真景累ヶ淵
三遊亭圓朝
鈴木行三校訂




 今日こんにちより怪談のお話を申上げまするが、怪談ばなしと申すは近来大きにすたりまして、余り寄席せきで致す者もございません、と申すものは、幽霊と云うものは無い、全く神経病だと云うことになりましたから、怪談は開化先生方はお嫌いなさる事でございます。それ故に久しく廃って居りましたが、今日になって見ると、かえって古めかしい方が、耳新しい様に思われます。これはもとより信じてお聞き遊ばす事ではございませんから、あるいりゅう違いの怪談ばなしがよかろうと云うお勧めにつきまして、名題を真景累ヶ淵と申し、下総国しもふさのくに羽生村はにゅうむらと申す処の、かさねの後日のお話でございまするが、これは幽霊が引続いて出まする、気味のわるいお話でございます。なれども是はその昔、幽霊というものが有ると私共わたくしどもも存じておりましたから、何か不意に怪しい物を見ると、おゝ怖い、変な物、ありゃア幽霊じゃアないかと驚きましたが、只今では幽霊がないものと諦めましたから、とんと怖い事はございません。狐にばかされるという事は有る訳のものでないから、神経病、又天狗にさらわれるという事も無いからやっぱり神経病と申して、なんでも怖いものは皆神経病におっつけてしまいますが、現在ひらけたえらい方で、幽霊は必ず無いものと定めても、鼻の先へ怪しいものが出ればアッと云って臀餅しりもちをつくのは、やっぱり神経がと怪しいのでございましょう。ところが或る物識ものしりの方は、「イヤ〳〵西洋にも幽霊がある、決して無いとは云われぬ、必ず有るに違いない」と仰しゃるから、私共は「ヘエうでございますか、幽霊は矢張やっぱり有りますかな」と云うと、又外の物識の方は、「ナニ決して無い、幽霊なんというは有る訳のものではない」と仰しゃるから、「ヘエ左様でございますか、無いという方が本当でげしょう」と何方どちらへも寄らず障らず、只云うなり次第に、無いといえば無い、有るといえば有る、と云って居れば済みまするが、ごく大昔に断見だんけんの論というが有って、是は今申す哲学という様なもので、此の派の論師の論には、眼に見え無い物は無いに違いない、んな物でも眼の前に有る物で無ければ有るとは云わせぬ、仮令たとえ何んな理論が有っても、眼に見えぬ物は無いに違いないという事を説きました。すると其処そこへ釈迦が出て、お前の云うのは間違っている、それに一体無いという方が迷っているのだ、と云い出したから、益々分らなくなりまして、「ヘエ、それでは有るのが無いので、無いのが有るのですか」と云うと、「イヤうでも無い」と云うので、詰り何方どちらたしかに分りません。釈迦と云ういたずら者が世にいでて多くの人を迷わするかな、と申す狂歌も有りまする事で、私共は何方へでも智慧のあるかたが仰しゃるほうへ附いて参りまするが、詰り悪い事をせぬかたには幽霊という物は決してございませんが、人を殺して物を取るというような悪事をする者には必ず幽霊が有りまする。是が即ち神経病と云って、自分の幽霊を脊負しょってるような事を致します。例えば彼奴あいつを殺した時にういう顔付をしてにらんだが、しやおれうらんで居やアしないか、と云う事が一つ胸に有って胸に幽霊をこしらえたら、何を見ても絶えず怪しい姿に見えます。又その執念の深い人は、生きて居ながら幽霊になる事がございます。勿論死んでから出るとまっているが、わたくしは見た事もございませんが、随分生きながら出る幽霊がございます。の執念深いと申すのは恐しいもので、よく婦人が、嫉妬のために、ちらし髪で仲人の処へ駈けてく途中で、巡査おまわり出会でっくわしても、少しも巡査が目に入りませんから、突当るはずみに、巡査の顔にかぶり付くような事もございます。又金を溜めて大事にすると念が残るという事もあり、金を取る者へ念が取付いたなんという事も、よくある話でございます。

 只今の事ではありませんが、昔根津ねづ七軒町しちけんちょう皆川宗悦みながわそうえつと申す針医がございまして、この皆川宗悦が、ポツ〳〵と鼠が巣を造るように蓄めた金で、高利貸を初めたのが病みつきで、段々少しずつ溜るに従っていよ〳〵面白くなりますから、たいした金ではありませんが、諸方へ高い利息で貸し付けてございます。ところが宗悦は五十の坂を越してから女房に別れ、娘が二人有って、姉は志賀と申して十九歳、妹は園と申して十七歳でございますから、其の二人をたのしみに、夜中やちゅうの寒いのもいとわず療治をしてはわずかの金を取って参り、其の中から半分はけて置いて、少し溜ると是を五両一分で貸そうというのが楽みでございます。安永あんえい二年十二月二十日の事で、空は雪催しで一体に曇り、日光おろしの風は身にみて寒い日、すると宗悦は何か考えて居りましたが、

 宗「あんねえや、姉えや」

 志「あい……もっと火を入れて上げようかえ」

 宗「ナニ火はもういゝが、追々押詰るから、小日向こびなたの方へ催促に行こうと思うのだが、又出てくのはおっくうだから、牛込うしごめの方へ行って由兵衞よしべえさんのとこへも顔を出したいし、それから小日向のお屋敷へ行ったり四ツ谷へも廻ったりするから、泊りがけで五六軒って来ようと思う、牛込は少し面倒で、今から行っちゃア遅いから明日あした行く事にしようと思うが、小日向のはずるいから早く行かないとなあ」

 志「でもおとっさん本当に寒いよ、し降って来るといけないから明日早くお出でなさいな」

 宗「いやうでない、雪は催して居てもなか〳〵降らぬから、雪催しでちっと寒いが、降らぬうちに早く行って来よう、何を出してくんな、綿の沢山はいった半纒はんてんを、あれを引掛ひっかけて然うしてやっこ蛇の目の傘を持って、傘は紐を付けてはす脊負しょって行くようにしてくんな、ひょっと降ると困るから、なに頭巾をかぶれば寒くないよ」

 志「だけれども今日は大層遅いから」

 宗「いゝえそうでは無い」

 と云うと妹のお園が、

 園「おとっさん早く帰っておくれ、本当に寒いから、遅いと心配だから」

 宗「なに心配はない、お土産みやを買って来る」

 と云って出ますると、所謂いわゆる虫が知らせると云うのか、宗悦の後影うしろかげを見送ります。宗悦は前鼻緒まえばなおのゆるんだ下駄を穿いてガラ〳〵出て参りまして、牛込の懇意のうちへ一二軒寄って、すこし遅くはなりましたが、小日向服部坂上はっとりさかうえ深見新左衞門ふかみしんざえもんと申すお屋敷へ廻って参ります。この深見新左衞門というのは、小普請組こぶしんぐみで、奉公人も少ない、至って貧乏なお屋敷で、殿様は毎日御酒ばかりあがって居るから、畳などはへりがズタ〳〵になってり、畳はたゞばかりでたたは無いような訳でございます。

 宗「お頼み申します〳〵」

 新「おいたれか取次が有りますぜ、奥方、取次がありますよ」

 奥「どうれ」

 と云うので、奉公人が少ないから奥様が取次をなさる。



 奥「おや、よくお出でだ、さアあがんな、久しくお出でゞなかったねえ」

 宗「ヘエこれは奥様お出向いで恐れ入ります」

 奥「さアお上り、丁度殿様もお在宅いでで、今御酒をあがってる、さア通りな、燈光あかりを出しても無駄だから手を取ろう、さア」

 宗「これは恐入ります、何か足に引掛ひっかゝりましたから一寸ちょっと

 奥「なにね畳がズタ〳〵になってるから足に引掛るのだよ……殿様宗悦が」

 新「いや是はうも珍らしい、よく来た、誠に久しく逢わなかったな、この寒いのによく尋ねてくれた」

 宗「ヘエ殿様御機嫌う、誠に其ののちは御無沙汰を致しましてございます、何うも追々月迫げっぱく致しまして、お寒さが強うございますが何もお変りもございませんで、宗悦身に取りまして恐悦に存じます」

 新「先頃は折角尋ねてくれた処が生憎あいにく不在で逢わなかったが何うも遠いからのう、なか〳〵尋ねるたって容易でない、よくそれでも心に掛けて尋ねてくれた、余り寒いから今一人で一杯始めて相手欲しやと思って居た処、遠慮は入らぬ、別懇べっこんの間ださア」

 宗「ヘエ有難い事で、家内のおかねが御奉公を致した縁合えんあいで、盲人が上りましても、直々じき〳〵殿様がお逢い遊ばして下さると云うのは、誠に有難いことでございますが、ヘエ、なに何う致しまして」

 奥「宗悦やお茶を此処こゝに置くよ」

 宗「ヘエ是は何うも恐れ入ります」

 新「奥方宗悦が久振ひさしぶりで来たからなんでも有合ありあいで一つ、随分飲めるから飲ましてりましょう、エヽ奥方勘藏かんぞうは居らぬかえ、エ、ナニ何か一寸、少しは有ろう、まア〳〵宗悦此方こちらへ来な、かえってするめぐらいの方がい、随分酔うものだよ、さアずっと側へ来な、奥方頼みます」

 奥「宗悦ゆるりと」

 と云うので、別に奉公人が有りませんから、奥様が台所でこしらえるのでございます。

 新「宗悦よく来た、さア一つ」

 宗「ヘエ是は恐れ入ります、頂戴致します、ヘエもう…おッとこぼれます」

 新「これは感心、何うもその猪口ちょくの中へ指を突込んで加減をはかると云うのは其処そこは盲人でも感服なもの、まア宗悦よく来たな、なんと心得て来た」

 宗「ヘエ何と云って殿様申し上げるのはお気の毒でげすが、先年御用達ごようだって置いたあの金子の事でございます、ほかとは違いまして、兼が御奉公を致しましたお屋敷の事でございますから、外よりは利分りぶんをおやすく致しまして、十五両一分で御用達ったのはわずか三十金でございますが、あれり何とも御沙汰がございませんから、再度参りました所が、何分なにぶん御不都合の御様子でございますから遠慮致してるうちに、もう丁度足掛け三年になります、エ誠に今年は不手廻ふてまわりで融通が悪うございます、ヘエ余り延引になりますから、ヘエうか今日こんにちは御返金を願いたく出ましてございます、ヘエ何うか今日は是非半金でも戴きませんでは誠に困りますから」

 新「そりゃア何うもいかん、誠に不都合だがのう、当家も続いて不如意でのう、何うも返したくは心得てるが、種々いろ〳〵その何うも入用が有って何分差支えるからもうちっと待てえ」

 宗「殿様え、貴方あなたはいつあがっても都合が悪いから待てと仰しゃいますがね、何時いつ上れば御返金になるという事をしっかり伺いませんでは困ります、ヘエたしかに何時いつ幾日いっかと仰しゃいませんでは、わたくしういう不自由な身体で根津から小日向まで、杖を引張って山坂を越して来るのでげすから、只出来ぬとばかり仰しゃっては困ります。三年越しになってもまだ出来ぬと云うのは、あんまり馬鹿々々しい、今日きょうは是非半分でも頂戴して帰らんければ帰られません、なんぼ何でもあんまり我儘でげすからなア」

 新「我儘と云っても返せぬから致し方がない、エヽいくら振ろうとしても無い袖は振れぬというたとえの通りで、返せぬというものを無理に取ろうという道理はあるまい、返せなければ如何いかゞいたした」

 宗「返せぬと仰しゃるが、人の物を借りて返さぬという事はありません、天下の直参じきさんの方が盲人の金を借りて居て出来ないから返せぬと仰しゃってははなはだ迷惑を致します、そのうえ義理が重なって居りますから遠慮して催促も致しませんが、大抵四月縛よつきしばりか長くても五月いつゝきという所を、べん〴〵とやすい利で御用達ごようだて申して置いたのでげすから、ヘエ何うか今日こんにち御返金を願います、馬鹿々々しい、幾度来たってはてしが附きませんからなア」

 新「これ、なんだ大声を致すな、何だ、痩せても枯れても天下の直参が、長らく奉公をした縁合をもって、此の通り直々に目通りを許して、さかずきでも取らすわけだから、少しは遠慮という事が無ければならぬ、しかるを何だ、あまり馬鹿々々しいとはういう主意を以てかくの如く悪口あっこうを申すか、この呆漢たわけめ、何だ、無礼の事を申さば切捨てたってもよい訳だ」

 宗「やア是は篦棒べらぼうらしゅうございます、こりゃアきっと承りましょう、あんまりと云えば馬鹿々々しい、なんでげすか、金を借りて置きながら催促に来ると、切捨てゝもよいと仰しゃるか、又金が返せぬから斬って仕舞うとは、余り理不尽じゃアありませんか、いくら旗下はたもとでも素町人すちょうにんでも、理に二つは有りません、さア切るなら斬って見ろ、旗下も犬のくそもあるものか」

 と宗悦がたけり立って突っかゝると、此方こちらは元来御酒の上が悪いから、

 新「ナニ不埓ふらちな事を」

 と立上ろうとして、よろける途端に刀掛かたなかけの刀に手がかゝると、切る気ではありませんが、無我夢中でスラリと引抜き、

 新「この糞たわけめが」

 と浴せかけましたから、肩先深く切込みました。



 新左衞門は少しもそれが目に入らぬと見えて、

 新「なんだこのたわけめ、これ此処こゝ何処どこと心得てる、天下の直参の宅へ参って何だ此の馬鹿者め、奥方、宗悦がたべ酔って参ってう申して困るから帰して下さい、よう奥方」

 と云われて奥方は少しも御存じございませんから手燭てしょくけて殿様の処へ行って見ると、腕はえ刃物はし、サッというはずみに肩から乳のあたりまで斬込まれてる死骸を見て、奥方は只べた〴〵〴〵と畳の上にすわって、

 奥「殿様、貴方何を遊ばしたのでございます、仮令たとえ宗悦がの様な悪い事がありましても別懇な間でございますのに、なんでお手打に遊ばした、えゝ殿様」

 新「ナニたゞ背打むねうちに」

 と云って、見ると、持ってる一刀が真赤に鮮血のりみて居るので、ハッとお驚きになるとえいが少しめまして、

 新「奥方心配せんでもよろしい、何も驚く事はありません、宗悦これが無礼を云い悪口たら〳〵申して捨置きがたいから、一打ひとうちに致したのであるから、其の趣を一寸かしらへ届ければ宜しい」

 ナニ人を殺してよい事があるものか、とは云うものゝ、此の事が表向になれば家にも障ると思いますから、自身に宗悦の死骸を油紙あぶらかみに包んで、すっぽり封印を附けて居りますると、なんにも知りませんから田舎者の下男が、

 男「ヘエ葛籠つゞらを買って参りました」

 新「なんだ」

 男「ヘエ只今帰りました」

 新「ウム三右衞門さんえもんか、さア此処こゝへ這入れ」

 三「ヘエ、お申付の葛籠をって参りましたが何方どちらへ持って参ります」

 新「あゝこれ三右衞門、幸い貴様に頼むがな実は貴様も存じて居る通り、宗悦から少しばかり借りてる、所が其の金の催促に来て、今日は出来ぬと云ったら不埓な悪口を云うから、捨置き難いによって一刀両断に斬ったのだ」

 三「ヘエ、それはうも驚きました」

 新「っ、何も仔細はない、頭へ届けさえすれば仔細はない事だが、段々物入りが続いて居る上に又物入りでは実に迷惑を致す、ことには一時面倒と云うのは、もう追々月迫致してると云う訳で、手前は長く正当に勤めてくれたから誠に暇を出すのも厭だけれども、何うか此の死骸を、人知れず、丁度宜しい其の葛籠へ入れて何処どこかへ棄てゝ、うして貴様は在処の下総しもふさへ帰ってくれよ」

 三「ヘエ、誠に、それはまあ困ります」

 新「困るったって、多分に手当をりたいが、何うも多分にはないから十金遣ろうが、決して口外をしてはならぬぞ、し口外すると、おれの懐から十両貰ったかどが有るから、貴様も同罪になるから然う思って居ろ、万一この事が漏れたら貴様の口から漏れたものと思うから、何処までも草を分けて尋ね出しても手打にせんければならぬ」

 三「ヘエ棄てまするのはそれは棄ても致しましょうし、又人に知れぬ様にも致しますが、わたくしは臆病で、仏の入った葛籠を、一人で脊負しょって行くのは気味が悪うございますから、たれかと差担さしにないで」

 新「万一にも此の事が世間へ流布してはならぬから貴様に頼むのだ、若し脊負えぬと云えばよんどころない貴様も斬らんければならぬ」

 三「エヽ脊負います〳〵」

 と云うので十両貰いました。只今ではなんでもございませんが、其の頃十両と申すと中々たいした金でございますから、死人を脊負って三右衞門がこの屋敷を出るは出ましたが、うしても是を棄てる事が出来ません、と申すは、臆病でございますから少し淋しい処を歩くと云うと、死人が脊中に有る事を思い出して身の毛が立つ程こわいから、なるたけにぎやかな処ばかり歩いて居るから、何うしても棄てる事が出来ません、其のうち何処どこへ棄てたか葛籠を棄てゝ三右衞門は下総の在所へ帰って仕舞うと、根津七軒町の喜連川きつれがわ様のお屋敷の手前に、秋葉あきはの原があって、その原のわきに自身番がござります。それから附いて廻って四五間参りますると、幅広の路次ろじがありまして、その裏にすまって居りまするのは上方かみがたの人でござりますが、此の人は長屋中でも狡猾者こうかつもの大慾張だいよくばりと云うくらいの人、此の上方者が家主いえぬしの処へ参りまして、

 上「ヘイ今日は、お早うござります」

 家主女房「おや、おいでなさい何か御用かえ」

 上「ヘエ今日は、旦那はんはお留守でござりますか、ヘエ、それは何方どちらへ、左様でござりますか、実はなアわたくしは昨夜盗賊に出逢いましたによって、おとゞけをしようと思いましたが、何分なにぶん届をするのは心配でナア、世間へ知れてはよくあるまいから、どうもナア、その荷物が出さえすればよいと思うて居りました、実は私のかゝいもとがお屋敷奉公をしたところが、奥さんの気に入られて、お暇を戴く時に途方もない結構な物を品々戴いて、葛籠に一杯あるを、何処どこか行く処の定まるまで預かってくれえというのを預けられて、うちに置くと、盗賊に出逢うて、その葛籠が無くなったによって、私はえらい心配を致しまして、もし、これからその義理ある妹へうしようと、実は嬶に相談して居りますると、秋葉のわきに葛籠を捨てゝ有りますから、あれを引取って参りとうござりますが、旦那はんが居やはらんければ、引取られぬでござりましょうか」

 女房「おや〳〵うかえ、それじゃアね、亭主うちは居りませんが、總助そうすけさんに頼んで引取っておいでなさい」

 上「ヘイ有難うござります、それでは總助はんに頼んで引取りを入れまして」

 と横着者で、これから總助と云う町代ちょうだいを頼んで、引取りを入れて、とう〳〵脊負って帰って来ました。



 上「ヘエ只今總助はんにお頼み申して此の通り脊負せおうて参りました」

 家主女房「おや大層立派な葛籠ですねえ」

 上「ヘエ、これがうなってはならんと大層心配して居りました、ヘエ有難うござります」

 女房「うして其処そこに棄てゝ行ったのでしょう」

 上「それは私が不動の鉄縛かなしばりと云うのを遣りましたによって、身体が痺れて動かれないので、置いて行ったのでござりましょ、エヽ、ヘイ誠に有難いもので、旦那がお帰りになったら宜しゅうお礼の処を願います、ヘエ左様なら」

 とこれから路次の角から四軒目しけんめに住んで居りますから、水口みずぐちの処を明けて、

 上「おい一寸手を掛けてくれえ」

 妻「あい、おや立派な葛籠じゃアないか」

 上「どうじゃ、ちゃんと引取りを入れて脊負せおうて来たのじゃから、何処どこからも尻も宮もやへん、ヤなんでもこれは屋敷から盗んで来た物に違いないが、屋敷で取られたと云うては、家事不取締になるによって容易に届けまへん、又置いていった泥坊は私の葛籠だと云って訴える事は出来まへん、して見ればどこからも尻宮の来る気遣きづかいはないによって、私が引取りを入れて引取ったのじゃ、中にはえらい金目の縫模様ぬいもようや紋付もあるか知れんから、何様どのようにも売捌うりさばきが付いたら、多分の金を持って、ずっと上方へ二人で走ってしまえば決して知れる気遣はなしじゃ」

 妻「そうかえ、まあ一寸明けて御覧な」

 上「それでも葛籠を明けて中から出る品物がえらい紋付や熨斗目のしめぬい裲襠うちかけでもあると、う云う貧乏長屋に有る物でないと云う処から、偶然ひょっとして足を附けられてはならんから、さり夜中にそっと明けてわぬしと二人で代物しろものを分けるがえゝワ」

 妻「うだねえ嬉しいこと、お屋敷から出た物じゃア其様そんな物はないか知らぬが、し花色裏の着物が有ったら一つ取って置いてお呉れよ」

 上「それは取って置くとも」

 妻「若しちょいと私にせそうなくしこうがいがあったら」

 上「それも承知や」

 妻「漸々よう〳〵運が向いて来たねえ」

 上「まあ酒をうて」

 と云うので是から楽酒たのしみざけを飲んで喜んで寝まする。すると一番奥の長屋に一人者があって其処そこに一人の食客いそうろうが居りましたが、これは其の頃遊人あそびにんと云って天下禁制の裸でくすぶって居る奴、

 ○「おい甚太じんた〳〵」

 甚「ア、ア、ア、ハアー、ン、アーもう食えねえ」

 ○「おい寝惚けちゃアいけねえ、おい、起きねえか、エヽ静かにしろ、もう時刻はいぜ」

 甚「何を」

 ○「何をじゃアねえ忘れちゃア仕様がねえなア、だから獣肉もゝんじいおごったじゃアねえか」

 甚「の肉を食うと綿衣どてら一枚いちめえ違うというから半纒はんてんを質に置いてしまったが、オウ、滅法寒くなったから当てにゃアならねえぜ、本当に冗談じゃアねえ」

 ○「おい上方者の葛籠を盗むんだぜ」

 甚「ウン、ちげえねえ、そうだっけ、忘れてしまった、コウ彼奴あいつふてえ奴だなア、畜生誰も引取人ひきとりてえと思ってずう〳〵しく引取りやアがって、中の代物をさばいてい正月をしようと云う了簡だが、本当に何処どこまで太えか知れねえなア」

 ○「ウン、彼奴あいつは今丁度くらい酔って寝て居やアがるうちそっと持って来て中をあばいてろうじゃアねえか、後で気が附いて騒いだってもと〳〵彼奴の物でねえから、自分の身が剣呑けんのんで大きく云うこたア出来ねえのさ」

 甚「だがひょっと目をさましてキャアバアと云った時にゃア一つ長屋の者でつらを知ってるぜ」

 ○「ナニそりゃア真黒まっくろに面を塗って頬冠ほっかぶりをしてナ、丹波の国から生獲いけどりましたと云う荒熊あらくまの様な妙な面になってきゃア仮令たとえ面を見られたって分りゃアしねえから、手前てめえと二人で面を塗って行って取って遣ろう」

 甚「こりゃアいや、サア遣ろう、墨を塗るかえ」

 ○「墨のかけぐれえは有るけれども墨をってちゃア遅いから鍋煤なべずみか何か塗って行こう」

 甚「そりゃアかろう、なんだって分りゃアしねえ」

 ○「釜の下へ手を突込んで釜のすゝを塗ろう、ナニ知れやアしねえ」

 と云うので釜の煤を真黒に塗って、すっとこかぶりを致しまして、

 ○「うだ是じゃア分るめえ」

 甚「ウン」

 ○「ハ、ハヽ、妙な面だぜ」

 甚「オイ〳〵笑いなさんな、気味がわりいや、目がピカ〳〵光って歯が白くってなんとも云えねえ面だぜ」

 ○「ナニ手前てめえだってうだあナ」

 とこれからそっと出掛けて上方者のうちの水口の戸を明けてとう〳〵盗んで来ました。人が取ったのを又盗み出すと云う太い奴でございます。

 甚「コウ、グウ〳〵〳〵〳〵寝て居やアがったなア、可笑おかしいじゃアねえか、寝て居る面はあんまり慾張った面でもえぜ」

 ○「オイ、表を締めねえ、人が見るとばつがわりいからよ、ソレ行燈あんどん其方そっちへ遣っちまっちゃア見る事が出来やあしねえ、本当にこんな金目の物を一時いちどきに取った程たのしみなこたアねえぜ、コウあんまり明る過ぎらア、行燈へ何か掛けねえ」

 甚「何を掛けよう」

 ○「着物でもなんでもいから早く掛けやナ」

 甚「着物だって着る物がありゃア何も心配しやアしねえ」

 ○「なんでも薄ッ暗くなるようにその襤褸ぼろ引掛ひっかけろ、何でも暗くせえなれば宜いや、オ、封印が附いてらア、エヽ面を出すな、手前てめえ食客いそうろうだから主人あるじが見てそれから後で見やアがれ」

 甚「ウン、ナニ食客でも主人でも露顕ろけんをして縛られるのは同罪だよ」

 ○「そりゃア云わなくってもきまってるわ」

 と云うので是から封印を切って、

 ○「何だか暗くって知れねえ」

 甚「どれ見せや」

 ○「しッしッ」



 甚「兄い何をかんげえてるんだ」

 ○「うも妙だなア、中に油紙あぶらッかみがあるぜ」

 甚「ナニ、油紙がある、そりゃア模様物や友禅ゆうぜんの染物がへえってるから雨が掛ってもいゝ様に手当がしてあるんだ」

 ○「敷紙が二重になってるぜ」

 と云いながら、四方が油紙の掛って居る此方こちらの片隅を明けて楽みそうに手を入れると、グニャリ、

 ○「おや」

 甚「なんだ〳〵」

 ○「変だなア」

 甚「何だえ」

 ○「ふん、どうも変だ」

 甚「う一人でぐず〳〵楽まずにちっと見せやな」

 ○「エヽ黙ってろ、何だか坊主の天窓あたまみた様な物があるぞ」

 甚「ウン、ナニ些とも驚くこたアねえ、結構じゃアねえか」

 ○「何が結構だ」

 甚「そりゃアおめえおどりの衣裳だろう、御殿の狂言の衣裳の上に坊主のかつらが載ってるんだ、それをおめえが押えたんだアナ」

 ○「でも芝居で遣う坊主の髢はすべ〳〵してるが、此の坊主の髢はざら〳〵してるぜ」

 甚「ナニざら〳〵してるならもじがふらと云うのがある、きっとそれだろう」

 ○「ウンうか」

 甚「だからおれに見せやと云うんだ」

 ○「でも坊主の天窓の有る道理はねえからなア、まア〳〵待ちねえ己が見るから」

 とまた二度目に手を入れると今度はヒヤリ、

 ○「ウワ、ウワ、ウワ」

 甚「おいんだ」

 ○「うも変だよ冷てえ人間の面アみた様な物がある」

 甚「ナニ些とも驚くこたアねえやア、二十五座の衣裳でめん這入へえってるんだ、そりゃア大変に価値ねうちのある物で、一個ひとつでもって二百両ぐれえのがあるよ」

 ○「ウン、二十五座の面か」

 甚「兄い、だから己に見せやと云うんだ」

 と云われたから、今度は思い切って手を突込むとグシャリ、

 ○「ウワア」

 と云うなり土間へ飛下りて無茶苦茶にしんばりを外して戸外おもてへ逃出しますから、

 甚「オイ兄い、何処どこく、人に相談もしねえで、無暗むやみに驚いて逃出しやアがる、此の金目かねめのある物を知らずに」

 と手を入れて見ると驚いたの驚かないの、

 甚「ウアヽヽ」

 と此奴こいつも同じく戸外へ逃出しました。すると其の途端に上方者が目を覚して、

 上「さアおつるおきんかえ時刻はいがナ、起んか」

 と云うとお鶴と云う女房が、

 鶴「お止しよ眠いよ」

 上「おい、これ、起んかえ」

 鶴「お止しよ、酒を飲むと本当にひちっくどい、気色きしょくが悪いからいやだよ、ちっとお慎しみ」

 上「何をいうのじゃ葛籠を」

 鶴「葛籠、おやう」

 と慾張って居りますからぐに目を覚して、

 鶴「おや無いよ、葛籠が無いじゃアないか」

 上「アヽの水口が明いとるのは泥坊が這入ったのじゃ、お長屋の衆〳〵」

 と呶鳴どなりますから、長屋の者は何事か分りませんが吊提燈ぶらぢょうちんけて出て参りますと、

 上「貴方御存じか知りまへんが最前總助はんを頼んで引取りました葛籠を盗まれました、あの葛籠はいもとから預かって置いた大事の物で、盗賊に取られたのをようよう取りおおせたら又泥坊が這入って持ってきましたによって、同じお長屋の衆はかゝあいで御座りますナア」

 「ナニ掛り合の訳は有りません、路次の締りは固いのだがねえ、でも源八げんぱちさん葛籠を取られたと云うのだがどうしましょう」

 源「どうしましょうって彼奴あいつは長屋の交際つきあいが悪くって、此方こっちから物を遣ってもむこうから返したこたア無いくらいだから、其様そんなに気を揉むこたア無いけれども、仕方がねえから大屋さんを起すがい」

 ●「アノ奥の一人者の内に食客が居るから、彼処あすこへ行っての人に行って貰うがうございましょう」

 「じゃア連れて来ましょう」

 と吊提燈を提げて奥へくと、戸袋の脇から真黒な面で目ばかりピカ〳〵光る奴が二人這出したから、

 「ウワアヽヽなんだこれおどかしちゃアいけない」

 と云ううちに、二人とも一生懸命で路次の戸を打砕ぶちこわして逃出しました。

 「アヽなんだ、本当にモウうも胸を痛くした、こりゃア彼奴あいつが泥坊だ、私は大きな犬が出たと思ってびっくりした、あゝこれだ〳〵これだから一人者を置いてはならないと云うのだが、家主いえぬしが人がいから、追出すと意趣返しをすると云うので怖がって置くのだがくない、此処こゝにちゃんと葛籠があるわ、上方者だと思って馬鹿にして図々しい奴だ、一つ長屋に居てんな事をするのは頭隠して尻隠さず、葛籠を置いて行くから直ぐに知れて仕舞うんだ、何か代物しろものが残って居るかも知れねえから見てやろう、ウワアお長屋の衆」

 と云うから驚いてほかの者が来て見ると、葛籠が有るから、

 ●「おゝ彼処あすこに葛籠がある、塩梅あんばいだ、おや、中に、ウワア、お長屋の衆」

 と来る奴も〳〵皆お長屋の衆と云う大騒ぎ。すると二つ長屋の事でございますから義理合ぎりあいに宗悦の娘お園が来て見るとびっくりして、

 園「是は私のおとっさんの死骸うしたのでございましょう、昨日きのううちを出て帰りませんから心配して居りましたが」

 「イヤそれはうもとんだ事」

 というので是から訴えになりましたが、葛籠に記号しるしも無い事でございますからとんと何者の仕業しわざとも知れず、大屋さんが親切に世話を致しまして、谷中やなか日暮里にっぽり青雲寺せいうんじへ野辺送りを致しました。これが怪談の発端でござります。



 引続きまして申上げまする。深見新左衞門が宗悦を殺しました事はたれ有って知る者はござりません。葛籠に記号しるしもござりませんから、只つまらないのは盲人宗悦で、娘二人はいかにも愁傷致しまして泣いて居る様子が憫然ふびんだと云って、長屋の者が親切に世話を致します混雑の紛れに逃げました賭博打ばくちうち二人は、遂に足が付きましてすぐに縄に掛って引かれまして御町おまちの調べになり、賭博兇状ばくちきょうじょう強迫兇状ゆすりきょうじょうがありました故其の者は二人とも佃島つくだじまへ徒刑になりました。上方者は自分の物だと言って他人の物を引入れましたかどは重罪でございますけれども格別のお慈悲を以て所払いを仰せ付けられまして其の一件ことは相済みましたが、深見新左衞門の奥方は、あゝ宗悦は憫然かわいそうな事をした、うも実に情ないお殿様がお手打に遊ばさないでもいものを、別にうらみがある訳でもないに、御酒の上とは云いながら気の毒な事をしたと絶えず奥方が思います処から、所謂いわゆる只今申す神経病で、何となく塞いで少しも気がはずみません事でございます。翌年になりまして安永三年二月あたりから奥方がぶら〳〵塩梅が悪くなり、乳が出なくなりましたから、門番の勘藏かんぞうがとって二歳ふたつになる新吉しんきち様と云う御次男を自分の懐へ入れて前町まえまちへ乳を貰いにきます。と云うものは乳母を置く程の手当がない程に窮して居るお屋敷、手が足りないからと云うので、市ヶ谷に一刀流の剣術の先生がありまして、のちに仙台侯の御抱おかゝえになりました黒坂一齋くろさかいっさいと云う先生の処に、内弟子に参って惣領そうりょう新五郎しんごろうと云う者をうちへ呼寄せて、病人の撫擦なでさすりをさせたり、あるいは薬其のほかの手当もさせまする。其の頃新五郎は年は十九歳でございますが、よく母の枕辺まくらべに附添って親切に看病を致しますなれども、小児こどもはあり手が足りません。殿様はやっぱり相変らず寝酒を飲んで、奥方がうなると、

 新「そうヒイ〳〵呻ってはいけません」

 などと酔った紛れにわからんことを仰しゃる。手少なで困ると云って、中働なかばたらきの女を置きました。是は深川ふかゞわ網打場あみうちばの者でおくまと云う、年二十九歳で、美女よいおんなではないが、色の白いぽっちゃりした少し丸形まるがたちのまことに気の利いた、苦労人のはてと見え、万事届きます。殿様の御酒の相手をすれば、

 新「熊が酌をすれば旨い」

 などと酔った紛れに冗談を仰しゃると、此方こちらはなか〳〵それしゃの果と見えてとう〳〵殿様にしなだれ寄りましてお手が付く。表向おもてむき届けは出来ませんがお妾と成って居る。するともと〳〵狡猾な女でございますから、奥方の纔訴ざんそを致し、又若様の纔訴を致すので、何となくう家がもめます。いくら言っても殿様はお熊にまかれて、わずらって居る奥様を非道な事をしてぶち打擲ちょうちゃくを致します。もう十九にもなる若様をも煙管きせるを持ってつ様な事でございますから、

 新五郎「あゝ親父おやじな者である、こんな処にいてはとても出世は出来ぬ」

 と若気の至りで新五郎と云う惣領の若様はふいと家出を致しますると、お熊はもう此の上は奥様さえ死ねば自分が十分此処こゝの奥様になれると思い、

 熊「わたしはうも懐妊した様でございます、四月から見るものを見ませぬッぱい物が食べたい」

 なんのと云うから殿様は猶更なおさらでれすけにおなり遊ばします。追々其の年も冬になりまして、十一月十二月となりますと、奥様の御病気が漸々だん〳〵悪くなり、その上寒さになりましてからキヤ〳〵さしこみが起り、またお熊は、漸々お腹が大きくなって身体が思う様にきゝませんと云って、勝手に寝てばかり居るので、殿様は奥方に薬一服もせんじて飲ませません。只勘藏ばかりあてにして、

 新「これ〳〵勘藏」

 勘「ヘエ、殿様貴方御酒ばかり召上って居てうも困りますなア奥様は御不快で余程御様子が悪いし、ことには又お熊さんはあゝやって懐妊だからごろ〴〵して居り、折々おり〳〵奥様は差込むと仰しゃるから、少しは手伝って頂きませんじゃア、手が足りません、わたくしは若様のお乳を貰いにくにも困ります」

 新「困っても仕方がない、何か、さしこみには近辺の鍼医はりいを呼べ、鍼医を」

 と云うと、丁度戸外おもてにピー、と按摩あんまの笛、

 新「おゝ〳〵丁度按摩が通るようだ、素人しろうと療治ではいかんかられを呼べ〳〵」

 勘「ヘエ」

 と按摩を呼入れて見ると、怪しなる黒の羽織を着て、

 按摩「よろしゅうわたくしが鍼をいたしましょう、鍼はお癪気しゃくきには宜しゅうございます」

 というので鍼を致しますと、

 奥方「誠にい心持に治まりがついたから何卒どうぞ明日あすの晩も来て呉れ」

 と戸外を通る揉療治ではありますが、一時凌いっときしのぎに其ののち五日ばかり続いて参ります。すると一番しまいの日に一本打ちました鍼が、う云うことかひどく痛いことでございましたが、是は鍼に動ずると云うので、

 奥方「あゝいた、アいたタ」

 按摩「大層お痛みでございますか」

 奥方「はいあゝひどく痛い、今迄んなに痛いと思った事は無かったが、誠に此の鳩尾みずおちの所に打たれたのが立割られたようで」

 按摩「ナニそれはお動じでございます、鍼がきゝましたのでございますから御心配はございません、イエまア又明晩も参りましょうか」

 奥方「はい、もう二三日鍼はめましょう、鍼はひどく痛いから」

 按摩「なおります、鍼が折れ込んだ訳でもないので、少しお動じですからナ、左様なら御機嫌よろしゅう」

 とわずかの療治代を貰って帰りました。すると奥方は鍼を致した鳩尾の所が段々痛み出し、遂にはただれて鍼を打った口からジク〳〵と水が出るようで、猶更なおさら苦しみが増します。



 新左衞門様は立腹して、

 新「どうもしからん鍼医だ、鍼を打ってその穴から水が出るなんという事は無い訳で、堀抜井戸ほりぬきいどじゃア有るまいし、痴呆たわけた話だ、全体う云うものかあれり来ませんナ」

 勘「奥方がもう来ないでいと仰しゃいましたから」

 新「が悪いから来ないに違いない、不埓至極な奴だ、今夜でも見たら呼べ」

 と云われたから待って居りましたが、それぎり鍼医は参りません。すると十二月の二十日のに、ピイー〳〵、と戸外おもてを通ります。

 新「アヽあれ〳〵笛が聞える、あれを呼べ、勘藏呼んで来い」

 勘「ハイ」

 と駈出して按摩の手を取って連れて来て見ると、前の按摩とは違い、年をとってやせこけた按摩。

 新「なんだこれじゃア有るまい、勘藏違ってるぞ」

 按摩「ヘエお療治を致しますか」

 新「何だてまえではなかった、違った」

 按摩「左様で、それはお生憎あいにく様でございますが何卒どうぞお療治を」

 新「これ〳〵貴様鍼をいたすか」

 按摩「わたくし俄盲人にわかめくらでございまして鍼は出来ません」

 新「じゃア致方いたしかたが無い、按腹あんぷくは」

 按摩「療治も馴れません事で中々上手に揉みます事は出来ませんが、丈夫な方ならば少しは揉めます」

 新「何の事だ病人を揉む事はいかぬか、それは何にもならぬナ、でも呼んだものだから、勘藏、これ、何処どこへ行って居るかナ、じゃア、まア折角呼んだものだからおれの肩を少し揉め」

 按摩「ヘエ誠に馴れませんから、何処が悪いと仰しゃって下さい、経絡けいらくが分りませんから、こゝを揉めと仰しゃれば揉みます」

 とうしろへ廻って探り療治を致しまするうち、奥方が側に居て、

 奥方「アヽいた、アヽ痛」

 新「そううもヒイ〳〵云っては困りますね、お前我慢が出来ませんか、武士の家に生れた者にも似合わぬ、痛い〳〵と云って我慢が出来ませんか、ウン〳〵う悶えてはかえって病に負けるから我慢して居なさい、アヽ痛、これ〳〵按摩待て、少し待て、アヽ痛い、成程此奴こいつは何うもひどい下手だナ、てまえは、エヽ骨の上などを揉む奴が有るものか、少しは考えてれ、ひどく痛いワ、アヽ痛いたまらなく痛かった」

 按摩「ヘエお痛みでござりますか、痛いと仰しゃるがまだ〳〵中々んな事ではございませんからナ」

 新「何を、こんな事でないとは、是より痛くっては堪らん、筋骨に響く程痛かった」

 按摩「どうして貴方、まだ手の先で揉むのでございますから、痛いと云ってもたかが知れておりますが、貴方のお脇差でこの左の肩から乳の処までう斬下げられました時の苦しみはこんな事では有りませんからナ」

 新「エ、ナニ」

 と振返って見ると、先年手打にした盲人もうじん宗悦が、骨と皮ばかりに痩せた手を膝にして、恨めしそうに見えぬ眼をまだらに開いて、斯う乗出した時は、深見新左衞門は酒のえいめ、ゾッと総毛だって、怖い紛れに側にあった一刀をとって、

 新「おのれ参ったか」

 と力にまかして斬りつけると、

 按摩「アッ」

 と云うその声に驚きまして、門番の勘藏が駈出して来て見ると、宗悦と思いのほか奥方の肩先深く斬りつけましたから、奥方は七転八倒の苦しみ、

 新「ア、の按摩は」

 と見るともう按摩の影はありません。

 新「宗悦めしゅうねくもこれへ化けて参ったなと思って、思わず知らず斬りましたが、奥方だったか」

 奥「あゝたれうらみましょう、わたくしは宗悦に殺されるだろうと思って居りましたが、貴方御酒をおめなさいませんと遂には家が潰れます」

 と一二度虚空をつかんで苦しみましたが、奥方はそのまゝ息は絶えましたから如何いかんとも致し方がございませんが、この事は表向にも出来ません。ことには年末くれの事でございますから、これからかしらの宅へ内々参ってだん〴〵歎願をいたしまして、ごく内分ないぶんの沙汰にして病死のつもりにいたしました。昔はく変死が有っても屏風びょうぶを立てゝ置いて、お頭が来て屏風のそとで「遺言を」なんどゝ申しますが、もう当人はとっくに死んでいるから遺言も何も有りようはずはございません。この伝で病気にして置くことも徃々おうおう有りましたから、病死のていにいたしてようやくの事で野辺送りをいたしました。流石さすがの新左衞門も此の一事にはおおきに閉口いたして居りました。すると其の年も明けまして、一陽来復いちようらいふく、春を迎えましても、まことに屋敷は陰々いん〳〵といたして居りますが、別にお話もなく、夏もき秋も過ぎて、冬のとりつきになりました。すると本所ほんじょ北割下水きたわりげすいに、座光寺源三郎ざこうじげんざぶろうと云う旗下が有って、これが女太夫おんなだゆうのおこよと云う者を見初みそめ、浅草竜泉寺りゅうせんじ前の梶井主膳かじいしゅぜんと云う売卜者うらないしゃを頼み、其の家を里方にいたして奥方に入れた事が露見して、御不審がかゝり、家来共も召捕めしとり吟味中、深見新左衞門、諏訪部三十郎すわべさんじゅうろうと云う旗下の両家は宅番を仰せつけられたから、隔番かくばんの勤めでございます。すると十一月の二十日の晩には、深見新左衞門は自分は出ぬ事になりましたから、

 新「熊や今晩は一杯飲んでらく〳〵休める」

 と云うので御酒を召上ったが、少し飲過ぎて心持がわるいと小用場こようばってから、

 新「水を持て、うがいをしなければならん」

 と云うので手水鉢ちょうずばちのそばで手を洗って居りますると、庭の植込うえごみの処に、はっきりとは見えませんが、頬骨のとがった小鼻の落ちました、眼の所がポコンとくぼんだこれからこれ胡麻塩交ごましおまじりひげが生えて、頭はまだらに禿げている痩せかれた坊主が、

 坊「殿様〳〵」

 と云う。

 新「エヽ」

 と見るやいなや其の儘トン〳〵〳〵〳〵と奥へ駈込んで来て、刀掛に有った一刀を引抜いて、

 新「狸の所為しわざか」

 と斬りつけますと、パッと立ちます一団の陰火が、髣髴ほうふつとして生垣いけがきを越えて隣の諏訪部三十郎様のお屋敷へ落ちました。



 新左衞門はハテ狐狸こりの所為かと思いました。すると其の翌日から諏訪部三十郎様が御病気で、何をしてもおつとめが出来ませんから、二人して勤めべき所、お一方ひとかたが病気故、新左衞門お一方で座光寺源三郎の屋敷へ宅番に附いて居ると、或夜あるよの梶井主膳と云う者が同類を集めて駕籠を釣らせ、抜身ぬきみやりで押寄せて、おこよ、源三郎を連れてこうと致しますから深見新左衞門は役柄で捨置かれず、すぐに一刀を取って斬掛けましたが、多勢に無勢むぜいで、とう〳〵深見を突殺し、おこよ源三郎をひきさらって遠く逃げられました故、深見新左衞門はなさけなくも売卜者の為に殺されてお屋敷は改易かいえきでございます。諏訪部三十郎は病気で御出役が無かったのだが公辺こうへんのお首尾が悪く、百日の間閉門仰付おおせつけられますると云う騒ぎ、座光寺源三郎は勿論深見の家も改易に相成りまして、致し方がないから産落うみおとした女のを連れて、お熊は深川の網打場へ引込ひきこみ、門番の勘藏は新左衞門の若様新吉と云うのを抱いて、自分の知己しるべの者が大門町だいもんちょうにございますから、それへ参って若様に貰い乳をして育てゝ居るという情ない成行なりゆき、此の通り無茶苦茶に屋敷の潰れた跡へ、帰って来たのは新五郎と云う惣領でございますが、是は下総の三右衞門の処へ参って少しの間厄介に成って居りましたが、もとより若気の余りに家を飛出したので淋しい田舎には中々居られないから、故郷ぼうじがたく詫言わびごとをして帰ろうと江戸へ参って自分の屋敷へ来て見ると、改易と聞いて途方に暮れ、こゝと云う縁類えんるいも無いからうしたらよかろうと菩提所ぼだいしょへ行って聞くと、親父は突殺され、母親は親父が斬殺きりころしたと聞きまして少しのぼせたものか、

 新五「これはしからん事、何たる因果因縁か屋敷は改易になり、両親は非業の死を遂げ、今更世間の人に顔を見られるも恥かしい、もうとても武家奉公も出来ぬからいっそ切腹致そう」

 と、青松院せいしょういん墓所はかしょで腹を切ろうとする処へ、墓参りに来たのは、谷中やなか七面前しちめんまえ下總屋惣兵衞しもふさやそうべえと云う質屋の主人あるじで、これを見ると驚いて刄物をもぎとってう云う次第と聞くと、

 新五「これ〳〵の訳」

 というから、

 惣「それなら何も心配なさるな、若い者が死ぬなんと云う心得違いをしてはいけぬ、無分別な事、独身ひとりみなればうでもなりますから私のうちへ入らっしゃい」

 と親切にいたわってうちへ連れて来て見ると、人柄もよし、年二十一歳で手も書け算盤そろばんも出来るから質店しちみせへ置いて使って見るとじつめいで応対が本当なり、苦労したはてで柔和で人交際ひとづきあいがよいから、

 甲「あなたのとこでは良い若い者を置当てなすった」

 惣「いゝえあれは少し訳があって」

 と云って、内の奉公人にもそのじつを言わず、

 惣「少し身寄から頼まれたのだと云ってあるから、あなたも本名を明してはなりません」

 と云うので、誠に親切な人だから、新五郎もこゝに厄介になって居ると、このうちにお園という中働なかばたらきの女中が居ります。これは宗悦の妹娘で、三年あとから奉公して、誠に真実に能く働きますから、主人の気に入られて居る。しかし新五郎とは、かたき同士が此処こゝへ寄合ったので有りますが、互にそういう事とは知りません。

 園「新どん」

 新「お園どん」

 と呼合いまする。新五郎は二十一歳で、誠にうも水の出端でばなでございます。又お園は柔和ない女、

 新「あゝいう女を女房に持ちたい」

 と思うとういう因果因縁か、新五郎がお園に死ぬほど惚れたので、お園の事というと、能く気を付けて手伝って親切にするから、男振おとこぶりし応対も上手、其の上柔和で主人に気に入られて居るから、お園はあゝ優しい人だと、新どんに惚れそうなものだが、敵同士とはいいながら虫が知らせるか、お園は新五郎に側へ来られると身毛立みのけだつほど厭に思うが、それを知らずに、新五郎は無暗むやみに親切を尽しても、片方かた〳〵ろくに口もききません。主人もその様子を見て、

 惣「お園はまことに希代きたいだ、あれは感心な堅い娘だ、あれは女中のうちでも違って居る、姉は何だか、稽古の師匠で豐志賀とよしがというが、姉妹きょうだいとも堅い気象で、あの新五郎はしきりとお園に優しくするようだが」

 と気は附いたけれども、なに両人ふたりとも堅いから大丈夫と思って居りまするくらいで、なか〳〵新五郎はお園の側へ寄付よりつく事も出来ませんが、ふとお園が感冐ひきかぜの様子で寝ました。すると新五郎は寝ずにお園の看病をいたします。薬を取りに行ったついでに氷砂糖を買って来たり、葛湯くずゆをしてくれたり、蜜柑みかんを買って来る、九年母くねんぼを買って来たりしてやります。主人も心配いたして、

 惣「おきわ」

 きわ「はい」

 惣「お園は何も大した病気でもないから宿へ下げる程でもなし、あれも長く勤めておることだから、少しの病気なれば、医者は此方こっちで、山田さんが不都合なら、幸庵こうあんさんを頼んでもいゝが、なんだね、誠にその、看病人が無くって困るね」



 きわ「わたくしおりに園の部屋へ見舞に参りますと、直ぐ布団の上へ起きなおりまして、もうなにおおきに宜しゅうございますなどゝ云って、まことにふりをして居るから、お前無理をしてはいけないから寝ておいでと申しましても、心配家しんぱいかでございますから私も誠に案じられます」

 惣「そりゃア誠に困ったものだ、たれか看病人が無ければならん、成程おれも時に行って見ると、ひょいと跳起はねおきるが、あれではかえってぶり返すといかんから看病人に姉でも呼ぼうか」

 きわ「でも仕合せに新五郎が参っては寝ずに感心に看病致します、あれは誠に感心な男で、店がひけると薬を煎じたり何か買いに行ったり、何もも一人で致します」

 惣「なに新五郎がお園の部屋へ這入ると、それはいかん、それは女部屋のことはお前が気を附けて小言を云わなければなりません、それは何事も有りはしまいが」

 きわ「有りはしまいたって新五郎はあの通りの堅人かたじんですし、お園も変人ですから、変人同士で大丈夫何事もありはしません」

 惣「それはいかん、猫に鰹節で、何事がなくっても、店の者や出入でいりの者がおかしく噂でも立てると店の為にならぬから、きっと小言を云わんければならぬ」

 きわ「それじゃア女中部屋へ出入をめます」

 と云って居る所へ、何事も存じません新五郎が帰って来て、

 新「ヘエ只今帰りました」

 惣「何処どこへ往った」

 新「番頭さんがそう仰しゃいますから、上野町うえのまち越後屋えちごやさんの久七きゅうしちどんに流れの相談を致しまして、帰りにお薬を取って参りましたが、山田さんがそう仰しゃるには、お園さんは大分い塩梅だが、まだ中々大事にしなければならん、どうも少し傷寒しょうかんたちだから大事にするようにと仰しゃって、今日はお加減が違いましたからこれから煎じます」

 惣「お前が看病致しますか」

 新「ヘエ」

 惣「お前の事だから何事もありますまいがネけれどもその、お前もそれ廿一、ね、お園は十九だ、お互に堅いから何事も無かろうが、一体男女なんにょの道はそういうものでない、私のうちく堅い家であったけれども、やっぱりこれにナ許嫁いいなずけが有ったが、私がつい何して、貰うような事で」

 きわ「何を仰しゃる」

 惣「だから堅いが堅いに立たぬのは男女の間柄、何事もありはしまいが、店の若い者がおかしく嫉妬やきもちをいうとか、出入の者がいやに難癖を附けるとか、却って店の示しにならぬからよろしくないいかにも取締りが悪い様だからそれだけはナ」

 新「ヘエ薩張さっぱり心付きませんかったが、店の者が女部屋へ這入っては悪うございますか、もうこれからは決して構いませんように心づけます、決して構いません」

 惣「決して構わんでは困ります、看病人が無いから決して構わんと云ってはお園が憫然かわいそうだから、それはね、ま構ってもいゝがね、少しそこをうか構わぬ様に」

 何だか一向分りませんが少しは構ってもよいという題が出ましたから、新五郎は悦びながら女部屋へ往って、

 新「お園どん山田様へいってお薬を戴いてきたが、今日はお加減が違ったから、生姜しょうがを買ってくるのを忘れたが今じきに買って来て煎じますが、水も只では悪いから氷砂糖を煎じて水で冷して上げよう、蜜柑も二つ買って来たが雲州うんしゅうのいゝのだからむいて上げよう、袋をたべてはいけないから只つゆを吸って吐出はきだしておしまい、筋をとって食べられるようにするから」

 園「有難う、新どん後生ごしょうだから女部屋へ来ないようにしておくんなさい、今もおかみさんと旦那様とのお話もよく聞えましたが、店の者が女部屋へ這入ってきては世間体が悪いと云っておいでだから、誠に思召おぼしめしは有難いが、後生だから来ないようにして下さい」

 新「だから私が来ないようにしよう構わぬと云ったら、旦那が来なくっちゃア困る、お前さんが憫然かわいそうだから構ってやってくれと仰しゃったくらい、人は何といってもおかしい事がなければ宜しいから、今薬を煎じてあげるから心配しないで、心配すると病気に障るからね」

 園「あゝだもの新どんには本当に困るよ、厭だと思うのにつか〳〵這入って来てやれこれ彼様あんなに親切にしてくれるが、どういう訳かぞっとするほど厭だが、うしてあの人が厭なのか、気の毒な様だ」

 と種々いろ〳〵心に思って居ると、杉戸すぎどを明けて、

 新「お園どんお薬が出来たからお飲みなさい、あんまさますときかないから、丁度飲加減を持って来たが、あとは二番を」

 園「新どん、お願いだから彼方あっちへ行って下さいな、病気に障りますから」

 新「ヘエ左様でげすか」

 と締めて立ってく。

 園「どうも、来てはいけないと云うのにわざと来るように思われる、何だかおかしい変な人だ」

 と思って居ると、がらり、

 新「お園どんお粥が出来たからね、是は大変にいでんぶを買って来たから食べてごらん、一寸ちょっといゝよ」

 園「まア新どんお粥は私一人で煮られますから彼方あっちへ行って下さいよ、却って心配で病気に障るから」

 新「じゃア用があったらお呼びよ」

 園「あゝ」

 というのでよんどころなく出て行くかと思うと又来て、

 新「お園どん〳〵」

 とのべつに這入って来る。すると俗に申す一に看病二に薬で、新五郎の丹精が届きましたか、追々お園の病気も全快して、もう行燈あんどんの影で夜なべ仕事が出来るようになりました。丁度十一月十五日のことで、常にないこと、新五郎が何処どこで御馳走になったか真赤に酔って帰りますると、もう店は退けてしまったあとで、何となく極りが悪いからそっと台所へ来て、大きい茶碗でかめの水を汲んで二三杯飲んでえいをさまし、見ると、奥もしんとして退けた様子、女部屋へ来て明けて見ると、お園が一人行燈のもとで仕事をしているから、

 新「お園どん」

 園「あらまア、新どん、何か御用」



 新「ナニ、今日はね、あの伊勢茂いせもさんへ、番頭さんに言付けられてお使にいったら、伊勢茂の番頭さんは誠に親切な人で、お前は酒を飲まないから味淋みりんがいゝ、丁度流山ながれやまので甘いからおあがりでないかと云われて、つい口当りがいゝから飲過ぎて、大層酔ってがわるいから、店へ知れては困りますが、真赤になって居るかえ」

 園「大変赤くなって居ます。アノお店も退け奥も退けましたから、女部屋へお店の者が這入っては、悪うございますから早くお店へ行っておやすみなさい」

 新「エヽ寝ますが、まア一服呑みましょう」

 園「早くお店へ行って下さいよ」

 新「今行きますが一服やります」

 と真鍮しんちゅうの潰れた煙管きせるを出して行燈の戸を上げて火をつけようと思うが、酔って居て手がふるえておりますからが消えそう、

 園「消してはいけませんよ、彼方あっちへ行ってお呉んなさい」

 新「ハイ行きますよ、なに火が附きました、時にお園どん、お前の病気は大変に案じたが、本当にこう早くなおろうとは思わなかった、山田さんも丹精なすったし私も心配致しましたが、実に有難い、私は一生懸命にいけはたの弁天様へ願掛がんがけをしました」

 園「有難うございます、お前さんのお蔭で助かりました、もうお店が退けましたから早くお出でよ、新どん」

 新「行きますよ、此の間ね、お前さんの姉様あねさん豊志賀さんが来てね、たった一人の妹でございますから大事に思うが、こんな稼業しょうばいをして居り、うちも離れているから看病も届きませんでしたが、お前さんが丹精して下すって本当に有難い、その御親切は忘れません、お前さんの様な優しい人を園の亭主にもたいと思いますとこう云ってね、お前のあねさんが、流石さすがは芸人だけあって様子のいゝ事を云うと思ったが、余程よっぽど嬉しかったよ」

 園「いけませんネ、奥も先刻さっきお退けになりましたからお店へお出でなさいよ」

 新「行きますよ、お園どん誠に私は本当に案じたがね」

 園「有難うござますよ」

 新「弁天様へ一生懸命に二十一日の間私が精進して山田様も本当に親切にしてくれたがね、私は真赤に酔っていますか」

 園「真赤でございますよ、彼方あっちへお出でなさいよ」

 新「そんなに追出さんでもいゝやね、お園どん、伊勢茂の番頭さんが、流山の滅法よい味淋をお前にと云うので私は口当りがいゝから恐ろしく酔った、私はこんなに酔った事は初めてゞ私の顔は真赤でしょう」

 園「真赤ですよ、先刻さっきお店も退けましたから早くお出でなさいよ」

 新「そんなに追出さなくてもいゝやね、お園どん〳〵」

 園「なんですよ」

 新「だがお園どん、本当にお前さんは大病で、随分私は大変案じて一時ひとっきりは六むずかしかったから、私は夜も寝なかったよ」

 園「有難うございますが、そんなに恩にかけると折角の御親切も水の泡になりますから、あんまくどく仰しゃると、その位なら世話をして下さらんければいゝにと済まないが思いますよ」

 新「そう思っても私の方で勝手にしたのだからいゝが、ねえお園どん〳〵」

 園「何ですよ」

 新「私の心持はお前さんちっとも分らぬのだね、お園どん、本当に私は間が悪いけれどもね、お前さんに私は本当に惚れて居ますよ」

 園「アラ、いやな、あんな事をいうのだもの、お内儀かみさん言告いッつけますよ」

 新「言告るたって……そんなことを云うもんじゃアない、お前は私が来ると出て行け〳〵と、泥坊猫みた様に追出すから、とてもどう想ってもむだだとは思うが、寝ても覚めてもお前の事は忘れられないが、もう是からは因果と思ってふッつり女部屋へは来ませんが、けれども私を憫然かわいそうと思って、一晩お前の床の中へ寝かしておくんなさいよ、エお園どん」

 園「アラいやなネ、私とお前さんと寝れば、人が色だと申します」

 新「イヽエ私もそれが知れゝば失敗しくじって此家こゝには居られないから、唯一寸ちょっと並んで寝るだけ、肌を一寸ふれてすうっと出ればそれで断念あきらめる、唯ごろッと寝て直ぐに出てくから」

 園「そんな事を云ってごろりと寝て直ぐに出てくったって、仕様がないねえ、行って下さいよ」

 新「そんな事を云わずに」

 園「いやだよ、新どん」

 新「お願いだから」

 園「お願いだって」

 新「ごろり一寸寝るばかりだ、永らく寝る目も寝ずに看病したろうじゃアないか、其の義理にも一寸枕を並べて、直ぐに出てくから」

 園「仕様がございませんね」

 と云うが、永らく看病してくれた義理があってみれば無下むげに振払う事も出来ず、

 園「新どん唯一寸寝るばかりにしておくんなさいよ」

 新「アヽ一寸一度寝るばかりでも結構、半分でもよろしい」

 と云うのでお園の床へ這入りますると、お園は厭だからぐるりと脊中を向けて固くなっているから、此方こっちも床へ這入りは這入ったが、ぎこちなくって布団の外へはみ出す様、お園はウンともスンとも云わないから、なんだか極りが悪いのでえいさめて来て、

 新「お園どん、誠に有難う、お前がそんなに厭がるものを無理無体に私がこんな事をして済まないが、其の代り人には決して云わない、私は是程惚れたからお前の肌に触れ一寸でも並んで寝れば私の想いも届いたのだから宜しいが、此家こゝに居ては面目めんぼくなくて顔が合せられず、又顔を合せては猶更なおさら忘れられないし、こんな心では御恩を受けた旦那様にも済まないから、私は此家を今夜にも明日あすにも出てしまって、私の行方ゆくえが知れなくなったら、私の出た日を命日と思って下され、もう私は思いのこす事もないからしんでしまいます」

 とすうッと出に掛る。口説くどき上手のどんづまりは大抵死ぬと云うから、今新五郎は死ぬと云ったら、まア新どんお待ちと来るかと思うと、お園は死ぬ程新五郎が厭だから何とも申しませんで、猶小衾かいまきを額の上までずうッとゆすり上げてかぶったなり口もきゝませんから、新五郎は手持無沙汰にお園の部屋を出ましたが、是が因果のはじまりで、猶更お園に念がかゝり、かたき同士とは知らずして、遂に又お園に恋慕れんぼを云いかけまするという怪談のお話、一寸一息ひといききまして、


十一


 深見新五郎がお園に惚れまするは物の因果で、敵同士の因縁という事は仏教の方では御出家様が御説教をなさるが、どういう訳か因縁と云うと大概の事は諦めがつきます。

 甲「どうしてあの人はあんな死様しにざまをしただろうか」

 乙「因縁でげすね」

 甲「あの人はどうしてあア夫婦中がいゝか知らん、あの不器量だが」

 乙「あれはナニ因縁だね」

 甲「なぜかあの人はあアいうひどい事をしても仕出したねえ」

 乙「因縁がいのだ」

 と大概は皆因縁に押附おっつけて、善いも悪いも因縁として諦めをつけますが、其の因縁が有るので幽霊というものが出て来ます。その眼に見えない処を仏教では説尽ときつくしてございまするそうで、外国には幽霊は無いかと存じて居りました処が、先達せんだっわたくしの宅へさる外国人が婦人と通弁が附いて三人でおいでになりまして、それはいきな外国人で、靴を穿いて来ましたが、其の靴をぬいでかくしから帛紗ふくさを取出しましたからなんの風呂敷包かと思いますと、其の中から上靴を出してはきまして、畳の上へ其の上靴で坐布団の上へ横ッ倒しに坐りまして、

 外「お前のうちに百ぷく幽霊の掛物があるという事でとくより見たいと思って居たが、何卒どうぞ見せて下さい」

 という事。是はわたくしがふと怪談会と云う事を致した時に、諸先生方がいて下すった百幅の幽霊の軸がございますから、是を御覧に入れますと、外国人の事でございますから、一々是はなんという名で何という人が画いたのかと云う事を、通弁に聞いて手帖に写し、れはうまい、れはまずいと評します所を見ると、中々眼の利いたもので、丁度其の中で眼に着きましたのは菊池容齋きくちようさい先生と柴田是眞しばたぜしん先生の画いたので、是は別してめられました。そのあとで茶をれて四方八方よもやまの話から、幽霊の有無ありなしの話をしましたが、

 外「私は日本の語にうといから通弁から聞いて呉れ」

 と云う。わたくしも洋語は知りませんから通弁さんに聞くと、通弁さんの云うに、

 通「お前のうちにこれだけの幽霊の掛物をあつめるには、幽霊というものが有るか無いかをしかと知っての上でかように聚めたのでございましょう」

 と云うといでございました。所が有るか無いかと外国人に尋ねられて、わたくしも当惑して、早速に答も出来ませんから、

 圓「日本の国には昔から有るとのみ存じていますから、日本人には有るようで、貴方のお国には無いと云うことが学問上決して居るそうですから無いので、詰り無い人には無い有る人には有るのでございましょう」

 と、仕方なしに答えましたが、此の答はもとよりよろしくない様でございますが、何分無いとも有るとも定めはつきません。先達せんだってある博識ものしり先生に聞きますと

「幽霊は有るに違い無い、現在僕は蛇の幽霊を見たよ」

 と仰しゃるから、

 圓「どういう訳か」

 と聞くと、蛇をびんの中へ入れてアルコールをつぎ込むと、蛇は苦しがって、出よう〳〵と思って口の所へ頭を上げて来るところを、グッとコロップを詰めると、出ようと云う念をぴったりおさえてしまう。アルコール漬だから形は残って居ても息は絶えて死んで居るのだが、それを二年ばかり経って壜の口をポンと抜いたら、中から蛇がずうッと飛出して、栓を抜いた方の手頸てくびへ喰付いたから、ハッと思うと蛇の形は水になって、ダラ〳〵とおちて消えたが、是は蛇の幽霊と云うものじゃ。と仰しゃりました。しか博識ものしりの仰しゃる事には、随分拵事こしらえごとも有って、こと〴〵あてにはなりませんが、出よう〳〵と云う気を止めて置きますと、其の気というものが早晩いつか屹度きっと出るというお話、又お寺様で聞いて見ますると気息いきが絶えてのち形は無いが、霊魂と云うものは何処どこくか分らぬと申すこと、天国へくとか地獄極楽とか云う説はあっても、まだ地獄から郵便の届いた試しもなし、又極楽の写真を見た事もございませんから当にはなりませんが、併し悪い事をすると怨念おんねんが取付くから悪事はするな、死んで地獄へくとの如く牛頭ごず馬頭めずの鬼に責められて実にどうもくるしみをする、此の有様ありさま如何どうじゃ、何と怖い事じゃアないか、と云うので、盆の十六日はお閻魔様えんまさまへ参詣致しますると、地獄の画が掛けてあるから、此の画を見て子供はおゝ怖い、悪い事はしまいと思う。昔は私共わたくしどもの画を見ると、もう決して悪い事はしまいと思いまして、女は子が出来ないと血の池地獄へ落ちて燈心で竹の根を掘らせられ、男は子が出来ないと提灯ちょうちんで餅をかせられると云う、皆恐ろしい話で、実に悪い事は出来ませんものでございます。又因縁でしょうを引きますというは仏説でございますが、深見新左衞門が斬殺きりころした宗悦の娘お園に、新左衞門のせがれ新五郎が惚れると云うはどういう訳でございましょうか、寝ても覚めても夢にもうつゝにも忘れる事が出来ませんで、其の時は諦めますと云って出にかゝったが、お園が何とも云わぬから仕方がない、杉戸すぎどてゝ店へ往って寝てしまいましたが翌日になって見ると、まさか死ぬにも死なれず、矢張やっぱり顔を見合せて居ります。其のうち土蔵くらの塗直しが始まり、質屋さんでは土蔵を大事にあそばすので、土蔵の塗直しには冬が一番もちがいゝと云うので、職人が這入ってどし〳〵日の暮れるまで仕事をして、早出はやで居残りと云うのでございます。職人方が帰り際には台所で夕飯時ゆうめしどきには主人が飯をべさせ、寒い時分の事だから葱鮪ねぎまなどは上等で、あるいは油揚に昆布などを入れたのがお商人あきんど衆の惣菜でございます。よく気をつけてくれまするから、台所で職人がどん〳〵這入って御膳を食べ、香の物がないといって、たすきを掛けて日の暮々くれ〴〵にお園が物置へ香の物を出しにゆきました。此の奥に土蔵が有ってその土蔵の脇は物置があり、其の此方こちらには職人が這入って居るから荒木田あらきだがあり、其の脇にはわらが切ってあり、藁などがちらばっている間をうねって物置へ往って、今香の物を出そうとすると、新五郎が追っかけて来たから、見ると少し顔色も変って何だか気違きちがいじみて居る。もっとも惚れると云うと、馬鹿気ばかげて見えるものでございますが、

 新「お園どん〳〵」

 園「アラ、びっくりした、新どん、なんでございます」


十二


 新「アノお園さん、私はね、此の間お前と枕を並べて一度でも寝れば、死んでもい、諦めますと云いました」

 園「そんなことは存じませんよ」

 新「存じませんと云ったって覚えておでだろう、だがネ私はきっと諦めようと思って無理に頼んでお前の床へ這入って酔った紛れに一寸枕を並べたばかりだが、私はお前と一つ床の中へ這入ったから、なお諦めが付かなく成ったがね、お園どん、是程思って居るのだからたった一度ぐらいは云う事を聴いてもいゝじゃアないか」

 園「なんだネ新どん、気違じみて、お前さんも私も奉公して居る身の上でそんな事をして御主人に済みますか、其の事が知れたらお前さんは此のうちを出ても行処ゆきどころが無いじゃアありませんか、し間違があったならば、私は身寄も親類も無い行処の無いという事は何時いつでもう云っておいでだのに、大恩のある御主人に済みませんよ」

 新「済まないのは知って居るが、たった一度で諦めて是ッ切りいやらしい事は云う気遣きづかいないから」

 園「アラおよしよ」

 新「お前こんなに思って居るのに」

 と夢中になりお園の手を取ってグッと引寄せる。

 園「アレお止し」

 と云ううち帯を取ってうしろへ引倒しますから、

 園「アレ新どんが」

 と高声たかごえを出して人を呼ぼうと思ったが、そこは病気の時に看病を受けました事があるから、其の親切にほだされて、し私が呶鳴どなれば御主人に知れて、此の人が追出されたら何処どこへもく処も無し気の毒と思いますから、唯小声で、

 園「新どんお止しよ〳〵」

 と声を出すようで出さぬが、声を立てられてはならんと、たもとを口に当てがって、

 新「此方こっちへお出で」

 と藁の上へ押倒して上へ乗掛のりかゝるから、

 園「アレ新どん、お前気違じみた、お前も私もしくじったらうなさる、新どん、新どん」

 ともがくのを、無理無体に口を押え、夢中になって上へ乗掛ろうとすると、

 園「アレ新どん〳〵」

 ともがいているうちに、お園がウーンと身をふるわして苦しみ、パッと息が止ったからびっくりして新五郎が見ると、今はどっぷり日が暮れた時で、定かには分りませんが、側にあるすさが真赤に血だらけ、

 新「何うしたのか」

 と思って起上ろうとすると、苦し紛れに新五郎の袖に手をかけ、しがみ付いたなりに、新五郎と共にずうッとおきたのを見ると真赤、

 新「お園どん何うしたのだえ」

 とえりに手をかけて抱起だきおこすと、なさけないかな下にあったのはすさを切る押切おしきりと云うもの、是は畳屋さんの庖丁を仰向あおむけにした様な実にく切れるものでございますが、此の上へお園の乗った事を知らずに、男の力で、大声を立てさせまいと思い、口を押えてグックと押すから、お園はお止しよ〳〵と身体をもがくので、着物の上からゾク〳〵あばらへかけて切り込みましたから、お園は七転八倒の苦しみ、其の儘息の絶えたのを見て、新五郎は、

