見るのもいやなんだ。そのくせまた持ってるのだ! どうしたもんだろうなあ。ああ、窮った、窮った。やっぱり死ぬのか。死ぬのはいいが、それじゃどうも欣さんに義理が立たない。それが何より愁い! といって才覚のしようもなし。……」
陰々として鐘声の度るを聞けり。
「もう二時だ。はてなあ!」
白糸は思案に余って、歩むべき力も失せつ。われにもあらで身を靠せたるは、未央柳の長く垂れたる檜の板塀のもとなりき。
こはこれ、公園地内に六勝亭と呼べる席貸しにて、主翁は富裕の隠居なれば、けっこう数寄を尽くして、営業のかたわらその老いを楽しむところなり。
白糸が佇みたるは、その裏口の枝折門の前なるが、いかにして忘れたりけむ、戸を鎖さでありければ、渠が靠るるとともに戸はおのずから内に啓きて、吸い込むがごとく白糸を庭の内にぞ引き入れたる。
渠はしばらく惘然として佇みぬ。その心には何を思うともなく、きょろきょろとあたりを眗せり。幽寂に造られたる平庭を前に、縁の雨戸は長く続きて、家内は全く寝鎮まりたる気勢なり。白糸は一歩を進め、二歩を進めて、いつしか「寂然の森」を出でて、「井戸囲い」のほとりに抵りぬ。
このとき渠は始めて心着きて驚けり。かかる深夜に人目を窃みて他の門内に侵入するは賊の挙動なり。われははからずも賊の挙動をしたるなりけり。
ここに思い到りて、白糸はいまだかつて念頭に浮かばざりし盗というなる金策の手段あるを心着きぬ。ついで懐なる兇器に心着きぬ。これ某らがこの手段に用いたりし記念なり。白糸は懐に手を差し入れつつ、頭を傾けたり。
良心は疾呼して渠を責めぬ。悪意は踴躍して渠を励ませり。渠は疾呼の譴責に遭いては慚悔し、また踴躍の教峻を受けては然諾せり。良心と悪意とは白糸の恃むべからざるを知りて、ついに迭いに闘いたりき。
「道ならないことだ。そんな真似をした日には、二度と再び世の中に顔向けができない。ああ、恐ろしいことだ、……けれども才覚ができなければ、死ぬよりほかはない。この世に生きていないつもりなら、羞汚も顔向けもありはしない。大それたことだけれども、金は盗ろう。盗ってそうして死のう死のう!」
かく思い定めたれども、渠の良心はけっしてこれを可さざりき。渠の心は激動して、渠の身は波に盪るる小舟のごとく、安んじかねて行きつ、還りつ、塀ぎわに低徊せり。ややありて渠は鉢前近く忍び寄りぬ。されどもあえて曲事を行なわんとはせざりしなり。渠は再び沈吟せり。
良心に逐われて恐惶せる盗人は、発覚を予防すべき用意に遑あらざりき。渠が塀ぎわに徘徊せしとき、手水口を啓きて、家内の一個は早くすでに白糸の姿を認めしに、渠は鈍くも知らざりけり。
鉢前の雨戸は不意に啓きて、人は面を露わせり。白糸あなやと飛び退る遑もなく、
「偸児!」と男の声は号びぬ。
白糸の耳には百雷の一時に落ちたるごとく轟けり。精神錯乱したるその瞬息に、懐なりし出刃は渠の右手に閃きて、縁に立てる男の胸をば、柄も透れと貫きたり。
戸を犇かして、男は打ち僵れぬ。朱に染みたるわが手を見つつ、重傷に唸く声を聞ける白糸は、戸口に立ち竦みて、わなわなと顫いぬ。
渠はもとより一点の害心だにあらざりしなり。われはそもそもいかにしてかかる不敵の振舞をなせしかを疑いぬ。見れば、わが手は確かに出刃を握れり。その出刃は確かに男の胸を刺しけるなり。胸を刺せしによりて、男は殪れたるなり。されば人を殺せしはわれなり、わが手なりと思いぬ。されども白糸はわが心に、わが手に、人を殺せしを覚えざりしなり。渠は夢かと疑えり。
「全く殺したのだ。こりゃ、まあ大変なことをした! どういう気で私はこんなことをしたろう?」
白糸は心乱れて、ほとんどその身を忘れたる背後に、
「あなた、どうなすった?」
と聞こゆるは寝惚れたる女の声なり。白糸は出刃を隠して、きっとそなたを見遣りぬ。
