○○獣
海野十三
|
深夜の大東京!
まん中から半分ほど欠けた月が、深夜の大空にかかっていた。
いま大東京の建物はその青白い光に照されて、墓場のように睡っている。地球がだんだん冷えかかってきたようで、心細い気のする或る秋の夜のことだった。その月が、丁度宿っている一つの窓があった。その窓は、五階建ての、ネオンの看板の消えている、銀座裏の、とある古いビルディングの屋上に近いところにあって、まるで猫の目玉のようにキラキラ光っていた。
もし今ここに、羽根の生えた人間でもがあって、物好きにもこの窓のところまで飛んでいったとしたら、そしてその光る硝子窓のなかをソッと覗いてみたとしたら、そこに一人の少年が寝床に横わったまま、目をパチパチさせて起きているのを発見するだろう。敬二──といった。その少年の名前である。
大東京の三百万の住民たちは今グウグウ睡っているのに、それに大東京の建物も街路も電車の軌道も黄色くなった鈴懸けの樹も睡っているのに、それなのに敬二少年はなぜひとり目を覚ましているのだろうか。
「本当にそういうことがあるかも知れないねえ──」
と、敬二は独り言をいった。なにが本当にあるかも知れないというのだろうか。
「──原庭先生が嘘をおっしゃるはずがない」少年は、何かに憑かれたように、誰に聞かせるとも分らない言葉を寝床の中にくりかえした。
少年を、この深夜まで只ひとり睡らせないのは、ひるま原庭先生がクラスの一同の前でなすった、一つの奇妙なお話のせいであった。
では、そのお話とは、どんなものであったろうか。──
「だからねえ、みなさん」と、原庭先生は目をクシャクシャとさせておっしゃったのである。それは先生の有名な癖だった。「世の中に、人間ほど豪いものがないと思ってちゃ、それは大間違いですよ。この広い宇宙のうちに、何万億の星も漂っているなかで、地球の上に住んでいるわれわれ人間が一番賢いのだなんて、どうして云えましょうか。人間よりもっと豪い生物が必ずいるに遺いないのです。そういう生物が、いつわれわれの棲んでいる地球へやって来ないとも限らない。彼らは、その勝れた頭脳でもって、人間たちを立ち処に征服してしまうかもしれない。丁度山の奥に蟻の一族が棲んでいて、天下に俺たちぐらい豪いものはなかろうと思っていると、そこへ突然狩人が現れ、蟻は愕くひまもなく、人間の足の裏に踏みつけられ、皆死んでしまったなどというのと同じことです。人間もひとりで豪がっていると、今に思いがけなくこの哀れな蟻のような愕きにあうことでしょう。みなさん、分りましたか」
教室に並んでいた生徒たちは、ハイ先生、分りましたと手をあげた。敬二も手をあげたことはあげたんだが、彼は先生の話がよくのみこめなかった。ただ彼は、人間よりずっと豪い生物がいる筈だと聞かされて、非常に恐ろしくなった。そしてなんとなく原庭先生が、地球人間ではなく、地球人間より豪い他の天体の生物が、ひそかに原庭先生に化けて教壇の上から敬二たちを睨んでいるように思えて、急に身体がガタガタふるえてきたことを覚えている。
先生のお話になったようなことがあっていいものだろうか。
敬二少年は、もうすっかり目が冴えてしまった。寝ていても無駄なことだと思ったので、彼は寝床から起き出して、冷々した硝子窓に近づいた。月はいよいよ明かに、中天に光っていた。なぜ月は、あのように薄気味のわるい青い光を出すのだろう、どう考えたって、あれは墓場から抜け出して来たような色だ。さもなければ、爬虫類の卵のようにも思える。敬二には、今夜の月がいつもとは違った、たいへん気味のわるいものに思えてくるのだった。
そのときだった。
ビビビーン。奇妙な音響が敬二の耳をうった。そう大きくない音だが、肉を切るような異様に鋭い音だった。
「今時分、何の音だろう?」硝子窓の方に耳をちかづけてみると、その窓硝子がビビビーンと鳴っているのだった。
なぜ窓硝子は鳴るのだろう、彼はこれまでにこの窓硝子の鳴ったのを一度も聞いたことがなかった。だからたいへん不思議なことだった。だが窓硝子はひとりで鳴るはずがない。必ず何処かに、この窓硝子を鳴らすための力がなければならぬ。その力の元は何であろうか。
「はて、何だろう?」敬二は窓越しに、深夜の地上を見やった。どの建物の屋根も壁も窓も、すっかり熟睡しているように見える。怪しき力の元は、どこにも見当らない──と思ったそのとき、ふと敬二の注意をひくものが……。
「おや、あれは何だろう」それは芒ッと、ほの赤い光であった。二百メートルほど先の、東京ビルの横腹を一面に照らしている一大火光であった。はじめは火事だろうかと思った。火事ならたいへんだ。火は一階から四階の間に拡っているんだから、だが火事ではない。赤い光ではあるが、ぼんやりした薄い色なんだから。
その大火光は、ときどき息をしていた。ビビビーン、ビビビーンと窓硝子の音が息をするのと同じ度数で、その大火光もパパーッ、パパーッと息をした。だから敬二は、窓硝子の怪音と東京ビルの横腹を照らす火光とが同じ力の元からでていることを知った。さあ、こうなるとその火光がどうして見えるんだか、早く知りたくなった。
敬二は、寝衣を着がえて、早速あの東京ビルの横にとんでいってみようかと思った。でも、すぐそうするには及ばなかった。というのは、その怪しき大火光の元が分るような、不思議な怪物が、敬二の視界のなかにお目見得したからである。それは丁度、東京ビルの横に、板囲いをされた広い空地の中であった。そこには黄色くなった雑草が生えしげっていて、いつもはスポンジ・ボールの野球をやるのに、近所の小供や大供が使っているところだった。その平坦な草原の中央とおぼしきところの土が、どういうわけか分らないが、敬二の見ている前で、いきなりムクムクと下から持ちあがって来たから、さあ大変! 東京ビルの横腹を染めていた大火光は、その盛りあがった土塊のなかから、照空灯のようにパッとさし出ているのであった。地面の下からムクムクと頭をもちあげてきたものは、一体何だろう。
敬二はもうじッとして居られなかった。
「──原庭先生のおっしゃったのは、これじゃないかなア。人間の知らない変な生物が、地面の下をもぐって出てきたのではなかろうか。ウン、そうだ。もっと近くへ行って、何が出てくるか、よく見てやろう」もう、敬二は怕れ慄えてばかりいなかった。何だか訳のわからぬ不思議なことが始まったと気づいた彼は、その怪奇の正体を一秒でも早くつきとめたいと思う心で一杯だった。
敬二は寝衣をかなぐりすてると、金釦のついた半ズボンの服──それはこの東京ビルの給仕としての制服だった──を素早く着こんだ。そしてつっかけるように編あげ靴を履いて、階段を転がるように下りていった。彼の右手には、用心のたしにと思って、この夏富士登山をしたとき記念のために買ってきた一本の太い力杖が握られていた。敬二が一生懸命にいそいで、例の空地の塀ぎわに駈けつけたときには、空地の草原を下からムクムクと動かしていた怪物は、すでに半分以上も地上に姿を現わしていた。敬二はハアハア息をはずませながら、それを塀の節穴から認めたのである。
「おおッ。あれは何だろう。──」土を跳ねとばして、ムックリと姿をあらわしたのは、まるで機械水雷のような大きな鋼鉄製らしい球であった。球の表面は、しきりにキラキラ光っていた。よく見るとそれは怪球の表面がゴム毯のようにすべすべしていないで、まるで鱗を重ねたように、小さい鉄片らしいものに蔽われ、それが息をするようにピクピク動くと、それに月の光が当ってキラキラ閃くのであった。その怪球はグルグルと、相当の速さで廻っていたが、その上に一つの漂う眼のようなものがあった。それは人間の目と同じに、思う方向へ動くのであった。例の薄赤い火光も、その眼のような穴から出ている光だったのである。
「何だろう。あれは機械なのだろうか。それとも生物なのだろうか」片唾をのんでいた敬二少年は、思わずこう呟いた。全く得態のしれない怪球であった。鋼鉄ばりらしく堅く見えるところは機械のようであり、そして蛇の腹のように息をするところは生物のようでもあった。
さあ、この怪球は、機械か生物か、一体どっちなんだろう?
