湯島の境内
泉鏡花
|
湯島の境内 (婦系図─戯曲─一齣)
〽冴返る春の寒さに降る雨も、暮れていつしか雪となり、
仮声使、両名、登場。
〽上野の鐘の音も氷る細き流れの幾曲、すえは田川に入谷村、
その仮声使、料理屋の門に立ち随意に仮色を使って帰る。
〽廓へ近き畦道も、右か左か白妙に、
この間に早瀬主税、お蔦とともに仮色使と行逢いつつ、登場。
〽往来のなきを幸に、人目を忍び彳みて、
仮色使の退場する時、早瀬お蔦と立留る。
お蔦 貴方……貴方。
早瀬 ああ。(と驚いたように返事する。)
お蔦 いい、月だわね。
早瀬 そうかい。
お蔦 御覧なさいな、この景色を。
早瀬 ああ、成程。
お蔦 可厭だ、はじめて気が付いたように、貴方、どうかしているんだわ。
早瀬 どうかもしていようよ。月は晴れても心は暗闇だ。
お蔦 ええ、そりゃ、世間も暗闇でも構いませんわ。どうせ日蔭の身体ですもの。……
早瀬 お蔦。(とあらたまる。)
お蔦 あい。
早瀬 済まないな、今更ながら。
お蔦 水臭い、貴方は。……初手から覚悟じゃありませんか、ねえ。内証だって夫婦ですもの。私、苦労が楽みよ。月も雪もありゃしません。(四辺を眗す)ちょいとお花見をして行きましょうよ。……誰も居ない。腰を掛けて、よ。(と肩に軽く手を掛ける。)
〽慥にここと見覚えの門の扉に立寄れば、(早瀬、引かれてあとずさりに、一脚のベンチに憩う。)
お蔦 (並んで掛けて、嬉しそうに膝に手を置く)感心でしょう。私も素人になったわね。
〽風に鳴子の音高く、
時に、ようようと蔭にて二三人、ハタハタと拍手の音。
お蔦 (肩を離す)でも不思議じゃありませんか。
早瀬 何、月夜がかい。
お蔦 まあ、いくら二人が内証だって、世帯を持てば、雨が漏っても月が射すわ。月夜に不思議はないけれど、こうして一所におまいりに来た事なのよ。
早瀬 そうさな、不思議と云えば不思議だよ、世の中の事は分らないものだからな。
お蔦 急に雪でも降らなけりゃ可い。
早瀬 (懸念して)え、なぜだ。
お蔦 だって、ついぞ一所に連れて出てくれた事が無かったじゃありませんか。珍しいんだもの。
早瀬 …………
お蔦 ねえ、貴方、私やっぱり、亡くなった親の情が貴方に乗憑ったんだろうとそう思いますわ。……こうして月夜になったけれど、今日お午過ぎには暗く曇って、おつけ晴れて出られない身体にはちょうど可い空合いでしたから、貴方の留守に、お母さんのお墓まいりをしたんですよ。……飯田町へ行ってから、はじめてなんですもの。身がかたまって、生命がけの願が叶って、容子の可い男を持った、お蔦はあやかりものだって、そう云ってね、お母さんがお墓の中から、貴方によろしく申しましたよ。邪険なようで、可愛がって、ほうり放しで、行届いて。
早瀬 お蔦。
お蔦 でも、偶には一所に連れて出て下さいまし。夫婦になると気抜がして、意地も張もなくなって、ただ附着いていたがって、困った田舎嫁でございます。江戸は本郷も珍しくって見物がしたくってなりません。──そうお母さんがことづけをしたわ。……何だかこの二三日、鬱込んでいらっしゃるから、貴方の氏神様もおんなじ、天神様へおまいりをなさいまし、私も一所にッて、とても不可ないと思って強請ったら、こうして連れて来てくれたんですもの。草葉の蔭でもどんなに喜んでいるか知れませんよ。
早瀬 堪忍しな。嘘にも誉められたり、嬉しがられたりしたのは、私は昨日、一昨日までだ、と思っているんだ。(嘆息す。)