灯影は縁を照らして、跫音は近づけり。白糸はひたと雨戸に身を寄せて、何者か来たると覰いぬ。この家の内儀なるべし。五十ばかりの女は寝衣姿のしどけなく、真鍮の手燭を翳して、覚めやらぬ眼を睜かんと面を顰めつつ、よたよたと縁を伝いて来たりぬ。死骸に近づきて、それとも知らず、
「あなた、そんな所に寝て……どうなすっ。……」
燈を差し向けて、いまだその血に驚く遑あらざるに、
「静かに!」と白糸は身を露わして、庖丁を衝き付けたり。
内儀は賊の姿を見るより、ペったりと膝を折り敷き、その場に打ち俯して、がたがたと慄いぬ。白糸の度胸はすでに十分定まりたり。
「おい、内君、金を出しな。これさ、金を出せというのに」
俯して答えなき内儀の項を、出刃にてぺたぺたと拍けり。内儀は魂魄も身に添わず、
「は、は、はい、はい、は、はい」
「さあ、早くしておくれ。たんとは要らないんだ。百円あればいい」
内儀はせつなき呼吸の下より、
「金子はあちらにありますから。……」
「あっちにあるならいっしょに行こう。声を立てると、おいこれだよ」
出刃庖丁は内儀の頬を見舞えり。渠はますます恐怖して立つ能わざりき。
「さあ早くしないかい」
「た、た、た、ただ……いま」
渠は立たんとすれども、その腰は挙がらざりき。されども渠はなお立たんと焦りぬ。腰はいよいよ挙がらず。立たざればついに殺されんと、渠はいとど慌てつ、悶えつ、辛くも立ち起がりて導けり。二間を隔つる奥に伴いて、内儀は賊の需むる百円を出だせり。白糸はまずこれを収めて、
「内君、いろいろなことを言ってきのどくだけれど、私の出たあとで声を立てるといけないから、少しの間だ、猿轡を箝めてておくれ」
渠は内儀を縛めんとて、その細帯を解かんとせり。ほとんど人心地あらざるまでに恐怖したりし主婦は、このときようよう渠の害心あらざるを知るより、いくぶんか心落ちいつつ、はじめて賊の姿をば認め得たりしなり。こはそもいかに! 賊は暴くれたる大の男にはあらで、軆度優しき女子ならんとは、渠は今その正体を見て、与しやすしと思えば、
「偸児!」と呼び懸けて白糸に飛び蒐りつ。
自糸は不意を撃たれて驚きしが、すかさず庖丁の柄を返して、力任せに渠の頭を撃てり。渠は屈せず、賊の懐に手を捻じ込みて、かの百円を奪い返さんとせり。白糸はその手に咬み着き、片手には庖丁振り抗げて、再び柄をもて渠の脾腹を吃わしぬ。
「偸児! 人殺し!」と地蹈鞴を踏みて、内儀はなお暴らかに、なおけたたましく、
「人殺し! 人殺しだ!」と血声を絞りぬ。
これまでなりと観念したる白糸は、持ちたる出刃を取り直し、躍り狂う内儀の吭を目懸けてただ一突きと突きたりしに、覘いを外して肩頭を刎ね斫りたり。
内儀は白糸の懐に出刃を裹みし片袖を撈り得てて、引っ掴みたるまま遁れんとするを、畳み懸けてその頭に斫り着けたり。渠はますます狂いて再び喚かんとしたりしかば、白糸は触るを幸いめった斫りにして、弱るところを乳の下深く突き込みぬ。これ実に最後の一撃なりけるなり。白糸は生まれてよりいまだかばかりおびただしき血汐を見ざりき。一坪の畳は全く朱に染みて、あるいは散り、あるいは迸り、あるいはぽたぽたと滴りたる、その痕は八畳の一間にあまねく、行潦のごとき唐紅の中に、数箇所の傷を負いたる内儀の、拳を握り、歯を噛い緊めてのけざまに顛覆りたるが、血塗れの額越しに、半ば閉じたる眼を睨むがごとく凝えて、折もあらばむくと立たんずる勢いなり。
白糸は生まれてより、いまだかかる最期の愴惻を見ざりしなり。かばかりおびただしき血汐! かかるあさましき最期! こはこれ何者の為業なるぞ。ここに立てるわが身のなせし業なり。われながら恐ろしきわが身かな、と白糸は念えり。渠の心は再び得堪うまじく激動して、その身のいまや殺されんとするを免れんよりも、なお幾層の危うき、恐ろしき想いして、一秒もここにあるにあられず、出刃を投げ棄つるより早く、あとをも見ずしていっさんに走り出ずれば、心急くまま手水口の縁に横たわる躯のひややかなる脚に跌きて、ずでんどうと庭前に転び墜ちぬ。渠は男の甦りたるかと想いて、心も消え消えに枝折門まで走れり。
