軍用鼠
海野十三



 探偵小説家の梅野十伍うめのじゅうごは、机の上に原稿用紙をべて、意気はなは銷沈しょうちんしていた。

 棚の時計を見ると、指針は二時十五分を指していた。それは午後の二時ではなくて、午前の二時であった。カーテンをかかげて外を見ると、ストーブの温か味で汗をかいた硝子ガラス戸を透して、まるで深海の底のように黒目あやめかぬ真暗闇が彼を閉じこめていることが分った。

 もう数時間すれば夜が明けるであろう。すると窓の外も明るくなって、電車がチンチン動きだすことであろう。するとその電車から、一人の詰襟つめえり姿の実直な少年が下りてきて、歩調を整えて門のなかへ入ってくるだろう。そして玄関脇の押しボタンを少年の指先が押すと、奥の間のベルがかまびすしくジジーンと鳴るであろう。梅野十伍はそのベルのを聞いた瞬間に必ずや心臓麻痺を起し、徹夜の机の上にぶったおれてあえなくなるに違いないと思っているのである。

 原稿紙の上には、ただの一行半句もしたためてないのである。全くのブランクである。上の一枚の原稿用紙がそうであるばかりではなく、その下の一枚ももう一つ下の一枚も、いや家中の原稿用紙を探してみても只の一字だって書いてないのである。それだのに、朝になると、必ず詰襟の少年が、字の書いてある原稿紙を取りに来るのである。少年は梅野十伍の女房に恭々うやうやしく敬礼をして、きっとこんな風に云うに違いない。

「ええ、手前は探偵小説専門雑誌『新探偵』編集局へんしゅうきょくの使いの者でございます。御約束のセンセイの原稿を頂きにまいりました、ハイ」

 ──それを考えると梅野十伍は自分の顔の前で曲馬団の飢えたるライオンにピンク色の裏のついた大きな口をカーッと開かれたような恐怖を感ずるのであった。実に戦慄すべきことではある。

 なぜ彼は、原稿用紙の桝目ますめのなかに一字も半画も書けないのであるか。そして毒瓦斯ガスの試験台に採用された囚人のように、意気甚だ銷沈しているのであるか。

 これには無論ワケがあった。ワケなくして物事というものは結果が有り得ない。

 実はこのごろ梅野十伍にとって何が恐ろしいといって、探偵小説を書くほど恐ろしいことはないのであった。今月彼が一つの探偵小説を発表すれば、この翌月にはその小説が、すくなくとも十ヶ所の批評台の上にのぼらされ、そこでそれぞれ執行人の思い思いの趣味によって、虐殺されなければならなかった。

 もしこれが人間虐殺の場合だったら、もっと楽な筈だった。なぜなら人間の生命は一つであるから、一遍刺し殺されればそれで終局であって、その後二度も三度も重ねて殺され直さぬでもよい。ところが、小説虐殺の場合は十遍でも二十遍でも引立てられていっては念入の虐殺をうけるのであるから、たまったものではない、もっともいくたび殺されても執念深く生き換わるのであるから、執行人の方でも業を煮やすのであろうが。

 執行人の多くは、いろいろな色彩に分れているにしてもいずれも探偵小説至上論者であって、新発表の探偵小説は従来かつて無かりし高踏的のものならざるべからずと叫んでいる。だからいやしくも従来の誰かの探偵小説が示した最高レベルに較べて上等でない探偵小説を発表しようものなら、それは飢えたるライオンの前に兎を放つに等しい結果となる。だからボンクラ作家の梅野十伍などはいつも被害材料ばかり提供しているようなものであった。

 ──と、彼は書けないワケを、こんなところに押しつけているのだった。しかし、元来、彼は生れつきの被害妄想仮装症であったから、どこまで本気でこれを書けないワケに換算しているのか分らなかった。実をいえば、彼にはもっと心当りの書けないワケを持っていたのである。

 それはブチまけた話、彼はもう探偵小説のネタを只の一つも持ち合わせていなかったのである。さきごろまでたった一つネタが残っていたが、それも先日使い果してしまったので今はもうネタについては全くの無一文の状態にあった。しかるにこの暁方までに、なにがなんでも一篇の探偵小説を書き上げてしまわねばならぬというのであるから、これは如何いかに意気銷沈しまいと思っても銷沈しないわけにはゆかないのであった。

 そんなことを考えているうちにも、時計の針は馬鹿正直にドンドン廻ってゆき、やがて来る暁までの余裕がズンズン短くなってゆくのだった。なにか早く、書くべき題材を考えつかないことには、一体これはどういうことになるんだ。時刻は午前二時三十分正に丑満うしみつすぎとはなった。あたりはいよいよシーンとけ渡って──イヤ只今、天井をねずみがゴトゴト走りだした。シーンと更け渡っての文句は取消しである。

 このとき梅野十伍は、憎々しげなるうわ目をつかって鼠の走る天井板をにらみつけていたが、そのうちにうしたものか懐中からヌッと片手を出して、

「うむ、済まん」

 といいながら、天井裏のかたを伏し拝んだのであった。

 彼は急に元気づいて、原稿用紙を手許へ引きよせ、ペンを取り上げた。いよいよなにか考えついて書くらしい。

 彼はまず、原稿用紙の欄に「1」と大書した。それは原稿の第一ページたることを示すものであった。彼はこのノンブルをあんパンのような大きな文字で書くことが好きであった。

 原稿の第一字を認めた彼は、こんどはペンを取り直して第六行目のトップの紙面へ持っていった。いよいよ本文を書く気らしい。

「梅田十八は、夜の更くるのを待って、壊れた大時計の裏からソッと抜けだした。

 真暗なジャリジャリする石の階段を、腹匍はらばいになってソロソロと登っていった。

 階段を登りきると、ボンヤリと黄色いともった大広間が一望のうちに見わたされた。魔法使いの妖婆は、一隅の寝台の上にクウクウとあらたかないびきをかいて睡っている。機会は正に今だった」


 そこで梅野十伍は、左手を伸ばして缶の中から紙巻煙草ケレーブンを一本ぬきだし口にくわえた。そして同じ左手だけを器用に使ってマッチを擦った。紫煙が蒙々と、原稿用紙の上に棚曵たなびいた。彼はペンを握った手を、新しい行のトップへ持っていった。

