古狢
泉鏡花



「しゃッ、しゃッ、しゃあっ!……」

 寄席のいらっしゃいのように聞こえるが、これは、いざいざ、いでや、というほどの勢いの掛声と思えばい。

「しゃあっ! 八貫─ウん、八貫、八貫、八貫とウ、九貫か、九貫と十ウだ、……十貫!」

 目の下およそ八寸ばかり、濡色のたいを一枚、しるし半纏ばんてんという処を、めくらじま筒袖つつッぽを両方大肌脱ぎ、毛だらけの胸へ、釣身つりみに取って、尾を空に、向顱巻むこうはちまきの結びめと一所に、ゆらゆらとねさせながら、掛声でそのめかたを増すように、うおかしらを、下腹から膝頭ひざがしらへ、じりじりと下ろして行くが、

「しゃッ、しゃッ。」

 と、腰を切って、胸をらすと、再び尾から頭へ、じりじりとひびきを打たして釣下げる。これ、値を上げる寸法で。

「しゃッ、十貫十ウ、十貫二百、三百、三百ウ。」

 親仁おやじつらは朱をそそいで、そのくちばしたこのごとく、魚のひれ萌黄もえぎに光った。

「力は入るね、尾を取って頭を下げ下げ、段々にるのは、底力は入るが、見ていて陰気だね。」

 と黒い外套がいとうを着た男が、同伴つれの、意気で優容やさがた円髷まるまげに、低声こごえで云った。

「そう。でも大鯛をせるのには、どこでもああするのじゃアありません?……」

 人だちの背後うしろからのぞいていたのが、連立って歩き出して、

「……と言われると、第一、東京の魚河岸の様子もよく知らないで、お恥かしいよ。──ここで言っては唐突だしぬけで、ちと飛離れているけれど、松江だね、出雲いずもの。……茶町という旅館はたご間近の市場で見たのは反対だっけ──今の……」

 外套の袖を手で掲げて、

「十貫、百と糶上せりあげるのに、尾を下にして、頭を上へ上へと上げる。……景気もよし、見ているうちに値が出来たが、よう、と云うと、それ、その鯛を目の上へ差上げて、人の頭越しに飜然ひらりと投げる。──処をすかさず受取るんだ、よう、と云ってうしろの方で。……威勢がいい。それでいて、腰の矢立はここのも同じだが、紺の鯉口こいぐちに、仲仕とかのするような広い前掛をいて、お花見手拭てぬぐいのように新しいのをえりに掛けた処なぞは、お国がら、まことに大どかなものだったよ。」

「陽気ね、それは。……でも、ここは近頃の新開ですもの。お魚はほんのつけたりで、おもに精進ものの取引をするんですよ。そういっては、十貫十ウの、いまの親仁にしかられるかも知れないけれど、みんな蓮根市場れんこんいちばというくらいなんですわ。」

「成程、大きに。──しかもその実、お前さんと……むかしの蓮池はすいけを見に、寄道をしたんだっけ。」

 と、外套は、洋杖ステッキも持たない腕を組んだ。

 話の中には──この男が外套を脱ぐ必要もなさそうだから、いけぞんざいだけれども、懇意ずく、御免をこうむって、外套氏としておく。ただ旅客でも構わない。

 が、私のこの旅客は、実は久しぶりの帰省者であった。以前にも両三度聞いた──かれの帰省談の中の同伴つれは、その容色きりょうよしの従姉いとこなのであるが、従妹はあいにく京の本山へ参詣おまいりの留守で、いま一所なのは、お町というその娘……といっても一度縁着いた出戻りの二十七八。で、親まさりの別嬪べっぴん冴返さえかえって冬空にうららかである。それでも、どこかひけめのある身の、しまのおめしも、一層なよやかに、羽織の肩もほっそりとして、抱込かかえこんでやりたいほど、いとしらしい風俗ふうである。けれども家業柄──家業は、土地の東のくるわで──近頃は酒場か、カフェーの経営だと、話すのに幅が利くが、困った事にはお茶屋、いわゆるおん待合だから、ちと申憎い、が、仕方がない。それだけにまた娘の、世馴よなれて、人見知りをしない様子は、以下の挙動ふるまい追々おいおいに知れようと思う。

 ちょうどいい。帰省者も故郷へにしきではない。よってくだんの古外套で、映画の台本や、仕入ものの大衆向で、どうにか世渡りをしているのであるから。

「陽気も陽気だし、それに、山に包まれているんじゃない、その市場のすぐ見通しが、大きな湖だよ、あの、有名な宍道湖しんじこさ。」

「あら、山の中だって、おじさん、こちらにも、海も、湖も、大きなのがありますわ。」

 湖は知らず、海に小さなのといっては断じてあるまい。何しろ、話だけでも東京が好きで、珍らしく土地自慢をしない娘も、対手あいてが地方だけに、ちょっと反感を持ったらしい。

 いかにも、湖は晃々きらきらと見える。が、水が蒼穹おおぞらに高い処に光っている。近い山も、町の中央の城と向合った正面とは違い、場末のこのあたりは、ふもとの迫るすそになり、遠山は波濤はとうのごとくかさっても、奥は時雨の濃い雲の、次第に霧に薄くなって、眉は迫った、すすき尾花の山のは、おおきないのししの横に寝たさまに似た、その猪の鼻と言おう、中空なかぞら抽出ぬきんでた、きばの白いのは湖である。丘を隔てて、一条ひとすじ青いのは海である。

 その水の光は、足許あしもとつちに影を映射うつして、羽織の栗梅くりうめあかるく澄み、袖の飛模様も千鳥に見える。見ると、やや立離れた──一段高く台をんで立った──糶売せりうりの親仁は、この小春日の真中まんなかに、しかも夕月を肩に掛けた銅像に似ていた。

「あの煙突が邪魔だな。」

 ここを入って行きましょうと、同伴つれが言う、私設の市場の入口で、外套氏は振返って、そのししの鼻の山裾やますそを仰いで言った。

「あれ、温泉よ。」

「温泉?」

「いま通って来たじゃありませんか、おじさん。」

「ああ、あの紺屋の物干場と向い合った……蟋蟀こおろぎがないていた……」

 蟋蟀は……ここでも鳴く。

「その紺屋だって、あったのは昔ですわ。垣も何にもなくなって、いまは草場くさっぱでしたわね。」

「そうだっけな──実は、あのならびに一人、おなじ小学校の組の友だちが居てね。……八田なにがし……」

「そのお飯粒まんまつぶで蛙を釣って遊んだって、御執心の、蓮池のやしきの方とは違うんですか。」

 鯛はまだ値が出来ない。山のすすき顱巻はちまきを突合せて、あの親仁はまた反った。

「違うんだよ。……何もあらためて名のるほどの事もないんだけれど、子供ッて妙なもので、まわりに田があるから、ああ八田だ、それにしても八ツはない。……そんなことを独り合点した事も思出しておかしいし、余り様子が変っているので、心細いようにもなって、ついうっかりして──活動写真の小屋が出来た……がらんとしている、不景気だな、とぎょっとして、何、昼間は休みなのだろう、にしておいたよ。そういえば煙突も真正面で、かえって、あんなに高く見えなかったもんだから、あかり取りかと思ったっけ。……映画の明取りはちと変だね。どうかしている。」

