古狢
泉鏡花
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「しゃッ、しゃッ、しゃあっ!……」
寄席のいらっしゃいのように聞こえるが、これは、いざいざ、いでや、というほどの勢いの掛声と思えば可い。
「しゃあっ! 八貫─ウん、八貫、八貫、八貫と十ウ、九貫か、九貫と十ウだ、……十貫!」
目の下およそ八寸ばかり、濡色の鯛を一枚、しるし半纏という処を、めくら縞の筒袖を両方大肌脱ぎ、毛だらけの胸へ、釣身に取って、尾を空に、向顱巻の結びめと一所に、ゆらゆらと刎ねさせながら、掛声でその量を増すように、魚の頭を、下腹から膝頭へ、じりじりと下ろして行くが、
「しゃッ、しゃッ。」
と、腰を切って、胸を反らすと、再び尾から頭へ、じりじりと響を打たして釣下げる。これ、値を上げる寸法で。
「しゃッ、十貫十ウ、十貫二百、三百、三百ウ。」
親仁の面は朱を灌いで、その吻は蛸のごとく、魚の鰭は萌黄に光った。
「力は入るね、尾を取って頭を下げ下げ、段々に糶るのは、底力は入るが、見ていて陰気だね。」
と黒い外套を着た男が、同伴の、意気で優容の円髷に、低声で云った。
「そう。でも大鯛をせるのには、どこでもああするのじゃアありません?……」
人だちの背後から覗いていたのが、連立って歩き出して、
「……と言われると、第一、東京の魚河岸の様子もよく知らないで、お恥かしいよ。──ここで言っては唐突で、ちと飛離れているけれど、松江だね、出雲の。……茶町という旅館間近の市場で見たのは反対だっけ──今の……」
外套の袖を手で掲げて、
「十貫、百と糶上げるのに、尾を下にして、頭を上へ上へと上げる。……景気もよし、見ているうちに値が出来たが、よう、と云うと、それ、その鯛を目の上へ差上げて、人の頭越しに飜然と投げる。──処をすかさず受取るんだ、よう、と云って後の方で。……威勢がいい。それでいて、腰の矢立はここのも同じだが、紺の鯉口に、仲仕とかのするような広い前掛を捲いて、お花見手拭のように新しいのを頸に掛けた処なぞは、お国がら、まことに大どかなものだったよ。」
「陽気ね、それは。……でも、ここは近頃の新開ですもの。お魚はほんのつけたりで、おもに精進ものの取引をするんですよ。そういっては、十貫十ウの、いまの親仁に叱られるかも知れないけれど、皆が蓮根市場というくらいなんですわ。」
「成程、大きに。──しかもその実、お前さんと……むかしの蓮池を見に、寄道をしたんだっけ。」
と、外套は、洋杖も持たない腕を組んだ。
話の中には──この男が外套を脱ぐ必要もなさそうだから、いけぞんざいだけれども、懇意ずく、御免をこうむって、外套氏としておく。ただ旅客でも構わない。
が、私のこの旅客は、実は久しぶりの帰省者であった。以前にも両三度聞いた──渠の帰省談の中の同伴は、その容色よしの従姉なのであるが、従妹はあいにく京の本山へ参詣の留守で、いま一所なのは、お町というその娘……といっても一度縁着いた出戻りの二十七八。で、親まさりの別嬪が冴返って冬空に麗かである。それでも、どこかひけめのある身の、縞のおめしも、一層なよやかに、羽織の肩も細りとして、抱込んでやりたいほど、いとしらしい風俗である。けれども家業柄──家業は、土地の東の廓で──近頃は酒場か、カフェーの経営だと、話すのに幅が利くが、困った事にはお茶屋、いわゆるおん待合だから、ちと申憎い、が、仕方がない。それだけにまた娘の、世馴れて、人見知りをしない様子は、以下の挙動で追々に知れようと思う。
ちょうどいい。帰省者も故郷へ錦ではない。よって件の古外套で、映画の台本や、仕入ものの大衆向で、どうにか世渡りをしているのであるから。
「陽気も陽気だし、それに、山に包まれているんじゃない、その市場のすぐ見通しが、大きな湖だよ、あの、有名な宍道湖さ。」
「あら、山の中だって、おじさん、こちらにも、海も、湖も、大きなのがありますわ。」
湖は知らず、海に小さなのといっては断じてあるまい。何しろ、話だけでも東京が好きで、珍らしく土地自慢をしない娘も、対手が地方だけに、ちょっと反感を持ったらしい。
いかにも、湖は晃々と見える。が、水が蒼穹に高い処に光っている。近い山も、町の中央の城と向合った正面とは違い、場末のこの辺は、麓の迫る裾になり、遠山は波濤のごとく累っても、奥は時雨の濃い雲の、次第に霧に薄くなって、眉は迫った、すすき尾花の山の端は、巨きな猪の横に寝た態に似た、その猪の鼻と言おう、中空に抽出た、牙の白いのは湖である。丘を隔てて、一条青いのは海である。
その水の光は、足許の地に影を映射して、羽織の栗梅が明く澄み、袖の飛模様も千鳥に見える。見ると、やや立離れた──一段高く台を蹈んで立った──糶売の親仁は、この小春日の真中に、しかも夕月を肩に掛けた銅像に似ていた。
「あの煙突が邪魔だな。」
ここを入って行きましょうと、同伴が言う、私設の市場の入口で、外套氏は振返って、その猪の鼻の山裾を仰いで言った。
「あれ、温泉よ。」
「温泉?」
「いま通って来たじゃありませんか、おじさん。」
「ああ、あの紺屋の物干場と向い合った……蟋蟀がないていた……」
蟋蟀は……ここでも鳴く。
「その紺屋だって、あったのは昔ですわ。垣も何にもなくなって、いまは草場でしたわね。」
「そうだっけな──実は、あのならびに一人、おなじ小学校の組の友だちが居てね。……八田なにがし……」
「そのお飯粒で蛙を釣って遊んだって、御執心の、蓮池の邸の方とは違うんですか。」
鯛はまだ値が出来ない。山の端の薄に顱巻を突合せて、あの親仁はまた反った。
「違うんだよ。……何も更めて名のるほどの事もないんだけれど、子供ッて妙なもので、まわりに田があるから、ああ八田だ、それにしても八ツはない。……そんなことを独り合点した事も思出しておかしいし、余り様子が変っているので、心細いようにもなって、ついうっかりして──活動写真の小屋が出来た……がらんとしている、不景気だな、とぎょっとして、何、昼間は休みなのだろう、にしておいたよ。そういえば煙突も真正面で、かえって、あんなに高く見えなかったもんだから、明取りかと思ったっけ。……映画の明取りはちと変だね。どうかしている。」