お蔦 何だねえ、気の弱い。掏賊の手伝いをしたッて、新聞に出されて、……自分でお役所を辞職した事なんでしょう。私が云うと、月給が取れなくなったのを気にするようで口惜しいから、何にも口へは出さなかったけれど、貴方、この間から鬱いでいるのはその事でしょう。可いじゃありませんか。蹈んだり蹴たりされるのを見ちゃ、掏賊だって助けまいものでもない、そこが男よ。ええ、私だって柳橋に居りゃ助けるわ。それが悪けりゃ世間様、勝手になさいな。またお役所の事なんか、お墓のお母さんもそう云いました。蔦がどんな苦労でも楽みにしますから、お世帯向は決して御心配なさいますなって、……云ってましたよ。
早瀬 難有い、俺ら嬉しいぜ。
お蔦 女房に礼を云う人がありますか。ほんとうにどうかしているんだよ。
早瀬 馬鹿な。お前のお母さんに礼を云うのよ。しかし世帯の事なんか、ちっとも心配しているんじゃない。
お蔦 じゃ何を鬱ぐんですよ。
早瀬 何という事はない、が、月を見な、時々雲も懸るだろう。星ほどにも無い人間だ。ふっと暗闇にもなろうじゃないか。……いや、家内安全の祈祷は身勝手、御不沙汰の御機嫌うかがいにおまいりしながら、愚痴を云ってちゃ境内で相済まない。……さあ、そろそろ帰ろう。(立ちかける。)
お蔦 (引添いつつ)ああ、ちょっと、待って下さいな。
早瀬 何だ。
お蔦 あの、私は巳年で、かねて、弁天様が信心なんです。……ここまで来て御不沙汰をしては気が済まないから、石段の下までも行って拝んで来たいんですから、貴方、ちょっとの間よ、待っていて下さいな。
早瀬 ああ、行くが可い、ついで、と云っては失礼だが、お前不忍まで行ってはどうだ。一所に行こうよ。
お蔦 まあ、珍しい。貴方の方で一所なんて、不思議だわね。(顔を見る)でも、悪い方へ不思議なんじゃないから私は嬉しい。ですがね、弁天様は一所は悪いの。それだしね、私貴方に内証々々で、ちょっと買って来たいものがありますから。
早瀬 お心まかせになさるが可い。
お蔦 いやに優しいわね。よしましょうか、私、……よそうかしら。
早瀬 なぜ、他の事とは違う、信心ごとを止しちゃ不可ない。
お蔦 でも、貴方が寂しそうだもの。何だか災難でもかかるんじゃないかと思って、私気になって仕ようが無い。
早瀬 詰らん事を。災難なんか張倒す。
お蔦 おお、出来した、宿のおまえさん。
早瀬 お茶屋じゃない。場所がらを知らないかい。
お蔦 嬉しい、久しぶりで叱られた。だけれど、声に力がないねえ。(とまた案ずる。)
早瀬 早く行って来ないかよ。
お蔦 あいよ。そうそう、鬱陶しいからって、貴方が脱いだ外套をここに置きますよ。夜露がかかる、着た方が可いわ。
〽気転きかして奥と口。
お蔦 (拍手うつ。)
天神様、天神様。
早瀬 何だ、ぶしつけな。
お蔦 (それには答えず)やどをお頼み申上げます。
早瀬 (ほろりと泣く。)
お蔦 (行きかけつつ)貴方、見ていて下さいな、石段を下りるまで、私一人じゃ可恐いんですもの。
早瀬 それ見ろ、弱虫。人の事を云う癖に。何だ、下谷上野の一人あるきが出来ない娘じゃないじゃないか。
お蔦 そりゃ褄を取ってりゃ、鬼が来ても可いけれども、今じゃ按摩も可恐いんだもの。
早瀬 可し、大きな目を開いて見ていてやる。大丈夫だ、早く行きなよ。
お蔦 あい。
〽互に心合鍵に、
早瀬見送る。──お蔦行く。──
…………………………
〽はれて逢われぬ恋仲に、人に心を奥の間より、しらせ嬉しく三千歳が、
このうたいっぱいに、お蔦急ぎあしに引返す。
早瀬、腕を拱きものおもいに沈む。