 と笑いながら、

「そうかい、温泉かい……こんな処に。」

わかすんですよ……ただの水を。」

「ただの水はよかった、成程。」

「でも、温泉といった方が景気がいいからですわ。そしてね、おじさん、いまの、あれ、むじなの湯っていうんですよ。」

「狢の湯?……」

 と同伴つれの顔を見た時は、もうその市場のなかを半ば過ぎていた。まだ新しく、ほんの仮設らしい、通抜けで、ただ両側に店が並んだが、二三個処うつろに穴があいて、なぜか箪笥たんす抽斗ひきだしの一つ足りないような気がする。今来た入口はいりぐちに、下駄屋と駄菓子屋が向合って、駄菓子屋に、ふかし芋と、でた豌豆えんどうを売るのも、下駄屋の前ならびに、子供のはきものの目立ってあかいのも、ものわびしい。蒟蒻こんにゃくおけに、ふなのバケツが並び、どじょうざるに、天秤を立掛けたままの魚屋の裏羽目からは、あなめあなめ空地の尾花がのぞいている……といった形。

 ──あとで地の理をよく思うと、ここが昔の蓮池の口もとだったのだそうである。──

「皆その御眷属ごけんぞくが売っているようだ。」

「何? おじさん。」

「いえね、その狢の湯の。」

「あら聞こえると悪ござんすわ。」

 とたしなめる目づかいが、つい横の酒類販売店のびんに、瞳が蝶のようにちらりと映って、レッテルの桜に白い頬がほんのりする。

「決して悪く云ったのじゃない。……これで地口行燈じぐちあんどんが五つ六つあってごらん。──横露地の初午はつうまじゃないか。お祭のようだと祝ったんだよ。」

「そんな事……お祭だなんのといって、一口飲みたくなったんじゃあ、ありません? おっかさん(外套氏の従姉をいう)ならですけど、可厭いやよ、私、こんな処で、腰掛けて一杯なんぞ。」

「大丈夫。いくら好きだって、蕃椒とうがらしでは飲めないよ。」

 と言った。

 市場を出た処の、乾物屋と思う軒に、真紅まっかな蕃椒が夥多おびただしい。……新開ながら老舗しにせと見える。わかめ、あらめ、ひじきなど、いその香もぷんとした。が、それが時雨でも誘いそうに、薄暗い店の天井は、輪にかがって、棒にして、揃えて掛けた、車麩くるばぶで一杯であった。

「見事なものだ。村芝居の天井に、雨車を仕掛けた形で、妙に陰気だよ。」

 串戯じょうだんではない。日向ひなたさっと村雨がかかった、すすき葉摺はずれの音を立てて。──げに北国の冬空や。

 二人は、ちょっとその軒下へ入ったが、

「すぐ晴れますわ、狐の嫁入よ。」

 という、ななめに見える市場の裏羽目に添って、紅蓼べにたでと、露草の枯れがれに咲いて残ったのが、どちらがその狐火きつねび小提灯こじょうちんだか、濡々ぬれぬれともれて、尾花にそよいで……それ動いて行く。

「そうか、私はまた狐の糸工場かと思った。雨あしの白いのが、天井の車麩から、ずらずらと降って来るようじゃあないか。」

可厭いや、おじさん。」

 とれるばかり、肩を寄せて、

「気味が悪い。」

「じゃあ、言直そう。ここは蓮池のあとらしいし、この糸で曼陀羅まんだらが織れよう。」

「ええ、だって、極楽でも、地獄でも、その糸がいけないの。」

「糸が不可いけないとは。」

「……だって、しいの木婆さんが、糸車を廻す処ですもの、小豆洗あずきあらいともいうんですわ。」

 後前あとさきを見廻して、

「それはね、城のお殿様の御寵愛の、その姉さんだったと言いましてね。むかし、魔法を使うように、よく祈りのきいた、美しい巫女みこがそこに居て、それが使った狢だとも言うんですがね。」

 あなたは知らないのか、と声さえはばかってお町が言った。──この乾物屋と直角に向合むかいあって、蓮根れんこんの問屋がある。土間を広々と取り、奥を深く、しんと暗い、大きな家で、ここを蓮根市はすいちとも呼ぶのは、その故だという。屋の棟を、うしろ下りに、山の中腹と思う位置に、一朶いちだの黒雲の舞下ったようなのが、年数を知らない椎の古木のこずえである。大昔から、その根に椎の樹婆叉ばばしゃというのが居て、事々に異霊妖変ようへんあらわす。徒然な時はいつも糸車を廻わしているのだそうである。もともと私どもの、この旅客は、その小学校友だちの邸あとをうために来た。……その時分には遊びに往来ゆききもしたろうものを、あの、椎の樹婆叉を知らないのかと、お町が更に怪しんで言うのであった。が、八ツや十ウのものを、わざと親たちはおどしもしまい。……近所に古狢ふるむじなの居る事を、友だちはほこりはしなかったに違いない。

 ──町の湯の名もそれから起った。──そうか、椎の木の大狢、経立ふッたち狢、化婆々ばけばばあ

「あれえ。」

「…………」

可厭いや、おじさんは。」

「あやまった、あやまった。」

 鉄砲でねらわれた川蝉かわせみのように、日のさす小雨を、綺麗な裾で蓮の根へ飛んでげた。お町の後から、外套氏は苦笑いをしながら、その蓮根問屋の土間へ追い続いて、

「決しておどす気で言ったんじゃあない。──はじめは蛇かと思って、ぞっとしたっけ。」

 椎の樹婆叉の話を聞くうちに、ふと見ると、天井の車麩にからんで、ちょろちょろと首と尾があらわれた。その上下うえしたに巻いて廻るのを、蛇が伝う、と見るとともに、車麩がくるくると動くようで、因果車がうねって通る。……で悚気ぞっとしたが、じっると、鼠か、溝鼠どぶねずみか、降る雨に、あくどく濡れてっている。……時も時だし、や、小さな狢が天井へ、とうっかり饒舌しゃべって、きれいな鳥を蓮池へ飛ばしたのであった。

「そんな事に驚く奴があるものか。」

「だって、……でも、もう大丈夫だわ、ここへ来れば人間のたぬきが居るから。」

 と、大きに蓮葉はすはで、

ごんちゃん──居るの。」

 獣ならば目が二つ光るだろう。あれでも人が居るかと思う。透かして見れば帳場があって、その奥から、大土間の内側を丸太でしきった──(朝市がそこで立つ)──そのしきりの外側を廻って、右の権ちゃん……めくらじま筒袖つつッぽ懐手ふところで突張つっぱって、狸より膃肭臍おっとせいに似て、ニタニタとあらわれた。くるわの美人で顔がきく。この権ちゃんが顕われると、外土間に出張った縁台に腰を掛けるのに──市が立つと土足で糶上せりあがるのだからと、お町が手巾ハンケチでよくはたいて、縁台に腰を掛けるのだから、じかに七輪しちりんの方がいい、そちこち、お八つ時分、薬鑵やかんの湯も沸いていようと、はるかな台所口からその権ちゃんに持って来させて、御挨拶は沢山……大きな坊やは、こう見えても人見知りをするから、とくるりと権ちゃんに背後うしろを向かせて、手で叩く真似をすると、えへへ、と権ちゃんの引込ひっこんだ工合ぐあいが、いんは結ばないが、姉さんの妖術ようじゅつかかったようであった。