 新「アヽ南無阿弥陀仏〳〵〳〵、お園どん堪忍しておくれ、全くお前と私は何たる悪縁か、お前が厭がるのを知りながら私が無理無体な事を云いかけて、怖ろしい刃物のあるを知らずにお前を此所こゝへ押倒して殺してしまったから、もう私は生きてはいられない、お園どんしっかりしておくれ、私が死んでもお前を助けるから」

 と無理に抱起だきおこして見ましたが、もう事が切れて居る。

 新「ハア、もう是はとてもいかぬな」

 と夢の覚めた様な心持で只茫然として居りましたが、もう迚も此処こゝうちには居られぬ、といって今更何処どこといってく処も無い新五郎、エヽ毒喰わば皿までねぶれ、もう是までというので、くそやけになる。若いうちにはあることで、新五郎はやみに紛れてこっそり店へ這入って、此のうちへ来る時差して来た大小を取出し、店に有合ありあわせの百金を盗み取って逐電いたしましたが、さてく処がないから、遥々はる〴〵奥州おうしゅうの仙台へ参り、仙台様のおかゝえになって居る、剣客者けんかくしゃ黒坂一齋と云う、元剣術の指南を受けた師匠の処へ参って塾に這入り、剣術の修業しゅうぎょうをして身を潜めて居りましたが、城中に居りましたから、とんと跡が付きません。なれども故郷忘じ難く、黒坂一齋の相果てゝからは、うも朋輩ほうばい交際つきあいが悪うございますから、もう二三年も経ったから知れやしまいと思って、又奥州仙台から、江戸表へ出て来たのは、十一月の丁度二十日でございます。ず浅草の観音様へ参って礼拝らいはいを致し、是から何処どこゆこうか、うしたらよかろうと考えるうちに、ふと胸に浮んだのは勇治ゆうじと云う元屋敷の下男で、我が十二歳ぐらいの頃まで居たが、其の者は本所辺に居ると云う事で、たしか松倉町と聞いたから、兎も角も此の者を尋ねて見ようと思い、吾妻橋あづまばしを渡って、松倉町へきます。すげの深い三度笠をかぶりまして、半合羽はんがっぱ柄袋つかぶくろのかゝった大小をたいし、脚半甲きゃはんこうがけ草鞋穿わらじばきで、いかにも旅馴れて居りまする扮装いでたち行李こうりを肩にかけ急いで松倉町から、う細い横町へ曲りに掛ると、跡からバラ〳〵〳〵と五六人の人が駈けて来るから、是は手が廻ったか、しくじったと思い、振返って見ると、案の如く小田原提灯が見えて、紺足袋こんたび雪駄穿せったばき捕者とりものの様子だから、あわてゝ其処そこにある荒物屋の店の障子をがらりと明けて、飛上ったから、荒物屋さんでは驚きました。

 女房「何ですねえ、びっくりしますね」

 と云うと、

 新「ハイ〳〵〳〵」

 と云ってブル〳〵ふるえながら、ぴったりうしろを締めて障子の破れから戸外そとのぞいて居ります。


十三


 女「まア何処どこの方です、突然いきなり人のうちへ這入って、草鞋をはいたなりで坐ってサ、うしたんだえ」

 新「是は〳〵何うも誠に相済まぬが、今間違で詰らぬ奴に喧嘩を仕掛けられ、私は田舎武士ざむらいで様子が知れぬから、面倒と思って、逃ると追掛おっかけたから、是はたまらんと思って当家へ駈込みお店を荒して済みませんが、今覗いて見れば追掛けたのではない酒屋の御用が犬をけしかけたのだ、私は只怖いと思ったものだから追掛けられたと心得たので、誠に相済みません」

 女「困りますね、草鞋を脱いで下さい、泥だらけになって仕様がございませんね、アレ塩煎餅しおせんべいの壺へ足を踏みかけて、まアお前さん大変樽柿たるがきを潰したよ」

 新「誠に済まないが、ツイ踏んで二つ潰したから、是は私が買って、あとは元の様に積んで置きます、あの出刃庖丁はなんでげすな」

 女「あれは柿の皮をくのでございますよ、うも困りますね、だが買って下さればそれでうございますが、けれども貴方草鞋をおとんなさいナ」

 新「うか、樽柿は幾個いくつでも買いますが、何うかお茶でも水でも下さい」

 女「お茶はつめとうございますが、ナニ沢山買って下さらないでも、潰れただけの代を下さればようございます」

 新「えゝ御家内此処こゝなんと云う処でございますえ」

 女「此処は本所松倉町でございます」

 新「あゝ左様かえ、少しお聞き申すが、前々ぜん〴〵小日向服部坂はっとりざかの屋敷に奉公を致して居った勇治と云う者が此の近処きんじょに居りませんか、年は今年で五十八九になりましょうか、たしか娘が一人あって其の娘の夫は喿掻こまいかきと聞きましたが」

*「壁下地の小竹をとりつける職人」

 女「貴方は、なんでございますか、深見新左衞門様の若様でございますか」

 新「えゝ何あのお前は勇治を御存知かえ」

 女「ハイ私は勇治の娘でございますよ、春と申しまして」

 新「はあう」

 春「私はね、もうねお屋敷へ一度参った事がございますがね、其の時分は幼少の時で、まアお見違みそれ申しました、まだ貴方のお小さい時分でございましたからさっぱり存じませんで、大層お立派におなり遊ばしたこと、お幾才いくつにおなり遊ばした」

 新「今年二十三になります」

 春「まアお屋敷もね、何だか不祥いやな事になりまして、昨年私の親父も亡なりましたが、お屋敷はあゝなったが、若様はうなされたかお行方が知れぬが、ひょっとして尋ねていらっしゃったら、永々なが〳〵御恩を受けたお屋敷の若様だからんなにもして上げなければならん、と死際しにぎわに遺言して亡なりましたが、貴方が若様なれば何うか此方こちらへ一晩でもお泊め申さんではすみませんから」

 新「やれ〳〵是は〳〵左様かね、図らず勇治の処へ来たのは何よりさいわいで、拙者は深見新五郎であるが、仔細あって暫く遠方へ参って居たが、今度此方へ出て参っても何処どこと云って頼る処も無し、何処か知れぬ処へ奉公住ほうこうずみを致したいが、請人うけにんがなければならんから当家で世話をして請人になってくれんか」

 春「お世話どころじゃアございません、是非ともお世話をなければ済みません、まア能く入らっしゃいました、貴方それじゃアまア脚半や草鞋をお取りなすって、なに御心配はございません、今水を汲んで来ます、ナニその汚れた処は雑巾で拭きますから、まア合羽などはお取りなさいまし」

 と云うから新五郎はホット息をきます。すると、

 春「まア此方こちらへ」

 と云うので何か親切に手当を致し、大小は風呂敷に包み箪笥たんす抽斗ひきだしへ入れてピンと錠をおろし、

 春「貴方これとお着かえなさいましな」

 新「イヤ着換は持って居るから」

 と包の中から出して着物を着かえ、

 新「何うか空腹であるから御飯を」

 春「ハイ宜しゅうございます、貴方御酒を召上るならば取って参りましょう、此の辺は田舎同様場末でございますからなんにもよいものはありませんが、貴方鰻を召上りますなら鰻でも」

 新「鰻は結構、私が代を出すからどうか買って貰いたい」

 春「そんなら跡を願いますよ」

 と是からガラリ障子を明けて戸外そとへ出ました。すると此の女房は、実は深見新五郎が来たら是々と、亭主に言付けられているから、亭主の行って居る処へ行って話をする。此の亭主は石河伴作いしかわばんさくと云う旦那しゅの手先で、森田の金太郎と云う捕者の上手、かねて網を張って待っていた処だから、それは丁度いと、それ〴〵手配てくばりをしたが、しか剣客者てしゃと聞いているから刃物を取上げなければならんが、うしたものだろうと云うと女房が聞いて、刃物は是々してちゃんと箪笥の抽斗へ入れて錠を卸して仕舞って、鰻をあつらえにくつもりにして来たと云う。

 金「そんなら宜しい」

 と云ってすぐに鰻屋の半纏はんてん引掛ひっかけて若者の姿で金太郎がって来て、

 金「エヽ鰻屋でございます」

 と云うと、此方こちらは気が附きませんから、

 新「ハイ大きに御苦労」

 金「お誂えが出来ました、あゝ山椒さんしょの袋を忘れた」

 と云いながら新五郎の受取うけとりに来る処を飛上って、

 金「御用だ神妙にしろ」

 と手を取って逆に捻伏ねじふせられたからおきる事が出来ません。


十四


 金「手前てめえは深見新五郎だろう、谷中の下總屋でお園を殺し、主人の金を百両盗んで逐電した大泥坊め」

 新「イヤ手前は左様なものではござらん」

 とは云ったが、あゝ残念なことをした、それでは此処こゝの女房もぐるであったと見える、刃物を仕舞われたから是はもうとてのがれぬ。と思いました。いゝ悪党なれば、う云う時の為に懐にどすといって一本匕首あいくちをのんで居るが、それ程商売人の泥的どろてきではありませんから、用意をいたしておりません。もう天命きわまったと思うと、一寸指の先へ障りましたのは、先刻さっきふと女房に聞いた柿の皮を剥く庖丁と云う鯵切あじきりの様な物が、これが手に障ったのをさいわいと、

 新「左様なおぼえはない、人違ひとちがいでござる」

 と云って、起上おきあがりながらズンと金太郎の額へ突掛つっかけたから、

 金「アッ」

 とあとさがって傷口を押えると、額から血がダラ〳〵流れて真赤になり、真実ほんとうの金太郎の様になります。続いてにげたらと隠れていた捕者の上手な富藏とみぞうと云う者が、

 富「神妙にしろ、御用だ」

 と十手を振上げて打って掛るやつを取ってえぐったから、ヒョロ〳〵とひょろついて台所のへっついでボッカリ膝を打って、裏口へ蹌踉よろけ出したから、しめたと裏口の戸をしめ、辛張しんばりをかって置いて表をのぞくと人が居る様子だから、しっかかきがねを掛けて燈光あかりを消し、庖丁の先で箪笥の錠をガチ〳〵やってようやく錠を明け、取出した衣類を身にまとい、大小を差して、サア出ようと思ったが、とても表からは出られませんから、屋根伝いにして逃げようと、階子はしごあがって裏手の小窓を開けて見ると、ずうっと棟割むねわり長屋になって物干がつながって居て、一軒ごとに一間ばかりの丸太がありそれへ小割こわりが打って物干竿ものほしざおの掛る様になっているから、此の物干伝いに伝わってけば、何処どこへか逃げられるとは思ったが、なか〳〵油断は出来ませんから、長物ながものを抜いて新五郎が度胸をすえ、小窓から物干へ這出して来ます。すると捕手とりての方も手当は十分に附いているから、もし此の窓から逃出したら頭脳あたま打破うちわろうと、勝藏かつぞうと云う者が木太刀きだちを振上げて待って居る所へ、新五郎は腹這はらばいになってくびをそうッと出した。すると、

 勝「御用だ」

 ピュッーと来るやつを、身を退き身体を逆にかえして、あばらの所へ斬込んだから、勝藏は捕者は上手だが物干から致してガラ〳〵〳〵どうと転がり落ちる。其の間に飛下りようとする。所が下には十分手当が届いているから下りる事が出来ません。すると丁度隣の土蔵が塗直しで足場が掛けてあってとまが掛っているから、それをくゞって段々参ると、下の方ではワア〳〵と云う人声ひとごえ、もううなると、人が十人居ても五十人も居る様に思われますから、新五郎はそっと音のしない様に笘を潜り抜けて、段々横へ廻って参り、此の空地あきちへ飛下り、彼方あちらの板塀をこわして、むこうの寺へ出ればのがれられようと思い、足場を段々に下りまして、もうかろう、と下を見るとわらがある。しめたと思ってドンと其処そこへ飛下りると、

 新「ア痛タ……」

 と臀餅しりもちをつくはずです、其の下にあったのは押切おしぎりと云う物で、土踏まずの処を深く切込みましたから、新五郎ももう是までと覚悟しました。びっこになっては、とてのがれる事も出来ませんから、到頭とうとう縄に掛って引かれます。

 新「あゝ因縁は恐しいもの、三年あとにお園を殺したも押切、今又押切へ踏掛けてそのためにおれが縄に掛って引かれるとは、お園のうらみが身にまとってかくの如くになること」

 と実に新五郎も夢の覚めた様になりましたが、是が丁度三年目の十一月二十日、お園の三回忌の祥月命日しょうつきめいにちに、遂に新五郎が縄目に掛って南の御役宅へ引かれると云う、是より追々怪談のお話に相成ります。


十五


 引続きまして真景累が淵、前回よりは十九年経ちましてのお話に相成りますが、根津七軒町の富本とみもとの師匠豐志賀とよしがは、年卅九歳で、誠に堅い師匠でございまして、先年妹お園を谷中七面前の下總屋と云う質屋へ奉公にって置きました処、図らぬ災難で押切の上へ押倒され、新五郎の為に非業の死を遂げましたが、それからは稽古をする気もなく、同胞きょうだい思いの豊志賀はねんごろに妹お園の追福を営み、追々月日も経ちまするので気を取直し、又矢張やっぱり稽古をする方が気が紛れていゝから、と世間の人も勧めまするので、押っ張って富本の稽古を致す様になりましたが、女の師匠と云う者は、堅くないとお弟子がつきません。彼処あすこの師匠は娘を遣って置いても行儀もよし、言葉遣いもよし、まことに堅いから、あの師匠なら遣るがい、実に堅い人だ、と云うので大家たいけの娘も稽古に参ります。すると、男嫌いで堅いと云うから、男は来そうもないものでございますが、堅い師匠だと云うと、妙に男が稽古に参ります。

「師匠是は妙な手桶で、台所でつかうのには手で持つ処が小さくって軽くって、師匠などが水を汲むにいゝから、私が一つ桶屋にこしらえさして持って来た」

 とか、又朝早く行って、かめへ水を汲んで流しを掃除しようなどと手伝いに参ります。中には内々ない〳〵張子連はりこれんなどと申しまして、師匠がどうかしてお世辞の一言ひとことも云うと、それに附込んで口説落くどきおとそうなどと云う連中れんじゅう経師屋きょうじや連だの、あるいは狼連などと云う、転んだら喰おうと云う連中が来るのでありますから、種々いろ〳〵親切に世話を致します。時々さらいや何か致しますと、みんな此の男の弟子が手伝いに参りますが、ふと手伝いに来た男は、下谷したや大門町だいもんちょう烟草屋たばこやを致してる勘藏と云う人のおい、新吉と云うのでございますが、ぶら〳〵遊んで居るから本石町ほんこくちょう四丁目の松田と云う貸本屋へ奉公にりましたが、松田が微禄いたして、伯父の処へ帰って遊んでいるから、少し烟草を売るがいゝと云うので、つかみ煙草を風呂敷に包み、処々ところ〴〵売って歩きますが、もとより稽古が好きで、ひまの時は、水を汲みましょうお湯をわかしましょうなどと、ヘエ〳〵云ってまめに働きます。年二十一でございますが、一寸子抦こがらい愛敬のあると云うので、大層師匠の気に入り、其のうちに手少なだから私のうちに居て手伝ってと云うと、新吉も伯父の処に居るよりは、芸人のうちに居るのはいきで面白いからたのしみも楽みだし、芸を覚えるにも都合がいゝから、豊志賀の処へ来て手伝いをして居ります。其の年十一月二十日の晩には、みぞれがバラ〳〵降って参りまして、ごく寒いから、新吉は食客いそうろうの悲しさで二階へあがって寝ますが、五布蒲団いつのぶとん柏餅かしわもちでもまだ寒いと、肩の処へ股引などを引摺込ひきずりこんで寝まするが、霙はざあ〳〵と窓へ当ります。其の内に少し寒さがゆるみましたかして、が更けてから雨になりまして、どっとと降って参ります。師匠は堅いから下に一人で寝て居りますが、なんだか此の晩は鼠がガタ〳〵して豐志賀は寝られません。

 豐「新吉さん〳〵」

 新「ヘエなんでげすね」

 豐「お前まだ眼が覚めていますかえ」

 新「ヘエ、私はまだ覚めて居ります」

 豐「そうかえ私も今夜は何だか雨の音が気になって少しも寝られないよ」

 新「私も気になってちっとも寝られません」

 豐「何だか誠におかしく淋しい晩だね」

 新「ヘエー訝しく淋しい晩でげすね」

 豐「寒いじゃアないか」

 新「何だかひどく寒うございますね」

 豐「なんだね同じ様なことばかり云って、誠に淋しくっていけない、お前さん下へ下りて寝ておくれな、どうも気になっていけないから」

 新「そうですか、私も淋しいから下へ下りましょう」

 と五布蒲団と枕を抱えて、危い階子はしごを下りて来ました。

 豐「お前、新吉さん其方そっちへ行って柏餅では寒かないかえ」

 新「ヘエ、柏餅が一番いんです、布団の両端りょうはじを取って巻付けて両足をそくに立ってむこうの方に枕をえて、これなりにドンと寝ると、い塩梅に枕の処へ参りますが、そのかわり寝像ねぞうが悪いとあんがはみ出します」

 豐「お前寒くっていけまい、うしておくれな、私も淋しくっていけないから、私のネこの上掛うわがけ四布蒲団よのぶとんを下に敷いて、私の掻巻かいまきの中へお前一緒に這入って、其の上へ五布蒲団を掛けるとあったかいから、一緒にお寝な」

 新「それはいけません、どうして勿体ない、お師匠さんの中へ這入って、お師匠さんの身体から御光ごこうが射すと大変ですからな」

 豐「御光だって、寒いからサ」

 新「寒うございますがね、明日あしたの朝お弟子が早く来ましょう、うするとお師匠さんの中へ這入って寝てえれば、新吉はお師匠さんと色だなどと云いますからねえ」

 豐「いわね、私の堅い気象はみんなが知って居るし、私とお前と年を比べると、私は阿母おっかさんみた様で、お前の様な若い子みたいな者とう云う訳は有りませんから一緒にお寝よ」

 新「そうでげすか、でも極りが悪いから、中に仕切を入れて寝ましょうか」

 豐「仕切を入れたって痛くっていけませんよ、お前がわるければ脊中合せなかあわせにして寝ましょう」

 と到頭同衾ひとつねをしましたが、決して男女なんにょ同衾はするものでございません。


十六


 日頃堅いと云う評判の豐志賀が、どう云う悪縁か新吉と同衾をしてから、不図ふと深い中になりましたが、三十九歳になる者が、二十一歳になる若い男と訳があって見ると、息子のような、亭主のような、情夫いろおとこの様な、弟の様な情が合併して、さあ新吉が段々かわいゝから、無茶苦茶新吉へ自分の着物を直して着せたり何か致します、もと食客いそうろうだから新吉が先へ起きて飯拵めしごしらえをしましたが、此の頃は豐志賀が先へ起きておまんまを炊くようになり、枕元で一服つけて

 豐「さア一服おあがりよ」

 新「ヘエ有難う」

 豐「なんだよヘエなんて、もうお起きよ」

 新「あいよ」

 などと追々増長して、師匠の布子どてらを着て大胡坐おおあぐらをかいて、師匠が楊枝箱ようじばこをあてがうと坐ってゝ楊枝をつかうがいをするなどと、どんな紙屑買が見ても情夫いゝひととしか見えません。誠に中よく致し、新吉も別にく処も無い事でございますから、少し年をとった女房を持った心持でいましたが、此家こゝへ稽古に参りまする娘が一人ありまして、名をおひさと云って、総門口そうもんぐちの小間物屋の娘でございます。羽生屋三五郎はにゅうやさんごろうと云う田舎堅気かたぎうちでございまするが、母親が死んで、継母まゝはゝに育てられているから、娘はうちに居るより師匠の処に居る方がいゝと云うので、く精出して稽古に参ります。すると隠す事程結句けっくは自然と人に知れるもので、うもおかしい様子だが、新吉と師匠と訳がありゃアしないかと云う噂が立つと、堅気のうちでは、其の様な師匠では娘の為にならんと云って、い弟子はばら〳〵さがってしまい、追々お座敷も無くなります。そうすると、張子連はおこり出して、

「分らねえじゃアねえか、師匠はなんの事だ、新吉などと云う青二歳を、了簡違いな、また新吉の野郎もいやに亭主ぶりやアがって、銜煙管くわえぎせるでもってハイお出で、なんと云ってやがる、本当に呆れけえらア、さがれ〳〵」

 と。ばら〳〵張子連は下ります。其のの弟子も追々其の事を聞いて下りますと、つまって来るのは師匠に新吉。けれどもお久ばかりは相変らず稽古に来る、と云うものはうちに居ると、継母にいじめられるからで、此のお久は愛嬌のある娘で、年は十八でございますが、一寸笑うと口の脇へえくぼと云って穴があきます。何もずぬけて美女いゝおんなではないが、一寸男惚おとこぼれのする愛らしい娘。新吉の顔を見てはにこ〳〵笑うから、新吉も嬉しいからニヤリと笑う。其のたがいに笑うのを師匠が見ると外面うわべへはあらわさないが、何か訳が有るかと思って心ではきます。この心で妬くのは一番毒で、むや〳〵修羅しゅらもやして胸に燃火たくひの絶えるがございませんから、逆上のぼせて頭痛がするとか、血の道がおこるとか云う事のみでございます。と云ってほかに意趣返しの仕様がないから稽古の時にお久を苛めます。

 豐「本当に此のは何てえ物覚ものおぼえが悪い娘だろう、其処そこがいけないよ、此様こんなじれったい娘はないよ」

 と無暗むやみつねるけれども、お久は何も知らぬから、芸があがると思いまして、幾ら捻られてもせっせと来ます。それは来る訳で、うちに居ると継母に捻られるから、おっかさんよりはお師匠さんの方が数が少いと思って近く来ると、なお師匠は修羅をもやして、わく〳〵悋気りんきほむらは絶える間は無く、益々逆上して、眼の下へポツリとおかしな腫物できものが出来て、其の腫物が段々腫上はれあがって来ると、紫色に少し赤味がかって、たゞれてうみがジク〴〵出ます、眼は一方腫塞はれふさがって、其の顔のいやな事と云うものはなんとも云いようが無い。一体少し師匠は額の処が抜上ぬけあがって居るたちで、毛が薄い上にびんが腫上っているのだから、実に芝居で致すかさねとかお岩とか云うような顔付でございます。医者が来て脈を取って見る。豊志賀が、是は気のこりでございましょうか、と云うと、イヤうでない是は面疔めんちょうに相違ないなどゝ云うが、それは全く見立違みたてちがいで、只今の様に上手なお医者はございません時分で、只今なら佐藤先生の処へけば、切断して毒を取って跡は他人の肉で継合つぎあわせると云う、飴細工の様な事も出来るから造作はないが、其の頃は医術が開けませんから、十分に療治も届きません。それ故段々いたみはげしくなり、したがって気分も悪くなり、ついにはどっと寝ました。ところがしょくもとより咽喉のどへ通りませんし、湯水も通らぬ様になりましたから、師匠は益々やせるばかり、けれども顔の腫物できものは段々に腫上って来まするが、新吉はもと師匠の世話になった事を思って、く親切に看病致します。

 新「師匠〳〵、あのね、薬の二番が出来たから飲んで、それから少し腫物の先へ布薬ひきぐすりよう、えゝおい、寝て居るのかえ」

 豐「あい」

 と膝に手を突いて起上りますると、鼠小紋ねずみこもん常着ふだんぎ寝着ねまきにおろして居るのが、汚れッが来ており、お納戸色なんどいろ下〆したじめを乳の下に堅くめ、くびれたように痩せて居ります。骨と皮ばかりの手を膝に突いてようやくの事で薬をみ、

 豐「ほッ、ほッ」

 と息をく処を、新吉は横眼でじろりと見ると、もう〳〵二眼ふためと見られないいやな顔。

 新「ちっとはいゝかえ」

 豐「あい、新吉さん、私はねうも死度しにたいよ、私のようなんなお婆さんを、お前が能く看病をしておくれで、私はお前の様な若い奇麗きれいな人に看病されるのは気の毒だ〳〵と思うと、なお病気がおもって来る、ね、私が死んだらさぞお前が楽々らく〳〵すると思うから、本当に私は一時いちじも早く楽に死度いと思うが、何うも死切しにきれないね」

 新「詰らない事を云うもんじゃアない、お前が死んだら私が楽をしようなどゝそんなことで看病が出来るものでは無い、わく〳〵そんな事を思うからのぼせるんだ、腫物できものさえなおって仕舞やアいのだ」

 豐「でもお前がいやだろうと思って、私はお前たゞの病人なら仕方もないけれども、私はんな顔になって居るのだもの」

 新「斯んな顔だって腫物だからなおれば元の通りになるから」

 豐「癒ればあとが引釣ひっつりになると思ってね」

 新「そんなに気をんではいけない、少しははれ退いたようだよ」

 豐「嘘をおきよ、私は鏡で毎日見て居るよ、お前は口と心と違って居るよ」

 新「なに違うものか、私は心配して居るのだ」

 豐「あゝもう私は早く死度い」

 新「おしよ、しにたい〳〵って気がひけるじゃアないか、ちっとは看病する身になって御覧、なんだってそんなに死度いのだえ」

 豐「私が早く死んだら、お前の真底しんそこから惚れているお久さんとも逢われるだろうと思うからサ」


十七


 新「あゝいう事を云う、お前はなんぞと云うとお久さんをうたぐって、ばんごと云うがね、私とお久さんと何か訳があると思って居るのかえ」

 豐「それはないわね」

 新「ないものを兎や角云わなくってもいじゃアないか」

 豐「ないからったっても、私と云うものがあるから、お前が惚れているという事を、口にも出さず、情夫いろにもなれぬと思うと、私は本当に気の毒だから私は早く死んで上げて、そうして二人を夫婦にして上げたいよ」

 新「およしな、そんな詰らぬ事を、仕様がないな、本当にお前も分らないね、お久さんだって一人娘で、婿を取ろうと云う大事な娘だのに、そんな訳もない事を云ってきずを附けては、むこうの親父さんの耳にでも入ると悪いやね、あの娘のおっかさんは継母でやかましいから可愛かわいそうだわね」

 豐「可愛そうでございましょう、お前はお久さんの事ばかりかわいそうで案じられるだろうが、私が死んでもお前は可愛そうだと思う気遣きづかいはないよ」

 新「あ、あゝいう事を、お前仕様がないね、よく考えて御覧な、全体私はうちの者じゃアないか、仮令たとえ訳があっても隠すが当然だろう、それを訳のない者を疑って、ある〳〵と云うと、世間の人まで有ると思って私が困るよ」

 豐「御尤ごもっともでございますよ、でもうせあるのはあるのだね、私が死ねば添われるから、何卒どうぞ添わして上げたいから云うのだよ、新吉さん本当に私は因果だよ、私は何うも死切れないよ」

 新「あゝ云う事を云う、何を証拠に…えゝそれはね……彼様あんな事を…又あゝいう事を……お前そう疑るからいけない、此の頃来たお弟子ではなし、うちの為になるからそれはお前、お天気がいゝとか、寒うございますとか、芝居へおいでなすったか位のお世辞は云わなければならないやね、それも家の為だと思うから云おうじゃアないか、あれサ仕様がないね、別に何も……此の間も見舞物を持って来たから台所へ行って葢物ふたものを明けて返す、あれサそれを、あゝいう分らぬ事を云う仕様がねえなア」

 とこぼして居る所へ這入って来たのは何も知らないお久でございます。何か三組みつぐみの葢物へおいしいものを入れて、

 久「新吉さん、今日こんにちは」

 新「ヘエ、おいでなさい、此方こちらへお這入りなすって、ヘエ有難う、まア大きに落付おちつきました様で」

 久「あのおっかさんがあがるのですが、つい店が明けられませんで御無沙汰を致しますが、たしかお師匠さんがおすきでございますから、よくは出来ませんが何卒どうぞ召上って」

 新「有難うございます、毎度お前さんの処から心にかけて持って来て下すって有難う、錦手にしきでい葢物ですね、是は師匠が大好だいすきでげす、煎豆腐いりどうふの中へ鶏卵たまごが入って黄色くなったの、誠に有難う、師匠が大好、おい師匠〳〵あのねお久さんの処からお前の好な物を煮て持って来ておくんなすったよ、お久さんが来たよ」

 豐「あい」

 とお久と云う声を聞くと、こくり起上って手を膝について、お久の顔を見詰めて居ります。

 久「お師匠さんいけませんね、おっかさんがお見舞に上るのですが、つい店が明けられませんで、ちっとはおよろしゅうございますか」

 豐「はい、お久さん度々たび〴〵御親切に有難うございます。お久さん、お前と私とはんだえ」

 新「何を詰らない事を云うのだよ」

 豐「黙っておいでなさい、お前の知った事じゃアない、お久さんに云いたい事があるのだよ、お久さん私とお前とは弟子師匠の間じゃアないか、何故お見舞にお出でゞない」

 新「何を云うのだよ、お久さんは毎日お見舞に来たり、うかすると日に二度ぐらいも来るのに」

 豐「黙っておいで、其様そんなにお久さんの贔屓ひいきばかりおしでない、それは私がうしているから案じられて来るのじゃア無い、お久さんはお前の顔を見たいから度々来るので」

 新「仕様がないナ詰らぬ事を云って、お久さん堪忍してね、師匠は逆上して居るのだから」

 久「誠にいけませんね」

 とお久は少し怖くなりましたから、こそ〳〵と台所から帰ってしまいました。

 新「困るね、えゝ、おい師匠何うしたんだ、冗談じゃアねえ、顔から火が出たぜ、生娘きむすめうぶ彼様あんな事を云って、面目無めんぼくなくって居られやアしない」

 豐「居られますまいよ、顔が見たけりゃア早く追駈おっかけてお出で」

 新「あゝいう事を云うのだもの」

 豐「私の顔は斯んな顔になったからって、お前がそういう不人情な心とは私は知りませんだったよ」

 新「何を云うのだね、誠に仕様がねえな、ちっと落付いてお寝よ」

 豐「はい寝ましょうよ」

 新吉は仕方がないから足をさすって居りますと、すや〳〵疲れて寝た様子だから、いゝ塩梅だ、此の間に御飯でもべようと膳立ぜんだてをしていると這出して、

 豐「新吉さん」

 新「なんだい、きもつぶしたねえ」

 豐「私が斯んな顔で」

 新「仕様がねえなひえるといけないからお這入りよ」

 と云う塩梅、よる夜中よなかでも、いゝ塩梅に寝附いたから疲れを休めようと思って、ごろりと寝ようとすると、

 豐「新吉さん〳〵」

 とり起すから新吉が眼をさますと、ヒョイと起上って胸倉むなぐらを取って、

 豐「新吉さん、お前は私が死ぬとねえ」

 と云うから、新吉は二十一二で何を見ても怖がって尻餅をつくと云う臆病なたちでございますから、是は不人情のようだがとて此処こゝには居られない、大門町へ行って伯父と相談をして、いっその事下総の羽生村に知って居る者があるから、其処そこへ行ってしまおうかと、種々いろ〳〵考えて居るうちに、師匠は寝付いた様子だから、そのに新吉はふらりと戸外そとへ出ましたが、若い時分には気の変りやすいもので、茅町かやちょうへ出て片側町かたかわまちまでかゝると、むこうから提灯をけて来たのは羽生屋の娘お久と云う別嬪べっぴん

 久「おや新吉さん」


十八


 新「これはお久さん何処どこへ」

 久「あの日野屋へ買物に」

 新「思いがけない処でお目にかゝりましたね」

 久「新吉さん何方どちらへ」

 新「私は一寸大門町まで」

 久「お師匠さんは」

 新「誠にいけません、此の間はお気の毒でね、あんな事を云ってうもお前さんにはお気の毒様で」

 久「何う致しまして、丁度よい処でお目に掛って嬉しいこと」

 新「お久さん何処へ」

 久「日野屋へ買物に」

 新「本当にあんな事を云われるといやなものでね、私は男だから構いませんが、お前さんはさぞ腹が立ったろうが、おっかさんには黙って」

 久「何ういたしまして、私の方ではあゝ云われると、冥加みょうがに余って嬉しいと思いますが、お前さんの方で、外聞がわるかろうと思って、誠にお気の毒様」

 新「うまく云って、お久さん何処へ」

 久「日野屋へ買物に」

 新「あの師匠の枕元でおまんまたべると、おち〳〵咽喉のどへ通りませんから、何処かへってお飯を喫べようと思うが、一人では極りが悪いから一緒に往っておくんなさいませんか」

 久「私の様な者をおつれなさると外聞が悪うございますよ」

 新「まアいからお出でなさい、蓮見鮨はすみずしへ参りましょう」

 久「ようございますか」

 新「宜いからお出でなさい」

 と下心があると見え、お久の手を取って五目鮨ごもくずし引張ひっぱり込むと、鮨屋でもさしで来たからおかしいと思って、

 鮨「いらっしゃい、お二階へ〳〵、あの四畳半がいゝよ」

 と云うのでとん〳〵〳〵〳〵とあがって見ると、天井が低くって立っては歩かれません。

 新「なんだか極りが悪うございますね」

 久「私はうも思いません、お前さんと差向いでお茶を一つ頂く事も出来ぬと思って居ましたが、今夜は嬉しゅうございますよ」

 新「調子のいゝことを」

 女「誠に今日こんにちはお生憎あいにく様、握鮓にぎりばかりでなんにも出来ません、お吸物も、なんでございます、詰らない種でございますから、海苔のりでも焼いて上げましょうか」

 新「あゝ海苔で、吸物は何か一寸見計みはからって、あとは握鮓がいゝ、おい〳〵、お酒は、お前いけないねえ、しかし極りが悪いから、沢山は飲みませんが、五勺ごしゃくばかり味醂みりんでも何でも」

 女「かしこまりました、御用がありましたらお呼びなすって、此処こゝは誠に暗うございますが」

 新「何ようございます、其処そこをぴったりめて」

 女「ハイ御用があったらお手を、此の開きは内から鎖鑰かきがねが掛りますから」

 新「お前さんとさしで来たから、女がおかしいと思って内から鎖鑰が掛るなんて、一寸たかいね、お久さん何処へ」

*「たかい目が高いの略」

 久「日野屋へ来たの」

 新「あう〳〵、此の間はお気の毒様で、おっかさんのお耳へ這入ったらさぞ怒りなさりやアしないかと思って大変心配しましたが、師匠はの通り仕様がないので」

 久「うも私共の母などもう云っておりますよ、お師匠さんがあんな御病気になるのも、やっぱり新吉さん故だから、新吉さんも仕方がない、何様どんなにも看病しなければならないが、若いから嘸おいやだろうけれども、まアお年にあわしてはく看病なさるっておっかさんも誉めて居ますよ」

 新「此方こっちも一生懸命ですがね、只煩って看病するばかりならいゝけれども、何うも夜中に胸倉を取って、いやな顔で変な事を云うには困ります、私は寝惚ねぼけ度々たび〳〵びっくりしますから、誠に済まないがね、思い切ってふい何処どこかへ行って仕舞しまおうかと思って、それには下総にすこし知己しるべが有りますから其処そここうかと思うので」

 久「おやお前さんの田舎はあの下総なの」

 新「下総と云う訳じゃアないがちっと知って居る……伯母さんがあるので」

 久「おやまあ。私の田舎も下総ですよ」

 新「ヘエお前さんの田舎は下総ですか、世には似た事があるものですね、う云えば成程お前さんの処の屋号いえなは羽生屋と云うが、それじゃア羽生村ですか」

 久「私の伯父さんは三藏さんぞうと云うので、親父は三九郎と云いますが、伯父さんが下総に行って居るの、私は意気地いくじなしだからとても継母の気に入る事は出来ないけれども、あんまりぶち打擲ちょうちゃくされると腹が立つから、私が伯父さんのとこへ手紙を出したら、そんな処に居らんでも下総へ来てしまえと云うから、私は事によったら下総へ参りたいと思います」

 新「ヘエうでございますか、本当に二人が情夫いろか何かなれば、ずうっと行くが、なんでもなくってはうはいきませんが、下総と云えば、んですね、かさねの出た処を羽生村と云うが、うちの師匠などはまるで累も同様で、私をこづいたり腕を持って引張ひっぱったりして余程変ですよ、それに二人の中は色でもなんでもないのに、色の様に云うのだから困ります、うせ云われるくらいなれば色になって、うしてずうっと、二人で下総へにげると云うようないきな世界なら、なんと云われても云われ甲斐がありますが」

 久「うまく仰しゃる、新吉さんはじつがあるから、お師匠さんを可愛いと思うからこそ辛い看病も出来るが、私のような意気地なしの者をつれて下総へきたいなんと、冗談にもう仰しゃってはお師匠さんに済みませんよ」

 新「済まないのは知ってるが、とてうちには居られませんもの」

 久「居られなくっても貴方が下総へ行ってしまうとお師匠さんの看病人がありません、うちのおっかさんでも近所でもう云って居りますよ、あの新吉さんが逃出して、看病人が無ければ、お師匠さんは野倒死のたれじにになると云って居ります、それを知ってお師匠さんを置いて行っては義理が済みません」

 新「そりゃア義理は済みませんがね、お前さんが逃げると云えば、義理にもなんにも構わず無茶苦茶に逃げるね」

 久「えゝ、新吉さん、お前さんほんとうにう云って下さるの」

 新「ほんとうとも」

 久「じゃアほんとうにお師匠さんが野倒死をしても私を連れて逃げて下さいますか」

 新「お前がくと云えば野倒死は平気だから」

 久「本当に豊志賀さんが野倒死になってもお前さん私を連れてきますか」

 新「本当に連れて行きます」

 久「えゝ、お前さんと云う方は不実な方ですねえ」

 と胸倉を取られたから、フト見詰めて居ると、綺麗な此の娘の眼の下にポツリと一つ腫物できものが出来たかと思うと、見るに紫立ってれ上り、う新吉の胸倉を取った時には、新吉が怖いとも怖くないともグッと息がとまるようで、だ無茶苦茶に三尺の開戸ひらきど打毀うちこわして駈出したが、階子段はしごだんを下りたのか転がりおちたのかちっとも分りません。夢中で鮨屋を駈出し、トットと大門町の伯父の処へ来て見ると、ぴったりしまって居るからトン〳〵〳〵〳〵、

 新「伯父さん〳〵〳〵」


十九


 勘「オイ騒々しいなア、新吉か」

 新「えゝ一寸早く明けて、早く明けておくんなさい」

 勘「今明ける、戸がこわれるワ、篦棒べらぼうな、少し待ちな、えゝ仕様がねえ、さあ這入んな」

 新「跡をピッタリ締めて、南無阿弥陀仏〳〵」

 勘「なんだっておれを拝む」

 新「お前さんを拝むのではない、ハアうも驚きましたネ」

 勘「お前のように子供みたいにあどけなくっちゃア困るね、えゝ、オイ何故師匠が彼程あれほどの大病で居るのを一人置いて、ヒョコ〳〵看病人が外へ出て歩くよ、済まねえじゃアないか」

 新「済まねえがとてうちには居られねえ、お前さんは知らぬからだが其の様子を見せたいや」

 勘「様子だって、んな事があっても、おれが貧乏して居るのに、てめえは師匠のうちへ手伝いにってから、羽織でも着る様になって、新吉さん〳〵と云われるのはみんな豊志賀さんのお蔭だ、その恩義を忘れて、看病をするお前がヒョコ〳〵出歩いては師匠に気の毒で仕様がねえ、全体師匠の云う事はよく筋がわかっているよ、伯父さん誠に面目ないが、打明けてお話を致しまするが、新吉さんと去年からおかしなわけになって、なんだか私もう云う縁だか新吉さんが可愛いから、それで詰らん事に気を揉みまして、んなわずらいになりました、ついては段々弟子も無くなり、座敷も無くなって、ほんとにこんな貧乏になりましたもみんな私の心柄で、新吉さんもさぞこんな姿で悋気りんきらしい事を云われたらいやでございましょう、それで新吉さんが駈出してしまったのでございますから、私はもうプッヽリ新吉さんの事は思い切りまして、元の通り、尼になった心持で堅気の師匠をりさえすれば、お弟子もよりを戻して来てくれましょうから、新吉さんにはんな処へでも世帯しょたいを持たせて、自分のいた女房を持たせ、それには沢山のことも出来ませんが、病気がなおれば世帯を持つだけは手伝いをする積り、又新吉さんが煙草屋をして居ては足りなかろうから、月々二両や三両位はすけるから、何卒どうぞ伯父さん立会たちあいの上、話合はなしあいで、表向おもてむきプッヽリと縁を切る様にしたいから何卒どうか願います、と云うのだが、気の毒でならねえ、あの利かねえ身体で、四つ手校注に乗って広袖どてらを着て、きっとお前が此家こゝに居ると思って、奥に先刻さっきから師匠は来て待って居るから、行って逢いな、気の毒だあナ」

*「四つ手かごの略。戸はまれに引戸ものあれど多くは垂れなり。」

 新「冗談云っちゃアいけない、伯父さんからかっちゃアいけません」

 勘「からかいも何もしねえ、師匠、今新吉が来ましたよ」

 豐「おやマア大層遅く何処どこへ行っておいでだった」

 勘「新吉、此方こっちへ来なよ」

 新「ヘエ、逢っちゃアいけねえ」

 と怖々こわ〴〵奥の障子を明けると、寝衣ねまきの上へ広袖を羽織ったなり、片手を突いて坐って居て、

 豐「新吉さんおいでなすったの」

 新「エヽドうして来た」

 豐「何うして来たってね、私が眼をさまして見るとお前がいないから、是は新吉さんは愛想が尽きて、私が種々いろ〳〵な事を云って困らせるから、お前が逃げたのだと思って気が付くと、ホッと夢の覚めたようであゝ悪い事をしてさぞ新吉さんも困ったろう、いやだったろうと思って、それから伯父さんにね、打明けて話をして、私も今迄の心得違いは伯父さんに種々詫言わびことをしたが、お前とは年も違うし、お弟子はさがり、世間の評判になってお座敷もなくなり、仮令たとえ二人で中よくして居ても食方くいかたに困るから、お前はお前で年頃の女房を持てば、私は妹だと思って月々沢山たんとは出来ないが、元の様に二両や三両ずつはすける積り、伯父さんの前でフッヽリ縁を切るつもりで私が来たんだよ、利かない身体でやっと来たのでございます、何卒どうぞ私が今まで了簡違いをした事は、お前腹も立つだろうが堪忍して、元の通りあかの他人とも、又姉弟きょうだいとも思って、末長くねえ、私も別に血縁たよりがないから、塩梅の悪い時はお前と、お前のお内儀かみさんが出来たら、夫婦で看病でもしておくれ、死水しにみずだけは取って貰いたいと思って」

 勘「師匠、此の通り誠に子供同様で、私も誠に心配して居る、またお前さんに恩になった事は私が知って居る、おい新吉冗談じゃアねえ、お師匠さんに義理が悪いよ、本当におめえには困るナ」

 新「なアニ師匠お前が種々な事を云いさえしなければいゝけれども…お前先刻さっき何処どこかの二階へ来やアしないかえ」

 豐「何処へ」

 新「鮨屋の二階へ」

 豐「いゝえ」

 新「なんだ、そうすると矢張やっぱりあれは気のせえかしらん」

 勘「何をぐず〳〵云うのだ、おめえ附いて早く送って行きな、ね、師匠そこはお前さんの病気がなおってからの話合だ、今其の塩梅の悪い中で別れると云ったって仕様がねえ、私も見舞に行きたいが、一人の身体で、つまらねえ店でもうして張ってるから、店を明ける事も出来ねえから、病気の癒る間新吉を上げて置くから、ゆっくり養生して、全快の上でうとも話合をする事にね、師匠……ナニおめえ送って行きねえ、師匠、お前さん四つ手でおいでなすったが、あれじゃア乗りにくいと思って今あんぽつをそう言ったから、あんぽつでお帰りなさいよ、エ、なんだい」

*「町人の用うるかごの一種四つ手より上等にして戸は引戸」

 駕籠屋「此方こっちから這入りますか駕籠屋でげすが」

 勘「ア駕籠屋さんか、アノ裏へ廻って、二軒目だよ、其の材木が立掛けて有る処から漬物屋の裏へ這入って、右へ附いて井戸端を廻ってネ、少し…二けんばかり真直まっすぐに這入ると、おれうちの裏口へ出るから、エ、なに、知れるよ、あんぽつぐらいは這入るよ」

 駕「ヘエ」

 勘「じゃア師匠、私が送りたいが今云う通り明ける事が出来ないから、新吉が附いて帰るから、ね、師匠、新吉の届かねえ処は、年もいかねえから勘弁して、ね、私が附いてるからもう不実な事はさせません、今迄の事は私がびるから……冗談じゃアねえ……新吉、お送り申しな、オイ今あけるよ、裏口へ駕籠屋が来たから明けてりな、おい御苦労、さア師匠、広袖を羽織っていゝかえ」

 豐「ハイ伯父さんとんだ事をお耳に入れて誠に」

 勘「いからさアつかまって、いゝかえ、おい若衆わかいしゅお頼申すよ、病人だから静かに上げておくれ、いゝかえゆっくりと、此の引戸を立てるからね、いいかえ」

 と云うので引戸をめてしまうと、

 新「じゃア伯父さん提灯を一つ貸して下さいな、弓張でもぶらでもなんでもいから、え、蝋燭ろうそくが無けりゃア三ツばかりつないで、え、箸を入れてはいけませんよ、あぶればようございます」

 男「御免なさい」

 トン〳〵。

 勘「ヘエ、何方どなたでげす」

 男「新吉さんは此方こちらですか、新吉さんの声の様ですね、え、新吉さんかえ」

 勘「ヘエ何方でげすえ、ヘエ…ねえ新吉、誰かお前の名を云って逢いたいと云ってるから明けねえ」

 新「おやお出でなさい」

 男「おやお出でじゃアねえ、新吉さん困りますね、病人を置いて出て歩いては困りますね、本当に何様どんなに捜したか知れない、時にお気の毒様なこと、お前さんの留守に師匠はおめでたくなってしまったが、うもすじの悪い腫物できものだねえ」


二十


 新「何を詰らない事を、善六さんきまりを云ってらア」

 善「極りじゃアねえ」

 新「そんな冗談云って、いやに気味が悪いなア」

 善「冗談じゃアねえ、家内がお見舞に徃った処が、お師匠さんが寝てえると思って呼んで見ても答がねえので、驚いて知らせて来たから私もき彦六さんもみんな来て、うと云った処が何うしても仕ようがねえ、新吉さん、おめえが肝腎の当人だからようやく捜して来たんだが、あのくらいな大病人たいびょうにんを置いて出歩いちゃアいけませんぜ」

 新「ウー、ナン、伯父さん〳〵」

 勘「なんだよおめえ、御挨拶もしねえで、お茶でも上げな」

 新「お茶どころじゃアねえ、師匠が死んだって長屋の善六さんが知らせに来てくれたんだ」

 勘「何を馬鹿な事を云うのだ、師匠は来て居るじゃアねえか」

 新「あのね、御冗談仰しゃっちゃアいけません、師匠は先刻さっきから此方こっちへ来て居て、是から私が送って帰ろうとする処、なんの間違いでげしょう」

 善「冗談を云っちゃアいけません」

 彦「是はなんだぜ、善六さんの前だが、師匠が新吉さんの跡を慕って来たかも知れないよ、南無阿弥陀仏〳〵」

 新「そんな念仏などを云っちゃアいけないやねえ」

 善「じゃアね新吉さん、彦六さんの云う通りおめえの跡を慕って師匠が来たかも知れねえ」

 新「伯父さん〳〵」

 勘「うるさいな、ナニ稀代きたいだって、師匠は来てえるにちげえねえ、今連れて行くんじゃアねえか」

 と云いながらも、なんだかおかしいと思うから裏へ廻って、

 勘「若衆わかいしゅ少し待っておくんなさい」

 新「長屋の彦六さんがからかうのだから」

 勘「師匠〳〵」

 新「伯父さん〳〵」

 勘「えゝよく呼ぶな、なんだえ」

 新「若衆少し待っておくれ、師匠〳〵」

 と云いながら駕籠の引戸を明けて見ると、今乗ったばかりの豊志賀の姿が見えないので、新吉はゾッと肩から水を掛けられる様な心持で、ブル〳〵ふるえながら引戸をバタリと立てゝ台所へ這上はいあがりました。

 勘「んて真似をして居るのだ、ぐず〳〵してなんだ」

 新「伯父さん、駕籠の中に師匠は居ないよ」

 勘「エヽ居ねえか本当か」

 新「今明けて見たら居ねえ、南無阿弥陀仏〳〵」

 勘「いやだな、本当に涙をこぼして師匠がおれに頼んだが、おめえうちを出なければんな事にはならねえ、おめえが出て歩くから斯んな事に、オイ表に人が待って居るじゃアねいかれが出よう」

 と云うので店へ出て参りまして、

 勘「お長屋の衆、大きに御苦労様で、実は新吉は、私によんどころない用事があって、此方こちらへ参って居る留守中に師匠が亡なりまして、皆さん方が態々わざ〳〵知らして下すって有難うございます、生憎あいにく死目しにめに逢いませんで、貴方がたも誠におこまりでございましょう、実に新吉も残惜のこりおしく思います、いずれ只今私も新吉と同道で参りますから、ヘエ有難う、誠に御苦労様で」

 長屋の者「左様で、じゃアお早くおでなすって」

 勘「只今私が連れて参ります、誠に御苦労様、馬鹿」

 新「其様そんなに叱っちゃアいけません、怖い中で叱られてたまるものか」

 勘「おれだって怖いや、若衆大きに御苦労だったが、待賃まちちんは上げるがもう宜しいから帰っておくんなさい」

 駕籠屋「ヘエ、何方どなたかお乗りなすったが、駕籠は何処どこへ参ります」

 勘「駕籠はもう宜しいからお帰りよ」

 駕「でも何方かお女中が一人お召しなすったが」

 勘「エヽナニ乗ったと見せてそれで乗らぬのだ、種々いろ〳〵訳があるから帰っておくれ」

 駕「左様でげすか、ナ、オイ駕籠はもういと仰しゃるぜ」

 駕「いゝったって今明けてお這入んなすった様だった、女中がネ、うでないのですか、なんだかおかしいな、じゃアこうよ」

 と駕籠を上げに掛ると、

 駕「し〳〵、お女中が中に這入って居るに違いございません、駕籠が重うございますから」

 新「エヽ、南無阿弥陀仏〳〵」

 勘「オイ駕籠屋さん、戸を明けて見な」

 駕「左様そうでげすか、オヤ〳〵〳〵成程居ない、気のせえおもてえと思ったと見える、成程何方どなたも入らっしゃいません、左様さようなら」

 勘「これ新吉、表を締めなよ手前てめえのお蔭で本当に此の年になって初めてんな怖い目にった、うちは閉めてくから一緒にきな」

 新「伯父さん〳〵」

 勘「なんだよ、いやに続けて呼ぶな、跡の始末を附けなければならねえ」

 と云うので是からうちの戸締りをして弓張をけて隣へ頼んで置いて大門町から出かけてきます。新吉は小さくなってふるえながら仕方なしに提灯を持ってく、

 勘「さア新吉、あと退さがっては暗くって仕様がねえ、提灯持は先へ出なよ」

 新「伯父さん〳〵」

 勘「なぜ然う続けて呼ぶよ」

 新「伯父さん、師匠は全く私を怨んで来たのに違いございませんね」

 勘「怨んで出るとも、手前てめえ考えて見ろ、あれまでおめえが世話になって、表向おもてむき亭主ではねえが、大事にしてくれたから、どんな無理な事があっても看病しなければならねえ、それをお前が置いて出りゃア、口惜くやしいと思って死んだから、其の念が来たのだ、死んで念の来る事は昔から幾らも聞いている」

 新「伯父さん私は師匠が死んだとは思いません、先刻さっき逢ったら、矢張やっぱり平常ふだん着て居る小紋の寝衣ねまきを着て、涙をボロ〳〵こぼして、私が悪いのだから元の様に綺麗さっぱりとあかの他人になって交際つきあいます、又月々幾ら送りますから姉だと思ってくれと、師匠が膝へ手を突いて云ったぜ、ワア」

 勘「ア、なんだ〳〵、エヽきもを潰した」

 新「ナニ白犬が飛出しました」

 勘「アヽ胆を潰した、其の声は何だ、本当に魂消たまげるね、胸が痛くなる」

 とふるえながら新吉は伯父と同道で七軒町へ帰りまして、れからず早桶をあつら湯灌ゆかんをする事になって、蒲団を上げ様とすると、蒲団の間にはさんであったのは豊志賀の書置かきおきで、此の書置を見て新吉は身の毛もよだつ程驚きましたが、此の書置は事細かに書遺かきのこしました一通で是にはなんと書いてございますか、此の次に申し上げます。


二十一


 ちと模様違いの怪談話を筆記致しまする事になりまして、怪談話には取わけ小相こあいさんがよかろうと云うのでございますが、傍聴筆記でも、怪談のお話は早く致しますと大きに不都合でもあり、又怪談はネンバリ〳〵と、静かにお話をすると、かえって怖いものでございますが、話を早く致しますと、怖みを消すと云う事を仰しゃる方がございます。処がわたくしは至って不弁で、ネト〳〵話を致す所から、怪談話がよかろうと云う社中のお思い付でございます。只今では大抵の事は神経病と云ってしまって少しも怪しい事はござりません。あきらかな世の中でございますが、昔は幽霊が出るのはたゝりがあるからだうらみの一念三世さんぜに伝わると申す因縁話を度々たび〴〵承まわりました事がございます。豊志賀は実に執念深い女で、まえ申上げた通り皆川宗悦の惣領娘でございます。此処こゝ食客いそうろうに参っていて夫婦同様になって居た新吉と云うのは、深見新左衞門の二男、是もかたき同士の因縁で斯様かようなる事に相成ります。豊志賀は深く新吉を怨んで相果てましたから、其の書遺かきのこした一通を新吉が一人で開いて見ますると、病人のことで筆も思う様には廻りませんから、ふるえる手で漸々よう〳〵書きましたと見え、その文には『心得違いにも、弟か息子の様な年下の男と深い中になり、是まで親切を尽したが、其の男に実意が有ればの事、私が大病で看病人も無いものを振捨てゝ出る様なる不実意な新吉と知らずに、是まで亭主と思い真実を尽したのは、実に口惜しいから、仮令たとえ此の儘死ねばとて、この怨は新吉の身体にまつわって、此の女房を持てば七人まではきっと取殺すからう思え』と云う書置で、新吉は是を見てゾッとする程驚きましたが、斯様かような書置を他人に見せる事も出来ません、さればと申して、懐へ入れて居てもなんだか怖くって気味が悪いし、うする事も出来ませんから、湯灌の時にそっとごまかして棺桶の中へ入れて、小石川戸崎町とさきまち清松院せいしょういんと云う寺へ葬りました。伯父は、なんでも法事供養をよくなければいかないから、墓参りにけよ〳〵と云うけれども、新吉は墓所はかしょくのは怖いから、なるたけ昼間こうと思って、昼ばかり墓参りにきます。八月二十六日が丁度三七日みなのかで、其の日には都合が悪く墓参りが遅くなり、申刻なゝつさがりに墓参りをするものでないと其の頃申しましたが、其の日は空が少し曇って居るから、急ぎ足で参ったのは、只今の三時少し廻った時刻、寺の前でお花を買って、あの辺は井戸が深いから、ようやくの事で二つの手桶へ水を汲んで、両方の手にげ、お花を抱えて石坂をあがって、豊志賀の墓場へ来ると、たれか先に一人拝んで居る者がるからたれかと思ってヒョイと見ると、羽生屋の娘お久、

 久「おや〳〵新吉さん」

 新「おや〳〵お久さん、誠にうも、何うしてお出でなすった、びっくりしました」

 久「私はね、アノお師匠さんのお墓参りをして上げたいと心に掛けて、さえあれば七日〳〵には屹度きっと参ります」

 新「そうですか、それは御親切に有難う」

 久「お師匠さんは可哀相な事でして、其ののちお目に掛りませんが、貴方はさぞお力落しでございましょう」

 新「ヘエ、もううも落胆がっかりしました、是は大層結構なお花を有難う、何うも弱りましたよお久さん」

 久「アノお前さん此の間蓮見鮨の二階で、私を置放おきっぱなしにして帰ってお仕まいなすって」

 新「えゝナニ急に用が出来ましてそれから私があわてゝ帰ったので、つい御挨拶もしないで」

 久「なんだか私は恟りしましたよ、私をポンと突飛ばして二階からドン〳〵駈下かけおりて、私はまアうなすったかと思って居りましたら、それりでお帰りも無し、私は本当に鮨屋へが悪うございますから、急に御用が出来て帰ったと云いましたが、それから一人ですから、お鮨が出来て来たのをおりへ入れて提げて帰りました」

 新「それは誠にお気の毒様で、う見えたので……気のせいで見えたのだね……眼に付いて居て眼の前に見えたのだナあれは……んな綺麗な顔を」

 久「何を」

 新「エヽ何サうございます」

 久「新吉さんいゝ処でお目に掛りました、私はとうからお前さんにお話をしようと思って居りましたが、私の処のおっかさんは継母まゝはゝでございますから、お前さんと私と、なんでも訳があるように云って責折檻せめせっかんをします、何でも屹度きっと新吉さんと訳が有るだろう、なんにも訳がなくって、お師匠さんが彼様あんな悋気りんきらしい事を云って死ぬ気遣いは無い、屹度訳があるのだろうから云えと云うから、いゝえお母さんそんな事があっては済みませんから、決してう云う事はありませんと云うのも聴かずに、此の頃はぶち打擲ちょうちゃくするので、私は誠に辛いから、いっそ家を駈出して、淵川ふちかわへでも身を沈めて、死のうと思う事が度々たび〴〵ございますが、それもあんまり無分別だから、下総の伯父さんの処へ逃げて行きたいが、まさかに女一人で行かれもしませんからね」


二十二


 新「それじゃア下総へ一緒に行きましょうか」

 と又怖いのも忘れてく気になると、

 久「新吉さん本当に私を連れて行って下さるなら、私は何様どのようにも致します、屹度、お前さんすえ始終う云う心なら、彼方あっちへ行けば、伯父さんに頼んで、お前さん一人位うにでも致しますから、何卒どうぞ連れて行って」

 と若い同士とは云いながら、そんなら逃げよう、とすぐに墓場から駈落かけおちをして、其の晩は遅いから松戸まつどへ泊り、翌日宿屋を立って、あれから古賀崎こがざきどてへかゝり、流山から花輪村はなわむら鰭ヶひれがさきへ出て、鰭ヶ崎のわたしを越えて水街道みずかいどうへかゝり、少し遅くはなりましたが、もうじきに羽生村だと云う事だから、くことにしよう、しか彼方あちらすぐに御飯をたべるも極りが悪いから、此方こゝで夜食をしてこうと云うので、麹屋こうじやと云う家で夜食をして道を聞くと、これ〳〵で渡しを渡れば羽生村だ、土手に付いてくと近いと云うので親切に教えてくれたから、お久の手を引いて此処こゝを出ましたのが八月二十七日の晩で、鼻をつままれるのも知れませんと云う真の闇、ことに風が吹いて、顔へポツリと雨がかゝります。あの辺は筑波山つくばやまから雲が出ますので、是からダラ〳〵と河原へりまして、渡しを渡って横曾根村よこぞねむらへ着き、土手伝いに廻ってくと羽生村へ出ますが、其所そこは只今もって累ヶ淵と申します。う云う訳かと彼方あちらで聞きましたら、累が殺された所で、與右衞門よえもんが鎌で殺したのだと申しますが、それはうそだと云う事、全くは麁朶そだ沢山どっさり脊負しょわして置いて、累を突飛ばし、砂の中へ顔の滅込めりこむようにして、上から與右衞門が乗掛って、砂で息をめて殺したと云うが本説だと申す事、また祐天和尚ゆうてんおしょうが其の頃脩行中しゅぎょうちゅうの事でございますから、頼まれて、累が淵へむしろを敷いてかねを叩いて念仏供養を致した、其の功力くりきって累が成仏得脱とくだつしたと云う、累が死んでのち絶えず絹川のほとりには鉦の音が聞えたと云う事でございますが、これは祐天和尚がカン〳〵〳〵〳〵叩いて居たのでございましょう。それから土手伝いで参ると、左りへ下りるダラ〳〵下り口があって、此処こゝに用水があり、其の用水べりにボサッカと云うものがあります。是はう云う訳か、田舎ではボサッカと云って、か草か分りません物が生えてなんだかボサッカ〳〵致して居る。其所そこ入合いりあいになって居る。丁度土手伝いにダラ〳〵りに掛ると、雨はポツリ〳〵降って来て、少したつとハラ〳〵〳〵と烈しく降出しそうな気色けしきでございます。すると遠くでゴロ〳〵と云う雷鳴で、ピカリ〳〵と時々電光いなびかりが致します。

 久「新吉さん〳〵」

 新「えゝ」

 久「怖いじゃアないか、雷様が鳴ってね」

 新「ナニ先刻さっき聞いたには、土手を廻って下りさえすればすぐに羽生村だと云うから、早く行って伯父さんにく話をしてね」

 久「行きさえすれば大丈夫、伯父さんに話をするからいが、暗くって怖くってちっとも歩けやしません」

 新「サ此方こっちだよ」

 久「はい」

 と下りようとすると、土手の上からツル〳〵と滑って、お久が膝を突くと、

 久「ア痛タヽヽ」

 新「うした」

 久「新吉さん、今石の上か何かへ膝を突いて痛いから早く見ておくんなさいよ」

 新「どう〴〵、おゝ〳〵大層血が出る、うしたんだ、なんの上へ転んだ、石かえ」

 と手をると草苅鎌。田舎では、草苅に小さい子や何かゞまぐさを苅りに出て、帰りがけに草の中へしるしに鎌を突込つっこんで置いて帰り、翌日来て、其処そこから其の鎌を出して草を苅る事があるもので、大かた草苅が置いて行った鎌でございましょう。お久は其の上へ転んで、ズブリ膝の下へ鎌の先が這入ったから、おびたゞしく血が流れる。


二十三


 新「こりゃア、困ったものですね、今お待ち手拭で縛るから」

 久「うも痛くってたまらないこと」

 新「痛いたって真暗まっくらちっとも分らない、まアお待ち、此の手拭で縛って上げるから又一つう縛るから」

 久「あゝ大きに痛みも去った様でございますよ」

 新「我慢してお出でよ、私がおぶいが、包を脊負しょってるからおぶう事が出来ないが、私の肩へしっかつかまってお出でな」

 と、びっこ引きながら、

 久「あい有難う、新吉さん、私はまア本当に願いが届いて、お前さんと二人でって斯んな田舎へ逃げて来ましたが、是から世帯しょたいを持って夫婦中能なかよく暮せれば、是程嬉しい事はないけれども、お前さんは男振おとこぶりし、浮気者と云う事も知って居るから、ひょっとしてほかの女と浮気をして、お前さんが私に愛想が尽きて見捨てられたら其の時はうしようと思うと、今から苦労でなりませんわ」

 新「なんだね、見捨てるの見捨てないのと、昨夜ゆうべ初めて松戸へ泊ったばかりで、見捨てるも何も無いじゃアないか、おかしく疑るね」

 久「いゝえ貴方は見捨てるよ、見捨てるような人だもの」

 新「なんでそんな、お前の伯父さんを便たよって厄介になろうと云うのだから、決して見捨てる気遣きづかいはないわね、見捨てれば此方こっちが困るからね」

 久「旨く云って、見捨てるよ」

 新「何故そう思うんだね」

 久「何故だって、新吉さん私はんな顔になったよ」

 新「えゝ」

 と新吉が見ると、お久の綺麗な顔の、眼の下にポツリと一つの腫物しゅもつが出来たかと思うと、たちまち腫れ上ってまるで死んだ豊志賀の通りの顔になり、膝に手を突いて居る所が、鼻をつままれるも知れない真の闇に、顔ばかりあり〳〵と見えた時は、新吉は怖い三眛ざんまい、一生懸命無茶苦茶に鎌でちましたが、はずみとは云いながら、逃げに掛りましたお久の咽喉のどぶえへ掛りましたから、

 久「あっ」

 と前へのめる途端に、研澄とぎすました鎌で咽喉を斬られたことでございますから、お久は前へのめって、草を掴んで七転八倒の苦しみ、

 久「うゝン恨めしい」

 と云う一声ひとこえで息は絶えました。新吉は鎌を持ったなり

 新「南無阿弥陀仏〳〵〳〵」

 と一生懸命に口のうちで念仏を唱えまする途端に、ドウ〳〵と云う車軸を流すような大雨、ガラ〳〵〳〵〳〵〳〵と云う雷鳴しきりにとゞろき渡るから、知らぬ土地で人を殺し、ことに大雨に雷鳴かみなりゆえ、新吉は怖い一三眛いっさんまい、早く逃げようと包を脊負しょって、ひょっと人に見られてはならぬとふるえる足を踏締めながらあせります。すると雨で粘土ねばつちが滑るから、ズルリ滑って落ちると、ボサッカの脇の処へズデンドウと臀餅しりもちを搗きまする、とボサッカの中から頬冠ほゝかぶりをした奴がニョコリと立った。此の時は新吉が驚きましたの驚きませんのではない。

 新「ア」

 と息が止るようで、あと退さがってむこう見透みすかすと、向の奴も怖かったと見えて此方こっちのぞく、たがいに見合いましたが、何様なにさま真の闇で、互ににらみあった処が何方どっちも顔を見る事が出来ません。新吉は電光いなびかりの時に顔を見られないようにすると、其の野郎もらいが嫌いだと見えてく見る事も致しません。電光の後でくらくなると、

 男「この泥坊」

 と云うので新吉の襟を掴みましたが、是は土手下の甚藏じんぞうと云う悪漢わるもの、只今小博奕こばくちをして居る処へ突然いきなり手が這入り、其処そこくゞり抜けたが、烈しく追手おってが掛りますから、用水の中を潜り抜けてボサッカの中へ小さくなって居る処へ、新吉が落ちたから、驚いてニョコリと此の野郎が立ったから、新吉は又怪物ばけものが出たかと思って驚きましたが、新吉は襟がみを取られた時は、もう天命きわまったとは思ったが、死物狂いで無茶苦茶に掻毟かきむしるから、此の土手の甚藏が手を放すと、新吉は逃げに掛る途端、腹這に倒れました。すると甚藏は是を追駈おっかけようとして新吉につまづきむこうの方へコロ〳〵と転がって、甚藏はボサッカの用水の中へ転がり落ちたから、此の間に逃げようとする。又うしろから、

 甚「此の野郎」

 と足を取ってすくわれたから仰向に倒れる処へ、甚藏が乗掛って掴まえようとする処を、新吉が足を挙げて股をけったのが睾丸きんたまに当ったから、

 甚「ア痛タ」

 と倒れる処を新吉が掴み付こうと思ったが、イヤ〳〵荷物を脇へ落したからと荷物を探す途端に、甚藏のつらむしり付いたから、

 甚「此の野郎」

 と組付いた処を其の手を取って逆にねじると、ズル〳〵ズデンと滑って転げると云う騒ぎで、二人とも泥ぼっけになると、三町ばかり先へ落雷でガラ〳〵〳〵〳〵〳〵ビューと火の棒の様なる物がさがると、丁度浄禅寺じょうぜんじヶ淵辺りへピシーリと落雷、其のひゞきに驚いて、土手の甚藏は、なり大兵だいひょうで度胸もい男だが、虫が嫌うと見え、落雷に驚いてボサッカの中へ倒れました。すると新吉は雷よりも甚藏が怖いから、此のに包を抱えて土手へ這上はいあがり、無茶苦茶に何処どこう逃げたか覚え無しに、畑の中やどてを越して無法に逃げてく、と一軒茅葺かやぶきの家の中で焚物たきものをすると見え、戸外おもて火光あかりすから、何卒どうぞ助けて呉れと叩き起しましたが、其のうちは土手の甚藏のうち、間抜な奴で、新吉再び土手の甚藏に取って押えられると云う。是から追々おい〳〵怪談になりますが、一寸一息つきまして。


二十四


 一席引続きましておきゝに入れますは、累が淵のお話でございます。新吉は土手の甚藏に引留められ、既にあやうい処へ、浄禅寺ヶ淵へ落雷した音に驚き、甚藏が手を放したのを幸い、其の紛れに逃延びましたが、何分なにぶんにも初めて参った田舎道、勝手を心得ませんから、たゞ畑の中でも田の中でも、無茶苦茶に泥だらけになって逃げ出しまして、土手伝いでなだれをり、鼻をつままれるも知れません二十七日の晩でございますが、すかして見ると一軒茅葺屋根のむねが見えましたから、是はい塩梅だ、此処こゝに人家があったと云うので、駈下りて覗くと、チラ〳〵焚火たきびあかりが見えます。

 新「ヘエ、御免なさい〳〵、少し御免なさい、お願いでございます」

 男「誰だか」

 新「ヘイ、わたくしは江戸の者でございますが、御当地へ参りまして、此の大雨に雷鳴かみなりで、誠に道も分りませんで難儀を致しますが、少しの間お置きなすって下さる訳には参りますまいか、雨の晴れます間でげすがナ」

 男「ハア大雨に雷鳴で困るてえ、それだら明けて這入りなせい、あける戸だに」

 新「ヘエ左様でげすか、御免なさい、あわてゝ居りますから戸がいて居りますのも夢中でね、ヘイうも初めて参りましたが、とまりで聞き〳〵参りました者で、勝手を知りませんから難儀致しまして、もう川へ落ちたり田の中へ落ちましたりして、漸々よう〳〵の事で此方こちらまで参りましたが、何うか一晩お泊めなすって下されますれば有難い事で」

 男「泊めるたって泊めねえたっておれうちじゃアねえ、己も通り掛って雷鳴が嫌いで、大雨は降るし、仕様がえが、此処こゝいえへ駈込んで、あるじは留守だが雨止あまやみをする間、火の気がえからちっとばかり麁朶そだ突燻つっくべもやして居るだが、己がうちでなえから泊める訳にはいきませんが、今あるじけえるかも知んねえ、困るなれば、此処こゝへ来て、囲炉裡いろりはたで濡れた着物をあぶって、煙草でも呑んでゆっくり休みなさえ」