風やや起こりて庭の木末を鳴らし、雨はぽっつりと白糸の面を打てり。
六
高岡石動間の乗り合い馬車は今ぞ立野より福岡までの途中にありて走れる。乗客の一個は煙草火を乞りし人に向かいて、雑談の口を開きぬ。
「あなたはどちらまで? へい、金沢へ、なるほど、御同様に共進会でございますか」
「さようさ、共進会も見ようと思いますが、ほかに少し。……」
渠は話好きと覚しく、
「へへ、何か公務の御用で」
その人は髭を貯えて、洋服を着けたるより、渠はかく言いしなるべし。官吏?は吸い窮めたる巻煙草を車の外に投げ棄て、次いで忙わしく唾吐きぬ。
「実は明日か、明後日あたり開くはずの公判を聴こうと思いましてね」
「へへえ、なるほど、へえ」
渠はその公判のなんたるを知らざるがごとし。かたわらにいたる旅商人は、卒然我は顔に喙を容れたり。
「ああ、なんでございますか。この夏公園で人殺しをした強盗の一件?」
髭ある人は眼を「我は顔」に転じて、
「そう。知っておいでですか」
「話には聞いておりますが、詳細事は存じませんで。じゃあの賊は逮捕りましてすか」
話を奪われたりし前の男も、思い中る節やありけん、
「あ、あ、あ、ひとしきりそんな風説がございましたっけ。有福の夫婦を斬り殺したとかいう……その裁判があるのでございますか」
髭は再びこなたを振り向きて、
「そう、ちょっとおもしろい裁判でな」
渠は話児を釣るべき器械なる、渠が特有の「へへえ」と「なるほど」とを用いて、しきりにその顛末を聞かんとせり。乙者も劣らず水を向けたりき。髭ある人の舌本はようやく軟ぎぬ。
「賊はじきにその晩捕られた」
「こわいものだ!」と甲者は身を反らして頭を掉りぬ。
「あの、それ、南京出刃打ちという見世物な、あの連中の仕事だというのだがね」
乙者は直ちにこれに応ぜり。
「南京出刃打ち? いかさま、見たことがございました。あいつらが? ふうむ。ずいぶん遣りかねますまいよ」
「その晩橋場の交番の前を怪しい風体のやつが通ったので、巡査が咎めるとこそこそ遁げ出したから、こいつ胡散だと引っ捉えて見ると、着ている浴衣の片袖がない」
談ここに到りて、甲と乙とは、思わず同音に嗟きぬ。乗り合いは弁者の顔を覰いて、その後段を渇望せり。
甲者は重ねて感嘆の声を発して、
「おもしろい! なるほど。浴衣の片袖がない! 天も……なんとやらで、なんとかして漏らさず……ですな」
弁者はこの訛言をおかしがりて、
「天網恢々疎にして漏らさずかい」
甲者は聞くより手を抗げて、
「それそれ、恢々、恢々、へえ、恢々でした」
乗り合いの過半はこの恢々に笑えり。
「そこで、こいつを拘引して調べると、これが出刃打ちの連中だ。ところがね、ちょうどその晩兼六園の席貸しな、六勝亭、あれの主翁は桐田という金満家の隠居だ。この夫婦とも、何者の仕業だか、いや、それは、実に残酷に害られたというね。亭主は鳩尾のところを突き洞される、女房は頭部に三箇所、肩に一箇所、左の乳の下を刳られて、僵れていたその手に、男の片袖を掴んでいたのだ」
車中声なく、人は固唾を嚥みて、その心を寒うせり。まさにこれ弁者得意の時。
「証拠になろうという物はそればかりではない。死骸のかたわらに出刃庖丁が捨ててあった。柄の所に片仮名のテの字の焼き印のある、これを調べると、出刃打ちの用っていた道具だ。それに今の片袖がそいつの浴衣に差違ないので、まず犯罪人はこいつとだれも目を着けたさ」
旅商人は膝を進めつ。
「へえ、それじゃそいつじゃないんでございますかい」
弁者はたちまち手を抗げてこれを抑えぬ。
「まあお聞きなさい。ところで出刃打ちの白状には、いかにも賊を働きました。賊は働いたが、けっして人殺しをした覚えはございません。奪りましたのは水芸の滝の白糸という者の金で、桐田の門は通過もしませんっ」
