畫家とセリセリス
南部修太郎



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 それがくせのいつものふとした出來心できごころで、銀座ぎんざ散歩さんぽみちすがら、畫家ぐわかをつとはペルシア更紗さらさ壁掛かべかけつてた。が、うちもんをはひらないまへに、かれはからつぽになつた財布さいふなかつま視線しせんおもうかべながら、その出來心できごころすこ後悔こうくわいしかけてゐた。始終しじふ支拂しはらひにらずちな月末つきずゑまでにもう十とないあき夕方ゆふがただつた。

「あら、またこんなものつてらしたの?」

 さすがにかくしきれもせずに、をつとがてれくさ顏附かほつきでその壁掛かべかけつつみをほどくと、あんでうつま非難ひなんけながらさうつた。

「うん、ちかうちかる裸體らたいのバツクに使つかつもりなんだよ」

「まア。うまい言譯いひわけをおつしやるのね」

 と、つま口元くちもとうすわらひをうかべた。

「いや、ほんとだよ」

「ふふふ、あやしいもんだわ。始終しじふそんな道具立だうぐだてばかりなすたつて、お仕事しごとはうはちつともはこばないぢやないの」

「そんなことはない。今度こんどはきつとする。展覽會てんらんくわいはう約束やくそくもあるんだから‥‥」

「どうだか、またいつもの豫定よていだけなんでせう」

 つま微笑びせうをつづけながらつたが、そこで不意ふい眞顏まがほになると、

「だけど、あなたは、ほんとにお氣樂きらくね」

なにが?」

なにがつて、もうすこうちのことや子供こどものことをかんがへてくだすつたつていいとおもふわ」

かんがへてないとおもつてるのか、きみは?」

 と、をつとすこ顏色かほいろをあらためた。

「だつて、かんがへていらつしやらないも同然どうぜんだわ。今日けふはもう二十日はつかぎよ。それに、こないだから、子供こども洋服やうふくくつをあんなにつてやりたいつてつてたぢやないの?」

「それがどうしたとふんだい?」

 をつとはふてくされた氣持きもちかへした。

「まア、そらとぼけるなんて卑怯ひけふだわ。そ、そんな贅澤ぜいたく壁掛かべかけなんかをまぐれにおひになる餘裕よゆうがあるんならつてふのよ」

「だからつてるぢやないか。仕事しごと使つかふんだつて‥‥」

うそウ、あなたのいつものくせにきまつてるわ。ねエ、子供こども洋服やうふくくつ必要品ひつやうひんよ。それに、月末つきずゑだつてもうちかいんだし、なにもそんなあつてもなくつてもいい壁掛かべかけなんかをいまひになることないぢやありませんか」

わからないなア、仕事しごと使つかふんだつて‥‥」

「よして頂戴ちやうだい、そんな口上こうじやうは‥‥」

 と、つまつよをつとことばさへぎりながら、まへ更紗さらさ模樣もやう侮蔑的ぶべつてき視線しせんげた。

「とにかく、あなたが始終しじふこんなまぐれな贅澤ぜいたくばかりなさるから、月末つきずゑはらひがりなかつたり、子供こどものまはりをちやんとしてやれないのよ。かんがへても御覽ごらんなさい、夏繪なつゑ來年らいねんもう學校がくかうよ。しばらくはまだいいけれど、さうなつてからいまのやうなのはあたしまつぴらだわ。だい一、こんなくらかたをしてゐて、さきさきどうなるかとおもふと不安ふあんぢやなくつて?」

 ひながら、つまはまともにをつとかほた。

 をつとおもはずをそらした。すつかり弱味よわみかれたかんじで内心ないしんまゐつた。が、そこでつま非難ひなんをすなほにけとるためにはをつと氣質きしつはあまりに我儘わがままで、をしみがつよかつた。それに自分じぶんでも可成かな後悔こうくわいしかけてゐる矢先やさきだつたのが、反撥的はんぱつてきに、をつと氣持きもちあまのじやくにした。

「ふん、それでまた貯金ちよきんでもしたいつていふれい口癖くちぐせだらう?」

「だつて、さうでもしなかつたら‥‥」

「よせ、よせ。ぼくはそんな貯金ちよきんなんて、けちくさい、打算的ださんてきなやりかた大嫌だいきらひだ。なアに、そのときはまたそのときでどうにかなる。いや、きつと、どうにかするよ」