と笑いながら、
「そうかい、温泉かい……こんな処に。」
「沸すんですよ……ただの水を。」
「ただの水はよかった、成程。」
「でも、温泉といった方が景気がいいからですわ。そしてね、おじさん、いまの、あれ、狢の湯っていうんですよ。」
「狢の湯?……」
と同伴の顔を見た時は、もうその市場の裡を半ば過ぎていた。まだ新しく、ほんの仮設らしい、通抜けで、ただ両側に店が並んだが、二三個処うつろに穴があいて、なぜか箪笥の抽斗の一つ足りないような気がする。今来た入口に、下駄屋と駄菓子屋が向合って、駄菓子屋に、ふかし芋と、茹でた豌豆を売るのも、下駄屋の前ならびに、子供の履ものの目立って紅いのも、もの侘しい。蒟蒻の桶に、鮒のバケツが並び、鰌の笊に、天秤を立掛けたままの魚屋の裏羽目からは、あなめあなめ空地の尾花が覗いている……といった形。
──あとで地の理をよく思うと、ここが昔の蓮池の口もとだったのだそうである。──
「皆その御眷属が売っているようだ。」
「何? おじさん。」
「いえね、その狢の湯の。」
「あら聞こえると悪ござんすわ。」
とたしなめる目づかいが、つい横の酒類販売店の壜に、瞳が蝶のようにちらりと映って、レッテルの桜に白い頬がほんのりする。
「決して悪く云ったのじゃない。……これで地口行燈が五つ六つあってごらん。──横露地の初午じゃないか。お祭のようだと祝ったんだよ。」
「そんな事……お祭だなんのといって、一口飲みたくなったんじゃあ、ありません? おっかさん(外套氏の従姉をいう)ならですけど、可厭よ、私、こんな処で、腰掛けて一杯なんぞ。」
「大丈夫。いくら好きだって、蕃椒では飲めないよ。」
と言った。
市場を出た処の、乾物屋と思う軒に、真紅な蕃椒が夥多しい。……新開ながら老舗と見える。わかめ、あらめ、ひじきなど、磯の香も芬とした。が、それが時雨でも誘いそうに、薄暗い店の天井は、輪にかがって、棒にして、揃えて掛けた、車麩で一杯であった。
「見事なものだ。村芝居の天井に、雨車を仕掛けた形で、妙に陰気だよ。」
串戯ではない。日向に颯と村雨が掛った、薄の葉摺れの音を立てて。──げに北国の冬空や。
二人は、ちょっとその軒下へ入ったが、
「すぐ晴れますわ、狐の嫁入よ。」
という、斜に見える市場の裏羽目に添って、紅蓼と、露草の枯れがれに咲いて残ったのが、どちらがその狐火の小提灯だか、濡々と灯れて、尾花に戦いで……それ動いて行く。
「そうか、私はまた狐の糸工場かと思った。雨あしの白いのが、天井の車麩から、ずらずらと降って来るようじゃあないか。」
「可厭、おじさん。」
と捩れるばかり、肩を寄せて、
「気味が悪い。」
「じゃあ、言直そう。ここは蓮池のあとらしいし、この糸で曼陀羅が織れよう。」
「ええ、だって、極楽でも、地獄でも、その糸がいけないの。」
「糸が不可いとは。」
「……だって、椎の木婆さんが、糸車を廻す処ですもの、小豆洗ともいうんですわ。」
後前を見廻して、
「それはね、城のお殿様の御寵愛の、その姉さんだったと言いましてね。むかし、魔法を使うように、よく祈りのきいた、美しい巫女がそこに居て、それが使った狢だとも言うんですがね。」
あなたは知らないのか、と声さえ憚ってお町が言った。──この乾物屋と直角に向合って、蓮根の問屋がある。土間を広々と取り、奥を深く、森と暗い、大きな家で、ここを蓮根市とも呼ぶのは、その故だという。屋の棟を、うしろ下りに、山の中腹と思う位置に、一朶の黒雲の舞下ったようなのが、年数を知らない椎の古木の梢である。大昔から、その根に椎の樹婆叉というのが居て、事々に異霊妖変を顕わす。徒然な時はいつも糸車を廻わしているのだそうである。もともと私どもの、この旅客は、その小学校友だちの邸あとを訪うために来た。……その時分には遊びに往来もしたろうものを、あの、椎の樹婆叉を知らないのかと、お町が更に怪しんで言うのであった。が、八ツや十ウのものを、わざと親たちは威しもしまい。……近所に古狢の居る事を、友だちは矜りはしなかったに違いない。
──町の湯の名もそれから起った。──そうか、椎の木の大狢、経立ち狢、化婆々。
「あれえ。」
「…………」
「可厭、おじさんは。」
「あやまった、あやまった。」
鉄砲で狙われた川蝉のように、日のさす小雨を、綺麗な裾で蓮の根へ飛んで遁げた。お町の後から、外套氏は苦笑いをしながら、その蓮根問屋の土間へ追い続いて、
「決して威す気で言ったんじゃあない。──はじめは蛇かと思って、ぞっとしたっけ。」
椎の樹婆叉の話を聞くうちに、ふと見ると、天井の車麩に搦んで、ちょろちょろと首と尾が顕われた。その上下に巻いて廻るのを、蛇が伝う、と見るとともに、車麩がくるくると動くようで、因果車が畝って通る。……で悚気としたが、熟と視ると、鼠か、溝鼠か、降る雨に、あくどく濡れて這っている。……時も時だし、や、小さな狢が天井へ、とうっかり饒舌って、きれいな鳥を蓮池へ飛ばしたのであった。
「そんな事に驚く奴があるものか。」
「だって、……でも、もう大丈夫だわ、ここへ来れば人間の狸が居るから。」
と、大きに蓮葉で、
「権ちゃん──居るの。」
獣ならば目が二つ光るだろう。あれでも人が居るかと思う。透かして見れば帳場があって、その奥から、大土間の内側を丸太で劃った──(朝市がそこで立つ)──その劃の外側を廻って、右の権ちゃん……めくら縞の筒袖を懐手で突張って、狸より膃肭臍に似て、ニタニタと顕われた。廓の美人で顔がきく。この権ちゃんが顕われると、外土間に出張った縁台に腰を掛けるのに──市が立つと土足で糶上るのだからと、お町が手巾でよく払いて、縁台に腰を掛けるのだから、じかに七輪の方がいい、そちこち、お八つ時分、薬鑵の湯も沸いていようと、遥な台所口からその権ちゃんに持って来させて、御挨拶は沢山……大きな坊やは、こう見えても人見知りをするから、とくるりと権ちゃんに背後を向かせて、手で叩く真似をすると、えへへ、と権ちゃんの引込んだ工合が、印は結ばないが、姉さんの妖術に魅ったようであった。