怪球は、敬二少年の愕きを余所に、ずんずん地面の土下から匍いあがってきた。ビビビーン、ビビビーンという例の高い音が、鼓膜をつきさすようだった。
「あれッ、あの機械水雷のお化けは、横に転がってゆくよ」敬二が愕きつくすのは、まだ早すぎた。
草原にポカッと明いた穴の中から、なにかまた、黒い丸い頭がムクムクともちあがってきた。
「おや、まだ何か出てくるぞ」ムクムクムクとせりあがってきたのは、始めの怪球と形も色も同じの双生児のようなやっぱり大怪球だった。
「呀ッ、二つになった。二つがグルグル廻りだした。ああ、僕は夢を見ているんじゃないだろうな」
夢ではなかった。敬二は自分の頬っぺたをギュッとつねってみたが、やっぱり目から涙が滾れおちるほどの痛みを感じたから。
二つの真黒な怪球は、二条の赤い光を宙に交錯させつつ、もつれあうようにクルクルと廻りだした。その速いことといったら、だんだんと速さを増していって、やがて敬二少年のアレヨアレヨと呆れる間もなく、二つの大怪球は煙のように消えてしまった。と同時に、照空灯のように燿いていた赤光も、どこかに見えなくなった。ただあとには、さらに高い怪音が、ビビビーン、ビビビーンと、微かに敬二の耳をうつばかりになった。
「あれッ。どうも変だなア。どこへ行っちまったんだろう」敬二は二つの黒い大怪球が、宙に消えてゆくのを見ていて、あまりの奇怪さに全身にビッショリ汗をかいた。
双生児の怪球はどこへ行った?
敬二は、まるで狐に化かされたような気もちになって、掘りあらされた空地の草原をあちこちとキョロキョロと眺めわたした。
怪球はどこにも見えない。だが、ビビビーンと微かな怪球の呻り声だけは聞える。どこかその辺にいるんだろうが、こっちの目に見えないらしい。
そのときであった。カリカリカリという木をひき裂くような音が聞えだした。鋭い連続音である。
「さあ何か始まったぞ」敬二はその異変を早く見つけたいと思って目を皿のようにして方々を眺めた。遂に彼は発見したのである。
「あッ、あそこの板塀が……」板塀に、今しもポカリと穴が明いている。フットボールぐらいの大きさだ。その穴が、どうしたというのだろう、見る見るうちに大きく拡がってゆくのである。やがてマンホールぐらいの大きさの穴になり、それからまだ大きくなって自動車のタイヤぐらいの大きな穴となった。しかし何が穴を明けているのか更に見えない。
怪奇は、まだ続いた。板塀の穴がもう大きくならぬと思ったら、こんどはまた別の大きな音響が聞えだした。カチカチカチッという硬いものをぶっとばす音だ。その音は、ずっと手近に聞える。敬二はハッとして、後をふりかえった。
ところがどうであろう、彼はいとも恐ろしきことが、すぐ後に始まっているのを知らなかったのだ。敬二の顔は真青になった。そして思わずその場に尻餠をついてしまった。ああ彼は、そこにいかに愕くべき、そして恐るべきものを見たのだろうか。
この深夜の怪奇を生む魔物の正体は何?