「だけど、あなたのそのどうにかするつていふことほど、いつもてにならないのはないぢやありませんか」

しかし、おたがひ日干ひぼしにもならないところると、たしかにどうにかなつてきつつあるぢやないか」

「あア、あなたにはとてもかなはない」

 つまはふつとわらした。

なにしろなんだ、そんな世帶しよたいみたことふなアよしてくれ。いただけでもくさくさするよ」

 と、をつと調子てうしりながら、

貧乏びんばふ畫家ぐわかつまとして三年間ねんかんで三百ゑんめたあたしの經驗けいけんか?」

や、や、そんなに茶化ちやくわしておしまひになるの‥‥」

 つまはちよつとをつとにらむやうにしながら、

「ほんとにあたし眞劍しんけんつてるのよ。おねがひですから、子供こどもにだけは、子供こどもにだけはみじめなおもひをさせないやうにね」

わかつた、わかつた」

 不意ふいにうるんだつまひとみ刹那せつな意識いしきしながら、をつとはわざとげつけるやうにつた。なにおもいものがむねた。そして、をつと壁掛かべかけると、いそあしにアトリエのはうつてつた。


         2


 二三にちつたれただつた。あさ半日はんにちをアトリエにこもつたをつとには二人ふたり子供こども快活くわいくわつ笑聲わらひごゑててゐた長女ちやうぢよ夏繪なつゑと四つになる長男ちやうなん敏樹としきと、子供こどもきのをつと氣持きもちよく仕事しごとはこんだあとでひどく上機嫌じやうきげんだつた。

「さあ、夏繪なつゑ今度こんどはうまくるんだぞ。そら、ワン、ツウ、スリイ‥‥」

 と、をつとは四五けんむかうにつてゐる子供こどもはういろどりしたゴムまりげた。が、夏繪なつゑ息込いきごんでゐたのがまたもりそこねて、まり色彩しきさいをどらしながらうしろの樹蔭こかげへころがつてつた。

駄目だめよ、パパア。そんなにひどくはふつちやア‥‥」

 と、夏繪なつゑこんのスカアトをひるがへしながらまりつた。

「そオら、今度こんど敏樹としきはふつて御覽ごらん‥‥」

「うん‥‥」

 とこたへて、茶色ちやいろのスエエタアをた、まるまるふとつたからだをよちよちさせながら、敏樹としきべつちひさなまりげた。が、見當けんたうはづれて、それはをつとよこへそれてしまつた。

「やアい、パパだつて下手へただわ」

 途端とたんに、夏繪なつゑたたきながら、復讐的ふくしふてき野次やじてた。

 わざと大袈裟おほげさあたまをかきながら、をつとまりつた。そして、にはの一すみ呉竹くれたけ根元ねもとにころがつてゐるそれをひろげようとした刹那せつな、一ぴきはち翅音はおとにはつとをすくめた。見返みかへると、くろ黄色きいろしまのある大柄おほがらはちで、一たかあがつたのがまたたけ根元ねもとりてた。と、地面ぢべたから一しやくほどのたかさのたけかはあひだ蜘蛛くも死骸しがいはさんである。はちはそれにとまつてしばらをつと氣配けはいうかゞつてゐるらしかつたが、それが身動みうごきもしないのをると、死骸しがいはなれてすぐちかくの地面ぢべたりた。そして、しばらくあたりをあるきまはつてゐたが、ちよつとしたつちくぼみにぶつかると、くちばし前脚まへあしあなした。

(セリセリスだな。)

 いつかんだアンリ、フアブルの「昆蟲記こんちうき」をおもうかべながら、をつと好奇かうきひとみらした。そして、ばたばた近寄ちかよつて夏繪なつゑ敏樹としきしづかにさせながら、二人ふたり兩方りやうはうからいだきよせたままはち動作どうさながめつゞけてゐた。

 はちえず三にん存在そんざい警戒けいかいしながらも、一しんに、敏活びんくわつはたらいた。あたまつち突進とつしんする。あしさかんつちをはねのける。それはしづかしたあかるいあき日差ひざしなかなみだあつくなるやうな努力どりよくえた。そして、一りんりんと、あなちひさなはちからだかくすほどにだんだんふかられてつた。

「パパ。あのはちなにしてるの」

 と、いきらしてゐた夏繪なつゑひくたづねかけた。

「うん、いまあのあななか子供こどもみつけるんだよ。」

 と、をつとなにむねつものをかんじながら小聲こごゑこたへた。

 まつたくわきらないやうなはち動作どうさへん嚴肅げんしゆくにさへえた。そして、またたきもせずに見詰みつめてゐるうちに、をつとはその一しんさになに嫉妬しつとたやうなものをかんじた。すぐをつとそばから松葉まつばひろげてあななかをつついた。と、はちはあわててあなからたが、たちま松葉まつばむかつて威嚇的ゐかくてき素振そぶりせた。