 通り雨は一通りあがったが、土は濡れて、冷くて、翡翠かわせみの影が駒下駄をすべってまた映る……片褄端折かたづまはしょりに、乾物屋の軒を伝って、紅端緒べにはなおの草履ではないが、ついと楽屋口へ行くさまに、肩細く市場へ入ったのが、やがて、片手にビイルのびん、と見ると片手に持った硝子盃コップが、光りを分けて、二つになって並んだのは、お町さんも、一口つき合ってくれる気か。

「しゃッ、しゃッ。」

 思わず糶声せりごえを立てて、おじさんは、手を揚げながら、片手で外套の膝を叩いた。

「お手柄、お手柄。」

 土間はたちまち春になり、花のつぼみの一輪を、朧夜おぼろよにすかすごとく、お町の唇をビイルでめて、飲むほどに、蓮池のむかしをう身には本懐とも言えるであろう。根を掘上げたばかりと思う、見事な蓮根がさく内外うちそと、浄土の逆茂木さかもぎ。勿体ないが、五百羅漢ごひゃくらかん御腕おんうでを、組違えて揃う中に、大笊おおざる慈姑くわいが二杯。泥のままのと、一笊は、あい浅く、さっと青に洗上げたのを、ころころと三つばかり、お町が取って、七輪へ載せ、じょうを払い、火箸であしらい、なまめかしい端折はしょりのまま、懐紙ふところがみあおぐのに、手巾ハンケチで軽く髪のつやかばったので、ほんのりと珊瑚さんごの透くのが、三杯目の硝子盃に透いて、あの、唇だか、その珊瑚だか、花だか、蕾だか、蕩然とろりとなる。

「町子嬢、町子嬢。」

「は。」

 とえりの白さを、なめらかに、長く、傾いてちょっと嬌態しなる。

「気取ったな。」

「はあ。」

「一体こりゃどういう事になるんだい。」

慈姑くわいの田楽、ほほほ。」

 と、かんざしの珊瑚と、唇が、霞の中に、慈姑とは別に二つ動いて、

「おじさんは、小児こどもの時、お寺へ小僧さんにやられる処だったんだって……何も悪たれ坊ッてわけじゃない、賢くって、おとなしかったから。──そうすりゃきっと名僧知識になれたんだ。──おっかさんがそういって話すんだわ。」

「悪かったよ。その方がよかったんだよ。相済まなかったよ。」

 今度は、がばがばと手酌でぐ。

「ほほほほ、そのせいだか、精進男で、慈姑の焼いたのが大好きで、よく内へ来て頬張ったんだって……お母さんたら。」

「ああ、なさけない。慈姑とは何事です。おなじ発心をしたにしても、これがどじょうだと引導を渡す処だが、これじゃ、お念仏を唱えるばかりだ。──ああ、お町ちゃん。」

 わざとした歎息を、陽気に、ふッと吹いて、

「……そういえば、一昨日おとといの晩……途中で泊った、鹿落かおちの温泉でね。」

「ええ。」

「実際、お念仏を唱えたよ、真夜半まよなかさ。」

夜半よなか。」

 と七輪の上で、火の気ににぎやかな頬が肅然じっと沈んだ。

「……何、考えて見れば、くだらない事なんだが、鹿落は寂しい処だよ。そこを狙ったわけでもないが、来がけに一晩保養をしたがね。真北の海に向って山の中腹にあるんだから、長い板廊下を九十九折つづらおりとった形に通るんだ。──知っているかも知れないが。──座敷は三階だったけれど、下からは四階ぐらいに当るだろう。晩飯の烏賊いかえびは結構だったし、赤蜻蛉あかとんぼに海の夕霧で、景色もよかったが、もう時節で、しんしんと夜の寒さが身にみる。あすこいら一帯に、袖のない夜具だから、四布よのの綿の厚いのがごつごつおもたくって、肩がぞくぞくする。枕許まくらもと熱燗あつかんを貰って、硝子盃酒コップざけいきおいで、それでもぐっすり疲れて寝た。さあ何時頃だったろう。何しろ真夜半だ。かわやくのに、裏階子うらばしごを下りると、これが、頑丈な事は、巨巌おおいわ斫開きりひらいたようです。下りると、片側に座敷が五つばかり並んで、向うの端だけ客が泊ったらしい。ところが、次の間つきで、奥だけかすかにともれていて、あとが暗い。一方が洗面所で、そばに大きな石の手水鉢ちょうずばちがある、かがんで手を洗うように出来ていて、かけひ谿河たにがわの水を引くらしい……しょろ、しょろ、ちゃぶりと、これはね、座敷で枕にまで響いたんだが、風の声も聞こえない。」

「まあ……」

「すぐの、だだッ広い、黒い板の間の向うが便所なんだが、その洗面所に一つ電燈でんきいているきりだから、いとどさえ夜ふけの山気にされて、薄暗かったと思っておくれ。」

可厭いやあね。」

「止むを得ないよ。……実際なんだから。晩に見た心覚えでは、この間に、板戸があって、一枚開いていたように思ったんだが、それが影もなかった。思いちがいなんだろう。

 山霧の冷いのが──すぐ外は崖の森だし──窓から、隙間から、立てむと見えて、薄いもやのようなものが、敷居に立って、それに木目がありそうに見える。ところで、穿いた草履が、笹葉ささっぱでも踏む心持こころもちにバサリとする。……暗い中に、三つ並んでいるんです。」

「あの、鹿落。」

 と、瞳を凝らした、お町の眉に、その霧がほのかにうつッた。

「三階の裏階子を下りた処だわね、三つ並んだ。」

「どうかしたかい。」

「どうして……それから。」

 お町は聞返して、また息を引いた。

「その真中まんなかの戸が、バタン……と。」

「あら……」

「いいえさ、おどかすんじゃあない。そこで、いきなり開いたんだと、余計驚いたろうが──開いていたんだよ。ただし、開いていた、その黒い戸の、裏桟に、白いものが一条ひとすじ、うねうねとつたわっている。」

「…………」

「どこからか、細目にあかりが透くのかしら?……その端の、ふわりと薄匾うすひらったい処へ、指が立って、白くねて、動いたと思うと、すッとしまった。招いたような形だが、串戯じょうだんじゃあない、人が行ったので閉めたのさ。あとで思ってもまったく色が白かった、うつくしい女の手だよ──あ、どうした。」

 その唇が、眉とともにゆがんだと思うと、はらりと薫って、胸にひやり、円髷まるまげ手巾ハンケチの落ちかかる、一重ひとえだけは隔てたが、お町の両の手が、咄嗟とっさに外套の袖をしごくばかりに引掴ひきつかんで、肩と袖で取縋とりすがった。片褄の襦袢が散って、山茶花さざんかのようにこぼれた。

 この身動みじろぎに、七輪の慈姑くわいが転げて、コンと向うへ飛んだ。一個ひとつは、こげ目が紫立って、蛙の人魂ひとだまのように暗い土間に尾さえく。

 しばらくすると、息つぎの麦酒ビイルに、色を直して、お町が蛙の人魂の方を自分で食べ、至極尋常なのは、皮をがして、おじさんに振舞ったくらいであるから。──次の話が、私はじめ、読者諸君も安心して聞くことを得るのである。