 どうやらソロソロ彼の右手が機嫌を直したらしい、彼の頭脳あたまよりも先に。

「──梅田十八は、恐る恐る大広間に入りこんだ。彼はよく名探偵が大胆にも賊の棲家すみかに忍びこむところを小説に書いたことがあったけれど、本当に実物の邸内に侵入するのは今夜が始めてだった。そのままツツーと歩こうとするが、腰がグラグラして云うことを聞かなかった。やむを得ずまた四つン匍いになって、かねて見当をつけて置いた大机の方に近づいた。

 机の上を見ると、なるほど青い表紙の小さい本が載っている。一切いっさいの秘密はそのなかにあるのだ。彼は勇躍して机に噛りつき、取る手も遅しとその青い本を開いて読みだした。

アダムガ八千年目ノ誕生日ヲ迎エタルトキ、天帝ハ彼ノ姿ヲ老婆ノ姿ニ変ゼシメラレキ、ソレト共ニ一ツノ神通力ヲ下シ給エリ、スナワチアダムノ飼エル多数ノ鼠ヲ、彼ノ欲スルママニ如何ナル物品生物ニモ変ゼシメル力ヲ与エ給エリ、タダシソレニハ一ツノ条件ガアッテ毎朝午前六時ニハ必ズ起キ出デテ呪文ヲ三度唱ウルコトコレナリ。モシモソレヲ怠ッタルトキハ、彼ノ神通力ハ瞬時ニ消滅シ、物ミナ旧態キュウタイモドルベシ、リテアダムハ、飼育セル多数ノ鼠ヲ変ジテ多クノ男女ヲ作リモロモロノ物品ヲ作リナセリ』

 読み終った梅田十八は、非常なる恐怖に襲われた。以前から、どうもこういう気がせぬでもなかったのである。今日世の中に充満する人間のうち、ダーウィンの進化論に従って、猿を先祖とする者もあるかもしれないが、中にはまたこの妖婆アダムウイッチの日記帳にあるごとくそれが鼠からか水母くらげからか知らないが、とにかく他の動物から変じて人間になっているという仲間も少くはないだろうことを予想していた。

 果然彼は猿から進化した恒久の人間にあらずして、一時人間に化けた鼠だかも知れないのである。そういえば、彼は別にハッキリした理由がないのにもかかわらず、よく匍って歩く習慣があった。それからまた、いつぞや鏡の中に自分の顔を眺めたとき、両の眼玉がいかにもキョトキョトしている具合や、口吻こうふんがなんとなく尖って見え、唇の切れ目の上には鼠のようなあらひげが生えているところが鼠くさいと感じたことがあった。今やその秘密が解けたのである。──」


 というところで、梅野十伍は後を書きつづけるのが莫迦莫迦ばかばかしくなって、ペンを置いた。彼は好んでミステリーがかった探偵小説を書いて喝采を博し、後から「ミステリー探偵小説論」などを書いて得意になったものであったが、これではどうも物になりそうもない。彼は火の消えてしまった煙草にまたマッチの火を点けて一口吸った。

 そのとき彼がちょっと関心を持ったことがあった。それはいま書いた原稿の中に、

「──いつぞや鏡の中に自分の顔を眺めたとき、両の眼玉がいかにもキョトキョトしている具合や、口吻がなんとなく尖って見え、唇の切れ目の上には鼠のような粗い髯が生えているところが鼠くさい!」

 と書いたが、彼はなぜこんなことを考えついたのだろうと不審をうった。

 さっき鼠が天井裏で暴れはじめたのを、時にとっての福の神として、鼠の話などを原稿に書きだした件はよく分る。しかしその鼠の話を、そんな風に主人公の顔が鼠に似ているという話にまで持っていったについては、何かワケがなくてはならぬ。およそワケのない結果はないのである。そのモチーフは如何なる筋道を通って発生したのであろう。

 ひょっとすると、これは梅野十伍自身は自覚しないのに彼の顔が鼠に似ていて、それでその潜在意識が彼にこんなプロットを作らせたのではなかろうか。そうなると彼は急に気がかりになってきた。その疑惑をハッキリさせなければ気持が悪かった。

 彼は時計がもう午前三時になっているのに気がつかないでかたわらの棚から手文庫を下ろした。その中には円い大きな凹面鏡おうめんきょうが、むきだしのまま入っているのである。彼はそれに顔を写してみる気で、手文庫の蓋に手をかけたが──ちょっと待て!

 明るいスタンドの下とは云え、この深夜に唯一人起きていて、自分の顔を凹面鏡に写してみて、それで間違いはないであろうか。もしその鏡の底に、彼のテラテラしたあから顔が写り出せばいいが、万一まかり違って、その鏡の底に顔一面毛むくじゃらの大きな鼠の顔がうつっていたとしたら、これは一体どうなるのだろうか。

 そう思うと、急に彼の手はブルブルとふるえはじめた。手文庫の蓋がカタカタと鳴りだした。彼の背筋を、氷のやいばのように冷いものがスーッと通りすぎた。彼は開けようと思った手文庫の蓋を、今度は開けまいとして一生懸命に抑えつけた。それでもジリジリと恐怖は、彼の両腕を匍いあがってくるのであった。彼はもうすっかりおびえてしまって、とうとう横手の窓をポーンと明けると、鏡を手文庫ごと窓外に放りだした。闇の中に冷雨ひさめにそぼぬれていた熊笹がガサッと、人間を袈裟けさがけに切ったような無気味な音を立てた。彼は慌てて窓を締めてカーテンを素早く引いた。

 机の前の時計は午前三時を大分廻っていた。彼はまた煙草を口に咥え、今度は原稿用紙の上に頬杖をついて考えこんだ。

 さっきの妖婆アダムウイッチの話をもっと書くのだったらそれから先に或るアイデアがないでもなかった。──すなわち、作中の主人公梅田十八が遂に意を決して妖婆を殺そうとする。城内から大きな沢庵石たくあんいし──は、ちと可笑おかしいから、大きな石臼を見つけてきて、これを目の上よりも高くあげて、寝台に睡る妖婆の頭の上にドーンとうちつける。ギャーッと一声放ったが、この世の別れ、妖婆の呼吸いきが絶えると、梅田十八の姿は一寸ぐらいの小さな二十日鼠はつかねずみの姿となって──一寸はすこし短かすぎるかな、とにかく正確なところは後で索引付動物図鑑を引いてということにして「寸」の字だけで、数字は消して置こう。