 新「ヘエ貴方のうちでないので」

 男「わしが家ではえが、同村どうそんの者だが雨で仕様がねえから来ただ」

 新「左様で、此方こちらの御主人様は御用でも有ってお出掛になったので」

 男「なアにあるじは十日も廿日はつかも帰らぬ事もある、まア上りなさえ」

 新「有難うございますが泥だらけになりまして」

 男「泥だらけだって己も泥足で駈込んだ、此方こっちへ上りなさえ、江戸の者が在郷へ来ては泊る処に困る、宿を取るには水街道へ行がねえばえからよ」

 新「はい水街道の方から参ったので、有難うございます、実に驚きました、ひどい雨で、此様こんなに降ろうとは思いませんでした、実に雨は一番困りますな」

 男「今雨が降らんではさくの為によくえから、わしの方じゃアふるちっとはよいちゃア」

 新「成程そうでしょうねえ、雷鳴かみなりには実に驚きまして、此地こっち筑波つくばぢかいので雷鳴はひどうございますね」

 男「雷も鳴る時に鳴らぬと作の為によくえから鳴るもえゝだよ」

 新「ヘエー、うでげすか、此方こちらの旦那様は何時頃いつごろ帰りましょうか」

 男「何時いつけえるか知れぬが、まア、何時帰ると私等わしらに断って出た訳でえから受合えねえが、明けると大概なゝ八日ようかぐれえ帰らぬ男で」

 新「ヘエ、困りますな、う云う御商売で」

 男「何うだって遊人あそびにんだ、彼方あっち此方こっち二晩三晩と何処どこから何処へ行くか知れねえ男で、やくざ野郎サ」

 新「左様で、道楽なお方でございますので」

 男「道楽だって村じゃアまむしと云う男だけれども、又用に立つ男さ」

 と悪口わるくちをきいて居る処へ、ガラリと戸を明けて帰って来たが、ずぶぬれで、

 甚「あゝひどかった」

 男「けえったか」

 甚「ムヽ今けえった、誰だせいさんか、今帰ったが、まつで詰らねえ小博奕こばくちへ手を出して打って居ると、突然だしぬけに手が這入へえって、一生懸命に逃げたが、仕様がねえから用水の中へ這入って、ボサッカの中へ隠れて居た」

 清「おれは今通りがゝって雨にって逃げる処がねえのに、雷様らいさまが鳴って来たから魂消たまげておめえらがうちへ駈込んで、今囲炉裡へ麁朶ア一燻ひとくべしたゞ」

 甚「いゝやうせあけぱなしのうちだアから、是は何処どこの者だ、なんだいおめえは」

 清「主人あるじで、挨拶さっせえ、是は江戸の者だが雨が降って雷鳴かみなりに驚き泊めてくれと云うが、おれうちでねえからと話して居る処だ、是が主人だ」

 新「左様で、初めまして、わたくしは江戸の者で、小商こあきないを致します新吉と申す不調法者、此地こちらへ参りましたが、雷鳴かみなりが嫌いで此方様こちらさまへ駈込んだ処が、お留守様でございますからとめる訳にはいかぬと仰しゃって、お話をして居る処で、よくお帰りで、何卒どうぞ今晩一晩お泊め下されば有難い事で、追々夜が更けますから、何卒一晩何様どんな処でも寝かして下されば宜しいので」

 甚「わけもんだ、いゝや、まア泊って行きねえ、うせ着て寝る物はねえ、留守勝るすがちだから食物くいものもねえ、鍋は脇へ預けてしまったしするから、コロリと寝て明日あした行きねえ、己と一緒に寝ねえ」

 新「ヘエ、有難う存じます」

 清「おらけえるよ」

 甚「まア〳〵いやな」

 清「己ア帰るべい、何か、手が這入へえったか」

 甚「困ったからボサッカの中へ隠れて居たので、おめえけえるならうっかりっちゃアいけねえ、今夜ボサッカの脇に人殺しが有った」

 清「何処どこに」

 甚「己がボサッカの中に隠れて居ると、暗くって分らぬが、きゃアと云う声がノウ女の殺される声だねえ、まア本当に殺される声は今迄知らねえが、劇場しばいで女が切殺される時、きゃアとかあれイとか云うが、そんな事を云ったっておめえには分らねえが、すごいものだ、己も怖かった」

 清「おっかねえ、女をまア、なんてエ、人を殺すったって村方むらかたの土手じゃアねえか、ウーン怖かなかんべえ、ウーンうした」

 甚「何うしたって凄いやア、うっかり通って怪我けがでもするといけねえから、其の野郎は刀や何かで殺す程の者でもねえ奴で、鎌で殺しゃアがったのよ、女の死骸は川へほうり込んだ様子、忌々いめえましい畜生ちきしょうだ、此の村へも盗人ぬすっと這入へえりやアがるだろうと思うから、其の野郎の襟首えりくびを取って引摺ひきずり倒した、すると雷が落ちて、己はどんな事にも驚きゃアしねえが雷には驚く、きゃアと云って田のくろへ転げると、其のはずみに逃げられたが、忌々しい事をした」


二十五


 清「おっかねえナ、うか怖かなくて通れねえ」

 甚「気を付けて行きねえ」

 清「まだ居るかなア」

 甚「もう居やアしめえ、大丈夫でえじょうぶだ、美人いゝおんななら殺すだろうが、おめえのような爺さんを殺す気遣いはねえ」

 清「じゃアおれけえる、エヽ、じゃア又ちっとべえ畑の物が出来たらくれべえ」

 甚「何か持って来て呉れても煮て食うがねえから、左様なら、ピッタリ締めて行ってくれ、若者わけえのもっと此方こっちねえ」

 新「ヘエ」

 甚「おめえ江戸から来るにゃア水街道から来たか、船でか」

 新「ヘエわたしを越して、弘教寺くぎょうじと云うお寺の脇から土手へ掛って参りました」

 甚「此方こっちへ来る土手でく人殺しに出会でっくわさなかったな」

 新「わたくしは運よく出会しませんでした」

 甚「まアう、見ねえ、是はノ、其の女を殺した奴がほうり出した鎌を拾って来たが、見ねえ」

 と鎌のに巻付けてあった手拭をぐる〳〵と取って、

 甚「此の鎌で殺しゃアがった、ひどい雨で段々のりは無くなったが、見ねえ、が滅多におちねえ物とみえて染込しみこんで居らア、磨澄とぎすました鎌で殺しゃアがった、是でりゃアがった」

 新「ヘエー誠にうもおっかない事でげすナ」

 甚「ナニ」

 新「ヘエこわい事ですねえ」

 甚「怖いたって、此の鎌で是れで遣りゃアがった」

 新「ヘエ」

 と鎌と甚藏を見ると、先刻さっき襟首を取って引摺り倒した奴は此奴こいつだな、と思うと、身体がふるえて顔色がんしょくが違うから、甚藏は物をも言わず新吉の顔を見詰めて居りましたが、鎌をだしぬけに前へほうり付けたから、新吉はびっくりした。

 甚「おい〳〵あんま薄気味うすっきみがよくねえ、今夜は泊って行きねえ」

 新「ヘイ大きに雨が小降こぶりになりました様子で、是でわたくしはおいとまを致そうと存じます」

 甚「是から行ったって泊めるとこもねえ小村こむらだから、水街道へ行かなけりゃア泊る旅籠屋はたごやはねえ、まアいやナ、江戸子えどっこなれば懐かしいや、己も本郷菊坂生れで、無懶やくざでぐずッかして居るが、小博奕が出来るから此処こゝに居るのだが、おめえ子柄こがらはよし、今の若気わかぎでこんな片田舎へ来て、儲かるどころか苦労するな、ちっとは訳があって来たろうが、お前が此処で小商こあきないでも仕ようと云うならおらうちて居に貰いてえ、江戸子てエ者は、田舎へ来て江戸子にうと、親類にでも逢った心持がして懐かしいから、江戸と云うと、肩書ばかりで、身寄でも親類でもねえが其処そこ情合じょうあいだ、己は遊んで歩くから、家はまるで留守じゃアあるし、お前此処に居て留守居をして荒物や駄菓子でもならべて居りゃア、此処は花売や野菜物せんざいものを売る者が来て休む処で、なんでもポカ〳〵はけるが、おいお前留守居をしながら商売あきねえして居てくれゝば己も安心して家をお前に預けてあけるが、何も盗まれる物はねえが、一軒のあるじだから、おいお前此処でそうして留守居をしてくれゝば、己がけえって来ても火は有るし、茶は沸いて居るし、帰って来ても心持がいゝ、己ア土手の甚藏と云う者だが、村の者に憎まれて居るのよ、それがノ口をきくのが江戸子同士でなけりゃアうしても話が合わねえ、己は兄弟も身寄もねえし、江戸を喰詰めて帰れる訳でもねえから、己と兄弟分になってくんねえ」

 新「有難う存じますな、わたくしも身寄兄弟も無い者で、少し訳があって参りました者でございますが、少し頼る処が有って参りました者で、此方こちらへ参ってから、だしぬけになくなりましたので」

 甚「死んだのかえ」

 新「ヘエ其処そこが、ヘエなんで、変になりましたので、ヘエ、何処どこへも参る処は無いのでございますから、お宅を貸して下すって商いでもさして下されば有難い事で、わたくしは新吉と申す者で、何分なにぶん親分御贔屓ごひいきにお引立を願います」

 甚「話は早いがいゝが、其処そこ江戸子えどこだからのう、兄弟分の固めを仕なければならねえが、おいおめえ田舎は堅えから、己の弟分だと云えば、何様どんな間違まちげえが有ったってもお前他人にけじめを食う気遣きづけえねえ、己の事を云やア他人ひとが嫌がって居るくれえだからナ、其方そっち強身つよみよ、さア兄弟分きょうでいぶんの固めをして、おたげえにのう」

 新「ヘイ有難うございます、何分どうか、其の替り身体で働きます事はいといませんから、どんな事でも仰しゃり付けて下さればお役には立ちませんでも骨を折ります」

 甚「おめえ幾才いくつだ」

 新「ヘエ二十二でございます」

 甚「色のしれ好男いゝおとこだね、女が惚れるたちだね、酒がえから兄弟分きょうでえぶんの固めには、先刻さっき一燻ひとくべしたばかりだから、微温ぬるまになって居るが、此の番茶を替りに、己が先へ飲むから是を半分飲みな」

 新「ヘエー有難うございます、ちょう咽喉のども乾いて居りますから、エヽ有難うございます、誠にわたくしも力を得ました」

 甚「おい兄弟分きょうでえぶんだよ、いゝかえ」

 新「ヘエ」

 甚「兄弟分に成ったから兄に物を隠しちゃアいけねえぜ」

 新「ヘエ〳〵」

 甚「おたげえに悪い事もい事も打明けて話し合うのが兄弟分だ、いゝか」

 新「ヘエ〳〵」

 甚「今夜土手で女を殺したのはおめえだのう」

 新「イヽエ」

 甚「とぼけやアがるなエ此畜生こんちきしょう、云いねえ、云えよ」

 新「な、何を被仰おっしゃるので」

 甚「とぼけやアがって此畜生め、先刻さっき鎌を出したら手前てめえ面付つらつきは変ったぜ、殺したら殺したと云えよ」

 新「うもトヽ飛んでもない事を仰しゃる、わたくしは何うもそんな、ほかの事と違い人を殺すなぞと、かりにも私は、どうも此方様こちらさまにはられません、ヘエ」

 甚「居られなければ出て行け、さア居られなければ出て行きや、無理に置こうとは云わねえ、兄弟分きょうだいぶんになればい悪いをあかしあうのが兄弟分だ、兄分あにぶんの己の口から縛らせる気遣きづけえねえ、殺したから殺したと云えと云うに」

 新「何うもそれは困りますね、なにもそんな事を、何うも是は、何うも外の事と違いますからねエ、何うもヘエ、人を殺すなぞと、そんなわたくしども、ヘエ何うも」

 甚「此畜生分らねえ才槌さいづちだな、間抜め、殺したに相違ねえ、そんな奴を置くと村の難儀になるから、手前てめえを追出す代りに、己の口から訴人して、踏縛ふんじばって代官所へでも役所へでも引くからう思え」


二十六


 新「何うもわたくしはもうおいとま致します」

 甚「行きねえ、己が踏縛ふんじばるからいゝか」

 新「そんな、何うも、無理を仰しゃって、わたくしんで、何うも」

 甚「分らねえ畜生だナ、手前てめえ殺したと打明けて云えよ、手前の悪事を、己は兄分あにぶんだから云う気遣きづけえはねえ、おたげえに、悪事を云ってくれるなと隠し合うのが兄弟分きょうだいぶんのよしみだから、是っぱかりも云わねえから云えよ、云わなければ代官所へ引張ひっぱって行くぞ、さア云え」

 新「ヘエ、何うも、ち…ちっとばかり、こ…殺しました」

 甚「些とばかり殺す奴があるものかえ、女を殺して手前てめえ金を幾ら取った」

 新「幾らにも何も取りは致しません」

 甚「分らねえ事を云うな、金を取らねえでんで殺した、金があるから殺して取ったろう、ふところに有ったろう」

 新「金も何も無いので」

 甚「有ると思ったのがえのか」

 新「ナニうじゃアございません、あれはわたくしの女房でございます」

 甚「分らねえ事を云う、ナニ此畜生こんちきしょう女房かゝあんで殺した、ほかに浮気な事でもして邪魔になるから殺したのか」

 新「ナニうじゃア無いので」

 甚「う云う訳だ」

 新「困りますナ、じゃアわたくしが打明けてお話致しますが、貴方決して口外して下さるな」

 甚「なに、口外しねえから云えよ」

 新「本当でげすか」

 甚「ないよ」

 新「じゃア申しますが実はわたくしはその、殺す気も何もなく彼処あすこへ参りますと、あれがその、おばけでな」

 甚「何がお化だ」

 新「わたくしの身体へ附纒つきまとうので」

 甚「薄気味の悪い事を云うな、何が附纒うのだ」

 新「詳しい事を申しますが、わたくしは根津七軒町の富本豊志賀と申す師匠の処へ食客いそうろうに居りますと、豊志賀が年は三十を越した女でげすが、堅い師匠で、評判もよかったが、私が食客になりまして、豊志賀が私の様な者に一寸ちょっと岡惚おかぼれをしたのでな」

 甚「いやな畜生だ惚気のろけを聞くんじゃアねえ、女を殺した訳を云えよ」

 新「それからわたくしも心得違いをして、表向おもてむきは師匠と食客ですが、内所ないしょは夫婦同様で只ぶら〳〵と一緒に居りました、そうすると此処こゝへ稽古に参ります根津の総門内の羽生屋と申す小間物屋の娘がその、私になんだか惚れた様に師匠に見えますので」

 甚「うん、それから」

 新「それを師匠が嫉妬やきもちをやきまして、何も怪しい事も無いのにワク〳〵して、眼のふちへポツリと腫物できものが出来まして、それがれまして、こんな顔になり其の顔で私の胸倉を取って悋気りんきをしますからられませんので、私が豊志賀のうちを駈出した跡で師匠が狂いじにに死にましたので、死ぬ時の書置かきおきに、新吉と夫婦になる女は七人まで取殺すと云う書置がありましたので」

 甚「ふうん執念深しゅうねんぶけえ女だな、成程ふうん」

 新「それで、師匠がなくなりましたから、お久と云う土手で殺した娘が、連れて逃げてくれと云い、伯父が羽生村に居るから伯父を尋ねて世帯しょたいを持とうと云うので、それなら田舎へ行って、ともに夫婦になろうと云う約束で出て参ったので」

 甚「出て来てそれから」

 新「先刻さっき彼処あすこへ掛ると雨は降出します、土手を下りるにも、鼻をつままれるも知れません真の闇で、すると、お久の眼の下へポツリと腫物できものみたような物が出来たかと思うと、見て居るうちに急に腫れ上りましてねえ、ヘエ、貴方死んだ師匠の通りの顔になりまして、膝に手を付きましてわたくしの顔をじいッと見詰めて居ました時は私はっと致しましたので、ヘエ怖い一生懸命に私がう鎌で殺す気もなんにもなく殺してしまって見ると、其様そんな顔でもなんでもないので、私がしょっちゅう師匠の事ばかり夢に見るくらいでございますから、顔が眼に付いて居るので、殺す気もなくお久と云う娘を殺しましたが、綺麗な顔の娘がう云うように見えたので、見えたから師匠が化けたと思って、鎌でやったので、ヘエ、やっぱり死んだ豊志賀がたゝって居りますので、七人まで取殺すと云うのだから私の手をもって殺さしたと思うと、実に身の毛がよだちまして、怖かったのなんのと、其の時お前さんが来て泥坊、と襟首を掴んだから一生懸命に身を振払って逃げ、まアいと思うと、一軒家いっけんやが有ったから来たら、やっぱり貴方のうちへ来たから、泡をくったのでねえ」

 甚「ふうんそれじゃア其の師匠は手前てめえに惚れて、狂死くるいじにに死んで、ほかの女を女房にすれば取殺すと云う書置の通り祟って居るのだな」

 新「祟って居るったってわたくしの身体は幽霊が離れないのでヘエ」

 甚「気味きびの悪い奴が飛込んで来たな、薄気味うすきびの悪い、鎌を手前てめえが持って居るからわりいのだ」

 新「鎌も其処そこに落ちて有ったので、其処へお久が転んだので、膝の処へ少しきずが付き、介抱して居るうちう見えたので、それで無茶苦茶にやったので、拾った鎌です」

 甚「そうか、此の鎌は村の者の鎌だ、そんならそれでいや、宜いが、おい幾ら金を取ったよう」

 新「金は取りは致しません」

 甚「女を連れて逃げる時、おめえの云うにア小間物屋の娘だお嬢さんだと云うのだ、連れて逃げるにゃア、路銀ろぎんがなければいかねえから幾らか持出せと智慧を付けて盗ましたろう」

 新「金も何も、わたくし卵塔場らんとうばから逃げたので」

 甚「気味きびの悪い事ばかり云やアがって、んで」

 新「わたくしは師匠の墓詣はかまいりに参りますと、お久も墓詣りに参って居りまして、墓場でおやお久さんおや新吉さんかと云う訳で」

 甚「そんな事はうでもいゝやア」

 新「それから逃げてわたくしは一しゅと二百五十六文、女は三朱と四十八文ばかり有ったので、其のほかにはお花と線香を持って居るばかり、それから松戸で一晩泊りましたから、ちっとばかり残って居ります」

 甚「一文なしか」

 新「ヘエー」


二十七


 甚「詰らねえ奴が飛込みやアがったな、仕方がねえ、じゃアまア居ろ」

 新「ヘエうぞ置いておくんなすって、其の事は何うか仰しゃってはいけませんから」

 甚「厄介な奴だ、畜生ちきしょうめ、ぜにが無くて幽霊を脊負しょって来やアがって仕様がねえ、其処そこへ寝ろ」

 と仕方が無いから其のは寝ましたが、翌朝よくあさから土鍋で飯はきまして、おかずそとから買って来まして喰いますような事で、此処こゝおります。甚藏はぶら〳〵遊び歩きます。すると、此処から村までは彼是かれこれ四五丁程もある土手下で、花や野菜物せんざいものかついで来たり、肥桶こいおけなぞをおろして百姓衆の休所やすみどこで、

 農夫「太左衞門たざえもん何処どこへ行くだ」

 太「今帰りよ」

 農「そうか」

 太「此間こねえだ勘右衞門かんえもんとけへ頼んで置いた、ちっとベエ午房種ごぼうだねを貰うベエと思ってノウ」

 農「うか、なんとハア此の村でも段々人気にんきが悪くなって、人の心も変ったが、徳野郎あれはあのくれえふてえ奴はねえノ」

 太「あの野郎なんでも口の先で他人ひとだまして銭をかりる事は上手だが、けえ声では云えねえが、此処こゝな甚藏は蝮野郎まむしやろうでよくねえおっかねえ野郎でのう」

 太「今日は大分だいぶア様が通るが何処どこへ行くだ」

 農夫「三藏どんのとこで法事があるで、此間こねえだ此処こゝに女が殺されて川へほうり込まれて有って、引揚げて見たら、まもりの中に名前書なめえがき這入へえって居たので、段々調べたら三藏どんがうちめいに当る女子おんなこで、母様かゝさま継母まゝはゝで、いじめられて居られなくって尋ねて来ただが、ちっとは小遣こづかいも持って居ただが、泥坊が附いて来て突落つきおとして逃げたと云う訳で、三藏どんは親切な人で、引揚げて届ける所へ届けて、ようやく事済んで、葬りも済んで、今日は七日なぬかでお寺様へ婆ア様達をほじって御馳走するてえので、久し振で米の飯が食えると云って悦んできやしッけ、法蔵寺ほうぞうじ様へ葬りに成っただ」

 太「うか、それで婆ア様ア悦んで行くのだ、久しく尋ねねえだが秋口は用が多えで此の間買った馬は二両五粒だが、たけえ馬だ、見毛みけいが、うも膝頭ひざっこ突く馬で下り坂は危ねえの、くしゃみばかりしてベエたれ通しで肉おっぴり出す程だによ、婆ア様に宜しく云って下せえ、左様だら」

 新吉は内で此の話を聞いて居りましたが、お久を葬むったと云うから参詣さんけいしなければ悪いと思い、

 新「もし〳〵」

 農「あゝ魂消たまげた、何処どこから出ただ」

 新「わたし此処こゝるので」

 農「たれも居ねえと思ったがなんだか」

 新「只今お聞き申しましたが土手の脇で殺されました女の死骸は、なんと云うお寺へ葬りになりました、三藏さんてえお方が追福ついふくなさると聞きましたが、何と云うお寺へ葬りましたか」

 農「法蔵寺様てえ寺で、かさねの葬ってある寺と聞けばじきに知れます」

 新「ヘエー成程」

 農「なんだね、なに其様そんな事を聞くのか」

 新「私は無尽むじんのまじないに、なにそう云う仏様に線香を上げると無尽が当ると云うので、ヘエ有難う存じます」

 と、是から段々尋ねて、花と線香を持って墓場へ参りました。寺で聞けば宜しいに、おのれが殺した女の墓所はかしょ、事によったら、とがめられはしないか、と脚疵すねきずで、手桶をげて墓場でまご〳〵して居る。

 新「これだろう、これに違いない、是だ〳〵、花をして置きさえすれば宜しい、何処どこへ葬ってもおんなじだが、因縁とかなんとか云うので、お久の伯父さんを便たよって二人で逃げて来て、師匠の祟りで殺したくもねえ可愛い女房を殺したのだが、お久は此処こゝへ葬りになり、おれは、逃げれば甚藏が訴人するから、やっぱり羽生村に足を止めて墓詣はかまいりに来られる。是もやっぱり因縁の深いのだ。南無阿弥陀仏〳〵、エヽと法月童女ほうげつどうにょと、なんだ是は子供の戒名だ」

 と、しきりにまご〳〵して居る処へ、這入って来ました娘は、二十才はたちを一つも越したかと云う年頃、まだ元服前の大島田、色の白い鼻筋の通った二重瞼ふたえまぶちの、大柄ではございますが人柄のい、衣装なり常着ふだんぎだからくはございませんが、なれども村方でも大尽だいじんの娘と思うこしらえ、一人付添って来たのは肩の張ったおしりの大きな下婢おんなふとっちょうで赤ら顔、手織ており単衣ひとえ紫中形むらさきちゅうがた腹合はらあわせの帯、手桶を提げてヒョコ〳〵って来て、

 下女「お嬢様此方こちらへお出でなさえまし、此処こゝだよ、貴方あんたヨ待ちなさえヨ、わしく洗うだからねえ、本当に可哀想だって、おらア旦那様泣いた事はないけれども、お久様が尋ねて来て、顔も見ねえでおッんでしまって憫然ふびんだって泣いただ、本当に可哀想に、南無阿弥陀仏〳〵〳〵」

 新「これだ、えゝ少々物が承りとうございます」

 下女「なんだかい」

 新「ヘエ」

 下女「何だかい」

 新「真中まんなかですとえ」

 下女「イヽヤなんだか聞くのは何だかというのよ」

 新「ヘエと成程、このなんですかお墓はたしか川端で殺されて此の間お検死が済んで葬りになりました娘子様むすめごさん御墓所ごぼしょでございますか」

 下女「御墓所てえなんだか」

 新「このお墓は」

 下女「ヘエ此の間川端で殺されたお久さんと云うのを葬った墓場で」

 新「ヘエ左様で、私にお花を上げさして拝まして下さいませんか」

 下女「お前様まえさま知って居る人か」

 新「イヽエ無尽の呪咀まじないしきみの葉を三枚盗むと当るので」

 下女「そう云う鬮引くじびきが当るのか、沢山花ア上げて下さえ」

 新「ヘエ〳〵有難う、戒名は分りませんが、あとでお寺様で承りましょう、大きに有難う」

 と、ヒョイとあとさがりそうにすると、娘が側に立って居りまして、ジロリと横目で見ると、新吉は二十二でも小造こづくりのたちで、色白の可愛気のある何処どことなくい男、悪縁とは云いながら、此の娘も、うしてこんな片田舎にこんな好い男が来たろうと思うと、恥かしくなりましたから、顔を横にしながら横眼で見る。新吉もい女だと思って立止って見て居りました。


二十八


 新「もしお嬢さん、このお墓へお葬りになりました仏様の貴方はお身内でございますかえ」

 娘「はいわたくしの身寄でございます」

 新「ヘエ道理でよく似ていらっしゃると思いました、イエ何、あのよく似たこともあるもので、江戸にも此様こんな事が有りましたから」

 下女「あんた、何処どこに居るお方だい」

 新「私はあの近処きんじょの者でげす、ヘエ土手の少し変なとこ一寸ちょっと這入って居ります」

 下女「土手の変なとこてえ蒲鉾小屋かまぼこごやかえ」

 新「乞食ではございません、其処そこに懇意な者が有って厄介になって居るので」

 下女「そうかネ、それだらちっと遊びにお出でなさえ、き此の先の三藏と云うと知れますよ、質屋の三藏てえば直き知れやす」

 娘はしきりに新吉の顔を横眼で見惚みとれて居ると、う云う事でございますか、お久の墓場の樒の揷して有る間から一匹出ました蛇の、長さ三尺さんじゃくばかりもあるくちなわが、鎌首を立てゝズーッと娘の足元まで這って来た時は、田舎に馴れません娘で、

 娘「あッ」

 と飛び退いて新吉の手へすがりつくと、新吉もびっくりしたが、蛇はまた元の様に、墓の周囲まわりを廻って草の茂りし間へ這入りました。娘は怖いと思いましたから、思わず知らず飛退とびのはずみで、新吉の手へすがりましたが、蛇が居なくなりましたから手を放せばよいのだが、其の手が何時迄いつまでも放れません。思い内に有れば色外にあらわれて、ジロリ、とたがいに横眼で見合いながら、ニヤリと笑うじょうと云うものは、なんとも申されません。女中は何も知りませんから、

 下女「お前さん、在郷の人には珍らしい人だ、ちっとまた遊びに来て、何処どこに居るだえ、エヽ甚藏がとこに、の野郎評判のわりい奴で、彼処あすこに、そうかえ些と遊びにお出でなさえ、嬢様お屋敷奉公に江戸へ行ってゝ、此の頃けえっても友達がねえで、はなししても言葉が分んねえてエ、食物くいものが違って淋しくってなんねえテ、長く屋敷奉公したから種々いろ〳〵な芸事がある、三味さみイおっぴいたり、それに本や錦絵があるから見にお出でなさえ、此の間見たが、本の間に役者の人相書の絵が有るからね…雨が降って来た」

 新「其処そこまで御一緒に」

 娘「うせお帰り遊ばすなればわたくしの屋敷の横をお通りになりますから御一緒に、あの傘を一本お寺様で借りてお出でよ」

 下女「ハイ」

 と下女がお寺で番傘を借りて、是から相合傘あい〳〵がさで帰りましたが、娘は新吉の顔が眼先を離れず、くよ〳〵して、兄に悟られまいと思って部屋へ這入って居ります。新吉の居場処いばしょも聞いたがうっかり逢う訳に参りません、段々だん〳〵日数ひかずかさなると娘はくよ〳〵ふさぎ始めました。すると或夜日暮から降出した雨に、少し風が荒く降っかけましたが、門口かどぐちから、

 甚「御免なさい〳〵」

 三「誰だい」

 甚「ヘエ旦那御無沙汰致しました」

 三「おゝ甚藏か」

 甚「ヘエ、からもうひどく降出しまして」

 三「傘なしか」

 甚「ヘエ傘の無いのでびしょぬれになりました、うも悪い日和ひよりで、日和癖で時々だしぬけに降出して困ります…エヽお母様っかさん御機嫌よう」

 三「コウ甚藏、お前もうい加減に馬鹿もめてナ、大分だいぶ評判が悪いぜ、なんとかにも釣方つりかたで、お前の事も案じるよ、大勢ににくまれちゃア仕方がねえ、名主様もにらんで居るよ」

 甚「おっかねえ、からもう憎まれぐちを利くから村の者はたれわっしをかまって呉れません、ヘエ、御免なすって、えゝ此の間一寸ちょっとねえさんを見ましたが、えゝあれはあのお妹御様いもうとごさまで、いゝ器量で大柄で人柄のいおでげすね、お前さんが時々異見いけんを云って下さるから、うか止してえと思うが、資本もとでは無し借金は有るし何うする事も出来ねえ、此の二三日にさんちは何うにもうにも仕様がねえから、ちっばかり質を取って貰いてえと思って、此方様こちらさまは質屋さんで、価値ねうちだけの物を借りるのは当然あたりまえだが、些とくどいから上手を遣わなければならねえが、質を取っておもれえ申してえので」

 三「取ってもなんだイ」

 甚「詰らねえ此様こんな物で」

 と三尺さんじゃくの間へはさんで来た物に巻いて有る手拭をくる〳〵と取り、前へ突付けたのは百姓の持つ利鎌とがまさびの付いたのでございます。

 三「是か、是か」

 甚「へえ是で」

 三「此様こんな物を持って来たって仕様がねえ、買ったって百か二百で買える物を持って来て、是で幾許いくらばかり欲しいのだ」

 甚「二十両なくっては追附おっつかねえので、うか二十両にね」

 三「きまりを云って居るぜ、ふざけるナ、おめえはそれだからいけねえ、評判が悪い、五十か百で買える物を持って来て二十両貸せなんてエ強迫ゆすりかたりみた様な事を云っては困る、此様こんな鎌は幾許いくらもある、冗談じゃアねえ、だから村にも居られなくなるのだよ」

 甚「旦那、只の鎌と思ってはいけねえ、只の鎌ではねえ、百姓の使うただの鎌とおめえさん見てはいけねえ」

 三「誰が見たって百姓の使う鎌だ、錆だらけだア」

 甚「錆びた処が価値ねうちで、っく見て、錆びたところに価値が有るので」

 三「う」

 と手にって見ると、鎌の柄に丸の中に三の字の焼印やきいんしてあるのを見て、

 三「甚藏、是はおれうちの鎌だ、此の間與吉よきちに持たしてった、是は與吉の鎌だ」

 甚「だから與吉が持ってればおまえさんのとこの鎌でしょう」

 三「左様」

 甚「それだから」

 三「何が」

 甚「何がって、旦那此の鎌はね、奥にたれも居やアしませんか」

 三「たれも居やアせん」

 甚「此の鎌にいてうしてもお前さんが二十両わっちにくれてい、私の親切をネ、鎌は詰らねえが私の親切を買って」

 二十両何うしてもくれても宜い訳を話を致しますが、一寸一息吐きまして。


二十九


 引続きまして申上げました羽生村で三藏と申すは、質屋をして居りまして、田地でんじの七八十石も持って居りますなりの暮しで、斯様かように良い暮しを致しますのは、三右衞門と云う親父おやじが屋敷奉公致して居るうち、深見新左衞門に二拾両の金を貰って、死骸の這入りました葛籠つゞらを捨てまして国へ帰り、是が資本もとでで只今は可なりに暮して居る。一体三藏と云う人は信実しんじつな人で、江戸の谷中七面前の下總屋と云う質屋の番頭奉公致して、事柄のわかった男でございますから、

 三「コウおまえそうきまりで其様そんな分らねえ事を云うが、己だから云うが、いゝか、何が親切でう云う訳が有ったって草苅鎌を持って来て二十両金を貸せなどと云って、村の者もおめえを置いては為にならねえと云う、此の間なんと云った、私は此の村を離れましては何処どこでも鼻撮はなッつまみで居処いどころもございませんから、元の如く此の村に居られる様にして呉れと云うから、名主へ行って話をして、れは外面うわべ瓦落がら〳〵して、鼻先ばかり悪徒あくとうじみて居りますが、腹の中はそれほどたくみのある奴では無いと、う己が執成とりなして置いたからられる、云はゞ恩人だ、それを背くかおめえなんで鎌を、う云う訳で親切などと下らぬ事を云うんだえ」

 甚「それなら打明けてお話申しますが此の間松村で一寸ちょっと小博奕こばくちへ手を出して居るとだしぬけに御用と云うのでバラ〳〵逃げて入江の用水の中へ這入って、水の中をくゞり込んで土手下のボサッカの中へ隠れて居ると、其処そこで人殺しがあり、キアッと云う女の声で、わっち薄気味うすきびが悪いから首を上げて見たが暗くって訳が分らず、土砂降だが、稲光がピカ〳〵するたび時々う様子が見えると、女を殺して金を盗んだ奴がある、うがすか、判然はっきり分りませんが、其の跡へ私が来て見ると、此の鎌が落ちて居る、此の鎌で殺したか、にベッタリ黒いものが付いて有るのはのりじみサ、取上げて見ると丸に三の字の焼印が捺して有る、宜うがすか、旦那のうちの鎌、ひょっとしてほかの奴が、此の鎌が女を殺したとこに落ちて有るからにゃア此の鎌で殺したと、もしやおまえさんが何様どんな係り合になるめえ物でもねえと思い、幸い旦那の御恩返ごおんげえしと思って、私が拾ってうちけえって今迄隠して居た、宜うがすか、おめえさんのところ死骸しげえを引取って己のうちめえと云うので法事も有ったのだから、おめえさんの処で女を殺して物を取った訳はねえが、わりい奴が拾いでもすると、おめえさんはい人と思っては居るが、そう村中みんなおめえさんをほめる者ばかりじゃアねえ、其のうちには五人や八人は彼様あんなになれる訳はねえと、工面がいと憎まれる事も有りましょう、それから中には悪く云う奴もある私と中好なかよく、おまえさんは江戸に奉公して江戸子えどっこ同様と云うので、甚藏やわりい事はするナ、と番毎ばんごとう云っておんなさるは有難ありがてえと思って居るが、私がおめえさんに平生ふだんお世話に成って居りますから、娘を殺して金を取るような人でねえ事は知って居りますが、宜うがすか、おめえさんとし私が中が悪くって、忌々いめえましい奴だ、うかしてと思ってれば、私が鎌を持って、うだ此の鎌が落ちて有った是は三藏のとこの鎌だと振廻して役所へでも持出せば、おめえさんの腰へいやでも縄が付く、うでないまでも、十日でも二十日でも身動きが出来ねえ、然うすりゃア年をとったお母様ふくろさまはじめ妹御いもうとごも心配だ、其の心配を掛けさせくねえからねえ、然う云う馬鹿があるめえものでもねえのサ、私などは随分かねねえ性質たちだ、忌々いめえましいと思えば遣る性質だけれども、御恩になって居るから、旦那が殺したと思う気遣きづけえもねえけれども、理屈を付ければまアうでもなるのサ、彼様あんな身代くめんのよくなるのも、ちっとは悪い事をして居るだろうぐらいの話をして居る奴もあるから、殺した跡で世間体がわりいから、死骸でも引取って、めえとかなんとか名を付けて、とい弔いをしなければ成るめえと、さ、おかしく勘繰かんぐるといかねえから、他人に拾われねえ様に持って来たのだから、十日でも二十日でも留められて、引出されゝば入費にゅうひが掛ると思って、只私の親切を二十両に買っておくんなさりゃア、是で博奕はやめるから、ねえモシ旦那え」

 三「コレ〳〵甚藏、きさまが云うと己が殺して死骸を引取って、葬りでもした様にうたぐって、おかしくそんな事を云うのか」

 甚「おめえさんわっちが然う思うくれえなら、鎌は振廻して仕舞わア、大きな声じゃア云えねえが、是は旦那世間の人に知れねえように、私が黙って持って居るその親切を買って二十両、ね、もし、鎌は詰らねえが宜うがすか、おめえさんと中が悪ければ、ひど畜生ちきしょうだなんてり兼ねえ性質たちだが、旦那にゃア時々小遣こづけえを貰ってる私だから、なんとも思やアしねえがネ、いやに世間の人が思うから鎌を拾って持って来た、其の親切を買って、えゝ旦那、おめえさんいやと云えば無理にゃア頼まねえが、私は草苅鎌を二十両に売ろうと云う訳ではねえのサ、親切ずくだからネ、たってとは云わねえ、そうじゃアねえか、此の村に居ておめえ呼吸いきが掛らなけりゃア村にも居られねえ、其の時はいやにわりい仕事をして逃げる、そうなりゃアうでもいやア、ねえ、いやでげすか、え、もし」

 と厭にからんで云いがゝりますも、まむし綽名あだなをされる甚藏でございますから、うっかりすれば喰付かれますゆえ、仕方なく、

 三「詰らぬ口を利かぬがいぜ、金はるから辛抱をしねえよ」

 とただ取られると知りながら、二十両の金を遣りまして甚藏を帰しますと、其の三藏の妹おるいが寝て居ります座敷へ、二尺余りもある蛇が出ました。九月中旬なかばになりましては田舎でも余り蛇は出ぬものでございますが、二度程出ましたので、墓場で驚きましたから何が出ても蛇と思い只今申す神経病、

 累「アレー」

 と駈出してにげる途端母親おふくろが止め様としたはずみ、田舎では大きな囲炉裏が切ってあります、上からは自在が掛って薬鑵やかんの湯がたぎって居た処へもろかえりまして、片面これからこれへ熱湯を浴びました。


三十


 お累が熱湯を浴びましたので、家中うちじゅう大騒ぎで、医者を呼びまして種々いろ〳〵と手当を致しましたがうしてもいかんもので、火傷やけどあとが出来ました。追々全快も致しましょうが、二十一二になる色盛いろざかりの娘、顔にポツリと腫物できものが出来ましても、何うしたらかろうなどと大騒ぎを致すものでございますのに、お累は半面紫色に黒み掛りました上、片鬢かたびんはげるようになりましたから、当人はもとより母親おふくろも心配して居ります。

 累「あゝなさけない、この顔では此の間法蔵寺で逢った新吉さんにもう再び逢う事も出来ぬ」

 と思いますと是が気病きやみになり、食も進まず、奥へ引籠ひきこもったきり出ません、母親おふくろは心配するが、兄三藏は中々分った人でございますから、

 三「お母様っかさん、えーお累は何様どんな塩梅でございますねえ」

 母「はアただ胸がつかえて飯が喰えねえって幾ら勧めても喰えねえ〳〵と云う、疲れるといかねえからちっと食ったらかんべえと勧めるが、涙アこぼしておら此様こんな顔に成ったから駄目だ、うせ此様な顔になったくれえなら、おッんだ方がえ。と其様そんな事べえ云ってハア手におえねえのサ、もっとでけ負傷けがアして片輪になる者さえあるだに、左様そう心配しんぺえしねえがえと云うが、あれっけえ時から内気だから、ハア、なくことばかりでうしべえと思ってよ」

 三「困りますね私も心配するなと云いきかせて置きますが、う云うものか彼処あすこへ引籠ったりで、気がれぬから庭でも見たらかろうと云うと、彼処は薄暗くって病気に宜うございますからと云いますが詰らん事を気に病むから何うも困ります」

 と話をして居ります。折から、お累は次の間の処へ参りましたから、

 母「おゝ此方こっちへ出ろとよう、出な」

 三「あ、やっと出て来た」

 母「此方へ来てナ、畑の花でも見て居たらちったア気がれようと、今あにきどんと相談して居たゞ、えゝ、さア此処こゝへ坐ってヨウ、よく出ていッけナ、心配しんぺえしてはいけぬ、気を晴らさなければいかねえヨウ、兄どんの云うのにも、火傷しても火の中へ坐燻つっくばったではねえ、湯気だから段々なおるとよ、少しぐれえ薄くあとが付くべえけれども、平常いつも白粉おしろいを着ければ知れねえ様になり段々薄くなるから心配しんぺえしねえがえゝよ」

 三「お前おっかさんに心配しんぱいを掛けて、お母様っかさんがお食を勧めるのにお前は何故べない、段々疲れるよ、詰らん事をくよ〳〵してはいけませんよ、お前と私と是れからたった一人のお母様だから孝行を尽さなければならないのに、お前がお母様に心配を掛けちゃア孝行に成りません、顔は何様どんなに成ったって構わぬ、それならば片輪女には亭主がないと云うものでも有るまい、何様なびっこでもてんぼうでもみんな亭主を持って居ります、えゝ火傷したくらいで気落きおちして、おまんまも喫べられないなんて、気落してはなりません、お母様が勧めるからおあがりなさい、喫べられないなんて其様そんな事はありませんよ」

 母「喫べなせえヨウ、久右衞門きゅうえもんどんが、是なればかろうって水街道へ行って生魚なまうおを買って来たゞ、随分旨いもんふだんなら食べるだけれど、やア食えよウ」

 三「おあがりなさいう云う様子だ、容体ようだいを云いなさい、えゝ、何か云うとお前は下を向いてホロ〳〵泣いてばかり居て、お母様に御心配かけて仕様がないじゃアありませんか、え、十二三の小娘じゃアあるまいし、よウ、えゝ、何う云うものだ」

 母「そんなに小言云わねえがえってに、其処そこやめえだからハア手におえねえだよ、あにきどんの側に居ると小言を云われるからおれが側へ来い、さア此方こっちへ来い、〳〵」

 と手を引いて病間びょうまへ参ります。三藏も是は一通りの病気ではないと思いますから。

 三「おせな」

 下女せな「ヒえー」

 三「なんこった、立って居て返辞をする奴が有るものか」

 せな「なんだか」

 三「坐りな」

 せな「何だか、よばるのは何だかてえに」

 三「コレうちのお累の病気はうも火傷をしたばかりでねえ、心に思う処が有るのでそれが気になってからのわずらいと思って居るが、てめえお久の寺詣てらまいりに行った帰りは遅かったが、年頃で無理じゃアねえから他処わきへ寄ったか、隠さずと云いな」

 せな「ナアニ寄りはません、お寺様へ行ってお花上げて拝んで、雨降って来たからお寺様でかりべえって法蔵寺様で傘借りてけえって来ただ」

 三「てめえなぜ隠す」

 せな「隠すにも隠さねえにも知んねえノ」

 三「主人に物を隠すような者は奉公さしては置きません、なぜ隠す、云いなよ」

 せな「隠しもうもしねえ、知んねえのに無理な事を云って、知って居れば知って居るって云うが、知んねえから知んねえと云うんだ」

 三「コレ段々お累を責めて聞くに、実は兄様にいさん済まないが是々と云うから、なぜ早く云わんのだ、年頃で当然あたりまえの事だ、と云って残らず打明けて己に話した、其の時はおせなが一緒に行ってう〳〵と残らず話した、お累が云うのにてめえは隠して居る、汝はなぜうだ、ちいさうちから面倒を見てったのに」

 せな「アレまア、なんて云うたろうか、よウお累様ア云ったか」

 三「みんな云った」

 せな「アレまア、われせえ云わなければ知れる気遣きづけえねえから云うじゃアねえよと、おら口止くちどめして、自分からおッ饒舌ちゃべるって、なんてえこった」

 三「みんないいな、有体ありていに云いナ」

 せな「有体ッたって別にえだ、墓参りに行って年頃二十二三になるい男が来て居て、おめえさん何処どこの者だと云ったら江戸の者だと云って、近処きんじょに居る者だがお墓参りして無尽鬮引くじびきまじねえにするって、エー、雨降って来たから傘借りてお累さんと二人手え引きながらけえって来て、お累さんが云うにゃア、おせな彼様あんい男はいやア、彼様なやさしげな人はねえ、おれがに亭主ていしを持たせるなればア云う人を亭主に持度もちたいと云って、内所で云う事が有ったけえ、其のうちに火傷してからもう駄目だの人に逢いたくもこんな顔になっては駄目だって、それから飯も喰えねえだ」

 三「うかうもおかしいと思った、様子がナ、てめえに云われてようやく分った」

 せな「あれ、横着者め、お累様云わねえのか」

 三「なにお累が云うものか」

 せな「あれだアもの、累も云ったからてめえも云えってえ、己に云わして己云ったで事が分ったてえ、そんな事があるもんだ」

 三「騒々しい、早く彼方あっちへ往けよ」

 とこれから村方に作右衞門と云う口利くちきゝが有ります、これを頼んで土手の甚藏の処へ掛合いにりました。


三十一


 作「御免なせえ」

 甚「イヤお出でなせえ」

 作「ハイ少し相談ぶちにめえりましたがなア」

 甚「くおいでなせえました」

 作「わしイ頼まれて少し相談ぶちにめえったが、お前等めえらうちに此の頃年齢としごろ二十二三のわけえ色のしれえ江戸者が来て居ると云う話、それにいて少し訳あってめえった」

 甚「左様で、出ちゃアいけねえ引込ひっこんで居ねえ」

 新吉は薄気味が悪いから蒲団の積んで有る蔭へ潜り込んで仕舞いました。

 甚「ヘエ、な、なんです」

 作「エヽ、今日少しな、訳が有って三藏どんがおらとけえ頭を下げて来て、さて作右衞門どん、うもの者に話をしてはとてらちが明かねえ、人一人は大事な者なれども、何うも是非がねえから無理にも始末を着けなければなんねえから、お前等めえらをば頼むと云うまアーづ訳になって見れば、おれも頼まれゝばあとへも退けねえ訳だから、おれが五十石の田地でんじをぶち放っても此の話を着けねばなんねえ訳に成ったが其の男の事に付いてめえっただ」

 甚「ヘエーそうで、其の男と云うなア身寄でも親類でもねえ奴ですが、困るてえからわっちの処に食客いそうろうだけれども、何を不調法しましたか、旦那堪忍しておくんなえ、田舎珍らしいから、柿なんぞをピョコ〳〵取って喰いかねゝえ奴だが、なんでしょうか生埋いきうめにするなどというと、わっちも人情として誠に困りますがねえ、何を悪い事をしたか、どう云う訳ですえ」

 作「だりが柿イ取ったて」

 甚「食客が柿を盗んだんでしょう」

 作「柿など盗んだなんのと云う訳でねえ、そうでねえ、それ、おめえ知って居るが、三藏どんの妹娘いもとむすめは屋敷奉公してけえって来て居た処、お前等めえらうちのノウ、其のわけえ男を見て、何処どこかで一緒になったで口でもきゝ合った訳だんべえ、それでまア娘が気に、ア云う人を何卒どうか亭主ていしたいとか内儀かみさんになりてえとか云う訳で、心に思ってもあにさまがかてえから八釜やかましい事云うので、処から段々胸へ詰って、まゝも食べずに泣いてばかり居るから、医者どんも見放し、大切だいじの一人娘だから金えぶっ積んでも好いた男なら貰ってりてえが、ほかの者では頼まれねえが、作右衞門どん行ってくれと云う訳で、おれ媒妁人役なこうどやくしなければなんねえてえ訳で来ただ」

 甚「そんなら早くそう云ってくれゝばいに、きもつぶした、わっちは柿でも盗んだかと思って、そうか、それは有難ありがてえ、じゃアなんだね、妹娘が思い染めて恋煩こいわずらいで、医者も見放すくれえで、うでもむこに貰おうと云うのかね、是は有難え、新吉出や、ア此処こゝへ出ろ、ごうぎな事をしやアがった、此処へ来や、旦那是は私の弟分おとゝぶんで新吉てえます、是は作右衞門さんと云うお方でな、名主様から三番目に坐る方だ、此の方に頭を押えられちゃア村に居憎いにくいやア、旦那に親眤ちかづきになって置きねえ」

 新「ヘエ初めまして、わたくしは新吉と申す不調法者で、お見知り置かれまして御贔屓ごひいきに願います」

 作「是はまず〳〵お手をお上げなすって、まず〳〵、それではうも、エヽ石田作右衞門と申して至って不調法者で、お見知り置かれやして、此ののち御別懇ごべっこんねげえます」

 甚「旦那、其様そん叮嚀ていねいな事を云っちゃアいけねえ、マア早い話がい、新吉、三藏さんと云ってな、小質こしちを取って居るうちの一人娘、江戸で屋敷奉公して十一二年も勤めたから、江戸子えどっこおんなし事で、器量は滅法い娘だ、いか、其のお嬢さんが手前てめえを見てからくよ〳〵と恋煩いだ、冗談じゃアねえ、此畜生こんちきしょうめ、えゝ、こう、其の娘が塩梅がわりいんで、手前に逢わねえじゃア病に障るからもれえてえと云う訳だ、有難ありがてえ、好い女房かゝあを持つのだ、手前運が向いて来たのだ」

 新「成程、三藏さんの妹娘で、成程、存じて居ります、一度お目に掛りました、う云って来るだろうと思って居た」

 甚「此畜生、生意気な事を云やアがる、増長して居やアがる、旦那腹ア立っちゃアいけねえ、わけえからうっかり云うので、大層を云って居やアがらア、手前てめえ己惚うぬぼれるな、男がいたって田舎だから目に立つのだ、江戸へ行けば手前の様な面はいけえ事有らア、此様こんな田舎だから少し色が白いと目に立つのだ、田舎には此様な色の黒い人ばかりだから、イヤサおめえさんは年をとって居るから色は黒いがね、此様な有難ありがてえ事はねえ、冗談じゃアねえ」

 新「誠に有難い事でございます」

 作「わしもヤアぶち出しにくかったが、お前様めえさまが承知なら頼まれげえが有って有難ありがてえだ、うなればわしイ及ばずながら媒妁なこうどする了簡だ、それじゃア大丈夫だろうネ、仔細しせええね」

 甚「ヘエ仔細しせえ有りません、有りませんが困る事には此の野郎の身体に少し借金が有るね」

 作「なに借財が」

 甚「ヘエ誠にうもね、これがむこう堅気かたぎでなければいが、ア云う三藏さん、此の野郎がきそう〳〵方々から借金取が来て、新吉に〳〵と居催促いざいそくでもされちゃア、此の野郎も行った当坐とうざ極りが悪く、居たたまらねえで駈出す風な奴だから、行かねえ前に綺麗薩張さっぱり借金を片付ければわっちし、宜うがすか、私が請人うけにんになって居るからね、其の借金だけはむこうで払ってくれましょうか」

 作「でかく有れば困るがのくれえ」

 甚「のくれえたって、なア新吉、彼方あっち縁付かたづいてから借金取が方々から来られちゃア極りがわりいやア、其の極りを付けて貰うのだから借金の高を云いねえよ、さ、借金をよう」

 新「ヘエ借金は有りません」

 甚「何を云うのだ」

 新「ヘエ」

 甚「隠すな、え借金をよう」

 新「借金はありません」

 甚「分らねえ事を云うな、此の間もゴタ〳〵来るじゃアねえか」


三十二


 甚「手前てめえ此処こゝに居るのたア違わア、三藏さんの親類になるのだ、それに可愛いお嬢さんが塩梅が悪くって可哀想だから貰うと云うのだ、手前を貰わなければ命に障る大事でえじな娘の貰うのだから、借金が有るなれば有ると云って、借金を片付けて貰えるからよ、うして仕度したくして行かなければならねえ、借金が有ると云え、エヽおい」

 新「ヘエ、成程、ヘエ〳〵成程、それは気が付きませんでした、成程是は、随分借金は有るので、是で中々有るので」

 甚「有るなれば有ると云え、よう幾らある」

 新「左様五両ばかり」

 甚「カラうも云う事は子供でげすねえ、幾らア五拾両、けれども、エヽと、二拾両ばかりわっちが目の出た時けえして、三拾両あります」

 作「ほう、三拾両、でけえなア、まア相談ぶって見ましょう」

 とこれから帰って話をすると、

 三「相手が甚藏だから其の位の事は云うに違いない、よろしい、其の代り、土手の甚藏が親類のような気になって出這入ではいりされては困るから、甚藏とは縁切えんきりで貰おう」

 と云い、甚藏は縁切でもなんでも金さえ取ればいゝ、と話が付き、ず作右衞門が媒妁人なこうどで、十一月三日に婚礼致しました。田舎では妙なもので、婚礼の時は餅をく、村方の者は皆来て手伝をいたします。媒妁人が三々九度の盃をさして、それから、村で年重としかさアさんが二人来て麦搗唄むぎつきうたを唄います。「目出度めでたいものはいもの種」と申す文句でございます。「目出度いものは芋の種葉広く茎長く子供夥多あまたにエヽ」と詰らん唄で、それを婆アさんが二人並んで大きな声で唄い、目出度めでたくしゅくして帰る。これから新吉が花婿の床入とこいりになる。ところが何時いつまでたっても嫁お累が出て来ませんので、極りが悪いから嫌われたかと思いまして、

 新「もう来そうなもの」

 と見ると屏風びょうぶの外に行燈あんどうが有ります。その行燈の側に、ふさいでむこうを向いて居るから、

 新「なんだね、其処そこに居るのかえ、冗談じゃアない、極りが悪いねえ、うしたのだえ、間が悪いね、其処に引込ひっこんで居ては極りが悪い、此方こっちへ来て、よう、私は来たばかりで極りが悪い、お前ばかり便たよりに思うのに、初めてじゃアなし、法蔵寺で逢って知って居るから、先刻さっきお前さんが白い綿帽子をかぶって居たが、田舎は堅いと思って、顔を見度みたいと思っても、綿を冠って居るから顔も見られず、間違じゃアねえかと思い、心配して居た、早く来て顔を見せて、よう、此方へ来ておくれな」

 累「こんなとこへ来て下すって、誠に私はお気の毒様で先刻さっきから種々いろ〳〵考えて居りました」

 新「気の毒も何もない、土手の甚藏の云うのだから、訳も分らねえ借金まで払って、おあにいさんが私の様な者を貰って下すって有難いと思って、私はこれから辛抱して身を堅める了簡で居るからね、よう、そばへ来てお寝な」

 累「作右衞門さんを頼んで、おいやながらいらしって下すっても、私の様な者だから、もう三日もいらっしゃると、愛想あいそが尽きてきお見捨なさろうと思って、そればっかり私は心に掛って、悲しくって先刻さっきから泣いてばかり居りました」

 新「見捨てるにも見捨てないにも、今来たばかりで、其様そんな詰らんことを云って、私は身寄便たよりもないから、お前の方で可愛がってくれゝば何処どこへもきません、見捨てるなどと此方こっちが云う事で」

 累「だって私はね、貴方、んな顔になりましたもの」

 新「エ、あの私はね、此様こんな顔と云う口上は大嫌いなので、ド、んな顔に」

 累「はい此の間火傷を致しましてね」

 と恥かしそうに行燈あんどうの処へ顔を出すのを、新吉が熟々つく〴〵見ると、此の間法蔵寺で見たとは大違い、半面火傷の傷、ひたえから頬へ片鬢かたびん抜上ぬけあがりまして相が変ったのだから、あっと新吉は身の毛立ちました。

 新「うして、お前まア恐ろしい怪我をして、エヽ、なになんだか判然はっきりと云わなければ、もっと傍へ来て、え、囲炉裡いろりへ落ちて、何うも火傷するたって、何うも恐ろしい怪我じゃアないか、まアえゝ」

 と云いながら新吉は熟々と考えて見れば、累が淵で殺したお久の為には、伯母に当るお累の処へ私が、養子に来る事になり、此の間まで美くしい娘が、急に私と縁組をする時になり、此様こん顔形かおかたちになると云うのも、やっぱり豐志賀がたゝしょうを引いて、飽くまでもおれうらむ事か、アヽ飛んだ処へ縁付いて来た、と新吉が思いますると、途端に、ざら〳〵と云う、屋根裏でいやな音が致しますから、ヒョイと見ると、縁側の障子が明いて居ります、と其の外は縁側で、茅葺かやぶき屋根の裏に弁慶と云うものが釣ってある。それへずぶりとはすして有るは草苅鎌、甚藏が二十両に売付けた鎌を與助と云う下男が磨澄とぎすまして、弁慶へ揷して置いたので、其の鎌の処へ、屋根裏を伝わって来た蛇がまとい付き、二三度からまりました、すると不思議なのは蛇がポツリと二つに切れて、縁側へ落ると、蛇の頭は胴から切れたなりに、とこの処へ這入って来た時は、お累は驚きまして、

 累「アレ蛇が」

 と云う。新吉もぞっとする程身の毛立ったから、煙管きせるを持って蛇のかしら無暗むやみつと、蛇の形は見えずなりました。怖いまぎれにお累は新吉にすがり付く、その手を取って新枕にいまくら、悪縁とは云いながら、たった一晩でお累が身重になります。これが怪談のはじめでございます。


三十三


 新吉とお累は悪縁でございますが、夫婦になりましてからは、新吉が改心致しました、と申すのは、熟々つく〴〵考えればたゞ不思議な事で、十月からは蛇が穴にると云うに、十一月に成って大きな蛇が出たり、又先頃墓場で見た時、身の毛立つ程驚いたのも、是は皆心のまよいで有ったか、あゝ見えたのは怖い〳〵と思う私が気から引出したのか、お累も見たと云いことに此のうちは累が淵で手に掛けたお久の縁合えんあい、其の家へ養子に来ると云うは、如何いかなる深き因縁の、今まで数々罪を作った此の新吉、是からは改心して、此家こゝを出ればほかに身寄便たよりも無い身の上、お累が彼様あんな怪我をすると云うのもみんな私故、これは女房お累を可愛がり、三藏親子に孝行を尽したならば、是までの罪も消えるであろうと云うので、新吉は薩張さっぱりと改心致しました。それからは誠に親切に致すから、三藏も、

 三「新吉は感心な男だ、年のいかんに似合わぬ、なんにしろ夫婦中さえければ何より安心、殊に片輪のお累をく目を掛けて愛してくれる」

 と、家内はむつましく、翌年になりますと、八月が産月うみづきと云うのでございますから、まず高い処へ手を上げてはいかぬ、井戸端へ出てはならぬとか、食物しょくもつを大事になければならんと、初子ういごだから母も心配致しまする。と江戸から早飛脚はやびきゃくで、下谷大門町の伯父勘藏が九死一生で是非新吉に逢いたいと云うのでございますが、只今の郵便の様には早く参りませんから、新吉も心配して、兄三藏と相談致しますと、たった一人の伯父さん、年が年だから死水しにみずを取るがいと、三藏は気の付く人だから、多分の手当をくれましたから、いとまを告げ出立しゅったつを致しまして、江戸へ着いたのは丁度八月の十六日の事でございます。長屋の人が皆寄り集って看病致します。身寄便もない、女房はなし、歳は六十六になりますおやじで、一人で寝て居りますが、長屋に久しく居る者で有りますから、近所の者の丹精で、漸々よう〳〵に生延びて居ります処、

 男「オヤ新吉さんか、さア〳〵何卒どうぞあがりなすって、おかね、たらいへ水を汲んで、足をお洗わし申して、荷や何かは此方こっちへ置いて、くおいでなすった、お待申しておりました、さア此方こちらへ」

 新「ヘエうも誠に久しく御無沙汰致しました、御機嫌宜しゅう、田舎へ引込ひきこみましてからは手紙ばかりが頼りで、とんと出る事も出来ません、養子の身の上でございますからな、此のたびは伯父が大病でございまして、さぞお長屋の衆の御厄介だろうと思い実は彼方あちらの兄とも申し暮しておりました、急いで参るつもりでございますが何分にも道路みちが悪うございまして、捗取はかどりませんで遅う成りました」

 男「う致しまして、大層お見違え申す様に立派にお成りなすって、お噂ばかりでね、伯父さんも悦んでね、あれも身が定まり、田舎だけれども良い処へ縁付かたづき、子供も出来たってお噂ばかりして、実に何うも一番古くお長屋にお住いなさるから、看病だって届かぬながら、お長屋の者が替り〳〵来て見ても、あゝ云う気性だから、お前さんばかり案じて、くマア早くおいでなすった、さア此方こっちへ」

 新「ヘエ、是はお婆さん、其のは御無沙汰致しました」

 婆「おやまア誠にしばらく、まア、めっきりもっともらしくおなりなすったね、勘藏さんもう云って居なすった、あれも女房を持ちまして、が出来て、何月が産月だって、指を折ってたのしみにして、病気中もお前さんの事ばかり云って、ほかに身寄親類はなし、手許てもとへ置いて育てたから、新吉はたった一人のおいだし、子も同じだと云って、今もお前さんの噂をして、楽みにしておいでなさるからね、此度こんどばかりはもう年が年だから、大した事はない様だが、長屋の者も相談してね、だけども養子では有るし、お呼び申して出て来て、なんだ是っぱかりの病気に、遠い処から呼んでくれなくもさそうなもんだなどと云って、長屋の者もあんまりだと、新吉さんに思われても、なんだと云って、長屋の者、行事の衆と種々いろ〳〵相談してね、私のうちの云うには、うでない、年が年だからもしもの事が有った日にゃア、長屋の者も付いて居ながら知らして呉れそうなものと、又新吉さんに思われても成らんとかなんとか云って、長屋の者も心配して居て、くねえ、うも、然うだって、大層だってね、勘藏さんがねえ、あれもマア田舎へ行って結構な暮しをして、然うだって、前の川へけば顔も洗え鍋釜も洗えるってねえ、噂を聞いて何うか見度みたいと思って、あの畑へ何かいて置けば出来るってねえ、然うだって、まアお前さんの気性でくわって、と云ったら、なアに鍬は把らない、むこうは質屋で其処そこの旦那様に成ったってね、と云うからおやそう田舎にもそう云う処が有るのかねえなんてね、お噂をして居ましたよそれにね」

 男「コレサお前一人でしゃべって居ちゃアいけねえ、病人に逢わせねえな」

 婆「さア此方こちらへ」

 新「ヘエ有難う」

 と寝て居る病間へ通って見ると、木綿の薄ッぺらな五布布団いつのぶとんが二つに折って敷いて有ります上に、勘藏は横になり、枕に坐布団をぐる〳〵巻いて、胴中どうなかから独楽こまの紐で縛って、くゝり枕の代りにして、寝衣ねまき単物ひとえものにぼろあわせを重ね、三尺帯を締めまして、少し頭痛がする事もあると見えて鉢巻もしては居るが、禿頭で時々すべっては輪のなりで抜けますから手でめておきますが、たがの様でございます。

 新「伯父さん〳〵」

 勘「あい」

 新「私だよ」

 男「勘藏さん、新吉さんが来たよ」

 勘「有難ありがてえ〳〵、あゝ待って居た、く来た」

 新「伯父さんもう大丈夫だよ、大きに遅くなったがお長屋の方が親切に手紙をよこして下すったから取敢とりあえず来たがねえ、もう私が来たから案じずに、お前気丈夫にしなければならねえ、もう一遍丈夫に成ってお前に楽をさせなければ済まないよ」

 勘「能く来た、病気はそう呼びにる程悪いんじゃアねえが、年が年だから何卒どうぞ呼んでおくんなせえと云うと、呼んじゃア悪かろうのなんだのだのと云って、評議の方がなげえのよ、長屋の奴等ア気が利かねえ」

 新「これサ、其様そんな事を云うもんじゃアねえ、お長屋の衆も親切にして下すって、遠くの親類より近くの他人だ、お長屋の衆で助かったに、其様な事を云うもんじゃアねえ」


三十四


 勘「お前はそう云うが、ただ枕元で喋るばかりでちっとも手が届かねえ、奥のふとったおきんさんと云うかみさんは、おれ引立ひったって、虎子おまるへしなせえってコウ引立ひきたって居てズンとおろすから、虎子でしりつのでいてえやな、あゝ人情がねえからな」

 新「其様な事を云うもんじゃアねえ、なんでもお前の好きな物を食べるがい」

 勘「有難ありがてえ、もうねえ、新吉が来たから長屋の衆はけえってくれ」

 新「其様な事を云うもんじゃアねえ」

 長屋の者「じゃア、マア新吉さんが来たからお暇致します、左様なら」

 新「左様ですか、うも有難うございます、お金さん有難うお婆さん有難う、ヘエ大丈夫で、又何うか願います、ヘエ、なにお締めなさらんでもよろしゅう、伯父さん長屋の人がねエ、親切にしてくれるのに、彼様あんな事を云うと心持を悪くするといかねえよ」

 勘「ナアニ心持を悪くしたって構うものか、おら頑固いっこくは知って居るしなあ、く来た、一昨日おとゝいから逢いたくって〳〵たまらねえ、何卒どうぞして逢いてえと思って、もう逢えば死んでもいやア、もう死んでも宜い」

 新「其様な事を云わずにしっかりして、よう、もう一遍丈夫になって駕籠にでも乗せて田舎へ連れて行って、暢気のんきな処へ隠居さしてえと思うのだ、随分寿命も延々のび〴〵するから彼方あっちへお引込ひっこみよう」

 勘「独身ひとりみで煙草をきざんで居るも、骨が折れてもう出来ねえ、アヽ、おめえ嫁に子供あかんぼうが出来たてえが、男か女か」

 新「なんだか知れねえ是から生れるのだ」

 勘「初めては女のが宜い、おめえの顔を見たら形見かたみろうと思ってねえ、おれは枕元へ出したり引込ひっこましたりして、他人ひとに見られねえ様に布団の間へ揷込さしこんだり、種々いろ〳〵な事をして見付からねえように、懐で手拭でくるんだりして居た」

 新「まだ〳〵大丈夫だよ伯父さん、だけれども形見は生きているうち貰って置く方が宜い、形見だって何をお前がくれるのだか知れねえが、なんだい、大事にして持つよ」

 勘「是を見てくんねえ」

 と布団の間からようや引摺出ひきずりだしたは汚れた風呂敷包。

 勘「これだ」

 新「なんだい」

 と新吉は僅少わずかの金でも溜めて置いて呉れるのかと思いまして、手に取上げて見ると迷子札まいごふだ

 新「なんだ是は迷子札だ」

 勘「迷子札を今迄肌身離さず持って居たよ、是が形見だ」

 新「是はいゝやア、今度生れる子が男だと丁度いゝ、し女の子か知らないが、今度生れる坊のに仕よう」

 勘「坊なぞと云わねえでおめえ着けねえ」

 新「少したががゆるんだね、大きななりをしてお守を下げて歩けやアしねえ」

 勘「まア読んで見ねえ」

 新「エヽ読んで」

 と手に取上げて熟々よく〳〵見ると、唐真鍮とうしんちゅう金色かねいろびて見えまする。が、深彫ふかぼりで、小日向服部坂深見新左衞門二男新吉、と彫付けてある故、

 新「伯父さん是はなんだねえ私の名だね」

 勘「アイ、そのねえ、汚れたね其の布団の上へ坐っておくれ」

 新「いゝよう」

 勘「イヽエ坐ってお呉れ、お願いだから」

 新「はい〳〵さア私が坐りました」

 勘「それから私は布団からおりるよ」

 新「アヽ、下りないでも宜いよ、ひえるといけねえよ」

 勘「何卒どうかお前に逢ってねえ、一言ひとこと此の事を云って死にてえと思って心に掛けて居たがねえ、お前様まえさんは、小日向服部坂上で三百五十石取った、深見新左衞門様と云う、天下のお旗下のお前は若様だよ」

 新「ヘエ、私がかえ」

 勘「ウムお前の兄様あにさまは新五郎様と云ってね、親父様おとっさまはもうお酒好でねえ、お前が生れると間もなく、奥様は深い訳が有ってお逝去かくれになり、其の以前から、お熊と云う中働なかばたらき下婢おんなにお手が付いて、此の女が悪い奴で、それで揉めて十八九の時兄様は行方知れず、するとねえ、本所北割下水に、座光寺源三郎と云う、矢張やっぱり旗下が有って、其の旗下が女太夫おんなだゆうを奥方にした事があらわれて、お宅番が付き、そのお宅番が諏訪部三十郎様にお前の親父様おとっさんの深見深左衞門様だ、すると梶井主膳と云う竜泉寺前の売卜者うらないしゃがねえ、諏訪部様が病気で退いて居て、親父様が一人で宅番して居るを附込んで、駕籠を釣らして来て源三郎とおこよと云う女太夫を引攫ひっさらって逃げようとする、るめえとする、争って鎗で突かれて親父様はお逝去かくれだから、お家は改易になり、座光寺の家もつぶれたがね、其の時にお熊はなんでもおたねはらんで居たがね、屋敷は潰れたから、仕方がねえので深川へ引取ひきとり、跡は御家督ごかとくもねえお前さんばかり、ちょうどお前が三歳みっつの時だが、私が下谷大門町へ連れて来て貰い乳して丹精して育てたのさ、手前てめえ親父おやじ母親おふくろは小さいうち死んで、おれが育てたと云って、刻煙草きざみたばこをする中で丹精して、本石町四丁目の松田と云う貸本屋へ奉公に遣りましたが実は、己はお前の処に居た門番の勘藏と申す、旧来御恩を頂いた者で、家来で居ながら、お前さんはお旗下の若様だとなまじい若い人に知らせると、己は世が世なら殿様だが、と自暴やけになって道楽をされると困るから、新吉々々と使い廻して、馬鹿野郎、間抜野郎と、御主人様の若様に悪たいいて、実の伯父甥の様にしてお前さんを育てたから、心安立こゝろやすだてが過ぎてお前さんをった事も有りましたが、誠に済まない事を致しました、私はもう死にますから此の事だけお知らせ申して死度しにたいと思い、ことにお前さんは親類みより縁者たよりは無いけれども、たゞ新五郎様と云う御惣領ごそうりょうの若様が有ったが、今居れば三十八九になったろうけれども行方知れず覚えて居て下さい、鼻の高い色の白い男子おとこだ、目の下に大きな黒痣ほくろが有ったよ、其の方に逢うにも、お前さんがこの迷子札を証拠に云えば知れます、アヽもう何も云う事は有りませんが、たゞ馬鹿野郎などと悪態をきました事は何卒どうぞ真平まっぴら御免なすって、仏壇ほとけさまにお前様まえさん親父様おとッつぁま位牌いはいを小さくして飾って有ります、新光院しんこういん様と云って其の戒名だけ覚えて居ります、其の位牌を持って往って下さい」


三十五


 新「うかい、私は初めて伯父さん聞いたがねえ、だがねえ、私が旗下の二男でも、家が潰れて三歳みっつの時から育てゝくれゝば親よりは大事な伯父さんだから、もう一度ひとたびくなって恩報おんがえしに、お前を親の様に、尚更なおさら私がたのしみをさしてから見送りいから、もう一二年達者になってねえ、決して家来とは思わない、我儘わがまゝをすれば殴打擲ぶちたゝき当然あたりまえで、貰い乳をしてく育てゝくれた、有難い、其の恩は忘れませんよ、決して家来とは思いません、真実の伯父さんよりは大事でございます」

 勘「はい〳〵有難ありがてえ〳〵、それを聞けばすぐに死んでもい、ヤア、有難えねえ、サア死にましょうか、唯死度しにたくもねえが、松魚かつおの刺身であったけえ炊立たきたてまんまべてえ」