敬二少年は、石を積みかさねてつくられたビルディングが、溶けるように消えてゆくのを見た。──なんという怪奇であろう。
「……」敬二少年は、愕きのあまり、叫び声さえも咽喉をとおらない。
彼が見た光景を、もっとくわしくいうと、こうである。──
彼は、東京ビルを背にして立っていたのであった。ところがうしろにカチカチカチッと硬いものをはげしく叩くような音がしたので、うしろをふりかえってみると、さあ何ということであろう。東京ビルの入口に立っている太い柱の一本が、下の方からだんだん抉られてくるのであった。柱はみるみる抉られてしまって、メリメリと、大きな音をたててゴトンと下に落ちた。そして中心を失って、スーッと横に傾くと、地響をたてて地上に仆れ、ポーンと粉々にこわれてしまった。
敬二少年は、わずかに身をかわしたので、辛うじてその柱の下敷きになることから救われた。
カチカチカチッ。──また怪音がする。
「おやッ──」と、音のする方をふりかえった少年の目に、また大変な光景が目にうつった。
それは、東京ビルの玄関が、下の方からズンズン抉られてゆくことであった。まるで砂糖で作った菓子を下の方から何者かが喰べでもしているように見えた。堅牢なコンクリートの壁が、みるみる消えてゆく。そのうちにガラガラと音がして、ぶったおれた。
「ややッ、これは……」寝坊の宿直が、やっと目をさまして、とびだしてきた。彼はあまりのことに、まだ夢でもみている気で、目をこすっていた。
警官が駈けつけてきた。
通りがかりの酔っ払いが、酔いもさめきった青い顔をして、次第に崩れゆく東京ビルを呆然と見守っていた。警官にも、何事が起っているのか、ハッキリしなかったが、ただハッキリしているのは見る見るうちに東京ビルが崩れてゆくという奇怪な出来ごとだった。火災報知器が鳴らされた。ものすごい物音に起きてきた野次馬の一人が、気をきかしたつもりで、その釦を押したのだろう。
その騒ぎのうちに、ビルディングはすこしずつ崩れていって、やがて大音響をたてると、月明の夜が、一瞬に真暗になるほど恐ろしい砂煙をあげてその場に崩潰してしまった。まるで爆撃されたような惨澹たる光景であった。
「一体、これはどうしたというわけだ」と、駈けつけた人々は叫んだ。
「まさか白蟻がセメントを喰べやしまいし、ハテどうも合点のゆかぬことだ」
誰も、この東京ビル崩壊事件の真相を知っている者はなかった。
まるで夢のような、銀座裏の怪奇事件であった。
東京ビルの崩壊は、崩れおちるまでに相当時間が懸ったので、幸いにも人間には死傷がなかった。警視庁からは、水久保捜査係長が主任となって、この原因の知れないビルの崩壊事件を調べることになった。
「どうも分らない。殺人事件の犯人を捜す方がよっぽど楽だ」と、智慧の神様といわれている水久保係長も、あっけなく冑をぬいでしまった。
山ノ内総監も「分らない」という報告を聞いて不興気な顔をしてみせたが、さりとてこれがどうなるものでもなかった。
「水久保君。分らないというだけでは、帝都三百万の市民にたいして、申訳にならないぞ。分らないにしても、もっと何か方法がありそうなものじゃないか。こんな風にしてみれば或いは分るかもしれない、といった何か思いつきはないかネ」
「そうでございますネ」と水久保係長はしきりに頭をひねっていたが、急に思いついたという風に手をうって「そうだ。これは一つQ大学の変り者博士といわれている蟹寺先生に鑑定をねがってみてはどうでしょう」
「おお、蟹寺博士か。なるほど、そいつはいい思いつきだ。先生は非常な物識りだから、きっとこの不思議をといて下さるだろう。ではすぐ博士に電話をかけて、おいでを願おう」
山ノ内総監も、急に元気づいて、水久保係長の言葉に賛成したのだった。
それから一時間ほどして、いよいよ博士が東京ビルの崩れおちた前にあらわれた。博士は強い近眼鏡をかけて、鼻の下から頤へかけてモジャモジャ髯を生やしていた。
「なるほど話に聞いたよりひどい光景じゃ」と博士は目をみはりながら、崩れたビルの土塊を手にとりあげたりしていたが「これはなかなか強い道具で壊したと見える」
「先生、強い道具でとおっしゃっても、それを見ていた人間の話によると、道具はおろか、現場には犬一匹いなかったそうです」
「何をいうのだ。儂のいうことに間違いはないのじゃ。たしかに強い道具で、これを壊したにちがいない。やがてそれがハッキリするときが来るにきまっている」
「そうですかねえ。だがどうも変だなア。見ていた連中は、誰も彼も、いいあわしたように、傍には何にも見えないのに、ビルだけがボロボロ壊れていったといっているんだが……」
水久保係長には、博士のいうことがよく嚥みこめなかった。
しばらくすると博士は、腰をのばして、
「この現場は、まあこれくらいで分ったようなものじゃ。では、今盛んに崩れているところを見たいから、案内して下さらんか」
「今崩れているところ?」係長は側をむいて警官隊に、今崩れているところがあるかどうかたずねた。
「さあ、只今そういうところはありません。今のところ、東京ビルだけで崩れるのは停ったようです」蟹寺博士はそれを聞いていたが、やがて首を大きく左右にふっていった。
「この事件は、崩れているところを見ないことには、なぜそんなことが起るか説明できないじゃろう。こんどそういうことがあったら、急いで知らせて下さいよ」博士は、そういいすててスタコラ帰っていった。
敬二少年は、その夜の異変を思いだしてはゾッとするのだった。
──空地の草原を上へおしあげてムクムクと現れた機械水雷のような大怪球! しかも一つならず二つも現れた。それがビビーンビビーンと互いにグルグル廻りながら、やがて煙のように消えてしまった。その怪球には、眼玉のような赤い光の窓がついていたが、それも見えなくなった。二つの大怪球はどこへ行ったのだろう。
──東京ビルがカチカチカチッと崩れはじめたのは、それから間もなくのことだった。
──赤い眼をもった二つの大怪球と、東京ビルの崩壊とは、別々の異変なのであろうか。それともこの二つは同じ異変から出ているのであろうか。
翌日の朝刊新聞には、東京ビルの崩壊事件が三段ぬきの大記事となって、デカデカに書きたてられていた。
「深夜の怪奇! 東京ビルの崩壊! 解けないその原因!」という標題があるかと思うと、他の新聞にはまた、「科学的怪談! 蟹寺博士もついに匙を投げる。人類科学力の敗北!」
などと、大々的な文字がならべてあった。
敬二少年は、東京ビルの崩れた前でその新聞を一つのこらず読みあさった。しかしその新聞記事のどこにも、例の二つの大怪球のことは出ていなかった。敬二少年は不思議でならなかった。なぜあのことを書かないのだろうか。
「オイ給仕、この騒ぎのなかで、新聞なんか読んでいちゃいけないじゃないか。そんな遑があったら、壊れた壁を一つでも取りのけるがいい」
喧し屋の支配人足立は、敬二少年を見つけて、名物の雷を一発おとした。
「ははッ──」と、敬二は鼠のように逃げだしてビルの崩れた土塊の上によじあがった。
「敬坊、てへッ、やられたじゃねえか。ふふふふッ」
「なんだ、ドン助か。こんなところにいたのか」
「ふふふふッ。さっきから、ここで働いているんだ。もう大分掘ったよ」そういったのは、同じ東京ビルのコックをしていたドン助こと永田純助という敬二の仲よしだった。彼はおそろしく身体の大きなデブちゃんであった。
「ずいぶんよく働くネ。いつものドン助みたいじゃないや」
「ふン、これは内緒だがナ、この真下に、おれの作っておいた別製の林檎パイがあるんだ。腹が減ったから、そいつを掘り出して喰べようというわけだ。お前も手伝ってくれれば、一切れ呉れてやるよ」
「泥まみれのパイなんか、僕は好きじゃないんだよ。ねえドン助さん。それよか、もっと重大なことがあるんだ」
「重大? 重大だなんて、心臓の弱いおれを愕かすなよ。重大てえのは何事だ」
「うん、それはネ──」と敬二少年は、昨夜この東京ビルの崩壊したことは新聞に書いてあるが、彼がそのすこし前に見た二つの大怪球のことについては、何も記事が出ていないのはなぜだろうと、昨夜の愕くべき光景をくわしくドン助に話をしたのだった。
「ははア、そういうことなら分ったよ。つまりそのグルグル鬼ごっこをする大怪球──どうも大怪球なんて云いにくい言葉だネ、○○獣といおうじゃないか。──その○○獣を見たのは、お前一人なんだ。新聞記者も知らないんだ。もちろん何とかいった髯博士も知らないんだ。これはつまり特ダネ記事になるよ。特ダネは売れるんだ。よオし、おれに委せろよ。○○獣の特ダネを何処かの新聞記者に売りつけて、お金儲けをしようや」
「特ダネて、そんなに売れるものかい」
「うん、きっと売って見せるよ」そういっているときだった。
「その特ダネ、ワタクシ、貫います。お金、たくさんあげます」と、突然二人のうしろに声がした。
ハッと敬二とドン助が顔をあげてみると、そこには見慣れない若い西洋人の女が立っていた。背はそれほど高くはないが、鳶色の縮れた毛髪をもち、顔は林檎のように赤く、そして男が着るような灰白色のバーバリ・コートを着て頤を襟深く隠していた。そして眼には、大きな黒い眼鏡をかけ、いままで崩れた土塊をおこしていたらしく、右手には長い金属製の尖り杖をもっていた。
「えッ、あなたが買うんですか」
「買います。これだけお金、あげます。ではワタクシ買いましたよ。外の人に話すこと、なりません。きっと話すことなりません」
そういって、ドン助の手に素早く握らせた紙幣──掌をあけると、十円札が二枚入っていた。
「ほほう、二十円──」
「ドン助さん。これ偽せ札じゃないのかい」
ドン助は偽せ札と聞いて、天の方にすかしてみたが、やがてかぶりをふって、その一枚を敬二の懐中にねじこんだ。
怪しき黒眼鏡の外国婦人は何者だろう?