お蔦 (うしろより)貴方、今帰ってよ。兄さん。
早瀬 ああ。
お蔦 私は……こっちよ。
早瀬 おお早かったな。
お蔦 いいえ、お待遠さま。……私、何だか、案じられて気が急いて、貴方、ちょっと顔を見せて頂戴(背ける顔を目にして縋る)ああ(嬉しそうに)久しぶりで逢ったようよ。(さし覗く)どうしたの。やはり屈託そうな顔をして。──こうやって一所に来たのは嬉しいけれど、しつけない事して、──天神様のお傍はよし、ここを離れて途中でまた、魔がさすと不可ません。急いで電車で帰りましょう。
早瀬 お前、せいせい云って、ちと休むが可い。
お蔦 もう沢山。
早瀬 おまいりをして来たかい。
お蔦 ええ、仲町の角から、(軽く合掌す)手を合せて。
早瀬 何と云ってさ。
お蔦 まあ、そんな事。
早瀬 聞きたいんだよ。
お蔦 ええ、話すわ。貴方に御両親はありません、その御両親とも、お主とも思います。貴方の大事なお師匠さま、真砂町の先生、奥様、お二方を第一に、御機嫌よう、お達者なよう。そして、可愛いお嬢さんが、決して決して河野なんかと御縁組なさいませんよう。
早瀬 それから。
お蔦 それから?
早瀬 それから、……
お蔦 だって、あとは分ってるじゃありませんかね。ほほほほ。
早瀬 (ともに寂しく笑う)ははは、で、何を買って来たんだい、買いものは。
お蔦 (無邪気に莞爾々々しつつ)いいもの、……でも、お前さんには気に入らないもの、それでも、気に入らせないじゃおかないもの、嬉しいもの、憎いもの、ちょっと極りの悪いもの。
早瀬 何だよ、何だよ。
お蔦 ああ、悪かった。……坊やはお土産を待っていたんだよ。そんなら、何か買って上げりゃ可かった。……堪忍おしよ。いい児だねえ。
早瀬 可いから、何を買ったんだよ。
お蔦 見せましょうか、叱らない?
早瀬 …………
お蔦 叱ったって、もう買ったんだから構わない、(風呂敷より紙づつみを出す)髷形よ、円髷の。仲町に評判な内があるんですわ。
早瀬 髷形を、お蔦。(思わずそのつつみに手を掛く)俺の位牌でも買や可いのに。
お蔦 まあ、お位牌はちゃんと飾って、貴方のおふた親に、お気に入らないかも知れないけれど、私ゃ、私ばかりは嫁の気で、届かぬながら、朝晩おもりをしていますわ。
早瀬 樹から落ちた俺の身体だ。……優しい嫁の孝行で、はじめて戒名が出来たくらいだ。俺は勘当されたッて。……何をお前、両親がお前に不足があるものか。──位牌と云うのは俺の位牌だ。──
お蔦 ええ。
早瀬 お蔦、もう俺ゃ死んだ気になって、お前に話したい事がある。
お蔦 (聞くと斉しく慌しく両手にて両方の耳を蔽う。)
早瀬 ちょっと、もう一度掛けてくれ。
お蔦 (ものも言わず、頭をふる。)
早瀬 よ。(と胸に手を当て、おそうとして、火に触れたるがごとく、ツト手を引く)死ぬ気になって、と聞いたばかりで、動悸はどうだ、震えている。稲妻を浴びせたように……可哀相に……チョッいっそ二人で巡礼でも。……いやいや先生に誓った上は。──ええ、俺は困った。どうしよう。(倒るるがごとくベンチにうつむく。)
お蔦 (見て、優しく擦寄る)聞かして下さい、聞かして下さい、私ゃ心配で身体がすくむ。(と忙しく)早く聞かして下さいな。(と静に云う。)
早瀬 俺が死んだと思って聞けよ。
お蔦 可厭。(烈しく再び耳を圧う)何を聞くのか知らないけれど、貴下この二三日の様子じゃ、雷様より私は可恐いよ。
早瀬 (肩に手を置く)やあ、ほんとに、わなわな震えて。