 一体、外套氏が、この際、いまの鹿落の白い手を言出したのは、決して怪談がかりに娘をおどかすつもりのものではなかった。近間ではあるし、ここを出たら、それこそ、ちちろ鳴く虫が糸を繰るに紛れる、その椎樹しいのき──(釣瓶つるべおろし)(小豆あずきとぎ)などいうばけものは伝統的につきものの──樹の下を通って見たかった。車麩くるまぶの鼠におびえた様子では、同行を否定されそうな形勢だった処から、「お町さん、念仏を唱えるばかり吃驚びっくりした、かわやの戸の白い手も、先へ入っていた女が、人影に急いでを閉めただけの事で、何でもないのだ。」と、おくれせながら、正体見たり枯尾花流に──続いて説明に及ぶと、澄んで沈んだ真顔になって、鹿落の旅館の、その三つ並んだ真中まんなかの厠は、取壊して今はないはずだ、と言って、先手に、もう知っている。……

 はてな、そういえば、朝また、ようをたした時は、ここへ白い手が、と思う真中のは、壁が抜けて、不状ぶざまに壊れて、向うが薮畳やぶだたみになっていたのを思出す。……何、昨夜ゆうべは暗がりで見損みそこなったにして、一向気にも留めなかったのに。……

 ふと、おじさんの方が少し寒気立って、

「──そういえば真中まんなかのはなかったよ、……朝になると。……じゃあ何か仔細わけがあるのかい。」

「おじさん──それじゃ、おじさんは、幽霊を、見たんですね。」

「幽霊を。」

「もう私……気味が悪いの、可厭いやだなぞって、そんな押退おしのけるようなこと言えませんわ。あんまり可哀想な方ですもの。それはね、あの、うぐい(鯎)亭──ずッと河上の、川魚料理……ご存じでしょう。」

「知ってるとも。──現在、昨日きのう午餉ひるはあすこで食べたよ。閑静で、落着いて、しんみりしてうちだが、そんな幽霊じみた事はいささかもなかったぜ。」

「いいえ、あすこの、女中なかいさんが、鹿落の温泉でなくなったんです。お藻代もよさんという、しとやかな、優しい人でした。……おじさん、その白い、細いのは、そのお藻代さんの手なんですよ。」

「おどかしなさんない。おじさんを。」と外套氏は笑ったが。


 ──今年余寒の頃、雪の中を、里見、志賀の両氏が旅して、新潟の鍋茶屋なべぢゃやなどとならび称せらるる、この土地、第一流の割烹かっぽうで一酌し、場所をかえて、美人に接した。その美人たちが、河上の、うぐい亭へお立寄り遊ばしたか、と聞いて、その方が、なお、お土産になりますのに、と言ったそうである。うぐい亭の存在を云爾しかいうために、両の名を煩わしたに過ぎない。両家はこの篇には、勿論、外套氏と寸毫すんごうのかかわりもない。続いて、仙女香、江戸の水のひそみにならって、私が広告を頼まれたのでない事も断っておきたい。

 近頃は風説うわさに立つほど繁昌はんじょうらしい。この外套氏が、故郷に育つ幼い時分ころには、一度ほとんど人気ひとけの絶えるほど寂れていた。町の場末から、橋を一つ渡って、山のふもとを、五町ばかり川添かわぞいに、途中、家のない処をくので、雪にはいうまでもなくうずもれる。平家づくりで、数奇すき亭構ちんがまえで、かけひの流れ、吹上げの清水、藤棚などを景色に、四つ五つ構えてあって、通いは庭下駄で、おも屋から、その方は、山の根に。座敷は川に向っているが、すぐかわらで、水は向う岸を、あいに、あおに流れるのが、もの静かで、一層床しい。まがきほどもない低い石垣を根に、一株、大きな柳があって、幹をななめに磧へ伸びつつ、枝は八方へ、座敷の、どの窓も、ひさしも、おおうばかり見事になびいている。月には翡翠ひすいの滝の糸、雪には玉のすだれつらねよう。

 それと、戸前かどさきが松原で、ぬきんでた古木もないが、ほどよく、暗くなく、あからさまならず、しっとりと、松葉を敷いて、松毬まつかさまじりにき分けた路も、根をうねって、奥が深い。いつも松露の香がたつようで、実際、初茸はつたけ、しめじ茸は、この落葉に生えるのである。入口に萩の枝折戸しおりど、屋根なしに網代あじろがついている。また松の樹をいつ株、株。すぐに石ころ道が白く続いて、飛地のような町屋の石を置いた板屋根が、山裾に沈んで見えると、そこにその橋がある。

 蝙蝠こうもりに浮かれたり、ほたるを追ったり、その昔子供等は、橋まで来るが、夜は、うぐい亭の川岸は通り得なかった。外套氏のいう処では、道の途中ぐらい、ふもとの出張った低いかわらの岸に、むしろがこいの掘立小屋ほったてごやが三つばかりやなの崩れたようなのがあって、古俳句の──短夜みじかよや(何とかして)川手水かわちょうず──がそっくり想出された。そこが、野三昧のざんまいの跡とも、山窩さんかが甘い水を慕って出て来るともいう。人の灰やら、犬の骨やら、いずれ不気味なその部落を隔てた処に、かすかにその松原が黒く乱れてふくろが鳴いているお茶屋だった。──うぐいはやごりの類は格別、亭で名物にする一尺の岩魚いわなは、娘だか、妻女だか、艶色えんしょく懸相けそうして、かわおそくだんの柳の根に、ひれある錦木にしきぎにするのだと風説うわさした。いささか、あやかしがついていて、一層寂れた。くわえたあゆは、殺生ながら賞翫しょうがんしても、獺の抱えた岩魚は、色恋といえども気味が悪かったものらしい。

 今は、自動車さえ往来ゆききをするようになって、松蔭の枝折戸まで、つきの女中が、柳なんぞのしまお召、人懐ひとなつっこく送って出て、しとやかな、情のある見送りをする。ちょうど、容子ようすのいい中年増が給仕に当って、たしかに外套氏がこれは体験した処である。ついでに岩魚の事を言おう。瀬波にひるがえるさまに、背尾をねた、皿に余る尺ばかりな塩焼は、まったく美味である。そこで、讃歎すると、上流、五里七里の山奥からいきのまま徒歩で運んで来る、山爺やまじじいの一人なぞは、七十を越した、もう五十年余りの馴染なじみだ、と女中が言った。してみると、おなじおそでも山獺が持参するので、伝説は嘘でない。しかし、お町の──一説では、上流五里七里の山奥から山爺は、──どの客にも言うのだそうである。

 水と、柳のせいだろう。女中は皆美しく見えた。もし、妻女、娘などがあったら、さぞ妍艶けんえんであろうと察しらるる。

 さて、「いらして、また、おいで遊ばして」と枝折戸でいう一種綿々たる余韻の松風に伝う挨拶は、不思議に嫋々じょうじょうとして、客は青柳に引戻さるるおもいがする。なお一段と余情のあるのは、日が暮れると、竹の柄の小提灯こぢょうちんで、松の中のこみちを送出すのだそうである。小褄こづまの色が露にすべって、こぼれ松葉へ映るのは、どんなにかなまめかしかろうと思う。


