婦人と思想
与謝野晶子
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行うということ働くということは器械的である。従属的である。それ自身に価値を有っていない事である。神経の下等中枢で用の足る事である。わたしは人において最も貴いものは想うこと考えることであると信じている。想うことは最も自由であり、また最も楽しい事である。また最も賢く優れた事である。想うという能力に由って人は理解もし、設計もし、創造もし、批判もし、反省もし、統一もする。想うて行えばこそ初めて行うこと働くことに意義や価値が生ずるのである。人が動物や器械と異る点はこの想うことの能力を有っているからである。また文明人と野蛮人との区別もこの能力の発達不発達に比例すると思う。
なぜわたしがかような解り切った事を書き出したかというと、日本人にはまだ考えるということが甚しく欠けている。特に日本婦人にはその欠点が著しく感ぜられる。わたしはそれを警告して自他の反省資料としたいのである。例えば現今の男子は皆金銭を欲して物質的の利を得ることに努力している。それがために沢山の営利事業が起り、幾多の資本家を富ましめ、多数の労働者が働いてはいるが、さて何故に金銭を要するかという根本問題について考えている人は極めて少いのである。唯盲目的に金銭の前に手足を動かしているに過ぎない。従って今の富といい経済というものは人生の最も有用なる目的のために運用せられずに、皮相的、虚飾的、有害的な方面に蓄積し交換せられる結果となり、これを蓄積し交換する手段方法においても、罪悪と不良行為とを敢てして愧じず、いわゆる経済学とか社会学とか商業道徳とかいう事は講壇の空文たるに留って毫も実際生活に行われていないのである。
また日露の大戦争において敵味方とも多くの生霊と財力とを失ったという如き目前の大事実についても、日本の男子は唯その勝利を見て、かの戦争に如何なる意義があったか、如何なる効果をかの戦争の犠牲に由って持ち来したか、戦争の名は如何様に美くしかったにせよ、真実をいえば世界の文明の中心理想に縁遠い野蛮性の発揮ではなかったか、というような細心の反省と批判とを徐ろに考える人は少いのである。専制時代、神権万能時代にあっては、我我は少数の先覚者や権力者に屈従し、その命令のままに器械の如く働けばよかったのであるが、思想言論の自由を許されたる今日に、各個の人が自己の権利を正当に使用しないのは文明人の心掛に背いたことである。
考えるという事を働くという事よりも卑しい事とし、または協立しがたき事のように思い、甚しきは有害なりとして排斥しようとする風は、今の官憲にも教育者にも父兄の間にも行われている。「広く智識を世界に求め云云」と仰せられた維新の御誓文を拝したる以後の国民は、何よりも思想を重んずべきはずであるのに、今なおそのような蛮風の遺っているのは困ったものである。近頃聞く所に由ると、社会主義者の中に或る大逆罪の犯人を発見するに及んで、政府の高官らは慌てて欧洲の書籍を研究し、初めて社会主義と無政府主義との区別を知ったという事である。また一冊の新刊小説をも読むことなくして現代文学を排斥する官憲や教育家の多いことは現に見受ける所である。また山形県酒田の富豪本間氏がその子弟の教育を小学程度に止めてそれ以上を学ばしめざるのみか、氏一家の反対に由って今なお中学の設置を酒田町に見ざる類の、非文明的な父兄も各地に多いのである。わたしはそういう保守頑冥な階級に対しては唯困ったものだと思うのみで最早どうしようという見込も考もないが、願くば新しい思想を尊び新しい活動を実現しようとする進歩主義の人人の驥尾に従い、胸の鼓動をそれらの人人の調子と一つに揃えて意義ある自分の生活を続けたいと思っている。
