鷭狩
泉鏡花
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一
初冬の夜更である。
片山津(加賀)の温泉宿、半月館弓野屋の二階──だけれど、広い階子段が途中で一段大きく蜿ってS形に昇るので三階ぐらいに高い──取着の扉を開けて、一人旅の、三十ばかりの客が、寝衣で薄ぼんやりと顕れた。
この、半ば西洋づくりの構は、日本間が二室で、四角な縁が、名にしおうここの名所、三湖の雄なる柴山潟を見晴しの露台の誂ゆえ、硝子戸と二重を隔ててはいるけれど、霜置く月の冷たさが、渺々たる水面から、自から沁徹る。……
いま偶と寝覚の枕を上げると、電燈は薄暗し、硝子戸を貫いて、障子にその水の影さえ映るばかりに見えたので、
「おお、寒い。」
頸から寒くなって起きて出た。が、寝ぬくもりの冷めないうち、早く厠へと思う急心に、向う見ずに扉を押した。
押して出ると、不意に凄い音で刎返した。ドーンと扉の閉るのが、広い旅館のがらんとした大天井から地の底まで、もっての外に響いたのである。
一つ、大きなもの音のしたあとは、目の前の階子段も深い穴のように見えて、白い灯も霜を敷いた状に床に寂しい。木目の節の、点々黒いのも鼠の足跡かと思われる。
まことに、この大旅館はがらんとしていた。──宵に受持の女中に聞くと、ひきつづき二十日余りの間団体観光の客が立てつけて毎日百人近く込合ったそうである。そこへ女中がやっと四人ぐらいだから、もし昨日にもおいでだと、どんなにお気の毒であったか知れない。すっかり潮のように引いたあとで、今日はまた不思議にお客が少く、此室に貴方と、離室の茶室をお好みで、御隠居様御夫婦のお泊りがあるばかり、よい処で、よい折から──と言った癖に……客が膳の上の猪口をちょっと控えて、それはお前さんたちさぞ疲れたろう、大掃除の後の骨休め、という処だ。ここは構わないで、湯にでも入ったら可かろうと、湯治の客には妙にそぐわない世辞を言うと、言に随いて、ではそうさして頂きます、後生ですわ、と膠もなく引退った。畳も急に暗くなって、客は胴震いをしたあとを呆気に取られた。
……思えば、それも便宜ない。……
さて下りる階子段は、一曲り曲る処で、一度ぱっと明るく広くなっただけに、下を覗くとなお寂しい。壁も柱もまだ新しく、隙間とてもないのに、薄い霧のようなものが、すっと這入っては、そッと爪尖を嘗めるので、変にスリッパが辷りそうで、足許が覚束ない。
渠は壁に掴った。
掌がその壁の面に触れると、遠くで湯の雫の音がした。
聞き澄すと、潟の水の、汀の蘆間をひたひたと音訪れる気勢もする。……風は死んだのに、遠くなり、近くなり、汽車が谺するように、ゴーと響くのは海鳴である。
更に遠く来た旅を知りつつ、沈むばかりに階段を下切った。
どこにも座敷がない、あっても泊客のないことを知った長廊下の、底冷のする板敷を、影の徜徉うように、我ながら朦朧として辿ると……
「ああ、この音だった。」
汀の蘆に波の寄ると思ったのが、近々と聞える処に、洗面所のあったのを心着いた。
機械口が緩んだままで、水が点滴っているらしい。
その袖壁の折角から、何心なく中を覗くと、
「あッ。」と、思わず声を立てて、ばたばたと後へ退った。
雪のような女が居て、姿見に真蒼な顔が映った。
温泉の宿の真夜中である。
二
客は、なまじ自分の他に、離室に老人夫婦ばかりと聞いただけに、廊下でいきなり、女の顔の白鷺に擦違ったように吃驚した。
が、雪のようなのは、白い頸だ。……背後むきで、姿見に向ったのに相違ない。燈の消えたその洗面所の囲が暗いから、肩も腰も見えなかったのであろう、と、疑の幽霊を消しながら、やっぱり悚然として立淀んだ。
洗面所の壁のその柱へ、袖の陰が薄りと、立縞の縞目が映ると、片頬で白くさし覗いて、
