婦人も参政権を要求す
与謝野晶子
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二月に入って俄かに普通選挙の運動が各地に起り出しました。かつて明治四十一年に政友会の提出した普通選挙法案が一旦衆議院を通過しながら、元老や貴族院の保守的勢力の圧迫に依って頓挫してしまったことは、私たちの記憶にまだ新しいのですが、今年の議会に国民党、憲政会、政府等から各別に三つの選挙法改正案が提出された際ですから、これを好い機会として、久しく眠っていたこの運動が十幾年ぶりに復活して来たのだと思います。
これに対して私たち婦人は、唯だそういう事象が男子の間にあるとして冷淡に看過して好いでしょうか、どうか。言い換えれば、そういう問題は私たち婦人と直接に何の交渉もないものでしょうか、どうか。私はこれについて、一般の婦人たちとは勿論、併せて一般の男子たちとも反省してみたいと思います。
普通選挙は世界の大勢であるからこれを要求するのだという人があるなら、私はその人が模倣同化の通有性のみあって、自由独創の個性に乏しいことを惜みます。今日は国家とか民族とかに由って制限される何物もありません。現に巴里の講和会議で「国際連盟」が討議されているように、個人の道徳生活の範囲はあらゆる民族とあらゆる国家との保存を包容したものの全体、即ち「世界人類」の平和にまで拡げられているのですから、世界の問題はやがて個人の問題ですけれど、その世界人類の中心となるものは常に個人なのですから、個人の自発的要求と合わない限り、世界の大勢であるからといって、その良いものであるか、悪いものであるかを批判しないで、迷信的事大的に受け容れることは出来ません。古人が「千万人といえども我れ行かん」といいました通り、自ら発し、自ら批判し、自ら確信する要求には、世界の大勢にも楯つき、わざと険を冒して辞せず、命をも賭けるほど熱情と真摯と沈勇とがあります。
私にも世界の大勢を口にしたり、欧米の実例を挙げたりする場合がしばしばあります。しかし私は決してそれを私の議論の前提にも基礎にもしようとは考えません。私はそれを、あるいは私の個性の自発を促した機縁として述べるか、あるいは私の議論の旁証として述べるかに過ぎないのです。個性の尊厳を保って第一義の生活をしようと心掛ける者には、常に自ら世界の中心となって、何程かの文化価値を、自らの立場と、自らの天分との能くする限りにおいて創造しようと努力します。その人は世界の大勢に対して常に敏感ですが、それを批判し取捨して自己の所有とするには、常に出来る限りの沈着と聡明とを失いません。雷同や模倣に由って普通選挙を主張するように解釈する者は、軽浮なる自己を推して他人を忖度するものだと思います。
それなら、普通選挙はどういう理由から個人の自発的要求として主張されるのですか。これに関する細論で最も参考となるものには、最近に佐藤丑次郎博士が公にされた選挙権拡張論がありますから、私は唯だ茲に根本となる理由だけを述べて私の意見を加えようと思います。
人間は動物の如く単に「生きる」というものでなくて「より善く生きよう」とする所に特長があります。悠久な昔において、人間が自然の法則に引きずられて専ら種族の保存と生理的欲望の満足とに終始する動物的生活を脱し、人為の理想と努力とに依って現に見るような燦爛とした、複雑な文化生活を創造するに到ったことは、如何にも万物の霊長として自負するに足ることだと思います。既に人間の生活が創造に創造を重ねて文化の内容を充実し、それを以て自他の幸福を増進する所に第一の価値を置くものであるとすれば、生活に要するあらゆる条件は、すべてこの第一の価値を実現する過程以外の何物であってもならないのは当然です。
創造は過去と現在とを材料としながら新しい未来を発明する能力です。この能力は個人のものです。個性的のものです。多数はこれを助長し、併せてこれを受容し、これと同化する作用はあっても、多数が或一つの新しい文化内容を創造するということは、厳格なる意味において全く不可能なことだと思われます。
人格の中心となるものは実にこの創造能力を推さねばなりません。もしこれを欠くならば、人は模倣同化の消極的生活にのみ終始して、自己の生存を主張する理由が薄弱になります。この創造能力を用いて、自存、自労、自活、自営の生活を建設してこそ初めて堅実な積極的の文化生活者と称することが出来ると思います。