 新「さア〳〵なんでも」

 と云う。当人も安心したか間もなく眠る様にして臨終致しました。それからはまず小石川の菩提所へ野辺送りをして、長く居たいが養子の身の上ことには女房は懐妊、早く帰ろうと、長屋の者に引留められましたが、初七日までも居りませんで、精進物で馳走をして初七日を取越して供養をいたし、伯父がすまいました其の家は他人に譲りましたから、早々そう〳〵立ちまして、せめて今夜は遅くも亀有まで行きたいと出かけまする。折悪しく降出して来ました雨は、どうぶりで、車軸を流す様で、菊屋橋のきわまで来て蕎麦屋で雨止あまやみをしておりましたが、更に気色けしきがございませんから、仕方がなしに其の頃だから駕籠を一挺いっちょう雇い、四ツ手駕籠に桐油とうゆをかけて、

 新「何卒どうか亀有までって、亀有のわたしを越して新宿にいじゅく泊りとしますから、四ツ木通りへ出る方が近いから、吾妻橋を渡って小梅へ遣ってくんねえ」

 駕籠屋「かしこまりました」

 と駕籠屋はビショ〳〵出かける。雨は横降りでどう〳〵と云う。往来が止りまするくらい。其の降る中をビショ〳〵かつがれてくうち、新吉は看病疲れか、トロ〳〵眠気ざし、遂には大鼾おおいびきになり、駕籠の中でグウ〳〵とて居る。

 駕籠屋「押ちゃアいけねえ、歩けやアしねえ」

 新「アヽ、若衆わかいしゅもう来たのか」

 駕「ヘエ」

 新吉「もう来たのか」

 駕「ヘエ、まだ参りません」

 新「あゝ、トロ〳〵と中で寝た様だ、何処どこだか薩張さっぱり分らねえが何処だい」

 駕「何処だかちっとも分りませんが、鼻をつままれるも知れません、たゞ妙な事には、なア棒組、妙だなア、此方こっちひだり手に見える燈火あかりうしてもあれは吉原土手のなんだ、茶屋の燈火にちげえねえ、そうして見れば此方にこの森が見えるのは橋場の総泉寺馬場そうせんじばゞの森だろう、して見ると此処こゝは小塚ッ原かしらん」

 新「若衆〳〵妙な方へ担いで来たナ、吾妻橋を渡ってと話したじゃアねえか」

 駕「それはう云うつもりでめえりましたが、ひとりでに此処へ来たので」

 新「吾妻橋を渡ったかなんだか分りそうなものだ」

 駕「渡ったつもりでございますがね、今夜は何だか変な晩で、うも、変で、なア棒組、変だなア」

 駕「ッとも足が運べねえ様だな」

 駕「妙ですねえ旦那」

 新「妙だってお前達めえたちおかしいぜ、うかして居るぜ急いでってくんねえ、小塚ッ原などへ来て仕様がねえ、千住へでも泊るから本宿ほんじゅくまで遣っておくれ」

 駕「ヘエ〳〵」

 と又ビショ〳〵担ぎ出した。新吉はまた中でトロ〳〵と眠気ざします。

 駕「アヽびっくりすらア、棒組そう急いだって先が一寸ちょっとも見えねえ」

 新「あゝ大きな声だナア、もう来たのか若衆」

 駕「それが、ちっとも何処どこだか分りませんので」

 新「何処だ」

 駕「何処だか少しも見当みあてが付きませんが、おい〳〵、先刻さっき左に見えた土手の燈火あかりが、此度こんど右手こっちに見える様になった、おや〳〵右の方の森が左になったが、そうすると突当りが山谷の燈火か」

 新「若衆、うも変だぜ、跡へ帰って来たな」

 駕「けえる気も何もねえが、何うも変でございます」

 新「ふざけちゃア困るぜ冗談じゃアねえ、お前達めえたちおかしいぜ」

 駕「旦那、お前さん何かなまぐさい物を持っておいでなさりゃアしませんか、此処こかア狐が出ますからねえ」

 新「腥い物どころか仏の精進日だよ、しっかりしねえな、もう雨は上ったな」

 駕「ヘエ、上りました」

 新「おろしておくれよ」

 駕「何うもお気の毒で」

 新「冗談じゃアねえ、お前達めえたちは変だぜ」

 駕「ヘエ何うも、此様こんな事は、今迄長く渡世しょうべえしますが、今夜のような変な駕籠を担いだ事がねえ、行くと思って歩いてもあとけえる様な心持がするがねえ」

 新「戯けなさんな、包を出して」

 と駕籠から出て包を脊負しょい、

 新「い塩梅に星が出たな」

 駕「ヘエ奴蛇の目の傘はこゝにございます」

 新「いゝやア、まアみちを拾いながら跣足はだしでもなんでも構わねえ行こう」

 駕「低い下駄なれば飛々とび〳〵かれましょう」

 新「まアいゝや、さっ〳〵ときねえ」

 駕「ヘエ左様なら」

 新「仕様がねえな、何処だか些とも分りゃアしねえ」

 と云いながら出かけて見ると、けましたから人の往来はございません。路を拾い〳〵参りますと、此方こっち藪垣やぶがきの側に一人人が立って居りまして、新吉がすぎると、

 男「おいわけえの、其処そこわけえの」

 新「ソリャ、此処こゝなんでも何か出るにちげえねえと思った、畜生ちきしょう〳〵彼方あっちけ畜生〳〵」

 男「おいわけえの〳〵コレ若えの」

 新「ヘエ、ヘエ」

 と怖々こわ〴〵其の人をすかして見ると、藪の処に立って居るは年の頃三十八九の、色の白い鼻筋の通って眉毛の濃い、月代さかやきう森のように生えて、左右へつや〳〵しく割り、今御牢内から出たろうと云うお仕着せの姿なりで、びっこを引きながらヒョコ〳〵遣って来たから、新吉は驚きまして、

 新「ヘエ〳〵御免なさい」

 男「何を仰しゃる、これは貴公が駕籠から出る時落したのだ、是は貴公様のか」

 新「ヘエ〳〵、びっくり致しましたなんだかと思いました、ヘエ」

 と見ると迷子札。

 新「おや是は迷子札、是は有難う存じます、駕籠の中でトロ〳〵と寝まして落しましたか、御親切に有難う存じます、是はわたくしの大事な物で、伯父の形見で、伯父が丹精してくれたので、うも有難うございます」

 男「其の迷子札に深見新吉と有るが、貴公様のお名前はなんと申します」

 新「手前が新吉と申します」

 男「貴公様が新吉か、深見新左衞門の二男新吉はお前だの」

 新「ヘエわたくしで」

 男「イヤうも図らざる処で懐かしい、何うも是は」

 と新吉の手を取った時は驚きまして、

 新「真平まっぴら何うか、わたくしは金も何もございません」

 男「コレ、私をお前は知らぬはもっとも、お前が生れると間もなく別れた、私はお前の兄の新五郎だ、何卒どうかして其方そちに逢いいと思い居りしが、これも逢われる時節兄弟縁の尽きぬので、斯様かような処で逢うのは実に不思議な事で有った、私は深見の惣領新五郎と申す者でな」


三十六


 新「ヘエ、成程鼻の高い男子おとこだ、眼の下に黒痣ほくろが有りますか、おゝ成程、だが新五郎様と云う証拠が何か有りますか」

 新五郎「証拠と云って別にないが、此の迷子札はお前伯父に貰ったと云うが、それは伯父ではない勘藏と云う門番で、それがわしの弟を抱いて散りりになったと云う事をほのかに聞きました、其の門番の勘藏を伯父と云うが、それを知って居るよりほかに証拠はない、尤も外に証拠物もあったが、永らく牢屋の住居すまいにして、実に斯様かような身の上に成ったから」

 新「それじゃアお兄様あにいさま、顔は知りませんが、勘藏がなくなります前、枕元へ呼んで遺言して、是を形見として貴方の物語り、此処こゝでお目に掛れましたのは勘藏が草葉の影で守って居たのでしょう、それに付いても貴方のお身形みなりう云う訳で」

 新五郎「イヤ面目ないが、若気の至り、実は一人の女をあやめて駈落したれど露顕して追手おってがかゝり、片足くのごとく怪我をした故逃げおおせず、遂々とう〳〵お縄にかゝって、永い間牢に居て、いかなるせめに逢うと云えど飽くまでも白状せずに居たれど、とてのがるゝ道はないが、一度娑婆しゃば見度みたいと思って、牢を破って、隠れ遂せて丁度二年越し、実は手前に逢うとは図らざる事で有った、手前は只今何処いずこるぞ」

 新「わたくしはねえ、只今は百姓のうちへ養子にきました、先は下総の羽生村で、三藏と云う者の妹娘いもとむすめを女房にして居ります、三藏と申すのは百姓もしますが質屋もし、中々の身代、ことに江戸に奉公をした者で気の利いた者ですが、貴方は牢を破ったなどゝとんだ悪事をなさいました、知れたら大事で、早く改心なすって頭をって衣に着替え、姿を変えて私と一緒に国へお連れ申しましょう、貴方何様どんなにもお世話を致しましょうから、悪い心をめてください、えゝ」

 新五郎「下総の羽生村で三藏と云うは、何かえ、それは前に谷中七面前の下總屋へ番頭奉公した三藏ではないか」

 新「えゝく貴方は御存知で」

 新五郎「飛んだとこへ手前縁付かたづいたな、其の三藏と言うは前々まえ〳〵朋輩ほうばいで、わしが下總屋にるうち、お園という女を若気の至りで殺し、それを訴人したは三藏、それから斯様な身の上に成ったるも三藏故、白洲でも幾度いくたびも争った憎い奴で其の憎い念は今だに忘れん、始終憎い奴と眼を付けて居るが、そういう処へ其の方が縁付かたづくとは如何いかにも残念、其の方もそういう処へは拙者が遣らぬ、決して行くな、是から一緒に逃去って、なげえ浮世にみじけえ命、己と一緒に賊を働き、栄耀栄華えようえいが仕放題しほうだいを致すがよい、心を広く持って盗賊になれ」

 新「これは驚きました〳〵、兄上考えて御覧なさい、世が世なれば旗下の家督相続もする貴方が、盗賊をしろなぞと弟に勧めるという事が有りましょうか、マア其様そんな事を言ったって、貴方が悪いから訴人されたので、三藏は中々其様な者ではございませぬ」

 新五郎「手前女房の縁に引かされて三藏の贔屓ひいきをするが、其の家を相続して己をあだに思うか、サアうなればゆるさぬぞ」

 新「免さぬってえ、お前さんそれは無理で、それだから一遍牢へ這入ると人間が猶々なお〳〵悪くなるというのはこれだな、手前の居る処は田舎ではありますが不自由はさせませんから一緒に来て下さい」

 新五郎「手前は兄の言葉を背き居るな、よし〳〵有って甲斐なき弟故殺してしまう覚悟しろ」

 新「其様そんな理不尽な事を云って」

 新五郎「なに」

 と懐に隠し持ったる短刀どすを引抜きましたから、新吉は「アレー」と逃げましたが、雨降あめふり揚句あげくで、ビショ〳〵頭まではねの上りますのに、うしろから新五郎はびっこを引きながら、ピョコ〳〵追駈おっかけまするが、足が悪いだけにかけるのも遅いから、新吉は逃げようとするが、何分なにぶんにも道路みちがぬかって歩けません。滑ってズーンと横に転がると、あとから新五郎は跛で駈けて来て、新吉の前の処へポンと転がりましたはずみに新吉を取って押え付ける。

 新五郎「不埓至極ふらちしごくの奴殺してしまう」

 と云うに、新吉は一生懸命、無理に跳ね起きようとして足をすくうと、新五郎は仰向に倒れる、新吉は其のに逃げようとする、新五郎は新吉の帯を取って引くと、仰向に倒れる、新吉も死物狂いで組付く、ベッタリ泥田の中へ転がり込む、なれども新五郎は柔術やわらも習った腕前、力に任して引倒し、

 新五郎「不埓至極な、女房の縁に引かれて真実の兄が言葉を背く奴」

 と押伏せて咽喉笛のどぶえをズブリッと刺した。

 新「情ないあにさん…」

 駕籠屋「モシ〳〵旦那〳〵大そううなされて居なさるが、雨はもう上りましたから桐油を上げましょう」

 新「エ、アヽ危うい処だ、アヽ、ハアヽ、此処こゝ何処どこだえ」

 駕「ちょうど小塚ッ原の土手でごぜえやす」

 新「えい、じゃア夢ではねえか、吾妻橋を渡って四ツ木通りと頼んだじゃアねえか」

 駕「ヘエ、う仰しゃったが、乗出してちょうど門跡前へ来たら、雨が降るから千住へ行って泊るからと仰しゃるので、それから此方こっちめえりました」

 新「なんだ、エヽなげえ夢を見るもんだ、迷子札は、お、有る〳〵、なんだなア、え、おい若衆わかいしゅ〳〵、咽喉はなんともねえか」

 駕「ヘエ、うか夢でも御覧でごぜえましたか、魘されておいでなせえました」

 新「小用こようがたしてえが」

 駕「ヘエ」

 新「星が出たな」

 駕「ヘエ、塩梅あんべえ星が出ました」

 新「じゃア下駄を出しねえ」

 駕「是で天気はさだまりますねえ」

 新「好い塩梅だねえ、おや此処こゝはお仕置場だな」

 と見ると二ツ足の捨札に獄門の次第が書いて有りますが、始めに当時無宿新五郎と書いて有るを見て、びっくりして、新吉が、段々怖々こわ〴〵ながら細かに読下すと、今夢に見た通り、谷中七面前、下總屋の中働お園に懸想けそうして、無理無体に殺害せつがいして、百両を盗んで逃げ、のち捕方とりかたに手向いして、重々不届至極に付獄門に行うものなりとあり。新吉はこれぞ正夢なり、妙な事も有るものだと、兄新五郎の顔が眼に残りしは不思議なれど、勘藏の話で想ったからう見えたか、なんにしても稀有けうな事が有れば有るものだ、と身の毛だちて、気味悪く思いますから、是より千住へ参って一晩泊り、翌日早々下総へ帰る。新吉の顔を見ると女房お累が虫気付むしけづきまして、オギャア〳〵と産落したは男の子でございます。此の子が不思議な事には、新吉が夢に見た兄新五郎の顔に生写いきうつしで、鼻の高い眼の細い、気味の悪い小児こどもが生れると云う怪談の始めでございます。


三十七


 引続きまして真景累が淵と外題げだいを附しまして怪談話でございます。新吉は旅駕籠にゆられて帰りましたが、駕籠の中で怪しい夢を見まして、何彼なにかと心に掛る事のみ、取急いでうちへ帰りますると、新吉の顔を見ると女房お累は虫気付き、産落したは玉のような男のとはいかない、小児こどもの癖に鼻がいやにツンと高く、眼は細いくせにいやにう大きな眼で、頬肉が落ちまして瘠衰やせおとろえた骨と皮ばかりの男の児が生れました。其の顔を新吉が熟々つく〴〵見ると夢に見ました兄新五郎の顔に生写いきうつしで、新吉はぞっとする程身の毛立って、

 新「うなれば此のうち敵同士かたきどうしと、夢にも兄貴が怨みたら〳〵云ったが、兄貴がお仕置に成りながらも、三藏に怨みを懸けたと見えて、そのあだいえへ私が養子に来たと夢で其の事を知らせ、早く縁を切らなければ三藏のうちたゝると云ったが、さては兄貴が生れ変って来たのか、たゞしは又祟りでう云う小児こどもが生れた事か、うも不思議な事だ」

 と其の頃は怨み祟りと云う事があるのあるいは生れ変ると云う事も有るなどと、人が迷いを生じまして、種々いろ〳〵に心配を致したり、よけを致すような事が有りました時分の事で、所謂いわゆる只今申す神経病でございますから、新吉はだ其の事がくよ〳〵心に掛りまして、

 新「あゝもう悪い事は出来ぬ、ふッつり今迄の念を断って、改心致して正道しょうどうに稼ぐよりほかに致し方はない、始終女房の身の上小児こどもの上まで、う云う祟りのあるのは、皆是も己の因果が報う事で有るか」

 と様々の事を思うから猶更なおさら気分が悪うございまして、うちに居りましても食も進みません。女房お累は心配して、

 累「御酒ごしゅでもお飲みなすったらお気晴しになりましょう」

 と云うが、うも宅にれば居る程気分が悪いから、寺参りにでもく方がかろうというので、寺参りに出掛けます。三藏も心配して、

 三「一緒に居ると気が晴れぬ、しゅうとなどと云う者は誠に気詰りな者だと云うから、一軒うちを別にしたら宜かろう」

 と羽生村の北坂きたざかと云う処へ一軒新たに建てまして、三藏方で何も不足なく仕送ってくれまする。新吉は別にかせぎもなく、ことには塩梅が悪いので、少しずつ酒でも飲んではぶら〳〵土手でも歩いたり、また大宝たいほうの八幡様へ参詣にくとか、今日は水街道、或は大生郷おおなごうの天神様へ行くなどと、諸方を歩いて居りますが、まア寺まいりの方へ自然行く気になります。翌年寛政八年ちょうど二月三日の事でございましたが、法蔵寺へ参詣に来ると、和尚が熟々つく〴〵新吉を見まして、

 和尚「お前は死霊の祟りのある人で、病気はなおらぬ」

 新「ヘエうしたら癒りましょう」

 和尚「無縁墓の掃除をして香花こうはな手向たむけるのは大功徳だいくどくなもので、これを行ったら宜かろう」

 新「癒りますれば何様どんな事でも致しますが、無縁の墓が有りましょうか」

 和尚「無縁の墓は幾らも有るから、く掃除をして水を上げ、香花を手向けるのはよい功徳になると仏の教えにもある、昔からたとえにも、千本の石塔を磨くと忍術が行えるとも云うから、其様そんな事も有るまいが功徳になるから参詣なさい」

 と和尚さんが有難く説きつけるから、新吉は是からがんに掛けて、法蔵寺へ行っては無縁の墓を掃除して水を上げ香花を手向けまする。と其処そこが気のせいか、神経病だから段々数を掃除するに従って気分も快くなって参ります。三月の二十七日に新吉が例の通り墓参りをして出に掛ると、這入って来ました婦人は年の頃二十一二にもなりましょうか、達摩返しと云う結髪むすびがみで、一寸ちょっといたしたあい万筋まんすじの小袖に黒の唐繻子とうじゅすの帯で、上に葡萄鼠ぶどうねずみに小さい一紋ひとつもんを付けました縮緬ちりめん半纏羽織はんてんばおりを着まして、其の頃流行はやった吾妻下駄を穿いて這入って来る。跡からついて参るのが馬方の作藏と申す男で、

 作「おしずさん是がかさねの墓だ」

 賤「おやまア累の墓と云うと、名高いからもっと大きいと思ったら大層小さいね」

 作「小さいって、是がうもなんと二十六年祟ったからねえ、執念深しゅうねんぶけ阿魔あまも有るもので、此のめえすけと書いてあるが、是は何う云う訳か累の子だと云うが、子でねえてねえ、助と云うのは先代の與右衞門の子で、是が継母まゝはゝいじめられ川の中へ打流ぶちながされたんだと云う、それが祟って累が出来たと云うが、なんだか判然はっきりしねえが、村の者も墓参りに来れば、是が累の墓だと云ってみんな線香の一本も上げるだ、それに願掛がんがけが利くだねえ、亭主が道楽ぶって他の女にはまってうちけえらぬ時は、女房が心配しんぺえして、何うか手の切れる様にねげえますと願掛すると利くてえ、妙なもので」

 賤「そうかね、私はまアうやって羽生村へ来て、旦那の女房おかみさんに、私の手が切れる様に願掛をされて、旦那に見捨てられては困るねえ」

 作「なに心配しんぺえしねえがいだ、大丈夫でえじょうぶ内儀おかみさんは分ったもんで、それに若旦那がって堅くするし、それに小さいけれども惣吉様も居るから其様そんな事はねえ、旦那は年い取ってるから、たゞ気に入ったで連れて来て、別に夢中になるてえ訳でもねえから、それに己連れて来たゞと云って話して、本家でも知ってるから心配しんぺえねえ、うちも旦那どんのなんで、貴方あんたうしてと云って、旦那のあつらえだから家も立派に出来たゞのう」

 賤「なんだか茅葺かやぶきで、妙なとがった屋根なぞ、其様そんな広い事はいらないといったんだが、一寸ちょっと離れて寝る座敷がないといけないからってねえ、土手から川の見える処は景色がいよ」

 作「うがすね。ヤア新吉さん」

 新「おや作さん久しくお目に掛りませんで」

 作「塩梅あんべいわりいてえがうかえ」

 新「何うもくなくって困ります」

 作「はアうかえくまア心に掛けて寺参りするてえ、おめえの様なわけえ人に似合わねえて、然う云って居る、えゝなアにあれは名主様の妾よ」

 新「ウン、アヽ江戸者か」


三十八


 作「深川の櫓下やぐらしたに居たって、名前なめえはおしずさんと云って如才じょさいねえ女子あまっこよ、年は二十二だと云うが、口の利き様はうめえもんだ、旦那様が連れて来たゞが、うちにも置かれねえから若旦那や御新造様と話合で別に土手下へ小さく一軒いええ造って江戸風に出来ただ、まア旦那が行かない晩は淋しくっていけねえから遊びにうと云うから、己が詰らねえ馬子唄アやったり麦搗唄むぎつきうたう云うもんだって唄って相手をすると、面白がって、それえ己がに教えてくれろなどと云ってなア、妙に馬士唄まごうたを覚えるだ、三味線さみせん弾いて踊りを踊るなア、食物くいものア江戸口で、おめえ塩の甘たっけえのを、江戸では斯う云ううめもん喰って居るからって、食物くいもなア大変八釜やかましい、鰹節かつぶしなどを山の様に掻いて、煮汁にしるを取って、あとは勿体ないと云うのに打棄うっちゃって仕まうだ、己淋しくねえように、行って三味線弾いては踊りを踊ったり何かするのだがね彼処あすこは淋しい土手下で、あんまり三味線弾いて騒ぐから、狸が浮れて腹太鼓をたゝきやアがって夜が明けて戸を明けて見ると、三匹ぐれえ腹ア敲き破ってひっくりけえって居る」

 新「嘘ばっかり」

 作「本当だよ」

 賤「一寸ちょいと〳〵作さん、なんにも見るとこが無いから、もう行こう」

 作「えゝめえりましょう」

 賤「一寸ちょいと作さん今話をして居た人は何所どこの人」

 作「れは村の新吉さんてえので」

 賤「私は見たような人だよ」

 作「見たかも知んねえ江戸者だよ」

 賤「おやうかい、一寸ちょっと気の利いたおつな人だね」

 作「えゝごく柔和おとなしい人で、墓参はかめえりばかりして居てね、身体がわりいから墓参りして、なんでも無縁様の墓ア磨けば幻術が使えるとか何とか云ってね、願掛がんがけえして」

 賤「おや気味の悪い、幻術使いかえ」

 作「今是から幻術使いになるべえと云うのだろう」

 賤「然うかえ妙な事が田舎には有るものだねえ、何かえ江戸の者で此方こっちへ来たのかえ」

 作「ヘエかみの三藏さんてえ人の妹娘いもとむすめお累てえが、おめえさん、新吉が此方へ来たので娘心に惚れたゞ、うか聟に貰えてえって恋煩いして塩梅が悪くなって、兄様も母親様おっかさまも見兼ねて金出した恋聟よ」

 賤「然うかえ、新吉さんと、おや新吉さんというので思い出したが、見た訳だよ私がね櫓下に下地子したじっこに成って紅葉屋もみじやに居る時分、の人は本石町の松田とか桝田とか云う貸本屋のうちに奉公して居て、貸本を脊負しょって来たから、私は年のいかない頃だけども、度々たび〴〵見て知って居るよ、大層芸者しゅもヤレコレ云って可愛がって、そう〳〵中々愛敬者で、知って居るよ」

 作「アヽマア新吉さん〳〵、おい此方こっちへ来なせえ、アノ御新造様がおめえを知って居るてねえ」

 新「何方様どなたさまでげすえ」

 賤「ちょいと新吉さんですか、私は誠にお見違みそれ申しましたよ、たしか深川櫓下の紅葉屋へ貸本を脊負ってお出でなすった新吉さんでは有りませんか」

 新「ヘエ、私もねえ先刻さっきからお見掛け申したような方と思ったが、もしも間違ってはいけねえと思って言葉を掛けませんでしたが、慥かお賤さんで」

 作「それだから知って居るだ何処どこ何様どんな人に逢うか知んねえ、嘘はけねえもんだ」

 賤「私は此の頃此方こっちへ来て、ういう処にいるけれども、馴染はなし、洒落を云ったってむこうに通じもしないし、ちっとも面白くないから、作藏さんが毎晩来て遊んでくれるので、些とは気晴しになるんだが、新吉さん本当にい処で、些とお出でなさいな、ちょうど旦那が遊びに来て居るから、変な淋しい処だけれども、閑静しずかで好いから一寸ちょいとお寄りな」

 新「ヘエ有難うございます、私はね此方こっちへ参りましてだ名主様へ染々しみ〴〵お近付にもなりませんで、兄貴が連れてお近付に参ると云って居りますが、なんだか気が詰ると思ってツイ御無沙汰をして参りませんので」

 賤「なに気が詰るどころじゃア無い、さっくりわかった人だよ、私を娘の様に可愛がって呉れるから一寸ちょいとお寄りな、ねえ作さん」

 作「それがい、新吉さんお出でよ、なんでもお出で」

 と勧められるから新吉は、幸い名主に逢おうときましたが、少し田甫たんぼを離れて庭があって、かこいは生垣になって、一寸ちょいとした門の形が有る中に花壇などがある。

 賤「さア新吉さん此方こっちへ」

 惣「大層遅かったな」

 賤「遅いったって見る処がないからかさねの墓を見て来ましたが、気味が悪くて面白くないから帰って来たの」

 作「只今」

 惣「大きに作藏御苦労、誰か一緒か」

 賤「の人は新吉さんと云って私が櫓下に居る時分、貸本屋の小僧さんで居て、その時分に本を脊負って来て馴染なので、思い掛けなく逢いましたら、まだ旦那様にお目に掛らないから、何卒どうかお目通りがしたいと云うから、それは丁度い、旦那様はうちに来て居らっしゃるからと云って、無理に連れて来たので」

 惣「おや〳〵そうか、さア此方こちらへ」

 新「ヘエ初めまして、わたくしはえゝ三藏のうちへ養子に参りました新吉と申す不調法者で、何卒どうぞ一遍は旦那様にお目通りしたいと思いましたが、掛違いましてお目通りを致しません、今日こんにち折柄おりがらお賤さんにお目に掛って出ましたが、ついお土産も持参致しませんで」

 惣「いゝえ、話には聞いたが、大層心掛の善い人だって、お前さん墓参りにく行くってね」

 新「ヘエ身体が悪いので法蔵寺の和尚様が、無縁の墓へ香花を上げると、身体が丈夫になると云うから、初めはけなしましたが、それでも親切な勧めだと思って参りますが、妙なもので此の頃は其の功徳かして大きに丈夫に成りました」

 惣「うん成程うかえ、能く墓参はかめえりをする、中々温順おとなしやかな実銘じつめいな男だと云って、村でも評判がい」

 賤「本当に極くおとなしい人で、貸本屋に居て本を脊負ってくる時分にも、一寸ちょっと来ても、新吉さん手伝っておくれなんて云うと、冬などは障子を張替えたり、水を汲んだり、外を掃除したり、誠に一寸人柄はしねえ、若い芸者衆は大騒ぎやったので、新吉さん遠慮しないで、窮屈になるとかえって旦那は困るから、ねえ旦那、初めてゞすからお土産などと云ったんだけれどもめましたが、初めてですからお金を一寸少しばかりって下さいな」

 惣「お金を、幾ら」

 賤「幾らだって少しばかりは見っともないし、貴方は名主だからヘエ〳〵あやまってるし、初めてですから三両もお遣んなさいよ」

 惣「三両、あんまり多いや一両でかろう」

 賤「お遣りなさいよ、むこうは目下だから、それに、旦那あの博多の帯はお前さんに似合いませんからの帯もお遣りなさいよう」

 惣「帯を、種々いろ〳〵な物を取られるなア」

 と是がはじまりで新吉は近しく来ます。


三十九


 お賤は調子が宜し、酒が出ると一寸小声で一中節いっちゅうぶしでもやるから、新吉は面白いからなお近しく来る。其のうちに悪縁とは申しながら、新吉とお賤と深い中に成りましたのは、れ有って知る者はございませんけれども、自然と様子がおかしいので村の者も勘付いて来ました。新吉はうちへ帰ると女房が、火傷のあと片鬢かたびんはげちょろになって居り、真黒なあざの中からピカリと眼が光るおばけの様な顔に、赤ん坊は獄門の首に似て居るから、新吉は家へ帰りい事はない。又それに打って代って、お賤の処へ来ると弁天様か乙姫の様な別嬪べっぴんがチヤホヤ云うから、新吉はこそ〳〵抜けては旦那の来ない晩には近くしけ込んで、作藏に少し銭を遣れば自由に媾曳あいびきが出来まするが、さて悪い事は出来ぬもので、兄貴は心配しても、新吉に意見を云う事は出来ませんから、お累に内々ない〳〵意見を云わせます、意見を云わないと為にならぬむこうが名主様だから知れてはならぬという、それを思うから、女房お累が少し意見がましい事をいうと、新吉は腹を立てゝ打ち打擲ちょうちゃく致しまするので、今迄と違って実に荒々しい事を致しては家を出てきまするような事なれども、人がいから、お累は心配する所から段々病気に成りまして、遂にはかしらられる様に痛いとか、胸が裂ける様だとか、しゃくという事を覚えて、只おろ〳〵泣いてばかりおります。兄貴は改って枕元へ来て、

 三「段々村方の者の耳に這入り、今日は老母としよりの耳にも這入って、捨てゝは置かれず、わしが附いて居て名主様に済まない、ことうちの物を洗いざらい持出して質に置き、水街道の方で遊んで、うちへ帰らずに、夜になればお賤の処へしけ込んでおり、お前が塩梅が悪くっても、子供が虫がおこっても薬一服呑ませる了簡りょうけんもない不人情な新吉、金をれば手が切れるから手を切ってしまえ」

 と兄が申しまする。所がお累は

うも相済みませんが、仮令たとえ親や兄弟に見捨てられても夫に附くが女の道、殊には子供も有りますから、お母様っかさんやお兄様あにいさまには不孝で有りますが、私は何うも新吉さんの事は思いられません」

 と、ぴったり云い切ったから、

 三「うなれば兄妹あにいもとの縁を切るぞ」

 と云渡して、まとめて三十両の金を出すと、新吉は幸い金がほしいから、兄と縁を切って仕舞って、行通ゆきかよいなし。新吉は此の金を持って遊び歩いてうちへ帰らぬから、自分はかえって面白いが、只憫然かわいそうなのは女房お累、次第〳〵に胸のほむらえ返る様になります。殊に子供は虫が出て、ピイ〳〵泣立てられ、糸の様に痩せても薬一服呑ませません。なれども三藏の手が切れたから村方の者も見舞に来る人もござりません。新吉はい気になりまして、種々いろ〳〵な物を持出しては売払い、布団どころではない、ついには根太板ねだいたまではがして持出すような事でございますから、お累は泣入っておりますが、三藏は兄妹のじょうで、縁を切っても片時も忘れるひまは有りません故、或日用達ようたしに参って帰りがけ、旧来居ります與助よすけと云う奉公人を連れて、そうっと忍んで参り、お累のうちの軒下に立って、

 三「與助や」

 與「ヘエ」

 三「新吉が居る様なれば寄らねえが、新吉が居なければ一寸ちょっと逢ってきたいからそっのぞいて様子を見て、新吉が居てはとても顔出しは出来ぬ」

 與「マア大概てえげえ留守勝だと云うから、寄って上げておくんなさえ、ねえ、憫然かわいそうで、貴方あんたの手が切れてからたれ見舞みめえにもかぬ、仮令たとえ貴方あなたの手が切れても、塩梅あんべえわりいから村の者は見舞みめえに行ったってもえが、それを行かぬてえから大概てえげえ人の不人情も分っていまさア、うか寄って顔を見てっておくんなさえ、わしもお累さんが小せえうちから居りやすから、訪ねてえと思うが、訪ねる事が出来ねえが、表で逢っても、新吉さんお累さんの塩梅あんべえは何うで、と云うと、なんわれは縁の切れたとこの奉公人だ、くたばろうと何うしようと世話にはならねえ、とう云うので、の野郎彼様あんな奴ではなかったが、魔がさしたのか、始終はハアろくな事はねえ、お累さんにとがはねえけれどもそれえ聞くとつい足遠くなる訳で」

 三「なんたる因果でお累は彼様な悪党の不人情な奴を思いれないというのは何かのごうだ、よ、覗いて見なよ」

 與「覗けませんよ」

 三「なぜ」

 與「うも檐先のきさきへ顔を出すと蚊が舞って来て、鼻孔はなめどから這入へえって口から飛出しそうな蚊で、アヽ何うもえれえ蚊だ、誰も居ねえようで」

 三「うか、じゃア這入って見よう」

 と日暮方で薄暗いから土間の所から探り〳〵上って参ると、煎餅せんべいの様な薄っぺらの布団を一枚敷いて、其の上へ赤ん坊を抱いてゴロリと寝ております。蚊の多いに蚊帳かやもなし、蚊燻かいぶしもなし、暗くって薩張さっぱり分りません。

 三「ハイ御免よ、おッ、此処こゝに寝て居る、えゝお累〳〵私だよ兄だよ…三藏だよ」

 累「は……はい」


四十


 三「アヽ危ない、起きなくってもいゝよ、そうしていなよ、うしてね、お前とは縁切えんきりに成って仕舞ったから、私が出這入りをする訳じゃアないが、縁はれても血筋は断れぬと云うたとえでなんとなく、お前のまよいから此様こんな難儀をする、うかしてお前の迷が晴れて新吉と手が切れてうちへ帰る様にしたいと思って居るから、もう一応お前の胸を聞きに来たので、新吉も居ない様子だから話に来た、エヽちょうど與助が供でね、あれもお前が小さい時分からの馴染だから、うぞ一目逢って来度きたいと云って、與助此方こっちへ這入りな」

 與「ヘエ有難う、お累さん與助でござえますよ、お訪ね申してえけれども、旦那にも云う通り、新吉さんが憎まれぐちイきくので、つい足イ遠くなって訪ねませんで、なげえ間塩梅あんべえが悪くってお困りだろう、何様どん塩梅あんべえで、エヽ暗くって薩張分りませんが、ちっとおさすり申しましょう、おゝおゝ其様そんなにやせもしねえ」

 三「それは己だよ」

 與「うかえおめえさんか、暗くって分らねえから」

 三「何しろ暗くって仕様がない、あかりけなければならん、新吉は何処どこへ行ったえ」

 累「はい有難う、あにさんく入らしって下さいました、お目に掛られた義理ではありませんが、何卒どうかもう私も長い事はございますまいから、一眼ひとめお目に掛って死にたいと存じましても、心がらでおび申す事も出来ない身の上に成りましたも、皆お兄様あにいさまやお母様っかさまばちでございますが、心に掛けておりました願いが届きまして、能く入らしって下さいました、與助能く来てお呉れだね」

 與「ヘエ、来てえけれどもねえ、うも来られねえだ、新吉が憎まれ口きくでなア、実にはア仕様がねえだ、蚊が多いなア、まア」

 三「新吉は何処へ行った、なに友達に誘われて遊びに行ったと、作藏と云う馬方と一緒に遊んで居やアがる、忌々いめえましい奴だ、蚊帳は何処にある、蚊帳を釣りましょう、なに無いのかえ」

 累「はい蚊帳どころではございません、着ております物を引剥ひんむいて持出しまして、売りますか質に入れますか、もう蚊帳も持出して売りました様子で」

 三「あきれますなうも、蚊帳を持出して売って仕舞ったと、この蚊の多いのによ」

 與「だから鬼だって、自分は勝手三眛かってざんまいして居るからかいくもねえが、それはお累様ア憎いたって、現在赤ん坊が蚊に喰殺されても構わねえて云うなア心が鬼だねえ」

 三「與助やうちへ行って蚊帳を取って来て呉んな、家の六畳で釣る蚊帳が丁度い、あれは六七ろくしちの蚊帳だから、あれで丁度よかろう、しあれでなければ七八しちはちの大きいので宜い病人の中へ這入ってさする者も広い方が宜いから」

 與「き往って来ましょう」

 三「早く往って」

 與「ヘエ、お累様じき往ってめえりますよ」

 と親切な男で、飛ぶようにして蚊帳を取りにきました。

 三「暗くっていかぬからあかりけましょう、何処どこに火打箱はあるのだえ、何所どこに、え、かまどを持出して売ったア、呆れますうも、うちではおまんまも喰わねえ了簡、左様そう云うにくい奴だ」

 と段々手探りで台所の隅へ行って、

 三「アヽこゝった〳〵」

 とようやく火打箱を取出しましてカチ〳〵打ちまするが、石は丸くなって火が出ない、漸くの事で火を附木つけぎに移し、破れ行燈あんどうを引出してあかりけ、善々よく〳〵お累の顔を見ると、実に今にも死のうかと思うほど痩衰えて、見る影はありませんから、兄三藏は驚きまして、

 三「あゝお累、お前是は一通りの病気ではない余程の大病だよ、此の前に来た時は此様こんなにやせてはいなかったが、何も食べさせはせず、薬一服せんじて呑ませる了簡もなく、出歩いてばっかり居る奴だから、自分には煮炊にたきも出来ずお前が此様な病気でも見舞に来る人もないから知らせる人もなし、物を食べなけりゃア力が附かないから、是では仮令たとえ病気でなくとも死にます、見れば畳も持出して売りやアがったと見えて、根太ねだ処々ところ〴〵がれて、まア縁の下から草が出ているぜ、実にうもひどいじゃアないか、えゝおい、の非道な新吉を何処どこまでもお前亭主と思って慕う了簡かえ、お前はばちがあたって居るのだよ、私がお母様っかさんにお気の毒だと思って種々いろ〳〵云うと、お母様は私への義理だから、なんの親同胞きょうだいを捨てゝ出る様な者は娘とは思わぬ、かたき同士だ、病気見舞にも行ってくれるな、彼様あんな奴は早く死ねばいゝ、と口では仰しゃるけれども、朝晩如来様に向って看経かんきんの末には、お累は大病でございます、何卒どうかお累の病気全快を願います、新吉と手を切りまして、一つ処へ親子三人寄って笑顔わらいがおを見て私も死度しにとうございます、何卒おまもりなすって下さいまし、と神様や仏様に無理な願掛がんがけをなさるも、お前が可愛いからで、親の心子知らずと云うのはお前の事で、さア今日は新吉とフッヽリ縁を切ります諦めますとお前が云えば、彼様な奴だから三十両か四十両の端金はしたがねで手を切って、お前をうちへ連れて行って、身体さえ丈夫になれば立派な処へ縁附ける、も無ければ別家べっけをしてもい、彼奴あいつ面当つらあてだからな、えゝ、今日は諦めますと云わなければなりませんよ、さア諦めたと云いなさい、えゝ、おい、云えないかえ、今日諦めなければ私はもう二度と再び顔は見ません、もう決して足踏あしぶみは致しません、もう兄妹の是が別れだ、ほかに兄弟があるじゃアなし、お前と私ばかり、お前亭主を持たないうちなんと云った、私がわきへ縁付きましても、子というはあにさんと私ぎりだから、二人でお母様に孝行しようと云ったじゃアないか、して見れば親の有難い事も知っているだろう、さア、お前の身が大事だからいうのだよ、返答が出来ませんかよ、えゝお累、返答しなければ私は二度と再び来ませんよ」


四十一


 累「はい〳〵」

 と利かない手をやっと突いてガックリ起上り、兄三藏の膝の上へ手を載せて兄の顔を見る眼にたまる涙の雨はら〳〵と膝にこぼれるのを、

 三「これ〳〵たゞ泣いていてはかえってやまいに障るよ」

 累「はいお兄様あにいさまどうも重々じゅう〳〵の不孝でございました、まア是迄御丹精を受けましたわたくしが、お兄様のお言葉を背きましては、お母様っかさま猶々なお〳〵不孝を重ねまする因果者、此の節のように新吉が打って変って邪慳では、とても側には居られません、少しばかり意見がましい事を申せば、手にあたる物でぶち打擲致しますから、小児あか可愛かわゆくないかと膝の上へ此の坊を載せますと、エヽうるせえ、とこんな病身の小児を畳の上へ放り出します、それほど気に入らぬ女房なれば離縁して下さい、兄の方へ帰りましょうと申しますと、男の子は男に付くものだから、此の與之助は置いてけと申します、彼様あんな鬼の様な人の側へ此の坊を置きましては、見す〳〵見殺しに致しまするようなものと、つい此の小僧に心が引かされて、お兄様やお母様に不孝を致します、せめて此の與之助が四歳よっつ五歳いつゝに成ります迄何卒どうぞお待ち遊ばして」

 三「其様そんな分らぬ事を云っては困りますよ、お前うも、四歳か五歳になる迄お前の身体がちゃアしませんよ、能く考えて御覧、子を捨てる藪はあるが身を捨てる藪はないと云うたとえの通りだ、置いてけと云うなら置いて行って御覧、乳はなし、困るからやっぱりお前の方へ帰って来るよ、エヽ、私の云う事を聴かれませんか、是程に訳を云ってもお前は聴かれませんかえ、悪魔が魅入ったのだ、お前そんな心ではなかったがなさけない了簡だ、私はもう二度と再び来ません、思えばお前は馬鹿になってしまったのだ、呆れます」

 と腹が立つのでは有りませんが、いもとが可愛い紛れに荒い意見をいうと、お累は取詰めて来ましてしゃくを起し、

 累「ウーン」

 と虚空を掴んで横にぱったり倒れましたから、三藏は驚きまして、

 三「エヽ困ったなア、少し小言を云うと癪を起すような小さい心でありながら、う云うもので、此様こんなに強情を張るのだろう、新吉の野郎め、困ったな、水はねえかな、何卒どうかこれ、お累しっかりしてくれよ、心をたしかに持たなければならんよ、此の大病の中で差込が来てはたまらん、確かりして」

 と一人で手に余る処へ、帰って来たは與助、風呂敷包に蚊帳の大きなのを持って、

 與「旦那取って来ました」

 三「蚊帳を取って来たか、今お累が癪を起して気絶してしまった」

 與「えゝまア、そりゃ、お累さん〳〵うしただ、これお累さん、あゝまア歯ア喰いしばって、えらい顔になって、是はまア死んだにちげえねえ、骨と皮ばかりで」

 三「死んだのじゃアねえ今じて来たのだが、アヽこれっ切りに成るかしら、あゝもうとても助かるまい」

 與「助からねえッてえ可哀そうに、これマアとても駄目だねえ、お累さんわしイ小せえうちから馴染ではござえませんか、私イ今ア蚊帳かやア取りに行く間待ってもかんべえがそれにマア死んでしまうとは情ねえ、彼様あん悪徒あくと野郎が側に附いて居るから、近所の者も見舞にも来ず、薬一服煎じて飲ませる看病人も無い、此様こんなになって死ぬのは誠に情ねえ訳で、うして死んだかなア」

 三「其様そんなに泣いたって仕様があるものか、命数が尽きれば仕方がねえ、其様に女々しく泣くな、男らしくもねえ、腹一杯親同胞きょうだいに不孝をして苦労を掛けて是で先立つたア此様こんな憎い奴はねえ、憫然かわいそうとは思わない、にくいと思え、泣く事はねえ、泣くな」

 與「泣くなって、泣いたってかんべえ、死んだ時でも泣かなきゃア泣く時はねえ、わしい憫然でなんねえだよ、んな立派なあにさんがあっても、薬一服煎じて飲ませねえで憫然だと思うから泣くのだ、お前さんも我慢しずに泣くがえ」

 三「まア水でも飲まして見ようか」

 與「まだ水も何も飲ませねえのかえ」

 三「オイおれが水を飲ませるから其処そこを押えて、首をうやって、固く成って居るからの、力一ぱい、なに腕が折れると、死んで居るから構やアしねえ、いか、今水を飲ませるから、ウグ〳〵〳〵〳〵」

 與「何だか云う事が分んねえ」

 三「いけねえ、己が飲んでしまった」

 與「仕様がねえな、くゝんでゝ喋れば飲込むだ、喋らずに」

 とようやく三藏が口移しにすると、水が通ったと見えて、

 累「ウム」

 という。

 三「アヽ與助、漸く水が通った」

 與「通ったか、通れば助かります、お累様ア、しっかりして、水が通ったから確かりして、お累さん〳〵」

 三「お累確かりしろ、あにさんが此処こゝに附いて居るから確かりしろよ」

 與「お累様確かりおしなさえよ、與助が此処へめえって居りますから、お累様、確かりおしなさえよ」

 累「ア…………」

 三「其方そっち退きなさい、頭を出すから、アヽ痛い」

 與「大丈夫でえじょうぶ己来たからよう、アヽ塩梅あんべえだ気が付いた、アヽ……」

 三「なん手前てめえ気が付きゃアそれで好いや、気が付いて泣く奴があるものか」

 與「嬉し涙で、もう大丈夫でえじょうぶだ」

 三「もう一杯飲むかえ、さア〳〵水を飲みなさい」


四十二


 累「ハイ……気が付きました、何卒どうぞ御免なされて下さい」

 三「私があんまり小言を云ったのは悪うございました、ついお前の身の上を思うばっかりに愚痴が出て、病人に小言を云って、病に障る様な事をして、あにさんが思い切りが悪いのだから、皆定まる約束と思って、もうなんにも云いますまい、小言を云ったのは悪かった、堪忍して」

 與「誰エ小言云った、能くねえこった、貴方あんた正直だからわりい、此の大病人たいびょうにんに小言を云うってえ、此の馬鹿野郎め」

 三「なんだ馬鹿野郎とは」

 與「けれども小言を云ったって、旦那様もお前様めえさまの身を案じてねえ、新吉さんと手が切れてうちけえれるようにしたいと思うから意見を云うので、悪く思わねえ様に、よう〳〵」

 三「蚊帳を持って来たから釣りましょう、恐ろしく蚊に喰われた、釣手があるかえ」

 累「釣手は売られないから掛って居ります」

 三「そうか」

 とようやく二人で蚊帳を釣って病人の枕元を広くして、

 三「あのね、今帰り掛けで持合せが少ないが、三両ばかりあるから是を小遣に置いてきましょう、私も諦らめてもう何も云いません、し小遣が無くなったらたれか頼んで取りによこしなよう、大事にしなよう、蚊帳を釣ったから、もういゝ、何も、もう其様そんな事を云うなえ、サ、きましょう〳〵」

 與「ヘエめえりましょう、じゃアねえ、お累さんきますよ、旦那様がけえるというからわしけえるが、大事にしてお呉んなさえよ、よう、くよ〳〵思わなえがえ、エヽうも仕様がねえ、けえりますよ」

 三「ぐず〳〵云わずに先へ出なよ、出なったら出なよ、先へ出なてえに」

 と兄が立ちに掛ると、利かない手を突いてようやくに這出して、蚊帳をまくってお累が出まして、きに掛る兄のすそを押えたなり、声を振わして泣倒れまする。

 三「其様そんなにお前泣いたり何かすると毒だよ、さア蚊帳の中へ這入りな、坊が泣くよ、さア泣いているから這入んな」

 累「お兄様あにいさま只今まで重々の不孝を致しました、先立って済みませんが、とても私は助かりません、何卒どうぞ御立腹でもございましょうがお母様っかさまたった一目お目に掛って、お詫をして死にとう存じますが、お母様においで下さる様に貴方からお詫をなすって下さいませんか」

 三「もうそんな事をおいいでないよ、お母様もまた是非来たがって居るのだからお連れ申す様にしましょう、其様そんな事をいわずにくよ〳〵せずに、さア〳〵蚊帳の中へ這入って居なよ」

 與「大丈夫でえじょうぶだよ、お母様ア己が連れて来るよ、其様な事を云うと悲しくってけえれねえから這入ってお呉んなさえよ、ア、赤ん坊が泣くよ、憫然かわいそうに本当に泣けねえ」

 三「アヽ鼻血が出た、與助、男の鼻血だから仔細はあるまいけれども、盆凹ぼんのくぼの毛を一本抜いて、ちり毛を抜くのはまじねえだから、アヽいてえ、其様そんなに沢山抜く奴があるか、一掴ひとつかみ抜いて」

 與「沢山たんと抜けば沢山くと思って」

 三「えゝ痛いワ、さあ〳〵行きますよ」

 と名残なごりおしいが、二人とも外へ出ると生憎あいにく気になる事ばかり。

 三「アヽ痛」

 與「うかしましたかえ」

 三「下駄の鼻緒が切れた」

 與「横鼻緒が切れましたか、ヘエ」

 三「與助何うも気になるなア、お累の病気はとても助かるまいよ」

 與「ヘエ助かりませんか、憫然かわいそうにねえ、早くお母様アおよこし申す様にしましょうか」

 三「何しろ早く帰ろう」

 と三藏が帰ると、入違えて帰って来たのは深見新吉。酒の機嫌で作藏を連れてヒョロ〳〵よろけながら帰って来て、

 新「オイ作藏、今夜行かなければ悪かろうなア」

 作「わりいって悪くねえって行かねば己叱られるだ、行って遣って下せえ、出掛でがけおらア肩たてえてなア、作さん今夜新吉さんを連れて来ないと打敲ぶったゝくよ、と云ってう脊中アったから、なに大丈夫でえじょうぶだ、一杯いっぺえ飲んで日が暮れると来るから大丈夫だと云って、声掛けて来ただ」

 新「いつもたびむこうで散財して、酒肴さけさかなを取って貰って、あんまり気が利かねえ、ちっとはうめえ物でも買ってこうと思うが、金がねえから仕方がねえ」

 作「金エなくったって、向でもって小遣もおれに呉れて、何うもハア新吉さんなら命までも入れ上げる積りだよ、と姉御あねごが云ってるから、行って逢っておりなせえよ」

 新「明日あしたはまた大生郷辺で一杯いっぺえ遣って日を暮さなければ成らねえ、仕方がねえから今日はうちに寝ようと思って」

 作「家に寝るって、おらが困るから行ってよう」

 新「コウ〳〵見ねえ〳〵」

 作「なんだか」

 新「妙な事がある、おれの家に蚊帳が釣ってある」

 作「ハテ是は珍らしいなア、是は評判すべえ」


四十三


 新「其様そんな余計な憎まれ口をきくなえ、今行違ゆきちがったなア三藏だ、己が留守に来やアがって蚊帳ア釣ってきやアがったのだな、んな大きな蚊帳がるもんじゃアねえ、蚊帳をそっと畳んで、離れたとけえ持って行って質に入れゝば、二両や三両は貸すから、病人に知れねえ様に持出そう」

 作「だから金と云うものは何処どこから来るか知れねえなア、取るべえ」

 新「手前てめえひょろ〳〵していていけねえ、病人が眼をさますといけねえから」

 と云うが、酔っておりますから階子はしご打突ぶっつかって、ドタリバタリ。是では誰にでも知れますが、新吉が病人の頭の上からソックリ蚊帳を取って持出そうとすると、お累は存じて居りますから、

 累「旦那様お帰り遊ばせ」

 新「アヽ眼が覚めたか」

 累「はい、貴方此の蚊帳をうなさいます」

 新「何うするたって暑ッ苦しいよ、今友達を連れて来たが、狭いうちにだゞっぴろい大きな蚊帳を引摺り引廻ひんまアして、風が這入らねえのか、暑くって仕様がねえから取るのだ」

 累「坊が蚊にわれて憫然かわいそうでございますから、何卒どうかそれだけはお釣り遊ばして」

 新「少し金が入用いりようだからよ、これを持って行って金を借りるんだ、友達の交際つきあいで仕様がねえから持って行くよ」

 累「はい、それをお持遊ばしては困りますから何卒どうぞお願いで」

 新「お願いだって誰がこんな狭いうちへ大きな蚊帳を引摺り引廻ひんまわせと云った、こゝは己のうちだ、誰が蚊帳を釣った」

 累「はい今日こんにち兄が通り掛りまして、手前は憎い奴だが如何にも坊が憫然だ、蚊ッくいだらけになるから釣って遣ろうと申して家から取寄せて釣ってくれましたので」

 新「それが己の気に入らねえのだ、よ、兄と己は縁が切れて居る、手前てめえは己の女房だ、親同胞きょうだいを捨てゝも亭主に附くと手前云ったかどがあるだろう、うじゃアねえか、え、おい、縁の切れた兄を何故なぜ敷居をまたがせて入れた、それが己の気に入らねえ、兄の釣った蚊帳なればなお気に入らねえ、気色がわりいから是を売って他の蚊帳にするのだ」

 累「何卒どうぞ金子かねがお入用いりようなれば兄が金を三両程置いて参りましたから、是をお持ち遊ばして、蚊帳だけは何卒どうか

 新「金を置いて行った、そうか、どれ見せろ」

 作「だから金は何処どこから出るか知んねえ、富貴ふうき天にあり牡丹餅ぼたもち棚にありと神道者しんどうしゃが云う通りだ、おいサア行くべえ」

 新「行くったって三両ばかりじゃア、塩噌えんそに足りねえといけねえ、蚊帳もついでに持って行って質に入れ様じゃアねえか」

 作「マア蚊帳は止せよ、子供が蚊に喰われるからと姉御が云うから、三両取ったら堪忍して遣って、子供が憫然だから蚊帳は止せよ」

 新「なんよええ事を云うな」

 作「弱えたって人間だから、お内儀かみさんが塩梅あんべえわりいのに憫然ぐれえ知って居らア、止せよ」

 新「憫然も何も有るもんか、何を云やアがるのだ此ン畜生ちきしょう、蚊帳を放さねえか」

 累「それは旦那様お情のうございます、金をお持ち遊ばして其の上蚊帳までも持って行ってはわたくしは構いませんが坊が憫然で」

 新「なんだ坊は己の餓鬼だ、何だ放さねえかよう、此畜生こんちきしょうめ」

 とこぶしを固めて病人の頬をポカリ〳〵つから、是を見て居る作藏も身の毛つようで、

 作「止せよ兄貴、己酒のえいも何もめて仕舞った、兄貴止せよ、姉御、見込んだら放さねえ男だから、なア、仕方がねえから放しなさえ、だが、敲くのは止せよ」

 新「なに、此畜生め、オイ頭のはげてるとこつと、手が粘って変な心持がするから、棒か何かえか、其処そこ麁朶そだがあらア、其の麁朶を取ってくんな」

 作「止せよ〳〵、麁朶はお願いだから止せよ」

 新「なに此畜生なぐるぞ」

 作「姉御麁朶を取って出さねえとおらを撲るから、放すがえ、見込まれたら蚊帳は助からねえからよ」

 新「サア出せ、出さねえと撲るぞ、厭でも撲るぞ、此度こんだア手じゃアねえまきだぞ、放さねえか」

 累「アヽお情ない、新吉さん此の蚊帳は私が死んでも放しません」

 とすがりつくのを五つ六つ続けうちにする。泣転なきころがる処を無理に取ろうとするから、ピリ〳〵と蚊帳が裂ける生爪ががれる。作藏は、

 作「南無阿弥陀仏〳〵、ひどい事をするなア、顔は綺麗だが、おっかねえ事をする、こええなア」

 新「サア此の蚊帳かやア持ってこう」

 作「アレ〳〵」

 新「なに」

 作「爪がよう」

 新「どう、ちげえねえ縋り付きやアがるから生爪が剥がれた、厭な色だな、血が付いて居らア、作藏めろ」

 作「厭だ、よせ、虫持むしもちじゃア有るめえし、爪え喰う奴があるもんか」

 新「此の蚊帳かやア持って往ったら三両か五両も貸すか」

 作「くもんか」

 新「爪を込んで借りよう」

 作「琴の爪じゃアあるめえし」

 とずう〳〵しい奴で、其の蚊帳を肩に引掛ひっかけて出てきます。お累は出口へう這出したが、口惜くやしいと見えて、

 累「エヽ新吉さん」

 と云うと、

 新「何をいやアがる」

 とツカ〳〵と立ち戻って来て、脇に掛って有った薬鑵やかんを取って沸湯にえゆを口から掛けると、現在我が子與之助の顔へ掛ったから、子供は、

 子供「ヒー」

 と二声ふたこえ三声みこえ泣入ったのが此の世のなごり。

 累「鬼の様なるお前さん」

 新「何をいやアがるのだ」

 と持って居た薬鑵を投げると、もろに頭から肩へ沸湯をあびせたからお累は泣倒れる。新吉は構わずに作藏を連れて出て参りましたが、斯う憎くなると云うのは、仏説でいう悪因縁で、心から鬼は有りませんが、憎い〳〵と思って居る処から自然と斯様かような事になります。


四十四


 新吉は蚊帳を持って出まして、是を金にして作藏と二人でお賤の宅へしけ込み、こっそり酒宴さかもりを致して居ります、其の内に段々と作藏が酔って来ると、馬方でございますから、野良で話をつけて居りますから、つい声が大きくなる。

 新「おい作、手前てめえ酔うと大きな声を出して困る、ちっと静かにしろ」

 作「静かにたって、大丈夫でえじょうぶ人子ひとっこ一人通らねえ土手下の一軒家田や畑で懸隔かけへだって誰も通りゃアしねえから心配しんぺえねえよ」

 賤「いゝよ、私はまた作さんの酔ったのは可笑しいよ余念が無くって、お前さん慾の無い人だよ」

 作「慾がこたアねえ、是で慾張って居るだが、何方どっちかというと足癖のわりい馬ア曳張ひっぱって、下り坂を歩くより、兄いと二人で此処こけえ来て、斯う遣って酔って居ればいからね、先刻さっきおらえいが醒めたね」

 新「止せえ、先刻の話は止せよ」

 作「止せたってお賤さん、おめえマア新吉さんは可愛いゝ人だと思って居るから、首尾して、他人ひとにも知んねえようにしらばっくれて寄せるけれども、新吉さんが此処こけえ来るってえ心配しんぺえりアおれ魂消たまげた事がある、今日ね」

 新「そんな詰らねえ事をいうな手前てめえは酔うとおしゃべりをしていけねえ」

 作「お喋りったって、一杯いっぺえ飲んで図に乗っていうのだ、エヽ、おい、それでねえ、マア一杯飲んでけえった処が、銭イなえと云うから、無くったっていや、なんでもお賤さんのとこへ行ってお呉んなせえというと、いつも行って馳走になって小遣こづけえ貰ってけえるべえ能でもねえじゃアねえか、何卒どうか己もたまにアうめえ物でも買って行って、お賤に食わしてえって、其処そこはソレ情合じょうあいだからそんな事を云ったゞが、いゝや旨え物持って行くたってえものはハア駄目だ、お賤さんの方が、旨え物こしれえて待って居るから今夜呼んで来てくんなせえよと、己が頼まれたから構わねえじゃアねえかと云っても、金が無ければてえのでうちけえると、家に蚊帳が釣って有るだ」

 新「よせ〳〵、そんな話は止せよ」

 作「話したってかんべえ、それで其の蚊帳かやア質屋へ持って行こうって取りに掛ると、女房かみさん塩梅あんべえわりいし赤ん坊は寝て居るし」

 新「コレよせ、よさねえか」

 作「云ったってえ、そんなに小言云わねえが宜え、蚊帳へすがり付いて、おらア宜えが子供が蚊に喰われて憫然かわいそうだから何卒どうかよう、と云ってハア蚊帳に縋り付くだ、それを無理に引張ったから、おめえ生爪エ剥したゞ」

 新「おい冗談じゃアねえ、折角の興が醒めらア、止せ、くすぐるぞ」

 作「擽ぐッちゃアいけねえ」

 新「お喋りはよせ」

 作「宜えやな」

 新「冗談云うな、喋ると口をおせえるぞ」

 作「よせ、口をおせえちゃアいけねえ、エ、おいお賤さん、其の爪をおれがに喰えって、誰が爪エ食う奴が有るもんかてえと、己が口へおッぺし込んだゞ、そりゃアまア宜えが、おめえ薬鑵を」

 新「冗談はよせ」

 作「いゝや、よせよ擽ぐってえ」

 新「寝ッちまいな〳〵」

 と無理にだまして部屋へ連れて行って寝かしてしまいました。それから二人も寝る仕度になりますと、う云う事か其の晩は酒の機嫌でお賤がすや〳〵能く寝ます。雨はどうどと車軸を流す様に降って来ました。彼是八ツ時でもあろうと云う時刻に、表の戸をトン〳〵。

「御免なさい〳〵」

 新「お賤〳〵誰か表を叩くよ、能く寝るなア、お賤〳〵」

 賤「あいよ、あゝ眠い、うしたのか今夜の様に眠いと思った事はないよ」

 新「誰か表を叩いて居る」

 賤「はい、何方どなた

一寸ちょっと御免なすって、わたくしでございます」

 新「なんだ庭の方から来たようだぜ」

 賤「今明けますよ、何方でございますか名を云って下さらないでは困りますが」

「ヘイ新吉の家内、累でございます」

 賤「え、お内儀かみさんが来たとさア、はい只今」

 新「よしねえ、来る訳はねえ、病人で居るのだもの」

 賤「お前逢って」

 新「来る気遣きづけえねえよ」

 賤「気遣きづかえがないったって、お内儀が迎いに来たのだから嬉しそうな顔付をしてさ」

 新「冗談じゃアねえ、嬉しい事も何もあるもんか、来る気遣きづけえねえよ」

 賤「只今開けますよ、大事な御亭主を引留めて済みませんねえ」

 と仇口あだぐちをきゝながら、がらりと明けますと、どん〳〵降る中をびしょ濡になって、利かない身体で赤ん坊を抱いて漸々よう〳〵と縁側から、

 累「御免なさい」

 と這入ったから、

 新「なんだって此の降る中を来たのだなアうしたのだ」

 累「貴方がお賤さんでございますか、駈違かけちがってお目に掛りませんが、毎度新吉が上りまして、御厄介様になりますから、何卒どうか一度はお目に掛ってお礼を申しいと存じておりましても、何分にも子供はございますし、わたくしうより不快でおりました故、御無沙汰を致しました」

 賤「誠にまア何うも降る中を夜中やちゅうにおいでなすって、そんな事を仰しゃっては困りますねえ、新吉さんも江戸からのお馴染でございますから、私は此方こっちへ参っても馴染も無いもんでございますから、遊びにお出なすって下さいと、私が申しました、それから旦那も誠に贔屓ひいきにして、うやってお出なさるが、御亭主を引留めて遊ばしたと云えば、お前さんも心持がくは有りますまいけれども、是に付いては種々いろ〳〵深い訳がある事でございますが、それは只今何も云いません、新吉さん折角迎いにお出でなすったからお帰りよ」

 新「けえることはねえ、おい、おめえ冗談じゃアねえ、そんななりをして来て見っとも無い、亭主の恥をさらしに来る様なものだ、エなんだなア、おい、此の降る中を、お前なんだ逆上のぼせて居るぜ、たじれて居るなア」

*「のぼせて気が変になる。むちゅうになって気ちがいじみる」


四十五


 累「はい、たじれたか知りません、私はうなっても宜しゅうございますが、貴方のだから殺とすも何共どうとも勝手になさいだが、表向には出来ませんから、此の坊やアだけは今晩が明けないうち法蔵寺様へでも願って埋葬ともらいを致したいと存じます、誰もうちへ参りはなし、私が此の病人では何う致す事も出来ませんから、何卒どうぞ一寸お帰りなすって、お埋葬とむらいだけをなすって、うして又此方こちらへ遊びに入らしって下さい、お賤さん、私が申しますとやどが立腹致しますから、何卒どうかあなたから、今夜だけ帰って子供の始末を付けてやれと仰しゃって」

 賤「はい、お帰りよ新吉さんよう」

 新「けえれたって夜中に仕様がねえ」

 賤「夜中だって用があって迎いに来たのだからお帰りよ、旨く云って居ても本木もときまさ梢木うらきは無いという事だからねえ、お内儀かみさんに迎いに来られゝば心持がいねえ、旨く云ったってにこ〳〵顔付に見えるよ」

 新「何がにこ〳〵、冗談じゃアねえ、けえらねえ、おい」

 累「はい、何卒どうかお前さん坊の始末を」

 新「始末も何もねえ、かねえか」

 賤「其様そんなに云わずにお前お帰りよ、折角お迎いにおいでなすったに誠にお気の毒様、大事な御亭主を引留めてね、さアお帰りよ、手を引かれてよ」

 新「何を云うのだ、けえらねえか」

 と、さア癇癪に障ったから新吉は、突然いきなり利かない身体の女房お累の胸倉を取るが早いか、どんと突くと縁側から赤ん坊を抱いたなりコロ〳〵と転がり落ち、

 累「あゝ情ない、新吉さん、今夜帰って下さらんと此のの始末が出来ません」

 と泥だらけの姿で這上るところを突飛ばすと仰向に倒れる、と構わずピタリと戸をてゝ、おろざんをして仕舞ったから、表ではお累がワッと泣き倒れまする。此の時雨は愈々いよ〳〵はげしくドウドッと降出します。

 新「エヽ気色がわりい、酒を出しねえ」

 賤「酒をったって私は困るよ、彼様あんひどいことをして、一寸帰っておりよ」

 新「うまく云ってやアがる、酒を出しねえ、冷たくってもいや」

 と燗冷かんざましの酒を湯呑に八分目ばかりもいで飲み、

 新「おめえも飲みねえ」

 と互に飲んで床につくと、ういう訳か其の晩は、お賤が枕を付けると、常になくすや〳〵能く寝ます。小川から雨の落込んで来る音がどう〳〵といいます。夜はけて一際ひときわしんと致しますと、新吉は何うも寝付かれません。もう小一時こいっときったかと思うと、二畳の部屋に寝て居りました馬方の作藏がうなされる声が、

 作「ウーン、アア……」

 新「いめえましい奴だな、此畜生こんちきしょう、作藏〳〵おい作や、魘れて居るぜ、作藏、眼を覚まさねえかよ、作藏、夢を見て居るのだ」

 作「エ、ウウ、ウンア」

 新「忌えましい畜生だ、やい」

 作「ヘエ、あゝ」

 新「きもを潰さア、冗談じゃアねえ寝惚けるな、お賤が眼を覚さア」

 作「寝惚けたのじゃアねえよ」

 新「何うした」

 作「おれ彼処あすこに寝て居るとおめえ、裏の方の竹を打付ぶっつけた窓がある、彼処のお前雨戸を明けて、何うして這入へえったかと見ると、お前の処の姉御、お累さんが赤ん坊を抱いて、ずぶ濡れで、痩せた手を己の胸の上へ載せて、よう新吉さんをけえしておくんなさいよ、新吉さんを帰しておくんなさいよと云って、己が胸を押圧おっぺしょれる時の、こええの怖くねえのって、己はせつなくって口イ利けなかった」

 新「夢を見たのだよ、種々いろんな事で気を揉むからう云う夢を見るのだ、夢だよ」

 作「夢でえよ、あゝ彼処の二畳の隅に樽があるだろう」

 新「ウン」

 作「樽の上にみのが掛けてある」

 新「ウン、ある」

 作「簑の掛けてある処に赤ん坊を抱いて立って居るよう」

 新「よせ畜生、気のせいだ」

 作「気の故じゃア無え、あゝおっかねえ、あれ〳〵」

 新「おい潜り込んで己の処へ這入へえって来ちゃアいけねえ、仕様がねえなア」

 とん〳〵、

「御免なさい〳〵」

 新「誰だい」

 作「また来た、あゝ怖っかねえ〳〵」

 新「誰だい」

 男「えゝ新吉さんは此方こちらにおいでなさいますか、ちょっくらけえって、うちは騒ぎが出来ました、お累さんが飛んだ事になりましたから方々ほう〴〵捜して居たんだ、すぐけえって下せえ」

 作「誰だか」

 新「誰だか見な」

 作「怖くって外へは出られねえ、みんな此処こゝに居るだけれども、中々歩く訳にいかねえ、足イすくんで歩かれねえ」


四十六


 新「何方どなたでございます」

 とガラリと明けて見ると村の者。

 男「やア新吉さん、居たか、あゝかった、さアけえって、気の毒ともなんとも姉御の始末が付かねえ、うも捜したの捜さねえのって直ぐけえらないではいけねえ、届ける所へ届けて、名主様へも話イしてね、困るから、さアけえって」

 と云われ、新吉はなんの事だかとんと分りませんが、致し方なく夜明け方に帰りますると、情ないかな、女房お累は、草苅鎌の研澄とぎすましたので咽喉笛のどぶえかき切って、片手に子供を抱いたなり死んで居るから、ぞっとする程凄かったが、仕方がないから気がちがってなどと云立て、ず名主へも届けて野辺送りをする事になりました。それからは懲りて三藏も中々容易に寄り付きません。新吉もお累が死んで仕舞ったあとは、三藏から内所で金を送る事もなし、別に見当みあてがないから宿替やどがえをしようと、欲しがる人に悉皆そっくり家を譲って、時々お賤の処へしけ込みます。其の間は仕方がないから、水街道へ参って宿屋へ泊り、大生郷の宇治の里へ参って泊りなどして、惣右衞門が留守だと近々ちか〴〵しけ込みます。世間でもかんづいて居るから新吉は憎まれ者で、たれも付合う人がない。横曾根あたりの者は新吉に逢っても挨拶もせぬようになりました。新吉はどん〳〵降る中をっと忍んでお賤のとこへ来ました。

 新「おい〳〵お賤さん」

 賤「あい新吉さんかえ」

 新「あゝ明けておくれな」

 賤「あい能くおいでだね、傘なしかえ」

 新「傘は有ったが借傘かりがさで、柄漏えもりがして、差しても差さねえでも同じ事でずぶ濡だ、旦那の病気はうだえ」

 賤「お前がちょい〳〵見舞に来てくれるので、新吉は親切な者だ心に掛けてちょく〳〵来て呉れるが感心だって、悦んで居るが、年が年だからねえ、なんだって五十五だもの、病気疲れですっかり寝付いて居るからおあがりよ」

 新「そうかえ夜来るのも極りが悪い様だが、実は少し小遣こづけえが無くなって、ほかへ泊る訳にいかねえから、看病かた〴〵来たのだが、能く御新造さんが承知で旦那を此方こっちへよこして置くね」

 賤「なにろくな看病もしないけれども、おうちでは気に入らないと云ってね、気に入った処で看病をして貰う方がよいと人が来ると憎まれ口を利くから、お内儀かみさんも若旦那も此の二三日来ないから、私一人で看病するのだから実は困るよ、困るけれども其の代りには首尾がよくって、種々いろ〳〵旦那に話して置いた事もあるのだからね、遺言状まで私は頼んで書いて貰って置いたから、今能く寝付いて居るし、遊んでおいでな、ゆさぶっても病気疲れで能く寝て居るから、こゝで何を云っても旦那に聞える気遣きづかいは無し、他に誰も居ないから、真に差向いで話しするがね、私は旦那に受出されて此処こゝへ来て、お前とは江戸に居る時分から、まア心易こゝろやすいが、私の方で彼様あんな事を云出してから、お前も厭々ながらお内儀かみさんまであゝ云う訳になって苦労さした事も忘れやアしないから、私は何処どこ迄もお前に厭がられてもすがりつく了簡だが、しお前に厭がられ、見捨てられると困るが、見捨てないというお前の証拠が見度みたいわ」