 しかし、そこで妖婆を殺してしまったのでは、小説として一向面白くない。もっと妖婆の妖術を生かさなければ損である。

 では、こうしてはどうであろうか。主人公梅田十八はお城へ探検になど来なかったことにする。

 彼は原稿の債務なんかすっかり片づけてしまって、のうのうとした身体になっている。そこへ彼が口説いてみようかと思っている近所の娘さんが臙脂えんじ色のワンピースを着て遊びにやってくる。

 そこで梅田十八は、ルリ子──娘さんの名である──を伴って散歩に出かける。二人は歩き疲れて、月明るき古城を背にしてベンチに並んで腰を下ろす。そしてピッタリと寄りそい甘い恋をささやきかわすのだった。

 ところが城の中にいた妖婆アダムウイッチがはるかにこれを見て、大いに嫉妬する。そしてたまりかねて、自暴酒やけざけを呑む。あまりに酒をガブガブ呑んだので、蒟蒻こんにゃくのように酔払って、とうとう床の上に大の字になって睡ってしまう。

 お城の下では、十八とルリ子が、あたりはばからずまだピッタリと抱き合って恋を語っている。月が西の空に落ちたのも知らない。そのうちに東の空が白み、夜はほのぼのと明けはじめ(ああ夜が明けはじめるなんて、くだらないことを思いついてしまったものだ。本当に夜はまだくろぐろと安定しているのであろうな。カーテンを開いて窓の外を覗いてみよう。うむ今のところ、まだ大丈夫である)

 若き二人の抱き合っている傍には、大きな柘榴ざくろの樹があって、枝にはたわわに赤い実がなっている。その間を早や起きの蜂雀の群がチュッチュッと飛び戯れている。まるで更紗さらさの図柄のように。

 お城では妖婆アダムウイッチが、床の上にたおれたまま、まだグウグウ睡っている。電気時計の指針は、もう午前六時を指している──また禁句禁句──のに、彼は目が覚めない。受信機のスイッチをひねって置けば、この辺でラジオ体操が始まり、江木えぎアナウンサーのおじさんが銅羅声どらごえをはりあげて起してくれるのだが──彼、梅野十伍はいつもそうしている。但し床から離れるのは彼ではなくて、小学校にゆく彼の子供である。彼はラジオ体操を聴けば安心して、更にグウグウ睡れるのである。──生憎あいにく妖婆は前の晩に深酒をして、寝るときにスイッチをひねっておくことを忘れたので、ラジオ体操が放送されていても彼の妖婆には聞えなかった。そんなわけでとうとう妖婆は午前六時に唱うべき天帝に約束の三度の呪文をあげないでしまう。

 その結果は、お城の下にどんな光景を演出するに至ったであろうか。

 ルリ子はうららかな太陽の光を浴びながら、梅田十八と抱き合っているうちに、急に梅田の身体が消えてしまって、弾みをくってどうとベンチの上に長くなって仆れる。そのとき彼女の身体の下から、二十日鼠が飛びだした。そしてその二匹の二十日鼠が、チョロチョロと向うへ逃げてゆく、二匹の二十日鼠と書くと読者は、彼作者が寝呆けて一の字を二の字に書いてしまったと思うかもしれない。しかし読者は間もなく後悔するに違いない。作者はこんな風にそのところを書く。──

「──もちろん一匹の二十日鼠は、哀れな梅田十八の旧態にかえった姿だった。他の一匹は臙脂色のワンピースが旧態にかえった姿だった。ルリ子は自分が白日はくじつの下に素裸になっているのも知らず、ベンチから立ち上った」

 と、するのである。

 その辺で、きっとニヤリと口を曲げる読者が一人や二人はあるに違いない。

 作者の彼にとっても、あまり悪い気持がしないのであったけれど、これでは探偵小説にはならない。

「ほう、もう四時だ。これはいけない」

 原稿を書くことを忘れて、うっかりいい心地になっていた梅野十伍は、時計の指針を見て急に慌てだした。彼は随分時間を空費した、早く書き出さねば間に合わない。探偵小説、探偵小説、探偵小説ヤーイ。

 探偵小説ということについては、なかなかやかましい定義がある。梅野十伍は、普段そんな定義にあまりこだわらない方であるが、この際は原稿大難航の折柄のこととて、一方の血路を切り開いてかくも乗り切ることが第一義であった。一応その定義に服従して、結果を出すのがいいであろう。

 学説にれば探偵小説とは謎が提供され、次に推理によってその謎を解く小説のことである。つまりここに一つの謎があって、その謎を構成している諸材料に関する常識乃至ないしは説明だけの知識でもって、その知識の或る部分を推理によって適当に組合わせてゆくとそこで謎が解けるそのような推理体系を小説の形で現わしたものが探偵小説だというのである。

 鼠の顔を推理で解いて、果してどういう答がでるだろうか。

「鼠の顔とかけて、何と解きなはるか」

「さあ何と解きまひょう。分りまへんよってにあげまひょう」

「そんなら、それを貰いまして、臥竜梅がりゅうばいと解きます」

「なんでやねン」

「その心は、みき(ミッキー)よりもはなはな)が低い、とナ」

 これは単なる謎々であって、探偵小説ではない。第一その謎を解くキイが、至極フェアとまではゆかない。無理な着想をいる。

 もしこれが探偵小説の形で発表されていたにしても、その点で優等品とはゆかない。そうした欠点は、この謎を作るときに建てた推理が謎を解くときの推理と全く逆であるところに無理がある。つまり素直なる順序によってこの「鼠の顔」の謎を解いたわけではなかったのだ。逆ハ必ズシモ真ナラズとは、中学校──もちろん女学校でもいいが──で習う幾何の教科書に始めて現れるが、上記の場合は正に必ズシモの場合なのである。

「鼠の顔」の謎をこしらえるというので、まず鼠にちなむものはないか考えた。そしてミッキーを得た。──ミッキー・マウスではすこし長すぎて手に負えない。

 それが決まると、ミッキーと「鼠の顔」との連鎖事項を考える順序となる。但しその連鎖事項たるや同時に「鼠の顔」とは全く違う他のものを説明するものでなければならぬ。ここに至ればもう運と常識の戦争である。幸い臥竜梅を早く思いついたから、それで謎は出来上ったことにしたわけだが、その連鎖事項がすこし薄弱性を帯びていることをいなみ得ない。