「お手水……」
と、ものを忍んだように言った。優しい柔かな声が、思いなしか、ちらちらと雪の降りかかるようで、再び悚然として息を引く。……
「どうぞ、こちらへ。」
と言った時は──もう怪しいものではなかった──紅鼻緒の草履に、白い爪さきも見えつつ、廊下を導いてくれるのであろう。小褄を取った手に、黒繻子の襟が緩い。胸が少しはだかって、褄を引揚げたなりに乱れて、こぼれた浅葱が長く絡った、ぼっとりものの中肉が、帯もないのに、嬌娜である。
「いや知っています。」
これで安心して、衝と寄りざまに、斜に向うへ離れる時、いま見たのは、この女の魂だったろう、と思うほど、姿も艶に判然して、薄化粧した香さえ薫る。湯上りの湯のにおいも可懐いまで、ほんのり人肌が、空に来て絡った。
階段を這った薄い霧も、この女の気を分けた幽な湯の煙であったろうと、踏んだのは惜い気がする。
「何だろう、ここの女中とは思うが、すばらしい中年増だ。」
手を洗って、ガタン、トンと、土間穿の庭下駄を引摺る時、閉めて出た障子が廊下からすッと開いたので、客はもう一度ハッとした。
と小がくれて、その中年増がそこに立つ。
「これは憚り……」
「いいえ。」
と、もう縞の小袖をしゃんと端折って、昼夜帯を引掛に結んだが、紅い扱帯のどこかが漆の葉のように、紅にちらめくばかり。もの静な、ひとがらな、おっとりした、顔も下ぶくれで、一重瞼の、すっと涼しいのが、ぽっと湯に染まって、眉の優しい、容子のいい女で、色はただ雪をあざむく。
「しかし、驚きましたよ、まったくの処驚きましたよ。」
と、懐中に突込んで来た、手巾で手を拭くのを見て、
「あれ、貴方……お手拭をと思いましたけれど、唯今お湯へ入りました、私のだものですから。──それに濡れてはおりますし……」
「それは……そいつは是非拝借しましょう。貸して下さい。」
「でも、貴方。」
「いや、結構、是非願います。」
と、うっかりらしく手に持った女の濡手拭を、引手繰るようにぐいと取った。
「まあ。」
「ばけもののする事だと思って下さい。丑満時で、刻限が刻限だから。」
ほぼその人がらも分ったので、遠慮なしに、半調戯うように、手どころか、するすると面を拭いた。湯のぬくもりがまだ残る、木綿も女の膚馴れて、柔かに滑かである。
「あれ、お気味が悪うございましょうのに。」
と釣込まれたように、片袖を頬に当てて、取戻そうと差出す手から、ついと、あとじさりに離れた客は、手拭を人質のごとく、しかと取って、
「気味の悪かったのは只今でしたな──この夜ふけに、しかも、ここから、唐突だろう。」
そのまま洗面所へ肩を入れて、
「思いも寄らない──それに、余り美しい綺麗な人なんだから。」
声が天井へもつき通して、廊下へも響くように思われたので、急に、ひっそりと声の調子を沈めた。
「ほんとうに胆が潰れたね。今思ってもぞッとする……別嬪なのと、不意討で……」
「お巧言ばっかり。」
と、少し身を寄せたが、さしうつむく。
「串戯じゃありません。……(お手水……)の時のごときは、頭から霜を浴びて潟の底へ引込まれるかと思ったのさ。」
大袈裟に聞えたが。……
「何とも申訳がありません。──時ならない時分に、髪を結ったりなんかしましたものですから。──あの、実は、今しがた、遠方のお客様から電報が入りまして、この三時十分に動橋へ着きます汽車で、当方へおいでになるッて事だものですから、あとは皆年下の女たちが疲れて寝ていますし……私がお世話を申上げますので。あの、久しぶりで宵に髪を洗いましたものですから、ちょっと束ねておりました処なんでございますよ。」
いまは櫛巻が艶々しく、すなおな髪のふっさりしたのに、顔がやつれてさえ見えるほどである。