 新「見捨てるも見捨てないも実はお前己だって身寄頼りもない身体、今はうなって誰も鼻撮はなッつまみで新吉と云うと他人は恐気おぞけふるって居るのだ、長く此処こゝに居る気もないから、いっそ土地を変えて常陸ひたちの方へでもこうか、上州の方へ行こうか、それとも江戸へけえろうかと思う事も有るが、お前が此処に居るうちうしても離れる事は出来ないが、村中むらじゅうで憎まれてるから土手に待伏でもして居て向臑むこうずねでも引払ひっぱらわれやアしねえかと心配でのう」

 賤「私も一緒に行って仕舞いいが、今旦那が死掛って居るから、旦那が死んで仕舞えばかれるが、今すぐには行けない、大きな声では云えないけれども、私は形見分かたみわけの事も遺言状に書かして置いたし、お前の事も書かしてね、其処そこは旨く行って居るけれども、旦那がなおればまだ五十五だもの、其様そんなにお爺さんでもないから、達者になりゃア何時いつ迄も一緒に居て、ベン〳〵とおんじいの機嫌を取らなければならないが、新吉さん無理な事を頼む様だが、お前私を見捨てないと云う証拠を見せるならば今夜見せてお呉れ」

 新「うしよう」

 賤「うちの旦那を殺してお呉れな」


四十七


 新「殺せって其様そんな事は出来ねえ」

 賤「なぜ〳〵なぜ出来ないの」

 新「人情として出来ねえ、お前の執成とりなしいから、旦那は己が来ると、新吉手前てめえの様に親切な者はねえ、小遣こづけえを持って行け、独身ひとりみでは困るだろう、此の帯は手前にる着物も遣ると、仮令たとえ着古した物でも真に親切にして呉れて、旦那の顔を見てはうしても殺せないよ」

 賤「殺せます、だから新吉さん、私はお前が可愛いと云うじょうのない事を知って居るよ」

 新「情がないとは」

 賤「情が有るなら殺してお呉れよ」

 新「情が有るから殺せないのだ」

 賤「何を云うのだね、じれったいよ、お出でったらお出でよ」

 うなると婦人の方が度胸のいもので、新吉の手を引いて病間へそうっと忍んで参りますと、惣右衞門は病気疲れでグッスリと寝入端ねいりばなでございます。ブル〳〵ふるえて居る新吉に構わず、細引ほそびきを取ってむこうの柱へ結び付け、惣右衞門の側へ来て寝息をうかがって、起るか起きぬかためしに小声で、

 賤「旦那〳〵」

 と二声ふたこえ三声みこえ呼んでみたが、グウ〴〵といびき途断とぎれませんから、そっと襟の間へ細引を挟み、また此方こちらあやに取って、お賤は新吉に眼くばせをするから、新吉ももう仕方がないと度胸をえて、細引を手にき付けて足を踏張ふんばる。お賤は枕を押えて、

 賤「旦那え〳〵」

 と云いながら、枕を引く途端、新吉は力にまかして、

 新「うーム」

 と引くと仰向に寝たなり虚空を掴んで、

 惣「ウーン」

 賤「じれったいね新吉さん、グッとうお引きよ、もう一つお引きよ」

 新「うむ」

 と又引く途端新吉は滑ってうしろの柱で頭をコツン。

 新「アイタ」

 賤「アヽじれったいね」

 と有合ありあわせた小杉紙こすぎがみ台処だいどころ三帖さんじょうばかり濡して来て、ピッタリと惣右衞門の顔へ当てがって暫く置いた。新吉はそれ程の悪党でもないからブル〳〵ふるえて居りまする。濡紙を取って呼吸を見るとパッタリ息は絶えた様子細引を取って見ると、咽喉頸のどくびに細引でくゝりましたきずが二本付いて居りますから、手のひらで水を付けてはしきりに揉療治を始めました。すると此の痕は少し消えた様な塩梅。

 賤「さアもう大丈夫だ、新吉さんお前は今夜帰って、そうしてこれ〳〵にするのだから、明日あしたお前悟られない様に度胸をえて来てお呉れよ」

 といって新吉を帰して、すっぱり跡方の始末を付けて、すぐに自分は本家へ跣足はだしで駈込んできまして

 賤「旦那様がむずかしくなりましたからおいでなすって、まだ息は有りますが御様子が変ったから」

 というと驚きまして、本家ではせがれ惣二郎そうじろうから弟息子の惣吉そうきちにお内儀かみさん村の年寄が駈けて来て見ると間に合いません間に合わない訳で、殺した奴が知らしたのでございますから。是非なく是から遺言状をというので出して見ると、其の書置かきおきに、私は老年の病気だから明日あすが日も知れん、し私がのちは家督相続は惣二郎、又弟惣吉は相当の処へ惣二郎の眼識めがねを以て養子に遣って呉れ、形見分かたみわけは是々、何事も年寄作右衞門と相談の上事をはかる様、お賤は身寄頼りもない者、無理無体に身請をして連れて来た者であるから、私が死ねばみんなに憎まれて此の土地にいられまいから、元々の通り江戸へ帰して遣ってくれ、帰る時は必ず金を五十両付けて帰してくれ、形見分はお賤に是々、新吉は折々見舞に来る親切な男なれども、お賤と中がよいから、村方の者は密通でもしている様に思うが、あれは江戸からのちかしい男で、左様な訳はない、親切な者で有る事は見抜いているから、己が葬式は、本葬はあとでしても、遺骸をうずめるのは内葬にして、湯灌ゆかんは新吉一人に申し付ける、ほかの者は親類でも手を付ける事は相成らぬ。という妙な書置でございますが、田舎は堅いから、其の通りにずお寺様へ知らせに遣り、り内葬だから湯灌に成りましても新吉一人、湯灌は一人では出来ぬもので、早桶を湯灌場に置いて、たれも手を付けては成らぬというのだから、

 新「皆さん入らしっては困りますよ、遺言に背きますから」

「実にお前は仕合しやわせだ」

 と年寄から親類の者も本堂に控えて居る。是から早桶の蓋を取ると合掌を組んだなり、惣右衞門の仏様はう首を垂れて居るのを見ると、新吉は現在自分が殺したと思うとおど〳〵して手が附けられません。ことに一人では出来ないがと思って居る処へ、土手の甚藏という男、是は新吉と一旦兄弟分に成りました悪漢わる

 甚「新吉〳〵」

 新「兄いか」

 甚「一寸ちょっと顔出しをしたのだが、本家へ行ったらお内儀かみさんが泣いているし、誠にお愁傷でのう、惜しい旦那を殺した、えゝ此のくれえ物のわかったあんな名主は近村きんそんにねえい人だが、新吉、手前てめえ仕合しやわせだな、一人で湯灌を言付けられて、形見分もたんまりと、エおい、おつう遣っているぜ」

 新「かえって有難迷惑で一人で困ってるのだ」

 甚「困るたって新吉、一人で湯灌は馴れなくっては出来ねえ、おい、それじゃアいかねえ、内所で己が手伝って遣ろうか」

 新「じゃア内所で遣ってくんねえ」


四十八


 甚「弓張ゆみはりなざア其方そっちの羽目へ指しねえな、提灯ちょうちんをよ、たれえを伏せて置いて、仏様のわきの下へ手を入れて、ずうッと遣って、盥のきわで早桶を横にするとずうッと足が出る、足を盥の上へ載せて、胡坐あぐらをかゝせて膝でおせえるのだ、自分の胸の処へ仏様の頭を押付おっつけて、肋骨あばらぼねまで洗うのだ」

 新「一人じゃア出来ねえ」

 甚「己は馴れていらア、手伝って遣ろう」

 新「う」

 甚「何うだってたれえを伏せるのだよ、提灯ちょうちん其方そっちへ、えゝくれしんを切りねえ、えゝ出しねえ、出た〳〵オヽ冷てえなア、お手伝いでござえ、早桶をグッと引くのだ」

 新「何う」

 甚「何うたってグッと力に任して、えゝ気味を悪がるな」

 新「あゝ出た〳〵」

 甚「出たって出したのだ、さア胡座あぐらをかゝせな、たれえの上へ、し〳〵そりゃ来た水を、水だよ、湯灌をするのに水が汲んでねえのか、仕様がねえなア、早く水を持ってねえ」

 と云うから新吉はブル〳〵ふるえながら二つの手桶をげて井戸端へく。

 甚「旦那お手伝でげすよ」

 と抱上げて見ると、仏様の首がガックリ垂れると、う云うものか惣右衞門の鼻からタラ〳〵と鼻血が流れました。

 甚「おや血が出た、身寄か親類が来ると血が出るというが己は身寄親類でもねえが、何うして血が出るか、おゝ恐ろしく片方かたっぽから出るなア」

 と仰向にして仏様の首を見ると、時ったから前よりは判然はっきりと黒ずんだ紫色に細引のあとが二本有るから、甚藏はジーッと暫く見て居る処へ手桶を提げて新吉がヒョロ〳〵遣って来て、

 新「兄い水を持って来たよ」

 甚「水を持って来たか此方こっちへ入れて戸を締めなよ」

 新「ななんだ」

 甚「此処こけへ来て見やア、仏様の顔を見やア」

 新「見たって仕様がねえ」

 甚「見やア此の鼻血をよ」

 新「いけねえなア、其様そんなものを見たって仕様がねえ、わり悪戯いたずらアするなア」

 甚「わりいたって己がしたのじゃアねえ、自然ひとりでに出たのだ新吉咽喉頸のどっくびに筋が出て居るな、此の筋を見や」

 新「エ、筋が有ったっても構わねえ、水を掛けて早く埋めよう、おい早く納めよう」

 甚「納められるもんかえ、やい、りゃア旦那は病気で死んだのじゃアねえ変死だ、咽喉頸に筋があり、鼻血が出れば何奴どいつくびり殺した奴が有るにちげえねえ」

 新「なん人聴ひとぎきわりいや、大きな声をしなさんな、仏様の為にならねえ」

 甚「手前てめえも己も旦那には御恩があらア、其の旦那の変死を此の儘に埋めちゃア済まねえ、たれか此の村に居る奴が殺したにちげえねえから、かたきを捜して、手前も己も旦那の敵を取って恩返おんげえしを仕なけりゃア済まねえ、代官へでも何処どこへでも引張ひっぱって行くのだ、本堂に若旦那が居るから若旦那に一寸ちょいとと云って呼んで……」

 新「なんだな其様そんな事をして兄い困るよ、藪を突付つっついて蛇を出す様な事をいっちゃア困らアな、今お経をげてるから、エーおい兄い、それはそれにして埋めて仕舞おう」

 甚「埋められるもんかえ、それとも新吉、実は兄いわっちが殺したんだと一言ひとこと云やア黙って埋めて遣ろう」

 新「何を詰らねえ事を、な何を、思い掛けねえ事をいうじゃアねえかなんだって旦那を」

 甚「手前てめえが殺したんでなけりゃアほかに敵が有るのだから敵討をしようじゃアねえか、手前お賤とうからふけえ中で逢引するなア種が上って居るが、手前は度胸がなくってもあまア度胸がいいから殺してくれエといい兼ねゝえ、キュウと遣ったな」

 新「うも、ななんだってそれは、何うも、エおいあんにい外の事と違って大恩人だもの、何ういう訳で思いちげえて其様そんな事を、え、おいあんにい」

 甚「何をいやアがるのだ、手前てめえが殺さなけりゃア殺さねえでいやア、手前と己は兄弟分のよしみが有るから打明けて殺したと云やア黙って口をいて埋めるが、外に敵が有れば敵討だ、マア仏様を本堂へ持って行こう」

 新「これドヽうも困るナアおいあんにい、え、兄い表向にすれば大変な事に成るよ」

 甚「え、成ったって宜いや、不人情な事をいうな、手前てめえが殺したなら黙ってうめるてえのだ、殺したら殺したと云いねえ、殺したか」

 新「仕様がねえな、うも己が殺したという訳じゃアねえが、それは、困って仕舞ったなア、一寸ちょいと手伝ったのだ」

 甚「なに手伝った、じゃアお賤が遣ったか」

 新「それには種々いろ〳〵訳が有るので、唯縄を引張ったばかりで」

 甚「それで宜しい、引張ったばかりで沢山だ、お賤が引くなア女の力じゃア足りねえから、新吉さん此の縄を締めてなざア能く有る形だ、宜しい、よし〳〵早く水を掛けやア」

 とザブリ水を打掛ぶっかけて其のなりにお香剃こうずりの真似をして、暗いうちに葬りに成りましたから、誰有って知る者はございませんが、此の種を知っている者は土手の甚藏ばかり、七日がすぎると土手の甚藏が賭博ばくちに負けて裸体ぱだかになり、寒いから犢鼻褌ふんどしの上に馬の腹掛を引掛ひっかけて妙ななりに成りまして、お賤の処へ参り、

 甚「え、御免なせえ」

 と是から強請ゆすりになる処、一寸一息吐きまして。


四十九


 土手の甚藏がお賤の宅へ参りましたのは、七日も過ぎましてから、ほとぼりの冷めた時分くのはたくみの深い奴でございます。丁度九月十一日で、余程寒いから素肌へ馬の腹掛を巻付けましたから、太輪ふとわ抱茗荷だきみょうがの紋が肩の処へ出て居ります、妙な姿なりを致して、

 甚「ヘエ御免なせえ、ヘエ今日こんにちは」

 賤「ハイ何方どなたえ」

 甚「ヘエお賤さん御免なさえ、今日は」

 賤「おや、新吉さん土手の甚藏さんが来たよ」

 新「えゝ土手の甚藏」

 新吉は他人ひとが来ると火鉢の側に食客いそうろうの様な風をして居るが、人が帰って仕舞えば亭主振ていしぶって居りますが、甚藏と聞くとっとする程で、心のうちで驚きましたが、眼をパチ〳〵して火鉢の側に小さく成って居りますと、

 甚「誠に続いてい塩梅にお天気で」

 賤「はい、さア、まア一服おあがりなさいよ」

 甚「ヘエ御免なさえ、ういう始末でねえお賤さん、御本家へもおくやみあがりましたが、旦那がおなくなりでさぞもう御愁傷でございましょう、ヘエわっちも世話に成った旦那で、平常ふだん優しくして甚藏や悪い事をすると村へ置かねえぞと、親切に意見をいって、やかましい事は喧しいけれども、時々小遣こづけえもおくんなすってね、い人で、惜まれる人は早く死ぬと云うが、五十五じゃア定命じょうみょうとは云われねえくれえで嘸お前さんもお力落しで、新吉此処こゝに居るのか手前てめえ、え、おい」

 新「兄い此方こちらへお上りなさい」

 甚「お賤さん、新吉がお前さんの処へ来て御厄介で、うち彼様あんな塩梅に成って此方こちらよりほかに居る処がえから、い事にして、新吉が寝泊りをして居るというのだが、わっちも新吉もお賤さんもお互に江戸子えどっこで、妙なもので、村の者じゃア話しが合わねえから新吉と私は兄弟分きょうでえぶんになり、兄弟分のよしみで、たげえに銭がねえといやア、ソレ持ってけというように腹の中をサックリ割った間柄、新吉の事を悪くいう奴が有ると、なんでえといって喧嘩もする様な訳で、ヘエ有難う、カラもううも仕様がねえ、新吉、物がヘマに行ってな、此の通り人間が馬の腹掛を借りて着て居る様に成っちゃア意気地いくじはねえ、馬の腹掛で寒さをしのぐので、ヘエ有がとう、いお宅でげすねえ、私は初めて来たので」

 賤「うですか、なに好いうちこしらえて下すっても仕方がござりませんよ、う急に、旦那様がお逝去かくれに成ろうとは思いませんでねえ、何時いつまでも此処こゝに住んで居る了簡で居りましたが、旦那が亡なられては仕方が有りません。ほかく処はなし、まア生れ故郷の江戸へ帰る様な事に成りますが、本当に夢の様な心持で、あゝ詰らないものだと考え出すと悲しく成ってね」

 甚「そうでしょう、是はうも実になア、新吉お賤さんはくれえ力落だか知れやアしねえ、ナア、ヘエ有難ういお茶だねえ、此様こんな良い茶を村の奴にのましたって分らねえ、ヘエ有難う、お賤さん誠に申し兼ねた訳でげすがねえ、旦那が達者でいらっしゃれば黙って御無心申すのだが、此の通りの始末で、からモウ仕様がねえ、何うかお願いでございますがちっばか小遣こづけえをおもれえ申してえが、何うか些と許り借金をけえして江戸へでもけえりてえ了簡も有るのですが、何うか新吉誠に無理だがお賤さんに願ってねえ、姉さんお願いでげすが些とばかり小遣こづけえをねえ」

 賤「はい困りますねえ、旦那が亡なりまして私は小遣こづかいも何もないのですが、沢山の事は出来ませんが、ほんこゝろばかりで誠に少しばかりでございますが」

 甚「イヽエもう」

 賤「真の少しばかりでおしには成りますまいが、一杯召上って」

 甚「ヘエ有難う、ヘエ」

 と開けて見ると二朱金で二個ふたつ

 甚「是はお賤さんたった一分いちぶで」

 賤「はい」

 甚「一分や二分じゃア借りたってわっちの身の行立ゆきたつ訳は有りませんねえ、借金だらけだから些と眼鼻めはなを付けて私も何うか堅気かたきに成りてえと思ってお願い申すのだが、それを一分ばかり貰っても法が付かねえから、少し眼鼻の付く様にモウ些とばかり何うかね」

 賤「おや一分では少ないと仰しゃるの、そう、お気の毒様出来ません、私どもは深川に居ります時にも随分銭貰ぜにもらいは来ましたが、一分遣れば大概帰りました、一分より余計たんとあげる訳にゃア参りません、はい女の身の上で有りますからねハイ、一分で少ないと仰しゃれば、身寄親類ではなし上げる訳は有りませんが、そうして幾らほしいと仰しゃるのでございますえ」

 甚「幾らカクラてえお強請ねだり申すのでげすから貰う方で限りはねえ、幾ら多くってもいが、お賤さんの方は沢山たんと遣りたくねえというのが当然あたりめえの話だが、借金の眼鼻を付けて身の立つ様にして貰うにゃア、何様どんな事をしても三拾両貰わなけりゃア追付おっつかねえから、三拾両お借り申してえのさ、ねえ何うか」

 賤「なんだえ三拾両呆れ返って仕舞うよ、女と思って馬鹿にしてお呉れでないよ、何だエお前さんは、お前さんと私は何だエ、碌にお目に掛った事も有りませんよ、女一人と思って馬鹿にして三拾両、ハイ、そうですかと誰が貸しますえ、おかしな事をいって、なん、なん、なん何をお前さんに三拾両お金を貸す縁がないでは有りませんか」


五十


 甚「それは縁はない、縁はないがね、縁を付けりゃア付かねえ事も有りますめえ、ねえ新吉とわっちは兄弟分、ねえ其の新吉が此方様こちらさまへ御厄介に成って居るもの其の縁で来た私さ」

 賤「新吉さんは兄弟分か知りませんが、私はお前さんを知りません、新吉さん帰ってお呉んなさいヨウ、呆れらア馬鹿〳〵しい、人を馬鹿にして三拾両なんてたれが貸す奴が有るものか、三拾両貸す様な私はお前さんに弱い尻尾しっぽを見られて居れば仕方がないが、私のうち情交いろ仲宿なかやどをしたとか博奕ばくち堂敷どうじきでもたなら、怖いから貸す事も有るが、何もお前さん方に三拾両の大金を強請いたぶられる因縁は有りません、帰ってお呉れ、出来ませんよ、ハイ三文も出来ませんよ」

 甚「う腹を立っちゃア仕様がねえ、え、おい、だがねえお賤さん、人間が馬の腹掛を着て来るくれえの恥を明かしてお前さんに頼むのだ、わっちも此のだいの野郎が両手を突いてんなざまアしてお頼み申すのだから能々よく〳〵の事、いかね、それにたった一分じゃア法が付かねえ、私の様な大きな野郎が手を突いてのお頼みだね、此の身体を打毀ぶっこわしてまきにしても一分や二分のものはあらアね、馬の腹掛を着て頼むのだから、お前さん三拾両貸して呉れてもかろうと思う」

 賤「何がいのだえ、何が宜いのだよ、何もお前さん方に三拾両の四拾両のと借りられる縁が有りません、悪い事をした覚えは有りません、博奕の宿や地獄の宿はしませんから貸されませんよ」

 甚「じゃアう有ってもいけねえのかえ」

 賤「帰ってお呉んなさい」

 甚「そうか無理にお借り申そうという訳じゃアねえ、じゃアけえりましょう、新吉黙って引込ひっこんで居るなえ此処こゝへ出ろ、借りて呉れ、ヤイ」

 新「其様そんな大きな声をしてはいけねえやなあんにい仕方がねえな、お賤さん仕方がねえ貸しねえ」

 賤「なんだえ、お前さんは心易こゝろやすいか知りませんが、私は存じません、何様どんな事が有っても出来ませんよ、帰ってお呉んなさい」

 甚「う有っても貸せねえってものア無理にゃア借りねえ、じゃア云って聞かせるが、コレ女だと思うから優しく出りゃアい気に成りやアがって、ふてえ事をしやアがって、色の仲宿や博奕の堂敷が何程の罪だ、世の中にわりい事と云うなア人殺しに間男と盗賊ぬすっとだ」

 賤「何をいうのだ」

 甚「なに、うしたもうしたもねえ、新吉此処こゝへ出ろ、エヽおい、咽喉頸のどっくびの筋が一本拾両にしても二十両が物アあらア」

 新「マア黙ってあんにい」

 甚「なんでえ篦棒べらぼうめ、己が柔和おとなしくして居るのだから文句なしに出すが当然あたりめえだ、手前等てめえらが此の村に居ると村がけがれらア、手前等を此処こけえ置くもんか篦棒め、今に逆磔刑さかばりつけにしようと簀巻すまきにして絹川へほうこもうと己が口一つだからう思ってろえ」

 新「おい、其様そんな事を人に」

 甚「人に知れたって構うもんかえ」

 新「マア〳〵待ちねえ、知らねえのだお賤さんは、一件の事を知らねえのだよ、だから己がうか才覚して持ってこう、今夜屹度きっと三拾両持ってくよ」

 甚「間抜め、黙って引込ひっこんで居る奴が有るもんか、そんならすぐに出せ」

 新「今は無いから晩方までに持ってくよ」

 甚「じゃア屹度持って来い」

 新「今に持ってくから、ギャア〳〵騒がねえで、実は、己がまだお賤に喋らねえからだよ、当人が知らねえのだからよ」

 甚「コレ、博奕の仲宿とはなんだ、ふてあまっちょだ」

 新「そんな大きな声を」

 甚「屹度持って来い、来ねえと了簡が有るぞ」

 新「何ごと置いても屹度金は持ってくよ、驚いたねえ」

 賤「おい新吉さん、んだって彼奴あいつへえつくもうつくするのだよ、お前がヘラ〳〵するとなお増長すらアね」

 新「うしてもいけないよ、貸さなけりゃア成らねえ」

 賤「なん彼奴あいつに貸すのだえ」

 新「なんだって、いけねえ事に成って仕舞った、旦那の湯灌の時彼奴あいつが来やアがって、一人じゃア出来ねえから手伝うといって、仏様を見ると、咽喉頸のどっくびに筋が有るのを見付けやがって、ア屹度きっと殺したろう、殺したといやア黙ってるが云わなけりゃア仏様を本堂へ持って行って詮議方あらいかたするというから、驚いて否応いやおうなしに種をあかした」

 賤「アレ〳〵あれだもの、新吉さん、それだもの、本当に仕方がないよ、あれまでにするにゃア、旦那の達者の時分から丹精したに、の悪党に種を明して仕舞ってうするのだよ、幾ら貸したって役に立つものかね、側から借りに来るよ彼奴あいつがさ」

 新「だけれども隠すにも何も仕様がない、本堂へ持って行かれりゃアすぐ悪事ぼくれるじゃアねえか、黙って埋めて遣るから云えというので」

 賤「本当に仕様がないよ、何処どこへでも持って行けと云えばいゝじゃアないか」

 新「ういうとすぐ彼奴あいつが持ってくよ」

 賤「持って行ったっていゝじゃアないか、何処どこまでも覚えは有りませんと私も云い張ろうじゃアないか」

 新「云い張れないよ、彼奴あいつア中々の奴でそれにアいう時は口が利けないからねえ、脛疵すねきずだからお前のいう様な訳にゃアいかねえ、金で口止めするよりほかに仕方はないよ」

 賤「でも三拾両貸すと、ばんごと〳〵来ては大きな声で呶鳴ると、なんで甚藏が呶鳴るかと他人ひとの耳にも這入り、目明めあかしが居るから、おかしく勘付かれて、あいつが縛られて叩かれると喋るから、の道新吉さん仕方がない、土手の甚藏を何うかして殺してお仕舞いよう」


五十一


 新「うして〳〵中々彼奴あいつア己より強い奴で、滅法力が有るから、彼奴はたれても痛くねえってえので、五人位掛らねえじゃアおっ付かねえ」

 賤「うか工夫が有るだろうじゃアないか」

 新「工夫が中々いかないよ」

 賤「ちょいと〳〵新吉さん耳をお貸し」

 新「エ、うんうん成程是はうめえ」

 賤「だからさア、それより外に仕方がないよ、悟られるといけない、悪党だから悟られない様にしっかり男らしくよ」

 と何かさゝやき、新吉が得心して、旦那の短い脇差をさして、新吉が日が暮れて少したって土手の甚藏のうちへ来て、土間口から、

 新「はい御免」

 甚「サアあがりゃア、マア下駄を穿いたなりで上りゃア、草履ぞうりか、構わねえ、畳がねえから掃除も何もしねえから其の儘上りゃ」

 新「あんにい、先刻さっきの様に高声たかごえであんな事を云ってくれちゃア困るじゃアねえか、己はどうしようかと思った、表に人でも立って居たら」

 甚「何故、いゝじゃアねえか、己がつらを出したら黙って金を出すかと思ったら、まご〳〵して居やアがって、手前てめえお賤に惚れていやアがる、馬鹿、彼女あいつめいゝ気に成りやアがって、呶鳴り付けるから仕方なしに云ったんだ、此畜生こんちきしょう金え持って来たか」

 新「れからあとでお賤に話をして実は是々であかしたと云ったら、それは済まない事を云った、知らなかったから誠に悪い事を云ったが、甚藏さんに悪く思わねえ様にういってくれというのだ」

 甚「手前てめえ湯灌場の事を云ったか」

 新「云ったよ、云ったら驚いてお賤は甚藏さんに済まなかった、然ういう訳なら何故早く私に然う云わないで、だが土手の甚藏さんにこゝで三拾や四拾や上げても焼石に水で駄目だから、まとまった金を上げようから、うかそれで堅気になり、此方こっちも江戸へ行って小世帯こじょたいを持つから、お互に此の事は云わねえという証拠の書付かきつけでも貰って、たんとは上げられないが百両上げるから、百両で堅気に成ったら宜かろうと云うので、長く彼様あんな事をしていても甚藏さんも詰らねえじゃアないか、兄弟分の友誼よしみで此の事はいわないと達引たてひいて呉れるなら、生涯食える様に百両遣ろうというのだ、百両貰って堅気に成りねえ」

 甚「然うか、有難ありがてえ、百両呉れゝば生涯おたげえに堅気に成りてえ、己も馬鹿はめてえや」

 新「然うめてくんねえ」

 甚「じゃアまア金さえ持って来りゃア」

 新「今こゝにはねえ」

 甚「何をいうんだ馬鹿」

 新「マア人のいう事を聞きねえ、旦那が達者のうちお賤に己が死んだら食方くいかたに困るだろうから、死んでも食方の付く様にといって、実は根本ねもと聖天山しょうでんやま手水鉢ちょうずばちの根に金が埋めて有るから、それをもってと言付けて有るのだ、えゝ二百両あると思いねえ、聖天山の左の手水鉢の側に二百両埋めて有るのだから、それを百両ずつ分けて江戸へ持って行って、お互に悪事は云わねえ云いますめえと約束して、堅気になって、親類になろうじゃアねえか」

 甚「然うか、新吉、旦那もお賤にゃア惚れて居たなア、二百両という金を埋めて置いて是で食えよとなア、若旦那にもいわねえで金を埋めて置くてえのは金持は違わア」

 新「早く堀らねえと彼処あすこの山は自然薯じねんじょうを堀りにく奴が有るから、無暗むやみられるといけねえ」

 甚「じゃア早く」

 新「すきくわはねえか」

 甚「丁度鋤が有るから」

 と有合ありあいの鋤をかついで是から二十丁もある根本の聖天山へあがって見ると、四辺あたり森々しん〳〵と樹木が茂って居り、裏手は絹川のながれはどう〳〵と、此のごろ雨気あまけに水増して急におとす河水の音高く、月は皎々こう〳〵くまなくえて流へ映る、誠にい景色だが、高い処は寒うございますので、

 甚「新吉此処こゝは滅法寒いナア」

 新「なに穴を堀るとあったかくなって汗が出るよ、穴を堀りねえ」

 甚「余計な事をいうな」

 新「此処だ〳〵」

 と差図さしずを致しますから、

 甚「よし〳〵」

 といいながら新吉と土手の甚藏がポカ〳〵堀りまする、所が金は出ません、幾ら堀っても金は出ない訳でもとより無い金、びっしょり汗をかいて、

 甚「新吉金はえぜ」

 新「いね」

 甚「何をいうんだ、無駄っぽねおらしやアがって金は有りゃアしねえ」


五十二


 新「左と云ったが、ひょっとしたら向って左かしら」

 甚「何を云うんだ仕様がねえな此畜生咽喉のどが渇いて仕様がねえ、んなにびっしょりに成った」

 新「己も咽喉が渇くから水を飲みてえと思っても、手水鉢はから柄杓ひしゃくはから〳〵だが、誰もお参りに来ないと見えるな、うんそう〳〵、此方こっちへ来な、聖天山の裏手に清水のく処がある、やしろの裏手で崖の中段にちょろ〳〵煙管きせる羅宇らうから出る様な清水が溜って、月が映っている、あに彼処あすこの水はうめえな」

 甚「旨えが怖くってりられねえ」

 新「下りられねえってうかして下りられるだろう、待ちねえあの杉だか松だかかしわだかの根方に成って居るとこ藤蔓ふじつるつたや何か縄の様になってあるから、兄い此奴こいつ吊下ぶらさがって行けば大丈夫でえじょうぶだが己は行った事がねえからおめえ行ってくんねえな」

 甚「此奴ア旨え事を考えやアがった、新吉の智慧ちえじゃアねえ様だ、此奴ア旨え、柄杓は有るか」

 と手水鉢の柄杓を口にくわえて、土手の甚藏が蔦蔓つたかつらに掴まって段々下りて行くと、ちょうど松柏の根方ねがたっている処に足掛りをこしらえて、段々と谷間たにあいへ下りまして、

 甚「アヽうやって見ると高いナア、新吉ヤイ〳〵水は充分あらア」

 新「早くおめえ飲んだら一杯持って来て呉んねえ」

 甚「手前てめえ下りやアな、持って行く訳にアいかねえ、ポタ〳〵柄杓が漏らア、カラ〳〵になっていたからナア、アヽうめえ〳〵甘露だ、いゝ水だ、アヽ旨え、なに持って行くのは騒ぎだよ」

 新「後生だから、お願いだから少しでも手拭にひたして持って来て呉んねえ咽喉がっ付きそうだから」

 甚「いめえましい奴だな、待ちャア」

 と一杯すくい上げてこぼれない様に、たいらに柄杓のくわえて蔦蔓つたかづらすがり、松柏の根方を足掛りにして、揺れても澪れない様にして段々登って来る処を、足掛りの無い処を狙いすまして新吉が腰にしたる小刀しょうとうを引抜き、力一ぱいにプツリと藤蔓ふじづる蔦蔓つたかつらを切ると、ズル〳〵ズーッと真逆まっさかさまに落ちましたが、うして松柏の根方は張っているし、山石のかど出張でっぱっておりますから、頭を打破うちやぶって、落ちまするととても助かり様はございませんが、新吉は側にある石をごろ〳〵谷間たにあいへ転がしおとしました、其のうちむら〳〵と雲が出て月が暗く成りましたから、それを幸いに新吉は脇差を鞘に納めて、さっさと帰って来て、

 新「おゝ〳〵お賤さん〳〵明けてお呉れ〳〵」

 賤「たれだえ」

 新「おいらだよ」

 賤「ア新吉さんかえ、能く帰って来てお呉れだねえ、案じていたよさアお這入り」

 新「アヽびしょ濡だ、何か単物ひとえものか何か着てえもんだ」

 賤「あわせと単物と重ねて置いたよ、さア是をお着、旨く行ったかえ」

 新「すっぱり行った」

 賤「私の云った通りあとから石をったのかえ」

 新「投った〳〵、気が付いたから後から石を二つばかり投った、あれが頭へ当りゃアすぐ阿陀仏おだぶつだ」

 賤「いゝね、今脊中を拭くから一服おしよ、熱い湯で拭く方がいから」

 と銅盥かなだらいへ湯を汲んで新吉の脊中を拭いてやり、

 賤「袷におなり」

 新「大きにさば〳〵した」

 と其のうち此方こっちへ膳を持って来て酒の燗を付け、月を見ながら一猪口ひとちょく始めて、

 賤「もう是で二人とも怖い者はないよ」

 新「うも実にうめえ事を考えて、一寸彼奴あいつも気が付かねえが、藤蔓に伝わって下りろといった時に、手前てめえの智慧じゃアねえ様だといった時、胸がどきりとしたが、真逆まっさかさまになっておちる上から側にった石をごろ〳〵、あの石で頭を打破ぶちわったにちげえねえが、彼奴は悪党のばちだ。うぬが悪党の癖に」

 是から二人で中好なかよく酒盛をしているうち空は段々雲が出て来て薄暗くなり、

 賤「もう寝ようじゃアないか」

 というので戸締りをしに掛りましたが、

 新「また曇って来たぜ、早く仕ねえ」

 賤「今お待ち」

 と床を敷く間新吉は煙草をんでいると、戸外おもての処は細い土手に成って下に生垣いけがきが有り、土手下のよしあしが茂っております小溝こみぞの処をバリ〳〵〳〵という音。

 新「なんだか音がするぜ」

 賤「お前様まえさんは臆病だよ、少し音がすると」

 新「デモ何だかバリ〳〵」

 賤「なアに犬だよ」

 新「何だか大変にバリ付くよ、何だろう」

 と怖々こわ〴〵庭を見る途端に、叢雲むらくもれて月があり〳〵と照り渡り、す月影で見ると、生垣を割って出ましたのは、頭髪かみは乱れて肩に掛り、頭蓋あたま打裂ぶっさけて面部これからこれへ血だらけになり、素肌へ馬の腹掛を巻付けたなりで、何処どこう助かったか土手の甚藏が庭に出た時は、驚きましたの驚きませんのではござりませぬ、是から悪事露見という処、一寸一息吐きまして。


五十三


 引続きお聴きに入れました新吉お賤は、わが罪を隠そうが為に、土手の甚藏をあざむいて根本の聖天山の谷へ突落つきおとし、上から大石たいせきを突転がしましたから、もう甚藏の助かる気遣きづかいは無いと安心して、二人差向いで、堤下どてした新家しんやで一口飲んで、れから寝ようと思って雨戸を締めようという所へ、土手の生垣を破って出たのは土手の甚藏、頭脳は破れて眉間これからこれへ掛けて血は流れ、素肌に馬の腹掛を巻付けた姿なりで庭口の所へう片足踏出して、小座敷の方をにらみました其の顔色がんしょくは実にタ眼とは見られぬ恐しい怖い姿すがたでござりますから、新吉お賤は驚いたの驚かないの、ゾッと致しました。座敷へあがってキャア〳〵騒がれては大変と思いましたが、新吉はもとよりそれ程悪徒わるものという程でも有りませんから、たゞ甚藏の見相けんそうに驚きぶる〳〵ふるえているから、

 賤「新吉さんお前こゝにいてはいけないよ、どんな事が有っても詮方しかたがないから土手へ連れて行って彼奴あいつ斬払ぶっぱらっておしまいよ」

 新「斬払えたって出れば殺される」

 賤「大丈夫だよ、戸外おもてへ連れて行ってどての上で」

 とぐず〴〵云っているうちずか〴〵と飛込んで縁側へ片足踏かけました甚藏は、出ようとする新吉の胸ぐらをって

 甚「うぬ、いけッぷてえ奴、能くもの谷へ突落しやアがったな、お賤も助けちゃア置かねえ能くもおれだましやアがったな、サア出ろ、いけッ太え奴だ、お賤のあまも今見ていろ」

 と堤の上へ引摺ひきずってこうとする、此方こちらは出ようとする、むこうは引くから、ずる〳〵と土手下へ落ちたから、

 新「ウム、後生だから助けて、兄い苦しい、己の持っている金はみんなめえに、これさ兄い、何ももみんなお前にやるからうか堪忍して、ういう訳じゃアねえ、行間違ゆきまちがいだから」

 甚「糞でもくらえ、なにいてえと、ふざけやアがるな」

 と力を入れて新吉の手を逆にってねじり、拳固げんこを振り上げてコツ〳〵ったから痛いの痛くないのって、眼から火の出るようでございます。

 新「兄い助けて呉れ〳〵」

 とわめきますのを、

 甚「うぬ助けるものか、お賤のあまッちょも今あとからだ」

 と腰から出刄庖丁を取出して新吉の胸下むなもとを目懸けて突こうとすると、新吉は仰向に成って、

 新「己が悪かった堪忍して、兄い後生だから助けてよう」

 というも大きな声を出しては事が露顕しようと思いますから、小声で助けて呉んねえと呼ぶばかりでございます。すると何処どこから飛んで来ましたかズドンと一発鉄砲の流丸それだまが、甚藏が今新吉を殺そうと出刃庖丁を振りかざしている胸元へあたりましたから、ばったり前へのめりましたが、片手に出刃庖丁を持ち、片手は土手の草に取つき、ずーと立上ったが爪立つまだってブル〳〵っと反身そりみに成る途端にがら〳〵〳〵〳〵と口から血反吐ちへどを吐きながらドンと前へ倒れた時は、新吉も鉄砲の音に驚き呆気あっけに取られて一向訳が分らないから、身分が殺された心がしましてたゞ南無阿弥陀仏〳〵と申しましたが、暫くしてようやくに気が付き起上りまして四辺あたりを見廻し、

 新「アヽ何処から飛んで来たか鉄砲の流丸それだま、お蔭で己は助かったが猟師が兎でも打とうと思って弾丸たまれたか、アヽ僥倖さいわい命強いのちづよかった、危ない処をのがれた、たれが鉄砲を打ったか有難いことだ」

 しか猟夫かりゅうどが此の様子を見て居りはせぬかと絹川の方を眺めますれど、只水音のみでございまして往来は絶えた真の夜中でございます。此方こちらの庭の生垣の方からちらり〳〵と火縄の火が見える様だから、油断をせずすかして見ますると、寝衣帯ねまきおび姿なりで小鳥を打ちまする種が島を持って漸くに草にすがって登って来たのはお賤、

 賤「新吉さんお前に怪我は無かったかえ」

 新「お賤、手前てめえはマアうした」

 賤「私はモウ途方に暮れて仕舞って、お前に怪我をさしてはならないから何うしようかと思っても、女が刃物三昧ざんまいしても彼奴あいつにはかなわないし、何うしようかと考えたら、ふいと気がついたんだよ、此の間ね旦那が鉄砲を出して小鳥をうつ時手前てまえもやって見ろッてんでね、やっと引金に指をあてる事だけネ教わって覚えたので、時々やって見た事がある、今もたまが込めて有る事を思い出したから、すぐに旦那の手箱のうちから取出してね、思い切ってって見たんだけれども、い塩梅に近くではなしただけに狙いも狂わずって、お前に怪我さえ無ければ私はマア有難いんな嬉しい事は無いよ」

 新「何しろうせ此の事が露顕せずにはいねえ、甚藏を撲殺ぶっころして仕舞っておめえと己と一緒に成っていられる訳のものじゃアねえから、今のうち身を隠してえものだ」

 賤「アヽ私もねこゝにいる気はさら〳〵無いから、形見分かたみわけのお金も有るのだけれども、四十九日まで待ってはいられないから、少しは私のたくわえも有るから、それを持って二人ですぐに逃げようじゃアないか」

 新「ウム、少しも早く今宵こよいの内に」

 というので、是から衣類やくしこうがい貯えの金子までもト風呂敷として跡をくらまし、あけ近い頃に逐電して仕舞いました。また甚藏の死骸は絹川べりにありましたが、が明けて百姓が通り掛って騒ぎ、名主へも届けたが、甚藏は平素ふだんにくまれもの、何うか死んで呉れゝばいゝと思っていた処、甚藏が絹川べりで鉄砲で撃殺うちころされているというのを村の人達が聞込んで、アヽ是からは安心だ、甚藏が死ねば村の者が助かるまでよと歓び、其の儘名主様へ届けて法蔵寺に葬ったが、投込み同様、生きているうちの悪事の罰で、勿論悪徒わるものですから誰の所業しわざと詮議して呉れる者も有りません。新吉お賤の逃去りましたのはもとより不義淫奔いたずらをしていて名主様がなくなると、自分達は衣類や手廻りの小道具何ややを盗んでいなく成ったに相違ない。あれもとより浮気をしていた者の駈落だからもあるべしと、是も尋ねる者もないので何事も有りませんが、名主惣右衞門の変死はたれ有って知る者は無い。肝腎の知っている甚藏が殺されましたから、惣右衞門は全く病死したのだと心得て居りますが、中には疑がっている者も有りまして、様々いうが、マア名主の跡目はせがれ惣次郎、誠に柔和温順の人でおとっさんは道楽のみを致しましたが、それには引きかえ惣次郎は堅くって内気ですからに出たことも無い人でございますが、或時村の友達に誘われまして水街道へ参って、麹屋こうじやといううち一猪口ひとちょこやりました、其の時、酌に出た婦人が名をおすみと申しまして、とし廿歳はたちですが誠に人柄のい大人しやかの婦人でございます。


五十四


 水街道あたりでは皆枕附まくらつきといいまして、働き女がお客に身を任せるが多く有りますが、此のお隅は唯無事に勤めを致し、余程人柄のい立振舞から物の言い様、裾捌すそさばきまで一点の申分のない女ですから、惣次郎は麹屋の亭主を呼んで、是は定めし出の宜しい者だろうと聞合せますと、元は谷出羽守たにでわのかみ様の御家来で、神崎定右衞門かんざきさだえもんという人の子で、お父様とっさまと一緒に浪人して此の水街道を通り、此の家に泊り合せると定右衞門が生憎あいにく病気で長く煩らってなくなり、あと薬代くすりしろや葬式料に困って居ります故、宿の主人あるじが金を出して世話を致しましたから恩報じかた〴〵此の家に奉公致し、ほかに身寄親類もない心細い身の上でございますから、何分願います、外の女とは違いまして真面目に奉公を致して居りますもの、贔屓ひいきにして下さいというので、惣次郎の気に入りまして、度々たび〳〵遊びに来る、其の頃の名主と申しては中々幅の利いた者ですから、名主様の座敷へ出る時は、働き女でも芸妓げいしゃでも、まア名主様に出たよなどと申して見得みえにしたものでございます。惣次郎もお隅には多分の祝義を遣わし折節は反物たんものなどを持って来て遣る事も有るから、男振といい気立きだてといい柔和温順で親切な名主様と、お隅も大切に致し、うも有難いと思い、或日の事、

 隅「私は外に参る処もない身の上でございますから、何分御贔屓なすって下さい」

 というので、惣次郎も近々ちか〴〵来るうちに、不図した縁で此のお隅と深くなりました事で、今迄堅い人が急にうかれ出すと是は又格別でございまして、此の頃は家をそとに致す様な事が度々でございますから、お母様っかさんも心配する、弟御おとうとごもございますが、是はまだ九歳で、何も役にたつ訳でもございませぬから、お母様も種々いろ〳〵心配なさるが、常に堅い人だから、うっかり意見がましい事もいわれませんので控えている。すると其の翌年寛政かんせい十年となり、大生郷村の天神様からひだりに曲ると法恩寺ほうおんじ村という、其の法恩寺の境内に相撲が有ります。此の相撲場は細川越中守ほそかわえっちゅうのかみ様御免の相撲場ということで、木村權六きむらごんろくという人が只今もって住んで居ります、縮緬ちりめん幕張まくばりを致して、田舎相撲でも立派な者で近郷からも随分見物が参ります、此処こゝに参っている関取は花車重吉はなぐるまじゅうきちという、先達せんだってわたくし古い番附を見ましたが、成程西の二段目の末から二番目に居ります。是は信州飯山いいやまの人で十一の時初めて羽生村へ来て、名主方に二年ばかり奉公している其のうちに、力もあり体格もいゝので、自分も好きの処から、法恩寺村の場所へ飛入りに這入ると、若いにしては強い、此の間は三段目の角力すもうを投げたなどゝめられましたから、自分も一層相撲に成ろうと、其の頃の源氏山げんじやまという年寄の弟子となったが、是より花車が来たといえば土地の者が贔屓にして見物に来る。惣次郎も何時いつも多分の祝義を遣わしましたが、今度もお隅をれて見物しようと思い、相撲は附けたり、お隅に逢いたいからそこ〳〵支度を致しますと、母が心配して

 母「アノ帰るなら今夜はと早く帰ってもれえ、明日あすは少し用が有るからのう」

 惣次郎「少しは遅く成るかも知れません、し遅くなれば喜右衞門きえもんどんに何彼なにかと頼んで置いたから御心配は無いが、万一ひょっとして花車も一抔やりいなどゝ云うと、ちっとは私も遣り度い物も有りますから、又帰る迄に着物でも持たして遣りとうございますし、そんな事で種々いろ〳〵又相談も致しますから、若し遅く成りましたら、うかお先におやすみなすって下さいまし」

 母「ハイ遅くならばきに寝てもいゝだけれど、まア此の頃はほかへ出ると泊って来る事もあり、今迄旦那様が達者の時分にはお前がうちを明けた事はねえ、あんなかてえ若旦那様はねえ、今の世はさかさまだ、親が女郎を買って子が後生を願うと云う唄の通りだ、惣次郎様の様なあんな若旦那ア持ちながら、惣右衞門どんはいゝ年いして道楽するなどと村の者がいうから、鼻がたけえと思ったが、旦那殿が死んで仕舞って見ると、今ではおめえの身代だから、まアうちの為え思ってお前も今迄骨折って呉れただが、去年あたりから大分でえぶ泊りがけに出かけるものだから、村の者も今迄はかてえ人だったが、う言う訳だがな泊り歩くが、役柄もしながらハアよくねえこッたア年老としとった親を置いて、なんて悪口わるくちく者もあるで、なるだけ他人ひとには能く云わしたいが、是は親の慾だからお前の事だから間違まちげえはなかんべえが、成たけまアけえれるだらけえってもれえてえだ心配しんぺいだからのう」

 惣次郎「イエなに、う御心配なれば参らんでも宜しゅう、是非参りい訳ではありません、花車も来た事だからいさゝかでも祝義も遣り度いと思いましたが、そういう訳なら参らんでも宜しいので、新右衞門しんえもんも同道する積りでしたが、左様なればかないでも先方むこうとがめるでもなし、おこりもしますまい、それではめましょう」

 母「そういえばハア困るべえじゃアねえか、行くなアとはいわねえが、出れば泊りがけの事も有るし、けえらねえ事も有るから、それでわしが案じるからいうので、行くなアとはいわねえ、行ってもいゝから早くけえってうというのだ、おめえは今迄親にあれことをいい掛けた事はねえが、此の頃は様子がちがって意見らしい事をいえば顔色かおいろが違うからいうだ、私は段々年を取り惣吉はまだ子供なり、役には立たねえから、お前も堅くって今まで人に云われる事もなかっただから、間違まちげえはなかろうけれども、わけえ者の噂にあんなハアうつくしい女子おなごがあるからうちけえるはいやだんべえ、婆様ばあさまの顔見るも太儀たいぎだろうなどという者もあるから、そんな事を聞くと心配しんぺいで成んねえもんだから、少しも能く思わせてえのが親の慾でござらア、行くなという訳ではねえ往ってもいゝからけえれたら早くけえってうというときもいれてそんたら往くめえなどと、年寄ればハアうおめえにまでいわれて邪魔になるかと思って早くおっ死度ちにてえなどと愚痴も出るものでのう」


五十五


 惣次郎「イエ左様なれば早く帰って参ります、思わず言過ぎてうも悪いことを申しまして今夜は早く帰って参ります、おおきに余計な御心配を懸けまして誠に済みません」

 母「うなれば宜しい、機嫌を直してくがいいよ、これ〳〵多助たすけや」

 多「ハイ」

 母「われ行くか」

 多「ヘエ、関取が出るてえから行って見ようと思って」

 母「汝口がえらいから人中へ入って詰らねえ口利いては旦那様の顔に障るから気イ付けて能く柔和おとなしく慎しんでてこうよ」

 多「ヘエ、かしこまりました、わしが行けば大丈夫でいじょうぶだ、そんなら往ってめえります、左様なら」

 と、惣次郎は是から水街道の麹屋に行ってのお隅を連れて、法恩寺村の場所に行こうと思ったが、今日はたいした入りだというから、それよりは花車をほかんで酒を飲ました方が宜しい、それに女連おんなづれ雑沓ざっとうの中で間違でも有っては成らぬ、ことにお隅を連れて行くは心配でもあり役柄をも考えたから、大生郷の天神前の宇治の里という料理屋へあがり、此処こゝの奥で一猪口ひとちょこっていると、間が悪い時は仕方のないもので、のお隅にぞっこん惚れて口説いてはじかれた、安田一角やすだいっかくという横曾根村の剣術家、みずから道場を建てゝ近村きんそんの人達が稽古に参る、腕前は鈍くも田舎者をおどかしている、見た処は強そうな、散髪を撫付なでつけて、肩の幅が三尺もあり、腕などに毛が生えて筋骨たくましい男で、一寸ちょっと見れば名人らしく見える先生でございます。無反むぞり小長こながいのをし、襠高まちだかはかまをだゞッぴろく穿き、大先生の様に思われますが、賭博打ばくちうちのお手伝でもしようという浪人者を二人連れて、宇治の里の下座敷で一口遣っていると、奥に惣次郎がお隅を連れて来ている事を聞くと、ぐッぐッと癪に障り、何か有ったら関係かゝりあいを付けようと思っている。此方こちらでは御飯が済んだから帰りがけに花車のいえこうというので急いで出る、お隅も安田が来ているのを認めましたから気味が悪く早く帰ろうと思うので、奥から出て廊下へ来ると、うしても其処そこを通らなければ出られないから、安田はわざと三人の刀のこじりを出して置きますと、長い刀の柄前つかまえにお隅がつまづきましたのを見ると、

 安「コレ〳〵待て、コレ其処へく者待て」

 惣「ヘエ〳〵わたくしでございますか」

 安「手前何処どこの者か知らんけれども、人の前を通る時に挨拶して通れ、ことにコレ武士の腰にたいして歩く腰の物の柄前に足をかけて、麁忽そこつでござると一言ひとこと謝言わびごとも致さず、無暗むやみに参ることが有るか、必定心有ってのことだろう」

 惣「ヘイとんと心得ませんで…お前疎忽そこつだからいけない、お武家様のお腰の物に足をかけてなんのことだね、ヘイうも相済みませんでございました、つい取急ぎまして飛んだ不調法を致しました、当人に成代りましておわびを申上げます、何分御勘弁を願います」

 安「なに詫を申すなら何処の者か姓名も云わず、人に物を詫びるには姓名を申せ、白痴たわけめ」

 惣「ヘエ、手前は羽生村の惣次郎と申す何もわきまえませぬ百姓でございます」

 安「なに、羽生村の惣次郎、うむ名主だな、イヽヤ名主だ、羽生村にてほかに惣次郎と云う名前の者は無い様だ、名主役をも勤むる者が人の前を通る時には御免なさいとかおきに参るとかなんとかいさゝか礼儀会釈を知らぬ事も有るまい、小前こまえの分らぬ者などには理解をも云い聞けべき名主役では無いか、それがこと武士さむらいの腰の物を足下そっかにかけて黙ってくと云う法が有るか、とがめたらこそ詫もするが、咎めずば此のまゝき過ぎるであろう、無礼至極の奴、左様ではござらんか仁村にむらうじ

 仁「是はお腹立の処御尤ごもっとも是は何も横合から指出さしでて兎や角いうではないが、けれどもういう席だから、何も先生だって大したお咎をなさる訳でもあるまいが、今仰せの如く名主役をも勤むる者が、少しは其の辺の心得がなくては勤まらぬ、小前の者が分らん事でもいう時は、呼寄せて理解をも云い聞けべきの役柄だ、しかるにずん〳〵くという法はない、是は、イヤ先生御立腹御尤もだ是は幾ら被仰おっしゃっても宜しい、お腹立御尤もの次第で」

 惣「重々御尤もで相済みません、御尤至極でござります、どうか御勘弁を願います」

 安「只勘弁だけでは済むまい、かりにも武士の魂とも云う大切の物、手前達は何か武士が腰にたいして居る物は人斬庖丁ひときりぼうちょうなどゝ悪口あっこうをいうのは手前の様な者だろうが、人を無暗むやみに斬る刀でないわ、えゝ戦場の折には敵を断切たちきるから太刀たちとも云い、片手なぐりにするから片刀かたなともいい、又短いのを鎧通しとも云う、武士たるものが功名こうみょう手柄を致す処の道具、太平の御代に、一事一点間違を致せばすぐにも切腹しなければならぬ大切の腰の物じゃ、それを人斬庖丁など悪口をいいおるから挨拶もせずに行ったのだ、それに違いなかろう、ナア」

 連の男「是は先生至極御尤も、しからんこと、なんだ、え、うもその、武士たるべき者の腰にたいするものを人斬庖丁などゝはもってのほかだ、太平なればこそよいが、若し戦場往来の時是をエヽ、太刀とも唱える、片刀ともいう、今一つ短いのはなんでしたッけ、うむ鎧通しともいう、一事一点間違があれば切腹致すべきとうとい処の腰の物、それをなんだ無礼至極、どの様に仰しゃっても宜しい」

 惣「重々恐入りましたが何分御勘弁になります事なれば、どの様にお詫を致して宜しいか頓と心得ませんが」

 安「刀をきよめて返せ、浄まれば許してつかわす」

 惣「どの様に致せば浄まります事か、百姓風情ふぜいで何も存じませんで」

 安「知らんという事が有るか、浄めて返さんうちは勘弁まかり相成らぬ」

 惣次郎もつく〴〵困りましたが、お隅は平素ふだんから一角は酒の上が悪く我儘わがまゝなのを知っております、また女が出るとやわらかになる事も存じているから、かえってう云う時は女の方がかろうと思って、あとの方からつか〳〵と進み出まして、

 隅「先生誠に暫く」

 安「んだ」


五十六


 隅「麹屋の隅でございますが、只今わたくしが旦那様のお供をして来て、ついいつも麁忽者そこつもので駈出してつまづきまして、足でたの踏んだのという訳ではありませんが、一寸ちょっと足が触りましたので、貴方と知っていれば宜しいのに、うっかり足が出ましたので、それ故先生様の御立腹で誠にわたしがお供に来て済みませんから、不調法でございますが何卒どうぞ御勘弁なすって下さいな決して蹴たの踏んだのという訳でもなし、お供をして来て不調法が有っては、羽生村の旦那様に済みませんし、あのわたくし麁忽者そゝッかしやの事は先生も御存じで入らっしゃいますから、お馴染なじみ甲斐に不調法の処は重々お詫を致しますから御勘弁を」

 安「黙れ、なに馴染がどうした、馴染なら如何いかに無礼致しても済むと思うか、手前にはいさゝか祝義を遣わした事も有るが、どれ程の馴染だ、又拙者は料理屋の働女はたらきおんなに馴染は持たん、無礼を働いても馴染なら許して貰えると思うか、鼻をぎ耳を斬って馴染だから御免とそれで済むか無礼至極な奴、女の足に刀を踏まれては猶更なおさらけがれた、浄めて返せ」

 仁「是は先生至極御尤、御尤もだが酒も何もまずくなったなア、是はどう云う身分柄か知らんが馴染だから勘弁という詫の仕様はないが、誰かあゝお隅か妙な処で出会でくわしたなア、先生〳〵麹屋の隅でございます、能く来たなア、え隅か、是はうもあやまれ〳〵、重々何うも済まぬ、先生〳〵お隅でございます、貴公知らなんだ、あはゝゝゝどうも麁相そそうはねえ詫びるより外に仕方がない、詫びて勘弁ならんという事は無い、重々恐入ったと詫びろ、能く来た、あの先生、先生〳〵勘弁してお遣りなさいお隅でござる」

 安「な何を戯言たわこと、勘弁相ならん」

 と猶更額に筋を出して中々承知しませんから、惣次郎もまさか其の儘に逃出す訳にはかず、困り果てゝおりますと、奥の離座敷の方に客人に連れられて参って居たは花車重吉、客人は至急の用が出来て帰りましたから、花車ははるかに此の様子を聞いて、惣次郎とはもとより馴染なり兄弟分の契約かためを致した花車でございますから心配しておりまする。

 多「もし旦那様〳〵」

 惣「なんだ」

 多「関取がねえ奥に来ているだ、大きに心配しているだが、ちょっくら旦那にお目に掛りてえというが」

 惣「なに花車が、それはかった関取に詫をして貰おう、一寸」

 安「これ〳〵逃出す事はならぬ」

 惣「いえ逃げは致しませんが、主意を立てましてお詫を申上げます暫く御免を」

 というのでこそ〳〵とあとにさがる。此のひまに宇治の里の亭主手代などもかわる〳〵詫びますけれども一向に聞入れがありません。

 惣「関取は此方こちらかえ」

 花車「はい」

 惣「誠にどうも此処こゝで逢うとは思わなかった」

 花「えゝ今皆聞きました、何しろ相手が悪いがねえ、何か是には仔細があってだアと鑑定しているが、何しろ筋の悪い奴で、是はわしがねエなり代って詫びて見ましょう」

 惣「何卒どうぞ、関取なら愛敬を売るお前だからいやでもあろうが、先の機嫌を直す様に」

 花「案じねえでもいゝよ」

 多「わしイ宿を出る時に間違えでも出かすとなんねえから、名前なめえに掛るからってお内儀かみさんに言付かってわれ行って詰らねえ口い利いて間違え出かしてはなんねえと、気い付けられたんだが、こうなっては私や出先で済まねえ事だから関取頼むぞえ」

 花「心配しねえでもいゝよ、わしが請合った宜しい」

 と落着払って花車、としは二十八でありますが至って賢い男、大形おおがた縮緬ちりめん単衣ひとえものの上に黒縮緬の羽織を着て大きな鎖付の烟草入たばこいれを握り、頭は櫓落やぐらおとしというあたま、一体角力取すもうとりの愛敬というものは大きいなりこわらしい姿で太い声の中に、なんとなく一寸ちょっと愛敬のあるものでのさり〳〵と歩いて参りまして、

 花「はい御免なさい、先生しぇんしぇい今日は」

 安「なんだ、誰だい」

 花「はい法恩寺の場所に来ております花車重吉という弱い角力取で、何卒どうぞお見知りおかれて皆様御贔屓に願います」

 安「はい左様か、わしは相撲は元来嫌いでついぞ見に往った事も無いが、関取なんぞ用でござるかい」

 花「はい只今承りますれば、羽生村の旦那が、貴君方あなたがたに対して飛んだ不調法をしたと申す事だが、何分にもお聞済みがないので、わしは馴染の事でもあるにって、重吉手前は顔売る商売じゃ、なり代って詫びてくれいって頼まれまして、見兼て中に這入りましたがねえ、重々御立腹でもございましょうが、ういう料理屋で商売柄の処でごた〳〵すれば、此家こちらも迷惑なり、お互に一杯ずつも飲もうと思うに酒も旨うない、先生しぇんしぇいも旨うない訳だから、成り代ってお詫しますから、花車に花を持たせて御勘弁を願います」

 安「誠にお気の毒だが勘弁は致されんて、勘弁致しがたい訳があるからで、勘弁しないというは武士の腰物こしのものを女の足下そっかに掛けられては此の儘に所持もされぬから浄めて返せと先刻さっきから申してるのだ」

 花「それはうでありましょう、しか出来でけない処を無理に頼むので、出来難でけにくい処をするが勘弁だア、うじゃアありませんか」

 安「無理な事は聴かれませんよ、お前が仲に這入っては尚更なおさら勘弁は出来ぬではないか」

 花「はアわしが這入って、なぜね」

 安「花車重吉という有名なうての角力取が這入っては勘弁ならん、是が七十八十になる水鼻みずっぱなを半分クッたらして腰の曲った水呑百姓が、年に免じて何卒どうぞ堪忍かんにんして下されと頭を下げれば堪忍する事も出来ようが、立派な角力取、天下に顔を売る者に安田一角が勘弁したとあれば力士に恐れて勘弁したと云われては、今井田流の表札に関わるから猶更勘弁は出来んからなあ」

 花「それは困りますねえ、それじゃア物に角が立ちます、先生しぇんしぇいわしは天下の力士でもなんでもないわ、まア長袖の身の上で、皆さんの贔屓を受けなければならん、裸体はだかで、お前さん取まわし一つでもってから大勢様の前に出て、まア勝つもまけるも時の運次第でごろ〳〵砂の中へ転がって着物をほうって貰い勝ったとか負けたとかいう処が愛敬じゃア、うして見れば皆様みなさんの御贔屓を受けなければならん、貴方が勘弁して下されば、それ花車彼奴あいつは愛敬者じゃア、先生が勘弁出来でけない処を花車を贔屓なればこそ勘弁したといえば、それで私は先生のお蔭で又売出します、然うじゃアございませんか、勘弁しておくんなさい」

 安「堪忍は出来ぬ」

 花「出来ぬでは困ります」

 安「イヤ勘弁出来ぬ、武士に二言はないわ」


五十七


 花車「そんな事云うて対手あいてが武士か剣術遣なれば兎も角も、高が女の事だからよ、大概にしろよ」

 安田「大概にしろよとはなんだ」

 花「これは言損いいそこなった、これは角力取はこういう口の利きようでうっかり云った、勘弁しろよう」

 安「勘弁しろよとは何だ」

 花「ほいまた言損なった」

 安「勘弁しろよとは何だ、手前も大名高家こうけの前に出ておさかずきを頂く力士では無いか、挨拶の仕様を存ぜぬ事はない、大概にしろの勘弁しろよのという云い様があるか、猶更勘弁ならん、無礼至極不埓な奴だ」

 と側にある飲冷のみざましの大盃おおさかずきってぽんと放ると、花車の顔から肩へ掛けてぴっしり埃だらけの酒をあびせました。

 花「先生しぇんしぇいお前さん酒を打掛ぶっかけたね、じゃアどうあっても勘弁出来でけないと極めたか、それでは仕方がないが、先生わしも花車とかなんとか肩書のある力士の端くれ、人に頼まれ、中に這入って勘弁ならん、はアそうでございますかと指をくわえて引込ひっこむ事は出来でけぬ、私は馬鹿だ智慧が足りねえから挨拶の仕様を知らぬ、何卒どうかこうせいと教えて下せえ、お前のいう通りりましょう、ねえ、どうなとお顔を立てようからうしろと教えて下せえ」

 安「これは面白い、予の顔を立てる、主意を立てるなれば勘弁致す、無礼を働いたお隅と云う女は不届至極だから、の婦人を惣次郎から貰い切って予に引渡して下さい、道場に連れて参って存じ寄り通りにする」

 花「それは出来でけない、あれは御存知の水街道の麹屋の女中で、高い給金で抱えて置く女だ、今日一日羽生村の名主様がかりて来たんだ、それを無礼した勘弁出来でけないといって道場へ連れてく、はいと云って遣られぬ、わしにしてもうです、道場へ引かれゝば煮て喰うか焼いて喰うか頭から塩をつけて喰われるか知れねえものを、それは出来でけぬ、出来でけない相談、それじゃア仕様がねえわ」

 安「それじゃアなぜ主意を立てるといった、お前は力士、たゞの男とは違う、一旦云った事を反故ほごにする事はない、武士に二言はない、刀に掛けても女を貰いましょう」

 花「是は仕様がねえ、じゃア、まアお前さんが剣術遣だから刀に掛けても貰おうというだらわしは角力取だから力に掛けても遣る事は出来でけぬと極めた、それよりほか出来でけませんわ」

 というと一角も額に青筋を張って中々聴きません。此のうちへおまんまべに這入った人達も驚きましたが中には角力ずきで江戸の勇み肌の人も居りまして、

 客「どうだもうけえろうじゃアねえか、因業いんごう武士さむれえ畜生ちきしょう

 客「ウム己達おらっち彌平やへいどんの処へ来るたってふかしい親類でもねえが、場所中ばしょちゅう関取が出るから来ているのだが、本当にい関取だなア、体格からだが出来て愛敬相撲だ一寸ちょっと手取てとりで、大概てえげえ角力取が出れば勘弁するものだが、彼奴あいつめ酒を打掛ぶっかけやアがってひどい事しやアがる」

 客「相手の武士さむれえは三人だ、関取がどっとって暴れると根太ねだが抜けるよ」

 客「うしようじゃアねえか、おりういっても間に合うめえし残して往っても無駄だから、此の生鮭なまじゃけと玉子焼とア持って行こう」

 などゝ横着な奴は手拭の上に紙をいて徐々そろ〳〵さかなを包み始めた。

 花「じゃア先生しぇんしぇいこうしましょう、此処こゝうちでごたすたいった処が此の家へ迷惑かけて、ほかに客があるから怪我でもさしてはなりません、戸外おもてに出て広々とした天神前の田甫たんぼ中でやりましょう、わしも男だ逃げ隠れはしません」

 安「面白い出ろ」

 というので三人づんとった。

 客「喧嘩だア〳〵」

 とほかの客はバラ〳〵逃げ出したが、代を払ってく者は一人もない、横着者は刺身皿を懐に隠して持ってく者もあり、中には料理番の処へ駈込んで、生鮭を三本も持って逃出す者もあり、宇治の里では驚きましたが、安田一角は二人の助けを頼みとして袴の股立ちを取って、長いのを引抜き振翳ふりかざしたから、二人の武士も義理で長いのを引抜き三人の武士さむらいが長いきらつくのを持って立並んでいるから、近辺の者は驚きました。惣次郎は猶更心配でございますから、

 惣「関取お前に怪我をさせては親方に済まぬから」

 花「いゝよ、親方も何もない、お前さん彼方あっちへ行って下せえよ、己が引受けたからは世間へ顔出しが出来ませんから退く事は出来ない、何卒どうか事なく遣るつもりで、お前さんは心配をしねえでいゝよお隅さんを連れて構わず往って下さい、多助さんも行って下さい、旦那様がこゝにいては悪いから帰って下さえ」

 惣次郎は帰れたッて帰られませんし、此の儘にはされず、怖さは怖しどうしようかとおど〳〵して居ると、花車はスッと羽織と単物ひとえものを脱ぎましたが、角力取の喧嘩は大抵裸体はだかのもので、花車は衣服を脱ぐと下には取り廻しをしめている、ウーンと腹をあげると腹の大きさは斯様こんなになります、飴細工の狸みた様で、取廻しの処へ銀拵ぎんごしらえの銅金どうがねの刀をし白地の手拭で向鉢巻むこうはちまきをして飛下とびおりると、ズーンと地響きがする、腕なぞは松のの様で腹を立ったから力は満ちて居る、スーと飛出すと見物人は「ワアー関取しっかりしろ」という。安田一角は袴の股立を取って、

 安「サア来い」

 と長いのを振上げている、此の中へ素裸すはだで、花車重吉が飛込むというところ、一寸一ト息吐きまして。


五十八


 引続きまして角力と剣術遣の喧嘩で、角力という者は愛敬を持ちました者でございまして、只今では開けた世の中でございますから、見識を取りませんで、関取しゅが芸者の中へ這入って甚句じんくを踊り、あるい錆声さびごえ端唄はうたをやるなどと開けましたが、前から天下の力士という名があり、お大名の抱えでありますから、だん〳〵承って見ますると、菅原から系図を引いて正しいもので、幕の内ととなえるは、お大名がおいくさの時、角力取を連れて入らしって旗持はたもちにしたという事でございます、旗持には力が要りますので力士が出まする者で、お見附みつけなどの幕の内には角力取が五人ぐらいずつ勤めて居ります。其の幕の内に居たから幕の内という、お弁当をつかって居るのが小結という、ういう訳でもありますまいが、見た処は見上げる様で、胸毛があって膏薬こうやくあとなぞがあってこわらしい様でありますが、愛敬のあるものでございます。一寸って踊りますと、重い身体からだで軽く甚句などを踊りますと姉さん達は、綺麗じゃアないか可愛いじゃアないか、踊る姿がい事、あれで角力を取らないとい事などと、それでは角力でもなんでもありません。芝居でも稻川いながわ秋津島あきつしまなどゝいうといゝ俳優やくしゃが致します、ごくむかし二段目三段目ぐらいに立派な角力がありましたが、花車などは西の方二段目のたしすえから二三枚目におりました、其の頃愛敬角力で贔屓もあります角力上手でございますから評判がい、今に幕の内に登るという噂がありまして、花車重吉は誠に固い男、ことには羽生村の名主のうちに三年も奉公して、角力になりましてからはたいして惣次郎も贔屓にして小さい時分からの馴染で、兄弟分の約束をして酒を飲み合った事もありますから恩返しというので割って中へ這入りましたが、剣術遣は重ねあつの新刀を引抜いて三人が大生郷の鳥居前の所へびらつくのをげて出ましたから、大概な者は驚いて逃げるくらいでありますが、逃げなどは致しません、ズッと出て太い手をついてう拳を握り詰めますると、力瘤ちからこぶというのが腕一ぱいに満ちます、見物けんぶつは今角力と剣術遣との喧嘩が有るというので近村の者まで喧嘩を見に参る、田甫たんぼの処畦道あぜみちに立って伸上って見ている。

 花「先生しぇんしぇい此処こゝは天神前で、わしはおめえさんと喧嘩する事は、うなったからは私はひくに引かれぬから、お前さん方三人にかゝられた其の時は是非がえ事じゃが、御朱印付の天神様境内で喧嘩してもお前さんも立派な先生、私も角力の端くれ、事訳ことわけ知らぬ奴じゃ、天神様の社内をけがした物を知らぬといわれてはお互に恥じゃ、ねエ死恥しにはじかきたくねえから鳥居の外へ出なせえ」