 謎々はこうして出来上ったが、前にも云ったとおり、謎の答から謎の説明を考究していったのだから、その謎を解くとき「鼠の顔」の連鎖事項を探して、謎の答を推理してゆくのとはちょうど逆の順序になる。そこに逆ハ必ズシモ真ナラズが侵入する余地があるのである。

 ──と、かれ梅野十伍は二、三枚の原稿用紙を右のように汚したが、これは探偵小説じゃないようだ。けっきょく探偵小説論の小乗的解析でしかないから、こんなものを編集局へさし出すわけには行かない。

 彼は折角書いた原稿用紙を鷲づかみにすると、べりべりと破いて、机の下の屑籠のなかにポイと捨てた。始めからまた出直しのむなき仕儀とはなった。しかし彼は、さっきまでのように、時計の指針をあまり気にしなくなった。ソロソロ小説書きの度胸が据わってきたのであろう。

 ──女流探偵作家梅ヶ枝十四子うめがえとしこは、先日女学校の同窓会に招ばれていって、一本の福引を引かされた。それを開いてみると、沂水流ぎすいりゅうの達筆で「鼠の顔」と認めてあった。

「十四子さん、貴女あなたの福引はどんなの、ね、内緒で見せてごらんなさいよ」

「──エエわたくしのはホラ『鼠の顔』てえのよ」

「アラ『鼠の顔』ですって、アラ本当ね。まあ面白い題だわ、なにが当るんでしょうネ」

「さあ、わたくしは皆さんと違ってまだチョンガーなんだから、天帝もわたくしの日頃の罪汚れなき生活をよみしたまい、きっと素晴らしい景品を恵みたまうから、今に見ててごらんなさい」

「まあ、図々ずうずうしいのネ、近頃の処女は──」

(探偵作家梅野十伍は罪汚れ多き某夫人に代ってニヤリと笑い、ここでまたペンを置いた。そして紙巻煙草あかつきに手を出した)

 幹事森博士夫人と谷少佐夫人とによって福引が読みあげられ、それぞれ奇抜な景品が授与されていった。そのたびに、花のような夫人たち──たちと書いたのはなかに『処女』も一人加わっていることを示す(探偵作家は万事この調子で、些細なることもおろそかにせず、チャンと数学的正確さをもって記述してゆくよう、習慣づけられているものである)──そこで夫人たちが女生徒時代の昔に帰ってゲラゲラとワンタンのように笑うのだった。(ワンタンのように──は誰かの名文句を失敬したものである。作家というものは、それくらいの気転がかなきゃ駄目だと、梅野十伍は思っている。しかし一々こう註釈が多くては物語が進行しない。今後は黙ってズンズン進行することに方針変更)

 いよいよ「鼠の顔」が高らかに読みあげられた。

「あたくしよ。──」

 と、梅ヶ枝女史が叫ぶよりも一歩お先へ、女史の隣りの夫人(名前をつけて置くのを忘れた)が、

「それは十四子さんのよ」

 と叫んだ。女史はジロリと横目で睨んだ。

「ああ十四子さんなの。アラとてもいい景品ですわよ。今日の景品のなかで、一番素敵な貴重なものだわよ」

 と、幹事の谷夫人が、話の割合には薄っぺらな白い西洋封筒に入ったものを持って梅ヶ枝女史の前に飛んできた。女史は少し面映おもはゆげに、プラチナの腕輪のはまった手を伸ばしてその白い西洋封筒を受けとりながら──これは十円紙幣かな──とドキッとした。

 森幹事が向うの方から大きな声で披露をした。

「鼠の顔、鼠の顔。当った方は、目下読書界に白熱的人気の焦点にある新進女流探偵小説家(新進だなんて失礼ナ、既成の第一線作家だわよ──と、これは、梅ヶ枝女史の憤懣ふんまんである)の梅ヶ枝十四子さん。景品はァ──どうか封筒からお出しになって下さい──ターキーのプロマイド! そのわけは、娘々ニャンニャンが大騒ぎ。──」

 というのであるが、この福引の方が「鼠の顔とかけてなんと解く。臥竜梅と解く。その心はミッキーよりもが低い」の場合より出来がよろしい。

 その理由は、この福引の「鼠の顔(景品はターキーのプロマイド)娘々が大騒ぎ」の方が前者に比較して、ずっと卑近にして、しかも相当今日の話題的材料を持ってきたところがすぐれているのである。しかも娘々は、やや高級ではあるけれど日満両帝国一体となっている今日、日本人にとっては盟邦に於ける最も明朗なる行事として娘々廟の娘々まつりを知っているものが少くないのであって、それ位の高級さはかえってこの福引を更に高雅なものに引き上げる。

 これがそのまま、探偵小説作法にも引きうつして、云えるのであって、探偵小説の謎もあたうかぎり卑近な常識的な材料を使い、その推理の難易程度もこの辺の中庸にとどめ、つその謎の答が相当センセイショナルなものを……。


「これはいかんうっかりしていて、また探偵小説論を書いていた。森幹事が福引を披露して、『──そのわけは、娘々が大騒ぎ』のところで原稿の文章を切ることにして、そのあとの『というのであるが』以下『センセイショナルなものを……』までを削除しなければいかん」

 と、梅野十伍は苦笑しながら、十行ばかりのところを、墨くろぐろと抹消した。

 時計は午前四時半となった。

 梅野十伍は、原稿が一向はかどらないのに業を煮やしている。うかうかしていると、もう郊外電車が動き出す時刻になる。新聞配達も、早い社のは、あと三十分ぐらいで門前に現われることだろう。そうなると、門の脇に取りつけてある郵便新聞受の金属函がカチャリと鳴り響くはずだった。それが夜明けの幕が上る拍子木の音のようなものであった。