お蔦 ええ、たとい弱くッて震えても、貴方の身替りに死ねとでも云うんなら、喜んで聞いてあげます。貴方が死んだつもりだなんて、私ゃ死ぬまで聞きませんよ。
早瀬 おお、お前も殺さん、俺も死なない、が聞いてくれ。
お蔦 そんなら、……でも、可恐いから、目を瞑いで。
早瀬 お蔦。
お蔦 …………
早瀬 俺とこれッきり別れるんだ。
お蔦 ええ。
早瀬 思切って別れてくれ。
お蔦 早瀬さん。
早瀬 …………
お蔦 串戯じゃ、──貴方、なさそうねえ。
早瀬 洒落や串戯で、こ、こんな事が。俺は夢になれと思っている。
〽跡には二人さし合も、涙拭うて三千歳が、恨めしそうに顔を見て、
お蔦 ほんとうなのねえ。
早瀬 俺があやまる、頭を下げるよ。
お蔦 切れるの別れるのッて、そんな事は、芸者の時に云うものよ。……私にゃ死ねと云って下さい。蔦には枯れろ、とおっしゃいましな。
ツンとしてそがいになる。
早瀬 お蔦、お蔦、俺は決して薄情じゃない。
お蔦 ええ、薄情とは思いません。
早瀬 誓ってお前を厭きはしない。
お蔦 ええ、厭かれて堪るもんですか。
早瀬 こっちを向いて、まあ、聞きなよ。他に何も鬱ぐ事はない、この二三日、顔を色を怪まれる、屈託はこの事だ。今も言おう、この時言おう、口へ出そうと思っても、朝、目を覚せば俺より前に、台所でおかかを掻く音、夜寝る時は俺よりあとに、あかりの下で針仕事。心配そうに煙管を支いて、考えると見ればお菜の献立、味噌漉で豆腐を買う後姿を見るにつけ、位牌の前へお茶湯して、合せる手を見るにつけ、咽喉を切っても、胸を裂いても、唇を破っても、分れてくれとは言えなかった。先刻も先刻、今も今、優しいこと、嬉しいこと、可愛いことを聞くにつけ、云おう云おうと胸を衝くのは、罪も報いも無いものを背後からだまし打に、岩か玄翁でその身体を打砕くような思いがして、俺は冷汗に血が交った。な、こんな思をするんだもの、よくせきな事だと断念めて、きれると承知をしてくんな。……お前に、そんなに拗ねられては、俺は活きてる空はない。
お蔦 ですから、死ねとおっしゃいよ。切れろ、別れろ、と云うから可厭なの。死ねなら、あい、と云いますわ。私ゃ生命は惜くはない。
早瀬 さあ、その生命に、俺の生命を、二つ合せても足りないほどな、大事な方を知っているか。お前が神仏を念ずるにも、まず第一に拝むと云った、その言葉が嘘でなければ、言わずとも分るだろう。そのお方のいいつけなんだ。
お蔦 (消ゆるがごとく崩折れる)ええ、それじゃ、貴方の心でなく、別れろ、とおっしゃるのは、真砂町の先生の。(と茫然とす。)
早瀬 己は死ぬにも死なれない。(身を悶ゆ。)
お蔦 (はっと泣いて、早瀬に縋る。)
〽一日逢わねば、千日の思いにわたしゃ煩うて、針や薬のしるしさえ、泣の涙に紙濡らし、枕を結ぶ夢さめて、いとど思いのますかがみ。
この間に、早瀬、ベンチを立つ、お蔦縋るようにあとにつき、双方涙の目に月を仰ぎながら徐にベンチを一周す。お蔦さきに腰を落し、立てる早瀬の袂を控う。
お蔦 あきらめられない、もう一度、泣いてお膝に縋っても、是非もしようもないのでしょうか。
早瀬 実は柏家の奥座敷で、胸に匕首を刺されるような、御意見を被った。小芳さんも、蒼くなって涙を流して、とりなしてくんなすったが、たとい泣いても縋っても、こがれ死をしても構わん、おれの命令だ、とおっしゃってな、二の句は続かん、小芳さんも、俺も畳へ倒れたよ。
お蔦 (やや気色ばむ)まあ、死んでも構わないと、あの、ええ、死ぬまいとお思いなすって、……小芳さんの生命を懸けた、わけしりでいて、水臭い、芸者の真を御存じない! 私死にます、柳橋の蔦吉は男に焦れて死んで見せるわ。