「女中部屋でいたせばようございますのに、床も枕も一杯になって寝ているものでございますから、つい、一風呂頂きましたあとを、お客様のお使いになります処を拝借をいたしまして、よる夜中だと申すのに。……変化でございますわね──ほんとうに。」
と鬢に手を触ったまままた俯向く。
「何、温泉宿の夜中に、寂しい廊下で出会すのは、そんなお化に限るんだけれど、何てたって驚きましたよ──馬鹿々々しいほど驚いたぜ。」
言うまでもなく、女中と分って、ものいいぶりも遠慮なしに、
「いまだに、胸がどきどきするね。」
と、どうした料簡だか、ありあわせた籐椅子に、ぐったりとなって肱をもたせる。
「あなた、お寒くはございませんの。」
「今度は赫々とほてるんだがね。──腰が抜けて立てません。」
「まあ……」
三
「お澄さん……私は見事に強請ったね。──強請ったより強請だよ。いや、この時刻だから強盗の所業です。しかし難有い。」
と、枕だけ刎ねた寝床の前で、盆の上ながらその女中──お澄──に酌をしてもらって、怪しからず恐悦している。
客は、手を曳いてくれないでは、腰が抜けて二階へは上れないと、串戯を真顔で強いると、ちょっと微笑みながら、それでも心から気の毒そうに、否とも言わず、肩を並べて、階子段を──上ると蜿りしなの寂しい白い燈に、顔がまた白く、褄が青かった。客は、機会のこんな事は人間一生の旅行のうちに、幾度もあるものではない。辻堂の中で三々九度の杯をするように一杯飲もう、と言った。──酒は、宵の、膳の三本めの銚子が、給仕は遁げたし、一人では詰らないから、寝しなに呷ろうと思って、それにも及ばず、ぐっすり寐込んだのが、そのまま袋戸棚の上に忍ばしてある事を思い出したし、……またそうも言った。──お澄が念のため時間を訊いた時、懐中時計は二時半に少し間があった。
「では、──ちょっと、……掃除番の目ざとい爺やが一人起きましたから、それに言って、心得さす事がありますから。」と軽く柔にすり抜けて、扉の口から引返す。……客に接しては、草履を穿かない素足は、水のように、段の中途でもう消える。……宵に鯊を釣落した苦き経験のある男が、今度は鱸を水際で遁した。あたかもその影を追うごとく、障子を開けて硝子戸越に湖を覗いた。
連り亘る山々の薄墨の影の消えそうなのが、霧の中に縁を繞らす、湖は、一面の大なる銀盤である。その白銀を磨いた布目ばかりの浪もない。目の下の汀なる枯蘆に、縦横に霜を置いたのが、天心の月に咲いた青い珊瑚珠のように見えて、その中から、瑪瑙の桟に似て、長く水面を遥に渡るのは別館の長廊下で、棟に欄干を繞した月の色と、露の光をうけるための台のような建ものが、中空にも立てば、水にも映る。そこに鎖した雨戸々々が透通って、淡く黄を帯びたのは人なき燈のもれるのであろう。
鐘の音も聞えない。
潟、この湖の幅の最も広く、山の形の最も遠いあたりに、ただ一つ黒い点が浮いて見える。船か雁か、鷿鷉か、ふとそれが月影に浮ぶお澄の、眉の下の黒子に似ていた。
冷える、冷い……女に遁げられた男はすぐに一すくみに寒くなった。一人で、蟻が冬籠に貯えたような件のその一銚子。──誰に習っていつ覚えた遣繰だか、小皿の小鳥に紙を蔽うて、煽って散らないように杉箸をおもしに置いたのを取出して、自棄に茶碗で呷った処へ──あの、跫音は──お澄が来た。「何もございませんけれど、」と、いや、それどころか、瓜の奈良漬。「山家ですわね。」と胡桃の砂糖煮。台十能に火を持って来たのを、ここの火鉢と、もう一つ。……段の上り口の傍に、水屋のような三畳があって、瓶掛、茶道具の類が置いてある。そこの火鉢とへ、取分けた。それから隣座敷へ運ぶのだそうで、床の間の壁裏が、その隣座敷。──「旦那様の前ですけど、この二室が取って置きの上等」で、電報の客というのが、追ってそこへ通るのだそうである。──