 彼は福引の話をとにかく物にして、すこし気をよくしていたが、それにしても、福引の話は飽くまで福引の話であって探偵小説とはいいにくい──といわれやしないだろうか。

「さあ、早く探偵小説を書かなきゃあ!」

 と、梅野十伍は、自分の勝手な清掃癖が禍をなしてペンの進行を阻んでいることにも気づかず、またやっこらやと立ち直って、探偵小説狩りに出発するのであった。

 誰が見てもなるほどそれが探偵小説らしい形式を備えていることが分るようなものを選んで書くのが賢明なやり方だ。そういう形式を採ってみようと、梅野十伍は考えた。

 それでは国際関係険悪の折柄、ひとつ国境に於ける紅白両国の人間の推理くらべを扱った探偵小説を書いてみることにしよう、と梅野は決心した。

 まず道具立を考えるのにここは紅白両国の国境である。あまり広くない道路が両国をつないでいる。その道のまん中あたりに、アスファルトの路面に真鍮しんちゅうの大きなびょうを植えこんで、両国国境線がひと目で分るようになっている。夜になるとこの鋲は見えなくなるから、代りに道の両側に信号灯が点くような仕掛けになっている。

 その国境線を間にはさんで両側に、それぞれの国の材料で作ったそれぞれの形をした踏切の腕木のようなものがある。国境線上を通過する者があるたびに、この二つの腕木がグッと上にあがるのだった。国境越えの人々は、その腕木の下を潜って、相手国のうちに足を入れ、そしてそこに店を開いて待ちうけている税関の役人の前にいって国境通過を願いいで、そして持ち込むべき荷物を検査してもらうのである。それが済めば、そこで税関前の小門から、相手国内にズカズカ這入はいってゆくことを許されるのである。

 まあ道具立はそのくらいにして置いて、ここに紅国人の有名なる密輸入の名手レッド老人を登場させることにする。

「また一つ、頼みますよ。ねえ、税関の旦那ァ。──」

 レッドの銅鑼ごえに(この前にドラを銅羅と書いたのは誤り。どうもすこし変だと思って今辞書を引いてみると、ラの字は金扁かねへんがあるのが正しいのであった。小説家商売になるといちいち字を覚えるだけでもたいへん骨の折れることだった)──そのレッドの銅鑼ごえに奥の方から役人ワイトマンが佩剣はいけんのベルトを腰に締めつけながら、睡むそうな顔を現した。(と書くと、この国境の税関には余り事件もなく、かなり平和な呑気な関所であることが読者に通じるだろうと、作者梅野十伍はそう思いながら、こう書いたのである)

「なあンだ、レッドか。また鼠の籠を持ちこもうてえんだろう。あんまり朝っぱらから来るなよ。鼠なんか夕方で沢山だ」

 ワイトマンはいささか二日酔の体で、日頃赭い顔がさらに紅さを増して熟れすぎたトマトのようになっている。(この件は、作者梅野十伍に自信がなかった。彼は生れつきアルコールに合わない体質を持って居り、いまだかつ酒杯さかずきをつづけて三杯と傾けたことがない。だから二日酔がどんな気持のものだかよく知らず、また二日酔になった患者はどんな顔をしているか正確なる知識はなかった。ただ彼の親しい友人のAというのが、よくこんな赭い熟れきったような顔を彼の前に現わして、「ああ昨夜ゆうべは近頃になく呑みすぎちゃった。きょうはフラフラで睡い睡い」となげくのであった。梅野十伍は、そういうときの友人Aの容態が所謂いわゆる二日酔というのだろうと独断した。だから白国官吏のワイトマンは迷惑にも作者の友人Aの酔態を真似しなければならなかった)

「旦那、そういわないで見ておくんなさい。わしは生れつき胡魔化ごまかすのが嫌いでネ、なるべくこうしてお手隙の午前中に伺って、品物をひとつゆっくり念入りに調べてお貰い申してえとねえ旦那、このレッドはいつもそう思っているんですぜ」

「フフン、笑わせるない。生れつき正直だなんて云う奴に本当に正直な奴が居たためしがない。ことに貴様は、ちかごろここへ現れたばっかりだが、その面構えは本国政府からチャンと注意人物報告書として本官のところへ知らせてきてあるのだ。どうだ驚いたか、胡魔化してみろ、こんどは裁判ぬきの銃殺だぞ」

「エヘヘ、御冗談を、儂はそんな注意人物なんて大した代物じゃありませんや、ただ鼠を捕えてきては、この向うのラチェットさんに買って貰ってるばかりなんで」

「うむ、ラチェットという猶太人は、鼠をそんなに買いこんで、何にしようというんだ」

「それァね旦那、これは大秘密でございますが、この鼠の肉が近頃盛んにソーセージになるらしいんですよ」

「えッ、ソーセージ?」

 税官吏ワイトマンはそれを聞くと妙な顔をして胃袋を抑えた。実は朝起きぬけに、ソーセージをさかなにして迎い酒を二、三本やったのだ。「なんだ、彼奴きゃつはソーセージを鼠の肉で作っているのか。どうもしからんやつじゃ」

「いやァ旦那、そう云うけれども、鼠の肉を混ぜたソーセージと来た日にゃ、とても味がいいのですぜ。ヤポン国では、鼠のテンプラといって賞味してるそうですぜ。だから鼠の肉入りのソーセージは、なかなか値段が高いのです。ちょっとこちとらの手には届きませんや」

「手に届かんといって──一本幾何いくらぐらいだ。オイ正直に応えろ」

「そうですね。一本五ルーブリは取られますか」

「五ルーブリ? ああそうか、よしよし。それくらいはするじゃろう」と、税関吏ワイトマンはホット胸をなぜ下ろし「さあさあ、お前の持ちこもうという品物を早く見せろ、検査をしてやるから」

「へえ。──そこの台の上に載せてあります」

 といってレッド老人は、磨きあげたワイトマン愛用の丸卓子テーブルの上を指した。そこには蜜柑函みかんばこ大の金網の籠が置いてあった。

 ワイトマンは、鼠の籠が自分の愛用のテーブルの上に置かれてあるのにちょっと機嫌を悪くしたが、まあまあ我慢して文句を控えた。そして籠の近くに赭い大きな顔を近づけた。

「オイ、員数は?」

「員数は皆で二十匹です」

「二十匹だって。一イ二ウ三イ……となんだ一匹多いぞ。二十一匹居る」

「ああその一匹は員数外です。途中で死ぬと品数が揃わなくなるから、一匹加えてあるんです」

「員数外は許さん。もしも二十一匹で通すなら二十匹までは無税、第二十一匹目の一匹には一頭につき一ルーブルの関税を課する」

「こんな鼠一匹に一ルーブルの課税はひどすぎますよ。そんな大金を今ここに持ってやしません──じゃ二十一匹の中から一匹のけて、二十匹としましょう。それならようがしょう」