「──お藻代さんの時が、やっぱりそうだったんですってさ。それに、もう十時すぎだったというんです。」

 五年ぜん、六月六日のであった。明直にいえば、それが、うぐい亭のお藻代が、白い手の幻影まぼろしになる首途かどでであった。

 その夜、松の中を小提灯で送り出た、中京、名古屋の一客──畜生め色男──は、枝折戸口で別れるのに、恋々としてお藻代を強いて、東の新地──くるわの待合、明保野あけぼのという、すなわちお町のうちまで送って来させた。お藻代は、はじめから、お町の内に馴染なじみではあったが、それがあらためて深い因縁になったのである。


「あの提灯が寂しいんですわ……考えてみますと……雑で、白張しらはりのようなんですもの。」──


「うぐい。」──と一面──「亭」が、まわしがきの裏にある。ところが、振向け方で、「うぐい」だけ黒く浮いて出ると、お経ではない、あの何とか、梵字ぼんじとかのようで、卵塔場の新墓にともれていそうに見えるから、だと解く。──この、お町の形象学は、どうも三世相さんぜそう鼇頭ごうとうにありそうで、承服しにくい。

 それを、しかも松の枝に引掛ひっかけて、──名古屋の客が待っていた。冥途めいど首途かどでを導くようじゃありませんか、五月闇さつきやみに、その白提灯を、ぼっと松林の中に、という。……成程、もの寂しさは、もの寂しい……

 話はちょっと前後した──うぐい亭では、座つきに月雪花。また少々慾張よくばって、米俵だの、丁字ちょうじだの、そうした形の落雁らくがんを出す。一枚ひとつずつ、女の名が書いてある。場所として最も近い東のくるわのおもだった芸妓げいしゃ連が引札ひきふだがわりに寄進につくのだそうで。勿論、かけ離れてはいるが、呼べば、どのおんな三味線さみせんに応ずると言う。その五年前、六月六日の夜──名古屋の客は──註しておくが、その晩以来、顔馴染にもなり、音信おとずれもするけれども、その姓名だけは……とお町が堅く言わないのだそうであるから、ただ名古屋の客として。……あとを続けよう。


「──みんな、いい女らしいね。見た処。中でも、俵のなぞは嬉しいよ。ここに雪形に、もよ、というのは。」

「飛んだ、おそまつでございます。」

 と白い手と一所に、銚子ちょうしがしなうように見えて、水色の手絡てがら円髷まるまげが重そうに俯向うつむいた。──なよやかな女だというから、その容子ようすは想像に難くない。欄干に青柳の枝垂しだるるなかに、例の一尺の岩魚いわなうぐい蓴菜じゅんさいの酢味噌。胡桃くるみと、飴煮あめにごりの鉢、鮴とせん牛蒡ごぼうの椀なんど、膳を前にした光景が目前めさきにある。……

「これだけは、そっと取りのけて、お客様には、お目に掛けませんのに、どうして交っていたのでございましょうね。」──


「いや、どうもその時の容子ようすといったら。」──

 名古屋の客は、あとで、廓の明保野で──落雁で馴染の芸妓を二三人一座に──そう云って、はしゃぎもしたのだそうで。

 落雁を寄進の芸妓連が、……女中頭ではあるし、披露ひろめのためなんだから、美しく婀娜あだなお藻代の名だけは、なか間の先頭にかき込んでおくのであった。

 ──断るまでもないが、昨日きのうの外套氏の時の落雁には、もはやお藻代の名だけはなかった。──

 さて、至極古風な、字のよく読めない勘定がきの受取が済んで、そのうぐい提灯で送って出ると、折戸を前にして、名古屋の客が動かなくなった。落雁の芸妓を呼びに廓へ行く。是非送れ、お藻代さん。……一見は利かずとも、電話で言込めば、と云っても、威勢よく酒の機嫌で承知をしない。そうして、袖たけの松の樹のように動かない。そんな事で、誘われるようなおんなではなかったのに、どういう縁か、それでは、おかみさんに聞いて許しを得て。……で、おも屋に引返したあとを、お町がいう処の、墓所はかしょの白張のような提灯を枝にかけて、しばらく待った。その薄いあかりで、今度は、きのこが化けたさまで、帽子を仰向あおむけにしゃがんでいて待つ。

 やがて、出て来た時、お藻代は薄化粧をして、長襦袢ながじゅばんを着換えていた。

 その長襦袢で……明保野で寝たのであるが、朱鷺色ときいろの薄いのに雪輪を白く抜いた友染である。みちに、ちらちらと、この友染が、小提灯で、川風が水に添い、野茨のばらの花。且つちり乱るる、山裾の草にほのめいた時は、向瀬むこうせの流れも、低いかわら撫子なでしこを越して、駒下駄に寄ったろう。……


 風が、どっと吹いて、蓮根市の土間は廂下ひさしさがりに五月闇さつきやみのように暗くなった。一雨来よう。組合わせた五百羅漢の腕が動いて、二人を抱込かかえこみそうである。

 どうも話が及腰およびごしになる。二人でその形に、並んで立ってもらいたい。その形、……その姿で。……お町さんとかも、褄端折をおろさずに。──お藻代も、道芝の露にもすそを引揚げたというのであるから。

 一体黒い外套氏が、いい年をした癖に、悪く色気があって、今しがた明保野の娘が、お藻代の白い手におびえて取縋った時は、内々で、一抱きやわらかな胸を抱込だきこんだろう。……ばかりでない。はじめ、連立って、ここへ庭樹の多い士族町を通る間に──その昔、江戸護持院ヶ原の野仏のぼとけだった地蔵様が、おぶわれて行こう……と朧夜おぼろよにニコリと笑って申されたを、通りがかった当藩三百石、究竟くっきょうの勇士が、そのまま中仙道北陸道をおぶい通いて帰国した、と言伝えて、その負さりたもうた腹部の中窪なかくぼみな、御丈みたけ丈余じょうよの地蔵尊を、古邸ふるやしきの門内に安置して、花筒に花、手水鉢に柄杓ひしゃくを備えたのを、お町が手つぎに案内すると、外套氏が懐しそうに拝んだのを、嬉しがって、感心して、こん度は切殺された、城のおめかけさん──のその姿で、縁切り神さんが、向うの森のほこらにあるから一所に行こうと、興に乗じた時……何といった、外套氏。──「縁切り神様は、いやだよ、二人して。」は、苦々しい。

 だから、ちょっとこの子をこう借りた工合ぐあいに、ここで道行きの道具がわりに使われても、うらみはあるまい。


 そこで川通りを、次第に──そうそうそう肩を合わせて歩行あるいたとして──橋は渡らずに屋敷町の土塀を三曲りばかり。お山の妙見堂の下を、たちまち明るい廓へ入って、しかも小提灯のまま、客の好みの酔興な、燈籠とうろうの絵のように、明保野の入口へ──そこで、うぐいの灯が消えた。