早瀬 これ、飛んでもない、お前は、血相変えて、勿体ない、意地で先生に楯を突く気か。俺がさせない。待て、落着いて聞けと云うに!──死んでも構わないとおっしゃったのは、先生だけれど、……お前と切れる、女を棄てます、と誓ったのは、この俺だが、どうするえ。
お蔦 貴方をどうするって、そんな無理なことばッかり、情があるなら、実があるなら、先生のそうおっしゃった時、なぜ推返して出来ないまでも、私の心を、先生におっしゃってみては下さいません。
早瀬 血を吐く思いで俺も云った。小芳さんも、傍で聞く俺が極りの悪いほど、お前の心を取次いでくれたけれど、──四の五の云うな、一も二もない──俺を棄てるか、婦を棄てるか、さあ、どうだ──と胸つきつけて言われたには、何とも返す言葉がなかった。今もって、いや、尽未来際、俺は何とも、他に言うべき言葉を知らん。
お蔦 (間)ああ、分りました。それで、あの、その時に、お前さん、女を棄てます、と云ったんだわね。
早瀬 堪忍しておくれ、済まない、が、確に誓った。
お蔦 よく、おっしゃった、男ですわ。女房の私も嬉しい。早瀬さん、男は……それで立ちました。
早瀬 立つも立たぬも、お前一つだ。じゃ肯分けてくれるんだね。
お蔦 肯分けないでどうしましょう。
早瀬 それじゃ別れてくれるんだな。
お蔦 ですけれど……やっぱり私の早瀬さん、それだからなお未練が出るじゃありませんか。
早瀬 また、そんな無理を言う。
お蔦 どッちが、無理だと思うんですよ。
早瀬 じゃお前、私がこれだけ事を分けて頼むのに、肯入れちゃくれんのかい。
お蔦 いいえ。
早瀬 それじゃ一言、清く別れると云ってくんなよ。
お蔦 …………
早瀬 ええ、お蔦。(あせる。)
お蔦 いいますよ。(きれぎれに且つ涙)別れる切れると云う前に、夫婦で、も一度顔が見たい。(胸に縋って、顔を見合わす。)
〽見る度ごとに面痩せて、どうせながらえいられねば、殺して行ってくださんせ。
お蔦 見納めかねえ──それじゃ、お別れ申します。
早瀬 (涙を払い、気を替う)さあ、ここに金子がある、……下すったんだ、受取っておいておくれ。(渡す。)
お蔦 (取ると斉しく)手切れかい、失礼な、(と擲たんとして、腕の萎えたる状)あの、先生が下すったんですか。
早瀬 まだ借金も残っていよう、当座の小使いにもするように、とお心づけ下すったんだ。
お蔦 (しおしおと押頂く)こうした時の気が乱れて、勿体ない事をしようとした、そんなら私、わざと頂いておきますよ。(と帯に納めて、落したる髷形の包に目を注ぐ。じっと泣きつつ拾取って砂を払う)も、荷になってなぜか重い。打棄って行きたいけれど、それでは拗ねるに当るから。
早瀬 で、お前はどうする。
お蔦 私より貴方は……そうね、お源坊が実体に働きますから、当分我慢が出来ましょう。私……もう、やがて、船の胡瓜も出るし、お前さんの好きなお香々をおいしくして食べさせて誉められようと思ったけれど、……ああ何も言うのも愚痴らしい。あの、それよりか、お前さんは私にばかり我ままを云う癖に、遠慮深くって女中にも用はいいつけ得ないんだもの。……これからはね、思うように用をさして、不自由をなさいますな。……寝冷をしては不可ませんよ。私、山百合を買って来て、早く咲くのを見ようと思って、莟を吹いて、ふくらましていたんですよ、水を遣って下さいな……それから。