通り雨は一通り霽ったが、土は濡れて、冷くて、翡翠の影が駒下駄を辷ってまた映る……片褄端折に、乾物屋の軒を伝って、紅端緒の草履ではないが、ついと楽屋口へ行く状に、肩細く市場へ入ったのが、やがて、片手にビイルの壜、と見ると片手に持った硝子盃が、光りを分けて、二つになって並んだのは、お町さんも、一口つき合ってくれる気か。
「しゃッ、しゃッ。」
思わず糶声を立てて、おじさんは、手を揚げながら、片手で外套の膝を叩いた。
「お手柄、お手柄。」
土間はたちまち春になり、花の蕾の一輪を、朧夜にすかすごとく、お町の唇をビイルで撓めて、飲むほどに、蓮池のむかしを訪う身には本懐とも言えるであろう。根を掘上げたばかりと思う、見事な蓮根が柵の内外、浄土の逆茂木。勿体ないが、五百羅漢の御腕を、組違えて揃う中に、大笊に慈姑が二杯。泥のままのと、一笊は、藍浅く、颯と青に洗上げたのを、ころころと三つばかり、お町が取って、七輪へ載せ、尉を払い、火箸であしらい、媚かしい端折のまま、懐紙で煽ぐのに、手巾で軽く髪の艶を庇ったので、ほんのりと珊瑚の透くのが、三杯目の硝子盃に透いて、あの、唇だか、その珊瑚だか、花だか、蕾だか、蕩然となる。
「町子嬢、町子嬢。」
「は。」
と頸の白さを、滑かに、長く、傾いてちょっと嬌態を行る。
「気取ったな。」
「はあ。」
「一体こりゃどういう事になるんだい。」
「慈姑の田楽、ほほほ。」
と、簪の珊瑚と、唇が、霞の中に、慈姑とは別に二つ動いて、
「おじさんは、小児の時、お寺へ小僧さんにやられる処だったんだって……何も悪たれ坊ッてわけじゃない、賢くって、おとなしかったから。──そうすりゃきっと名僧知識になれたんだ。──お母さんがそういって話すんだわ。」
「悪かったよ。その方がよかったんだよ。相済まなかったよ。」
今度は、がばがばと手酌で注ぐ。
「ほほほほ、そのせいだか、精進男で、慈姑の焼いたのが大好きで、よく内へ来て頬張ったんだって……お母さんたら。」
「ああ、情ない。慈姑とは何事です。おなじ発心をしたにしても、これが鰌だと引導を渡す処だが、これじゃ、お念仏を唱えるばかりだ。──ああ、お町ちゃん。」
わざとした歎息を、陽気に、ふッと吹いて、
「……そういえば、一昨日の晩……途中で泊った、鹿落の温泉でね。」
「ええ。」
「実際、お念仏を唱えたよ、真夜半さ。」
「夜半。」
と七輪の上で、火の気に賑かな頬が肅然と沈んだ。
「……何、考えて見れば、くだらない事なんだが、鹿落は寂しい処だよ。そこを狙ったわけでもないが、来がけに一晩保養をしたがね。真北の海に向って山の中腹にあるんだから、長い板廊下を九十九折とった形に通るんだ。──知っているかも知れないが。──座敷は三階だったけれど、下からは四階ぐらいに当るだろう。晩飯の烏賊と蝦は結構だったし、赤蜻蛉に海の夕霧で、景色もよかったが、もう時節で、しんしんと夜の寒さが身に沁みる。あすこいら一帯に、袖のない夜具だから、四布の綿の厚いのがごつごつ重くって、肩がぞくぞくする。枕許へ熱燗を貰って、硝子盃酒の勢で、それでもぐっすり疲れて寝た。さあ何時頃だったろう。何しろ真夜半だ。厠へ行くのに、裏階子を下りると、これが、頑丈な事は、巨巌を斫開いたようです。下りると、片側に座敷が五つばかり並んで、向うの端だけ客が泊ったらしい。ところが、次の間つきで、奥だけ幽にともれていて、あとが暗い。一方が洗面所で、傍に大きな石の手水鉢がある、跼んで手を洗うように出来ていて、筧で谿河の水を引くらしい……しょろ、しょろ、ちゃぶりと、これはね、座敷で枕にまで響いたんだが、風の声も聞こえない。」
「まあ……」
「すぐの、だだッ広い、黒い板の間の向うが便所なんだが、その洗面所に一つ電燈が点いているきりだから、いとどさえ夜ふけの山気に圧されて、薄暗かったと思っておくれ。」
「可厭あね。」
「止むを得ないよ。……実際なんだから。晩に見た心覚えでは、この間に、板戸があって、一枚開いていたように思ったんだが、それが影もなかった。思いちがいなんだろう。
山霧の冷いのが──すぐ外は崖の森だし──窓から、隙間から、立て籠むと見えて、薄い靄のようなものが、敷居に立って、それに木目がありそうに見える。ところで、穿いた草履が、笹葉でも踏む心持にバサリとする。……暗い中に、三つ並んでいるんです。」
「あの、鹿落。」
と、瞳を凝らした、お町の眉に、その霧が仄にうつッた。
「三階の裏階子を下りた処だわね、三つ並んだ。」
「どうかしたかい。」
「どうして……それから。」
お町は聞返して、また息を引いた。
「その真中の戸が、バタン……と。」
「あら……」
「いいえさ、怯かすんじゃあない。そこで、いきなり開いたんだと、余計驚いたろうが──開いていたんだよ。ただし、開いていた、その黒い戸の、裏桟に、白いものが一条、うねうねと伝っている。」
「…………」
「どこからか、細目に灯が透くのかしら?……その端の、ふわりと薄匾ったい処へ、指が立って、白く刎ねて、動いたと思うと、すッと扉が閉った。招いたような形だが、串戯じゃあない、人が行ったので閉めたのさ。あとで思ってもまったく色が白かった、うつくしい女の手だよ──あ、どうした。」
その唇が、眉とともに歪んだと思うと、はらりと薫って、胸に冷り、円髷の手巾の落ちかかる、一重だけは隔てたが、お町の両の手が、咄嗟に外套の袖をしごくばかりに引掴んで、肩と袖で取縋った。片褄の襦袢が散って、山茶花のようにこぼれた。
この身動ぎに、七輪の慈姑が転げて、コンと向うへ飛んだ。一個は、こげ目が紫立って、蛙の人魂のように暗い土間に尾さえ曳く。
しばらくすると、息つぎの麦酒に、色を直して、お町が蛙の人魂の方を自分で食べ、至極尋常なのは、皮を剥がして、おじさんに振舞ったくらいであるから。──次の話が、私はじめ、読者諸君も安心して聞くことを得るのである。