蟹寺博士は、この大秘密をうまく解くことができるだろうか。
それに○○獣は、今どこへ隠れてしまったんだろうか。そも○○獣とは何ものだろう。
あの不思議な○○獣は、一体どこへいってしまったんだろう。
それからまた、硬いコンクリートや鉄の柱がはげしい音をたてて消えてゆくビルディングの奇病は、その後どうなったんであろうか。
敬二少年は、思いがけなく十円紙幣が懐中に転がりこんだので、彼はしばし夢ごこちであったが、いくど懐中から出して改めてみても、十円紙幣はいつも十円紙幣に見えた。化け狸がくれた紙幣ならもうこのへんで木の葉になっていいころだったが、そうならないところを考えると、なるほどやはり本当に十円儲かったのだと分った。
そうなると敬二は、この十円をどういう具合につかったらいいのだろうかと、また考えこまなければならなかった。
いろいろ考えた末、彼はいいことを考えついた。それはカメラを手に入れることだった。カメラを手に入れるといっても、十円のカメラを買ったのでは、みすぼらしい器械しか手に入らない。それではつまらぬと思ったので、たいへん考えた末、ちかごろ高級カメラとして名のあるライカを借りることにした。ライカを一週間借りて損料十円──ということにきまった。この店は、敬二がよく使いにゆく店だったので、店でもたいへん便宜をはかってくれて、十円の損料だけでよいということだった。
敬二はすっかり嬉しくなって、速写ケースに入ったライカを首にかけて離さなかった。使いにゆくときも、食事をするときも寝るときも、彼はカメラを首にかけていた。カメラを離しているのは、お風呂に入るときだけだった。彼はこの一週間のうちに、十円以上の値打のあるなにか素晴らしい写真をとりたいものと、それをのみ念じていた。
ドン助はどうしたのか、さっぱり姿を見せなかった。
十円儲かったその次の日の朝のことだった。配達された朝刊を見て、敬二は目を丸くして愕いた。
社会面のトップへもって来て、三段ぬきのデカデカ活字で○○獣のことがでていたのである。
──ビル崩壊の謎はこれか? ○○獣を見た東京ビル主任永田純助氏語る──
という標題で、「私は昨夜この眼で不思議なけだもの○○獣を見ました。これは雪達磨を十個合わせたぐらいの丸い大きな目をもった恐ろしい怪物です。そいつは空からフワリフワリと下りて来て、私を睨みつけたのです。私は日本男子ですから、勇敢にも○○獣を睨みかえしてやりましたが、その○○獣の身体というのは、狐のように胴中が細く、そして長い尻尾を持っていまして、身体の全長は五十メートルぐらいもありました。しかし不思議なのはその身体です。これはまるで水母のように透きとおっていて、よほど傍へよらないと見えません。とにかく恐ろしい獣で、私の考えでは、あれはフライにして喰べるのがいちばんおいしいだろうと思いました。云々」
敬二はそこまで読むと、ドン助の大法螺にブッとふきだした。ドン助はいうことが無いのに困って、こんな出鱈目をいったのだろうが、フライにして喰べるといいなどとはコックだというお里を丸だしにしていて笑わせる。
その日、お昼が近くなったというのに、ドン助が帰ってこないので、足立支配人はプンプンの大プリプリに怒っていた。
「こら給仕お前は永田の居所を知っているくせに、俺にかくしているのだろう。早くつれてこい。もう三十分のうちにつれてこないと、お前の首をとってしまうぞ。あいつにはウンといってやらんけりゃならん。俺という支配人が居るのに、東京ビルの主任だなんて新聞にいいやがって、怪しからん奴だ」
プリプリと足立支配人は怒りながら、向うへいってしまった。日ごろ怒るのが商売の支配人ながら、今日は本当に足の裏から頭のてっぺんまで本当に怒っているらしかった。
「困ったなあ、ドン助のおかげで、僕まで叱られて、ああつまんないな」
敬二は、腹だちまぎれに向うへ帰ってゆく支配人の後姿にカメラを向けて、パチリと一枚写真をとった。機関銃でタタタタとやったように。いい気持になった。これで支配人の禿げ頭がキラキラと光っているところがうつってでもいれば、もっと胸がスーッとすくだろうに。
敬二は、壊れた石塊の上に腰を下ろして、ドン助がどこへいったのだろうかと、心あたりを一つ一つ数えはじめた。
「あ、あなたです。ワタクシ、よく覚えています──」
物思いにふけっていた敬二は、いきなり黄いろい女の金切り声とともに、腕をムズとつかまれた。
顔をあげてみると、それは十円紙幣をくれた鳶色のちぢれ毛の外国婦人だった。やっぱり大きい黒眼鏡をかけて、白っぽいコートをひきずるようにきていた。
「この間は、どうも有難う」と、敬二はお礼をのべた。
「あなた、ひどい人ありますね。なぜ約束、破りました」
「えッ、約束なんて──」
「破りました。ニュースを二十円で、ワタクシ買いました。外の人にきっと話すことなりません、約束しました。ところが今日の新聞、みな○○獣のこと書いています。大々的に書いています。それでもあなた大嘘つきありませんか」
「ま、待って下さい。ぼ、僕はなにも知らないのです。喋ったとすれば、ドン助が喋ったのかもしれません。僕は喋らない」
「ドン助? ああ、あの太った人ですね。ドン助どこにいます。ワタクシ会います。彼にきびしく云うことあります。すぐつれて来てください」
「ドン助をですか。わーッ」またドン助だ。ドン助は一体どこに行ってしまったんだろう。敬二はローラというその外国婦人の前を逃げるようにしてすりぬけた。ローラは拳をふりあげながら、あとから追いかけてくる。捉ってはたいへんと、敬二は、ビルの裏へにげこんだ。
でもローラの金切り声はおいかけてくる。
さあ、そうなると逃げるところがなくなった。といって捉ってはどんな目にあうかもしれない。そのとき敬二はいい隠れ場所をみつけた。それは外国人がホテルへついて荷物を大きな荷造りの箱から出したその空箱がいくつも重ねてある場所であった。敬二はそのうちで一番大きい箱に見当をつけて、腕をすりむくのも構わず、夢中になって空箱のなかにとびこんだ。