「──藤紫の半襟が少しはだけて、裏を見せて、ほっそり肌襦袢の真紅なのが、縁の糸とかの、燃えるように、ちらちらして、しずかまぶたを合わせていた、お藻代さんの肌の白いこと。……六畳は立籠たてこめてあるし、南風気みなみけで、その上暖か過ぎたでしょう。びんの毛がねっとりと、あの気味の悪いほど、枕に伸びた、長い、ふっくりしたのどへまつわって、それでいて、色がうっすりとあおいんですって。……友染の夜具に、裾は消えるようにほっそりしても──寝乱れよ、おじさん、家業で芸妓衆げいしゃしゅのなんかれていても、女中だって堅い素人なんでしょう。名古屋の客に呼ばれて……おのぶ──ええ、さっき私たち出しなに駒下駄を揃えた、あの銀杏返いちょうがえしの、内のあの女中ですわ──二階廊下を通りがかりにね、(おい、ねえさんか、湯を一杯。)……

(おひやを取かえて参りましょうか。)枕頭まくらもとにあるんですから。(いや、熱い湯だ。……時々こんな事がある。飲過ぎたと見えて寒気がする。)……これがふすま越しのやりとりよ。……

 私?……私は毎朝のように、お山の妙見様へお参りに。おっかさんは、まだ寝床に居たんです。台所の薬鑵ゆわかしにぐらぐらたぎったのを、銀の湯沸ゆわかしに移して、塗盆で持って上って、(御免遊ばせ。)中庭の青葉が、緑の霞に光って、さし込むなかに、いまの、その姿でしょう。──れない人だから、帯も、扱帯しごきも、羽衣でもむしったように、ひき乱れて、それも男の手で脱がされたのが分ります。──薄い朱鷺色ときいろ、雪輪なんですもの、どこが乳だか、長襦袢だか。──六畳だし……お藻代さんの顔の前、枕まではゆきにくい。お信が、ぼうとなって、入口に立ちますとね、(そこへ。)と名古屋の客がおっしゃる。……それなりに敷蒲団しきぶとんの裾へ置いて来たそうですが。」

 外套氏は肩をすくめた。思わず危険を予感した。

「名古屋の客が起上りしな、手を伸ばして、盆ごと取って、枕頭へ宙を引くトタンに塗盆をすべったんです。まるで、黒雲の中から白い猪が火を噴いて飛蒐とびかかいきおいで、お藻代さんの、恍惚うっとりしたその寝顔へ、ふたも飛んで、仰向あおむけに、熱湯が、血ですか、蒼い鬼火でしょうか、玉をやけば紫でしょうか……ばっと煮えた湯気が立ったでしょう。……お藻代さんは、地獄のかまで煮られたんです。

 あの、美しい、鼻も口も、それッきり、人には見せず……私たちも見られません。」

「野郎はどうした。」

 と外套氏の膝のこぶしが上った。

「それはね、ですが、納得ずくです。すっかり身支度をして、客は二階から下りて来て──長火鉢の前へ起きて出た、うちの母の前へ、きちんと膝に手をついて、

(──ちょっと事件が起りました。女は承知です。すぐ帰りますから。)──

 分外なお金子かねに添えて、立派な名刺を──これは極秘に、と云ってお出しなすったそうですが、すぐに式台へ出なさいますから、(ちょっとどうぞ、旦那。)と引留めて置いて、まだ顔も洗わなかったそうですけれど、トントンと、二階へ上って、大急ぎで廊下をめぐって、ふすまの外から、

(──夫人おくさん──)

 ひっそりしていたそうです。

(──夫人さん、旦那様はお帰りになりますが。)──

 ものに包まれたような、ふくみ声で、

(いらして、またおいであそばして……)──

 と、震えて、きれぎれに聞こえたって言います。

 おじさん、妙見様から、私が帰りました時はね、もう病院へ、母がついて、自動車で行ったあとです。お信たちのいうのでは、玉子色の絹の手巾ハンケチで顔を隠した、その手巾が、もう附着くッついていて離れないんですって。……帯をしめるのにも。そうして手巾に(もよ)と紅糸あかいと端縫はしぬいをしたのが、苦痛にゆがめて噛緊かみしめる唇が映って透くようで、涙は雪が溶けるように、頸脚えりあしへまで落ちたと言います。」

不可いけない……」

 外套氏は、お町の顔に当てた手巾をあわただしく手で払った。

 雨が激しく降って来た。

「……何とも申様がない……しかし、そこで鹿落の温泉へは、療治に行ったとでもいうわけかね。」

「湯治だなんのって、そんな怪我ではないのです。療治はうに済んだんですが、何しろ大変な火傷やけどでしょう。ずッと親もとへ引込んでいたんですが、片親です、おふくろばかり──外へも出ません。私たちが行って逢う時も、目だけは無事だったそうですけれども、すみの目金をかけて、ねえさんかぶりをして、口にはマスクを掛けて、御経を習っていました。お客から、つけ届けはちゃんとありますが、一度来るといって、一年たち三年たち、……もっとも、沸湯にえゆを浴びた、その時、(──男を一人助けて下さい。……見継ぎは、一生する。)──両手をついて、言ったんですって。

 お藻代さんは、ただ一夜ひとよなさけで、死んだつもりで、地獄の釜でうなずいたんですね。ですから、客の方で約束は違えないんですが、一生飼殺し、といった様子でしょう。

 旅行たびはどうしてしたでしょう。鹿落の方角です、察しられますわ。霜月でした──夜汽車はすいていますし、突伏つっぷしてでもいれば、誰にも顔は見られませんの。

 温泉宿でも、夜汽車でついて、すぐ、その夜半よなかだったんですって。──どこでもいうことでしょうかしら? 三つ並んだはばかりの真中まんなかへは入るものではないとは知っていたけれども、誰も入るもののないのを、かえって、たよりにして、夜ふけだし、そこへ入って……なさけないわけねえ。……鬱陶うっとうしい目金も、マスクも、やっと取って、はばかりの中ですよ。──それでほっとして、おおき階子段はしごだんの暗いのも、巌山いわやまながめるように珍らしく、手水鉢ちょうずばちかけひのかかった景色なぞ……」

「ああ、そうか。」

「うぐい亭の庭も一所に、川も、山も、何年ぶりか、久しぶりで見る気がして、湯ざめで冷くなるまで、のぞいたり、見廻したり、可哀想じゃありませんか。

 ──かきおきにあったんです──

 ハッと手をのばして、戸を内へ閉めました。不意に人が来たんですね。──それが細い白い手よ。」

「むむ、私のような奴だ。」

 と寂しく笑いつつ、毛肌になってぞっとした。

「ぎゃっと云って、その男が、すさまじい音で顛動返ひっくりかえってしまったんですってね。……夜番は駆けつけますわ、人は騒ぐ。気の毒さも、面目なさも通越して、ひけめのあるのは大火傷の顔のお化でしょう。

 もう身も世も断念あきらめて、すぐに死場所の、……鉄道線路へ……」

かわやからすぐだろうか。」

「さあね、それがね、恥かしさと死ぬ気の、一念で、突き破ったんでしょうか。細い身体からだなら抜けられるくらい古壁は落ちていたそうですけれど、手もきよめずに出たなんぞって、そんなのは、お藻代さんの身に取って私は可厭いや。……それだとどこで遺書かきおきが出来ます。──かれたのは、やっとの白みかかった時だっていうんですもの。もっとも(かすかなお月様の影をたよりに)そうかいてもあるんですけれども。一旦座敷へ帰ったんです。一生懸命、一大事、何かの時、魂も心も消えるといえば、姿だって、消えますわ。──三枚目の大男の目をまわしているまわりへ集まった連中の前は、霧のように、スッと通って、悠然と筧で手水をしたでしょう。」