この創造能力は一切の人類が個性として具有しているものであって、これを実際に用いて生活のあらゆる体系──個人生活、家庭生活、国民生活、世界生活──に新しい創造を試みたるために、人間は如何なる自己以外の権力にも圧倒されないだけの「自由独立の権利」を持っています。例えば教育の自由、思想の自由、言論の自由、職業の自由の類がそれです。また、この創造能力を用いてあらゆる生活の体系に貢献するために、個人個人がこの能力を開展する機会を均等にする権利、即ち「平等の権利」を持っています。例えば貴族の子も乞食の子も学齢に達すれば平等に教育を受けることが出来ます。これは教育を受ける機会の平等です。また学術上の実力さえあれば、富豪の子弟も貧民の子弟も平等の学位を請求することが出来ます。これは学位を受ける機会の平等です。貧富貴賤、士農工商に依って階級の差等や権利の差等を認めず、一斉に同じ出発点に立って創造能力の競争に参加し得るのが「平等の権利」です。或階級の人間だけが特別の権利を持って、便宜の多い偏頗な生活をするというようなことのないために必要なものが、この「平等の権利」です。
近頃の流行語である「民主主義」というものも、原語のデモクラシイが十八世紀や十九世紀で持っていた意味とは違って非常に進化し、要するに今日の解釈では茲にいう平等の権利を主張する思想に外ならないということを、私たちは学者に依って教えられます。「民主主義」が専ら政治上の標語であったのは過去のことで、今はあらゆる生活の体系にこの語を用います。即ち産業組織の民主主義化、文学美術の民主主義化、家庭の民主主義化という類です。例えば、家庭の民主主義化というのは、夫婦の愛情の平等、夫婦の経済的労働の平等、夫婦の財産権の平等、父権と母権の平等、親と子との権利の平等、兄弟姉妹の権利の平等の如きをいい、政治上や学問上に民主主義を唱える人でも、家庭において特に父権や、良人の権利や、兄の権利を偏重し、自己以外の家族の持っている正当な個人的の権利を圧制蹂躙するような言動があれば、その人は決して民主主義の徹底した実行者とはいわれないのです。良人を凌圧したり、妻を虐待したり、我子を打擲したりする男女は、如何に民主主義を口にしても、その実質は各人に固有する「平等の権利」を解しない専制主義者、官僚主義者、軍国主義者を以て蔑視すべき男女であるのです。
さて、普通選挙を要求するというのは、実にこの民主主義的の権利を──平等の権利を──日本人全体が政治の上に得て、国民として政治に参与する機会の均等を持とうとするがために外ならないのです。我々は日本国民たることにおいて平等です。国家を愛し、あらゆる職業と労作を通じて、精神的及び物質的に国家に貢献していること、即ち国民としての義務を行っていることにおいて平等です。この愛国心と、この国民的義務の負担とにおいて平等である我々が、どうして国家の政治に参与する権利においては不平等な待遇を受けねばならないでしょうか。
国家は国民全体の勤務に依って支持されて行くものです。国家は国民全体の協力の中に生存し発達して行くものです。一旦緩急あれば義勇を以て公(即ち国家)に奉ずるのみならず、個人が日々の勤労は直接または間接に国家のために計っているのです。民主主義の家庭は、その家長の専制に依って家政を決することなく、必ず家庭の協同員たる独立の人格を持った年頃の家族と共に公平に合議して決せねばならぬ如く、国家の政治もまた国民全体の意志に依って決することが、合理的な民主主義の政治である限り、或年頃に達して独立の人格を持った国民──例えば満二十五歳以上に達して、白痴でなく、六カ月以上一定の地に住し、現に刑罰に処せられていない者──こういう意味の国民全体が衆議院議員の選挙権と被選挙権とを持って、間接または直接に国家の政治に参与することは、立憲国民に固より備った正当な権利であるのです。かくてこそ初めて国民全体が平等に参与する政治、即ち民主主義の政治と称することが許されると思います。
こう考えて来ると、従来の納税額を標準とした選挙権の分配の如何に不公平であるかは細論せずして明白になります。従来のように直接国税拾円を選挙資格とすると、国民の中から参政権を持つ者は纔かに百四十二万二千百十八人(大正六年)を数えるに過ぎず、これを今度憲政会から提出した改正案のように納税額を弐円に引下げたとしても、この倍数である三百万人内外の選挙有権者を得るに止まっています。かような少数の人数に由って選挙された衆議院議員が国民全体の政治的代表者といわれないことは弁ずるまでもありません。
納税額を標準とする選挙法の第一の不合理はこの点にあります。それは百五十万乃至三百万人の有産階級のみが特権的に壟断する政治であって、国民全体の政治とは如何にしてもいわれないのです。代議政治の美名を僭した財閥的専制政治と呼ぶのが至当です。