一体、外套氏が、この際、いまの鹿落の白い手を言出したのは、決して怪談がかりに娘を怯かすつもりのものではなかった。近間ではあるし、ここを出たら、それこそ、ちちろ鳴く虫が糸を繰る音に紛れる、その椎樹──(釣瓶おろし)(小豆とぎ)などいう怪ものは伝統的につきものの──樹の下を通って見たかった。車麩の鼠に怯えた様子では、同行を否定されそうな形勢だった処から、「お町さん、念仏を唱えるばかり吃驚した、厠の戸の白い手も、先へ入っていた女が、人影に急いで扉を閉めただけの事で、何でもないのだ。」と、おくれ馳せながら、正体見たり枯尾花流に──続いて説明に及ぶと、澄んで沈んだ真顔になって、鹿落の旅館の、その三つ並んだ真中の厠は、取壊して今はない筈だ、と言って、先手に、もう知っている。……
はてな、そういえば、朝また、ようをたした時は、ここへ白い手が、と思う真中のは、壁が抜けて、不状に壊れて、向うが薮畳みになっていたのを思出す。……何、昨夜は暗がりで見損ったにして、一向気にも留めなかったのに。……
ふと、おじさんの方が少し寒気立って、
「──そういえば真中のはなかったよ、……朝になると。……じゃあ何か仔細があるのかい。」
「おじさん──それじゃ、おじさんは、幽霊を、見たんですね。」
「幽霊を。」
「もう私……気味が悪いの、可厭だなぞって、そんな押退けるようなこと言えませんわ。あんまり可哀想な方ですもの。それはね、あの、うぐい(鯎)亭──ずッと河上の、川魚料理……ご存じでしょう。」
「知ってるとも。──現在、昨日の午餉はあすこで食べたよ。閑静で、落着いて、しんみりして佳い家だが、そんな幽霊じみた事はいささかもなかったぜ。」
「いいえ、あすこの、女中さんが、鹿落の温泉でなくなったんです。お藻代さんという、しとやかな、優しい人でした。……おじさん、その白い、細いのは、そのお藻代さんの手なんですよ。」
「おどかしなさんない。おじさんを。」と外套氏は笑ったが。
──今年余寒の頃、雪の中を、里見、志賀の両氏が旅して、新潟の鍋茶屋などと併び称せらるる、この土地、第一流の割烹で一酌し、場所をかえて、美人に接した。その美人たちが、河上の、うぐい亭へお立寄り遊ばしたか、と聞いて、その方が、なお、お土産になりますのに、と言ったそうである。うぐい亭の存在を云爾ために、両家の名を煩わしたに過ぎない。両家はこの篇には、勿論、外套氏と寸毫のかかわりもない。続いて、仙女香、江戸の水のひそみに傚って、私が広告を頼まれたのでない事も断っておきたい。
近頃は風説に立つほど繁昌らしい。この外套氏が、故郷に育つ幼い時分には、一度ほとんど人気の絶えるほど寂れていた。町の場末から、橋を一つ渡って、山の麓を、五町ばかり川添に、途中、家のない処を行くので、雪にはいうまでもなく埋もれる。平家づくりで、数奇な亭構えで、筧の流れ、吹上げの清水、藤棚などを景色に、四つ五つ構えてあって、通いは庭下駄で、おも屋から、その方は、山の根に。座敷は川に向っているが、すぐ磧で、水は向う岸を、藍に、蒼に流れるのが、もの静かで、一層床しい。籬ほどもない低い石垣を根に、一株、大きな柳があって、幹を斜に磧へ伸びつつ、枝は八方へ、座敷の、どの窓も、廂も、蔽うばかり見事に靡いている。月には翡翠の滝の糸、雪には玉の簾を聯ねよう。
それと、戸前が松原で、抽でた古木もないが、ほどよく、暗くなく、あからさまならず、しっとりと、松葉を敷いて、松毬まじりに掻き分けた路も、根を畝って、奥が深い。いつも松露の香がたつようで、実際、初茸、しめじ茸は、この落葉に生えるのである。入口に萩の枝折戸、屋根なしに網代の扉がついている。また松の樹を五株、六株。すぐに石ころ道が白く続いて、飛地のような町屋の石を置いた板屋根が、山裾に沈んで見えると、そこにその橋がある。
蝙蝠に浮かれたり、蛍を追ったり、その昔子供等は、橋まで来るが、夜は、うぐい亭の川岸は通り得なかった。外套氏のいう処では、道の途中ぐらい、麓の出張った低い磧の岸に、むしろがこいの掘立小屋が三つばかり簗の崩れたようなのがあって、古俳句の──短夜や(何とかして)川手水──がそっくり想出された。そこが、野三昧の跡とも、山窩が甘い水を慕って出て来るともいう。人の灰やら、犬の骨やら、いずれ不気味なその部落を隔てた処に、幽にその松原が黒く乱れて梟が鳴いているお茶屋だった。──鯎、鮠、鮴の類は格別、亭で名物にする一尺の岩魚は、娘だか、妻女だか、艶色に懸相して、獺が件の柳の根に、鰭ある錦木にするのだと風説した。いささか、あやかしがついていて、一層寂れた。鵜の啣えた鮎は、殺生ながら賞翫しても、獺の抱えた岩魚は、色恋といえども気味が悪かったものらしい。
今は、自動車さえ往来をするようになって、松蔭の枝折戸まで、つきの女中が、柳なんぞの縞お召、人懐く送って出て、しとやかな、情のある見送りをする。ちょうど、容子のいい中年増が給仕に当って、確に外套氏がこれは体験した処である。ついでに岩魚の事を言おう。瀬波に翻える状に、背尾を刎ねた、皿に余る尺ばかりな塩焼は、まったく美味である。そこで、讃歎すると、上流、五里七里の山奥から活のまま徒歩で運んで来る、山爺の一人なぞは、七十を越した、もう五十年余りの馴染だ、と女中が言った。してみると、おなじ獺でも山獺が持参するので、伝説は嘘でない。しかし、お町の──一説では、上流五里七里の山奥から山爺は、──どの客にも言うのだそうである。
水と、柳のせいだろう。女中は皆美しく見えた。もし、妻女、娘などがあったら、さぞ妍艶であろうと察しらるる。
さて、「いらして、また、おいで遊ばして」と枝折戸でいう一種綿々たる余韻の松風に伝う挨拶は、不思議に嫋々として、客は青柳に引戻さるる思がする。なお一段と余情のあるのは、日が暮れると、竹の柄の小提灯で、松の中の径を送出すのだそうである。小褄の色が露に辷って、こぼれ松葉へ映るのは、どんなにか媚かしかろうと思う。
「──お藻代さんの時が、やっぱりそうだったんですってさ。それに、もう十時すぎだったというんです。」
五年前、六月六日の夜であった。明直にいえば、それが、うぐい亭のお藻代が、白い手の幻影になる首途であった。