「まあお一杯。……お銚子が冷めますから、ここでお燗を。ぶしつけですけれど、途中が遠うございますから、おかわりの分も、」と銚子を二本。行届いた小取まわしで、大びけすぎの小酒もり。北の海なる海鳴の鐘に似て凍る時、音に聞く……安宅の関は、この辺から海上三里、弁慶がどうしたと? 石川県能美郡片山津の、直侍とは、こんなものかと、客は広袖の襟を撫でて、胡坐で納まったものであった。
「だけど……お澄さんあともう十五分か、二十分で隣座敷へ行ってしまわれるんだと思うと、情ない気がするね。」
「いいえ。──まあ、お重ねなさいまし、すぐにまたまいります。」
「何、あっちで放すものかね。──電報一本で、遠くから魔術のように、旅館の大戸をがらがらと開けさせて、お澄さんに、夜中に湯をつかわせて、髪を結わせて、薄化粧で待たせるほどの大したお客なんだもの。」
「まあ、……だって貴方、さばき髪でお迎えは出来ないではございませんか。──それに、手順で私が承りましたばかりですもの。何も私に用があっていらっしゃるのではありません。唯今は、ちょうど季節だものでございますから、この潟へ水鳥を撃ちに。」
「ああ、銃猟に──鴫かい、鴨かい。」
「はあ、鴫も鴨も居ますんですが、おもに鷭をお撃ちになります。──この間おいでになりました時などは、お二人で鷭が、一百二三十も取れましてね、猟袋に一杯、七つも持ってお帰りになりましたんですよ。このまだ陽が上りません、霜のしらしらあけが一番よく取れますって、それで、いま時分お着になります。」
「どこから来るんだね、遠方ッて。」
「名古屋の方でございますの。おともの人と、犬が三頭、今夜も大方そうなんでございましょうよ。ここでお支度をなさる中に、馴れました船頭が参りますと、小船二艘でお出かけなさるんでございますわ。」
「それは……対手は大紳士だ。」と客は歎息して怯えたように言った。
「ええ、何ですか、貸座敷の御主人なんでございます。」
「貸座敷──女郎屋の亭主かい。おともはざっと幇間だな。」
「あ、当りました、旦那。」
と言ったが、軽く膝で手を拍って、
「ほんに、辻占がよくって、猟のお客様はお喜びでございましょう。」
「お喜びかね。ふう成程──ああ大した勢いだね。おお、この静寂な霜の湖を船で乱して、谺が白山へドーンと響くと、寝ぬくまった目を覚して、蘆の間から美しい紅玉の陽の影を、黒水晶のような羽に鏤めようとする鷭が、一羽ばたりと落ちるんだ。血が、ぽたぽたと流れよう。犬の口へぐたりとはまって、水しぶきの中を、船へ倒れると、ニタニタと笑う貸座敷の亭主の袋へ納まるんだな。」
お澄は白い指を扱きつつ、うっかり聞いて顔を見た。
「──お澄さん、私は折入って姐さんにお願いが一つある。」
客は膝をきめて居直ったのである。
四
渠は稲田雪次郎と言う──宿帳の上を更めて名を言った。画家である。いくたびも生死の境にさまよいながら、今年初めて……東京上野の展覧会──「姐さんは知っているか。」「ええこの辺でも評判でございます。」──その上野の美術展覧会に入選した。
構図というのが、湖畔の霜の鷭なのである。──
「鷭は一生を通じての私のために恩人なんです。生命の親とも思う恩人です。その大恩のある鷭の一類が、夫も妻も娘も忰も、貸座敷の亭主と幇間の鉄砲を食って、一時に、一百二三十ずつ、袋へ七つも詰込まれるんでは遣切れない。──深更に無理を言ってお酌をしてもらうのさえ、間違っている処へ、こんな馬鹿な、無法な、没常識な、お願いと言っちゃあないけれど、頼むから、後生だから、お澄さん、姐さんの力で、私が居る……この朝だけ、その鷭撃を留めさしてはもらえないだろうか。……男だてなら、あの木曾川の、で、留めて見ると言ったって、水の流は留められるものではない。