「はて、ねえ」と甲者は眉を動かして、弁者を凝視めたり、乙者は黙して考えぬ。ますますその後段を渇望せる乗り合いは、順繰りに席を進めて、弁者に近づかんとせり。渠はそのとき巻莨を取り出だして、脣に湿しつつ、
「話はこれからだ」
左側の席の前端に並びたる、威儀ある紳士とその老母とは、顔を見合わせて迭いに色を動かせり。渠は質素なる黒の紋着きの羽織に、節仙台の袴を穿きて、その髭は弁者より麗しきものなりき。渠は紳士というべき服装にはあらざるなり。されどもその相貌とその髭とは、多く得べからざる紳士の風采を備えたり。
弁者は仔細らしく煙を吹きて、
「滝の白糸というのはご存じでしょうな」
乙者は頷き頷き、
「知っとります段か、富山で見ました大評判の美艶ので」
「さよう。そこでそのころ福井の方で興行中のかの女を喚び出して対審に及んだところが、出刃打ちの申し立てには、その片袖は、白糸の金を奪るときに、おおかた断られたのであろうが、自分は知らずに遁げたので、出刃庖丁とてもそのとおり、女を脅すために持っていたのを、慌てて忘れて来たのであるから、たといその二品が桐田の家にあろうとも、こっちの知ったことではないと、理窟には合わんけれど、やつはまずそう言い張るのだ。そこで女が、そのとおりだと言えば、人殺しは出刃打ちじゃなくって、ほかにあるとなるのだ」
甲者は頬杖拄きたりし面を外して、弁者の前に差し寄せつつ、
「へえへえ、そうして女はなんと申しました」
「ぜひおまえさんに逢いたいと言ったね」
思いも寄らぬ弁者の好謔は、大いに一場の笑いを博せり。渠もやむなく打ち笑いぬ。
「ところが金子を奪られた覚えなどはない、と女は言うのだ。出刃打ちは、なんでも奪ったという。偸児のほうから奪ったというのに、奪られたほうでは奪られないと言い張る。なんだか大岡政談にでもありそうな話さ」
「これにはだいぶ事情がありそうです」
乙者は首を捻りつつ腕を拱けり。例の「なるほど」は、談のますます佳境に入るを楽しめる気色にて、
「なるほど、これだから裁判はむずかしい! へえ、それからどう致しました」
傍聴者は声を斂めていよいよ耳を傾けぬ。威儀ある紳士とその老母とは最も粛然として死黙せり。
弁者はなおも語を継ぎぬ。
「実にこれは水掛け論さ。しかしとどのつまり出刃打ちが殺したになって、予審は終結した。今度開くのが公判だ。予審が済んでからこの公判までにはだいぶ間があったのだ。この間に出刃打ちの弁護士は非常な苦心で、十分弁護の方法を考えておいて、いざ公判という日には、一番腕を揮って、ぜひとも出刃打ちを助けようと、手薬煉を引いているそうだから、これは裁判官もなかなか骨の折れる事件さ」
甲者は例の「なるほど」を言わずして、不平の色を作せり。
「へえ、そのなんでございますか、旦那、その弁護士というやつは出刃打ちの肩を持って、人殺しの罪を女に誣ろうという姦計なんでございますか」
弁者は渠の没分暁を笑いて、
「何も姦計だの、肩を持つの、というわけではない。弁護を引き受ける以上は、その者の罪を軽くするように尽力するのが弁護士の職分だ」
甲者はますます不平に堪えざりき。渠は弁者を睨して、
「職分だって、あなた、出刃打ちなんぞの肩を持つてえことがあるもんですか。敵手は女じゃありませんか。かわいそうに。私なら弁護を頼まれたってなんだって管やしません。おまえが悪い、ありていに白状しな、と出刃打ちの野郎を極め付けてやりまさあ」
渠の鼻息はすこぶる暴らかなりき。
「そんな弁護士をだれが頼むものか」
と弁者は仰ぎて笑えり。乗り合いは、威儀ある紳士とその老母を除きて、ことごとく大笑せり。笑い寝むころ馬車は石動に着きぬ。車を下らんとて弁者は席を起てり。甲と乙とは渠に向かいて慇懃に一揖して、
「おかげでおもしろうございました」
「どうも旦那ありがとう存じました」
弁者は得々として、
「おまえさんがたも間があったら、公判を行ってごらんなさい」