その夜、松の中を小提灯で送り出た、中京、名古屋の一客──畜生め色男──は、枝折戸口で別れるのに、恋々としてお藻代を強いて、東の新地──廓の待合、明保野という、すなわちお町の家まで送って来させた。お藻代は、はじめから、お町の内に馴染ではあったが、それが更めて深い因縁になったのである。
「あの提灯が寂しいんですわ……考えてみますと……雑で、白張のようなんですもの。」──
「うぐい。」──と一面──「亭」が、まわしがきの裏にある。ところが、振向け方で、「うぐい」だけ黒く浮いて出ると、お経ではない、あの何とか、梵字とかのようで、卵塔場の新墓に灯れていそうに見えるから、だと解く。──この、お町の形象学は、どうも三世相の鼇頭にありそうで、承服しにくい。
それを、しかも松の枝に引掛けて、──名古屋の客が待っていた。冥途の首途を導くようじゃありませんか、五月闇に、その白提灯を、ぼっと松林の中に、という。……成程、もの寂しさは、もの寂しい……
話はちょっと前後した──うぐい亭では、座つきに月雪花。また少々慾張って、米俵だの、丁字だの、そうした形の落雁を出す。一枚ずつ、女の名が書いてある。場所として最も近い東の廓のおもだった芸妓連が引札がわりに寄進につくのだそうで。勿論、かけ離れてはいるが、呼べば、どの妓も三味線に応ずると言う。その五年前、六月六日の夜──名古屋の客は──註しておくが、その晩以来、顔馴染にもなり、音信もするけれども、その姓名だけは……とお町が堅く言わないのだそうであるから、ただ名古屋の客として。……あとを続けよう。
「──みんな、いい女らしいね。見た処。中でも、俵のなぞは嬉しいよ。ここに雪形に、もよ、というのは。」
「飛んだ、おそまつでございます。」
と白い手と一所に、銚子がしなうように見えて、水色の手絡の円髷が重そうに俯向いた。──嫋かな女だというから、その容子は想像に難くない。欄干に青柳の枝垂るる裡に、例の一尺の岩魚。鯎と蓴菜の酢味噌。胡桃と、飴煮の鮴の鉢、鮴とせん牛蒡の椀なんど、膳を前にした光景が目前にある。……
「これだけは、密と取りのけて、お客様には、お目に掛けませんのに、どうして交っていたのでございましょうね。」──
「いや、どうもその時の容子といったら。」──
名古屋の客は、あとで、廓の明保野で──落雁で馴染の芸妓を二三人一座に──そう云って、燥ぎもしたのだそうで。
落雁を寄進の芸妓連が、……女中頭ではあるし、披露めのためなんだから、美しく婀娜なお藻代の名だけは、なか間の先頭にかき込んでおくのであった。
──断るまでもないが、昨日の外套氏の時の落雁には、もはやお藻代の名だけはなかった。──
さて、至極古風な、字のよく読めない勘定がきの受取が済んで、そのうぐい提灯で送って出ると、折戸を前にして、名古屋の客が動かなくなった。落雁の芸妓を呼びに廓へ行く。是非送れ、お藻代さん。……一見は利かずとも、電話で言込めば、と云っても、威勢よく酒の機嫌で承知をしない。そうして、袖たけの松の樹のように動かない。そんな事で、誘われるような婦ではなかったのに、どういう縁か、それでは、おかみさんに聞いて許しを得て。……で、おも屋に引返したあとを、お町がいう処の、墓所の白張のような提灯を枝にかけて、しばらく待った。その薄い灯で、今度は、蕈が化けた状で、帽子を仰向けに踞んでいて待つ。
やがて、出て来た時、お藻代は薄化粧をして、長襦袢を着換えていた。
その長襦袢で……明保野で寝たのであるが、朱鷺色の薄いのに雪輪を白く抜いた友染である。径に、ちらちらと、この友染が、小提灯で、川風が水に添い、野茨、卯の花。且つちり乱るる、山裾の草にほのめいた時は、向瀬の流れも、低い磧の撫子を越して、駒下駄に寄ったろう。……
風が、どっと吹いて、蓮根市の土間は廂下りに五月闇のように暗くなった。一雨来よう。組合わせた五百羅漢の腕が動いて、二人を抱込みそうである。
どうも話が及腰になる。二人でその形に、並んで立ってもらいたい。その形、……その姿で。……お町さんとかも、褄端折をおろさずに。──お藻代も、道芝の露に裳を引揚げたというのであるから。
一体黒い外套氏が、いい年をした癖に、悪く色気があって、今しがた明保野の娘が、お藻代の白い手に怯えて取縋った時は、内々で、一抱き柔かな胸を抱込んだろう。……ばかりでない。はじめ、連立って、ここへ庭樹の多い士族町を通る間に──その昔、江戸護持院ヶ原の野仏だった地蔵様が、負われて行こう……と朧夜にニコリと笑って申されたを、通りがかった当藩三百石、究竟の勇士が、そのまま中仙道北陸道を負い通いて帰国した、と言伝えて、その負さりたもうた腹部の中窪みな、御丈、丈余の地蔵尊を、古邸の門内に安置して、花筒に花、手水鉢に柄杓を備えたのを、お町が手つぎに案内すると、外套氏が懐しそうに拝んだのを、嬉しがって、感心して、こん度は切殺された、城のお妾さん──のその姿で、縁切り神さんが、向うの森の祠にあるから一所に行こうと、興に乗じた時……何といった、外套氏。──「縁切り神様は、いやだよ、二人して。」は、苦々しい。
だから、ちょっとこの子をこう借りた工合に、ここで道行きの道具がわりに使われても、憾みはあるまい。
そこで川通りを、次第に──そうそうそう肩を合わせて歩行いたとして──橋は渡らずに屋敷町の土塀を三曲りばかり。お山の妙見堂の下を、たちまち明るい廓へ入って、しかも小提灯のまま、客の好みの酔興な、燈籠の絵のように、明保野の入口へ──そこで、うぐいの灯が消えた。
「──藤紫の半襟が少しはだけて、裏を見せて、繊り肌襦袢の真紅なのが、縁の糸とかの、燃えるように、ちらちらして、静に瞼を合わせていた、お藻代さんの肌の白いこと。……六畳は立籠めてあるし、南風気で、その上暖か過ぎたでしょう。鬢の毛がねっとりと、あの気味の悪いほど、枕に伸びた、長い、ふっくりしたのどへまつわって、それでいて、色が薄りと蒼いんですって。……友染の夜具に、裾は消えるように細りしても──寝乱れよ、おじさん、家業で芸妓衆のなんか馴れていても、女中だって堅い素人なんでしょう。名古屋の客に呼ばれて……お信──ええ、さっき私たち出しなに駒下駄を揃えた、あの銀杏返の、内のあの女中ですわ──二階廊下を通りがかりにね、(おい、ねえさんか、湯を一杯。)……