 是は理の当然で、

 安「うん宜しい、よく覚悟して…鳥居外へ参ろう」

 と三人出たから見物は段々あと退さがる、抜刀ぬきみではどんな人でも退る、豆蔵が水をくのとは違う、おっかないからはら〳〵と人が退きます。

 見物「うだ本当に力士てえ者は感心じゃアねえか、たった一人に三人掛りやアがって、大概てえげえ彼奴あいつ勘弁しやアがるがい、なんしと詫言わびごとしたら恥じゃアあるめえし畜生ちきしょう、関取しっかりやって、おらアおめえの角力を見に来たので、お前が喧嘩に負けると江戸へけえれねえ、冗談じゃアねえ剣術遣を踏殺ふみころせ」

 安「なんだ」

 見物「危険けんのんだ、確かりやって呉れ」

 花「逃げも隠れもしねえ、長崎へ逃げようと仙台へ逃げようと花車重吉駈落は出来ぬから卑怯な事はしねえが、こゝでおめえさんに切られて死ねばもう湯も茶も飲めません、喧嘩はゆっくら出来ますから一服やる間暫らく待って」

 安「なに、これ喧嘩するはなに一服やるなどと、なん愚弄ぐろうするな」

 花「心配しんぺえありません末期まつごの煙草だ、死んだら呑めませんワ、一服やりましょう、たれか火を貸しておくんなせえ」

 見物の中から煙草の火をあてがう奴がある。パクリ〳〵脂下やにさがりに呑んで居る。

 花「まア緩くりりましょう、エ先生しぇんしぇい逃げ隠れはせぬぜ」

 とパクリ〳〵とって居る。見物は、

 見物「気がなげえじゃアねえか、喧嘩の中で煙草を呑んで沈着おちついて居るえれえじゃアねえか」

 見物「豪えばかりでねえ、おれが考えじゃア関取は怜悧りこうだから、対手あいて剣術者遣けんじゅつつかいで危ねえから怪我アしても詰らねえ、関取が手間取っているうち、法恩寺村場所へ人を遣ったろうと思う、うだと二拾人も角力取がおして来れば踏潰ふみつぶしてしまう、然うだろうよ」

 花「サア先生しぇんしぇい喧嘩致しますが、わしも一本しているから剣術は知らぬながらも切合きりあいを致すが、私がさやを払ってからお前様方めえさんがた斬っておでなせえ」

 安「もっとも左様だ、卑怯はしない、サア出ろ」

 花「ヘエ出ます、まアわしも此の近辺で生立おいたった者じゃアが、此の大生郷の天神様の鳥居といったら大きな者じゃア」

 と見上げ

 花「これまアわしが抱えても一抱えある鳥居、此の鳥居も今日が見納めじゃア」

 と鳥居を抱えて、

 花「大きな鳥居じゃアないか」

 と金剛力を出して一振ひとふりすると恐ろしい力、鳥居は笠木かさぎ一文字いちもんじもろにドンと落ちた。剣術遣が一刀を振上げて居る頭の処へ真一文字に倒れ落ちたから、驚きましたの驚きませんのと、きもひしがれてパッとあと退さがる。見物はわい〳〵いう。其の勢いに驚きのくらいの力かと安田はとてかなわぬと思って抜刀ぬきみを持ってばら〳〵にげると、弥次馬に、農業を仕掛けて居た百姓衆が各々おの〳〵すきくわを持って、

 百姓「撲殺ぶちころしてしまえ」

 とわい〳〵騒ぐから、三人の剣客者は雲かすみと林をくぐって逃げました。


五十九


 花車「ハ、逃げやアがったよわえ奴だ、サア案じはねえ、わしが送ってきましょう」

 と脱いだ衣服を着て煙草入を提げ、惣次郎を送って自分は法恩寺村の場所へ帰った。角力は五日間首尾能く打って帰る時に、

 花「鳥居の笠木をおとしたから、旦那様鳥居を上げて下さらんでは困る」

 と云うので惣次郎が金を出して鳥居を以前の通りにしました、其の鳥居は只今では木なれども花車の納めました石の鳥居は天神山に今にあります。場所をしまって花車は江戸へ帰らんければならんから、帰ってしまったあとは惣次郎は怖くってへは出られません、安田一角は喧嘩の遺恨いこん、衆人の中で恥を掻いたから惣次郎は助けて置かぬ、などとおどしに人に逢うと喋るから怖くって惣次郎はとん外出そとでを致しません、力に思う花車がいないから村の者も心配しております。余りうちばかちっしておりますから、母も心配して、惣次郎が深く言交いいかわした女故間違も出来、其の女の身の上はどうかと聞くに、元武士さむらいの娘で親父おやじもろ共浪人して水街道へ来て、親の石塔料の為奉公していると聞き、其の頃は武士をたっとぶから母は感心して、ういう者なれば金を出して、当人が気にったならどうせ嫁を貰わんではならんから貰いいと、水街道の麹屋へ話してお隅を金で身受みうけしてうちへ連れて来てまず様子を見るとしとやかで、器量といい、誠に母へもよくつかえます故、母の気にもって村方のものをんで取極とりきめをして、内祝言ないしゅうげんだけを済まして内儀おかみさんになり、翌年になりますと、丁度この真桑瓜まくわうり時分下総瓜しもふさうりといって彼方あちらは早く出来ます。惣次郎の瓜畑を通り掛った人は山倉富五郎やまくらとみごろうという座光寺源三郎の用人役であって、放蕩無頼にして親には勘当され、其のうち座光寺源三郎の家は潰れ、常陸ひたちの国に知己しるべがあるから金の無心に行ったがあては外れ、少しでも金があればもとより女郎でも買おうというたち、一文なしで腹がって怪しい物を着て、小短いのをして、しんの出た二重廻ふたえまわりの帯をしめて暑くて照り付くから頭へ置手拭をして時々流れ川の冷たい水でひやして載せ、日除ひよけに手を出せば手が熱くなり、腕組みをすれば腕が熱し、仕様がなくぶらり〳〵と参りました。

 富「あゝ、進退こゝきわまったなア、どうも世の中に何がせつないといって腹の空るくらいせつない事はないが、どうも鳥目ちょうもくがなくって食えないと猶更空るねえ、天草のいくさでも、兵糧責ではかなわぬから、高松の水責といえども彼も兵糧責、天草でも駒木根八兵衞こまきねはちべえ鷲塚忠右衞門わしづかちゅうえもん天草玄札あまくさげんさつなどという勇士がいても兵糧責にはかなわぬあゝ大きな声をすると腹へ響ける、大層真桑瓜がなっているなあ、真桑瓜は腹のいた時のしのぎになる腹にたまる物だが、うっかり取る処を人に見られゝば、野暴のあらしの刑で生埋いきうめにするか川に簀巻すまきにしてほうり込まれるか知れんから、一個ひとつぎって食う事も出来ぬが、大層なって熟しているけれども、真桑瓜を黙って持って行くはよろしくないというが、一寸此処こゝで食うぐらいの事は何も野暴のあらしでもないからよかろう、一つ揉ぎって食おうか」

 と怖々こわ〴〵四辺あたりを見ると、瓜番小屋に人もいない様だから、まアい塩梅と腹がってたまらぬから真桑瓜を食しましたが、庖丁がないから皮ごとかじり、空腹だから続けて五個いつつばかりべ、それでけば宜しいのに、先へ行って腹が空ってはならんから二つ三つ用意に持って行こうと、右袂こちらへ二つ左袂こちらへ三つ懐から背中へ突込つっこんだり何かして、盗んだなりこうつと、むこうの畑の間から百姓がにょこりと出た時は驚きました。

 百姓「んだか、われは何んだか」

 富「ヘエ、誠にどうも厳しい暑さでお暑い事で」

 百「此の野郎め、まア生空なまぞらつかやアがって、此処こゝを瓜の皮だらけにしやアがった、われ瓜食ったな」

 富「どう致しまして、腹痛でございますから押えて少しこゞんでおりましたが、暑気しょきあたっておりますので、せんから瓜の皮はありますが、取りは致しませぬて」

 百「此の野郎懐へ入れやアがって、生空つかやアがって、瓜盗んでお暑うございますなどと此の野郎」

 ポカリ撲倒はりたおしますと、

 富「あいたたゝ」

 とよろける途端にたもとや懐から瓜が出る。其の内に又二三人百姓が出て来て、たちまち山倉は名主へ引かれ、間が悪い事に名主の瓜畑だから八釜やかましく、庭へ引かれ、麻縄で縛られますと、せばよいに名主惣次郎は情深い人だから縁側へ煙草盆を持ち出して参って、

 惣「此奴こいつかノ真桑瓜を食ったのは」

 男「ヘエ此の野郎で、草むしりに出ておりますと、瓜畑の中からにょこりちアがったから、何するといったら厳しいお暑さなんてこきアがって、たれもいやすめえと思って、瓜の皮があるから盗んだんべえとつと懐からも袂からも瓜が出たゞ何処どこの者か江戸らしい言葉だ」

 惣「お前が真桑瓜を盗んだか」


六十


 富「ヘエ〳〵恥入りました事で、手前主名しゅめいあかし兼ねまするが、胡乱うろん思召おぼしめすなれば主名も申し上げまするが、手前事は元千百五十石を取った天下の旗下はたもとの用人役をした山倉富右衞門のせがれ富五郎と申す者主家しゅか改易になり、常陸に知己しるべがある為是へ金才覚に参って見るに、先方は行方知れず、余儀なく、旅費を遣い果してより、実は食事も致しませんで、空腹の余り悪い事とは知りながら二つ三つ瓜を盗みたべました処をおとがめで、なんとも恥入りました事で、武士たる者が縄に掛り、此の上もない恥で、どうか憫然ふびんと思召してお許し下されば、此のは慎みまする、どうかお情をもってお許しを願いたく存じます」

 惣「真桑瓜を盗んだからといって何も殺しはしない、真桑瓜と人間とは一つにはならん、殺しはせんが、こゝで助けても、是から何処どこきなさる、当所あてどがありますかえ」

 富「ヘエ〳〵、何処といって当も何もないので、といってすご〳〵江戸表へ立帰る了簡もございません、空腹の余り悪いと知りながら斯様かようなる悪事をして恐れ入ります」

 惣「じゃア茲で許して上げてもわきへ行って腹が空ると、また盗まなければならん、わしの村で許してもほかでは許さぬ、今度は簀巻にして川へ投り込むか、生埋にするか知れぬから、私が茲で助けても親切が届かんでは詰らん、お前さんの言葉の様子では武家に相違ない様だが、私の処は秋口で書物かきものなどが忙がしいが、どうだね、許して上げますが、私のうち恩報おんがえしと思って半年ばかり書物の手伝いをしていて貰いいがどうだね」

 富「ヘエどうも恐入りました事で、斯様なるどうも罪を犯した者をお助け下さるのみならず、半年も置いてお養い下さるとは、なんともどうも恐れ入りました、此の御恩は死んでも忘却は致しません、の様なる事でも実に寝る眼も寝ずに致しますから、何卒どうかお助けを願います」

 惣「よろしい、縄を解け」

 と解かしまして、

 惣「おなかいたろう、サア御膳をおあがり」

 とサア是から富五郎が食ったの食わないのって山盛にして八杯ばかり食置くいおきをする気でもありますまいが沢山食べました。書物を遣らして見ると帳面ぐらいはつけ、算盤そろばんも遣り調法でべんちゃらの男で、百姓を武家言葉でおどしますから用が足りる、黒の羽織なぞを貰い、一本して居る、其のうち

 富「古いはかまが欲しい、小前こまえの者を制しますには是でなければ」

 などとべんちゃらをいう。惣次郎の顔があるから富さん〳〵と大事にする。段々しりが暖まると増長して、もとより好きな酒だから幾らめろといってもそとで飲みます。すると或日あるひの事で、ずぶろくに酔って帰ると、惣次郎はおりません。母は寺参りに往ってお隅が一人奥で裁縫しごとをしている。

 富「只今帰りました」

 隅「おやまア早くお帰りで、今日は大層酔って何処へ」

 富「ヘエ、水街道から戸頭とがしらまで、早朝から出まして一寸帰りに水街道の麹屋へ寄りましたら能く来たというので、の麹屋の亭主が一杯というので有物ありもので馳走になりましておおきに遅くなりました」

 隅「大層真赤に酔って、旦那様はまだお帰りはありますまい、お母様っかさまは寺参りに」

 富「左様で、御老体になりますとどうもお墓参りより外たのしみはないと見えて毎日いらっしゃいますが恐入ります、また旦那様の御様子てえなねえ、誠にド、どうも恐入りますねえ、あんたはおうち柔和おとなしやかに裁縫しごとをなすっていらっしゃるは、どうも恐入りますねえ、ド、どうも富五郎どうも頂きました」

 隅「大層真赤になってちっとおやすみな」

 富「中々寝度ねたくない、一服頂戴、お母様はお寺参り、また和尚さんと長話し、和尚様はべら〳〵有難そうにいいますね、だが貴方あんたがお裁縫しごと姿の柔和おとなしやかなるは実に恐れ入りますねえ」

 隅「少しお寝みよ、富さん」

 富「ヘエ〳〵寝度ねたくないので、貴方は段々承ると、しかるべき処の、お高も沢山お取り遊ばしたお武家の嬢様だが、御運悪く水街道へいらっしゃいまして、御親父様ごしんぷさまがお歿かくれになって、余儀なくういう処へ入らしって、其の内あゝいう杜漏ずろうな商売の中にいて貴方あんたが正しく私は武士さむらいの娘だがという行いを、当家の主人がちゃんと見上げて、是こそ女房という訳で、此方こちらへいらしったのだが、貴方あなただってもまア、わたくしの考えが間違ったか知れんが、武士たる者の娘が何も生涯という訳ではなし、此のうちほんの腰掛で、詰らんといっては済みませんが、けれども貴方生涯此家こゝにいる思召おぼしめしはありますまい、手前それを心得て居るが、拙者も止むを得ず此処こゝにいる、致し方がないから、半年はんねんすけろ、来年迄いろよ、有難うと御主命でね、長く居る気はありません、貴方もほんの当座の腰掛でいらっしゃるが口に出せんでも心中にるね、内祝言ないしゅうげんは済んでも別に貴方の披露ひろめもなし披露をなさる訳もない、貴方も故郷こきょう懐しゅうございましょう、故郷忘じ難し、御府内で生れた者はねえ、うではございませんかね」

 隅「それはお前江戸で生れた者は江戸の結構は知っているから、江戸は見度みたいし懐かしいわね」

 富「有難い、其のお言葉でわたくしはすっかり安心してしまった、それがなければ詰らんで、ねえ武士さむらいの娘、それそこが武士の娘、手前ども少禄者しょうろくものだけれども、此処こゝにへえつくしているが世が世なればという訳だが…お母様はまだ…法蔵寺様へお参りにいらしったので…ですがねえ貴方、此家こゝにこう遣って腰掛けで居るは富五郎心得ております、故郷は忘じ難し、江戸は懐かしゅうございましょう」

 隅「あいよ、懐かしいは当然あたりまえだわね」


六十一


 富「ドうも有難い、それさえ聞けばわたくしは安心致すが、誰でもうで私も早く江戸へいが、マアお隅さん私が少し道楽をして出まして、親類もあるけれども、私が道楽をったから私の身の上が定まらんでは世話は出来ぬというので、女房でも持って、ういう女と夫婦になったと身の上が定まれば、御家人ごけにんの株位は買ってくれる親類もあるが、詰らん女を連れて行っては親類では得心しませんが、是はこう〳〵いう武士さむらいの娘、こういう身柄で今は零落おちぶれて斯う、心底しんていも是々というので、私が貴方の様なる方と一緒に行ってなんすれば親類でも得心致します、お前さんの御心底から器量はし、こういう人を見立てゝ来る様になったら富五郎も心底は定まった、然うなれば力になってろうというので、名主株位買ってくれますよ、構わずズーッと」

 隅「何処どこへ」

 富「何処って、だが、貴方ア腰掛で居る、故郷はうしても懐かしゅうございましょう」

 隅「なんだか分りません、一つことをいって故郷の懐かしい事は知れて居ります」

 富「まア、宜しい、それを聞けば宜しい一寸〳〵」

 隅「なんだよ」

 富「いゝじゃアありませんか二人でズーッと」

 隅「いけないよ、其様そんな事をして」

 富「それ、ういうお堅いから二人で夫婦養子にどんな処へでもなりたかのある処へ行けます、お隅さん」

 となんと心得違いしたか富五郎、無闇にお隅の手を取ってひげだらけの顔を押付ける処へ、母が帰って来て、此のていを見て驚きましたから、そばにある麁朶そだを取って突然いきなりポンとった。

 富「これは痛い」

 母「呆れかえった奴だ」

 隅「よくお帰りでございまして」

 母「今けえって来たゞが、の野郎ふざけ廻りやアがって、富五郎こゝへ出ろ」

 富「ヘエ、これは恐入りました、どうもちっともお帰りを知らんで、前後忘却致し、どうもなんとも誠にどうも、なん御打擲ごちょうちゃくですか薩張さっぱり分りません」

 母「今見ていればなんだお隅にあの挙動まねは何だ、えゝ、厭がる者を無理にかじり付いて、髯だらけのつらこすり付けて、お隅をどうしようというだ、お隅はなんだえ、惣次郎の女房という事を知らずにいるか、われ知っているか、返答ぶて」

 富「どうも、わたくし前後忘却致し、酔っておりまして、はっというとお隅さんで、恐入りました、無暗むやみに御打擲で血が出ます」

 母「頭ア打砕ぶっくだいても構わねえだ、われ恩を忘れたか、此の夏の取付とりつけに瓜畑へ這入へえって瓜イ盗んで、生埋にされる処を、うちの惣次郎が情けぶけえから助けて、く処もねえ者に羽織イ着せたり、はかまア穿かして、脇へ出ても富さん〳〵といわれるは誰がお蔭か、みんな惣次郎が情深なさけぶけえからだ、それを惣次郎の女房に対して調戯からかって縋付すがりついて、まアなんとも呆れて物ういわれねえ、義理も恩も知らねえ、幾らよっぱらったって親の腹へ乗る者アえぞ呆れた、酒は飲むなよくねえ酒癖だからせというに聴かねえで酔ぱらってはけえってやアがって、たった今逐出おいだすから出ろえ、おっかねえ、お前の様な者ア間違まちげえを出かします、こんな奴は只た今出てけ」

 富「お腹立様ではなんですが、お隅さんに只今の様な事をしたは富五郎本心でしたと思召しての御立腹なれば御尤もでございます」

 母「尤もと思うなら出てけ」

 富「わたくしは大変酔ってはおりますが富五郎も武士ぶしでげす、御当家の旦那様に助けられた事は忘却致しません、あゝ有難い事であゝ簀巻にして川へ投り込まれる処を助けられ、かくの如く面倒を見て下すって、江戸へ帰る時は是々すると仰しゃって、実に有難い事で、江戸へ行っても御当家の御恩報じおいえの為になる様心得ております」

 母「そう心得ておるなればなぜお隅にあゝいう挙動まねエする」

 富「其処そこを申します、其処が旦那様のお為を思う処、旦那様は世間見ずの方、江戸へも余り入らしった事もない、ことにはあなた様は其の通り田舎気質かたぎの結構な方、惣吉様は子供衆で仔細ないが、お隅様も結構な方でございますが、前々まえ〳〵承れば、水街道の麹屋で客の相手に出た方、縁あって御当家へいらっしゃったが、お隅様のまえで申しては済みませんが、しお隅様が不実意な浮気心でもあっては惣次郎様のお為にもならぬと思って、どういう御心底か一寸只今気を引いた処、どうもお隅様の御心底是には実に恐れ入りました、富五郎安心しましたが、処をどうもまきでもってポンと頭をどうもなさけない思召しと思う」

 母「あゝ云う言抜いいぬけきゃアがる、気いひいて見たなどゝ猶更置く事は出来ねえから出て行け」

 隅「お母様お腹立でございましょう、御気性だから、富さん、お前は酒が悪いよ、お酒さえ慎めば宜しい、旦那様のお耳に入れない様にするから」

 富「エ、もう飲みませんとも」

 母「まアお前彼方そっち引込ひきこんで、わしが勘弁出来ぬ、本当なればお隅が先へ立って追出すというが当然あたりまいだが、こういう優しげな気性だから勘弁というお隅の心根エ聞けば、一度は許すが、今度彼様あんな挙動まねエすればぐ追出すからそう思え」

 富「恐入りました」

 と是からこそ〳〵部屋へ這入って、と見ると頭に血がにじみました。

 富「お隅は万更まんざらでもねえ了簡であるのに、あゝふてえ婆アだ」

 なに自分が太い癖に何卒どうかしてお隅を手に入れ様と思ううち、ふと思い出して胸へ浮んだのは、噂に聞けば去年の秋大生郷の天神前で、安田一角と花車重吉の喧嘩の起因もとはお隅から、よし彼奴あいつを力に頼んでとれからべら〳〵の怪しい羽織を着て、ちょこ〳〵横曾根村へ来て安田一角の玄関へ掛り、

 富「お頼み申す〳〵」


六十二


 門弟「どうーれ、何方どちらから」

 富「手前は隣村りんそんる山倉富五郎と申す浪人で、先生御在宅なれば面会致したく態々わざ〳〵参りました、是は此方様こなたさまへほんのお土産で」

 門「少々お控えなさい、先生」

 安田「はい」

 門「近村の山倉富五郎と申す者が面会致しいと、是は土産で」

 安「山倉とは知らぬが、此方こちらへお通し申せ」

 門「此方へお通りなすって」

 富「成程是は結構なお住居すまいで、成程是は御道場でげすな…ようがすな御道場の向うが…丁度是から畑の見える処が…是はどうもまた違いますな」

 安「さア〳〵是へ、何卒どうぞ、是は〳〵」

 富「えゝ、山倉富五郎と申す疎忽者そこつもの此のとも御別懇に」

 安「拙者が安田一角と申す至って武骨者此の後とも、えー只今はお土産を有難う」

 富「いゝえ詰らん物で、ほんのしるしで御笑納下さい、大きに冷気になりましたが日中にっちゅうは余程お暑い様で」

 安「左様で、今日こんにちはまたちっとお暑い様で、よくおでゝ、えー何か御用で」

 富「はい少々内々ない〳〵で申し上げい事が有って、の方は御門弟で」

 安「はい」

 富「少々お遠ざけを願います」

 安「はい、慶治けいじ御内談があって他聞たぶんはゞかると仰しゃる事だから、彼方あちらへ行っておれ、えー用があれば呼ぶから」

 慶「へえ左様で」

 富「え、もうお構いなく、先生お幾歳いくつでげす」

 安「手前ですか、もういけません、なんで、四十一歳で」

 富「へえおわこうげすね、御気力がおたしかだからお若く見える、頭髪おぐし光沢つやし、立派な惜しい先生だ、此方こちらに置くのは惜しい、江戸へ入らっしゃれば諸侯方が抱えます立派なお身の上」

 安「なんの御用か承りい」

 富「手前打明けたお話を致しますが、只今では羽生村の名主惣次郎方の厄介になっておる者でござるが、惣次郎の只今女房という訳でない、まア妾同様のお隅と申す婦人、あれは御案内の水街道の麹屋に奉公致した酌取女しゃくとりおんなの隅なるものに先生思召おぼしめしがあったのでげすな、前に惚れていらしったのでげすな貴方」

 安「これは初めてお出でゞ、他人の女房に惚れているなどといや挨拶の仕様がない、麹屋にいた時分には贔屓にした女だから祝儀も遣って随分引張ひっぱって見た事もあるのさ」

 富「恐れ入ったね、それがう云えぬもので恐入りました、其処そこが大先生で、えーえらい」

 安「何しにお出でなすった、安田一角を嘲哢ちょうろうなさりにお出でなすったか、初めてお出でゞ左様なる事を仰しゃる事がありますか」

 富「御立腹ではどうも、中々左様な訳ではない、手前剣道の師とお頼み申し、師弟の契約をしたい心得でまかり出ましたので、実はのお隅と申すは同家どうけにいるから、段々それまア江戸子えどっこ同士で、打明けた話をするとお前さん此処こゝに長くいる気はあるまい、此処は腰掛だろう、故郷忘じ難かろう、私と一緒に江戸へ、というと、私も実は江戸へ行きい、ことに江戸にはなりの親類もあり、仮令たとえ名主でも百姓のうちへ縁付いたといわれては親類のきこえも悪い、うなればといって御新造ごしんぞという訳ではなし、へえ〳〵云ってしゅうとの機嫌も取らなければならんから実は江戸へき度いというから、然うなれば何故一角先生の処へいかぬ、むこうなんでも大先生、弟子も出這入り、名主などは皆弟子だから、彼処あすこへ行って御新造になれば江戸へ行っても今井田流の大先生、彼処の御新造になれば結構だになぜ行かぬというと、それには種々いろ〳〵義理もあって、親父の借金も名主惣次郎が金を出してくれた恩もあるから、先生の処へ行かれもしないというから、それなら先生がうと云ったらお前行く気があるかと云ったら、私は行き度いが、先生には色々綾があるからかれないというから、うなればわしが行って話し、私も江戸へ帰る土産に剣道を覚えて帰り度い、よい師匠を頼もうと思っていた処だというので、然うなればと頼まれて参ったので、先生あれを御新造になさい、どうでげす」

 安「お帰んなさい、なんだお前は、これてまえは何だ、惣次郎方の厄介になっている者なれば、惣次郎がどうかして安田を馬鹿にしてれというので来たな、初めて逢って他人の女房を貰えなどと、はい願いますとたれがいう、ことに惣次郎には、去年の秋いさゝかの間違でたがいに遺恨もあり、わしも恨みに思っている、其のかたき同士の処へ来て女房に世話をしましょうなどと、はい願いますとたれがいう、白痴たわけめ、帰れ〳〵」

 富「成程是は至極御尤も、どうもお気分に障るべき事を申したが、まア」

 安「騒々しい、帰れったら帰れ」

 富「まア〳〵重々御尤も、是には一つの訳がある、ようがすか、手前が打明けた話を致しましょう、手前も武士で二言はない手前は本所北割下水で千百五十石を取った座光寺源三郎の用人山倉富右衞門の忰富五郎、主人は女太夫を奥方にした馬鹿ですから家は改易、仕方なし、手前は常陸に知己しるべがあるから参ったが、ふとした縁で惣次郎方の厄介、処が惣次郎人遣いを知らず、名主というをけんにかってひどい取扱いをするは如何いかにも心外で、手前は浪人でも土民どみんなぞにへえつくする事はない、残念に心得ているが、打明話を致すが、江戸に親類どもゝある身の上、江戸へ帰るにも何か土産がないが、実は今まで道楽をして親類でも採上とりあげませんから、貴方の内弟子になってお側で剣道を教えて頂いて、免許目録を貰って帰ると、親類でも今まで放蕩をしても田舎へ行って、是々いう先生の弟子になってと書付かきつけを持って帰れば、それが価値ねうちになって何処どこへでも養子に行かれる、処が、御門人にといっても、月々の物を差上げる事も出来ません身の上でございますが、それを承知で貴方の弟子に取って下さるなれば、わたくしは弟子入の目録代りに、御意ぎょいかなったお隅を、御新造に、長熨斗ながのしを付けて持って来ましょう」


六十三


 安田「是は面白いぞ、惣次郎というぬしのある者をどうして持って来られます」

 富「惣次郎が有ってはいけませんが、惣次郎をかたなに斬って下さい」

 安「黙れ、馬鹿をいうな、帰れ、帰れ、われは惣次郎と同意して手前の気を引きに来たな、うゝん帰れ〳〵」

 富「これは成程、至極御尤もですが、まア」

 安「騒々しい行け〳〵」

 富「じゃア有体ありていに申します、正直なお話を致しますが、貴方の遺恨ある角力取の花車重吉が来て、法恩寺村の場所が始まるので、去年の礼というので、明晩になりますと、惣次郎がかね三十両遣ると、ようがすか、用をしまうのは日の暮方まで掛りましょう、帳合ちょうあいなどを致しますからな、用が終って飯を食ってはどうしてもの六つすぎになります、其処そこで三拾両持って出掛ける、富五郎がお供でげす、ずうっと河原へ出て、それから弘行寺ぐぎょうじの松の林の処へ出て黒門の処までは長い道でございますから其処へ出て来ましたら、貴方は顔を包んで芒畳すゝきだゝみの影に隠れていて、手前が合図に提灯ちょうちんを消すと、途端に貴方が出てずぷりと遣り、惣次郎を殺すと金が三十両あるから持ってうちへ帰り、構わず寝て入らっしゃい、まアさお聞きなさい、手前は面部へきずを付けて帰って、今狼藉者ろうぜきものが十四五人出て、旦那も切合って私も切合ったが、多勢に無勢ぶぜいかなわぬ、早く百姓をというので大勢来て見ると、貴方は宅へ帰って寝て居る時分だから分らぬてえ、気の毒なといって死骸を引取り、野辺送りをしてしまってから、ようがすか、其のは旦那様が入らっしゃりませんでは私がいても済みません、ことにはアいう処へお供をして、旦那が彼アなれば猶更どうも思い出して泣くばかりでございますから、江戸表へという、惣次郎が死ねばお隅さんも旦那様がいなければ此のうちにいても余計者だからわたくしも江戸へ帰るという、江戸へくなれば一緒にというので、お隅を連れて来てずうっと貴方の処へ長熨斗を付けて差上げる工風くふう、富五郎の才覚、惚れた女を御新造にして金を三拾両只取れるという、是迄種をあかしてこれでも疑念に思召おぼしめすか、えゝどうでげす」

 安「成程是は面白い、それに相違ないか」

 富「相違あるもないも身の上を明してかくお話をして、是をどうも疑念てえ事はない、宜しい手前も武士さむらい金打きんちょう致します…今日はいけません…木刀をして来たから今日は金打は出来ませんが、ほかの様なる証拠でも致します」

 安「じゃア明晩酉刻むつというのか」

 富「手前供を致します、彼処あすこ日中にっちゅうも人は通りませんから、酉刻を打って参り、ふッと提灯を消すのが合図」

 安「よろしい、相違なければ」

 と約束して帰りました。安田一角は馬鹿でもない奴なれども、お隅にぞっこん惚れているから、全くういう了簡で連れて来るのではないかと思い、是から胸に包んで翌日仕度したくをして早くから家を出て、諸方を廻って、って弘行寺の裏手林芒畳へしゃがんで待っている事とは知りません、此方こちらは富五郎が、お隅を手に入れるに惣次郎が邪魔になりますが、惣次郎は剣術も心得ておりますから、自分に殺す事が出来ぬから、一角をだまして惣次郎を殺させてのち、お隅を連出して女房にしようというたくみでございます、実に悪い奴もあるものでございます。富五郎は書物かきものが分りませんから眼を通してと、惣次郎へ帳面を見せ、わざと手間取るから遅くなります。是から夜食を食べて支度をして提灯をけて出かけようとする、何か虫が知らせるかして母親もお隅もりたくない、

 隅「なんだか遅いから、明日あした先方むこうから参りますから今日はおめなさいな」

 惣「なアに直ぐ帰るから」

 隅「そうでございますか、富五郎お前一緒にどうか気を付けておくれよ」

 富「ヘエ大丈夫、どんな事があっても旦那様にお怪我をさせる様な事はございません、手前も剣道を心得ておりますから」

 とそらつかって惣次郎の供をして出掛けましたが、笠阿弥陀を横に見て、林の処へ出て参りますと、左右は芒畳で見えませんが、左の方の土手向うは絹川の流れドウ〳〵とする、ぽつり〳〵と雨が顔にかゝって来る。

 惣「富五郎降って来たようだ」

 富「大した事もありません、恐れ入りましたが一寸小用こようを致しますから」

 惣「小便ちょうずをするなれば提灯は持ていて遣る、これ〳〵何処どこく提灯を持って行っては困る」

 といううち富五郎はふっと提灯を吹消しました。

 惣「提灯が消えては真暗まっくらでいかぬのう」

 富「今小用致しますから」

 という折から安田一角は大松おおまつの蔭に忍んでおりましたが提灯が消えるを合図にスックと立ってすかし見るに、真暗ではございますが、きらつく長いのを引抜いてこう透して居ります。

 惣「富や、おい富〳〵、んだかこそ〳〵してうしろにいるのは、富や〳〵」

 という声をあてにして安田一角が振被ふりかぶる折から、むこうの方から来る者がありますが、大きな傘を引担ひっかついで、下駄も途中で借りたと見えて、降る中を此処こゝに来合わせましたは、花車重吉という角力取すもうとりでござります。是からは芝居なればだんまり場でございます。


六十四


 引き続きおきゝに入れまするは、羽生村の名主惣次郎を山倉富五郎が手引をして、安田一角と申す者に殺させます。是は富五郎が惣次郎の女房お隅に心底ぞっこん惚れておりましても、惣次郎があるので邪魔になりますから、いっそかたづけて自分の手に入れようという悪心でござりますが、田舎にいて名主を勤めるくらいであるから惣次郎も剣術の免許ぐらい取って居ります。富五郎は放蕩無頼で屋敷を出る位で、少しも剣術を知りませんから、自分で殺す事は出来ません、こゝで下手でも安田一角という者は、剣術の先生で弟子も持っているから、丁度お隅に惚れているのを幸い、一角をおいやって惣次郎を殺し、惣次郎の歿のちにお隅を無理に口説いて江戸へ連れて行って女房にしようというたくみを考え、やまおどして上手に見えるが田舎廻りの剣術遣だから、安田一角が惣次郎より腕が鈍くて、し惣次郎が一角を殺すような事になれば、此の企は空しくなるというので、惣次郎が常にして出ます脇差の鞘を払って、其の中へ松脂まつやにを詰めて止めを致して置きました、実に悪い奴でございます。惣次郎は神ならぬ身の、左様な企を存じませんから富五郎を連れて、の脇差を帯して家を出て、丁度弘行寺の裏林へ掛りますと、富五郎がこそ〳〵ってくようですから、なぜかと思ってうしろを振り返える、とたんに出たのは安田一角、面部を深く包み、端折はしょりを高く取って重ねあつの新刀を引き抜き、力に任せてプスーリ一刀いっとうあびせ掛けましたから、惣次郎もひらりと身を転じて、脇差の柄に手を掛け抜こうとすると、松脂をつぎ込んでから一日たって居るので粘って抜けない、脇差の抜けませんのにいら立つ処を一刀ひとかたなバッサリと骨を切れるくらいに切り込まれて、むこうへ倒れる処を、又一刀ひとかたなあびせたから惣次郎は残念と心得て、脇差の鞘ごと投げ付けました、一角がツと身をかわすと肩の処をすれて、すゝき根方ねがたへずぽんと刀が突立つったったから、一角はのりを拭いて鞘に収め、懐中へ手を入れて三十両の金を胴巻ぐるみ盗んで逃げようとすると、向の方から蛇の目の傘をし、高足駄たかあしだを穿いて、花車重吉という角力が参りました時には、一筋道ひとすじみち何処どこへもけることが出来ません、一角はうろたえてあとへ帰ろうとすれば村が近い、仕方がないからさっさっと側の薄畳の蔭の処へ身を潜め、小さくなって隠れて居ります。此方こちらは富五郎はバッサリ切った音を聞いて、すぐうちへ駈けてく、其の道すがらいばらか何かでわざ蚯蚓腫みみずばれの傷をこしらえましてせッ〳〵と息を切ってうちへ帰り

*「けしかけるおだてるそゝのかす」

 富「只今帰りました」

 という。処が富五郎ばかり帰ったからびっくりして、

 隅「おや富さんお帰りかいうかおしかえ」

 富「ヘエもう騒動が出来ました、あの弘行寺の裏林へ掛ったら悪漢わるものが十四五人ででで出まして、二人とも懐中の金を出せ身ぐるみ脱いで置いてけと申しましたから、驚いて旦那に怪我をさせまいと思いまして、松の木を小楯こだてに取りまして、不埓至極な奴だ、旦那をなんと心得る、羽生村の名主様であるぞ、粗相をすると許さんぞというと、大勢で得物えもの〳〵を持って切って掛るから、手前も大勢を相手に切り結び、旦那も刀を抜いて切り結びまして、二人で大勢を相手にチョン〳〵切結んでおりましたが、何分多勢に無勢旦那に怪我があってはならぬと思って、やっと一方を切り抜けて参りました、此の通り顔を傷だらけにして…早くお若衆わかいしゅ早く〳〵」

 と誠しやかにせえ〳〵息を切っていいますから、お隅は驚いて、それ早く〳〵というので、村の百姓を頼んで手分てわけをして、どろ〳〵押して参りましたが、もう間に合いは致しません、斬った奴はとううちへ帰って寝ている時分、百姓しゅが大勢行って見ると、情ないかな惣次郎は血に染って倒れておりますから、百姓衆も気の毒に思い、死骸を戸板に載せて引き取り、此の事を代官へ訴え、ず検視も済み、仕方なく野辺送りも内葬の沙汰で法蔵寺へ葬りました。是程の騒ぎで村の者は出掛けて追剥おいはぎの行方を詮議致し、又四方八方八州の手が廻ったが、殺した一角は横曾根村に枕を高く寝ておりまするので容易に知れません。惣次郎と兄弟分になった花車重吉という角力は法恩寺村にいて、場所を開こうという処へ此の騒ぎがあるのに、とんとくやみにも参りませんから、母も愚痴が出て

 母「あゝうち心棒しんぼうがなくなればうしたもんか、情ないもの」

 と愚痴たら〴〵。そうこうすると九月八日は三七日みなのかでござります、花車重吉が細長い風呂敷に包んだ物を提げて土間の処から這入って参りまして、

 花「はい御免なせい」

 多「いやお出でなさえまし」

 花「誠に大分だいぶ御無沙汰致しました」

 多「うちでもまアうしたかってえねえ、一寸知らせるだったが、家がまアせわしくって手が廻らないだで、まア一人で歩いてることも出来なえから誠に無沙汰アしましたが、旦那様ア殺された事は貴方あんた知って居るだね」

 花「誠にまアなんとも申そうようはございません、知って居りましたが旦那とわしとは別懇の間柄だから、私が行って顔を見ればお母様っかさまやお隅さんに尚更なげきを増させるような者だから、夫故それゆえまア知っていながら遅くなりました、多助さん、飛んだ事になりましたね」

 多「飛んだにもなんにも魂消たまげてしまってね、お内儀様かみさんはハア年い取ってるだから愚痴イいうだ、花車は内に奉公をした者で、殊に角力になる時前の旦那様の御丹精もあるとねえ、惣次郎とは兄弟じゃアねえか、それで此の騒ぎが法恩寺村迄知んねえ訳アえ、知って来ないは不実だが、それとも知んねえか、江戸へでもけえった事かとお内儀かみさんあんたの事をば云って、ただ騒いでいるだ、どうか行って心が落ち着くように気やすめを云って下さえ、泣いてばいいるだからねえ」

 花「はい、来たいとは思いながら少し訳があって遅く参りました、まア御免なせえ」

 多「さア此方こっちへお這入り」

 というので風呂敷包を提げたなり奥へ参ります。来てみると香花こうはなは始終絶えませぬから其処そこらが線香くそうございます。

 多「お内儀さん法恩寺の関取が参りましたよ」

 母「やア花車が来たかい、さア此方こっちへ這入っておくんなせえ」

 花「はい、お内儀さんなんとも此のたびは申そう様もございません、さぞ御愁傷様でございましょう」


六十五


 母「はい只どうもね魂消たまげてばいいます、お前も知っている通りちいせえ時分から親孝行で父様とっさまアとは違って道楽もぶたなえ、こんな堅い人はなえ、小前こまえの者にもなさけを掛けて親切にする、あゝいう人がこんなハア殺され様をするというは神も仏もないかと村の者が泣いて騒ぐ、わしもハア此の年になって跡目相続をする大事な忰にはア死別しにわかれ、それも畳の上で長煩ながわずらいして看病をした上の臨終でないだから、なんたる因果かと思えましてね、愚痴い出て泣いてばいいます、それにお隅は自分の部屋にばい這入って泣いて居るから、此間こねえだもお寺へ行ったら法蔵寺の和尚様ア因果経というお経を読んで聴かせて、因果という者アあるだから諦めねばなんねえて意見をいわれましたが、はアどうも諦めが付かなえで、只どうも魂消てしまって、どうかまアこういう事ならとッつアんの死んだ時一緒に死なれりゃア死にたかったと思えますくらいで」

 花「はい、わしもねえお寺詣りには度々たび〳〵参ります、それも一人で、実は人に知れない様に参りました、是には深い訳のあることで、私が不実で来ないと思って定めて腹を立てゝお出でなさるとは知っていますが、少し来ては都合の悪い事があって来ませぬ、お前さん私は今まで泣いたことはありません、又大きな身体なりをして泣くのは見っともねえから、めろ〳〵泣きはしませんけれども、ほかに身寄兄弟もなし、重吉手前とは兄弟分となって、んでもお互に胸にある事を打ち明けて話をしよう、力になり合おうといっておくんなさいました、其のお前さん力に思う方に別れて、実に今度ばかりは力が落ちました、墓場へ行って花を上げて水を手向たむけるときにも、どうも愚痴の様だけれども諦めが付かないでついはア泣きます、まア何んともいい様がありません、さぞお前さんにはと通りではありますまい、お察し申しております、お隅さんも嘸御愁傷でしょう」

 母「はいわしの泣くのは当り前のことだが、あのお隅は人にも逢わなえで泣いてばいおるから、そう泣いてばいいると身体に障るから、ちっと気いまぎらすがえ、幾ら泣いても生返いきけえる訳でなえというけれども、只彼処あすこつくなんで線香を上げ、水を上げちゃア泣いてるだ、誠にハア困ります」

 花「はいお隅さんを一寸こゝへお呼びなすって下さい」

 母「お隅やちょっくり此処こゝうや、関取が来たから来うや」

 隅「はい〳〵」

 母「さア此処こけや、待ってるだ」

 隅「関取おいでなさい」

 花「はいお隅さんまアんとも申そう様はありません、とんだことになりました、ぞお力落しでございましょう」

 隅「はい、もうね毎日おっかさんと貴方の噂ばかり致しまして、どうしておいでなさいませんか、何かお心持でも悪いことがありはしまいか、よもや知れない事もあるまいが、何か訳のある事だろうと、お噂を致しておりましたが実に夢の様な心持でございましてねえ、それは貴方とは別段に中がくってねえ、旦那がいつ疳癪かんしゃくを起しておいでなさる時にも、関取がおいでなさいますと、すぐに御機嫌が直って笑い顔をなさる、こうやって関取が来ても旦那様がお達者でいらしったら嘸お喜びだと存じまして、私は旦那の笑顔が目に付きます」

 母「これ泣かないがえ、そう泣かば病に障るからというのに聞かなえで、の様に泣いてばいいるから、われが泣くからおらがも共に悲しくなる、泣いたって生返いきけえる訳エなえから諦めろというだ、ねえ関取」

 花「ヘエ、御愁傷の処は御尤でございますが、お隅さん、旦那をば何者が殺したという処の手掛てがゝりちっとはございますか」

 隅「もう関取の処へ早くいというのが、御用があって二日ばかり遅くなりましたから、是から富五郎を供に連れて関取にお目に掛りに参ると仰しゃるから、今日は大分だいぶ遅いから明日あすになすったらかろうといっても、是非今日はといって、ういう事か大層いてお出でになりました、処が丁度弘行寺の裏林へ通り掛りますと、十四五人の狼藉者ろうぜきものが出まして、得物〳〵を持って切り付けましたから、旦那はお手利てきゝでございますからすぐに脇差を抜いて向うと、富五郎も元は武士で剣術も存じておりますから、二人で十四五人を相手に切り結んだけれども、幾ら旦那が御手練ごしゅれんでもむこう大勢たいぜいでございますから、仕方なく、富五郎が旦那にお怪我をさしてはならぬとやっと切り抜け駈け付けて来ました、すぐに村の若いしゅ大勢おおぜい参りましたけれども、其の甲斐もなくもう間に合いませんで、誠に情ないことでございます」

 花「じゃア富五郎さんが一緒に附いて行って弘行寺の裏林へ掛った処が十四五人狼藉者が出て取巻いたから、旦那も切結び、富五郎も切り合ったという処を誰も見た者はないので、富五郎が帰って其の事を話したのですね」

 隅「左様でございます」

 花「うん、富五郎という人は内におりますか」

 隅「おっかさん、今日は富五郎は何処どこかへ使いに参りましたか」

 母「今何まで使つかいったゞ、何処まで行ったかのう、又水街道の方へ廻ったか知んなえ、じき横曾根まで遣ったがね」

 花「御新造さん、留守かえ、そんなら話をしますが、あの富五郎という奴は、べちゃくちゃ世辞をいう口前くちまえい人だね、実はわしはね、人には云わないが旦那の殺されたばかりの処へ通り掛った処が、丁度廿五日で真暗まっくらだ、私がずん〳〵くと、むこうから頭巾をかぶった奴が来やアがる様子だから、はてんな林に胡散うさんな奴がおる、ことにったら盗賊かと思うたから、油断せずにすかして見ると、其奴そいつが脇道へ曲って、むこうへこそ〳〵這入ってくから、なんでもこれは怪しいと思うて、急いで来ると、私の下駄で蹴付けつけたのは脇差じゃ、はて是は脇差じゃがうして此処こゝるかと思うて、見ると向からワイ〳〵とお百姓が来まして、高声たかごえ上げて、あゝ情ないもう少し早かったらこんな事にはならぬ、無惨なことをした、情ないことをしたというから、こいつしまった、そんなら頭巾を被った奴が旦那を殺したと思って、其の事を皆の中で話をしようかと思ったが、旦那と私と深い中のことは知って居るし、し角力が加勢をすると思って、遠く逃げてしまわれたら手掛りはないから、是は知らぬ積りでうちへ帰ったが好いと思うて、其の脇差をげて帰ってからは何処どこへも出ず、ほかの者にも黙ってろ知らぬ積りでいろといい付けて来ずにいましたが、今日はうして脇差を持って来ました」

 母「あれやまア、どうも不思議なこんだ、殺された処へ通り掛って脇差い拾ったって、其の斬った奴は何様どんな奴だかね」

 花「お隅さん、それはね此の脇差はどうしたのか知れないが、ちょっくり抜けない、わしの力でもちょっくり抜けない、なんでも松脂まつやにか何か附いてると見えてば〳〵してるから、ひっついて抜けないが、これは旦那の不断差す脇差で私も能く知っております」

 母「あれやまアどうも、お前が知ってるのが手に這入るのは不思議だねえ」


六十六


 隅「お母様っかさん、もう少し関取が早かったら助かりましたものを」

 花車「此の通り抜けない、抜けないから脇差をほうり付けたのを盗賊どろぼうが置いて行ったか、其処そこは分らんが、今富五郎がわしも切り合い旦那も切合ったが、相手が大勢でかなわんというので駈付けて来て知らしたというのは、それはどうも私は胡散なことと思う、仮令たとえ相手が多かろうが少なかろうが、旦那さんあぶないのを一人いて逃げて来るという訳はないねえ、うじゃないか、大切な主人と思えばどこ迄も助けるには側にいなければならぬ、それを措いて来るとは、怖いから逃げたとしか思えない、旦那が脇差を抜いて切合ったというが抜けやしない、ねえ、どうしても抜けない刀を抜いて切合ったという道理がないから、どうも富五郎という奴が怪しい、という訳は、お隅さん、去年の秋大生郷の天神前で喧嘩を仕掛けた奴がお隅さんが麹屋に居た時分お前さんに惚れて居て冗談をいった奴がある、処がお隅さんは堅いから、いう事を聞かんで撥付はねつけたのを遺恨に思うているということを知っている、事にったら安田一角が旦那を切って逃げやアしないかと考えた、ついては山倉富五郎という野郎は、口前はい奴だが心になさけのない慾張った奴だから、事に依ったら一角にお出で〳〵をされて鼻薬を貰うて、一角の方に付いて、彼奴あいつが手引をして殺させやアせんかと思う、それ此の通り抜けぬのに抜いて切合ったというのが第一おかしいじゃないか」

 母「あれやまア其処そこらには気が付かんで、只まア魂消てばいいました、ほんにそうかもしんねえよ、其の頭巾かぶったのはどんな恰好だっきゃア」

 花「それはやみだからしっかり分らんが、一角じゃないかとわしの心にうかんだ、うしておくんなさい、私は黙って帰るが、富五郎が帰ったら、今日花車がくやみに来て種々いろ〳〵とりこんだ事があって遅くなった、ついてはわきへ二百両ばかり貸したが、どう掛合っても取れないから、どうかして取ろうと中へ人を入れたが、何分なにぶん取れないが、し富五郎さんが間へ這入ったらむこうの奴も怖いから返すだろう、若しお前の腕から二百両取れたら半分は礼に遣るが、どうか催促の掛合に往ってくれまいかと、花車が頼んだが行って遣らんかといえば、慾張よくばっているから屹度きっと遣って来るに違いない、法恩寺村の私の処へ来たら富五郎さん〳〵というて富五郎を側に寄せ、腕を押えてさア白状しろ、一角に頼まれて鼻薬を貰って、惣次郎さんを殺したと云え、どうだ〳〵いわなけりゃア土性骨どしょうぼねどやして飯を吐かせるぞ、白状すれば、命は助けて遣るというたら、痛いから白状するに違いない、実は是れ〳〵〳〵〳〵であると喋ったら旨いもんでうしたら富五郎はくり〳〵坊主にして助けてもし、物置へほうり込んでもいが、愈々いよ〳〵一角と決ったらお隅さん繊細かぼそい女、お母様っかさんは年を取って居り、惣吉さんはまだ子供だから私が先へ行きます、一角の処へ行って、さて先生大生郷の天神前で、飛んだ不調法を致しましたが何卒どうか堪忍しておくんなさいと只管ひたすら詫びる、うすれば斬ることは出来ぬからうっかり近寄る近寄ったら両方の腕を押えて動かさぬ、さア手前てめえが惣次郎を殺した事は富五郎が白状した、かたきを取るから覚悟をしろと腕を押えた処へ、お前さんが来て小刀こがたなでもきりでも構わぬからずぶ〳〵つッついて一角を殺すがいどうじゃ」

 隅「本当に有難いこと、さぞ旦那様が草葉の蔭でお喜びでございましょう、関取私は殺されてもいゝから旦那様のかたきを取って」

 母「何分にもよろしくねがえます」

 花「余り敵〳〵と云わないがいゝ、わしは先へ帰りますから」

 と脇差を元の如く包んで帰りました。あとり替って帰りましたのは山倉富五郎、

 富「ヘエ只今帰りました」

 母「富や、大層けえりが遅かったね」

 富「なに帰り掛けに法蔵寺様へ廻りまして、幸いい花がありましたからお花を手向たむけましたが、お墓に向いましてなア、実に残念でございまして、なんだか此間こないだまで富〳〵と仰しゃったお方がまアどうも、石の下へお這入りなすったかと存じましたら胸が痛くなりまして、嫌な心持で、又うちへ帰って貴方がたのお顔を見ると、胸がける様な心持、仏間に向って御回向ごえこう致しますると落涙らくるいするばかりで、誠にはやんとも申そう様はありません」

 母「まア能く心に掛けてわれ墓参はかめえりするって、さぞ草葉の蔭で喜んでいるベエ」

 富「どうも別に御恩返しの仕方がありませんから、お墓参りでもするよりほか仕方がありません、仏様にはお念仏や花を手向けるくらいで、御恩返しにはなりませんが、それより外に仕方がありません、ヘエ」

 隅「あの富さん先刻さっき花車関が悔みに参りましたよ」

 富「おや〳〵〳〵左様でござりましたか、ヘエ成程うなすったか、御存じないのかと思いましたが」

 母「ナニ知ってたてや、知ってたけれども早く来て顔を見せたら、ふけえ馴染の中だで思出おめえだしてなげきが増して母様かゝさまが泣くべえ、それに種々いろ〳〵用があってねえでいたが悪く思ってくれるなって、でかい身体アして泣いただ」

 富「そうでげしょう、兄弟の義を約束した方でございますからさぞ御愁傷でげしょうお察し申します」

 母「ついてねえ、あの関取がわきへ金え二百両貸した処が、むこうの奴がずりい奴で、返さなえで誠に困るから、どうか富さんを頼んで掛合ってもれえてえ、富さんの口前で二百両取れたら百両礼をするてえいうだ、どうだい、けえったばかりで草臥くたびれて居るだろうが、行ってってくんろよ」

 富「ヘエ成程関取が用立った処が向の奴が返さんのですか、なにぐ取って上げましょう、造作もありません、百両……百両……なアに金なんぞお礼に戴かぬでも御懇意の間でげすから直ぐに行って参ります」

 と止せばよいのに黒い羽織を着て、一本して、ひょこ〳〵遣って来ましたのが天命。

 富「はい御免なさい、関取のおうち此方こちらでげすか、頼みます〳〵」

 弟子「おーい此処こゝだい」

 花「これ〳〵一寸此処へ来い、富五郎という人が来たら奥へ通して己が段々掛合いになるのだで、切迫せっぱ詰って彼奴あいつが逃げ出すかも知れないから、逃げたらば表に二人も待ってゝ、にげやがったら生捕いけどって逃がしてはならぬぞ、えゝ、初めは柔和な顔をして掛合うから」

 弟子「逃げたら襟首を押えて」

 花「こう〳〵そんな大きな声を、此方こちらへお這入りなさいといえ」


六十七


 弟子「此方こっちへお這入んなせい」

 富「御免をこうむります」

 花「さア富さん此方こっちへ、取次も何もなしにずか〳〵あがっていじゃないか、さア此方へ来て下さい」

 富「えー其のは存外御無沙汰を、えーいつも御壮健で益々御出精ごしゅっせいで蔭ながら大悦たいえつ致します、関取は大層評判がうげすから場所が始まりましたら、是非一度は見物致そうと心得ていましたが、御案内の通りさん〴〵の取込で、つい一寸の見物も出来ません、しかし御評判は高いものでござります、昨年から見ると大した事で、おうらやましゅう、実に関取は身体も出来ていらっしゃるし、ことには角力が巧手じょうずで、愛敬があり、実に自力のある処の関取だから、今に日の下開山かいざん横綱の許しを取るのはあの関取ばかりだといって居ます」

 花「余計な世辞は止して下せい、わしは余計な世辞は大嫌いだから」

 富「いや世辞は申しません、これはたとえの通り人情で、好きなものは一遍顔を見た者には、知らぬ人でも勝たせたいと思うのが人間のじょうでげしょう、して旦那とは兄弟分でこうやって近々ちか〴〵拝顔を得ますから、場所中は、どうか関取がお勝になる様にと神信心をしていますよ」

 花「それは有り難い、仮令たとえ虚言うそでも日の下開山横綱と云って貰えばなんとなく心嬉しい、やア、お茶を上げろよ、さア此方こっちへ」

 富「関取、さぞ御愁傷で」

 花「やアお互のことで、さぞお前さんもお力落しでございましょう」

 富「イヤ此度こんどは実に弱りまして、只もうどうも富五郎は両親ふたおやに別れたような心持が致しますなア」

 花「うでございましょう、わしも実は片腕もがれた様だといいましょうか」

 富「然うでげしょう、私も実に弱りましたね」

 花「いて富さん、お前さんが供に行ったのだとねえ」

 富「左様」

 花「どんな奴でございますえ、切った奴は」

 富「それはもうんとも残念千万、弘行寺の裏林へ掛ると、面部を包んで長い物をぶち込んだ奴が十四五人でずっと取り巻いて、旦那が金を三十両持っているのを知って、出せ身ぐるみ脱いで置いてけというから、旦那に怪我をさせまいと思って、旦那をなんと心得る、旦那は羽生村の名主様だぞ、し無礼をすれば引縛ひっくゝって引くから左様そう心得ろというと、なに、と突然いきなり竹槍をもって突いて来るから、私も刀を抜いて竹槍を切って落し、杉の木を小楯に取ってちょん〳〵〳〵〳〵暫く大勢たいぜいを相手に切合いました、すると旦那も黙っている気性でないから、すらり引抜いて一生懸命に大勢おおぜいを相手にちゃん〳〵切合いましたから、刀の尖先とっさきから火が出ました、真に火花をちらすとはこの事でしょう、けれども多勢に無勢と云う譬えの通りで、とてかなわぬから、旦那に怪我があってはならぬと、危うい処を切抜けて駈込んで知らせたから、そら早くというので大勢の若いしゅがどっと来て見ましたが、間に合いません、実に残念で、どうも」

 花「お前さん供をしたから、さぞ残念だったろうねえ」

 富「実にどうも此の上ない残念で」

 花「そこで、んですかい、向は十四五人で、其の内一人か二人つかまえるとよかったね」

 富「処が向が大勢おおぜいでげすから、此方こっちが剣術を知っていても、大勢で刃物を持って切付けるからかないません」

 花「じゃア旦那が刀を抜いて切合った処をお前さんは見ただろうねえ」

 富「そりゃア見ましたとも、旦那はお手利てきゝでげすからちょん〳〵〳〵〳〵切合いました」

 花「それに相違ないねえ」

 富「相違も何もありません、現在わしが見ておったから」

 花「うんうかえ、富さん、もっと側へお出でなさい、今日は一抔飲みましょう」

 富「それは誠に有難いことで、時に何かお頼みがあるという事でげすが早速取立てましょう、なに造作もないことで」

 花「それに付いて種々いろ〳〵話があるのだがもっと側へ」

 富「じゃア御免をこうむって」

 花「さて富さん、人と長く付合うには嘘をいてはいかないねえ」

 富「それは誠に其の通り信がなくてはいけませぬねえ」

 花「今お前のいったのは皆嘘と考えて居る、旦那様が脇差を抜いてちょん〳〵切合い、お前も切結んだと、そんな出鱈目でたらめの事をいわずに正直なことをいってしまいねえ」

 富「なんだ、これは恐入ったね、どうもしからん事を、ど、どういう訳でな何んで」

 花「やい、それよりも正直に、慾に目がくらんで一角に頼まれて恩人の惣次郎をわしが手引で殺させましたといっちまいねえ」

 富「これは怪しからん、怪しからん事があるものだね、関取外の事とは違います、わしは一角という者は存じませぬ、知りもしない奴に仮令たとえどの様な慾があっても、頼まれて旦那様を殺させたろうという御疑念は何等なんらかどを取って左様なことを仰しゃる、と関取で無ければ捨置けぬ一言いちごん、手前も元は武士でござる、何を証拠に左様な事を仰せられるか、関取承りたいな」

 花「そらつくない、正直にいってしまいな、手前てめえが鼻薬を貰って、一角に頼まれて旦那を引き出したといってしまえば、命ばかりは助けてやる、相手は一角だからかたきを打たせる積りだが、何処迄どこまでも隠せば、よんどころなくおめえの脊骨をどやして飯を吐かしても云わせにゃならん」

 富「これはどうも怪しからん、関取の力で打たれりゃア飯も吐きましょうが、ど、どういう訳で、怪しからん、なな何を証拠に」

 花「そんなら見せてやろう、是は其の時旦那のして行った脇差だろう、これを帯して出た事は聞いて来たのだ、さどうだ」

 富「左様どうして是を」

 花「是は手前てまえが刀を抜いてちょん〳〵切合ったというあとで丁度其の側を通り掛って此の刀を拾うたが、ちっとも抜けない、此の抜けない脇差をどうして抜いて切合ったかそれを聴こう」

 富「それア、それアわし転倒てんどう致した」

 花「何が転倒した」

 富「それはわしは大勢を相手に切結んでおり、夜分でげすから能く分りませぬが、全く鞘の光を見て抜身と心得ましたかも知れませぬが、私が手引をして…是はけしからん事でげす、どうも左様な御疑念を蒙りましては残念に心得ます」

 花「そら〳〵手前てめえのいうことはみんな間違っていらア、鞘の光を見て抜身で切合ったと思ったというが、鞘ごと切れば鞘に疵がなけれアならねえ、芒尖きっさきから火花をちらしたというが鞘ごと切合ってどうして火花が出るい」

 富「じゃア全く転倒致したのでげす、全くむこう同士ちょん〳〵切合って火花が出たのでげしょう、大勢の暗撃やみうちで向同士…どうも左様な手引をして殺したという御疑念は手前少しもおぼえがございません」

 花「なに云わなけりゃア脊骨をどやして飯をはかせても云わせるぞ」

 富「アヽ痛い〳〵痛うござります、アヽ痛い、腕が折れます、ア痛い」

 花「さ、云ってしまえ、云わなければ殴すぞ」

 富「アヽ痛うござります」

 花「やい能く考えて見ろ、実は大恩があるのに済みませぬが、旦那はわしが手引をして殺させました、其の申訳もうしわけの為に私は坊主になって旦那の追善供養を致しますといえば、お内儀様かみさん命乞いのちごいをして命だけは助けて遣るから、一角が殺したと云ってしまえよ」

 富「云ってしまえと仰しゃっても、あゝ痛い痛うございます、だからわしは申しますがね、あ痛い是はどうも恐入ったね、あゝ痛い、腕が折れます、あゝ申します〳〵、申しますからお放し下さいう手をぐっと関取の力で押えられると骨が折れてしまいますから、アヽ痛いどうも情ないとんだ災難でげす、無実の罪という事は致し方がないなア、関取能くお考えください、わたしは恥をお話し致しますよ、昨年夏の取付とッつきでげしたが、瓜畑を通り掛りまして、真桑瓜を盗んで食いまして、すでに縛られて生埋になる処を、旦那様が通り掛って助けてうちに置いて下さるお蔭でもって、黒い羽織を着て、村でも富さん〳〵といわれるのは全く旦那の御恩でげす、其の御恩のある旦那を、悪心ある者の為に手引をして殺させるという様な事は、どの様なことがあっても覚えはござりませぬが、アヽいたたゝゝアヽ痛うござります、腕が折れてしまいます」

 花「なに痛いと、腕を折ろうと脊骨を折ろうと己の了簡だ、己が兄弟分になった旦那を、殺した奴を捜してかたきを討たにゃならぬ、手前てまえ一人に換えられないから云わなけれア殺してしまう、それとも殺させたといえば助けて遣るが、云わないか此の野郎」

 と松の木の様なこぶしを振上げて打とうと致しました時には、実にわしつかまった小鳥の様なもので、逃げるも退くも出来ません、此の時に富五郎がどう言訳を致しますか、一寸一息つきまして。


六十八


 富五郎が花車に取って押えられましたは天命で、おのれたくみで、惣次郎の差料さしりょうの脇差へ松脂をぎ込んで置きながら、其の脇差を抜いて惣次郎がちょん〳〵切合ったという処から事があらわれて、富五郎はなんといってものががとうございます。ことに相手は角力取り、富五郎の片手を取って逆に押えて拳を振上げられた時には、どうにもこうにも遁途にげどがありませぬ、表の玄関には二人の弟子とりてきが張番をしていて、し逃げ出せばくびを取って押えようと待っておりますから、此の時は富五郎が真青まっさおになって、いっそ白状しようかと胸に思いましたが、其処そこもとより悪才にけた奴。

 富「関取、御疑念の程重々御尤も、もうこうなれば包まず申します、申しますからお放し下さい」

 花「申しますと、云ってしまえばそれでよい」

 富「云ってしまいます、是迄の事を残らずお話し致します、致しますが関取、そう手を押えていては痛くって〳〵喋ることが出来ません、こうなった以上はげも隠れも致しませぬ、有体ありていに申すから其の手を放して下さい、あゝ痛い」

 花「云ってしまえばよい、さア残らず云ってしまえ」

 と押えた手を放しますと、側に大きな火鉢がありまして、かん〳〵と火がおこっております。それに掛っている大薬鑵おおやかんを取って、

 富「申上げまする」

 といいながら顛覆ひっくりかえしましたから、ばっと灰神楽はいかぐらあがりまして、真暗まっくらになりました。なれども角力取大様おおようなもので、胡坐あぐらをかいたなり立上りも致しません。

 花「何をするぞ」

 という内に富五郎は遁出にげだしましたが、悪運の強い奴で、表へ遁げれば弟子でしが頑張っているからすぐに取って押えられるのでございますが、裏口の方から駈出し、畑を踏んで逃げたの逃げないの、一生懸命になってドン〳〵〳〵〳〵遁げましたが、羽生村へは逃げて行かれませぬから、直に安田一角の処へ駈込んで行って、

 富「ハ、ハ、先生〳〵」

 安「なんだ、サア此方こちらへ」

 富「は…ア水を一杯頂戴ちょうだい

 安「なんだ、ナニ水をくれと、どうしたんだ、喧嘩でもしたか」

 富「いいえ、どうも喧嘩どこではございませぬ、脊骨をどやして飯を吐かせるて、実にどうも驚きました」

 安「れが飯を吐いたか」

 富「なにわしが吐くので、先生運此処こゝまで逃げたが、もう此処にもおられぬので、直に私は逃げますから、路銀を二三十金拝借致しい」

 安「どうしたか、そう騒いではいかない」

 富「どうも先生、これ〳〵でげす」

 と一部始終の話をしますると、相手は角力取ですから一角も不気味ぶきびでございますが、

 安「うか、驚くことはない、わしが殺したという事を云いはしまい」

 富「なんで…それはいいませぬ、足下そっかとちゃんとお約束を致したかどがありますから、仮令たとえ脊骨をどやされて骨が折れてもそれは云わん、云わぬにってこんな苦しい目を致したから、可哀そうと思って二三十金ください、直にわしは逃げますから」

 安「んだ、何んにも怖いことはない」

 富「怖いことはないと仰しゃるが、足下知らないからだ、うも彼奴あいつの力は無法な力で、只握られたばかりでもこんなにあざになるのだもの」

 安「じゃア貴公に路銀を遣るから逃げるがよい」

 富「足下も早く、直に跡から遣って来ますよ」

 安「遣って来ても云いさえせんければ宜しい」

 富「理不尽に…」

 安「幾ら理不尽でも白状せぬのに踏込ふんごんでどうこうという訳にはいかぬ」

 富「無法にちますよ」

 安「なに打たれはせぬ、仔細ない」

 富「仔細ないと仰しゃるが、わしの跡を追掛おっかけて来て富五郎はいるか、かくまったろう、イエ慝まわぬ、居ないといえばじゃア戸棚に居ましょうというので捜しましょう、そうで無いにしても表で暴れて家をゆすぶると家が潰れるでしょう、奴の力は大した者だから、やアというとうちに地震がって打潰ぶっつぶされてしまいます、なんにしてもうちにいると面倒だからげて下さい、え、先生」

 安「じゃア路銀を遣るから先へ逃げな」

 富「迯げるなら一緒に迯げたいものです」

 安「一緒に迯げては人の目に立ってよくない、己が手紙を一本付けるからこれを持って、常陸の大方村おおかたむらという処にわしの弟子があるから、其処そこへ行って隠れておれば知れる訳は無いから、ほとぼりが冷めたら又出て来い、私は一足あとから、ナニ暴れても仔細ない、逢いいといえば余義ない用事が出来て上総かずさへ行ったとか、江戸へ行ったとか、出鱈目を云っておれば取り附く島が無いから仕方が無い、貴公は先へ行きな」

 富「じゃア路銀を頂戴、わしはすぐきます」

 安「そう急がずに」

 と落着いて手紙一本書いて、路銀を附けて遣ると、富五郎は其の手紙を持って人に知れぬ様に姿を隠し、間道かんどう〳〵と到頭とうとう逃げおおせて常陸へ参りました。安田一角も引続いて迯げる、花車重吉は、

 花「おのれ迯げやアがったか」

 とすぐあとを追掛けましたけれども、羽生村では此方こっちへは来ないというから、サテ怪しいと諸方を尋ねたが何分手掛りがありません。一角の様子を聞くと是は私用があって上総まで出たというので、とんと手掛りが無い、風をくらって二人とも迯げてしまったから、もう帰る気遣いはないが、安田一角のうちは其の儘になって弟子が一人留守番に残っている。どういう訳か分らぬがなんでも怪しいからとって押えんければならぬが、それにはまず第一富五郎をどうかして押えなければならぬと心得、

 花「残念な事をしました、これ〳〵これ〳〵で押えた奴を迯げられました」

 というと、お隅も母も残念がって歎きますけれども致方いたしかたがない。翌月よくげつの十月の声を聞くと、花車は江戸へ参らなければならぬから、花車重吉が暇乞いとまごいに来て、

 花「わしはこれ〳〵で江戸へ参りますが、何事があっても手紙さえ下されば直に出て来て力に成って上げますから、心丈夫に思ってお出でなさい」

 と二人にいい聞かして、花車重吉は江戸へ帰りました。跡方は惣吉という取って十歳の子供とお隅に母親と、多助という旧来此の家にいる番頭ようの者ばかりで、なんと無く心細い。十一月の三日の事で、空は雪催しで、曇りまして、筑波おろしの大風が吹き立てゝ、身をさかれるほど寒うございます。

 母「あゝ寒いてえ、年イ取ると風が身にみるだ、そこをってくんろよ、んだか今年に成って一時いちじに年イ取った様な心持がするだ、ひどく寒いのう、多助やぴったり其処そこを閉ってくんろよ」

 多「なにあんた、そんなに年イ取った〳〵といわなえがいゝ、わけもんでも寒いだ、なんだかハア雪イ降るばいと思う様に空ア雲ってめえりました」

 母「其処そこを閉って呉んろよ、お隅は何処どこへか行ったか」

 隅「はい」

 と部屋から着物を着換え、乱れた髪を撫付けて小包を持って参りましたから、

 母「このまア寒いのに何処へかくかイ」

 隅「はい、改めてお願いがござります」


六十九


 隅「不思議な御縁で、水街道から此方こちらへ縁付いて参りました処が、旦那様もあゝいう訳でおかくれになりました、旦那がおいでならお側で御用をして、仮令たとえ表向の披露ひろめはなくとも、私も今迄は女房の心持で働いておりましたけれども、斯様こうなって旦那のないのちは余計者で、かえって御厄介になるばかりでございますし、江戸には大小をす者も親類でもございますから、何卒どうか江戸へ参りいと思いまして、私もべん〳〵とうやってもられません今の内なら、うか親類が里になって縁付かたづく口も出来ましょうと思いまして、私は江戸へ帰りますから、どうか親子の縁を切って、旦那はいなくっても貴方の手で離縁に成ったという証拠を戴きませぬと、親類へも話が出来ませぬから、御面倒でも一寸お書きなすって、誠に永々なが〳〵お世話さまになりまして」

 母「それアはア困りますな、今おめえに行かれてしまうと心細こゝろぼせえばかりでなく、跡が仕様がえだ、惣吉は年イ行かなえで、惣次郎のなえのちはおめえが何ももしてくれたから任して置いて、おらアまア家内うちの勝手も知んなくなったくれえだね、うかまアそんなことを云わずに、どうかおめえがいてくれねえば困りますから」

 隅「有難う存じますけれども、どうもられませぬ、居たって仕方がありませんもの、ほんの余計者になりましたから、どうか御面倒でも…今日直ぐと帰ります、水街道の麹屋に話をして帰りますから」