そのとき彼は、箱の奥に、なんだかグニャリとするものにつきあたってハッとした。
空き箱の奥のグニャリとするものにつきあたって、敬二少年は心臓がつぶれるほどおどろいた。何だろうと思って目をみはったとき「ごーッ」という音が耳に入った。大きな鼾であった。
「なんだ、こんなところに寝ているんだもの、どこを探したって分る筈がない」空き箱の中に窮屈そうに、身体を、縮めて寝こんでいるのは、行方不明になったドン助だった。酒の香が箱のなかにプンプンにおっていた。
敬二はドン助をそっと揺りおこした。ところがそんなことで目のさめるような御当人ではなかった。といって箱のなかであるから、あまり音をたてては、ローラに知れる。そこで一策をかんがえて、ドン助のはりきった太ももをギューッとつねってやった。
「ああ、あいてて……」膨れかけた鼻提灯が、急にひっこんで、その代りドン助はバネ人形のように起きあがった。そこは狭い狭い箱の中だった。彼はいやというほど頭をぶっつけて、とうとう本当に眼をさました。
「やっ、貴様か。貴様はなんというひどい──」大口開いてつかみかかってくるドン助を、敬二はあわててつきとばした。ドン助は赤ん坊のように、どたんと倒れた。
敬二が早口に、あの黒眼鏡のローラがいまそこまで追っかけてきていることを告げると、さすがのドン助もこれが大いに効いたと見え、彼はたちまち頭をかかえて羊のごとくおとなしくなってしまった。
「そうか。そいつは弱ったな」
敬二はこれまでの話を、手みじかに話してやった。それを聞いていたドン助は、
「いや、俺が慾ばりすぎて失敗したんだ。でもあの外国の女には第一番に話をしたんだから、あれは二十円の値打はあると思うよ。第二番以後は二円ずつ安くして、ニュースを売ってやったのだ。あれから皆で四、五十円も儲かったよ。だからつい呑みすぎちまったんだ。わるく思うなよ」あの出鱈目ニュースを、そんなに幾軒もの新聞に売ったと聞いて、敬二はドン助の心臓のつよさにおどろいた。
「へへえ、支配人が俺をとっちめるといってたかい。そいつは困ったな。あいつは柔道四段のゴロツキあがりだから、いま見つかりゃ肋骨の一本二本は折られると覚悟しなきゃならない。そいつは痛いし──」と腕をこまねいて、
「どうも弱った。仕方がない。夜になるまでここに隠れていよう」ドン助はごろりと音をたてて横になった。すると間もなく平和な鼾が聞えてきた。すっかりアルコールの擒となった彼の身体は、まだまだねむりをとらなければ足りないのであった。
恐ろしいビルディング崩壊が再び始まったのはその日の午後であった。
あれよあれよと見る間に、例のカリカリカリという怪音をあげて、東京ホテルの裏に立っている大きな自動車のガレージを噛りはじめた。
敬二少年が外に走りでたときは、もはやガレージの横の壁が、まるで達磨を横にしたように噛みとられ、そして中にある修理中の自動車がガリガリやられているところだった。じっと見ていると、それらの壁や自動車が、音をたてて自然に消えてゆくとしか見えないのであった。もちろんドン助が新聞記者に喋ったように、怪物の尻尾もなんにも見えなかった。
敬二はいまさらながら、この出来事を眼の前に見て、気味がわるかったが、思いついて、首にかけていたカメラでパチリと写真を一枚とった。露出はわずか千分の一秒という非常な短かい撮影だった。
「やあ、これかい。なるほどなるほど」と突然大きな声がしたので、その方をふりむいてみると、誰がいつの間に知らせたのか、蟹寺博士が来ていた。博士は例の強い近眼鏡を光らせて、崩壊してゆく自動車を熱心にじっと見つめていた。
自動車も消えてしまうと、そこらに集って見物していた人達は、にわかに狼狽をはじめた。さあ、こんどはどこが崩壊するかしれないからです。もし自分の身体が崩壊しはじめたらどうしよう。
カリカリカリカリ。
突然また例の怪音がおこって、人々の耳をうった。
敬二少年が、わずか千分の一秒という短かい露出でもって、○○獣の動いていると思われるところをうまく写真にとったことは、前にいった。少年は、どんな写真が撮れたかを一刻も早く見たくてたまらなかった。それで目下、東京ホテルの裏口を暴れまわっている○○獣のことは、折から現場に着き例の強い近眼鏡をひからせながら熱心に観察している蟹寺博士にまかせてしまって、敬二はカメラをもったまま、友だちの三ちゃんというのがやっている写真機屋の店をさして駈けだした。
「おう、三ちゃん、たいへんだたいへんだ」
「な、なんだ。おや敬ちゃんじゃないか。顔いろをかえてどうしたんだ」三ちゃんは現像室からとびだしてきて、敬二少年を呆れ顔で見やった。
「うん、全くたいへんなんだよ。○○獣の写真をとってきたんだ。すまないが、すぐ現像してくれないか」
「えっ、なんだって、あの○○獣の写真をとってきたんだって。まさかね。あははは」と、三ちゃんは本気にしない。それもそうであろう。誰にも見えない○○獣が写真にうつるわけがないからである。敬二少年は、それからいろいろと説明をして、やっと三ちゃんに納得してもらうことができた。
「ああそうだったのか。千分の一秒で……。うむ、これなら或いはなにか見えるかもしれないね。ではすぐ現像してみよう」そういって三ちゃんは、敬二のフィルムをもって、現像室にもぐりこんだ。
それから二、三十分も経ったと思われるころ、三ちゃんは水洗平皿に、黒く現像のできたフィルムを浮かして現れた。
「おい三ちゃん、どうだったい」
「うん。なんだかしらないけれど、とにかく妙なものがぼんやり出ているようだぜ。いまそれを見せてやるから、待っていなよ」そういって三ちゃんは、水に浮いているフィルムを、そっと水中でひっぱってみせた。
「ほら、ここんところを見てごらん。なんだか白い環のようなものが、ぼんやりと見えるだろう。これはたしかに○○獣らしいぜ」
フィルムのままでは、白と黒とがあべこべになっているので写真を見つけない敬二にはよく見えなかった。そこで三ちゃんは、水洗をいい加減にして急に乾かすと、それを印画紙にやきつけた。すると肉眼で見ていると同じ光景が、写真の面にあらわれた。