「ものすごい。」

「でも、分らないのは、──新聞にも出ましたけれど、ちゃんと裾腰すそごしのたしなみはしてあるのに、ものは、肌まで通って、ぐっしょり、ずぶ濡れだったんですって。……水ごりでも取りましたか、それとも途中の小川へでも落ちたんでしょうか。」

「ああ、縁台が濡れる。」

 と、お町の手を取って、位置を直して、慎重に言った。

「それにね、首……顔がないんです。あの、冷いほど、真白まっしろな、乳も、腰も、手足も残して。……微塵みじんかれたんでしょう。血の池で、白魚がいたように、お藻代さんの、顔だの、頬だのが。

 堤防どてを離れた、電信のはりがねの上の、あの辺……崖の中途のしいの枝に、飛上った黒髪が──根をくるくると巻いて、さかさ真黒まっくろ小蓑こみのを掛けたようになって、それでも、優しい人ですから、すんなりと朝露に濡れていました。それでいて毛筋をつたわって、落ちるしずくが下へたまって、血だったそうです。」

「寒くなった。……出ようじゃないか。──ああ西日が当ると思ったら、向うの蕃椒とうがらしか。慌てている。が雨はあがった。」

 提灯なしに──二人は、歩行あるき出した。お町の顔の利くことは、いつの間にか、蓮根の中へ寄掛けて、傘が二本立掛けてあるのを振返って見たので知れる。

「……あすこに人が一人立っているね、縁台を少し離れて、手摺てすり寄掛よりかかって。」

「ええ、どしゃ降りの時、気がつきましたわ。私、おじさんの影法師かと思ったわ。──まだ麦酒ビイルがあったでしょう。あとで一口めしあがるなぞは、洒落しゃれてるわね。」

「何だ、いま泣いた烏がもう出て笑う、というのは、もうちと殊勝な、お人柄の事なんだぜ。私はまた、なぜだか、前刻さっきいった──八田──紺屋の干場の近くにうちのあった、その男のような気がしたよ。小学校以来。それだってくうな事過ぎるが、むかし懐かしさに、ここいら歩行あるかないとは限らない。──女づれだから、ちょっとことばを掛けかねたろう。……

 それだと、あすこで一杯やりかねない男だが、もうちと入組んだ事がある。──鹿落を日暮方出てへ来る夜汽車の中で、目の光る、陰気な若い人が真向まむこうに居てね。私と向い合うと、立掛けてあった鉄砲──あれは何とかいう猟銃さ──それを縦に取って、真鍮しんちゅうふたを、コツコツ開けたり、はめたりする。長い髪の毛を一振振りながら、(猟師と見えますか。)ニヤリと笑って、(フフン、世を忍ぶ──仮装ですよ。)と云ってね。袋から、血だらけな頬白ほおじろを、(受取ってくれたまえ。)──そういって、今度は銃を横へ向けて撃鉄うちがねをガチンと掛けるんだ。(麁葉そはだが、いかがです。)──貰いものじゃあるが葉巻を出すと、目を見据えて、(贅沢ぜいたくなものをやりますな、僕は、主義として、そういうものは用いないです。)またそういって、撃鉄をカチッとる。

 貰いものの葉巻を吹かすより、霰弾さんだんで鳥をばらす方が、よっぽど贅沢じゃないか、と思ったけれど、何しろ、木胴鉄胴きどうかねどうからくり胴鳴って通る飛団子、と一所に、隧道トンネルを幾つも抜けるんだからね。要するに仲蔵以前の定九郎だろう。

 そこで、小鳥の回向料えこうりょうを包んだのさ。

 十時四十分頃、二つさきの山の中の停車場へ下りた。が、別れしなに、たもとから名札を出して、寄越よこそうとして、また目を光らして引込ひっこめてしまった。

 ──小鳥は比羅びらのようなものに包んでくれた。比羅は裂いて汽車の窓から──小鳥は──包み直して宿へ着いてから裏の川へ流した。が、眼張魚めばるは、ひきがえるだとことわざに言うから、血の頬白は、うぐいになろうよ。──その男のだね、名刺に、用のありそうな人物が、何となく、立っていたんじゃないかとも思ったよ。」

 家業がら了解わかりは早い。

「そのむきの方なら、大概私が顔見知りよ。……いいえ、盗賊どろぼうや風俗の方ばかりじゃありません。」

「いや、大きに──それじゃ違ったろう。……安心した。──時に……実は椎の樹を通ってもらおうと思ったが、お藻代さんの話のいまだ。今度にしようか。」

「ええ、どちらでも。……ですが、もうこの軒を一つ廻った塀外が、じきその椎の樹ですよ。棟に蔭がさすでしょう。路地の暗いのもそのせいですわ。」

「大きな店らしいのに、寂寞ひっそりしている。何屋だろう。」

「有名な、湯葉屋です。」

「湯葉屋──坊主になりそこなった奴の、慈姑くわいと一所に、大好きなものだよ。豆府の湯へ箱形の波を打って、皮が伸びて浮く処をすくい上げる。よく、東の市場でのぞいたっけ。……あれは、面白い。」

「入ってみましょう。」

「障子は開いている──ははあ、大きな湯の字か。こん度は映画と間違えなかった。しかし、誰も居ないが、……いかい。」

「何かいったら、挨拶をしますわ。ちょっと参観に、何といいましょう、──見学に、ほほほ。」

 掃清めた広い土間に、おしいかな、火の気がなくて、ただ冷たいむろだった。妙に、日の静寂間しじまだったと見えて、人の影もない。窓の並んだ形が、椅子をかたづけた学校に似ていたが、一列に続いて、ざっと十台、曲尺かねじゃくに隅を取って、また五つばかりあかがねの角鍋が並んで、中に液体だけはたたえたのに、青桐あおぎりの葉が枯れつつ映っていた。月も十五に影を宿すであろう。出ようとすると、向うの端から、ちらちらといて、次第にかまどに火が廻った。電気か、瓦斯がすを使うのか、ほとんど五彩である。ぱッと燃えはじめた。

 この火が、一度に廻ると、カアテンを下ろしたように、窓が黒くなって、おかしな事には、立っている土間にひだを打って、しわが出来て、濡色に光沢つやが出た。

 お町が、しっかりと手を取った。

 背後うしろから、

「失礼ですが、貴方あなた……」

 前刻さっき蓮根市はすいちの影法師が、旅装で、白皙はくせきの紳士になり、且つ指環ゆびわを、かまどの火に彩られてあらわれた。

「おお、これは。」

 名古屋に時めく大資産家の婿君で、某学校の教授と、人の知る……すなわち、以前、この蓮池邸はすいけやしきの坊ちゃんであった。

「見覚えがおありでしょう。」

 とななめに向って、お町にいった。

「まあ。」

 時めく婿は、帽子ソフトを手にして、

「後刻、お伺いする処でした。」

 驚破す、再び、うぐい亭の当夜の嫖客ひょうかくは──かれであった。

 三人のめぐりあい。しかし結末にはならない。おなじくるわへ、第一歩、三人のつまさきが六つ入交いれまじった時である。

 落葉のそよぐほどの、跫音あしおともなしに、曲尺かねじゃくの角を、この工場から住居すまいへ続くらしい、細長い、暗い土間から、白髪しらががすくすくと生えた、八十を越えよう、目口も褐漆かっしつに干からびた、脊の低い、小さなばあさんが、継はぎの厚い布子ぬのこで、腰をかがめて出て来た。