が、女の力だ。あなたの情だ。──この潟の水が一時凍らないとも、火にならないとも限らない。そこが御婦人の力です。勿論まるきり、その人たちに留めさせる事の出来ない事は、解って、あきらめなければならないまでも、手筈を違えるなり、故障を入れるなり、せめて時間でも遅れさして、鷭が明らかに夢からさめて、水鳥相当に、自衛の守備の整うようにして、一羽でも、獲ものの方が少く、鳥の助かる方が余計にしてもらいたい。──実は小松からここに流れる桟川で以前──雪間の白鷺を、船で射た友だちがあって、……いままですらりと立って遊んでいたのが、弾丸の響と一所に姿が横に消えると、颯と血が流れたという……話を聞いた事があって、それ一羽、私には他人の鷺でさえ、お澄さんのような女が殺されでもしたように、悚然として震え上った。──しかるに鷭は恩人です。──姐さん、これはお酌を強請ったような料簡ではありません。真人間が、真面目に、師の前、両親の前、神仏の前で頼むのとおなじ心で云うんです。──私は孤児だが、かつて志を得たら、東京へ迎えます。と言ううちに、両親はなくなりました。その親たちの位牌を、……上野の展覧会の今最中、故郷の寺の位牌堂から移して来たのが、あの、大な革鞄の中に据えてあります。その前で、謹んで言うのです。──お位牌も、この姐さんに、どうぞお力をお添え下さい。」
と言った。面が白蝋のように色澄んで、伏目で聞入ったお澄の、長い睫毛のまたたくとともに、床に置いた大革鞄が、揺れて熊の動くように見えたのである。
「あら! 私……」
この、もの淑なお澄が、慌しく言葉を投げて立った、と思うと、どかどかどかと階子段を踏立てて、かかる夜陰を憚らぬ、音が静寂間に湧上った。
「奥方は寝床で、お待ちで。それで、お出迎えがないといった寸法でげしょう。」
と下から上へ投掛けに肩へ浴びせたのは、旦那に続いた件の幇間と頷かれる。白い呼吸もほッほッと手に取るばかり、寒い声だが、生ぬるいことを言う。
「や、お澄──ここか、座敷は。」
扉を開けた出会頭に、爺やが傍に、供が続いて突立った忘八の紳士が、我がために髪を結って化粧したお澄の姿に、満悦らしい鼻声を出した。が、気疾に頸からさきへ突込む目に、何と、閨の枕に小ざかもり、媚薬を髣髴とさせた道具が並んで、生白けた雪次郎が、しまの広袖で、微酔で、夜具に凭れていたろうではないか。
正の肌身はそこで藻抜けて、ここに空蝉の立つようなお澄は、呼吸も黒くなる、相撲取ほど肥った紳士の、臘虎襟の大外套の厚い煙に包まれた。
「いつもの上段の室でございますことよ。」
と、さすが客商売の、透かさず機嫌を取って、扉隣へ導くと、紳士の開閉の乱暴さは、ドドンドシン、続けさまに扉が鳴った。
五
「旦那は──ははあ、奥方様と成程。……それから御入浴という、まずもっての御寸法。──そこでげす。……いえ、馬鹿でもそのくらいな事は心得ておりますんで。……しかし御口中ぐらいになさいませんと、これから飛道具を扱います。いえ、第一遠く離れていらっしゃるで、奥方の方で御承知をなさいますまい。はははは、御遠慮なくお先へ。……しかしてその上にゆっくりと。」
階子段に足踏して、
「鷭だよ、鷭だよ、お次の鷭だよ、晩の鷭だよ、月の鷭だよ、深夜の鷭だよ、トンと打つけてトントントンとサ、おっとそいつは水鶏だ、水鶏だ、トントントトン。」と下りて行く。
あとは、しばらく、隣座敷に、火鉢があるまいと思うほど寂寞した。が、お澄のしめやかな声が、何となく雪次郎の胸に響いた。
「黙れ!」
と梁から天井へ、つつぬけにドス声で、