(お水を取かえて参りましょうか。)枕頭にあるんですから。(いや、熱い湯だ。……時々こんな事がある。飲過ぎたと見えて寒気がする。)……これが襖越しのやりとりよ。……
私?……私は毎朝のように、お山の妙見様へお参りに。おっかさんは、まだ寝床に居たんです。台所の薬鑵にぐらぐら沸ったのを、銀の湯沸に移して、塗盆で持って上って、(御免遊ばせ。)中庭の青葉が、緑の霞に光って、さし込む裡に、いまの、その姿でしょう。──馴れない人だから、帯も、扱帯も、羽衣でも毮ったように、ひき乱れて、それも男の手で脱がされたのが分ります。──薄い朱鷺色、雪輪なんですもの、どこが乳だか、長襦袢だか。──六畳だし……お藻代さんの顔の前、枕まではゆきにくい。お信が、ぼうとなって、入口に立ちますとね、(そこへ。)と名古屋の客がおっしゃる。……それなりに敷蒲団の裾へ置いて来たそうですが。」
外套氏は肩をすくめた。思わず危険を予感した。
「名古屋の客が起上りしな、手を伸ばして、盆ごと取って、枕頭へ宙を引くトタンに塗盆を辷ったんです。まるで、黒雲の中から白い猪が火を噴いて飛蒐る勢で、お藻代さんの、恍惚したその寝顔へ、蓋も飛んで、仰向けに、熱湯が、血ですか、蒼い鬼火でしょうか、玉をやけば紫でしょうか……ばっと煮えた湯気が立ったでしょう。……お藻代さんは、地獄の釜で煮られたんです。
あの、美しい、鼻も口も、それッきり、人には見せず……私たちも見られません。」
「野郎はどうした。」
と外套氏の膝の拳が上った。
「それはね、ですが、納得ずくです。すっかり身支度をして、客は二階から下りて来て──長火鉢の前へ起きて出た、うちの母の前へ、きちんと膝に手をついて、
(──ちょっと事件が起りました。女は承知です。すぐ帰りますから。)──
分外なお金子に添えて、立派な名刺を──これは極秘に、と云ってお出しなすったそうですが、すぐに式台へ出なさいますから、(ちょっとどうぞ、旦那。)と引留めて置いて、まだ顔も洗わなかったそうですけれど、トントンと、二階へ上って、大急ぎで廊下を廻って、襖の外から、
(──夫人さん──)
ひっそりしていたそうです。
(──夫人さん、旦那様はお帰りになりますが。)──
ものに包まれたような、ふくみ声で、
(いらして、またおいであそばして……)──
と、震えて、きれぎれに聞こえたって言います。
おじさん、妙見様から、私が帰りました時はね、もう病院へ、母がついて、自動車で行ったあとです。お信たちのいうのでは、玉子色の絹の手巾で顔を隠した、その手巾が、もう附着いていて離れないんですって。……帯をしめるのにも。そうして手巾に(もよ)と紅糸で端縫をしたのが、苦痛にゆがめて噛緊める唇が映って透くようで、涙は雪が溶けるように、頸脚へまで落ちたと言います。」
「不可い……」
外套氏は、お町の顔に当てた手巾を慌しく手で払った。
雨が激しく降って来た。
「……何とも申様がない……しかし、そこで鹿落の温泉へは、療治に行ったとでもいうわけかね。」
「湯治だなんのって、そんな怪我ではないのです。療治は疾うに済んだんですが、何しろ大変な火傷でしょう。ずッと親もとへ引込んでいたんですが、片親です、おふくろばかり──外へも出ません。私たちが行って逢う時も、目だけは無事だったそうですけれども、すみの目金をかけて、姉さんかぶりをして、口にはマスクを掛けて、御経を習っていました。お客から、つけ届けはちゃんとありますが、一度来るといって、一年たち三年たち、……もっとも、沸湯を浴びた、その時、(──男を一人助けて下さい。……見継ぎは、一生する。)──両手をついて、言ったんですって。
お藻代さんは、ただ一夜の情で、死んだつもりで、地獄の釜で頷いたんですね。ですから、客の方で約束は違えないんですが、一生飼殺し、といった様子でしょう。
旅行はどうしてしたでしょう。鹿落の方角です、察しられますわ。霜月でした──夜汽車はすいていますし、突伏してでもいれば、誰にも顔は見られませんの。
温泉宿でも、夜汽車でついて、すぐ、その夜半だったんですって。──どこでもいうことでしょうかしら? 三つ並んだはばかりの真中へは入るものではないとは知っていたけれども、誰も入るもののないのを、かえって、たよりにして、夜ふけだし、そこへ入って……情ないわけねえ。……鬱陶しい目金も、マスクも、やっと取って、はばかりの中ですよ。──それで吻として、大な階子段の暗いのも、巌山を視めるように珍らしく、手水鉢に筧のかかった景色なぞ……」
「ああ、そうか。」
「うぐい亭の庭も一所に、川も、山も、何年ぶりか、久しぶりで見る気がして、湯ざめで冷くなるまで、覗いたり、見廻したり、可哀想じゃありませんか。
──かきおきにあったんです──
ハッと手をのばして、戸を内へ閉めました。不意に人が来たんですね。──それが細い白い手よ。」
「むむ、私のような奴だ。」
と寂しく笑いつつ、毛肌になって悚とした。
「ぎゃっと云って、その男が、凄じい音で顛動返ってしまったんですってね。……夜番は駆けつけますわ、人は騒ぐ。気の毒さも、面目なさも通越して、ひけめのあるのは大火傷の顔のお化でしょう。
もう身も世も断念めて、すぐに死場所の、……鉄道線路へ……」
「厠からすぐだろうか。」
「さあね、それがね、恥かしさと死ぬ気の、一念で、突き破ったんでしょうか。細い身体なら抜けられるくらい古壁は落ちていたそうですけれど、手も浄めずに出たなんぞって、そんなのは、お藻代さんの身に取って私は可厭。……それだとどこで遺書が出来ます。──轢かれたのは、やっと夜の白みかかった時だっていうんですもの。もっとも(幽なお月様の影をたよりに)そうかいてもあるんですけれども。一旦座敷へ帰ったんです。一生懸命、一大事、何かの時、魂も心も消えるといえば、姿だって、消えますわ。──三枚目の大男の目をまわしているまわりへ集まった連中の前は、霧のように、スッと通って、悠然と筧で手水をしたでしょう。」