 蒼白まっさおになって、お町があとへ引いた。

「おばあさん、見物をしていますよ。」

 と鷹揚おうように、先代の邸主はおちついて言った。

 何と、ばばあごをしゃくって、指二つで、目をはじいて、じろりと見上げたではないか。

「無断で、いけませんでしたかね。」

 外套氏は、やや妖変ようへんを感じながら、丁寧に云ったのである。

「どうなとせ。」

 つばと泡が噛合かみあうように、ぶつぶつと一言ひとこといったが、ふ、ふふん、と鼻の音をさせて、膝の下へ組手のまま、腰を振って、さあ、たしかなべの列のちょうど土間へ曲角の、火の気のかっと強い、その鍋の前へ立つと、しゃんと伸びて、ひじを張り、湯気のむらむらと立つ中へ、いきなり、くしゃくしゃの顔を突込つっこんだ。

 が、ばっと音を立てて引抜いた灰汁あくつらと、べとりと真黄色まっきいろ附着くッついた、豆府の皮と、どっちのしわぞ! ったように、低くしゃがんで、その湯葉の、長い顔を、目鼻もなしに、ぬっともたげた。

 口のあたりが、びくりと動き、こけの青い舌を長く吐いて、見よ見よ、べろべろとめ下ろすと、湯葉は、ずりさがり、めくれり、黒い目金と、耳までのマスクで、口が開いた、その白い顔は、湯葉一枚を二倍にして、土間の真中まんなかに大きい。

 同時に、蛇のように、再び舌がうねって舐め廻すと、ぐしゃぐしゃと顔一面、山女あけびつぶして真赤まっかになった。

 お町の肩を、両手でしっかとしめていて、一つ所にかたまった、我が足がよろめいて、自分がドシンと倒れたかと思う。名古屋の客は、前のめりに、近く、第一の銅鍋の沸上った中へおもてして突伏つっぷした。

「あッ。」

 片手で袖をつかんだ時、布子の裾のこわばった尖端とっさきがくるりとねて、ばばあの尻が片隅へ暗くかくれた。かまどの火は、炎を潜めて、一時いっときに皆消えた。

 同時に、雨がまた迫るように、窓の黒さが風に動いて、り上ったように見透かさるる市街に、暮早き電燈の影があかく立って、あかがねの鍋は一つ一つ、稲妻に似てぴかぴかと光った。

 足許も定まらない。土間のしわが裂けるかと思う時、ひいても離れなかった名古屋の客の顔が、湯気を飛ばして、辛うじて上るとともに、ぴちぴちとうおのごとく、手足をねて、どっと倒れた。両腋を抱いて、抱起した、その色は、火の皮の膨れた上に、ただれが紫の皺を、波打って、動いたのである。

 いちのあたりの人声、この時にぎやかに、古椎ふるしいこずえの、ざわざわと鳴る風の腥蕈なまぐささ。

 ──病院は、ことさらに、お藻代の時とちがった、ほかのを選んだ。

 生命いのち仔細しさいはない。

 男だ。容色なんぞは何でもあるまい。

 ただお町の繰り言に聞いても、お藻代の遺書かきおきにさえ、黒髪のおくれ毛ばかりも、怨恨うらみは水茎のあとに留めなかったというのに。──

 現代──ある意味において──めぐる因果の小車おぐるまなどという事は、天井裏の車麩くるまぶを鼠が伝うぐらいなものであろう。

 待て、それとても不気味でない事はない。

 魔は──鬼神は──あると見える。


 附言。

 今年、四月八日、灌仏会かんぶつえに、お向うの遠藤さんと、家内と一所に、麹町こうじまち六丁目、擬宝珠ぎぼうし屋根に桃の影さす、真宝寺の花御堂はなみどうもうでた。寺内に閻魔堂えんまどうがある。遠藤さんが扉を覗いて、袖で拝んで、

「お釈迦様と、お閻魔さんとは、どういう関係があるんでしょう。」

 唯今、七彩五色の花御堂に香水を奉仕した、この三十歳の、竜女の、深甚微妙なる聴問には弱った。要品ようほん読誦どくじゅする程度の智識では、説教も済度も覚束おぼつかない。

「いずれ、それは……その、如是我聞にょぜがもんという処ですがね。と時に、見附を出て、美佐古みさご(鮨屋)はいかがです。」

「いや。」

「これは御挨拶。」

 いきな坊主の還俗したのでもないものが、こはだの鮨を売るんだから、ツンとして、愛想のないのに無理はない。

朝飯あさを済ましたばかりなのよ。」

 午後三時半である。ききたまえ。

「そこを見込んで誘いましたよ。」

「私もそうだろうと思ってさ。」

 大通りを少しあるくと、向うから、羽織の袖で風呂敷づつみを抱いた、脊のすらりとした櫛巻くしまきの女が、ものしずかに来かかって、うつむいて、通過ぎた。

「いい女ね。見ましたか。」

「まったく。」

「しっとりとした、いい容子ようすね、目許めもとに恐ろしく情のある、口許の優しい、少し寂しい。」

 三人とも振返ると、町並樹の影に、その頸許えりもとが白く、肩がやつれていた。

 かねて、外套氏から聞いた、お藻代のおもかげに直面した気がしたのである。

 路地うちに、子供たちの太鼓の音がにぎわしい。入って見ると、裏道の角に、稲荷神いなりがみほこらがあって、のぼりが立っている。あたかも旧の初午はつうまの前日で、まだ人出がない。地口行燈じぐちあんどんがあちこちに昼の影を浮かせて、飴屋あめや、おでん屋の出たのが、再び、気のせいか、談話中の市場を髣髴ほうふつした。

 縦通りを真直まっすぐに、中六なかろく突切つッきって、左へ──女子学院の塀に添って、あれから、帰宅のみちを、再び中六へ向って、順に引返ひっかえすと、また向うから、容子といい、顔立もおなじような──これは島田髷しまだの娘さんであった──十八九のが行違った。

「そっくりね。」

「気味が悪いようですね。」

 と家内も云った。少し遠慮して、間をおいて、三人でひとしく振返ると、一脈の紅塵こうじん、軽く花片はなびらを乗せながら、うしろ姿を送って行く。……その娘も、町の三辻の処で見返った。春たけなわに、番町の桜は、しずかである。

 家へ帰って、摩耶夫人まやぶにんの影像──これだとすみやかに説教が出来る、先刻さっきの、花御堂の、あかちゃんの御母ぎみ──頂餅いただきと華をささげたのに、香をたいて、それから記しはじめた。

昭和六(一九三一)年七月

底本:「泉鏡花集成8」ちくま文庫、筑摩書房

   1996(平成8)年523日第1刷発行

底本の親本:「鏡花全集」岩波書店

   1942(昭和17)年7月刊行開始

入力:門田裕志

校正:林 幸雄

2001年917日公開

2005年927日修正

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