「こりゃ芝居よりおもしろいでございましょう」
乗客は忙々下車して、思い思いに別れぬ。最後に威儀ある紳士はその母の手を執りて扶け下ろしつつ、
「あぶのうございますよ。はい、これからは腕車でございます」
渠らの入りたる建場の茶屋の入り口に、馬車会社の老いたる役員は佇めり。渠は何気なく紳士の顔を見たりしが、にわかにわれを忘れてその瞳を凝らせり。
たちまち進み来たれる紳士は帽を脱して、ボタンの二所失れたる茶羅紗のチョッキに、水晶の小印を垂下げたるニッケル鍍の鏁を繋けて、柱に靠れたる役員の前に頭を下げぬ。
「その後は御機嫌よろしゅう。あいかわらずお達者で……」
役員は狼狽して身を正し、奪うがごとくその味噌漉し帽子を脱げり。
「やあこれは! 欣様だったねえ。どうもさっきから肖ているとは思ったけれど、えらくりっぱになったもんだから。……しかしおまえさんも無事で、そうしてまありっぱになんなすって結構だ。あれからじきに東京へ行って、勉強しているということは聞いていたっけが、ああ、見上げたもんだ。そうして勉強してきたのは、法律かい。法律はいいね。おまえさんは好きだった。好きこそものの上手なりけれ、うん、それはよかった。ああ、なるほど、金沢の裁判所に……うむ、検事代理というのかい」
老いたる役員はわが子の出世を看るがごとく懽べり。
当時盲縞の腹掛けは今日黒の三つ紋の羽織となりぬ。金沢裁判所新任検事代理村越欣弥氏は、実に三年前の馭者台上の金公なり。
七
公判は予定の日において金沢地方裁判所に開かれたり。傍聴席は人の山を成して、被告および関係者水島友は弁護士、押丁らとともに差し控えて、判官の着席を待てり。ほどなく正面の戸をさっと排きて、躯高き裁判長は入り来たりぬ。二名の陪席判事と一名の書記とはこれに続けり。
満廷粛として水を打ちたるごとくなれば、その靴音は四壁に響き、天井に譍えて、一種の恐ろしき音を生して、傍聴人の胸に轟きぬ。
威儀おごそかに渠らの着席せるとき、正面の戸は再び啓きて、高爽の気を帯び、明秀の容を具えたる法官は顕われたり。渠はその麗しき髭を捻りつつ、従容として検事の席に着きたり。
謹慎なる聴衆を容れたる法廷は、室内の空気些も熱せずして、渠らは幽谷の木立ちのごとく群がりたり。制服を絡いたる判事、検事は、赤と青とカバーを異にせるテーブルを別ちて、一段高き所に居並びつ。
はじめ判事らが出廷せしとき、白糸は徐かに面を挙げて渠らを見遣りつつ、臆せる気色もあらざりしが、最後に顕われたりし検事代理を見るやいなや、渠は色蒼白めて戦きぬ。この俊爽なる法官は実に渠が三年の間夢寐も忘れざりし欣さんならずや。渠はその学識とその地位とによりて、かつて馭者たりし日の垢塵を洗い去りて、いまやその面はいと清らに、その眉はひときわ秀でて、驚くばかりに見違えたれど、紛うべくもあらず、渠は村越欣弥なり。白糸は始め不意の面会に駭きたりしが、再び渠を熟視するに及びておのれを忘れ、三たび渠を見て、愁然として首を低れたり。
白糸はありうべからざるまでに意外の想いをなしたりき。
渠はこのときまで、一箇の頼もしき馬丁としてその意中に渠を遇せしなり。いまだかくのごとく畏敬すべき者ならんとは知らざりき。ある点においては渠を支配しうべしと思いしなり。されども今この検事代理なる村越欣弥に対しては、その一髪をだに動かすべき力のわれにあらざるを覚えき。ああ、濶達豪放なる滝の白糸! 渠はこのときまで、おのれは人に対してかくまで意気地なきものとは想わざりしなり。
渠はこの憤りと喜びと悲しみとに摧かれて、残柳の露に俯したるごとく、哀れに萎れてぞ見えたる。
欣弥の眼は陰に始終恩人の姿に注げり。渠ははたして三年の昔天神橋上月明のもとに、臂を把りて壮語し、気を吐くこと虹のごとくなりし女丈夫なるか。その面影もあらず、いたくも渠は衰えたるかな。