「もの凄い。」
「でも、分らないのは、──新聞にも出ましたけれど、ちゃんと裾腰のたしなみはしてあるのに、衣ものは、肌まで通って、ぐっしょり、ずぶ濡れだったんですって。……水ごりでも取りましたか、それとも途中の小川へでも落ちたんでしょうか。」
「ああ、縁台が濡れる。」
と、お町の手を取って、位置を直して、慎重に言った。
「それにね、首……顔がないんです。あの、冷いほど、真白な、乳も、腰も、手足も残して。……微塵に轢かれたんでしょう。血の池で、白魚が湧いたように、お藻代さんの、顔だの、頬だのが。
堤防を離れた、電信のはりがねの上の、あの辺……崖の中途の椎の枝に、飛上った黒髪が──根をくるくると巻いて、倒に真黒な小蓑を掛けたようになって、それでも、優しい人ですから、すんなりと朝露に濡れていました。それでいて毛筋をつたわって、落ちる雫が下へ溜って、血だったそうです。」
「寒くなった。……出ようじゃないか。──ああ西日が当ると思ったら、向うの蕃椒か。慌てている。が雨は霽った。」
提灯なしに──二人は、歩行き出した。お町の顔の利くことは、いつの間にか、蓮根の中へ寄掛けて、傘が二本立掛けてあるのを振返って見たので知れる。
「……あすこに人が一人立っているね、縁台を少し離れて、手摺に寄掛って。」
「ええ、どしゃ降りの時、気がつきましたわ。私、おじさんの影法師かと思ったわ。──まだ麦酒があったでしょう。あとで一口めしあがるなぞは、洒落てるわね。」
「何だ、いま泣いた烏がもう出て笑う、というのは、もうちと殊勝な、お人柄の事なんだぜ。私はまた、なぜだか、前刻いった──八田──紺屋の干場の近くに家のあった、その男のような気がしたよ。小学校以来。それだって空な事過ぎるが、むかし懐かしさに、ここいら歩行かないとは限らない。──女づれだから、ちょっと言を掛けかねたろう。……
それだと、あすこで一杯やりかねない男だが、もうちと入組んだ事がある。──鹿落を日暮方出て此地へ来る夜汽車の中で、目の光る、陰気な若い人が真向に居てね。私と向い合うと、立掛けてあった鉄砲──あれは何とかいう猟銃さ──それを縦に取って、真鍮の蓋を、コツコツ開けたり、はめたりする。長い髪の毛を一振振りながら、(猟師と見えますか。)ニヤリと笑って、(フフン、世を忍ぶ──仮装ですよ。)と云ってね。袋から、血だらけな頬白を、(受取ってくれたまえ。)──そういって、今度は銃を横へ向けて撃鉄をガチンと掛けるんだ。(麁葉だが、いかがです。)──貰いものじゃあるが葉巻を出すと、目を見据えて、(贅沢なものをやりますな、僕は、主義として、そういうものは用いないです。)またそういって、撃鉄をカチッと行る。
貰いものの葉巻を吹かすより、霰弾で鳥をばらす方が、よっぽど贅沢じゃないか、と思ったけれど、何しろ、木胴鉄胴からくり胴鳴って通る飛団子、と一所に、隧道を幾つも抜けるんだからね。要するに仲蔵以前の定九郎だろう。
そこで、小鳥の回向料を包んだのさ。
十時四十分頃、二つさきの山の中の停車場へ下りた。が、別れしなに、袂から名札を出して、寄越そうとして、また目を光らして引込めてしまった。
──小鳥は比羅のようなものに包んでくれた。比羅は裂いて汽車の窓から──小鳥は──包み直して宿へ着いてから裏の川へ流した。が、眼張魚は、蟇だと諺に言うから、血の頬白は、鯎になろうよ。──その男のだね、名刺に、用のありそうな人物が、何となく、立っていたんじゃないかとも思ったよ。」
家業がら了解は早い。
「その向の方なら、大概私が顔見知りよ。……いいえ、盗賊や風俗の方ばかりじゃありません。」
「いや、大きに──それじゃ違ったろう。……安心した。──時に……実は椎の樹を通ってもらおうと思ったが、お藻代さんの話のいまだ。今度にしようか。」
「ええ、どちらでも。……ですが、もうこの軒を一つ廻った塀外が、じきその椎の樹ですよ。棟に蔭がさすでしょう。路地の暗いのもそのせいですわ。」
「大きな店らしいのに、寂寞している。何屋だろう。」
「有名な、湯葉屋です。」
「湯葉屋──坊主になり損った奴の、慈姑と一所に、大好きなものだよ。豆府の湯へ箱形の波を打って、皮が伸びて浮く処をすくい上げる。よく、東の市場で覗いたっけ。……あれは、面白い。」
「入ってみましょう。」
「障子は開いている──ははあ、大きな湯の字か。こん度は映画と間違えなかった。しかし、誰も居ないが、……可いかい。」
「何かいったら、挨拶をしますわ。ちょっと参観に、何といいましょう、──見学に、ほほほ。」
掃清めた広い土間に、惜いかな、火の気がなくて、ただ冷たい室だった。妙に、日の静寂間だったと見えて、人の影もない。窓の並んだ形が、椅子をかたづけた学校に似ていたが、一列に続いて、ざっと十台、曲尺に隅を取って、また五つばかり銅の角鍋が並んで、中に液体だけは湛えたのに、青桐の葉が枯れつつ映っていた。月も十五に影を宿すであろう。出ようとすると、向うの端から、ちらちらと点いて、次第に竈に火が廻った。電気か、瓦斯を使うのか、ほとんど五彩である。ぱッと燃えはじめた。
この火が、一度に廻ると、カアテンを下ろしたように、窓が黒くなって、おかしな事には、立っている土間にひだを打って、皺が出来て、濡色に光沢が出た。
お町が、しっかりと手を取った。
背後から、
「失礼ですが、貴方……」
前刻の蓮根市の影法師が、旅装で、白皙の紳士になり、且つ指環を、竈の火に彩られて顕われた。
「おお、これは。」
名古屋に時めく大資産家の婿君で、某学校の教授と、人の知る……すなわち、以前、この蓮池邸の坊ちゃんであった。
「見覚えがおありでしょう。」
と斜に向って、お町にいった。
「まあ。」
時めく婿は、帽子を手にして、
「後刻、お伺いする処でした。」
驚破す、再び、うぐい亭の当夜の嫖客は──渠であった。
三人のめぐりあい。しかし結末にはならない。おなじ廓へ、第一歩、三人のつまさきが六つ入交った時である。