 母「そりゃアハア間違った訳じゃアねえか、おめえは今迄まアほかの女と違って信実なもんで、おらうち縁付かたづいても惣次郎を大切でえじにして、しゅうとへは孝行尽し、小前こめえもんにも思われるくれえで、流石さすが武家さむれえさんの娘だけ違ったもんだ、婆様ばアさまうちい嫁え貰ったって村のもんが誰も褒めねえもんはなえ、惣次郎がのちわずかハア夫婦になったばかりでも、亭主と思えばかたきたねえばなんなえて、流石さむれえの娘は違ったもんだと村のもん魂消たまげて、なんとまア感心な心掛けだって涙アこぼして噂アするだ、今に富五郎や安田一角の行方は関取が探してどんな事をしても草ア分けて探し出して、かたきたせるって是迄丹精したものを、おめえがフッと行ってしめえば、跡は老人としよりと子供で仕様がなえだ、ねえ困るからうか居てくんなよ」

 隅「いやですねえ、江戸で生れた者がこんな処に這入って、実に夫婦の情でいましたけれども、うなって見ると寂しくっていられませぬもの、田舎といっても宿場と違って本当に寂しくってられませんからねえ、何卒どうかすぐに遣って下さいな、此処こゝに居たって仕方が有りません、江戸へけば親類は武士でございますから、相当な処へ縁付えんづけて貰います、私もだそう取る年でもございませぬから、何時いつまでもべん〳〵としてはいられませぬ、お前さんはどうせ先へく人、惣吉さんは兄弟といった処が元をいえば赤の他人でございますからねえ、考えて見ると行末ゆくすえの身が案じられますから」

 母「じゃアどうあっても子供や年寄が難儀イぶっても構わなえで置いてくというかい、今迄かたきつといったじゃアなえか、今それに敵イ討たなえで縁切になって行くとアおかしかんべい、敵イ討つといったかどがなえというもんじゃアえか」

 隅「はじまりはかたきとうと思いましたけれども、誰が敵だか分らぬじゃアありませんか、善々よく〳〵考えて見ますと、富五郎を押えて白状さして、愈々いよ〳〵一角が殺したと決ったら討とうというのだが、屹度きっと富五郎、一角ということも分らず、それも関取が附いていればようございますが、関取もいず、して見れば敵が分っても女の細腕では敵に返討かえりうちになりますからねえ、又それ程何方どなたにも此方様こちらさまに義理はありません、ようやかたづいて半年位のとで、命を捨てゝ敵を討つという程の深い夫婦の間柄でもありませんから、返討にでもなっては馬鹿〳〵しゅうございますから、敵討かたきうちはおやめにして江戸へ帰ります」

 母「魂消たまげたなアまア、それじゃアなんだア今迄敵イつと云ったことア水街道の麹屋でお客に世辞をいう様に、心にもなえ出鱈でたらまえをいったのだな、世辞だな」

 隅「いゝえ世辞ではない、関取を頼みにして大丈夫と思っていましたが、関取もいなければ私はいやだもの、そんな返討になるのは詰りませぬからねえ」

 母「呆れたよまア、なんと魂消たなア、われがそんな心と知んなえで惣次郎がでかい金え使って、うちい連れて来て、真実な女と思ってばかされたのが悔しいだ、そういう畜生ちきしょうの様な心ならたった今出てけやい、縁切状をきゃえてくれるから」

 隅「出て行かなくって、当り前だアね」

 多「お隅さんまア待っておくんなさえ、お内儀かみさん貴方あんた人がいからき腹ア立つがお隅さんはそんな人でなえ、わしが知っているから、さてお隅さん、此処こゝなア母様はゝさまア江戸を見たこともなし、大生の八幡はちまんへも行ったことアなえという田舎気質かたぎの母様だから、一々気に障るこたアあるだろうが、実はこういう事があって気色が悪いとか、あゝいう事をいわれてはならぬという事があるなら、私がに話いしておくんなさえ、まア旦那がアなってからは力に思うのはお前さんの外に誰もないのだ、惣吉さんだっての通り真実ほんとうの姉さん母様かゝさまアの様に思ってすがっているし、敵の行方は八州へも頼んでえたから、今に関取が出て来れば手分てわけえして富五郎を押えてたゝいたら、大概たいがい敵は一角にちげえねえと思ってるくらいだから、機嫌の悪い事が有るなら私にそういって、どうか機嫌直してくださえ、ねえお隅さん」

 隅「何をいうのだね、お前は何も気を揉むことはないやね、おっかさんも呆れて出てけというから離縁状を貰っておくんなさい、私は仇打あだうちは出来ません、仕方なしに仇を打つと云ったので実は義理があるからさ、よく〳〵考えて見れば馬鹿げている、それ程深い夫婦でもありませぬからねえ」

 多「それじゃアお隅さん、本当に旦那の敵いつてえかんげえもなえ、惣吉さんもお母様っかさまも置いてくというのかア」

 隅「左様さ」

 多「魂消たね本当ほんとかア」

 隅「嘘にこんなことがいえるものか、今日出てこうというのだよ」

 多「呆れたなア、そんだら己えいうが」

 隅「何をいうの」


七十


 多「旦那が麹屋へ遊びに行った時酌に出て、器量はえゝし、人柄に見えるが、何処どこもんだというと、元はよしある武士さむれえの娘で、これ〳〵で奉公しております、外の女アみんな枕付まくらつきでいる中にわしは堅気で奉公をしようというんだが、どうも辛くってならねえて涙アこぼして云うだから、旦那が憫然かわいそうだというので、金えくれたのが初まり、それから旦那がもれえ切ってくれべいといった時、手を合せて、誠にうなれア浮びます助かりますとよろこんだじゃアなえか、それに又旦那様ア斬殺きりころされたというのも、はええ話が一角という奴がおめえに惚れていたのを此方こっち嫁付かたづいたから、それを遺恨に思って旦那ア殺したんだ、して見れアおめえが殺したも同し事じゃアなえか、それをわきまえなえでお母様っかさまや惣吉さんを置いて出れば、義理も何も知んねえだ、狸阿魔たぬきあまめ」

 隅「なんだい狸阿魔とは、失礼な事をお云いで無い、そりゃア頼みもしましたから恩も義理もあるには違いないけれども、それだけの勤めをして御祝義を戴いたので当然あたりまえの事だアね、それから私を貰い切って遣るから来い、はいといって来ただけの事だから、旦那が殺されたって、敵を討つ程の義理もないじゃアないか、表向披露ひろめをした女房というでもなし、いわば妾も同様だから、旦那がいなけりゃア帰りますよ」

 多「此の阿魔どうも助けられなえ阿魔だ、つぞ、出るなら出ろ」

 隅「なんだい手を振上げてどうする積りだい、怖い人だね、さつなら打って御覧、是程の傷が出来ても水街道の麹屋が打捨うっちゃっては置かないよ」

 多「ナニ麹屋……金をくれた事アあるけど麹屋がどうした」

 隅「此の間お寺へくといって、路銀を借りようと思って麹屋へ行って話をして、江戸へ行けば親類もありますから、江戸へ行きたいと思いますが、行くには少し身装みなりこしらえて行きたいから、まア此処こゝで、三年も奉公して行きますからお願い申しますといって、証文の取極めをして、前金ぜんきんも借りて来てあるのだから、是から行って麹屋で稼ぎ取りをして行こうと思うのだ、もう私の身体は麹屋の奉公人になっているのだから、少しでも傷が附けば麹屋で打捨っておかないよ、願って出たら済むまい、さ、つなら打って御覧」

 多「呆れたア、此奴こいつうも、お内儀様かみさん此間こねえだお寺へ墓参はかめえりにふりいして麹屋へ行って証文ぶって来たてえ、此の阿魔こりゃアてねえ、えゝ内儀様かみさま、義理も人情も、あゝこれエ本当に何うも打てねえ阿魔だ」

 母「やア、もういワイ、恩も義理も知んなえ様な畜生と知らずに、惣次郎がだまされて命まですてる事になったなアなんぞの約束だんばい、そんな心なら居て貰っても駄目だから、さア此処こけう、離縁状書えたから持たしてやれ」

 多「さア持ってけ、此の阿魔ア、これエ打てねえ奴だ」

 隅「持ってかなくってどうするものか」

 とお隅は離縁状をひらいて見まして、苦笑にがわらいをして懐へ入れ、

 隅「有難い、アヽこれでさっぱりした」

 多「ア、さっぱりしたと云やアがる、どうもにくい口い敲きやアがるなア此の阿魔」

 隅「なんだねえ、ぎゃア〳〵おいいでない、長々御厄介様になりました、お寒さの時分ですから随分御機嫌よう」

 多「えゝぐず〳〵云わずにサッサと早く行かなえかい」

 隅「行かなくってうするものか、縁の切れた処にいろっても居やアしない」

 と悪口あっこうをいいながらつか〳〵と台所へ出て来ますと、惣吉は取って十歳、田舎育ちでも名主の息子でございますから、何処どこ人品じんぴんが違います、可愛がってくれたから真実の姉の様に思っておりますから、前へ廻ってピッタリたもとすがって、

 惣「姉様ア、おっかアが悪ければ己があやまるから居てくんなよ、多助があんなこと云っても、あれは誰がにもいう男だから、己があやまるから、あねさん居てくんなえ、困るからヨウ」

 隅「んだい、其方そっちへお出でよ、うるさいからお出でよ、袂へ取ッつかまって仕ようが無いヨウ、其方へお出でッたらお出でよ」

 多「惣吉さん、此方こっちへお出でなさえ、今迄ぼうちゃんを可愛がったなア、世辞で可愛がった狸阿魔だから、側へ行かないがえ」

 母「惣吉や、此処こけう、幾ら縋ってもみんな世辞で可愛がったでえ、心にもない世辞イいってわれがを可愛がるふりいしたゞ、それでも子供心に優しくされりゃア、真実姉と思って己があやまるから居てくんろというだ、其処そけえらを考えたって中々出て行かれる訳のものでアなえ、呆れた阿魔だ、惣吉此処こけえ来い」

 多「此方こっちいお出でなさえ、ぼうちゃん駄目だから」

 隅「来いというから彼方あっちへお出でよ、今までお前を可愛がったのもね、おっかさんのいう通りよんどころなく兄弟の義理を結んだからお世辞に可愛がったので、みんな本当に可愛がったのじゃアないよ、彼方へお出で、行っておくれ、行かないか」

 多「あれっちゃんを突きとばしやアがる、惣吉さんお出でなさえ…此奴こいつア…又打てねえ…さっ〳〵と行けい」

 隅「行かなくってどうするものか」

 とお隅は土間へり、庭へ出ましてかどえのきの下に立つと、ピューピューという筑波おろしが身に染みます。

 隅「あゝもう覚悟をして思い切って愛想づかしを云わなけりゃア為にならんと思って彼迄あれまでにいって見たけれども、何も知らない惣吉が、私の片袖に縋って、どうぞあねさん私があやまるから居ておくれ、坊が困るといわれた時には、実はこれ〳〵と打ち明けて云おうかと思ったが、なまじい云えばおっかさんや惣吉の為にならんと思って思い切って、心にもない悪体あくたいを云って出て来たが、是まで真実に親子の様に私に目を掛けておくんなすったしゅうとに対して実に済まない、お母さん、其のかわり屹度きっと、旦那様のあだを今年のうちに捜し出して、本望ほんもうげた上でお詫びいたします、あゝ勿体ない、口が曲ります、御免なすってください」

 と手を合せ、こらえ兼てお隅がわっと声の出るまでに泣いております。

 多「まだ立ってやアがる、彼処あすこに立って悪体口をきいていやアがる、早く行け」

 隅「大きな声をするない、手前の様な土百姓どびゃくしょうに用はないのだ、っとサバ〳〵した」

 と故意わざ口穢くちぎたないことを云って、是から麹屋へ来て亭主に此の話をすると、

 亭「能く思い切って云った、よし、己がどこ迄も心得たから、心配するな、ず手拭でも染めて、すぐ披露ひろめをするがい、これ〳〵これ〳〵こしらえて」

 というので、手拭とうを染めて、残らず雲助や馬方に配りました。

 亭「今までとは違ってお隅はよんどころない訳が有って客を取らなくっちゃアならん、みんなと同じに、枕付で出るから方々へ触れてくれ」

 というと、此の評判がぱっとして、今までは堅い奉公人で、ことに名主の女房にもなった者が枕付で出る、金さえ出せば自由になるというので大層客がありまして、近在の名主や大尽だいじんが、せっせとお隅の処へ遊びに来ますけれども、中々お隅は枕をかわしません。お隅の評判が大変になりますると、常陸にいる富五郎が、此の事を聞きまして、

 富「しめた、金で自由になる枕附きで出れば、望みは十分だ」

 と天命とはいいながら、富五郎が浮々うか〳〵とお隅の処へ遊びに参るという、これから仇打あだうちになりまするが、一寸一息。


七十一


 お隅は霜月の八日から披露ひろめを致しまして、客を取る様になりました。なれどもお隅は貞心ていしんな者でございますから、いように切りけては客と一つ寝をする様なことは致しません、もとより器量はし、様子は好し、其の上世辞がありまするので、大して客がござります。丁度十二月十六日ちら〳〵雪の降る日に山倉富五郎がって参りましたが、客が多いので何時いつまで待ってもお隅が来ません、其の内に追々とが更けて来ますが、お隅は外の客で来ることが出来ませぬから、代りの女が時々来ては酌をして参り、其の間には手酌で飲みましたから、余程酒の廻っている処へ、へだてふすまを明けて這入った人の扮装なりじゃがらっぽいしまの小袖にて、まア其の頃は御召縮緬おめしちりめんが相場で、頭髪あたまは達磨返しに、一寸した玉の附いたかんざし散斑ばらふのきれたくしを横の方へよけて揷しており、襟にはこっくり白粉おしろいを附け、顔は薄化粧の処へ、酒の相手でほんのりと桜色になっております、帯がじだらくになりましたから白縮緬の湯巻がちら〳〵見えるという、ぜんとはすっぱり違ったこしらえで、

 隅「富さん」

 富「イヤこれはどうも、どうも是は」

 隅「私ゃアね富さんじゃないかと思って、内々ない〳〵見世でう〳〵いう人じゃアないかというとうだというから、早く来度きたいと思うけれども、長ッちりのお客でねえ、今やっとけて来たの、本当に能く来たね」

 富「これはどうも、はなはうも御無沙汰を、実は其の不慮の災難で御疑念を蒙むりました、それ故お宅へ参ることも出来ない、こんな詰らぬ事はないと存じて、存じながら御無沙汰を、只今まで重々御恩になりました貴方が、御離縁になって、此方こちらへ入らっしゃった事を聞いて尋ねて参りました、どうも妙でげすねえ、御様子がずうッと違いましたね」

 隅「お前さんも知ってる通りべん〳〵とあゝやっていたっても、先の見当みあてがないし、そんならばといって生涯楽に暮せるといった処が、あんな百姓なんにも見る処も聞く事もなし、只一生楽に暮すというばかりじゃア仕様がないから、江戸へ行こうと思って、江戸には親類が有って大小をす身の上だから、ちっとも早く頼んで身を固めいと思って離縁を頼むと、不人情者だって腹を立って、狐阿魔だの狸阿魔だのというから、忌々いま〳〵しいから強情に無理無体に縁切状を取って出て来ましたの、江戸へ行くにも、小遣がないもんだから、こんな真似をして身装みなりこしらえたり、金の少しも持って行き度いと思って、ついんな処へ落ちたから笑っておくんなさい」

 富「笑う処か誠にどうも、なに必ず私は買いに来たという訳ではありませんから、決して御立腹下さるな、そんな失敬の次第ではないが、ういう訳で羽生村をお遊ばしたかと存じて御様子を伺おうと思って参った処が、数献すうこん傾けて大酩酊おおめいてい

 隅「まア是から二人で楽々と一杯飲もうじゃアないか、早く来て久振りで、昔話をしたいと思っても、長ッ尻のお客で滅多に帰らぬからいろ〳〵心配して、やっとお客を外して来たの、まア嬉しいこと、大層お前若くなったことね」

 富「恐入ります、あなたの御様子が変ったには驚きましたねえどうも、前とはすっかり違いましたねえ」

 隅「さお酌致しましょう」

 富「これはどうも、まア一寸一杯、左様ですか」

 隅「私は大きな物でなくっちゃア酔わないから、大きな物でほっと酔って胸を晴したいの、いやな客の機嫌気褄きづまを取って、いやな気分だからねえ、富さん今夜は世話をやかせますよ」

 富「大きな物で、え湯呑で上りますか、御酒はちっともあがらなかったんですが、血に交われば赤くなるとか、妙でげすなア、お酌を致しましょう、これは妙だ、どうも大きな物でぐうと上れるのは妙でげすな、是は恐入りましたな」

 隅「私は酔って富さんに我儘な事をいうけれども、富さんや聞いておくれな」

 富「うゝんお隅さん必ず御疑念はお晴しなすって、惣次郎さんを私が手引して殺させたというので花車の関取が私の背中をどやして、飯をはかせるというから、私は驚いて、あの腕前ではとてかなわぬから一生懸命逃げたんだが、あのくらい苦しいことはありませぬ、それ故御無沙汰になって、あなたが枕附で客をお取りになるという事を聞いて、今日口を掛けたのは相済みませぬが、実はどういう訳かと存じて只御様子を伺いたいというので参っただけで」

 隅「まアそんな事はいじゃアないか、今夜私は酔うよ」

 富「お相手をいたしましょう」

 隅「お相手も何もいるものか」

 と大きな湯呑に一杯受けて息もかずにぐっと飲んで、

 隅「さア富さん」

 富「私はもう数献すこん…えお酌でげすか、置注おきつぎには驚きましたね…それだけは…妙なものでげすな、貴方はお酒はもとから上りましたか」

 隅「なに旦那の側にいる時分には謹んで飲まなかったんだが、此家こゝへ来てから戴く様になりました」

 富「へえ有難う、もう……お隅さんどうか御疑念をね…これだけはどうか…私は詰らん災難で、私がなんなんでも、一角は知らない奴、逢った事もない奴になんかくの如く、な、御疑念が掛るか、私も元は大小をたいした者、此の儘には捨置けぬと、余程よっぽど争いましたが、関取が無暗むやみつというから、あの力で打たれては堪らぬから逃げると云う訳で、実に手前詰らぬ災難でげして……」

 隅「いじゃ無いか、私に何も心配はありゃアしないやね、羽生に居る時分には、悔しい、敵打かたきうちをするというから私も連れてういったけれども、もう彼処あすこを出てしまやア、なんにも義理はないから私に心配はいらないが、只聞きたいのは富さん忘れもしない羽生にいる時、お前が酔って帰ったことがあったろう、其の時お前が旦那のいない所で私の手を掴まえて、江戸へ連れて行って女房にして遣ろう、うんといえば私が身の立つようにするが、江戸へ一緒に行って呉れぬかと云っておくれの事があったねえ、あれは本当の心から出て云ったのか、私が名主の女房になってたから、お世辞に云ったのか聞きたいねえ」


七十二


 富「これは恐れ入りました、こりゃアうも御返答に差支さしつかえる……こりゃア恐入ったね、富五郎困りましたね…………おや〳〵またいっぱいになった、貴方そばから置き注ぎはいけません………余程よほど酔って居るからもう御免なさい……あれはお隅さん、貴方が恩人の内宝ないほうになっているから、食客いそうろうの身として、酔ったまぎれで、女房になれ……江戸へ連れて行こうといったのは実に済まない……済まないが、心にないことは云われん様な者で、富五郎深く貴方を胸に思っているから酔った紛れに口に出たので、どうも実に御無礼を致しました、どうかひらに御免を……」

 隅「あやまらなくってもいじゃアないか、本当にお前が心に思ってくれるといえば嘘にも嬉しいよ、富さん、私もね、何時いつまでもこんな姿なりをしていたくない……江戸へ知れては外聞が悪いからねえ……江戸へ行くったって親類は絶えて音信いんしんがないし、真実ほんとうの兄弟もないからなんだか心細くって、それには男でなければ力にならぬが、こういうけがれた身体になったから、今更いけない、いけないけれどもお前がねえ、私の様な者でも連れて行って女房にすると云っておくれなら、私も親類へ行って、この人も元はこれ〳〵のお侍でございましたが、運が悪くってこういう訳になったからといって頼むにも、二人ながら武士の家に生れた者だから、親類へも話が仕好しいい、よう富さん、本当にお前、私がこういう処へ這入ったからいけないかえ……前にいったことは嘘かえ」

 富「こりゃアなんとも恐れ入ったね……旨いことを仰しゃるなア……又一ぱいになった、そう注いじゃあいけない……えゝ…本当にそんな事をする気遣いは無いて…どうか御疑念の処は…私は困るよ……どうも理不尽に私をうたぐって、脊骨をどやすというから、驚いて、言訳するは無いから逃げたのだが、神かけて富五郎そんな事はないので……」

 隅「そんな心配は無いじゃアないか、なんだねえ、お前、私がこんな身の上になっていても、敵とかなんとか云って騒ぐと思ってるのかえ、私は表向き披露ひろめをした訳でもなし、敵を討つという程な深い夫婦でもない、それ程何も義理はないと思うから、悪体をいて出たのだもの」

 富「そりゃア義理はありましょうが、私はあなたが、あんな愚痴ばゝあの機嫌を、よく取っておでなさると思っていました。あなたがこれを出るのは本当でげす、御尤もでげすねえ」

 隅「だからさ、お前がいやなら仕方がないけれども、本当なら、お前の為にどんな苦労をしても、いやな客を取っても、張合があると思っているのさ、それには、判人はんにんがないといけないから、お前が判人になって、そうして私が稼いだのをお前に預けるから、私を江戸へ連れて行っておくれな」

 富「本当ですか」

 隅「あら本当かって、私が嘘をいうものかね、にくらしいよ」

 富「あゝ痛い、つねってはいけない、そういう……又充溢いっぱいになってしまった……いけないねえ……だが、お隅さん、本当に御疑念はお晴らしください、富五郎迷惑至極だてねえ」

 隅「どうも、うるさいよ、何処どこまでうたぐるのだね、そんなに疑るなら証拠を出して見せようじゃないか、そら、是が羽生村から取って来た離縁状と、是はお客に貰った三十両あるのだよ、お前が真実女房に持ってくれる気なら、此のお金と離縁状を預けるがお前もたしかな証拠を見せておくれよ、富さん」

 富「本当ですか、本当なら私だって、親類もあるから、お前さんと二人で行って、話しをすればすぐだね、そりゃア、小さくも御家人の株ぐらいは買ってくれるだろう、お隅さん本当なら、生涯嘘はつかないねえ」

 隅「まア嬉しいじゃアないか、富さん本当かい」

 富「そりゃア本当」

 隅「有難いねえ、じゃア証拠を見せておくれな」

 富「別に証拠はない」

 隅「だからにくらしいよ」

 富「悪らしいってあれば出すけどもないもの、じゃア外に仕方がないからうしよう、そう話がきまれば、此処こゝに永く奉公さして置きたくないからね、どこまでも金の才覚をして早く江戸へ行こう、富五郎浪人はしていても、百や二百の金はすぐに出来るから」

 隅「そう、そんなに入らないが、路銀と土産ぐらい買って行きたいねえ」

 富「こう仕よう」

 隅「だって急にお前に苦労させては済まないから、此処で私が二年も稼いでから」

 富「なにい、いゝから、うしよう、一角をだまして百両取ろう」

 隅「おや一角さんは何処どこにいるの」

 富「うん、まあいゝや、お隅さん本当に御疑念の処は」

 隅「又そんなことを、本当にお前は悪らしいよ、じゃアお前は一角となれあって殺したことがあるから、私がどこまでもかたきを狙っていると疑るのだろう、そんな疑りがあって、私を女房にしようというのは余程よっぽど分らない、恐い人だね、もう止しましょう、書付かきつけまで見せて、生涯身を任して力になろうと思う人がそう疑ってはお金も書付も渡されないから。止しにしましょう」

 富「そういう訳ではない、決して疑る訳ではない、決して疑る訳では無いがね」

 隅「だからさ疑る心が無ければ、一角さんは何処どこにいると云ったっていじゃないか、どうしてだまして金を取るのか、それをお云いよ」

 富「うーん、それは一角がお前に惚れているのだから」

 隅「そうかい」

 富「前から惚れてる、それだから一角の処へ行って、お前がこう〳〵でございますから貴方御新造にしてお遣りなさい、ついては内証ないしょうに百両借金がありますから、之を払って遣ればすぐ此処こゝへ来られる訳だ、出して下さいといえば是非金を出す…いゝえ出るに極っているのだから、出したら借金を払ってお前と二人で、ねえ、江戸へ行こう、こいつがいじゃないか」

 隅「どうも嬉しいことねえ、一角さんは何処にいるの」

 富「うーン、それ」

 隅「おかしいねえ、もう夫婦になってお前は亭主だよ、添ってしまって、今夜一晩でも枕を交せば大事な生涯身を任せる亭主だもの、前の亭主のかたきといって、やいばが向けられますか、私も武士の娘、決して嘘はつきませぬよ」


七十三


 富「こりゃア驚いた、流石さすがは武士の御息女、嬉しいな…又充溢いっぱいになってしまった……こりゃア有難い、それじゃア云おうねえ、実は私は、お前にぞっこん惚れていたが、惣次郎があっては仕様がない、邪魔になるといっても、富五郎の手に負いない、所が幸い安田一角がお前に惚れているから、一角をおいやって弘行寺の裏林で殺させて置いて、顔に傷をこさえてうちへ駈込んだが、あの通り花車が感付きやアがって、つというから、此方こっちは殺されてはたまらぬから、逃げてしまった、全く一角が殺しは殺したんだが、実は私がおいやって遣らしたのだ」

 隅「私もそう思ってたけれどもね、羽生にいる時は義理だから敵といっていたけれども、こう出てしまえば義理も糸瓜へちまもない他人だアね、あんな窮屈な処にいるのはいやだと思って出たんだが、富さんこうなるのは深い縁だねえ、どうしても夫婦になる深い約束だよ」

 富「是は妙なもんだね、不思議なもので、羽生村にいる時から私が真に惚れゝばこそ色々な策をして、惣次郎をうたせたのもみんなお前故だねえ」

 隅「一角さんは何処どこにいるの」

 富「一昨日おとといの晩三人で来て前のうちは策で売らしてしまったから、笠阿弥陀堂かさあみだどうの横手に交遊庵こうゆうあんという庵室あんしつがありましょう、二間ふたまがあって、庭もちっとあり、林の中で人に知れないからというので其処そこを借りていて、今夜私に様子を見て来いというので、私が来たのだから、こう〳〵といえば、えゝというので百両出す、なに大丈夫だ、其れで借金を片付けて行ってしまやア彼奴あいつなんともいえない、人を殺した事を知って居るから何ともいえやアしないから、けぶに巻かれてしまわア、追掛おっかけようといっても彼奴江戸へ出られる奴でないから大丈夫」

 隅「そう、本当に嬉しいねえ、真底お前の了簡が知れたよ」

 富「これ程お前を思ってるのに其れを疑ぐるということはない、誠に詰らぬこと…」

 隅「此処こゝで寝るといけないから彼方あっちへおいでよ、彼方に床が取ってあるから、さ此のお金と書付を」

 富「やアそんなもの」

 隅「おっことすといけないからお出し」

 と、金と書付をひったくって、無暗むやみに手を引いて、細廊下の処を連れてくと、六畳ばかりの小間こまがありまして、其処そこに床がちゃんと敷いてある。

 隅「さ、お寝と云ったらお寝、あら俯伏つっぷしちゃいけないから仰向けにお成り」

 と仰向に寝かし、枕をさして、

 隅「さ、寒いから夜具これを」

 富「あゝ有難い、こっちイ這入って寝なよ」

 隅「今寝るが、寒いから掻巻かいまきを」

 富「いよ、雪はうしたえ」

 隅「なに雪は降っているよ、夫婦の固めに雪が降るのは縁が深いとかいう事があるねえ」

 富「うーん、そりゃア深雪みゆきというのだ」

 隅「富さん、私はいう事があるよ」

 富「どう」

 隅「あら顔を見られると恥かしいからかぶっておいでよ」

 とお隅は掻巻を富五郎の目の上まで被せて其の上へ乗りました。

 隅「私は馬乗りに乗るわ」

 富「何をするのだ、息が出なくって苦しい、何をする、切ないよ」

 隅「本当に富さん不思議な縁だね」

 といいながら隠してあった匕首あいくちを抜いて、

 隅「惣次郎を殺したとは感付いていたけども、お前が手引で…一角の隠れ家まで…こういう事になるというのは神仏のお引合せだね」

 富「実に神の結ぶ縁だねえ」

 隅「ういう事があろうと思って、私は此の上ない辛い思いをして、恩あるしゅうとや義理ある弟に愛想尽あいそづかしを云って出たのも全くお前を引寄せる為、亭主のかたき罰当ばちあたりの富五郎覚悟しろ、亭主の敵」

 と富五郎の咽喉のど突込つッこむ。

 富「うーん」

 というのを突込んだなり呑口を明ける様にぐッぐッとえぐると、天命とはいいながら富五郎はばた〳〵苦しみまして、其の儘うーんと呼吸いきは絶えました様子。お隅はほっと息をき、匕首ののりぬぐって鞘に納め、

 隅「南無阿弥陀仏〳〵」

 と念仏を唱え、惣次郎の戒名を唱えて回向えこうを致します。お隅は沈着おちついた女で、すぐ硯箱すゞりばこを取出し、事細かに二通の書置をしたゝめて、一通は花車へ、一通は羽生村の惣吉親子の者へ、実は旦那のあだを討ちばかりで、心にもない愛想尽しを申してうちを出て、麹屋へ参って恥かしい身の上になりましたが、幸いに富五郎が来て、これ〳〵の訳と残らず自分の口から申して、一角の隠家かくれがもこれ〳〵と知れましたから、女ながらも富五郎は首尾能く打留うちとめたから、今夜直ぐに一角の隠家へ踏込んで恨みを晴し、本望ほんもうげる積り、なれども女の細腕、し返り討になる様な事があったならば、惣吉が成人の上、関取に助太刀を頼んで旦那と私のうらみを晴らして下さい、かたきは一角に相違ない事は富五郎の白状できまりましたという、関取と母親の方へ二通の書置を残してそばに掛っている湯沸しの湯を呑み、懐へ匕首を隠して庭の方の雨戸を明けると、雪は小降になった様でもふッ〳〵と吹っかける中を跣足はだしで駈出して、交遊庵という一角の隠家へ踏込みまするというお隅仇打あだうちのお話を次回に。


七十四


 申し続きまする累ヶ淵のお話で、お隅が交遊庵という庵室に隠れている一角の処へ斬り込みまするという、女ながらもお隅は一生懸命でござりまして、雪の降る中を傘もなしに手拭をかぶりまして跣足はだしで駈けて参って、笠阿弥陀堂から右に切れると左右は雑木山でござります、此の山の間を段々と爪先あがりに登って参りますると、裏手は杉檜などの樹木がこう〳〵と生い茂って居りまする処へ、門の入口の処に交遊庵の三字を題しました額が掛っております。門の締りは厳重になっておりまするなれども、家へはちこうござります、何処どこほかから這入口はいりぐちはなかろうかと横手に廻って見ても外に入口いりくちはない様子、しばらく門の処に立って内の様子をうかゞっていると、丁度一角が寝酒を始めて、貞藏ていぞうという内弟子を相手にぐび〳〵とりましたから、門弟も大分酩酊致しておりまする様子。

 隅「御免なさいまし、御免なさいまし、一寸此所こゝを明けて下さいまし、あの、先生は此方こちらにいらっしゃいますか」

 というと戸締りは厳重にしてあり、近いといっても門から家までは余程へだって居りますが、雪の粛然しんとしているから、はるかに聞える女の声。

 安「貞藏〳〵たれか門を叩いている様子じゃ」

 貞「いや大分雪が降って参りました、わたくし先程台所を明けたらぷっと吹込みました、どうして中々余程の雪になりましたから、此の夜中やちゅうこと雪中せっちゅうたれも参る筈はございませぬ」

 安「でも、それ門を叩く様子じゃ」

 貞「いゝえ大丈夫」

 安「いや左様でない…それそれ見ろ…あの通り…それ叩くだろう」

 貞「へえ成程えゝ見て参りましょう、えゝ少々御免遊ばして、大層酩酊致しました、ひょろ〳〵致して歩けませぬ、えゝ少々…なにだれだい、たれか門を叩くかい…だれだい」

 隅「はい、あの安田一角先生は此方こちらにいらっしゃいますか」

 貞「安田と、安田先生ということを知って来たのは誰だい」

 隅「はい私は麹屋の隅でございますが、一寸先生にお目に掛りいと存じまして、わざ〳〵雪の降る中を参りましたが、一寸此処こゝをお明け遊ばして下さいませんか」

 貞「あ、少々控えていな」

 とよろよろしながら一角の前へ来て、

 貞「へえ先生」

 安「来たのは誰だ」

 貞「麹屋のお隅が、先生にお目に掛ってお話し申し度い事があって、雪の降る中を態々わざ〳〵参ったといいます」

 安「隅が来たか、はて、うっかり明けるな、えゝかれは此の一角をかねかたき附狙つけねらうことは風説にも聞いていたが、全く左様と見える、うっかり明けて、角力取すもうとりなどを連れてずか〳〵這入られては困るから能く気を附けろ、えゝ全く一人か、一人なら入れたってもいが」

 貞「これ、お隅、何かえ、お前誰か同伴つれがありますかい、大勢連れてお出でかい、角力取は来ましたのかい」

 隅「いゝえ私一人でございます、一寸ちょいと此処こゝを明けて下さいませんか、お前さん貞藏さんじゃアありませんか」

 貞「なに貞藏、己の名を知ってるな、うん成程知ってる訳だ、わしが水街道へ先生のお供にいった事があるから、今明けるよ、妙なもんだなア、おうい塩梅にこれ雪が上って来た、大層積ったなア、おゝおゝ、ふッ、足の甲までずか〳〵踏み込む様だ、待ちな今明けるぞ、待ちな、かんぬきがかって締りが厳重にしてあるから、や、そら、おや一人で傘なしかい」

 隅「はい少しは降っておりましたが、気がきましたから、跣足はだしで参りました」

 貞「おゝ〳〵わしはやっと此処こゝまで雪をわたって来たのだが、能く夜中やちゅうに渡しの船が出たねえ」

 隅「はい、あの、船頭は馴染でございますから、頼んで渡して貰って、やっとのことで参りました」

 貞「それはえらい、さア此方こっちへ、先生たった一人で渡を渡って跣足で参ったと云うので」

 安「それは思い掛けない、なに傘なしで、それはそれは、雪中といい、どうも夜中といい、一人でえらいのう、誠にどうも、さア此方こっちへ」

 隅「先生誠に暫くお目に掛りませんで」

 安「いや誠にこれは、うーん己は無沙汰をしております、暫く常陸へ参った処が、彼方あちらちっと門弟も出来たから、近郷の名主庄屋などへ出稽古を致して、久しく彼方にいて、今度又此方こちらへ来た処が、せんすまった家は人に譲ったから、まア家の出来るまで、当期此の庵室におる積りで、だが手前能く尋ねて来たねえ」

 隅「誠にどうも御無沙汰を致しまして」

 安「此の夜中雪の降る中を踏分けてうして来た」


七十五


 隅「あの今日富五郎が来ましてね、何か先生に頼まれた事があると云って、私の処へ客になって来まして、お酒に酔ってなんだか種々いろ〳〵な事を云いますの、けれども其の様子がさっぱり分りませんから、其の事に付いて先生にお目に掛らなければ様子が分りませんから」

 安「それはどうも、富五郎が行ったかい、貞藏、富五郎が往ったって」

 貞「だから私が先生に申上げて置きました、彼奴あいつは誠にあゝいう処ばかり遊びに参るのが好きでげす、全体道楽者でげすからなア、彼奴余程よっぽど婦人ずきでげすよ」

 安「で、富五郎が往ってういう話し振の、まア一抔飲め」

 隅「有難うございます、まアお酌を」

 安「イヤ一抔飲め」

 隅「左様でございますか、貞藏さん、お酌を、恐れ入ります」

 貞「いや久し振りでお酌をする、わしの名を心得ているから妙でげすな、久しい前に一度先生のお供を致しましたが、其の時逢った一度で私の名まで覚えているというのは、商売柄は又別なものでげす、お隅さん相変らず美しゅうございますな」

 安「これお隅、手前名主の手を切って麹屋の稼ぎ女になったとか、枕附で出るとかいう噂があったが嘘だろうな」

 隅「いゝえ嘘ではございません、誠にお恥かしゅうございますけれどもべん〳〵とあゝ遣ってもいられませんから、種々いろ〳〵考えました処が、江戸には親類もありますから、何卒どうぞ江戸へ参りいと思いまして、故郷こきょうが懐かしいまゝ無理に離縁を取って出ましたが、手振り編笠あみがさしゅうとが腹を立って追出すくらいでございますから、何一つもくれませぬ、それ故少しは身形みなりこさえたり、江戸へくには土産でも持ってかなければなりませぬ、それには普通たゞの奉公ではらちが明きませんから、いや〳〵ながら先生お恥かしい事になりました」

 安「オヽ左様か、じゃアみずから稼いで苦しみ、金を貯めてなにかい身形を拵えて江戸へこうと云う訳か、どうも能く離縁が出たのう」

 隅「それがむこうで出さないのを此方こっちから強情に取りましたので、先生誠に久し振でございますねえ」

 安「ウンそれは妙だなア」

 貞「これは先生妙でげすな、貴方の方でお呼び遊ばさぬのにお隅さんが此の雪の降る中を尋ねて来るなんて、自然にどうも貴方の…実に感服でげすなア」

 安「なにそう云う訳でもなかろう、何か是には訳があって来たんだろう、なにかい富五郎がどういう事を云ったい」

 隅「はい、富さんの云うには、べん〳〵とこんなアいやしい奉公をするよりも、一角先生の御新造にならないかといいますから、馬鹿なことをお云いでない、一旦名主のうち縁付かたづいたのだから、披露ひろめはしないでも、今度けば再縁をする訳じゃアないか、それだから先生は決して御新造になさる訳はない、妾にすると仰しゃればまだしもの事だけれども、御新造にというのはおかしいじゃアないかというと、いゝえ全くお前さえよければ先生は御新造になさる思召おぼしめしがあるのだから、お前がたって…頼みたいと思うなら、骨を折っていように執成とりなすから了簡を決めろといいますから、それは誠に思掛おもいがけない有難いこと、私の様な者を先生が仮令たとえ妾にでもなすって下さるなら、私は本当に浮ぶ訳で、べん〳〵とこんな処にいたくないから、屹度きっと執成とりなしておくれかというと、お酒が始まって、するとの人の癖ですぐに酔ってしまって、まア馬鹿らしいじゃアありませんか、先生に取持つ代りにおれの云う事を聞けといって口説き始めたんでございますよ」

 安「こりアけしからん奴だ、どうだい貞藏」

 貞「でげすからあれは先生いけませぬ、先生は彼奴あいつを御贔屓になさいますが、全体よくない奴で、そういう了簡違いな奴でげすからなア、一体先生が余り贔屓になさり過ぎると思っていましたが、どうも御新造に取持とうという者、いわば仲人なこうどが一旦自分のいう事をきかして、それから縁付かたづけると、そんな事がありましょうか、だかられはもう、お置きなさらん方がい、お為になりませぬからなア、彼奴が来てから私は彼奴に使われるような訳で、先生もう彼奴はお止し遊ばした方がようございますよ」

 安「お隅、それからどうしたい」

 隅「それで、私が馬鹿な事をおいいでないと云うと、そんな詰らんことを云わんでもいじゃアないかといいますから、宜いじゃアないかって、お前さんのいう事を聞いた上で先生の処へ妾にけるか行けないか考えて御覧、富さん酔うにも程がある、冗談は大概におしよと云って居りましたら、しまいにはひどく酔って来まして、短かいのを抜いて、いう事を聞かなければ是だとおどし始めましたから、私も勃然むっとして、大概におしなさい、お前は腕ずくで強淫ごういんをする積りか、馬鹿な事をする怖い人だ、いやだよと云ってこうとすると、そうはやらぬと私のすそを押えて離さない処へ、おかねさんやおりきさんが出て参りまして取押える拍子に、お兼さんが指に怪我をするやら、金どんも親指に怪我をしまして、ようやくの事でなだめて刄物を抉取もぎとったんでございますが、全く先生の処から来たのなら、明日あすの朝先生が入らっしゃるであろう、其の上当人も酒がめるだろうから、まア縛って置くがいというので縛って置きました」


七十六


 安「こりゃアどうもしからん、白刃はくじんふるっておどすなぞとは、えゝ貞藏」

 貞「どうも怪しからん、彼奴あいつはいけません、彼奴一体そういうたちの奴でげす、うも怪しからん、抜刀ぬきみで口説くなんて、実に詰らん訳でげすなア、だから先生もう彼奴はお止しなすってうちに置かぬ方が宜しい、何うもそういう……」

 安「お隅、貴様はなにか主人に話をして来たか」

 隅「はいなんともいいませんけれども、お力さんに頼んで置きまして、何しろ先生の御様子を聞かなければ分らない、誠に恥かしいことでございますけれども、先生の処へ行って御様子を聞いて、そうして先生になだめて戴きいと思って出て参りました」

 安「左様か、雪のではあるし、是からくといっても大変だがあんな馬鹿にからかわないがいよ」

 隅「なにもう明日あしたでもうございますけれども、私は是から一人で帰るのは辛くって、参る時は一生懸命で来ましたが、帰るとなると怖くっていけませんが、どうかお邪魔様でも今夜一晩泊めて下さる訳にはいきますまいか」

 安「うん、それはい、泊ってくなら、なア貞藏」

 貞「是は先生御恐悦でげすなア、お隅さんの方から泊っていかと云うのは、こりゃア自然のお授かりでげすな」

 安「なにお授かりな事があるものか、のうお隅、だが貴様にはうも分らぬことが一つある、というのは惣次郎の女房になって何ういう間違いかは知らんけれども、安田一角が惣次郎を殺害せつがい致したというので、わしを夫のかたきと狙って、花車重吉を頼んで何処どこまでも討たんければならぬと云って、一頻ひとしきり私を狙って居るという事をたしかに人をもって聞いたそう云う手前が心で居たものが、此処こゝに来て、一角の女房になろうとはちっと受取れぬじゃないか、のう貞藏」

 隅「いゝえ、ねえ貞藏さん考えて御覧、羽生村に居るうちは義理だから敵を討つとかなんとか云いましたけれども、なにもねえ元々私が麹屋に奉公をして居て、あの時分枕付ではありませんが、の名主に受出うけだされて行って、妾同様表向の披露ひろめをした訳でもなし、ほんの半年か一年亭主にしただけでございますから、母親おふくろの前や村の人や角力取の前で義理を立って、敵を討つといいは云いましたが、よく〳〵考えてみた処が、貴方が屹度きっと殺したということが分りもしない、こんなあてもないのに敵を討つといったっても仕方がない訳だから、いっ敵討かたきうちという事はめてしまおう、それにしては何時いつまでもべん〳〵としてもいられませんから、思い切って暇を貰って出たのでございますから、もう今になればちっともそんな心は有りゃアしません、ねえ、貞藏さん」

 貞「成程りゃア本当でげしょう、先生は人を殺す様な方でないし、只お前さんへ執心が有った処から角力取と喧嘩、ありゃア一体角力の方がいけないよ、変に力が有ってねえ、あれだけは先生ひど野暮やぼになりますな」

 安「詰らん疑念を受けて飛んだ災難と思ったが、此方こっちに居ては面倒だから暫く常陸へ行って居たんだが、手前全くか」

 隅「本当でございますから疑りをはらして一献ひとつ戴きましょう」

 安「手前飲めるか」

 隅「はい、なんだか寒くっていけません、跣足はだしで雪の中を駈けて来たもんですから、足が氷の様になっていますもの」

 安「うーん中々飲める様になったのう」

 隅「つとめをして居て仕方なしに相手をするので上りましたよ」

 安「ふん妙だのう貞藏」

 貞「是は〳〵お隅さん貴方御酒をあがりますか、お酌を致しましょう」

 隅「はい有難うございます」

 と大杯たいはいに受けたのをグイと飲んで、

 隅「貴方なんだか真面目でいけないから、私がお酌を致しましょう」

 と横目でじっと一角の顔を見ながら酌をする。一角はもとより惚れている女が酌をしてくれるから快く大杯で二三杯傾けると、下地の有った処でござりますからグッスリえいが廻って来ます、貞藏も大変酩酊致しまして、

 貞「わたくしもう大層戴きました、お隅さんわたしは御免をこうむりまして、長くういう処にいるべきものでありませんから、左様なら先生御機嫌よう」

 隅「まアお待ちなさいよ、先生がお酔いなすったから、おや〳〵次の方に床が取ってありますねえ」

 貞「いゝえわたくし床を取って置いて、先生がぐっと召上ってしまうとすぐにおやすみという都合にして置きました、えゝ誠に有難う」

 隅「じゃア先生一寸貞藏さんを寝かして来ますからお床の中に居てねえ、寝てしまってはいけませんよ」

 安「なに貞藏などは棄てゝ置けよ」

 隅「いゝえ、そうで有りません、ひょっとして貴方が私の様な者でもんで下さいますと、わざわいはしもからといって、あゝいう人に胡麻を摺られるとたまりませんからねえ」

 安「なに心配せんでもい、じゃア己此処こゝに、なに寝やあせんよ、おゝ酔った、貞藏隅が送って遣るとよ」

 貞「いや是は恐れ入ります、じゃア先生御機嫌よう、お隅さんようございます」

 隅「いゝえ、よくないよ、そら〳〵危ない、何処どこへ、彼方あっちがお台所だいどこかえ」

 とよろける貞藏の手を取って台所だいどころ折廻おりまわった処の杉戸を明けると、三畳の部屋がござります。

 隅「さ、貞藏さん此処こゝかえ、おや〳〵お床がべてあるの」

 貞「いゝえ私の床は参ってからしきっぱなしで、いつも上げたことはないから、ずっと遣るとこう潜り込むので、へえ有難う」

 隅「恐ろしい堅そうな夜具ですねえ」

 貞「えゝなに薄っぺらでげすが、此の上へ布団を掛けます、寒けりゃア富五郎のが有りますから其れを掛けてもいゝので、へえ有難う」

 隅「さア仰向におなり、よく掛けて上げるから」

 貞「是は恐れ入ります、へえ恐れ入ります、御新造に掛けて戴いて勿体至極もない」

 隅「さ、掛けますよ、寒いから額まですっかり掛けますよ、そう見たり何かすると間が悪いわね、さ、襟のとこを」

 貞「あゝ有難う」

 隅「どうも重たいねえ」

 貞「へえ有難うあったかでげす」

 隅「なんだか寒そうだこと、何か重い物をすその方に押付おっつけるとあったかいから」

 というので台所を捜すと醤油樽がある、丁度昨日さくじつ取ったばかりの重いやつをげて来て裾の方に載せ、沢庵石と石の七輪を掻巻かいまきの袖に載せると、

 貞「アヽ有難う、大層あったかで、ちっと重たいくらいでげす」

 といったが是は成程重たい訳、石の七輪や沢庵石や醤油樽が載っておりますから、当人は押付おしつけられる様な心持。

 貞「へえ有難う、あったかでげす」

 といったぎりぐう〳〵とい心持に寝付きました。


七十七


 お隅はそっと奥の様子を見ると、一角がよろけながら、四畳半の床の上に横になった様子でございますから、そっと中仕切なかじきりふすまって、台所の杉戸を締め、男部屋の杉戸をしずかに閉って懐中から出して抜いたのは富五郎を殺害せつがいして血に染まったなり匕首あいくち、此の貞藏があっては敵討の妨げをする一人だから、貞藏これから片付けようというので、仰向に寝て居る貞藏の口の処へどんと腰を掛けながら、力任せに咽喉のどを突きましたから、

 貞「ワーッ」

 といったが掻巻と布団が掛って居りますから、くるしむ声が口籠くちごもってそとへ漏れませぬ。一抉ひとえぐり抉ると足をばた〳〵〳〵とやったきり貞藏は呼吸いきが絶えました。お隅はほっと息をいて掻巻の袖で匕首の血をぬぐって鞘に納め、そっと杉戸を明けて台所へ来て、柄杓ひしゃくで水をぐっと呑み、はッはッという息づかい、もうれで二人の人を殺しましたなれども、夫のあだを討とうという一心でござりますから、顔色かおいろの変ったのを見せまいと、一角の寝床へそっと来て、顔を横に致しまして、

 隅「先生〳〵もうおやすみなすったか」

 安「うーん貞藏は寝たか」

 隅「はい能く寝ました、大層酔いましてねえ」

 安「酔ってもいから、あんな奴に構うな、寝ろよ」

 隅「寝ろって夜具がありません、私は食客いそうろうでございますから此処こゝに坐っています」

 安「そんな詰らぬ遠慮にはおよばぬ、全く疑念が晴れて、己の女房になる気なら真実可愛いと思うから、手前に楽をさして真実つくすぞ」

 隅「誠に有難いこと、勿体ないけれども、そんなら此の掻巻の袖の方から少しばかり這入りまして」

 安「いや少し許りでなくって、たんと這入れ」

 隅「それじゃア御免なさいまし」

 と夜着よぎの袖をはねて、懐中から出した匕首を布団の下にはさんで、足で踏んで鞘を払いながら、

 隅「じゃア御免遊ばせ、横になりますから」

 安「さア這入れ」

 と一角が夜着の袖を自ら揚げる処を、

 隅「亭主の敵」

 と死物狂いに突掛つっかゝるという。お話二つに別れまして麹屋では更に斯様かような事は存じません。暁方あけがたになってお隅がいない処から家中うちじゅう捜しても居ない、六畳の小間が血だらけになっているから掻巻をはねると、富五郎が非業な死にようわきの処に書置が二通あって、これにお隅の名が書いてあるから、亭主は驚きまして、すぐに是を開いて読んで見ると、富五郎の白状にって夫の敵は一角と定まり、女ながらも富五郎は容易たやすく仕止めたから、直に一角の隠れ家交遊庵へ踏込ふんごんで、首尾よくけば立帰って参りますが、女の細腕、し返り討になりました時は、羽生村へ話をして此の書置を遣り、又関取へもお便りなすって、惣吉成人ののち関取を頼んで旦那と私の敵を討たして下さい、証拠は富五郎の白状に依って手引をした者は富五郎、斬った者は一角と定まりました、夫故それゆえに今晩交遊庵に忍び入ります、永々なが〳〵お世話様になりました、有難い。という重ね〴〵の礼まで書残してあるから、それッというので、麹屋の亭主は大勢の人を頼んで恐々こわ〴〵ながら交遊庵に参ったのは丁度暁方あけがた、参って見ると戸が半ば明いて居ります、何事か分りません、小座敷にはさけさかなちらかって居り、四畳半の部屋に来て見ると情ないかなお隅は返り討に逢って非業な死によう

 主「あゝ気の毒なこと、可哀そうに、でも女一人でくのは実に不覚であった」

 もう今更どうも仕方が無いが一角はというと、一角は此処こゝのがれて行方知れず二畳の部屋を明けて見ると沢庵石だの、醤油樽だの七輪の載せてある夜具の下に死んで居る者が一人ござりますから、是からすぐに麹屋からたしかに証拠があって敵討をしようと思って返討に成ったという事を訴えになり、直にお隅の書置を羽生村へ持たせて遣りました時には、母も惣吉も多助も

「アヽ左様そうとは知らずに犬畜生いぬちきしょうの様な恩知らずの女とにくんだのは悪かった、あゝいう愛想尽あいそづかしをいったのも、全く敵が討ちたいばっかりでお隅がうちを出たのであったか、憫然かわいそうなことをしたが、お隅が心配して命を棄てたばかりに敵は一角と定まりず富五郎は討止めたが、一角の為に返り討になって死んだといえばにくいは一角、早く討ちい」

 と思いまするが、何しろ年を取った母と子供の惣吉ばかりでございますから、関取を頼んでと、もう名主役も勤まりませんから、作右衞門という人に名主役を預けて置き、花車重吉が上総の東金とうがねの角力に往ったということを聞きましたから、すぐ其所そここうというので旅立の支度を致し、永く羽生村の名主を致して居りましたから金は随分ござります、これを胴巻に入れたり、襦袢じゅばんの襟に縫附けたり、種々いろ〳〵に致して旅の用意を致します、其の内に荷拵にごしらえが出来ると、これを作右衞門の蔵へ運んで預けると云う訳で、只今まで名主を勤めて盛んであったのが、ぱったり火の消えた様でござります。


七十八


 母「多助や」

 多「ヘエ」

 母「作右衞門がとけえ行って来たかい」

 多「ヘエ行ってめえりました、蔵の方にゃ預かる者があるから心配しんぺいしなえがえ、何時いつでもけえったら直ぐに出すばいて、蔵の下は湿しけるから湿なえたけとこに上げて置くばいといってね、作右衞門どんも旧来きゅうれえの馴染ではアうか止めいと思うが、敵を討ちに行くてえのだから止められねえッて名残なごりおしがってるでがんす、村の者もねえみんな御恩になったゞから渡口わたしぐちまで送りえといってますが、あなたそういうから年い取った者ア来ないでえといって置きましたが、わしだけは戸頭とがしらまで送りえと思って支度ウしました」

 母「われも送らなえでいからわけもんを止めて呉んろよ、汝が送ると若え者も義理だから戸頭まで送りばいと云って来るだ、そうすりゃア送られると送られる程名残い惜いから、汝も送らなえでもいよ」

 多「だけンどもはア村のもんは兎も角もわしはこれ十四歳の時から御厄介ごやっけえになって居りまして、お前様めえさんのお蔭でこれ種々いろ〳〵覚えたり、此の頃じゃアハア手紙の一本ぐれえ書ける様になったのアめえの旦那の御厄介ごやっけえでがんすから、おうちがこうなって遠いとけえ行くてえこったらわしも附いて行かないばなんねえが、婆様ばあさまア塩梅あんべいが悪うござえまして、見棄てちゃアなんねえというから、あなたのお心へ任して送りはしねえが、めて戸頭まで送りてえと思って居ります、塚前つかさき彌右衞門やえもんどんは死んだかどうか知んねえが、通り道から少し這入へいるばかりだから、ちょっくり塚前へも寄ったがい」

 母「それもどうするかも知んなえが、われは送らなえがいよ」

 多「でも戸頭まで送るばいと思って居ります」

 母「送らんでいというに何故そうだかなア、われア死んだ爺様とっさまの時分から随分世話も焼かしたがうちの用も能く働いたから、なんぞ呉れえと思うけれども何もえだ、是ア惣次郎が居る時分に祝儀不祝儀に着た紋附もんつきだ、汝もれからおらうちが無くなれば一人前の百姓に成るだから、祝儀不祝儀にゃアこういう物もるから、此の紋附一つくればいと云う訳だよ、それから金も沢山呉れえが、こゝに金が七両あるだ、是ア少し訳があっておら手許てもとにあるだから是を汝がにくればい、此の紬縞つむぎじまあんまり良くなえが丹精してよりをかけて織らした紬縞で、ちょく〳〵阿弥陀様へおめえりに往ったり寺参てらめえりに着て往った着物だから、是を汝がに呉れるから仕立直して時々出して着るがえ、三日でも旅というたとえがあるが、子供を連れて年寄が敵討かたきぶちに行くだから、一角の行方が知んなえば何時いつけえって来るか知んなえ、なげえ旅で死ななえともいわれなえ、是ア己が形見だから、己がのちも時々これを着て己がに逢う心持で永く着てくんろ、よ」

 多「はい、わし戸頭まで送るばいと思ったに…どうもれいりません…形見……形見なんて心細こゝろぼせえこといわずにの、あんたも惣吉さんも達者でけえって、もう一度名主役を惣吉さんが勤めなえば私の顔が立ちませんから、どうか達者でけえっておくんなさえよ、惣吉さん今迄とア違うから、母様かゝさまに世話アやかせねえ様に、母様ア大事でえじにしなえばなんねえよ、惣吉さん、いかえ、今迄の様なだだいっちゃアなりませんよ、いゝかえ、どうか私は戸頭まで」

 母「送らんでえというにわれが送るてえばみんなわけもんも送りたがるから、誰か来たじゃなえか」

 作「ヘエ御免」

 多「やア作右衞門どんが」

 母「さア此方こっちへお這入りなさえ」

 作「誠にどうも、魂消たまげて、どういう訳で急に立つことになったか、村の者もどうか止めえというから、馬鹿アいうな、止められるもんか、今度ア物見遊山でなえ、敵討かたきぶちに行くだというと、成程それじゃア止められねえが、まア名残いおしいってね、わけもんば皆おんになってるだから心配しんぺえぶっております、留守中は役にア立たないがおけえりまでアたしかに荷物はみんな蔵へ入れて置きましたが、何卒どうかまア早くけえってお出でなさる様にねげえもんで」

 母「はい、お前方もふりい馴染でがんしたけんども、今度が別れになります、はい有難うござえます、多助や誰かわけもんが大勢来たよ」

 多「やアかねか、さア此方こっち這入へえれ、お、太七郎たしちろう此方へ」

 太「はい有難う、誠にまアどうも明日あした立つだって、魂消て来たでがんす、どうもこれ名残い惜くって渡口まで送るというもんが沢山ござえます」

 母「ありゃまア、送らねえでもえよ、用がえれえに」

 太「なに用はなえだからみな送りえとおめえまして、名残い惜いがさみい時分だから大事にしてねえ」

 母「はい有難う、又祝いの餅い呉れたって気の毒なのう、どうか婆様ばあさまア大事にして」

 太「ヘエばゝアもどうかお目に掛りえといっております」

 母「おゝ誰だい、さア此方こっちへ這入りな」

 甲「ヘエ、誠にはア、魂消まして、どうかまア止めえといったら止めてはなんねえって叱られた、随分道中を大事に」

 九「ヘエ御免」

 母「誰だい」

 九「九八郎で、誠にどうもさっぱり心得ませんで、急にお立だと云うこッて、お名残いおしゅうござえます」

 母「おや〳〵かみ婆様ばゞさま、あんたなえでえによ」

 婆「はい御免なさえ、誠にまアどうも只お名残い惜いから、どうぞ碌に見えない眼だが、ちょっくりお顔を見てえと思ってお暇乞いとまごえめえりました、明日あした立つだッて、なんだかあっけなえこったって、わしの嫁なんざアえてばいいるだ、随分大事でえじになえ」

 母「はい有難うござえます、おめえも随分大事でいじにして、いつも丈夫で能くねえ」

 乙「ヘエ誠にどうもお力落しでがんす」

 丙「おい〳〵なんだってお力落しなんていうんだ」

 乙「でも飛んだ事だと云うじゃアなえか」

 丙「馬鹿いえ、敵討かたきぶちにお出でなさるのに力落しという奴があるか」

 乙「ヘエ誠にそれはアお目出度めでてえこって」

 丙「これ〳〵お目出度えでなえ」

 乙「なんでもいじゃアなえか」

 という騒ぎで、村中餅を搗きましたり、蕎麦を打ったり致して一同出立を祝するという、惣吉仇討あだうちに出立の処は一寸一息。


七十九


 さて時は寛政十一年十二月十四日の朝早く起きまして、旅仕度を致しますなれども、三代も続きました名主役、仮令たとえ小村こむらでも村方を離れて知らぬ他国へ参りますものは快くないもので、ことには年を取りました惣右衞門の未亡人びぼうじんが、十歳になる惣吉という子供の手を曳いて敵討かたきうちの旅立でありますから、村方一同も止める事も出来ず、名残を惜んでおります、皆小前の者がぞろ〳〵と大勢川端まで送って参ります。

 母「さア作右衞門さんこれで別れましょうよ、何処どこまで送っても同じこッたからこれで」

 作「だけんども船へ乗るまで送り申しいと皆こういっている」

 母「だけんどもけえって船にわし乗っかって、みんなが土手の処にいかい事皆が立っていると、私快くねえ、名残惜くって皆が昨宵ゆうべから止められるのでね、誠に立度たちたくござえませんよ、何卒どうぞお前が差図さしずして帰しておくんなさいましよ」

 作「はい、それじゃアみんれにてお別れとしましょうよ、えゝ送れば送られる程御新造は心持い悪いてえからよう」

 村方の者「左様ならまア随分お大事に」

 村方の者「左様ならハアお大事でえじに」

 村方の者「左様ならお大事でえじに、早くお帰りなさいましよ」

 作「何卒どうぞ早くおけえりをお待ち申しますよ」

 母「さアよ多助どうしたもんだ、われ其所こゝに立っているからみんな立っていべえじゃアねえか、汝からけえろというに」

 多「おれだけは戸頭まで送る」

 母「送らねえでもえてえに」

 多「送らねえでも宜えたって、村のもんと己とは違う、己はあんた十四の時から側にいるので、何所どこまで送っても村のものは兎や角云う気遣きづけえねえから送り申しますよ」

 母「あゝいう馬鹿野郎だもの、われが送ると云えばみんなが送ると云うから汝けえれてえに、昨宵ゆうべいったこと分らなえか」

 多「ヘエ、じゃア御機嫌よく行っておいでなせえ、惣吉様道中でお母様っかさまに世話やかしてはいけませんよ、今までは草臥くたびれゝば多助がおぶって上げたが、もう負って上げるもんはねえよ、エヽ気の毒でもあんた歩いてまいらなえばならんだ、永旅だから我儘してお母様に心配しんぺえかけてはなりませんよ、大事でえじに行っておいでなさえましよ」

 惣「うーん、大丈夫だよ、多助も丈夫で」

 多「こんな別れの辛いこたア今迄ねえね」

 母「別れエつれえたッておっぬじゃアなし、関取がに逢って敵いって目出度くけえって来たらえじゃアねえか」

 多「それまアたのしみにするだが、あんた昨宵ゆうべも人間は老少不定ろうしょうふじょうだなんていわれると心持よくねえからね」

 母「これで別れましょうよ」

 多「左様なら気い付けてね、初めからあんまりたんと歩かねえようにしてねえ、早く泊る様にしなければなんねえ、寒い時分だから遅く立って早く宿へ着かなけんばいけませんぞ…アヽおさねえでもあぶねえだ、めえは川じゃアねえか、此処こゝ打箝ぶちはまったらどうする…何卒どうぞ大事でえじに行って来てお呉んなせえましよ…なに笑うだ、名残い惜いから声かけるになんだ馬鹿野郎、情合じょうええのねえ奴だ、笑やアがって……あれまア肥料桶こいたごかたげ出しやアがった、たごをかたせ、アヽ桶をおろして挨拶しているが……あゝ兼だ新田しんでんの兼だ、御厄介ごやっけいになった男だからなア、あの男も……惣吉様ちっせえだけんども怜悧りこうだから矢張やっぱり名残い惜がって、昨宵ゆうべおいらは行くのはいやだけんども母様かゝさまが行くから仕方がねえ行くだって得心したが、うしろ振返ふりけえり〳〵行く………見ろよ…………あゝ誰かでけえ馬ア引出しやアがって、馬の蔭で見えなくなった、馬を田のくろ押付おッつけろや…あれまア大え庚申塚こうしんづかが建ったな、れア昔からある石だが、あんなもの建てなけりゃアいゝに、庚申塚が有って見えやアしねえ、庚申塚取除かたせ」

 村方の者「そんなことが出来よかえ」

 と伸上のびあがり〳〵見送っていとまを告げる者はどろ〳〵帰る。此方こちらあとに心が引かされるから振返り〳〵、漸々よう〳〵のことで渡を越して水街道から戸頭へさしてきます。すると其の翌年になりまして花車重吉という関取は行違ゆきちがいになりましたことで、毎年まいねん春になると年始に参りますが、惣次郎の墓詣はかまいりをしたいと出て来ましたが、取急ぎ水街道の麹屋へも寄らず、すぐに菩提所へ参りまして和尚様に逢うと、れ〳〵といい、つい話も長くなりましたが、墓場に香花を沢山あげて、

 花車「あゝお隅様情ない事になった、かたきを打つなればわし一言ひとこと話をして呉れゝばお前さんにこんな難儀もさせまいに、今いうは愚痴だが、だが能くお前が死んで呉れたばかりで敵は安田一角という事が分りましたから、惣吉様に助太刀して屹度きっと花車がお前さんうらみを晴します、アヽ入違いになり上総の東金へきなすったか、さぞ情ない事だと思いなすったろうが、私はこれから跡追掛てお目に掛り、何処どこに隠れすまうとも草を分けても引摺り出して屹度敵を討たせますから」

 といきている者に物をいう様に分らぬ事を繰返し大きに遅れたと帰ろうとすると、ばら〳〵降出して来て、ほかく処もないから水街道の麹屋へこうとすると、和尚様は

「少し破れてはいるがこれをさして、穿きにくかろうがこの下駄を」

 というので下駄と傘を借りて、これから近道を杉山の間の処からなだれを通って、田を廻ってこう東の方へ付いてくと、大きな庚申塚が建てゝって、うしろには赤松がこう四五本ありまして、前には沼があり其のほとりに枯れあしが生えております、ずうッと見渡すばかりの田畑、淋しい処へばら〳〵降っかけて来る中をのそり〳〵やって来ると、突然だしぬけに茂みからばら〳〵と出た武士さむらいが、皆面部を包み、端折はしおりを高くして小長こながい大小を落し差しにしてつか〳〵と来て物をもいわず花車の片方かた〳〵の手を一人が押える、一人は前から胸倉を押えた、一人は背後うしろから羽交責はがいぜめに組付こうとしたが、関取は下駄を穿いており、大きななり下駄穿げたばきだから羽交責どころではない、ようやく腰の処へ小さい武士ぶしが組付きました。


八十


 花車はびっくりしたが、左の手に傘を持って居り、右の手は明いて居りましたが、おさえ付けられ困りました。

 花車「なんだい、何をなさる」

 武士「我々は浪人者で食方くいかたに困る、天下の力士と見かけてお頼み申すが、路銀を拝借したい」

 花「路銀だって、あんた、わしはお前さん角力取で金も何もありはしないが、困りますよ、そんなことして金持と見たは眼違いで、金も何もない、角力取だよ」

 武「金がなければ気の毒だがして居る胴金どうがねから煙草入から身ぐるみ脱いで行って貰いい」

 花「そんなこといって困りますよ、身幅みはゞの広いこんな着物を持って行ったって役に立ちはしません、煙草入だって、こんな大きな物持って行ったって提げられやあせん、売ったって銭にもならぬに困りますよ、胴突どうづいては困るよ〳〵」

 といいながら段々花車はあとさがると、うしろの見上げる様な庚申塚の処へこう寄り掛りました。前の奴は二人で、一人は右の腕をおさえ、一人は胸倉を取って押える、うしろの奴はせつない、庚申塚と関取の間にはさまれ、

「もっと前に」

 といっても同類の名をいうことが出来ない。此の三人は安田一角の廻し者、花車を素っぱだかにしてなぶり殺しに致すようにすれば、れだけの手当を遣るということにうより頼まれて居る処、出会って丁度幸い、いゝ正月をしようという強慾非道の武士三人、やっとらまいたが、花車は怜悧りこうものだから、此奴こやつらは悪くしたら廻し者だろうと思い、

 花「まアそんなに押えられては困りますね、待ちなさい上げますよ、ってと云えば上げますよ〳〵」

 武「呉れぬといえば許さぬ、浪人の身の上切取きりとり強盗は武士の習い、云い出してはあとへ引かぬからお気の毒ながら切り刻んでもお前の物は残らずぐぜ、のがれぬ事と諦めて出しな、裸体はだかはお前の商売だ、裸体でくのはなんでもないわ」

 花「だから上げるけれども、待ちなさいよ」

 と左の手に持って居た傘をぽんと投出し前から胸倉を取って押えて居る一人の帯を押えて、

 花「お前さん、そう胸倉を押していてはわしは着物を脱ぐことが出来ぬから、胸倉をゆるめて、裸体はだかになりますよ、私も災難じゃア、寒くはないから、私に裸体になれてえばなりますから、胸倉を押えていては脱げませんから緩めて」

 前の奴のうっかり緩める処を見て、

 花「なにをなさる」

 といいながら一人の奴の帯を取ってぽんと投げると、庚申塚を飛越して、うしろの沼の中へ、ぽかんと薄氷うすごおりの張った泥の中へ這入った。すると右の手を押えた奴は驚きバラ〳〵逃げ出した。

 花「悪い奴じゃ、こんな村境むらざかいの処へ出やアがって追剥おいはぎをしやアがって悪い奴じゃ、今度こんだ此辺こゝらアうろ〳〵しやアがると打殺ぶちころすぞ、いやうしろれか居やアがるな、此奴こいつ組付くみついて居やアがったか」

 武「誠にどうも恐入った」

 花「誠にも糞もいらん、これてまえの様な奴が出ると村の者が難儀するから此ののちないか」

 武「どころではござらぬ、誠にどうも」

 花「悪いことするな、是からは為ないかどうだ此の野郎」

 と押付けると、

 武「うーん」

 と息が止った。

 花「野郎死にやアがったか、くたばったか、野郎しんだか、アヽ死にやアがった、馬鹿な奴だ」

 とひねり倒すと、尾籠びろうのお話だが鼻血が出ました。

 花「みっともねえつらだなア、此奴こいつも投込んで遣れ」

 と襟髪えりがみを取って沼へほうり込み、傘を持ってのそり〳〵水街道の麹屋へ帰るという、角力取という者はおおまかなもので。さてお話は二つに分れて此方こちらは惣吉の手を引き、漸々よう〳〵のことで宿屋へ着きましたなれども、心配を致しました揚句あげくで、母親がきり〳〵しゃくが起りまして、寸白すばくの様で、宿屋を頼んでも近辺に良い医者もございませんから、思う様になおりません、マア癒るまではというので、逗留とうりゅう致して居りました。其の内に追々と病気も癒る様子なれども、時々きや〳〵痛み、固い物は食われませんから、おかゆこしらえてこれを食い、其のうち年も果て正月となり、丁度元日で、元日に寝ていては年の始め縁起が悪いと、田舎の人は縁起を祝ったもので、身体が悪いくせに我慢して惣吉の手を引いて出立致し、小金ヶこがねがはらへ掛り、塚前村の知己しるべの処へ寄って病気の間厄介になろうと、小金の原から三里ばかり参ると、大きな観音堂がございますが、みぞれがぱら〳〵降出して来て、子供に婆様ばあさまで道は捗取はかどりません、とっぷり日は暮れる、するとしきりに痛くなりました。