わたしはいろんな事を考える。それを文学的に述作することもあり、また手足の労働に実現することもある。また単に感想として他人に聞いてもらうこともある。また考えただけで直ぐにも永久にも実現することの出来ない感想もあって、人には知れない事であるが、そういう感想は手近く実現し得る感想よりも自分にはかえって興味が深い場合もある。とにかく考えること想うことはそれ自身に自足飽満の悦びがある。他人に発表せずとも十分に目的を果し得るものである。冥想とか静思とかの楽みを知っている人の一生は非常に幸福だと思う。またちょっとした事でも真面目に考える習慣を作ると感情的にのみ行動する事がなくなり、理智の眼が開いて、反省し、批判し、理解する力が鋭敏になり、それを拡充すれば自己の思想、感情、行為に統一が出来て、破綻が減って行く。自己を理解すれば他人の思想をも理解が出来て、其処に正しい譲歩が双方の非を抛つことに由って成り立つ。そうして自己を提げて社会に順応し活動するに必要な自然の規律が完成されて行く。即ち考えるという事は保守主義者の憂惧する所と反対の結果を来して甚しく倫理的な人格が出来上るのである。
わたしはこういう自信の上から一般の婦人に思想という事を奨めたい。我ら婦人は久しく考えるという能力を抛棄していた。頭脳のない手足ばかり口ばかりの女であった。手足の労働においては都会の婦人の一部を除く外、今日もなお男子を凌いで重い苦しい負担を果している。山へ行っても、海岸へ行っても、市街の各工場を覗いても、最も低額な報酬を受けつつ最も苦痛の多い労役に服しているのは婦人である。それにかかわらず男子より軽侮せられ従属者を以て冷遇されているのは、唯手足のみを器械的に働かして頭脳を働かさないからである。そういう下層の労役に服している婦人は姑く措くとするも、明治の教育を受けたという中流婦人の多数がやはり首なし女である。何らの思想をも持たないのである。
身体の装飾、煮物の加減、裁縫手芸、良人の選択、これらは山出しの女中もまた思う事であり、また能くする所である。良人の機嫌を取るという事も、現在の程度では狭斜の女の嬌態を学ぼうとして及ばざる位のものである。男子が教育ある婦人を目して心私かに高等下女の観をなすのは甚しく不当の評価でない。一般男子の思想に比すれば婦人は何事をも考えていない、何らの立派な感想をも持っていないといってよいのである。
近年婦人解放という問題が出ている。しかしそれは婦人自身が言い出したのでなく、物好きな一部の男子側、議論ばかりで実際にその妻女を解放しそうにない男子側から出た問題である。婦人にも少しは人並の量見を持たせてやってもよいという、特に男子側から御慈悲を掛けて御世辞半分に言い出された問題である。そうしてこの問題は格別婦人側の注意を惹かなかった。近頃はまたこの問題の反動として、多数の男子側から女子実用問題が唱えられて来た。即ち女子に高等教育は不必要だ、手芸教育が必要だ、女子は柔順に教育しなければならぬというのである。女子に高等教育を授ける弊害としては、折から英国に勢力を得て来た女子参政権運動を例に引いている。女子は永久に男子に隷属すべきものだ、解放などは以ての外だという権幕である。例の保守的思想が時を得顔に跋扈するのであるからかような議論は毫も驚くに足らないわけであるが、そういう男子が自分らだけは昔から自由を享得していたような態度であるから滑稽である。日本の男子は維新の御誓文と憲法発布とに由って初めて人並に解放せられたのではないか。自分らの解放せられた喜びを忘れて婦人の解放を押え、剰え昔の五障三従や七去説の縄目よりも更に苛酷な百種の勿れ主義を以て取締ろうというのは笑うべき事である。しかしかような目前の問題に対しても我国の中流婦人は何事をも知らないのである。
男子側から如何に多くの婦人問題を出されても、婦人自身に目を覚さねばこの問題の正しい解決は著かないであろう。いやしくも在来の如き高等下女の位地に甘んぜざる限り、中流婦人が率先して自己の目を覚し、自己を改造して婦人問題の解決者たる新資格を作らねばならぬ。それには何よりも先ず想う婦人、考える婦人、頭脳の婦人となり、兼ねて働く婦人、行う婦人、手の婦人となることが急務である。「我は何者であるか。」「我は人である。男女の性の区別はあっても、人としての価値は対等である。」「我は人間を本位として万物を見ると共に、また万物乃至生物の一として我を見ることが出来る。」「我は世界人の一人であると共に、日本人の一人である。」「我は何の目的にて生れたるかを知らず。宇宙の目的の不可知なる如くに。」「我には生きたいという欲がある。」「なるべく完全に豊富に生きたいという欲がある。」「人は孤独にて生きることは出来ない。