落葉のそよぐほどの、跫音もなしに、曲尺の角を、この工場から住居へ続くらしい、細長い、暗い土間から、白髪がすくすくと生えた、八十を越えよう、目口も褐漆に干からびた、脊の低い、小さな媼さんが、継はぎの厚い布子で、腰を屈めて出て来た。
蒼白になって、お町があとへ引いた。
「お姥さん、見物をしていますよ。」
と鷹揚に、先代の邸主は落ついて言った。
何と、媼は頤をしゃくって、指二つで、目を弾いて、じろりと見上げたではないか。
「無断で、いけませんでしたかね。」
外套氏は、やや妖変を感じながら、丁寧に云ったのである。
「どうなとせ。」
唾と泡が噛合うように、ぶつぶつと一言いったが、ふ、ふふん、と鼻の音をさせて、膝の下へ組手のまま、腰を振って、さあ、たしか鍋の列のちょうど土間へ曲角の、火の気の赫と強い、その鍋の前へ立つと、しゃんと伸びて、肱を張り、湯気のむらむらと立つ中へ、いきなり、くしゃくしゃの顔を突込んだ。
が、ばっと音を立てて引抜いた灰汁の面と、べとりと真黄色に附着いた、豆府の皮と、どっちの皺ぞ! 這ったように、低く踞んで、その湯葉の、長い顔を、目鼻もなしに、ぬっと擡げた。
口のあたりが、びくりと動き、苔の青い舌を長く吐いて、見よ見よ、べろべろと舐め下ろすと、湯葉は、ずり下り、めくれ下り、黒い目金と、耳までのマスクで、口が開いた、その白い顔は、湯葉一枚を二倍にして、土間の真中に大きい。
同時に、蛇のように、再び舌が畝って舐め廻すと、ぐしゃぐしゃと顔一面、山女を潰して真赤になった。
お町の肩を、両手でしっかとしめていて、一つ所に固った、我が足がよろめいて、自分がドシンと倒れたかと思う。名古屋の客は、前のめりに、近く、第一の銅鍋の沸上った中へ面を捺して突伏した。
「あッ。」
片手で袖を握んだ時、布子の裾のこわばった尖端がくるりと刎ねて、媼の尻が片隅へ暗くかくれた。竈の火は、炎を潜めて、一時に皆消えた。
同時に、雨がまた迫るように、窓の黒さが風に動いて、装り上ったように見透かさるる市街に、暮早き電燈の影があかく立って、銅の鍋は一つ一つ、稲妻に似てぴかぴかと光った。
足許も定まらない。土間の皺が裂けるかと思う時、ひいても離れなかった名古屋の客の顔が、湯気を飛ばして、辛うじて上るとともに、ぴちぴちと魚のごとく、手足を刎ねて、どっと倒れた。両腋を抱いて、抱起した、その色は、火の皮の膨れた上に、爛が紫の皺を、波打って、動いたのである。
市のあたりの人声、この時賑かに、古椎の梢の、ざわざわと鳴る風の腥蕈さ。
──病院は、ことさらに、お藻代の時とちがった、他のを選んだ。
生命に仔細はない。
男だ。容色なんぞは何でもあるまい。
ただお町の繰り言に聞いても、お藻代の遺書にさえ、黒髪のおくれ毛ばかりも、怨恨は水茎のあとに留めなかったというのに。──
現代──ある意味において──めぐる因果の小車などという事は、天井裏の車麩を鼠が伝うぐらいなものであろう。
待て、それとても不気味でない事はない。
魔は──鬼神は──あると見える。
附言。
今年、四月八日、灌仏会に、お向うの遠藤さんと、家内と一所に、麹町六丁目、擬宝珠屋根に桃の影さす、真宝寺の花御堂に詣でた。寺内に閻魔堂がある。遠藤さんが扉を覗いて、袖で拝んで、
「お釈迦様と、お閻魔さんとは、どういう関係があるんでしょう。」
唯今、七彩五色の花御堂に香水を奉仕した、この三十歳の、竜女の、深甚微妙なる聴問には弱った。要品を読誦する程度の智識では、説教も済度も覚束ない。
「いずれ、それは……その、如是我聞という処ですがね。と時に、見附を出て、美佐古(鮨屋)はいかがです。」
「いや。」
「これは御挨拶。」
いきな坊主の還俗したのでもないものが、こはだの鮨を売るんだから、ツンとして、愛想のないのに無理はない。
「朝飯を済ましたばかりなのよ。」
午後三時半である。ききたまえ。
「そこを見込んで誘いましたよ。」
「私もそうだろうと思ってさ。」
大通りを少しあるくと、向うから、羽織の袖で風呂敷づつみを抱いた、脊のすらりとした櫛巻の女が、もの静に来かかって、うつむいて、通過ぎた。
「いい女ね。見ましたか。」
「まったく。」
「しっとりとした、いい容子ね、目許に恐ろしく情のある、口許の優しい、少し寂しい。」
三人とも振返ると、町並樹の影に、その頸許が白く、肩が窶れていた。
かねて、外套氏から聞いた、お藻代の俤に直面した気がしたのである。
路地うちに、子供たちの太鼓の音が賑わしい。入って見ると、裏道の角に、稲荷神の祠があって、幟が立っている。あたかも旧の初午の前日で、まだ人出がない。地口行燈があちこちに昼の影を浮かせて、飴屋、おでん屋の出たのが、再び、気のせいか、談話中の市場を髣髴した。
縦通りを真直ぐに、中六を突切って、左へ──女子学院の塀に添って、あれから、帰宅の途を、再び中六へ向って、順に引返すと、また向うから、容子といい、顔立もおなじような──これは島田髷の娘さんであった──十八九のが行違った。
「そっくりね。」
「気味が悪いようですね。」
と家内も云った。少し遠慮して、間をおいて、三人で斉しく振返ると、一脈の紅塵、軽く花片を乗せながら、うしろ姿を送って行く。……その娘も、町の三辻の処で見返った。春闌に、番町の桜は、静である。
家へ帰って、摩耶夫人の影像──これだと速に説教が出来る、先刻の、花御堂の、あかちゃんの御母ぎみ──頂餅と華をささげたのに、香をたいて、それから記しはじめた。
底本:「泉鏡花集成8」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年5月23日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集」岩波書店
1942(昭和17)年7月刊行開始
入力:門田裕志
校正:林 幸雄
2001年9月17日公開
2005年9月27日修正
青空文庫作成ファイル:
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