「ああっ、これだ。この輪が○○獣なのだ」
それは崩壊してゆくガレージの壁をとった写真だったが、その壊れゆく壁土のそばになんとも奇妙な二つの輪がうつっていた。かなり太い環であった。それは丁度噛みあった指環のような恰好をしていた。どうして○○獣は、こんな形をしているのだろうか。
敬二少年は、ついに○○獣の撮影に成功したのだった。
この写真をよく見てるうちに、彼はこの事件が起った最初、裏の広場の土をもちあげて、機械水雷のような形をした二つの球塊がむっくり現れたことを思いだした。
○○獣の正体は、やはりこれだったのである。
何だかしらないが、その二つの球塊が、たがいにくるくると廻りあっている。一方が水平に円運動をすると、他の方は垂直に円運動をする。つまり二つの指環を噛みあわせたような恰好の運動になるのであった。それは二つの球が、お互いに運動をたすけあって、いつまでもぐるぐる廻っていることになるのであった。○○獣のおそろしい力も、こうした運動をやっているからこそ、起るのであった。
今では○○獣の姿が、一向人々の眼に見えないが、これは○○獣がたいへん速く廻転しているせいであった。たとえば非常に速く廻っている車が見えないのと同じわけであった。敬二少年は、○○獣がこれから廻ろうとしていたその最初から見ていたのであった。
「まったく不思議な○○獣だ」と、敬二は自分で撮った写真をじっと見つめながら、長大息をした。
○○獣というのは、二つの大きな球塊がぐるぐる廻っているものだということは分ったけれど、さてその大きな球塊は一体どんなものから出来ているのか、また中には何が入っているのかということについては、まだ何にも知れていなかった。そこに実に大きい疑問と驚異とがあるわけであったが、敬二には何にも分っていない。いや敬二ばかりが分らないのではない。おそらく世間の誰にもこの不思議な○○獣の正体は見当がつかないであろう。
敬二が○○獣の写真をもって、再び東京ホテルの裏口に帰ってきたときには、そこには物見高い群衆が十倍にも殖えていた。その間を押しわけて前に出てみると、ホテルの建物はひどく傾き、今にも転覆しそうに見えていた。その前に、蟹寺博士が、まるで生き残りの勇士のように只一人、凛然とつっ立っていた。警官隊や消防隊は、はるかに離れて、これを遠巻きにしていた。
そのとき敬二は、胸をつかれたようにはっと感じた。それは外でもない。ホテルの裏口に積んであった空箱の山が崩れて、そのあたりは雪がふったように真白に、木屑が飛んでいることであった。
「ドン助は、どうしたろう。この空箱の中に酔っぱらって眠っていたわけだが……」
彼は急に心配になって、恐ろしいのも忘れて前にとびだした。そして残った空き箱の一つ一つを手あたり次第にひっくりかえしてみたが、たずねるドン助の姿はどこにも見あたらなかった。ぞーッとする不吉な予感が、敬二の背すじに匍いあがってきた。
「おいおい、君は何をしとるのか。こんなところにいると危いじゃないか」
と、蟹寺博士がつかつかと敬二のところへやってきた。
「ああ博士。僕はドン助を探しているのです」
「ドン助? はて、そのドン助というのは、誰のことじゃ」
「ドン助というのは、僕の親友ですよ。コックなんです。すっかり酔払って、ここに積んであった空箱のなかに寝ていたはずなんですがねえ」
「なに、この空箱のなかに寝ていたというのかね」博士は目をぱちくりして「そしてドン助は見つかったかね」
「だから今も云ったとおり、そのドン助を探しているのですよ。ところがどこにも見つからないんです」
「ふむ、そうか」と博士は腕ぐみをして考えていたが、
「これはひょっとすると、たいへんなことになったかもしれないぞ」
「えッ、たいへんとは何です。早くいって下さい」
「実はな、さっき○○獣が、この空箱の山をカリカリ音をさせて喰いあらしたのじゃ。空箱はつぎからつぎへと下へ崩れおちてくる。そこをカリカリカリと○○獣は喰いつづけたのじゃ。ひょっとすると、そのドン助というのは、そのときこの○○獣に喰われてしまったかもしれないよ」
「ええっ、ドン助が○○獣に喰べられてしまいましたか」
それを聞くと、敬二は頭がぼーっとしてきた。人もあろうに、ドン助が○○獣に喰われてしまうなんて、なんということだろう。ドン助は喰われてしまって、どうなったであろうか。
「博士、○○獣に喰べられて、どうなっちまったんでしょうか」
「さあ、そこがどうも分らんので、いま研究中なのじゃ」
敬二は思いついて、博士に○○獣の写真を出してみせた。こいつは博士を興奮させたこと、非常なものであった。
「おお、これじゃ、これじゃ。儂の想像していたとおりじゃった。二つの球体が互いにぐるぐる廻っているのがよく分る。はて、こういうわけなら、○○獣を生擒に出来ないこともないぞ」
「○○獣を生擒にするんですか」
敬二は我をわすれて躍りあがった。○○獣の生擒なんて、いまのいままで考えていなかったことだ。もし生擒にできたなら、○○獣の謎の正体もはっきり分るだろう。
二人が○○獣の生擒の話で夢中になっているとき、二人の傍には、いつ何処から現れたかしらないが、例の黒眼鏡の断髪の外国婦人が忍びよって、そこらに散らかっている雪のように白い木屑を、せっせと掃きあつめてはメリケン粉袋にぎゅうぎゅうつめこんでいた。
「おーい! 消防隊」
蟹寺博士は、すこぶる興奮のありさまで、向うに陣をしいている消防隊の方へ駈けだした。そして隊長らしいのをつかまえて、しきりに手真似入りで話をやっているのが見えた。すると消防隊は、にわかに活溌になった。大勢の隊員が、さらに呼びあつめられた。
「一体なにが始まるのかしら」敬二はそれが知りたくて仕方がなかった。それで傍へ近づいていった。
蟹寺博士は、地面に図を描いて、消防隊長に説明をしていた。
「いいかね。このとおりやってくれたまえ」