「うむ、二十匹以下なら無税だ」

「じゃあ、そうしまさあ、二十匹で無税で、二十一匹となると課税一ルーブルは何う考えても割に合いませんよ」

 そういいながらレッド老人は、金網の小さい口を開けてなかから一匹の鼠を取出しポケットに入れ、そしてまた元のように金網の入口を閉めた。

「さあ、これでいいでしょう。もう一度数えてみて下さい。籠の中の鼠は二十匹となりましたぜ」

 ワイトマンは再び籠の中に顔を近づけ、念のためにもう一度、籠の中の鼠を数えた。ゴソゴソ匍いまわっている鼠は、確かに二十匹だった。

「よォし、二十匹だ。無税だァ」

「へえ、有難うござんす。それでいいんですね。じゃ通して貰いましょう」

 レッドは籠を卓子テーブルの上から持ち上げた。

 途端にワイトマンが叫んだ。

「オイ待て。──」

「なんですか、旦那」

「貴様は、もう許しておけんぞ。この卓子の上を見ろ」

 ワイトマンが憤りの鼻息あらく指さしたところを見ると、彼の大事にしている丸卓子の上は、鼠の排泄した液体と固体とでビショビショになっていた。

 レッドは鼠の籠をぶら下げたまま、頭を掻いた。そして腰にぶら下げてあった手拭を取って、卓子の上を綺麗に拭った。そしてワイトマンの宥恕ゆうじょを哀願したのだった。

「レッド。勘弁ならぬところだが、今日のところは大目に見てやる。一体こんな金網の籠に時を嫌わず排泄するような動物を入れて持ってくるのが間違いじゃ。この次から、卓子の上に置いても汚れないような完全容器に入れて来い。さもないと、もう今度は通さんぞ」

「へえい。──」

 レッド老人は恐縮しきって、ワイトマンの前を下った。そして税関の横の小門から出ていった。そこはもう白国の街道であった。

 街道を、レッド老人は大きなパイプからプカプカ煙をくゆらしながら歩いていった。そして思い出したように、鼠の籠の入口を開けて、ポケットに忍ばせて置いた員数外の鼠を中に入れてやったのである。


 梅野十伍はペンを下に置いて、湯呑茶碗の中の冷えたる茶を一口ゴクリと飲んだ。

 これは探偵小説であろうかどうか。

 密輸入はたしかに探偵小説の題材になるが、今書いた小説は、探偵小説というよりも落語の方に近い。つまりそのヤマは、税関吏ワイトマンが籠の中の鼠の数ばかりに気を取られていたこと、それから犯人レッドが至極無造作に員数外の鼠を籠から除いて、ワイトマンに疑いを抱かせるいとまもなく至極自然にそれをポケットにしまいこんだことにある。これはナンセンスである。

 ただ、税関吏ワイトマンが愛用する丸卓子の上を汚したことは、なんだか重要な探偵材料を提供したようでありながらその実わずかにワイトマンが員数外の鼠を思い出すおそれあるのに対し、彼の精神を錯乱させる材料に使われたに過ぎない。事実ワイトマンは憤怒し、員数外の鼠がレッドのポケットのなかに入ったまま密輸入されるのに気を使う余裕がなかったのである。でも「愛用の卓子テーブルを汚す」ということは、なかなかハデな伏線材料であるから、そういうハデな材料はもっとハデに生かさなければ面白くない。いわんや、この全篇を通じて探偵小説らしい伏線は、この卓子を汚すということだけなのであるから、それが生きんようでは探偵小説にならない。

 作家梅野十伍は、拳固をふりあげて、自分の頭をゴツーンとぶんなぐった。彼は沈痛な表情をして、またペンを取り上げた。


「旦那ァ。昨日は朝っぱらから来たと叱られたので、きょうはこうして午後になってやってきましたぜ」

「うむ、レッドだな。貴様は怪しからぬ奴だ。昨日儂を胡魔化して、鼠を一匹、密輸入したな。儂は今朝になって、それに気がついた」

「エヘヘ、手前はそんな悪いことをするものですか。旦那がいけないと仰有おっしゃったので、鼠を一匹籠から出してポケットに入れました。それはちゃんと自分の家まで持ってかえって放してやりましたよ。嘘はいいませんや」

「そんな口には乗らんぞ。員数外の鼠を自分の家に放したなんて怪しいものだ」

「いえ、本当ですとも、だから今日はちゃんとこの籠の中に入れて来ました。ごらんなせえ、アレアレ、あの腹が減ったような顔つきをしているやつがそうです」

「もういい。鼠が腹が減ったらどんな顔をするか、儂にゃ見分けがつかん。──で、籠は改造して来たろうな」

「へえ、チャンと改造して来ました。籠を置いても、その下が汚れないように、これこのとおり籠の下半分を外から厚い板でもって囲んであります。これなら籠の中で鼠が腸加答児カタルをやっても大丈夫です」

「うむ、なるほど。これなら卓子の上も汚れずに済むというものじゃ。しかし随分部の厚い板を使ったものじゃ。勿体もったいないじゃないか。──ところできょうの員数は?──」

「員数はやはり二十匹です。きょうは員数外なしで、正確に籠の中には二十匹居ます。どうかおしらべなすって」

「うむ二十匹か。──一イ二ウ三イ……。なるほど二十匹だよし、無税だ」

 レッド老人は、恭々しく礼をいって、税関の小門から出ていった。そしてラチェットのところへ行って、鼠を二十八匹売った。籠の中にいたのは、確かに二十匹だったのに……。


 これだけでは、謎を提供しただけである。謎を解いてないこの小説をここで切って出すなら、これは謎の解答を「懸賞」として、一等当選者に金一千円也、以下五等まで賞品多数、応募用紙は必ず本誌挿込みのハガキ使用のことということにすれば「新探偵」の購読者は急に二、三倍がたの増加を示すことになろう。しかし「新探偵」の編集者大空昇おおぞらのぼる氏は編集上手ではあるが、商売上手ではないから、とてもそれほどの賞金を出さないであろう。