明治年間に藩閥、軍閥、財閥、学閥というようなものが特別に国家に役立った場合もあったでしょうから、それらの者が特権階級として国家の恩典や優遇を受けたのには多少の理由もあったかと想像されますが、今日は国民の知識が進んで、国民としての責任が個人個人に自覚されつつあるのですから、財産の有無を以て国民の創造能力を測定することは乱暴だと思います。
されば普通選挙の可否は、あらゆる生活の体系が民主主義化して行く今日において、もう少しも議論の余地のない問題です。先覚者たちがこれを主張して我々国民の蒙を啓かれるのを聴く我々は、最も識別しやすいこの問題について、正当な批判を下し、これを更に我々自身の要求として国家に提出するのが至当だと思います。
しかし私たち婦人の立場から考えて、なお最も大切な条件が一つ残っています。現に我国の先覚者たちに依って唱えられている普通選挙には、国民全体という中に私たち婦人の存在を無視しています。民主主義は男子ばかりの生活に適用されるものと限りません。文化生活に対する平等の権利は婦人にも分配されるべきものだと思います。否、それは婦人においても男子と同じく固より享得している権利です。唯だ私たちはその権利の回復を要求すれば好いのだと思います。
民主主義の世界には男尊女卑主義の道徳は許されません。国民としての存在に男子と婦人との優劣を認める時代は過ぎ去りました。国家に奉仕する義務の負担者として、愛国者として、創造能力を保有する個人として、婦人の分担する所は男子と全く平等の位地にあります。
普通選挙といえば、当然そのうちに男女の参政権が含まれているものと私は考えたいのです。この権利の要求から婦人を除外することは、婦人を非国民扱いにし、低能扱いにするものだと思います。決して徹底した普通選挙とはいわれません。もし男子のみに限られた普通選挙が実施されるとすれば、選挙有権者は──二十五歳以上の男子として──千二百八十三万九千六十二人を数え、現在の有権者数に比べると非常に増加するに違いありませんが、これに二十五歳以上の婦人を加えることが出来たら、男女合せてほぼこれの倍数である弐千五百万を計上することになり、我国総人口の約四割、現在有権者数の約十七倍に当ります。そうなってこそ真実の意味で国民全体の政治ということも出来、私たち自身の政治ということも出来ると思います。
こういう自分の見地から、私は次の一文を、紀元節の日に青年会館で催された普通選挙同盟演説会の男子たちに寄せました。私は婦人も進んでこの運動に参加することは、かの基督教婦人の慈善運動や、少年禁酒運動や、廃娼運動以上に緊急の必要を持っていると考えるのです。それらの運動の如きも、一旦婦人参政権の回復を遂行さえすれば、それに依って今よりも幾倍か容易に実現され得べき運動であるからです。私は聡明と沈着とを備えられた婦人たちが、この普通選挙運動について、各自の意見と態度とを速かに一定して頂きたいと思います。
「私たち日本の婦人が治安警察法に依って禁錮状態にある限り、今日のような政治的の集会に対し、私は、私の魂のみを文章に托して送る外はありません。
皆さん、この事が──即ちこの会合へ私という一人の日本人が、その女性であるという条件だけで、出席することを他律的に禁じられているという事が──今日ここに普通選挙を要求せずにいられない一つの最大理由ではないでしょうか。
皆さんは納税資格に依る選挙権の制限を不法と認めておいでになります。それには何人も異論がありません。しかし今日、それのみの撤廃を要求する普通選挙は不徹底です。自由と平等とを重ぜられる聡明な皆さんに私は熱望します。一挙して男女の性別に依る選挙権の制限をも撤廃して頂くことを。即ち私たち婦人の政治的権利の喪失をも回復して頂くことを。
もし婦人参政尚早論を唱えてこれに反対する人々があるなら、納税資格者以外の一般男子を非愛国者の如くに見て普通選挙尚早論を唱える人々と、その不徹底論者たることにおいて大差はないと思います。
「満二十五歳以上の日本人は男女の別なく一斉に選挙権を享有すること」、私の要求する普通選挙はこれです。婦人の参政権を除外した普通選挙は、政治を以て全日本人の政治たらしめようとする──愛と理性に富んだ──真の民主主義者をして満足せしめません。
私は皆さんの徹底した御努力を、特に日本婦人の現在の立場から祈ります」(一九一九年二月)
底本:「与謝野晶子評論集」岩波文庫、岩波書店
1985(昭和60)年8月16日初版発行
1994(平成6年)年6月6日10刷発行
底本の親本:「激動の中を行く」アルス
1919(大正8)年8月初版発行
初出:「婦人公論」
1919(大正8)年3月
入力:Nana ohbe
校正:門田裕志
2002年5月14日作成
2012年9月16日修正
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