「分った! そうか。三晩つづけて、俺が鷭撃に行って怪我をした夢を見たか。そうか、分った。夢がどうした、そんな事は木片でもない。──俺が汝等の手で面へ溝泥を塗られたのは夢じゃないぞ。この赫と開けた大きな目を見ろい。──よくも汝、溝泥を塗りおったな。──聞えるか、聞えるか。となりの野郎には聞えまいが、このくらいな大声だ。われが耳は打ぬいたろう。どてッ腹へ響いたろう。」
「響いたがどうしたい。」と、雪次郎は鸚鵡がえしで、夜具に凭れて、両の肩を聳やかした。そして身構えた。
が、そのまま何もなくバッタリ留んだ。──聞け、時に、ピシリ、ピシリ、ピシャリと肉を鞭打つ音が響く。チンチンチンチンと、微に鉄瓶の湯が沸るような音が交る。が、それでないと、湯気のけはいも、血汐が噴くようで、凄じい。
雪次郎はハッと立って、座敷の中を四五度廻った。──衝と露台へ出る、この片隅に二枚つづきの硝子を嵌めた板戸があって、青い幕が垂れている。晩方の心覚えには、すぐその向うが、おなじ、ここよりは広い露台で、座敷の障子が二三枚覗かれた──と思う。……そのまま忍寄って、密とその幕を引なぐりに絞ると、隣室の障子には硝子が嵌め込になっていたので、一面に映るように透いて見えた。ああ、顔は見えないが、お澄の色は、あの、姿見に映った時とおなじであろう。真うつむけに背ののめった手が腕のつけもとまで、露呈に白く捻上げられて、半身の光沢のある真綿をただ、ふっくりと踵まで畳に裂いて、二条引伸ばしたようにされている。──ずり落ちた帯の結目を、みしと踏んで、片膝を胴腹へむずと乗掛って、忘八の紳士が、外套も脱がず、革帯を陰気に重く光らしたのが、鉄の火箸で、ため打ちにピシャリ打ちピシリと当てる。八寸釘を、横に打つようなこの拷掠に、ひッつる肌に青い筋の蜿るのさえ、紫色にのたうちつつも、お澄は声も立てず、呼吸さえせぬのである。
「ええ! ずぶてえ阿魔だ。」
と、その鉄火箸を、今は突刺しそうに逆に取った。
この時、階段の下から跫音が来なかったら、雪次郎は、硝子を破って、血だらけになって飛込んだろう。
さまでの苦痛を堪えたな。──あとでお澄の片頬に、畳の目が鑢のようについた。横顔で突ぷして歯をくいしばったのである。そして、そのくい込んだ畳の目に、あぶら汗にへばりついて、鬢のおくれ毛が彫込んだようになっていた。その髪の一条を、雪次郎が引いてとった時、「あ痛、」と声を上げたくらいであるから。……
かくまでの苦痛を知らぬ顔で堪えた。──幇間が帰ってからは、いまの拷掠については、何の気色もしなかったのである。
銃猟家のいいつけでお澄は茶漬の膳を調えに立った。
扉から雪次郎が密と覗くと、中段の処で、肱を硬直に、帯の下の腰を圧えて、片手をぐったりと壁に立って、倒れそうにうつむいた姿を見た。が、気勢がしたか、ふいに真青な顔して見ると、寂しい微笑を投げて、すっと下りたのである。
隣室には、しばらく賤げに、浅ましい、売女商売の話が続いた。
「何をしてうせおる。──遅いなあ。」
二度まで爺やが出て来て、催促をされたあとで、お澄が膳を運んだらしい。
「何にもございません。──料理番がちょと休みましたものですから。」
「奈良漬、結構。……お弁当もこれが関でげすぜ、旦那。」
と、幇間が茶づけをすする音、さらさらさら。スウーと歯ぜせりをしながら、
「天気は極上、大猟でげすぜ、旦那。」
「首途に、くそ忌々しい事があるんだ。どうだかなあ。さらけ留めて、一番新地で飲んだろうかと思うんだ。」
六
「貴方、ちょっと……お話がございます。」
──弁当は帳場に出来ているそうだが、船頭の来ようが、また遅かった。──
「へい、旦那御機嫌よう。」と三人ばかり座敷へ出ると、……「遅いじゃねえか。」とその御機嫌が大不機嫌。「先刻お勝手へ参りましただが、お澄さんが、まだ旦那方、御飯中で、失礼だと言わっしゃるものだで。」──「撃つぞ。出ろ。ここから一発はなしたろか。」と銃猟家が、怒りだちに立った時は、もう横雲がたなびいて、湖の面がほんのりと青ずんだ。月は水線に玉を沈めて、雪の晴れた白山に、薄紫の霧がかかったのである。