「懸賞」にすることを已むを得ず撤回して、右の小説の回答篇を後に接いで置こう──と作者梅野十伍は再びペンを取上げた。


 その翌日の昼さがりのことだった。

 レッド老人は、また昨日と同じような鼠の籠を持って税関に現れた。

「旦那、すみません。また鼠が二十匹です。どうか勘定して下さい」

「こら、レッド、貴様は怪しからん奴だ。昨夜ゆうべ酒場でラチェットさんに会ったら、丁度ちょうどいい機会だと思って、貴様が鼠を幾匹売りつけていったかと訊ねたんだ。すると今日は二十八匹だけ買いましたといっていたぞ。すると貴様は昨日どこかに鼠を八匹隠していたということになる。本官を愚弄するにも程がある。きょうは断乎として何処どこから何処までも検べ上げたうえでないと通さんぞ」

 ワイトマンは満面朱盆のように赭くなってレッド老人を睨みつけた。

 レッド老人のポケットが怪しいというのでそこから調べ始めた。それから老人の衣服が一枚一枚脱がされた。とうとう老人は、寒い風のなかに素裸に剥がれてしまった。しかし鼠は只の一匹も出て来なかった。

「身体の方はいいとして。こんどは籠の方を調べる」

「もし旦那。もう服を着てもいいでしょうネ」

「いや、服を着ることはならん。どんなことをするか分ったものじゃないから、籠の方を調べ上げるまで、そのまま待って居れ。コラコラ、服のところからもっと離れて居れッ」

 老人は陽にやけた幅の広い背中をブルブル慄わせながら、故郷の方を向いて立っていた。

 税関吏ワイトマンは、椅子のうしろから、大きな皮袋をとり出した。それは今朝からかかってレッドの鼠を検べるために拵え上げたものだった。彼はその皮袋の口を開いて、金網の籠の入口にしっかりと被せた。そして入口を開けると、籠の中の鼠をシッシッと追った。籠の中の鼠はおどろいて開かれた入口から、ワイトマンの註文どおり皮袋のなかへと飛びこんでいった。

「うむ、これで二十匹、あとは……待て待て」

 ワイトマンは腰をかがめて机の大きな引出をあけた。その中から一匹の美しいペルシャ猫ミミーが現れた。ミミーの首っ玉にはみどり色のリボンが結びつけてあった。そして小さな鈴がリンリンと鳴った。この可愛いい小猫は、ワイトマンの隠し女アンナから胡魔化して借りてきたものであった。悪人相手の税関吏は、かくのごとく実に骨の折れる商売だった。隠し女の一人や二人は許してもらわないと、大事な命が続かない。

 ワイトマンは小猫のミミーを大きな手で掴んだまま、空になった籠のまわり──特に部厚い木を貼った籠の下半分に近づけた。小猫は苦しがって身もだえした。そのたびに鈴がリンリンといい音をたてて鳴った。

 すると愕くべし、俄然鼠の立ち騒ぐ音がしはじめた。どうやら籠底をおおっている部厚い木のなからしい。間もなく籠底から丸い栓が籠のなかへポンと飛びだした。オヤと思う間もなく、栓穴から鼠の顔が見えた。ミミーがニャーオと鳴いた。

 それを合図のように、栓穴から鼠が籠の中にとびだしてきた。一匹、二匹、……八匹。みんなで八匹、いずれも小さい仔鼠だった。その仔鼠は大慌てに慌てて、ワイトマンの仕掛けた皮袋のなかに飛びこんでしまった。

 これでレッドの仕掛けは分ったものだとワイトマンは得意だった。網の外に貼った木は中空であって網目より小さい孔があり、それに木の栓をかってあったのだった。八匹の仔鼠は、ミミーの匂いにたまらずなって、その栓を内側から押しあげて飛びだしてきたものに相違なかった。

 税関吏ワイトマンはレッドに八ルーブリの鼠税そぜいを申し渡した。レッドはしぶしぶそれを支払いながら、

「旦那、あんな仔鼠が八匹も籠の外に入っているなんて、手前は知らなかったんですよ、本当に……。あの仔鼠はきっと税関まで来る途中に生れたものに違いありませんぜ」

「莫迦を云え、親鼠が、わざわざ栓のかってある木箱の中に仔を生むものかい」

 とワイトマンは相手にしなかった。


 梅野十伍はこう書き終って大長息だいちょうそくした。これで一と通りのフェアさをもって前篇の謎を解いた。しかし読者は、これだけの解決では、きっと満足しないだろうと思った。

 実はまだ彼はこの作の本当のヤマというべきところを一筆も書いていないのであった。読者が怒らないうちに、すぐ後を続けなければならぬと思い、蒼惶そうこうとしてまたペンを取上げた。

 税関吏ワイトマンが、本部からの通牒つうちょうを短波受信機で受取って、顔色蒼白となったのは、次の日の早朝のことだった。

「国境ヨリ 真珠ノ頸飾ノ密輸甚ダ盛ンナリ。此処数日間ニ密輸サレタル数量ハ時価ニシテ五十万るーぶりニ達ス。シカシテ之レ皆貴関ヨリ密輸セラレタルコト判明セリ。急遽キュウキョ手配アレ」

 なお三十分ばかりして、第二報の無線電信通牒が入った。

「密輸真珠ヲ検査ノ結果、げるとねる氏菌ヲ発見セリ。仍リテ鼠ノ所在スル附近ヲ厳重監視シ、可及カキュウ的速カニ密輸方法ヲ取調ベ、本部宛報告スベシ」

 ゲルトネル氏菌の登場、そして数十万ルーブリの真珠の頸飾の密輸。──犯人はレッド老人の外に心当りはない。

 ワイトマンは肝臓が破裂するほどの激憤を感じた。あの図太い老耄おいぼれ、鼠の輸入なんてどうも可笑しいと思っていたがなんのこと真珠の密輸をカムフラージュするためだったのか、よし今日こそ、のっぴきならぬ証拠を抑えて、監視失敗を取りかえさなければならない。彼はレッド老人が峠の向うから鼠の籠をぶら下げて姿を現わすのを、今か今かと窓の傍に待ちうけた。