「あら、はちおこつてよ」

 と、夏繪なつゑおそれるやうにささやいてをつとおさへた。

 が、惡戯いたづら氣分きぶんになつて、をつとかなかつた。そして、なほもはちからだにつつきかかると、すぐくちばし松葉まつばみついた。不思議ふしぎにあたりがしづかだつた。が、やがて不意ふい松葉まつばからはなれるとはちはぶんとあがつた。三にんははつとどよめいた。けれども、はち大事だいじ犧牲ぎせい蜘蛛くも死骸しがい警戒けいかいしにつたのだつた。で、その存在そんざいをたしかめると、安心あんしんしたやうにまたすぐあなところりてた。

「パパ、またあなるよ」

 と、しやがんでひざにぢつと兩手りやうてをついたまま、敏樹としきなにおそれるやうなこゑささやいた。

 あなはもうほとんはちからだのすべてをかくすやうなふかさになつてゐた。が、はちはまだそのはげしい勞働らうどうやすめなかつた。そして、そのあひだにもえず三にん樣子やうす警戒けいかいし、なほも二三蜘蛛くも死骸しがい存在そんざいをたしかめにつた。

本能ほんのう、これがただ本能ほんのうだけで出來できることから?)

 その眞劍しんけんさにたれて、をつとはそんなことかんがへつづけながら、ぢつとひとみらしてゐた。

 からだあななかにすつかりえなくなるほどのふかさになると、はちはやがてほつとしたやうにそとへた。そして、なほも警戒けいかいするやうにねんれるやうにあなのまはりをあるきまはつてゐたが、やがてひよいとあがると、蜘蛛くも死骸しがいをくはへてふたたあなところひもどつてた。

「まア、あの蜘蛛くもどうしたの? んぢやつてるのね?」

「うん、はちころされたんだよ。そして、あれがはち子供こども御飯ごはんになるんだよ」

御飯ごはんに?」

「うん、だからてて御覽ごらんいまにあのあななかへちやんとおしまひするから‥‥」

蜘蛛くもなんておいしくないね、パパ‥‥」

 敏樹としきうはずつたこゑはさんだ。

「でも、はち子供こどもには御馳走ごちさうなんだよ」

 あなの二三ずん手前てまへりたはちは、やがてあたま前脚まへあし蜘蛛くも死骸しがいあなふかみへしてつた。そして、それをれきつてしまふと、はち今度こんどぎやくにあとずさりしながら、自分じぶんしりはうあななかんだ。と同時どうじに、あなのそとにあたま前半身ぜんはんしん不思議ふしぎ顫動せんどうおこしはじめた。

「まア、をかしい、なにしてるの?」

 と、夏繪なつゑ頓狂とんきやうこゑてた。

「しつ、あななかたまごみつけてゐるんだよ。そしてね、來年らいねんはるになつてたまごがかへると蜘蛛くもはち子供こども御飯ごはんになるのさ」

 と、はなかせてゐるうちに、をつとあたまなかには二三にちまへつまとの對話たいわ不意ふいおもうかんでた。をつとわれらず苦笑くせうした。はち眞劍しんけんさが、その子供こどもたいする用意周到よういしうたうさがなに皮肉ひにくむねびかけてゐるやうな氣持きもちだつた。

 不思議ふしぎ顫動せんどうなに必死的ひつしてきかんじで二三分間ぷんかんつづくと、はちはやがてあなのそとへた。そして、ちよつといきれたやうな樣子やうすをすると、今度こんどはまたあたま前脚まへあしさかんうごかしながらかへしたつちあなした。しかも、幼蟲えうちう出易でやすくするためであらう、はちあきらかにこまかいつち選擇せんたくけてゐるらしかつた。さうしてあながすつかりめられてしまふと、はちしばらあなのまはりをあるきまはつてゐたが、やがてぷうんと翅音はおとてながら、黒黄斑くろきまだら弧線こせん清澄せいちようあき空間くうかんゑがきつつどこともなくつてつた。

「はつはつは、パパは馬鹿ばかだな、ほんとにパパは馬鹿ばかだな」

 と、あがりざま、をつとたか笑聲わらひごゑとともに不意ふい無意識むいしきにそんなことつぶやいた。そして、兩方りやうはう夏繪なつゑ敏樹としき自分じぶんからだはうめるやうにしながら、にはあひだをアトリエのはうあるした。

底本:「新進傑作小説全集14 南部修太郎集・石濱金作集」平凡社

   1930(昭和5)年210日発行

入力:小林徹

校正:伊藤時也

2000年87日公開

2006年110日修正

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