「ずいぶん大きな穴ですね。もっと人数を増さなきゃ駄目です」
と、隊長の一人がいった。
「要ると思うのなら、すぐ手配をして集めてきたまえ。○○獣の生擒がうまくゆかなければ、この事件の被害はますます大変なことになるのだ。井戸掘機械なりとなんなりと、要ると思うものはすぐ集めてきて、早くこのとおりの穴を掘ってくれたまえ」
蟹寺博士は気が気でないという風に、消防隊を激励した。
その甲斐があってか、まもなく東京ホテルを中心として、その周囲に深い穴がいくつとなく掘られていった。
「博士。こんなに穴をあけてどうするんですか」
「おう、敬二君か。これは陥穽なんだよ。○○獣をこの穴の中におとしこむんだよ」
「へえ、陥穽ですか。なるほど、ホテルの周囲にうんと穴を掘って置けば、どの穴かに○○獣が墜落するというわけなんですね」
「そのとおりそのとおり」
「博士、穴の中に落っこっただけでは駄目じゃありませんか。なぜって、穴の中で○○獣が暴れれば、穴がますます大きくなり、やがて東京市の地底に大穴が出来るだけのことじゃないんですか」
「うん、まあ見ていたまえ。儂の胸にはちゃんと生擒りの手が考えてある」蟹寺博士は、大いに自信のある顔つきであった。
そのうちに穴はどんどん掘りさげられていった。千五百人の人が働いて、五十六の大穴が掘れた。もうあとは、○○獣が外へ出てきて、陥穴におちるばかりであった。蟹寺博士はじめ大勢の見物人は、それがいつ始まるだろうかと、首を長くして○○獣の出てくるのを待ちわびた。
「おお、あそこから○○獣が出てきたっ!」敬二が突然大きな声で叫んで、ホテルの南側の窓下を指した。
敬二の指した方を、大勢の人々は見てはっとした。
今やホテルの南側の窓下が、がりがりごりごりと盛んに噛られてゆき、見る見る大きな穴が明いてゆく。
「うわーッ、あれが○○獣だ」
「危いぞ。皆下がれ下がれ」
見物人は顔色をかえて、後へ尻込みをするのだった。
勇敢なのは、蟹寺博士だった。
博士はその前に、前かがみになって、じっと見つめている。
そのとき、敬二少年はドン助の行方が気になるので、しきりにそのあたりを探しまわってたが、何処を探してみてもいない。博士はドン助が木函ごと○○獣に噛られてしまったといったが、始めはそれが冗談と思っていたのに、だんだん冗談ではないことが敬二に分ってきた。
「もし、貴女はなぜその木屑をメリケン袋の中にぎゅうぎゅうつめこんでいるんですか」
と、黒眼鏡の外国婦人に声をかけた。
すると、かの外国婦人は、怒ったような顔を敬二の方に向けると、
「あなた、分りませんか。この木屑の中に、あなたの友達の身体が粉々になってありますのです。おお、可哀そうな人であります。わたくし、こうして置いて、後で手篤く葬ってやります。たいへんたいへん、気の毒な人です。みな、あの○○獣のせいです」
「すると、ドン助は○○獣に殺されて、身体はこの木屑と一緒に粉々になっているというのですか。本当ですか、それは──」
「本当です。わたくし、あなたたちのように嘘つきません」
「僕だって嘘なんかつきやしない」
と、敬二少年は腹を立ててみたが、とにかくもしそれが本当だとすると、この外国婦人は親切なひとだと思われる。
「貴女は一体どういう身分の方なんですか」
と、敬二は彼女に聞きたいと思っていたことを訊ねてみた。
「わたくしはメアリー・クリスという英国人です。タイムスという新聞社の特派員です。この○○獣の事件なかなか面白い、わたくし、本国へ通信をどんどん送っています。いや本国だけではない、世界中へ送っています」
「ははあ、女流新聞記者なのですか」
敬二は始めて合点がいったという顔をした。
そのとき、大勢の群衆がうわーっと鬨の声をあげた。
「騒ぐな騒ぐな」
と、蟹寺博士は群衆を一生懸命に制しているが、なかなか鎮まらない。
「さあ、セメントを入れろ!」
消防隊員は総出でもって、穴の中にしきりにセメントの溶かしたものを注ぎいれている。もちろんそれは蟹寺博士の指図によるものであった。
「どうしたんです」
と、敬二が見物人に聞くと、
「いや、とうとう○○獣が穴の中に墜ちたんだとよ」
「えっ、○○獣が……」
敬二が愕いているうちにも、セメントは後から後へと流しこまれる。しかしそのたびに穴の中から真白な霧みたいなものがまい上ってくる。
セメントはどんどん、穴の中に注がれた。
敬二は心配になって、蟹寺博士のそばに駈けだしていった。
「博士。○○獣が墜っこったって本当ですか」
「おお敬二君か。本当だとも」
「穴の中へセメントを入れてどうするんですか」
「これか。これはつまり、○○獣をセメントで固めて、動けないようにするためじゃ」
「なるほど──」
敬二には、始めて合点がついた。○○獣はもともと二つの大きな球が、たいへん速いスピードでぐるぐると廻っているものだった。そのままでは人間の眼にも停まらないのだった。その廻転を停めるためには、セメントで○○獣を固めてしまえばいい理窟だった。なるほど蟹寺博士は豪い学者だと敬二は舌をまいて感心した。
しかしそのとき不図不審に思ったのは、セメントは乾くまでになかなか時間が懸るということだ。ぐずぐずしていれば、○○獣はまた穴のなかからとびだして来はしまいか。そう思ったので、敬二は心配のあまり蟹寺博士にたずねた。
すると博士は、眼鏡の奥から目玉をぎょろりと光らせて云った。
「なあに大丈夫だとも。今穴の中に流し込んでいるセメントは、普通のセメントではないのだ。永くとも一時間あれば、すっかり硬くなってしまうセメントなんだよ。そのセメントのなかで○○獣は暴れているから、摩擦熱のため、セメントは一時間も罹らないうちに固まってしまうだろう」
なるほどそういうものかと敬二は、また感心した。
「そんなセメントがあるのは知らなかった。これも博士の発明品なのですか」
「そうじゃない。この早乾きのセメントは前からあるものだよ。歯医者へ行ったことがあるかね。歯医者がむし歯につめてくれるセメントは五、六分もあれば乾くじゃないか。一時間で乾くセメントなんて、まだまだ乾きが遅い方なんだよ」