 その日の暮れ方、税関の門がもう閉まろうという前、待ちに待ったレッド老人の声がやっと門の方から聞えた。

「旦那、すみません。きょうはどうも遅くなりましたが、一つ鼠をお調べねがいますぜ」

 ワイトマンは肩で大きな呼吸いきを一つして、机の上を食用蛙のような拳でドンと一つ叩くと、表の方に駈けだした。

 レッド老人は、昨日と寸分変らぬ鼠の籠を持って立っていた。

 ワイトマンは無言で老人を部屋のなかに入れた。そして入口の錠をガチャリとかけ、その鍵を暗号金庫のなかにしまった彼は自分の手がブルブル武者慄いをしているのに気がついた。

 それから執拗な検査が始まった。消毒衣にゴムの手袋、防毒マスクという物々しい扮装でもって、ワイトマンは立ち向った。まず例の皮袋のなかに鼠を追いこんだ。それからペルシャ猫ミミー嬢の力を借りて、木底から八匹の仔鼠を追いだした。

「今日の課税は八ルーブリだ」

 ワイトマンは鉛筆をとりあげて机の上の用箋に8ルーブリと書きつけた。心憶こころおぼえのために。

 それが済むと、空の籠を卓子テーブルの上に逆さにして置いた。彼の手には一ちょうの大きなまさかりが握られた。彼はその鉞をふり上げると、力一ぱい籠の底板に打ち下ろした。

 パックリと底板が明いた。なかは洞になっていた。そこにはもう一匹の仔鼠も残っていなかったけれども、その代りに銀色に輝いた立派な真珠の頸飾が現れた。

「とうとう見つけた。そーれ見ろッ?」

 ワイトマンは大得意だった。

 彼はもうすこしで老人レッドの身体を調べることを忘れることであったが、不図ふとそれに気がついて、これまた昨日に劣らぬ厳重な取調べをした。しかしこの方からは一の養殖真珠も出てこなかった。

 老人レッドは、命ぜられるままに、十万八ルーブリの税金を支払った。十万ルーブリは真珠の関税、残りの八ルーブリが鼠の超過関税だった。老人は二十八匹の鼠を歪んだ籠の中に入れて税関を出ていった。

 後には得意の税関吏ワイトマンと、傷だらけになった丸卓子とが残った。

 既に朝となった。


 イヤ間違いである。一行あけてこの行に書くべきであった。

 既に本当の朝である。作家梅野十伍の朝である。いつの間に夜が明けたのか、彼はちっとも気がつかなかった。窓外に編輯局からの給仕君の鉄鋲うった靴音が聞えてきそうである。ところが輸入鼠の話は、まだ終りまで書けていないのだ。

 彼は、鼻の頭にかいた玉の汗をハンカチで拭いながら、原稿用紙の上にまたペンをぶっつけた。


 その翌朝となった。(国境の朝である。そして同時に梅野十伍の朝でもある──ああ面白くもない!)

 面白いのは、その早朝税関吏ワイトマンに対して本部から打たれた電文であった。

「昨夜ノ密輸真珠ハ、時価四十万るーぶりニ達ス。貴関ノ報告数ニ2倍ス。何ヲシテイルノダ。至急ヘンマツ」

 税関吏ワイトマンは床の上にドシンと尻餅をついた。愕きのあまり腰がぬけたのであろう。そんな筈はない。すべてを調べたつもりだった。あの二倍も真珠が隠されていたとは、実に喰いついても飽き足りなき老耄密輸入者レッド!

 一体その多数の真珠を、レッドは何処に隠して持っていたのだろう。


 ──こんな風にして、密輸入者レッド老人とワイトマン税関吏の追いかけごっこを書いてゆくと、何処まで行ってもキリがない。しかし予定の紙数は既に尽きた。もう筆を停めなければならない。

 では、右の疑問符の答だけを書きつけて置こう。多数の真珠は鼠の胃袋のなかに押しこんであったのである。

 さあこれで一応結末がついたようであるが、まだ最も大事なことが一つ説明してなかった。それは本篇の表題であるところの「軍用鼠ぐんようそ」のことである。

 軍用鼠とは、軍用に鼠を使うことである。軍用犬にシェパードやエヤデルテリヤを使う話はよく知られている。軍用犬あって軍用鼠なからんや。

 軍用犬に比して軍用鼠の利点はすこぶる多い。第一安価である。また繁殖力が大きい。非常に敏捷である。その上、甚だ携帯に便である。兵士の両ポケットに四匹や五匹入れて行ける。これを訓練して、一旦有事のときに使うときは、その偉力は実に素晴らしいものである。ただ一つ、鼠の欠点は鼻の頭が弱いことである。ここんところをほうきでぶんなぐると、チュウといって直ちに伸びてしまう。だから軍用鼠の鼻の頭には鉄冑てつかぶとを着せておかなければならない。

 実は老人レッドから盛んに鼠を買いあげるラチェットなる人物は、この軍用鼠の研究家であった。彼の住む寒い白国には鼠というものが棲息していなかった。それでやむを得ず密輸の名手レッドを駆使して、紅国の鼠を輸入させたのだ。

 真珠の密輸は、生れつきの密輸趣味者レッドが鼠をラチェットに売る片手間にこれに托して真珠密輸を企てたのであって、その所得はことごとくレッドのものとなっていた。ラチェットはその真珠事件に無関係であった。

 それなら紅国軍部は税関本部に通牒して鼠の輸入を黙許させればよかったと思うかもしれないけれど、そこがそれ軍機の秘密であった。鼠を輸入して軍用鼠の研究をしているということが国内官吏に知れても軍機上よろしくないのである。計略ハ密ナルヲ良シトスだの、敵ヲ図ラントスレバ先ズ味方ヲ図レなどという格言は紅国軍部といえどもよく心得ているのであった──というような結末まで、ゆっくり探偵小説に書いていると、いくら枚数があっても……。

 丁度、編輯局の給仕さんが、颯爽さっそうたる姿を玄関に現わした。ではこれまで、ああとうとう書きあげたぞ。すがすがしい朝だッ。

底本:「海野十三全集 第4巻 十八時の音楽浴」三一書房

   1989(平成元)年715日第1版第1刷発行

初出:「新青年」博文館

   1937(昭和12)年4

入力:tatsuki

校正:まや

2005年325日作成

青空文庫作成ファイル:

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