早いもので、湖に、小さい黒い点が二つばかり、霧を曳いて動いた。船である。
睡眠は覚めたろう。翼を鳴らせ、朝霜に、光あれ、力あれ、寿かれ、鷭よ。
雪次郎は、しかし、青い顔して、露台に湖に面して、肩をしめて立っていた。
お澄が入って来た──が、すぐに顔が見られなかった。首筋の骨が硬ばったのである。
「貴方、ちょっと……お話がございます。」
お澄が静にそう言うと、からからと釣を手繰って、露台の硝子戸に、青い幕を深く蔽うた。
閨の障子はまだ暗い。
「何とも申しようがない。」
雪は摚となって手を支いた。
「私は懺悔をする、皆嘘だ。──画工は画工で、上野の美術展覧会に出しは出したが、まったくの処は落第したんだ。自棄まぎれに飛出したんで、両親には勘当はされても、位牌に面目のあるような男じゃない。──その大革鞄も借ものです。樊噲の盾だと言って、貸した友だちは笑ったが、しかし、破りも裂きも出来ないので、そのなかにたたき込んである、鷭を画いたのは事実です。女郎屋の亭主が名古屋くんだりから、電報で、片山津の戸を真夜中にあけさせた上に、お澄さんほどの女に、髪を結わせ、化粧をさせて、給仕につかせて、供をつれて船を漕がせて、湖の鷭を狙撃に撃って廻る。犬が三頭──三疋とも言わないで、姐さんが奴等の口うつしに言うらしい、その三頭も癪に障った。なにしろ、私の画が突刎ねられたように口惜かった。嫉妬だ、そねみだ、自棄なんです。──私は鷭になったんだ。──鷭が命乞いに来た、と思って堪えてくれ、お澄さん、堪忍してくれたまえ。いまは、勘定があるばかりだ、ここの勘定に心配はないが、そのほかは何にもない。──無論、私が志を得たら……」
「貴方。」
とお澄がきっぱり言った。
「身を切られるより、貴方の前で、お恥かしい事ですが、親兄弟を養いますために、私はとうから、あの旦那のお世話になっておりますんです。それも棄て、身も棄てて、死ぬほどの思いをして、あなたのお言葉を貫きました。……あなたはここをお立ちになると、もうその時から、私なぞは、山の鳥です、野の薊です。路傍の塵なんです。見返りもなさいますまい。──いいえ、いいえ……それを承知で、……覚悟の上でしました事です。私は女が一生に一度と思う事をしました。貴方、私に御褒美を下さいまし。」
「その、その、その事だよ……実は。」
「いいえ、ほかのものは要りません。ただ一品。」
「ただ一品。」
「貴方の小指を切って下さい。」
「…………」
「澄に、小指を下さいまし。」
少からず不良性を帯びたらしいまでの若者が、わなわなと震えながら、
「親が、両親があるんだよ。」
「私にもございますわ。」
と凜と言った。
拳を握って、屹と見て、
「お澄さん、剃刀を持っているか。」
「はい。」
「いや、──食切ってくれ、その皓歯で。……潔くあなたに上げます。」
やがて、唇にふくまれた時は、かえって稚児が乳を吸うような思いがしたが、あとの疼痛は鋭かった。
渠は大夜具を頭から引被った。
「看病をいたしますよ。」
お澄は、胸白く、下じめの他に血が浸む。……繻子の帯がするすると鳴った。
底本:「泉鏡花集成7」ちくま文庫、筑摩書房
1995(平成7)年12月4日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十二巻」岩波書店
1940(昭和15)年11月20日第1刷発行
入力:門田裕志
校正:今井忠夫
2003年8月31日作成
青空文庫作成ファイル:
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