協同生活が必要である。」「男女は協同生活の基点である。此処に夫婦が成り立つ。次いで父母子弟乃至社会。」「社会があれば当然社会の協同生活を円滑にするために治者被治者の組織が生ずる。また社会の基点たる個人の天分と教育とに由って智識、感情、意志の差と職業の別とを生ずる」「個人としても社会人としても人はあらゆる幸福を享得せねばならぬ。幸福の最上なるものは個性を発揮して我が可能を尽すと共に、互に他の個性を理解し合い鑑賞し合うことである。」かようなる問題は古往今来の大問題であって容易に解決しがたい事ではあるが、今日世界の文明人は皆この問題に触れて、或者は懐疑に陥り、或者は解決の曙光を認めたといっている。これは冷たい学究の哲学問題ではなくて、御互自身の上に切実な根本問題である。
こういう問題は遽かに解決を得なくてもよい。婦人の頭脳がかかる根本問題に注意し、折に触れて識者に質し、父母、良人、兄弟、友人とこれについて研究し合うという程度に達すれば、自然読書の習慣も生じ、智識も聡明となり、感情も豊潤を増し、在来の婦人の悪習たる猜疑嫉妬の小感情や、低い物欲や、虚飾に浮身をやつす心も一洗せられ、良人の機嫌を取ったり台所の用事にかまけたりして貴重なる一生を空費するような事がなくなり、初めて文明男子の伴侶として対等なる文明婦人の資格を作ることが出来ようと思う。そうして男子より軽侮せらるる事なく互に尊敬し合う位地に上ったならば、諸種の婦人問題は自然に解決が附くであろうと思う。
男子側の保守主義者は英国婦人の参政権問題の運動を伝聞して婦人の覚醒を怖れるようであるが、我国の婦人にはまだ容易にそういう突飛な運動は起らないであろう。なぜならば我国の青年には男子にさえ政治熱は皆無なのであるから、凡ての学芸すべての社会問題に冷淡なる日本の女子が一躍そういう極端な新運動を試みようとは想われない。またそういう女壮士の殺風景な政治運動は故中島俊子女史の娘時代や近年の故奥村五百子刀自の実例に見て、さまでなつかしい性質のものでないことは明瞭であるから、今後幾年かの後に我国の婦人が覚醒するとしても、政治には向わないで、学問、芸術、教育などの方面に向って男子と競争の態度を取るであろうと想われる。殊に文学において日本婦人は侮りがたい技倆を古代においてしばしば実現しているから相当の自信を持ってよかろうと思う。
わたしが此処に想うこと考うることを奨めたのは、決して行うこと働くことを斥けよというのではない。漫然と手のみを働かすよりは、頭脳を働かしてその順序立った思想の方針に由って手を働かしたならば、無意義の労働を省いて益々有効に労働する事も出来、これまで手足の労働にのみ使用した時間を割いて、もっと幸福な生活──精神生活をも営み得ると思うのである。トルストイは「自己を改善するという事が人生の最も優れた行為だ」といった。我我日本婦人は特に急いで自己を賢くし、鋭敏にし、溌溂たる「一人」にする事が必要である。
あながち前に挙げたような宇宙人生の根本問題について最初から考えるに及ばない。とにかく何彼につけて疑問を出し理智を磨く習慣を作るのがよい。仏教で「智慧の光明」という事を説く。婦人に全く欠けているのは自己の無明闇夜を照す智慧の光明である。理智を磨くには数学とか、進化論とか、動植物学とか、心理学とか、法律学経済学とかの書物を読む習慣を作るのもよい。読書をすれば自然心の天地が広くなって愚痴を破り、情念が高尚になって卑近な物質欲などで煩悩の火を焚く事も減じて行き、日常の談話も上品になり、美貌ならぬ婦人も自然その風采が美くしくなるものである。天照大神を礼拝する国の婦人は凡てに卑屈なる旧習を脱し、我より文明婦人の範を示すほどの自負が欲しいと思う。
底本:「与謝野晶子評論集」岩波文庫、岩波書店
1985(昭和60)年8月16日初版発行
1994(平成6年)年6月6日10刷発行
底本の親本:「一隅より」金尾文淵堂
1911(明治44)年7月初版発行
初出:「太陽」
1911(明治44)年1月
入力:Nana ohbe
校正:門田裕志
2002年1月10日公開
2012年9月14日修正
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