あっそうか。むし歯のセメントのことなら、敬二もよく知っていた。じゃあ○○獣は、そろそろセメント詰めになる頃だぞ。
「ほほ、敬二君。いよいよ○○獣がセメントの中に動かなくなったらしいぞ。見えるだろう。さっきまで穴の中から白い煙のようなセメントの粉が立ちのぼっていたのが、今はもう見えなくなったから」
「えっ、いよいよ○○獣が捕虜になったんですか」
博士の云うとおり、○○獣の落ちた穴の中からは、最前までゆうゆうと立ち昇っていた白気は見えなくなっていた。
博士は穴の方へ飛びだしていった。
「おおい、皆こっちへ集ってくれ。○○獣を掘りだすんだ」
さあ、いよいよ問題の○○獣を掘り出すことになった。消防隊はシャベルや鶴嘴をもって、穴のまわりに集ってきた。蒸気で動くハンマーも、レールの上を動いてきた。
がんがんどすんどすんと、○○獣の埋まっている周囲が掘り下げられていった。セメントはもはや硬く固っていた。
やがて掘りだされたのは、背の高い水槽ほどもあるセメントの円柱だった。
「うむ、うまくいった。この中に○○獣がいるんだ。よかったよかった」
と蟹寺博士はもみ手をしながら、そのまわりをぐるぐると歩きまわる。
警備の隊員も見物人も、ざわざわとざわめいたが、折角の○○獣も、セメントの壁に距てられて見えないのが物足りなさそうであった。
「博士。○○獣はセメントで固めたまま抛って置くのですか」
「うん、分っているよ、敬二君。こいつは用心をして扱わないと、飛んだことになるのだ。まあ儂のすることを見ているがよい」
蟹寺博士は、セメント詰めの○○獣をトラックの上に積ませた。そしてそのトラックは騒ぎを後に、東京ホテルの広場から走りだした。その後からは、幾十台の自動車がぞろぞろとつき従ってゆく。
やがてこのセメント詰めの○○獣は、帝都大学の構内に搬びこまれた。
蟹寺博士は先頭に立って、指図をしていた。まずX線研究室の扉がひらかれ、その中に○○獣を閉じこめたセメント柱が搬びこまれた。室内は直ちに暗室にされた。ジイジイとX線が器械から放射され、うつくしい蛍光が輝きだした。
「ああ、見えるぞ」
博士は叫んだ。蛍光板の中にぼんやりと二つの丸い球が見えだした。
後からついてきた人たちも、それっというので眼を瞠った。
「どうもこの儘では危い。この二つの○○獣を互いに離して置かないと、いつまた前のようにぐるぐる廻りだすか分らない。さあ、この辺から、セメントの柱を二つに鋸引きをしてくれたまえ。柱が壊れないようにそろそろやるように注意を頼む」
鋸引きの音が、ごりごりいっている間に、敬二は博士のそばへいって声をかけた。
「博士、なぜ○○獣を別々に離して置かないと危いのですか」
「うん。これは○○獣の運動ぶりから推して、そういう理屈になるんだよ。つまり○○獣というのは二つの球が互いに相手のまわりに廻っているんだ。丁度二つの指環を噛みあわしたような恰好に廻っているんだ。こういう風に廻ると、二つの球は互いに相手に廻転力を与えることになるから、二つの球はいつまでも廻っているんだ。だから二つの球を静止させるには、二つの球の距離を遠くへ離すより外ないのだ。見ていたまえ。もうすぐ○獣と○獣とが切り離せるから」
鋸引きが済んで、セメント柱は二つに切られた。博士の指図によって、消防隊の人々が一方のセメント柱に手をかけて、えんやえんやと引張った。
「これは駄目だ。中々動きそうもない」
「そんなに強いかね。じゃあ、もっと皆さんこっちへ来て手を貸して下さい」
更に人数を殖やして、えんやえんやと引張った。するとセメント柱は、やっと両方に離れだした。
「しめた。もっと力を出して。そら、えんやえんや」
うんと力を合わせて引張ったので、セメント柱はごろごろと台の上から下に転がり落ちた。
あっと思ったが、もう遅かった、ぐわーん、どどーんと大きな音とともに真白な煙が室内に立ちのぼった。
人々の悲鳴、壁や天井の崩れる音。思いがけないたいへんな椿事をひきおこしてしまった。
敬二少年も、この大爆発のために、しばらくは気を失っていた。暫く経ってやっと気がついてみると、壁も天井もどこかへ吹きとんでしまって、頭上には高い空が見えていた。あたりを見ると、そこには大勢の人が倒れていた。セメントの破片が白く飛んでいた。
しかし不思議なことに、○○獣の姿はどこにも見当らなかった。
なぜ大爆発が起ったのやら、なぜ○○獣がいなくなったのやら、そこに居合わせた誰にもさっぱり解らなかったけれど、ずっと後に、やはりあのとき重傷を負った蟹寺博士が病院のベッドの上で繃帯をぐるぐる捲きつけた顔の中から細々とした声で語ったところによると、
「儂の失敗じゃ。○○獣を切り離したのがよくなかった。○○獣が互いに傍にいる間に、お互いの引力で小さくなっているんだが、あれを両方に離してしまうと、引力がなくなってしまうから、それで急に大きく膨れて、あのとおり爆発してしまったのだ。○○獣はもともと瓦斯体だったが、ああして廻りだすようになってから形が小さくなって鉄の塊みたいに固くなっていたんだ。だから二つを両方に離すと、どっちももとの瓦斯体になり、後には何にも残っていないのだ。じゃ○○獣というのは何物だったかといえば、あれは宇宙を飛んでいる二つの小さい星雲が或るところで偶然出会い、それからあの激しい収縮と強い廻転とが生じて、それがたまたま地球の中をくぐりぬけていったのだよ。全く珍らしい現象だ。随分恐ろしいことだった」
博士はベッドの中で大きな溜息をつきながら、そういうのであった。
底本:「海野十三全集 第5巻 浮かぶ飛行島」三一書房
1989(平成元)年4月15日第1版第1刷発行
初出:「ラヂオ子供のテキスト」日本放送出版協会
1937(昭和12)年9月
入力:tatsuki
校正:浅原庸子
2003年11月24日作成
2011年9月30日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。