早瀬 (うつむいて頷いてのみいる、堪りかねて)俺も世帯を持っちゃいないよ。お前にわかれて、何の洒落に。
お蔦 まあ、どうして。
早瀬 それでなくッてさえ、掏賊の同類だ、あいずりだと、新聞で囃されて、そこらに、のめのめ居られるものか。長屋は藻ぬけて、静岡へ駈落だ。少し考えた事もあるし、当分引込んでいようと思う。
お蔦 遠いわねえ。静岡ッて箱根のもッと先ですか。貴方がここに待っていて、石段を下りたばかりでさえ、気が急いてならなかったに、またいつ、お目にかかれるやら。(と膝にうつむく。)
早瀬 お蔦、お前は、それだから案じられる。忘れても一人でなんぞ、江戸の土を離れるな。静岡は箱根より遠いかは心細い。……ああ、親はなし、兄弟はなし、伯父叔母というものもなし、俺ばっかりをたよりにしたのに、せめて、従兄妹が一人ありゃ、俺は、こんな思いはしやしない!……よう、お蔦、そしてお前は当分どうするつもりだ。
お蔦 (顔を上ぐ)貴方こそ、水がわり、たべものに気をつけて下さいよ。私の事はそんなに案じないが可うござんす。小児の時から髪を結うのが好きで、商売をやめてから、御存じの通り、銀杏返しなら人の手はかりませんし、お源の島田の真似もします。慰みに、お酌さんの桃割なんか、お世辞にも誉められました。めの字のかみさんが幸い髪結をしていますから、八丁堀へ世話になって、梳手に使ってもらいますわ。
早瀬 すき手にかい。
お蔦 ええ、修業をして。……貴方よりさきへ死ぬまで、人さんの髪を結ましょう。私は尼になった気で、(風呂敷を髪に姉さんかぶりす)円髷に結って見せたかったけれど、いっそこの方が似合うでしょう。
早瀬 (そのかぶりものを、引手繰ってつつと立つ)さあ、一所に帰ろう。
お蔦 (外套を羽織らせながら)あの……今夜は内へ帰っても可いの。
早瀬 よく、肯分けた、お蔦、それじゃ、すぐに、とぼとぼと八丁堀へ行く気だったか。
お蔦 ええ、そうよ。……じゃ、もう一度、雀に餌が遣れるのね、よく馴染んで、欞子窓の中まで来て、可愛いッたらないんですもの。……これまで別れるのは辛かったわ。
早瀬 何も言わん。さあ、せめて、かえりに、好きな我儘を云っておくれ。
お蔦 (猶予いつつ)手を曳いて。
〽いえど此方は水鳥の浮寝の床の水離れ、よしあし原をたちかぬれば、
この間に早瀬手を取る、お蔦振返る早瀬もともに、ふりかえり伏拝む。
さて行かんとして、お蔦衝と一方に身を離す。
早瀬 どこへ行く。
お蔦 一人々々両側へ、別れたあとの心持を、しみじみ思って歩行いてみますわ。
早瀬 (頷く。舞台を左右へ。)
お蔦 でも、もう我慢がし切れなくなって、私もしか倒れたら、駈けつけて下さいよ。
早瀬 (頷く。)
お蔦 切通しを帰るんだわね、おもいを切って通すんでなく、身体を裂いて分れるような。
早瀬 (頷く。)
お蔦しおしおと行きかかり、胸のいたみをおさえて立留る、早瀬ハッと向合う。両方おもてを見合わす。
〽実に寒山のかなしみも、かくやとばかりふる雪に、積る……
幕外へ。
〽思いぞ残しける。
男は足早に、女は静に。
底本:「泉鏡花集成7」ちくま文庫、筑摩書房
1995(平成7)年12月4日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集」岩波書店
1942(昭和17)年7月刊行開始
入力:門田裕志
校正:林 幸雄
2002年2月12日公開
2005年9月26日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。