恩人の顔は蒼白めたり。その頬は削けたり。その髪は乱れたり。乱れたる髪! その夕べの乱れたる髪は活溌溌の鉄拐を表わせしに、今はその憔悴を増すのみなりけり。
渠は想えり。濶達豪放の女丈夫! 渠は垂死の病蓐に横たわらんとも、けっしてかくのごとき衰容をなさざるべきなり。烈々たる渠が心中の活火はすでに燼えたるか。なんぞ渠のはなはだしく冷灰に似たるや。
欣弥はこの体を見るより、すずろ憐愍を催して、胸も張り裂くばかりなりき。同時に渠はおのれの職務に心着きぬ。私をもって公に代えがたしと、渠は拳を握りて眼を閉じぬ。
やがて裁判長は被告に向かいて二、三の訊問ありけるのち、弁護士は渠の冤を雪がんために、滔々数千言を陳ねて、ほとんど余すところあらざりき。裁判長は事実を隠蔽せざらんように白糸を諭せり。渠はあくまで盗難に遭いし覚えのあらざる旨を答えて、黒白は容易に弁ずべくもあらざりけり。
検事代理はようやく閉じたりし眼を開くとともに、悄然として項を垂るる白糸を見たり。渠はそのとき声を励まして、
「水島友、村越欣弥が……本官があらためて訊問するが、裹まず事実を申せ」
友はわずかに面を擡げて、額越しに検事代理の色を候いぬ。渠は峻酷なる法官の威容をもて、
「そのほうは全く金子を奪られた覚えはないのか。虚偽を申すな。たとい虚偽をもって一時を免るるとも、天知る、地知る、我知るで、いつがいつまで知れずにはおらんぞ。しかし知れるの、知れぬのとそんなことは通常の人に言うことだ。そのほうも滝の白糸といわれては、ずいぶん名代の芸人ではないか。それが、かりそめにも虚偽などを申しては、その名に対しても実に愧ずべきことだ。人は一代、名は末代だぞ。またそのほうのような名代の芸人になれば、ずいぶん多数の贔屓もあろう、その贔屓が、裁判所においてそのほうが虚偽に申し立てて、それがために罪なき者に罪を負わせたと聞いたならば、ああ、白糸はあっぱれな心掛けだと言って誉めるか、喜ぶかな。もし本官がそのほうの贔屓であったなら、今日限り愛想を尽かして、以来は道で遭おうとも唾もしかけんな。しかし長年の贔屓であってみれば、まず愛想を尽かす前に十分勧告をして、卑怯千万な虚偽の申し立てなどは、命に換えてもさせんつもりだ」
かく諭したりし欣弥の声音は、ただにその平生を識れる、傍聴席なる渠の母のみにあらずして、法官も聴衆もおのずからその異常なるを聞き得たりしなり。白糸の愁わしかりし眼はにわかに清く輝きて、
「そんなら事実を申しましょうか」
裁判長はしとやかに、
「うむ、隠さずに申せ」
「実は奪られました」
ついに白糸は自白せり。法の一貫目は情の一匁なるかな、渠はそのなつかしき検事代理のために喜びて自白せるなり。
「なに? 盗られたと申すか」
裁判長は軽く卓を拍ちて、きと白糸を視たり。
「はい、出刃打ちの連中でしょう、四、五人の男が手籠めにして、私の懐中の百円を奪りました」
「しかとさようか」
「相違ござりません」
これに次ぎて白糸はむぞうさにその重罪をも白状したりき。裁判長は直ちに訊問を中止して、即刻この日の公判を終われり。
検事代理村越欣弥は私情の眼を掩いてつぶさに白糸の罪状を取り調べ、大恩の上に大恩を累ねたる至大の恩人をば、殺人犯として起訴したりしなり。さるほどに予審終わり、公判開きて、裁判長は検事代理の請求は是なりとして、渠に死刑を宣告せり。
一生他人たるまじと契りたる村越欣弥は、ついに幽明を隔てて、永く恩人と相見るべからざるを憂いて、宣告の夕べ寓居の二階に自殺してけり。
底本:「高野聖」角川文庫、角川書店
1971(昭和46)年4月20日改版初版発行
1999(平成11)年2月10日改版40版発行
初出:「読売新聞」
1894(明治27)年11月1日~30日
入力:真先芳秋
校正:鈴木厚司
1999年10月23日公開
2005年12月24日修正
青空文庫作成ファイル:
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