 惣吉「母様かゝさままた痛いかえ」

 母「アヽ痛い、あゝあのお医者様から貰ったお薬は小さえ手包の中へ入れて置いたが、彼処あすけえ上げて置いたが、あれわれ持って来たか」

 惣「あれおれ置いて来た」

 母「困るなア、子供だア、母様塩梅あんべえわりいだから、薬大事でいじだからてえかんげえもなえで」

 惣「だって、己もういてえから、よかんべえと思って何も持ってなかった」

 母「困ったなア、あゝ痛い〳〵」

 惣「母様雪降って来た様だから、此処こゝに居ると冷てえから、此の観音様の御堂に這入ってちっと己おっぺそう」

 母「そうだなア、押してくれ」

 惣「あい」

 母「おゝ、でけえ観音様のお堂だ、南無大慈大悲の観世音菩薩様少々此処こゝを拝借しまして、此処で少し養生致します。さア惣吉力一ぺえ押せよ」

 惣「母様此処な処かえ」

 母「もっとこっち」

 惣「もっと塩梅あんべえが悪くなると困るよう、しっかりしてよう、多助じいやアを連れて来るとかった」

 と可愛らしい紅葉もみじの様な手を出して母の看病をして、此処を押せと云われて押しても力が足りません。

 母「あゝ痛い〳〵、そうなでても駄目だから拳骨で力一ぺえおっぺせよ、拳骨でよ、あゝ痛い〳〵」


八十一


 女「なんだか大層うなる声が聞えるが……貴方かえ」

 母「へえ、旅のもんでござえますが、道中で塩梅あんべえが悪くなりましてね、快くなえうち歩いて来ましたから、原なけえ掛って寸白が起っていとうごぜえますから、観音様のお堂をお借り申しました」

 女「それはお困りだろう、お待ち、どれ〳〵此方こっちへ這入りなさい」

 と観音堂の木連格子きつれごうしを明けると、畳が四畳敷いてございます。其の奥は板の間になって居ります、年の頃五十八九にもなりましょう、色白のでっぷりした尼様、鼠木綿の無地の衣を着て、

 尼「さア此方こちらへお這入りさア〳〵さすって上げましょう憫然かわいそうに、此の子が小さい手で押しても、擦っても利きはしない、おゝひどく差込んで来る様だ」

 母「有難うごぜえます、痛くってたまらねえでね、宿屋へ一寸泊りましたが癒らねえで」

 尼「こうくるしむに子供を連れて何処どこまで……なに塚前まで、是から三里ばかりで近くはない、薬はお持ちかえ」

 母「はい、薬は有ったが惣吉これがにいい付けて置いたら、あわてゝ、包の中へ入れて置いたのを置いてめえりまして」

 尼「薬がなくっては困ったもの、ういう時は苦い物でなければいけない、だらすけいが、今此の先にねえ、あのえのきの出て居るうちが有る、あれから左の方へ構わず曲ってくと、家が五六軒ある、其処そこの前に丸太が立って、家根やねの上に葮簀よしずが掛って居て、其処に看板が出てあったよ、癪だの寸白疝気せんきなぞに利くなんとか云う丸薬で、黒丸子くろがんじの様なもので苦い薬で、だらすけみたいなもので、癪には能く利くよ、お前ねえ、知れまいかねえ、行って買って来ないか、安い薬だが利く薬だが、先刻さっき通った時榎があって、一寸休むとこが有って、掛茶屋かけぢゃやではないが、あれから曲って一町ばかりくと四五軒うちがあるが、うか行って買って来て、私が行って上げたいが手が放されないから」

*「漢方医の調剤する腹痛の丸薬。こくがんし」

 惣「有難う」

 尼「こゝにおあしがあるから是を持って行っておいで、心配せずに」

 惣「じゃア母様かゝさまわしが薬買って来るから」

 母「よくお聞き申して早く行ってうよ」

 惣「はい、御出家様おねげえ申しますよ」

 尼「あいよ心配せずに行っておいで、憫然かわいそうに年もいかぬに旅だからおろ〳〵して涙ぐんで、いゝかえ知れたかえ、先刻さっき通った四五町先の榎から左に曲るのだよ」

 惣「あい」

 とおろ〳〵しながら、惣吉は年はとおだが親孝心で発明な性質うまれつき、急いで降る中を四五町先を見当みあてにして参りました。先刻通りました処は覚えて居りまして、榎の所から曲ると成程四五軒うちがある、其処そこへ来て、

 惣「此辺こゝらに癪に利く薬でだらすけという様な薬は何処どこで売っておりますか」

 と聞くと、

 男「此辺に薬を売る処はない、小金こがねまで行かなければない」

 惣「小金と云うのは」

 男「小金までは子供で是からはとても行かれない、其のうちには暗くなって原中で犬でも出ればうする、早くお帰り」

 と云われ心細いから惣吉は帰って観音堂へ駈上かけあがって見ると情ないかな母親は、咽喉のど二巻ふたまき程丸ぐけでくゝられて、虚空を掴んで死んで居る。脊負せおった物もまた母が持って居た多分の金も引浚ひきさらっての尼が逃げました。

 惣「アヽお母様っかさまうして絞殺しめころされたかねえ」

 とくびに縛り付けてある丸ぐけをふるえながら解いて居る処へ、通り掛った者は、藤心村ふじごゝろむらの観音寺の和尚道恩どうおんと申しまして年とって居りますが、村方では用いられる和尚様、隣村に法事があって男を一人連れて帰りがけ、

 和尚「急がんじゃアいかん」

 男「なんだかヒイ〳〵という声が聞える様に思うだ」

 和「ヒイ〳〵と」

 男「おっかねえと思って、此処こゝはね化物が出るとこだからねえ」

 和「化物なぞは出やせん」

 男「けれども原中でヒイ〳〵という声がおかしかんべえ」

 和「何も出やアしない」

 男「あれ冗談じゃアねえ、だん〳〵、あれ〳〵」

 和「れは観音様のお堂だ、彼処あすこに人が居るのではないか、暗くって見えはせん提灯ちょうちん出しな」

 と提灯を引ったくって和尚様が来て見ると、くびり殺された母にすがり付いて泣いて居る。

 和「どういう訳か」

 と聞くと泣いてばかり居てとんと分りません。ようやくだまして聞くと是れ〳〵という。

 和「飛んだ事だ」

 とすぐに供の男を走らして村方へ知らせますと、百姓が二三人来て死骸と共に惣吉を藤心村の観音寺へ連れて来て、段々聞くと、便たよる処もない実に哀れの身の上でありますから、

 和「誠に因縁の悪いので、親の菩提の為、わしが丹精して遣るから、かたきを討つなぞということは思わぬがい、私の弟子になって、母親やあにさんの為に追善供養を吊うが宜い」

 と此の和尚が丹精してようやく弟子となり、頭をりこぼち、惣吉が宗觀そうかんと名を替えて観音寺に居る処から、はからずもかたきの様子が知れると云うお長いお話。一寸一息吐きまして。


八十二


 さて一席申上げます、久しく休み居りました累ヶ淵のお話は、わたくし昨冬さくふゆより咽喉加答児いんこうかたるでさっぱり音声が出ませんから、寄席せきを休む様な訳で、なれども此の程は大分咽喉加答児の方はうございますが、また風を引き風声かざごえになりまして、風声と咽喉加答児とが掛持かけもちを致して居りますると云う訳でもござりませんが、何時いつまでもお話を致さずにもられませんから、此の程はようやく少々よろしゅうございますから、申し残りの処を一席お聞きに入れます。さてお話が二つに分れまして、ちょうど時は享和きょうわの二年七月廿一日の事でございまする。下総の松戸まつどわきに、戸ヶとがさき村と申す処がございまして、其処そこに小僧弁天というのがありまするが、ういう訳で小僧弁天と申しますか、あえて弁天様が小さいという訳でもなし、弁天様が使いにく訳でもないが、小僧弁天と申します。境内は樹木が繁茂致しまして、とんと掃除などを致したことはなく、れ切れた弁天堂のえんは朽ちて、間から草が生えて居り、堂のわきには落葉おちばうずもれた古井があり、手水鉢ちょうずばちの屋根はっ壊れて、向うの方に飛んで居ります。石塚は苔の花が咲いて横倒よこッたおしになって居りまする程の処、其の少し手前に葮簀張よしずッぱりがあって、すまいではありません、店の端には駄菓子の箱があります、中にはおいち微塵棒みじんぼう達磨だるま玉兎たまうさぎに狸のくそなどというきたない菓子に塩煎餅がありまするが、田舎のは塩を入れまするから、見た処では色が白くて旨そうだが、矢張やはりこっくり黒い焼方の方が旨いようです。田舎の塩煎餅は薄っぺらで軽くてべら〳〵して居りまする、大きな煎餅壺に一杯這入って居りまする、それから鳥でも追う為か、渋団扇しぶうちわ吊下ぶらさがり、風を受けてフラ〳〵あおって居りまする、これは蠅除はえよけであると申す事で。袖無そでなしを着たアさまが塵埃除ほこりよけの為に頭へ手拭を巻き附け、土竈どぺッついの下をき附けて居りまする。破れた葮簀の衝立ついたてが立ってあり、看板を見ると御休所おんやすみどころ煮染にしめ酒と書いてありまするのは、いかさま一膳飯ぐらいは売るのでござりまする。丁度其の日の申刻なゝつさがり、日はもう西へ傾いた頃、此の茶見世へ来て休んでいる武士さむらいは、廻し合羽がっぱを着て、柄袋の掛った大小を差し、半股引の少しれたのを穿いて、盲縞めくらじまの山なしの脚半きゃはんに丁寧に刺した紺足袋、切緒きれお草鞋わらじを穿き、かたわらに振り分け荷を置き、すげ雪下ゆきおろしの三度笠を深くかぶり、煙草をパクリ〳〵呑んで居りますると、門口から這入って参りました馬方は馬を軒の傍へつないで這入って来ながら、

 馬「ばアさま、お茶ア一杯いっぺえくんねえ、今の、お客を一人新高野しんこうやまでのっけて来た」

 婆「おめえさまは何時いつもよい機嫌だのう」

 馬「いゝ機嫌だって、機嫌悪くしたって銭の儲かる訳でもねえから仕ようがねえのよ」

 といいながらの縁台に腰を掛けていたる客人を見て、

 馬「お客さん御免なせえ、あんた何方どちらへおいでゝごぜえやすねえ、もうハア日イ暮れ掛って来やしたから、おとまりは流山か松戸どまりが近くってようごぜえましょう、川を越してのお泊は御難渋でけえようだが、今夜は何処どこへお泊りか知りやせんが、やすくやんべえかな」

 士「馬は欲しくない」

 馬「どうせけえり馬でごぜえやす、今ね新高野までお客ウ二人案内してね、また是からむこうくのでごぜえやすが、手間がとれるから、鰭ヶ崎の東福寺とうふくじどまりと云うのだが、幾らでもいゝから廉く遣るべえじゃアねえか」

 士「馬は欲しくないよ」

 馬「欲しくねえたって廉かったらえじゃアねえか」

 士「廉くっても乗りくないというのに」

 馬「そんな事を云わずに我慢して乗ってッて下せえな」

 士「うるさい、乗り度くないから乗らんというのだ」

 馬「乗り度くねえたって乗ってお呉んなせえな、馬にもうめえ物を喰わして遣りてえさ、立派な旦那様、や、貴方あんたア安田さまじゃありやせんか」

 士「誰だ」

 馬「おゝ先生かえ、誠に久しく会わねえ、まア本当に思えがけねえ、横曾根村にいた安田先生だね」

 士「大きな声をするな、己は少々仔細有って隠れている身の上だが、突然だしぬけに姓名をいわれては困る、貴様は誰だ」

 馬「誰だって先生、一つとこにいた作藏でごぜえやすわね」

 士「なに作藏だと、おゝう〳〵」

 作「えゝ誠にお久しくお目に懸りやせんが、何時いつもお達者でわけえねえ、最早もうたしか四十五六になったかえ」

 士「てめえも何時も若いな」

 作「おらアもう仕様がねえ、貴方あんた実はねわし先刻さっきから見た様な人だと思ってたが、安田一角先生とは気が附かなかったよ」

 士「己の名を云ってくれるなというに」

 作「だッて、知んねえだから気イ附かずに云ったのさ、しかうも一角先生に似て居ると思ったよ」

 安「これ名を云うなよ」

 作「成程善々よく〳〵れば先生だ、なんでも隠し事は出来ねえねえ、笠アかぶっているから知れなかったが安田先生だった」

 安「これ〳〵困るな、名を云うなと云うに」

 作「つい惘然うっかりいうだが、もう云わねえ様にしやしょう、実に思え掛けねえ、貴方あんた何処どこにいるだ」

 安「少し仔細あって此の近辺に身を隠しているが、てめえうして彼方あっちを出て来た」

 作「仕様がねえだ、おらアこんなむかっ腹を立てる気象だが、詰らねえ事で人に難癖え附けられたから、此所こゝばかり日は照らねえと思って出て来たのさ」

 安「てめえたし森藏もりぞううちに厄介になっていたじゃアねえか」

 作「はい、森藏といっちゃア彼処あすこでは少しは賭博打ばくちうちの仲間じゃアい親分だが、なんてってももう年い取ってしまって、親分は耄碌もうろくしていやすから、わけえ奴等もいけえこといやすから、わし厄介やっけえになってると、金松かねまつと云う奴がいて、其奴そいつこわれた碌でもねえ行李こりを持っていて、自分の物は犢鼻褌ふんどしでも古手拭でもみんな其んなけえ置くだ、或時おれが其の行李を棚からおろしてね、明けて見ると、財布せえふ這入へえってゝ金が一分二朱と六百あったから出して使ってしまうと、其奴がいうには、此の行李の中へ入れて置いた財布の金がえ、手前てめえ取ったろうというから、己ア取りゃアしねえが只黙って使ったのだというと、此の泥坊野郎と云うから私が合点がってんしねえ、泥坊とはんだ、ういう理窟で人の事を泥坊と云うのだ、只われが金え出して使ったばかりで、黙って人の物を出して使ったって泥坊と云う理合りあい何処どこるかと、喧嘩をおっぱじめたというわけさ」

 安「矢張やはり泥坊の様だな」


八十三


 馬「親分のいうには、泥坊にちげえねえとッて己の頭ア打擲ぶんなぐって、われの様な解らねえものアねえと、親分まで共に己に泥坊の名を附けただが、盗んだじゃアねえ只無断で使ったものを泥坊なんぞという様な気の利かねえ親分じゃ仕様がねえと思って、おッぱしってしまったが仕様がねえから今じゃア馬小屋見てえなうちを持って、こう遣って、馬子になってわずか飲代のみしろを取って歩いてるんだが、ほんの命をつないでるばかりで仕様がねえのさ、賭博打の仲間へ這入る事も出来ねえから、只もう馬と首引くびっぴきだ、馬ばかり引いてるから脊骨へないらおこるかと思ってるよ、昔馴染に、小遣こづけえを少しばかりおくんなさえな」

 安「そんならてまえは風来で遊んでるのか」

 作「遊人あそびにんという訳でもねえが、馬を引いてるから、賭博をって歩く事も出来ねえのさ」

 安「少してまえに話があるから婆アを烟草でも買いに遣ってくれねえか」

 作「はアうごぜえやす、ばアさま、旦那さま烟草買ってくんろと仰しゃるから買って来て上げなよ、此の旦那はいゝんでなけりゃア気に入るめえ、唯の方ではねえ安田一角先生てえ」

 安「これ〳〵」

 作「はア宜うござえやす、立派な先生だからわりい烟草なんぞア呑まねえから、大急ぎでいゝのを買ってなせえ……あんた銭有りますかえ」

 安「さ、これを」

 作「サ婆さま是で買って来て上げな」

 安「使い賃は遣るよ」

 婆「はいかしこまりました、じきにいってまえりまする」

 とばあさんは使賃という事を聞いて悦んで、烟草を買いに出て参りました。あとは両人差向さしむかいで、

 安「てまえ馬を引いてるのが幸いだ、己は木卸きおろしあがる五助街道の間道に、藤ヶふじがやという処の明神山みょうじんやまに当時隠れているんだ」

 作「へー、あの巨大でっけえ森のある明神さまの、彼処あすこに隠れているのかえ、人の往来おうれえもねえくれえとこだから定めて不自由だんべえ、彼処は生街道なまかいどうてえので、松戸へン抜けるに余程ちけえから、夏になると魚ア車に打積ぶッつんで少しは人も通るがなんだってあんな処に居るんだえ」

 安「それには少し訳があるのだ、己も横曾根にいられんで当地へ出たのだ」

 馬「なんだか名主の惣次郎を先生が打斬ぶっきったてえ噂があるが、えゝ先生のこったから随分やりかねねえ、ったんべえ此の横着もの、そんな噂がたって居難いづらくなったもんだからおっぱしって来たんだろう」

 安「そんな事はねえが武士さむらいの果は外に致方いたしかたもなく、旨い酒も飲めないから、どうせ永い浮世に短い命、斬りり強盗は武士ぶしならいだ、今じゃア十四五人も手下が出来て、生街道に隠れていて追剥おいはぎをしているのだ」

 作「えゝ追剥を、えれえウーンおっかねえウーン、おれ剥ぐなよ」

 安「てまえなぞを剥いでも仕様がないが、汝は馬を引いてるんだから、たまには随分多分の金を持ってるよい旅人りょじんが、佐原さはら潮来いたこあたりから出て来るから、汝其の金のありそうな客を見たら、なりたけ駄賃をやすくして馬に乗せ、此処こゝは近道でございますと旨くだまかして生街道へ引張り込み、藤ヶ谷の明神山の処まで連れて来てくれ、しかし薄暗くならなくっちゃア仕事が出来ねえから、い加減に何処どこかで時を移すか、のさ〳〵歩けば自然と時が遅れるから、そうして連れて来て呉れゝば、多勢おおぜいで取巻いて金を出せといえば驚いてしまう、汝は馬をおきぱなしてなり引張ってなり逃げてしまいねえ、そうして百両金があったら其の内一割とか二割とか汝に礼をしようから、おれの仲間にならねえか」

 作「そんなら礼が二割といえば百両ありゃア二十両己にくれるのか」

 安「そうよ」

 作「うめえなア、只馬を引張って百五十文ばかりの駄賃を取って、酒が二合ににしんの二本も喰えば、あとに銭が残らねえ様な事をするよりいが、同類になって、し知れた時は首を打斬ぶっきられるのかよ」

 安「そうよ」

 作「ウーン、それだけだな、己はもうこれで五十を越してるんだから百両で二十両になるのなら、こんな首は打斬られても惜くもねえからるべえか」

 安「てまえ馬を引いておれの隠家かくれがまで来い、あの明神山の五本杉の中に一本大きなくすのきがある、其の裏の小山がある処に、少しばかり同類を集めているんだ」

 馬「じゃアのもと三峰山みつみねさんのお堂のあった処だね、よくまア彼様あんな処にいるねえ、彼処あすこは狼やうわばみが出たとこなんだから、もっとも泥坊になれば狼や蟒を怖がっていちゃア出来ねえが、そうかえ」

 一角は懐から金を取出し作藏に渡しながら、

 安「これはてまえが同類になった証拠の為、少しだが小遣銭に遣るから取って置け」

 作「え、有難ありがてえ、これは五両だね、今日は本当に思え掛けねえで五両二分になった」

 安「なぜ」

 作「不思議な事もあるものだ、今日はね、あのもさの三藏に逢ったよ、羽生村の質屋で金かしたア様が死んだって、其の白骨を高野へ納めるてえ来たが、今日は廿一日だから新高野山へおめえりをするてえので、與助を供にれて、己が先刻さっき東福寺まで送ってッたが、昔馴染だから二分くれるッて云ったが、有難うござえやす、実に今日は思え掛けねえ金儲けが出来た」

 安「其の五両を取って見ると、もう同類だから是切り藤ヶ谷へ来ずにいて、てまえの口から己の悪事を訴人しても汝は矢張やっぱり同罪だ、仮令たとえ五両でも貰って見れば同類だからう思え」

 作「己も覚悟を極めてるからには屹度きっと遣りやすよ、それはいが、あんたすぐに独りでくか、馬に乗って往かないか、歩いて往く、そうか、左様なら……あゝ其方そっちへ往ってア損だから、其の土橋どばしを渡って真直まっすぐにおいでなせえ、道い悪いから気い付けて往きなさえ、なア安田先生も剣術遣いだから、どうして剣術遣いじゃアまんまア喰えねえ、あの人は旧時もとから随分盗賊どろぼうぐれえったかも知んねえ、今己がに五両呉れたは宜いが、是を取って見れば同類に落すといったが、困ったな、あゝもう往ってしまったか、立派な男だ、婆アさまは何処どこまで烟草をえに往ったんだろう尤もらないのだ、人払ひとばれえの為に買えに遣ったんだがあんまなげえなア」

 と独言ひとりごとをいっているうしろから、

 男「おい作」

 作「え、誰だえ己を呼ばるのア誰だ」

 男「お、己だ、久しく逢わねえのう」


八十四


 作「誰だ、人が何処どこにいるのだ」

 と云いながら、方々見廻し、振返って見ると、二枚折にまいおりよしの屏風の蔭に、蛇形じゃがた単物ひとえものに紺献上の帯を神田に結び、結城平ゆうきひらの半合羽を着、わきの方に振分ふりわけの小包を置き、年頃三十ばかりの男で、色はくっきりと白く眼のぱっちりとした、鼻筋の通った、口元の締ったい男で、其の側に居るのは女房と見え、二十七八の女で、頭髪あたまは達磨返しに結び、鳴海なるみ単衣ひとえに黒繻子の帯をひっかけに締め、一杯飲んで居る夫婦づれ旅人りょじんで、

 男「作や、此方こっち這入へえんねえ」

 といいながら、葭屏風よしびょうぶを明けて出て来た男の顔を見て、

 作「イヤア兄いか、うした新吉さん珍らしいなア、久し振りだ、これは何うも珍らしい、実に思え掛けねえ」

 新「てめえ、大きな声で呶鳴どなって居たが相変らずだなア」

 作「おやお賤さん、誠にお久し振でござえやした」

 賤「おや作藏さんお前の噂は時々していたが、相変らずい機嫌だね」

 作「本当にお賤さん、見違える様になった、少しふけたね、旅をしたもんだから色が黒くなったが、思え思った新吉さんととう〳〵夫婦になって彼処あすこをおッぱしったのかえ、今まア何処どこにいるだえ」

 新「彼方此方あちこちと身の置きどころのねえ風来人間で仕方がねえが、是もみんな人に難儀を掛け、悪い事をしたむくいと思って諦めているが、何商売を仕度したくも資本もとでがないのだ、てめえまぶな仕事を安田と相談していたが、己も半口載せねえか」

 作「おめえあの事を聞いたか、是ハア困ったなア、実は銭がねえで困るから這入へえる真似しただア、だが余り這入へえたくはねえんだ」

 新「旨くいってるぜ、しかし三藏は何処どこへ往ったんだ」

 作「三藏かえ、あれはねばアさまが死んだから其の白骨を本当の紀州の高野へ納めに往くって、祠堂金しどうきんも沢山持ってる様子だ、お累さんもあゝいう死様しにようをしたのも矢張やっぱりめえら二人でした様なものだぜ」

 新「てめえ是から新高野へ馬を引いて往くのなら矢張やっぱりけえりは此処こゝを通るだろう」

 作「鰭ヶ崎の方へ廻るのだが此方こっちへ来てもい」

 新「そうか、おい作」

 作「えんだ」

 新「一寸耳を貸せ」

 作「ふーん、怖い事だな」

 新「てめえ馬を引いて先方むこうへ往って、三藏を此処こゝ迄乗せて連れて来たら、何か急に用が出来たと云って、馬をおきぱなして逃げてしまってくれねえか、しかし馬を置いて往かれちゃア三藏に逢って仕事をする邪魔になるから、引いてってくれ、其の代り金を三十両やらア」

 作「え、三十両本当に己ア金運かねうんが向いて来た、じゃア金をくんろえ、してどういう理窟だ」

 新「三藏とは一旦兄弟とまでなったが、お累が死んでからは、たげえにかたき同志の様になったのだ」

 作「敵同志だっておめえが三藏を怨むのアそりゃア兄いと無理だんべえ、成程お賤さんのめえもあるから、そういうか知んねえが、三藏を敵とおめえば無理だぞ、おめえが養子に往っても男振がいもんだから、お賤さんに見染められ、たげえに死ぬのいきるのと騒ぎ合い、お累さんを振捨てゝお賤さんとこういう事になったから、お累さんものぼせて顔が彼様あんなに腫れ出して死んでしまったのだから、かえって三藏の方でお前を怨んでいるだろうが、何もお前の方で三藏をにくみ返すという理合りあいはあんめえぜ」

 新「てめえは深い事を知らねえからそんな事をいうんだが、なんでも構わねえ、己が三藏に逢って、百両でも二百両でも無心をいって見ようと思うのだ」

 作「三藏殿どんがおめえに金を貸す縁があるかえ」

 新「貸してもい訳があるのだよ」

 作「三十両くれるなら遣附やっつけやしょう」

 新「し與助の野郎が邪魔でもしたら、てめえ打擲ぶんなぐってくれなくっちゃアいけねえぜ」

 作「與助おやじなんざアヒョロ〳〵してるから川の中へほっぽり込んでしまうがそれも矢張やっぱり金づくだがね」

 新「強請事ねだりごとをいわずに遣って呉れ、其の代り首尾よく遣って利を見た上でおめえに又礼をしよう」

 作「それじゃア三藏に貸してくれといっても貸さねえといえば礼はねえか、困ったな、じゃアあとの礼の処はあてにはならねえな」

 新「まア其様そんなものだが、多分旨くくにちげえねえ、しぐず〳〵して貸さねえなんどゝいったら、三藏與助の二人をたゝっ殺して川の中へほうり込んでしまう積りだ、己も安田の提灯持ぐれえは遣る了簡だ」

 作「お賤さん新吉さんが彼様あんな事を云うぜ」

 賤「お前度胸をおえ仕方がないよ、私も板の間稼ぎぐらいは遣るよ」

 作「アレマア彼様あんな綺麗な顔をしていながら、あんな事をいうのもみんな新吉さんが教えたんだろう、己はどうせ安田の同類にされたから、知れゝば首は打斬ぶっきられる様になってるんだから仕方がねえ、やるべえ〳〵、おゝばゞアがけえって来やアがった」

 新「それじゃア手前てめえ馬を引いて早くけ」

 作「ハイ、そんならすぐに馬ア引いて新高野へ三藏をむけえにめえりやしょう」

 と出てきました。これから新吉お賤も茶代を払って其処そこ立出たちいでました。其の内もう日はとっぷりと暮れましたが、葮簀張よしずッぱりもしまい川端のよしの繁った中へ新吉お賤は身を隠して待って居ると、むこうから三藏が作藏の馬に乗って参りました。

 作「與助さん貴方あんたもう何歳いくつになるねえ、まだわけえのう、長く奉公してるが五十を一つ二つも越したかえ」

 與「そうでねえ、もう六十に近くなったから滅切めっきり年を取って仕舞った」

 作「羽生村の旦那ちょっくら下りてお呉んなせえ」

 三「なんだ」

 作「なんでもいから」

 三「坂をあがったり下りたりするので己も余程草臥くたびれたが、馬へ乗って少し息をいたが、馬へ乗ると又矢張やっぱり腰が痛いのう」

 作「旦那誠に御無心だが、わしはね、少し用があるのを忘れて居たが、実は此の先へ往って炭俵を六俵積んで来て呉れと頼まれてるんだが、どうしても積んでかねばなんねえ事があるだ、誠にお気の毒だが此処こゝで下りて下せえな、もう此処から先はたいらな道だから歩いても造作ねえんですが」

 三「それじゃアどうでもいゝてめえが困るなら下りて歩いて往こう」

 と云いながら馬から下りる。

 作「わしは少し急ぎますから御免なせえ」

 と大急ぎで横道の林の蔭へ馬を引込ひきこみました。


八十五


 日はどっぷりと暮れ、往来もとまりますと、戸ヶ崎の小僧弁天堂の裏手の草の茂みからごそ〳〵とあしを分けながら出て来た新吉は、ものをもいわず突然いきなり與助の腰を突きましたからたまりません、與助は翻筋斗もんどりを打って、利根の枝川へどぶんと水音高くさかとんぼうを打って投げ込まれましたから、アッといって三藏が驚いているうしろから、新吉が胴金を引抜いて突然だしぬけに三藏の脇腹へ突込つきこみました、アッといって倒れる処へ乗掛り、胸先をえぐりましたが、一刀いっぽん二刀にほんでは容易に死ねません、死物狂い一生懸命に三藏は起上り、新吉のたぶさをとって引き倒す、其の内與助は年こそ取って居りまするが、田舎漢いなかもの小力こぢからもあるものでございますから、川中から這いあがって参りながら、短いのを引き抜き、

 與「此の野郎なにをしやアがる」

 と斬って掛る様子を見るよりお賤は驚き、新吉に怪我をさせまいと思い、そっうしろから出て参り、與助の髻を取って後の方へ引倒すと、何をしやアがるといいながら、手に障った石だか土のかたまりだか分りません、それを取って突然いきなりお賤の顔を打ちました。お賤は顔から火が出た様に思い「アッ」といって倒れると、し掛り斬ろうとする処へ、馬子の作藏が與助のわきから飛び出して、突然いきなり足を上げて與助を蹴りましたからたまりません、與助はウンといって倒れました。新吉は刀を取直して一刀いっとう三藏の脇腹をこじりましたから、三藏もついに其の儘息が絶えました。すると手早く三藏の懐へ手を入れ、胴巻の金を抜き取って死骸を川の中へ投げ込んで仕舞い、

 新「お賤〳〵」

 賤「アイ、アヽ痛い、どうもひどい事をしやアがった、石か何か取って、いやという程私の顔をちやアがった」

 新「手出しをするからだ、黙って見ていればいゝに」

 賤「見てればお前が殺されて仕舞ったのだよ、與助の野郎がお前のうしろから斬りに掛ったから、私が一生懸命に手伝ったのだが、もう少しでお前斬られる処だったよ」

 新「そうか、夢中でいたから、ちっとも知らなかった」

 賤「與助をよく蹴倒したのう」

 作「え、なに己だ、林の蔭に隠れていたが、危ねえ様子だから飛び出して来て、與助野郎の肋骨あばらを蹴折って仕舞った、兄い無心どころじゃねえ突然いきなりったんだな」

 新「てめえはもうけえったのかと思った」

 作「林の蔭に隠れていて、うだかと様子を見ていたのよ」

 新「誰か人は来やアしねえか、てめえ気を附けて呉れ」

 作「大丈夫でえじょうぶだ、誰も来る気遣きづけえはねえが、割合わりえゝもれえなア」

 新「てめえはよく嘘をく奴だな、三藏が高野へ納める祠堂金を持ってるというから、懐を探して見たが、金なんぞ持っていやアしねえ、ようやく紙入の中に二両か三両しかありゃアしねえ」

 作「冗談じゃアねえぜ、そんな事があるもんか」

 新「だっててめえ嘘を吐いたんだ」

 作「なに己が嘘なんぞ吐くものか、此の野郎殺して置いて其の金を取って仕舞ったにちげえねえ、そんな事をいっても駄目だ」

 新「なに本当だよ」

 作「死骸しげえはどうした」

 新「川の中へほうり込んでしまった」

 作「嘘をいえ、ふざけずに早くよこせよ、戯けるなよ」

 新「なに戯けやアしねえ」

 といわれ、作藏は少し怒気どきを含み、訛声だみごえを張上げ、

 作「手前てめえの懐を改めて見よう、己だって手伝って、あねさんを斬ろうとする與助を己が蹴殺して、罪を造っているんだ、裸体はだかになって見せろやい、出せってばやい」

 といいながら新吉に取縋とりすがる。

 新「遣るよ、遣るから待てというに、戯けるな、放せ」

 作「なんだ、人をだまして、金え出せよう」

 新「遣るから待てよ、遣るというに、お賤、その柳行李やなぎごりの中に少しばかり金が這入へえってるから出して作藏に遣んな、三藏の懐にはえんだから沢山たんとは遣れねえ、十両ばかり遣ろう」

 と気休めをいいながらすきねらってどんと作藏の腰を突くと、どぶりと用水へ落ちましたが、がば〴〵とすぐあがって参りまする処を見て、ずーんと脳を割附わりつけると、アッ、といってがば〴〵と沈みましたが、又這上りながら、

 作「斬りやアがったなア此の野郎」

 と云う声がりーんとこだまがして川に響きました。なおも這上ろうとする処を、また一つ突きましたから、仰むけにひっくりかえりましたが、又這上って来るのを無暗むやみに斬り附けましたから、馬方の作藏は是迄の悪事の報いにやついに息が止ったと見え、其の儘土手の草をつかんだなり川の中へのめり込んで仕舞いました。

 賤「お前まア恐ろしいひどい事をするねえ」

 新「此の野郎はお饒舌しゃべりをする奴だから、罪な様だが五両でも八両でも金を遣るのはついえだから切殺して仕舞ったが、もう此処こゝにぐず〳〵してはいられねえ」

 賤「私はどうもぶたれたとこが痛くってたまらないよ」

 新「んだか暗くって判然はっきり分らねえ」

 といいながらすかして見ると、石だか土塊どろだか分りませんが、はずみとはいいながらたれたあざは半面紫色に黒み掛り、れ上っていましたから、新吉がぞっとしたと申すは、丁度七年あとの七月廿一日の、お累が己をうらみ、鎌で自殺をしたの時に、蚊帳のそばへ坐って己の顔を怨めしそうににらめたかおが、実に此の通りの貌だが、今お賤が思い掛ない怪我をして、半面変相へんそうになるというのも、あくまでお累が己の身体に附纒つきまつわってたゝりをなす事ではないかと、流石さすがの悪党も怖気立こわげたち、ものをも言わず暫くは茫然ぼんやりと立って居りましたが、お賤は気が附きませんから、

 賤「お前早く人の来ないうち何処どこかへ往って泊らなくっちゃアいけない」

 といわれ、漸々よう〳〵心附き、これからお賤の手を取って松戸へ出まして、松新まつしんという宿屋へ泊り、翌日雨の降る中を立出たちいでて本郷山ほんごうやまを越し、塚前村にかゝり、観音堂に参詣を致し、はからずお賤が、実の母に出逢いまするお話は一息つきまして。


八十六


 申続きました新吉お賤は、実に仏説で申しまする因縁で、それ程の悪人でもございませんでしたが、る事す事に皆悪念が起り、人を害す様な事も度々たび〳〵になりまする。さて二人は松戸へ泊り、翌廿二日の朝立とうと致しますると、秋の空の変りやすく、朝からどんどと抜ける程降りますから立つ事が出来ませんで、ぐず〴〵して晴れ間を待っているうちに丁度午刻過ひるすぎになって雨が上りましたから、昼飯ひるはんを食べて其処を立ちましたなれども、本街道を通るのもきず持つすねでございまするから、かえって人通りのない処がよいというので、是から本郷山を抜け、塚前村へ掛りました時分は、もう日が暮れかゝり、又吹掛ふっかぶりに雨がざア〳〵と降って来ましたから、

 新「アヽ困ったもんだ」

 と云いつゝ二三町参りますとかたわらの林の処に小さい門構もんがまえうちに、ちらりと燈火あかりが見えましたから、

 新「兎も角も彼処あすこへ往って雨止あまやみをしよう」

 といいながら門の中へ這入って見ると、木連格子きつれごうしに成っている庵室で、村方の者が奉納したものか、たんで塗った提灯が幾つも掛けてあります。正面には正観世音しょうかんぜおんと書いた額が掛けてあります。

 新「お賤」

 賤「あい」

 新「こんな処に宿屋はなし、仕方がないから此の御堂おどうで少し休んで往こう、お賽銭さいせんを上げたらよかろう、坊さんがいるだろう」

 といいながら格子の間からのぞいて見ると、むこうに本尊が飾って有りまする。正観世音の像を小さいお厨子ずしの中へ入れてあるのですが、余り良い作ではありません、田舎仏師のこしらえたものでございましょう、なれ共金箔を置き直したと見え、ぴか〴〵と光って居りまする、其の前に供えたつ具足は此の頃納まったものか、まだ新しく村名むらなり附けてあり、坊さんが畠から切って来たものか黄菊きぎくに草花があがって居ります、すると鼠の単物ひとえものを着、腰衣こしごろもを着けた六十近い尼が御燈明おとうみょうけに参りましたから、

 新「少々お願いがございますが、私共わたくしどもは旅のもので此の通りの雨で難渋致しますが、どうか少々の間雨止あまやみ仕度したいと存じますが、お邪魔でも此の軒下を拝借願いいものでございまする」

 尼「はい、御参詣のお方でございますかえ」

 新「いえ通り掛りの者ですが、此の雨に降りこめられました、もっと有験あらたかな観音様だと聞いておりますからお参りもする積りでございまする」

 尼「吹掛ふっかりですから其処そこに立ってお出でゞはさぞお困りでございましょう、すぐ前に井戸もありまするから足を洗って此方こちらあがって、お茶でも飲みながら雨止をなすっていらっしゃいまし」

 新「有難う存じます、えお賤、金か何か遣ればいからあがんねえ、じゃア御免なさい、誠に有難う存じます」

 尼「其処そこたらいもありますから、小さい方を持って往って足を洗ってお出でなさい」

 新「へえ」

 とれから足を洗い、

 新「誠にお蔭様で有難うございます」

 と上りましたが、新吉もお賤もあつかましいから、囲炉裡いろりの側へ参り、

 新「お蔭様で助かりました」

 賤「誠にどうもとんだ御厄介さまでございました」

 尼「おや〳〵御夫婦づれで旅をなさいますの、藤心村まで出るとお茶漬屋ぐらいはありますが、此の辺には宿屋がございませんから定めてお困りでしょう、遠慮なしにもっと囲炉裡の側へお寄んなさい」

 新吉は何程か金子を紙に包んで尼の前へ差出し、

 新「是は誠に少しばかりでございますが、お蔭で助かりましたから、お茶代ではありませんが、どうかこれで観音様へお経でもお上げなすって下さいまし」

 尼「いえ〳〵それは決して戴きません、先刻さっき貴方あんたは本堂へお賽銭をお上げなすったから、それでもう沢山でございます、御参詣の方はみんなお馴染になって、他村たそんのお方が来てもあがり込んで、私の様なばゞあでも久しく話をして入らっしゃいますのですから御心配なくゆっくりとお休みなすって入らっしゃいまし」

 と云われ、新吉はお賤の顔を見ながら小声にて、

 新「だって、きまりがりいな、これはほんの私の心許りでございますから、貴方あとでお茶請ちゃうけでも買って下さいまし」

 尼「いえ私は喰物たべものは少しも欲しくはありませんお賽銭をあげたからもうお金などはうございますよ」

 新「そんな事をいわずに何卒どうか取って置いて下さいまし」

 尼「そうでございますか、又気になすっては悪いし、折角の思召おぼしめしですから戴いて置きましょう、日が暮れると雨の降る時は寒うございます、じきに本郷山が側ですから山冷やまびえがしますから、もっと其の麁朶そだをおべなさいまし」

 新「へい有難う存じます」

 といいながら松葉や麁朶を焚べ、ちょろ〳〵と火が移り、燃え上りました光で、お賤が尼の顔を熟々つく〴〵見ていましたが、

 賤「おやお前はおっかアじゃないか」


八十七


 尼「はい、どなたえ」

 賤「あれまアうもお母アだよ、まア何うしてお前尼におなりだか知らないが、本当に見違えて仕舞ったよ、十三年あとに深川の櫓下の花屋へ置去おきざりにしてかれた娘のお賤だよ」

 と云われて尼はびっくりし、

 尼「えゝ、まアどうも、誠に面目次第もない、私も先刻さっきから見た様な人だと思ってたが、顔貌かおかたちが違ったから黙ってたが、どうも実に私は親子と名乗ってお前に逢われた義理じゃアありませんが、頭髪あたまってんな身の上になったから逢われますものゝ、定めて不実の親だと腹も立ちましょうが、どうぞ堪忍して下さいあやまります」

 賤「それでも能く後悔してね」

 尼「此の通りの姿になって、まア此の庵室に這入って、今では毎日お経を上げたあとでは観音様へ向って、若い時分の悪事を懺悔してお詫び申していますけれども、中々罪は消えませんが、頭髪あたまって衣を着たお蔭で、村のしゅがお比丘びく様とか尼様とか云って、種々いろ〳〵喰物たべものを持って来て呉れるので、うやらうやら命をつないでいるというだけのことで、此の頃は漸々よう〳〵心附いて、十六の時置去にしたお賤はどうしたかと案じていても、親子でありながら訪ねる事も出来ないというのはみんなばちと思って後悔しているのだよ」

 賤「どうもね本当に、それでも能くまア法衣ころもを着る了簡になったね」

 といいながら、新吉に向い、

 賤「お前さんにも話をした深川櫓下の花屋の、それね……お前さんの様な親子の情合じょうあいのない人はないけれ共能くまア後悔してお比丘におなりだね」

 尼「比丘なんぞになりい事はないが、是もみんな私の作った悪事のばちで、世話のして呉れもなくなり、段々る年で病み煩いでもした時に看病人もない始末、あゝうしたらかろう、あゝ是もみんな罰ではないかと身体のきかない時には、ほんに其の後悔というものが出て来るものでのうお賤、して此のお方はお前の良人おつれあいかえ」

 賤「あゝ」

 新「いつでも此女これから話は聞いていました、一人お母様っかさんがあるけれ共生死いきしにが分らない、しかし丈夫な人で、若い気象だったから達者でいるかとお噂は能くしますが、私は新吉と云う不調法ものでございますが、今から何分幾久しゅう願います」

 尼「此のお賤は私の方では娘とも云えません、又親とは思いますまい、憎くってねえ、あゝ実にお前に会うのもみんな神仏かみほとけのお叱りだと思うと、身を切られる程つらいと云う事を此の頃始めて覚えました、云わない事は解りますまいが、私は此の頃は誰が来ても身の懺悔をして若い時の悪事の話を致しますと、遊びに来る老爺おじいさんや老婆おばあさんも、おゝ〳〵そうだのう、悪い事は出来ないものだと云って、又其の人達が若い時分の罪を懺悔して後悔なさる事があるから、私が懺悔をしますと人さまもそれについて後悔して下されば私の身の為にもなろうと思って、逢う人ごとに私の若い時分の悪事を懺悔してお話を致します、私も若い時分の放蕩と云うものは、お賤は知りませんが中々一通りじゃアありませんでしたよ」

 新「おっかさん、なんですか、お前さんは何処どこの出のお方でございます、多分江戸子えどっこでしょう」

 尼「いえ私の産れは下総の古河こがの土井さまの藩中の娘で、親父おやじは百二十石のたかを戴いた柴田勘六しばたかんろくと申して、少々ばかりはい役を勤めた事もある身分でございましたからお嬢様育ちで居たのですが、身性みじょうが悪うございまして、私が十六の時家来の宇田金五郎うだきんごろうという者と若気の至りで私通いたずらをし、金五郎に連れられて実家を逃出し江戸へ参り、本郷菊坂に世帯しょたいを持って居りましたが丁度あの午年うまどしの大火事のあった時、宝暦ほうれき十二年でございましたかね、其の時私は十七で子供を産んだのですが、十七や十八でこしらえる位だから碌なものではありません、其の翌年金五郎は傷寒しょうかんわずらってついなくなりましたが、年端としはもゆかぬに亭主には死別しにわかれ、子持ではどうする事も出来ませんのさ、其の子供には名を甚藏と附けましたが、なんあやかったのか肩の処に黒い毛が生えて、気味の悪いあざがあって、私も若い時分の事だから気色が悪く、ことに亭主に死なれて喰い方にも困るから、菊坂下の豆腐屋の水船みずぶねの上へ捨児すてごにして、私はぐ上総の東金へ往って料理茶屋の働き女に雇われて居る内に、船頭の長八ちょうはちという者といゝ交情なかとなって、また其処そこをかけ出して出るような事に成って、深川相川町あいかわちょう島屋しまやと云う船宿を頼み、亭主は船頭をし、私は客の相手をしてわずかな御祝儀を貰ってうやらうやらやって居るうちに、私は亭主運がないと見え、長八がまた不図ふと煩いついたのが原因もとで、是も又死別れ、どうする事も出事ないから心配して居ると、島屋のねえさんのいうには、とてもお前には辛抱は出事まいが、思い切って堅気にならないかと云われ、小日向の方のお旗下の奥様がお塩梅が悪いので、中働なかばたらきに住み込んだ処が、これでも若い時分は此様こんな汚ないばゞアでもなかったから、殿様のお手が附いて、わずかうちに出来たのは此のお賤」


八十八


 尼「此娘これも世が世ならばお旗下のお嬢さまといわれる身の上だが、運の悪いというものは仕方がないもので、此のお賤が二歳ふたつの時、其のお屋敷がじきに改易に成ってしまい、仕様がないから深川櫓下の花屋へ此のを頼んで芸妓げいしゃに出して、私の喰い物にしようと云う了簡でしたが、又私が網打場の船頭の喜太郎きたろうという者と私通いたずらをして、船で房州ぼうしゅう天津あまつへ逃げましたがね、それからというものは悪い事だらけさ、手こそおろして殺さないでも口先で人を殺すような事が度々たび〳〵で、私の為に身を投げたり首をくゝって死んだ男も二三人あるから、みんな其のばちで今う遣って居るのも、の時に斯ういう事をしたから其の報いだと諦め、漸々よう〳〵改心をしましたのさ、仕方がないから頭髪あたまそりこかし破れ衣を古着屋で買ってね、方々托鉢して歩いて居るうち、此の観音様のお堂には留守居がないからお比丘さん這入って居ないかと村の衆に頼まれるから、仮名附のお経を買って心経しんぎょうから始め、どうやら斯うやら今では観音経ぐらいは読めるように成ったが、此の節は若い時分の罪滅つみほろぼしと思い、自分に余計な物でもあると困る人にやって仕舞うくらいだから、何も物は欲しくありません、村の衆が時々畠の物なぞを提げて来てくれるから、もう別にうまい物を喰度たべたいという気もなし、只観音様へ向ってお詫事をして居るせえか、胸のうち雲霧くもきりが晴れて善におもむいたものだから、皆さんがお比丘様〳〵と云って呉れ、此の観音様も段々繁昌して参り、お比丘さんにおきゅうえて貰えのおまじないをして貰いたいのといって頼みに来るから、私も何も知らないが、若い時分から疝気せんきなら何処どこいとか歯の痛いのには此処こゝいとか聞いてるから据えて遣ると、むこうから名を附けて観音様の御夢想ごむそうだなぞと云って、今ではお前さん何不足なくう遣って居ますが今日はからずお前達に逢って、私はお、観音様の持って入らっしゃるはすつぼみで脊中を打たれる様に思いますよ、まだ二人とも若い身の上だから、是からき悪い事はなさらないように何卒どうぞ気をお附けなさい、年をると屹度きっとむくって参ります、輪回応報りんねおうほうという事はないではありませんよ」

 と云われ新吉は打萎うちしおれ溜息をきながらお賤に向い、

 新「うだえお賤」

 賤「私も始めて聞いたよ、そんならおっかさんお前がお屋敷へ奉公にあがったら、殿様のお手が附いて私が出来たといえば、其のお屋敷が改易にさえならなければ私はお嬢様、お前は愛妾めかけとかんとか云われて居るのだね」

 尼「お前はお嬢様に違いないが、私は追出されてでも仕舞う位のおかしな訳でね」

 新「へい其の小日向の旗下とは何処どこだえ」

 尼「はい、服部坂上の深見新左衞門様というお旗下でございます」

 といわれて新吉はびっくりし、

 新「エヽ、そんなら此のお賤は其の新左衞門と云う人のたねだね」

 尼「左様」

 新「そうか」

 と口ではいえどぞっと身の毛がよだつ程恐ろしく思いましたは、八年ぜん門番の勘藏が死際いまわに、我が身の上の物語を聞けば、己は深見新左衞門の次男にて、深見家改易のまえに妾が這入り、間もなく、其の妾のお熊というものゝ腹へやどしたは女の子それを産落すとまもなく家が改易に成ったと聞いて居たが、して見ればお賤は腹違いの兄弟であったか、今迄知らずに夫婦に成って、もう今年で足掛七年、あゝ飛んだ事をしたと身体に油の如き汗を流し、ことには又其の本郷菊坂下へ捨児すてごにしたというのは、七年以前、お賤が鉄砲にて殺した土手の甚藏に違いない、右の二の腕にあざがあり、それにべったり黒い毛が生えて居たるを問いし時、我は本郷菊坂へ捨児にされたものである、と私への話し、さては聖天山へ連れ出して殺した甚藏は矢張やっぱりお賤の為には血統ちすじの兄であったか、実に因縁の深い事、アヽお累が自害ののち此のお賤が又う云う変相になるというのも、九ヶ年ぜん狂死なしたる豊志賀のたゝりなるか、成程悪い事は出来ぬもの、己は畜生ちくしょう同様兄弟同志で夫婦に成り、此の年月としつき互に連れ添って居たは、あさましい事だと思うと総毛立ちましたから、新吉は物をも云わず小さくかたまって坐り、只ポロ〳〵涙を落して居りました。


八十九


 尼「とんだ面白くもない話をお聞かせ申したが、まアゆっくりお休みなさい」

 新「実に貴方の話を聞いて、わっちも若い時分にした悪事を考えますと身の毛がよだちますよ」

 尼「お前さん何をいうのです、若い時分などと云ってまだ若い盛りじゃアないか、是から罪を作らん様にするのだ」

 新「お母様っかさんわたししんもって改心して見ると生きては居られない程辛いから、私を貴方の弟子にして下さいな、ほかに往きどこもないから、お前さんの側へ置いて下されば、本堂や墓場の掃除でもして罪滅しをして一生を送りいので、段々のお話で私は悉皆すっかり精神たましいを洗い、誠の人になりましたから、どうか私をお弟子にして下さいまし」

 尼「よくね、私の懴悔話を聞いて、一図いちずにアヽ悪い事をしたと云って、お前さんのような事を仰しゃるお方も有りますが、其の心持が永く続かないものですから、そんな事を云わなくっても、只アヽ悪い事をしたと思えば、其所そこが善いので」

 新「お賤、お前とは不思義の悪縁と知らず、是まで夫婦になって居たけれ共、表向盃をしたという訳でもないから、夫婦の縁も今日限りとし、己は頭髪あたまって、お前のおっかさんだが、己はお母さんとは思わない、己を改心させてくれた導きの師匠と思い、此のお比丘さんにつかえて、生涯出家をげる心に成ったから、もう己を亭主と思って呉れるな、己もまたお前を女房とは思わねえから、何卒どうかそう思って呉れ」

 賤「おい何をいうんだ、極りを云ってるよ、話を聞いた時には一図に悪い事をしたと思うが、少しつとじきに忘れて仕舞うもの、一寸精進をしても、七日仕ようと思っても三日も経つともう宜かろうとべるのが当前あたりまえじゃアないか」

 新「今迄の魂のよごれたのを悉皆すっかり洗って本心になったのだから、もう己のそばへ寄って呉れるな」

 賤「おや新吉さん何をいうのだよお前どうしたんだえ」

 新「おめえはまア本当に………どうして羽生村なんぞへ来たんだなア」

 賤「新吉さん、おまえ何をいうのだ、来たって、あゝいう訳で来たんじゃアないか、それがうしたんだえ」

 新「おめえは何も解らねえのだ、アヽいやだ、ふつ〳〵厭だ、どうぞ後生だから己の側へ寄ってくんなさんな」

 といわれてお賤は少しムッとした顔付になり、

 賤「あゝ厭ならおよしなさい、だが私もね、お前と二人で悪い事を仕度したくもないが、喰い方に困るものだから一緒にしたが、昨日きのう私がんな怪我をして、恐ろしい顔になったもんだから、ほかの女と乗り替える了簡で、旨くごまかして、私を此寺こゝ押附おっつけ、お前はそんな事をいって逃げる心だろう」

 新「決してそういう訳じゃアないが、おまえどうして女に生れたんだなア」

 賤「何を無理な事をいうの、女に生れたって、気違じみ切って居るよ」

 新「お前に口を利かれても総毛立つよ」

 尼「喧嘩をしてはいけません、私もお賤の為には親だから死水しにみずを取って貰いいが親子でありながらそうも云われず、又お賤も私の死水を取る気はありますまい」

 新「まだ此のお賤は色気がある、此畜生奴こんちきしょうめ、本当にお前や己は、尻尾しっぽが生えて四つん這になってわんの中へ面ア突込つっこんで、さかなの骨でもかじる様な因果に二人とも生れたのだから、お賤手前てめえも本当にお経でも覚えて、観音さまへ其の身の罪を詫る為に尼に成り、衣を着て、一文ずつ貰って歩く気になんな、今更外に仕方がないからよ」

 賤「なんだね厭だよ、そんな事が出来るものか」

 新「そう側へ寄って呉れるなよ、どうか私の頭髪あたまって下さい」

 尼「まア〳〵三四日此寺こゝに泊っておいでなさい、又心の変るものだから、互に喧嘩をしないで、私はお経をあげに往ってくるから、少し待っておいでなさい」

 新「私も一緒に参りましょう」

 賤「おい新吉さんお前本当にどうしたんだえ、私はうしてもお前のそばは離れないよ」

 新吉はもう誠に仏心ぶっしんと成りまして、

 新「お前はまだ色気の有る人間だ、己はしんに改心する気に成った」

 賤「本当にお前どうしたんだよ」

 と云いながら取りすがるのを、新吉は突放つきはなし、

 新「此ん畜生奴、己の側へ来ると蹴飛すぞ」

 といわれお賤は腹の中にて、私の顔貌かおかたちんなに成ったものだから捨てゝ逃げるのだと思うから油断を致しませんで、此寺こゝに四五日居りまするうちに、因果のむくいは恐ろしいもので、惣右衞門の忰惣吉が此の庵室を尋ねて参るという処から、新吉はもうこらえ兼ねて、草苅鎌を以て自殺致しますという、新吉改心の端緒いとぐちでございます。


九十


 て申し続きました深見新吉は、お賤を連れて足かけ五年間の旅中たびちゅう悪行あくぎょうでございまする、不図ふと下総の塚前村と申しまする処の、観音堂の庵室に足をとめる事に成りました。是は藤心村の観音寺という真言寺しんごんでらもちでございまして、一切の事は観音寺で引受けて致しまする。村の取附とりつきにある観音堂で、霊験れいげん顕著あらたかというので信心を致しまする者があって種々いろ〳〵の物を納めまするが、堂守どうもりを置くと種々の悪い事をしていなくなり、村方のものも困って居る処で、通り掛った尼は身性みじょうも善いという処から、これを堂守に頼んで置きました。是へ新吉お賤が泊りましたので、比丘尼びくに前名ぜんみょうを熊と申す女に似気にげない放蕩無頼を致しました悪婆あくばでございまするが、今はもう改心致しまして、頭髪あたまり落し、鼠の着物に腰衣を着け、観音様のお堂守をして居る程の善心に成りまして、新吉お賤に向って、昔の懴悔話をして聴かせると、新吉が身の毛のよだつ程驚きましたは、門番の勘藏の遺言に、お前は小日向服部坂上の深見新左衞門という御旗下の次男だが、生れると間もなくお家改易になったから、私が抱いて下谷大門町へ立退たちのいて育てたのだが、お家改易の時お熊という妾があって、其の腹へ出来たは女という事を物語ったが、そんなら七ヶ年以来このかた夫婦の如く暮して来たお賤は、我が為には異腹はらちがいいもとであったかと、総身そうしんからつめたい汗を流して、新吉が、あゝ悪い事をしたとしんもって改心致しました。人は三十歳位に成りませんければ、身の立たないものでございまする。お賤は二十八、新吉は三十になり、悪い事はこと〴〵く仕尽した奴だけあって、善にも早く立帰りまして、出家をげ、尼さまの弟子と思って下さい、夫婦の縁は是限りと思って呉れお賤てめえも能く考えて見ろ、今までの悪業あくごう罪障消滅つみほろぼしの為に頭を剃りこぼって、の様な辛苦修行でもし、カン〳〵坊主に成って今迄の罪をほろぼさなくっちゃアく処へも往かれねえから、己の事は諦めて呉れとはいいましたが、汝は己の真実の妹だとはいい兼て居り、尼が本堂へ往けば、お熊比丘尼のあとに附いて参り、墓場へ往けば墓場へ附いて往く、ときが有ればお供を致しましょうと出て参り、兎角にお賤のそばへ寄るを嫌いますから、お賤は腹の中にて、思いがけない怪我をして半面変相になり、んな恐ろしいかおに成ったから、新吉さんは私を嫌い、大方母親おふくろが此の庵主に成っているから、私を此処こゝへ置去りにして逃げる心ではないかと、まだ色気がありますから愚痴ばかりいって苦情が絶えません。新吉の能く働きまする事というものは、朝は暗い内から起きて、墓場の掃除をしたり、門前を掃いたり、畠へ往って花を切って参って供えたり、遠い処まで餅菓子を買いに往って本堂へ供えたり、お斎が有るとお比丘さんの供をして参り、仮名振の心経や観音経を買って来て覚えようとして居りますのを見て、

 尼「誠に新吉さんは感心な事では有るが、一時いちじに思い詰めた心はまたほごれるもの、まア〳〵気永にしているがい、只悪い事をしたと思えばまだお前なんぞは若いから罪滅しは幾らも出来ましょう」

 と優しくいわれるだけ身に応えまする。ちょうど七月二十一日の事でございまする、新吉は表の草を刈って居り、お賤は台所で働いて居りまする処へ這入って参りましたのは、十二三になる可愛らしい白色いろじろなお小僧さんで、名を宗觀と申して観音寺に居りまする、此の小坊主を案内して来ましたは音助おとすけという寺男で、二人づれで這入って参り、

 音「御免なせえ」

 新「おいでなさい、観音寺様でございまするか」

 音「かみ繁右衞門しげえもん殿どんの宅で二十三回忌の法事があるんで、おらア旦那様も往くんだが、うか尼さんにもというのでむけえにめえったのだ」

 新「今尼さんはわきのお斎にばれて往ったから、帰ったらそう云いましょう」

 音「能く掃除仕やすねえ、墓の間の草ア取って、まてえで向うへ出ようとする時にゃアよく向脛むこうずねッつけ、とびけえるようにいてえもんだが、わけえに能く掃除しなさるのう」

 新「お小僧さんはお小さいに能く出家を成さいましたね、お幾歳いくつでございまする」

 宗「はい十二に成ります」


九十一


 新「十二に、善いお小僧さんだね、十一二位から頭髪あたまって出家になるのも仏の結縁けちえんが深いので、誠に善い御因縁で、通常なみの人間で居ると悪い事ばかりするのだが、う遣って小さい内から寺へ這入ってれば、悪い事をしても高が知れてるが、お父様とっさんやおっかさんも御承知で出家なすったのですか」

 宗「そうじゃアありません、よんどころなく坊さんに成りました」

 新「拠なく、それじゃアおとっさんもお母さんも、お前さんの小さいうちに死んで仕舞って、身寄頼りもなく、世話の仕手もないのでお寺へ這入ったという事もありまするが、そうですか」

 音「なにそういう訳じゃアなえが、此のまア宗觀様ぐらえ憫然かわえそうな人はねえだ」

 新「じゃアお父さんやお母さんは無いのでございますか」

 宗「はい、親父おやじは七年前に死にました」

 といいながらメソ〳〵泣出しました。

 音「泣かねえがえと云うに、いつでも父様とっさま母様かゝさまの事を聞かれると宗觀さんすぐに泣き出すだ、親孝行な事だが、出家になるのは其処そこを諦める為だから泣くなと和尚様がよくいわっしゃるが、矢張やっぱじきに泣くだが、しかし泣くも無理はねえだ」

 新「へえ、それはういう因縁に成って居りますのです」

 音「ねえ宗觀さん、お前の父様は早く死んだっけ」

 宗「七年前の八月死にました」

 音「それから此の人の兄様あにさんが跡をとって村の名主役を勤めて居ると、其処そこ嫁子よめっこ這入へえってんともハヤ云い様のなえ程心も器量もい嫁子だったそうだが、其所そこに安田八角か、え、一角とか云う剣術つけえが居て其の嫁子に惚れた処が、思う様にならねえもんだから、剣術遣の一角が恋の遺恨でもってからに此の人の兄さんをぶっ斬って逃げたとよ、其奴そいつに同類が一人有って、んとか云ったのう、ウン富五郎か、其の野郎が共謀ぐるになって、殺したのだ、すると此の人のうちの嫁子が仮令たとえんでも亭主のかたきたねえでは置かねえって、お武家さむれえさんの娘だけにきかねえ、なんでも仇討かたきぶちをするって心にもねえ愛想づかしをして、羽生村から離縁状を取り、縁切に成って出て、敵の富五郎をだまして同類の様子を聴いたら、一角は横堀の阿弥陀堂のうしろの林の中へ来ているというから、亭主のかたきちぶっ切るべえと思って林の中へ這入へえったが、先方むこうんてッても剣術の先生だ女ぐれえに切られる事はねえから、憫然かわいそうに其の剣術遣えが、此の人の姉様あねさまをひどくぶっ切って逃げたとよ、だから口惜しくってなんねえ、子心にも兄さんやあねさんの敵がちてえッて心易い相撲取が有るんだ…風車か…え…花車、そうかそれが、力量ちからアえれえから其の相撲取をたのむより仕様がねえと、母親おふくろは年いってるが、此の人をつれて江戸へくべえと出て来るみちで、小金原こがねっぱらの観音堂で以てからに塩梅あんべえが悪くなったから、種々いろ〳〵介抱けえほうして、此の人が薬いえに往ったあとで母親さんを泥坊がくびり殺し、路銀をって逃げた跡へ、此の人がけえってみると、母様かゝさまのどを締められておっんでいたもんだから、ワア〳〵なえてる処へおらア旦那が通り掛り、飛んだことだが、みんな因縁だ、泣くなと、あにさんと云いあねさんと云いかゝさままでもそういうしにざまをするというのは約束事だから、敵討かたきうちなぞを仕様といわねえで兎も角もおらア弟子に成ってとっさまや母さまや兄さん姉さまの追善供養をともらったがかろうと勧めて、坊主になれといってもならねえだから、和尚様も段々可愛がって、気永に遣ったもんだから、ついには坊様になるべえとッてようやく去年の二月頭をおっったのさ」

 新「ヘエ、そうでございますか、んですか、此のお小僧さんのおうち何方どちらでございますと」

 音「え岡田ごおりか……岡田郡羽生村という処だ」

 新「え、羽生村、へえ其の羽生村でとっさんはなんというお方でございます」

 音「羽生村の名主役をした惣右衞門と云う人の子の、惣吉さまというのだ」

 と云われ新吉は大きに驚いた様子にて、

 新「えゝ、そうでございますか、是はどうも思い掛けねえ事で」

 音「なんだ、おめえさん知ってるのか」


九十二


 新「なに知って居やア仕ませんがね、私も方々旅をしたものだから、何処どこの村方にはなんという名主があるかぐらいは知って居ます、惣右衞門さんには、水街道辺で一二度お目に掛った事がございますが、それはまアおいとしい事でございましたな」

 というものゝ、音助の話を聞くたびに新吉が身の毛のよだつ程辛いのは、丁度今年で七年前、忘れもしねえ八月廿一日の雨のに、お賤が此の人の親惣右衞門の妾に成って居たのを、己と密通し、あまつさえ病中にくびり殺し、病死のていで葬りはしたなれ共、様子をけどった甚藏は捨てゝは置かれねえとお賤が鉄砲で打殺うちころしたのだが土手の甚藏は三十四年以前にお熊が捨児にした総領の甚藏でお賤が為には胤違たねちがいの現在の兄を、女の身として鉄砲で打殺すとは、敵同士の寄合、これも皆因縁だ、此の惣吉殿のいう事を聞けば聞く程脊筋へ白刄しらはを当てられるよりなお辛い、アヽ悪い事は出来ないものだと、再び油の様な汗を流して、暫くは草刈鎌を手に持ったなり黙然もくねんとして居りました。

 音「あんた、どうしたアだ、塩梅あんべえでもわりいか、ひどく顔色がくねえぜ」

 新「ヘエ、なアに私はまだ種々いろ〳〵罪があって出家をいと思って、此の庵室に参って居りまするが、此のお小僧さんの様に年もいかないで出家をなさるお方を見ると、本当に羨ましくなって成りませんから、私も早く出家になろうと思って、尼さんに頼んでも、まだ罪障つみが有ると見えて出家にさせて呉れませんから、う遣って毎日無縁の墓を掃除すると功徳になると思って居りまするが、今日は陽気の為か苦患くげんでございまして、酷く気色が悪いようで」

 音「お前さんの鎌はえらく錆びて居やすね、げねえのかえ」

 新「まだ研ぎようを本当に知りませんが、此間こないだお百姓が来た時聞いて教わったばかりでまだ研がないので」

 音「おらア一つ鎌をもうけたが、是を見な、古い鎌だがきてえいと見えて、研げば研ぐ程よく切れるだ、全体ぜんてえ此の鎌はね惣吉どんの村に三藏という質屋があるとよ、其家そこが死絶えて仕舞ったから、家は取毀とりこわして仕舞ったのだ、するとおらア友達が羽生村に居て、此方こっちへ来たときに貰っただアが、われ使って見ねえかく切れるだが」

 と云いながら差出す。

 新「成程是はい、切れそうだが大層古い鎌ですね」

 と云いながら取り上げて見ると、の処に山形に三の字の焼印がありまするから驚いて、

 新「これは羽生村から出たのですと」

 音「そうさ羽生村の三藏と云う人が持って居た鎌だ」

 と云われた時、新吉はきもに応えてびっくり致し、草刈鎌を握り詰め、あゝ丁度今年で九ヶ年以前、累ヶ淵でおひさを此の鎌で殺し、つゞいてお累は此の鎌で自殺し、廻り廻って今また我手へ此の鎌が来るとは、あゝ神仏かみほとけわしの様な悪人をなに助けて置こうぞ、此の鎌で自殺しろと云わぬばかりのこらしめかあゝ恐ろしい事だと思い詰めて居りましたが、

 新「お賤一寸ねえ、お賤一寸来ねえ」

 賤「あい、んだよ、今往くよ」

 と此の頃疎々うと〳〵しくされて居た新吉に呼ばれた事でございますから、心嬉しくずか〳〵と出て来ました。

 新「お賤、此処こゝにおいでなさるお小僧さんの顔をてめえ見覚えて居るか」

 と云われお賤はけゞんな顔をしながら、

 賤「そう云われて見ると此のお小僧さんは見た様だがんだか薩張さっぱり解らない」

 新「羽生村の惣右衞門さんのお子で、惣吉さんといって七歳なゝつ八歳やッつだったろう」

 賤「おやあの惣吉さま

 新「此の鎌は三藏どんから出たのだが、てめえのめ〳〵と知らずに居やアがる」

 と云いながら突然いきなりお賤のたぶさって引倒す。

 賤「あれー、お前何をするんだ」

 というも構わず手元へ引寄せ、お賤の咽喉のどぶえへ鎌を当てプツリと刺し貫きましたからたまりません、お賤は悲鳴を揚げて七顛八倒の苦しみ、宗觀と音助はびっくりし、

 音「おめえ気でも違ったのか、おっかねえ人だ、誰か来て呉れやー」

 と騒いで居る処へお熊比丘尼が帰って参り、此のていを見て同じく驚きまして、

 尼「お前は此間こないだから様子がおかしいと思ってた、変な事ばかりいって、少したじれた様子だが、んだってとがもないお賤を此の鎌で殺すと云う了簡になったのだねえ、しっかりしないじゃいけないよ」


九十三


 新「いえ〳〵決して気は違いません、正気でございますが、お比丘さん、お賤もわっちう遣って居られない訳があるのでございます、お賤てめえは己を本当の亭主と思ってるが、汝は定めて口惜しいと思うだろうが、汝一人は殺さねえ、汝を殺して置き、己も死なねばならぬ訳があるんだ、汝は知るめえが、あゝ悪い事は出来ねえものだ、此の庵室へ来た時にはお前さんの懴悔話を聞くとわけえ時に小日向服部坂上の深見という旗下へ奉公して、殿の手がついて出来たのがお賤だと仰しゃったが、わたしも其の深見新左衞門の次男に生れ、小さい時に家は改易と成ったので町家ちょうかで育ったもの、腹は違えどたねは一つ、自分の妹とも知らないで七年跡から互に深く成った畜生同様の両人ふたり、此の宗觀さんのお父様とっさんは羽生村の名主役で惣右衞門というお方でしたが、お賤を深川から見受けして別にうちを持たせ楽に暮させてお置きなすったものを私は悪い事をするのみならず、申すも恐ろしい事だが、惣右衞門さんをお賤と私とでくびり殺したのでございます、さ、う申したらさぞお驚きでございましょう、誰も知った者はありません、病死の積りで葬って仕舞ったが、人は知らずとも此の新吉とお賤の心にはようく知って居りまする、畜生のような兄弟がうやって罪滅しの為夫婦の縁を切って、出家を遂げようと思いました処へ宗觀さんがおいでなすって、これ〳〵と話を聞いて見ればとても生きてはられません、此の鎌は女房のお累が自害をし、わっちが人をあやめた草苅鎌だが、廻り廻ってわっちの手へ来たのは此の鎌で死ねという神仏かみほとけこらしめでございまするから、其のいましめを背かないで自害致しまする、私共わたくしども夫婦のものは、あなたの親の敵でございます、さぞにくい奴と思召おぼしめしましょうから何卒どうぞ此の鎌でズタ〳〵に斬って下さいまし、お詫びのこと申し上げますが、おまいさんのあにさんあねさんの敵と尋ねる剣術遣の安田一角は、五助街道の藤ヶ谷の明神山に隠れて居るという事は、妙な訳で戸ヶ崎の葮簀張よしずッぱりで聞いたのですが、敵を討ちたければ、其の相撲取を頼み、其処そこへ往って敵をお討ちなさい、安田一角が他の者へ話しているのをわっちそばで聴いて居たから事実たねを知ってるのでございます、お賤、てまえと己が兄弟ということを知らないで畜生同様夫婦に成って、永い間悪い事をしたが、もう命の納め時だ、己も今すぐあとから往くよ、お賤宗觀さんにお詫を申し上げな」

 賤「あい〳〵」

 と血に染ったお賤は聴くごとにそうであったかと善に帰って、よう〳〵と血だらけの手を合せ、苦しき息の下から、

 賤「惣吉さん誠に済まない事をしました、堪忍して下さいまし、新吉さん早く惣吉さんの手に掛って死度しにたい、あゝ、おっかさん堪忍して下さい」

 と苦しいから早く自殺しようと鎌の柄に取りすがるを新吉は振り払って、鎌を取直し、わが左の腹へグッと突き立て、つかを引いて腹を掻切かききり、夫婦とも息は絶々たえ〴〵に成りました時に、宗觀は、

 宗「あゝ、おとっさんを殺したのはお前たち二人とは知らなかったが、思い掛けなくお父さんの敵が知れると云うのは不思議な事、またあにさんやあねさんを殺した安田一角の隠れ家を知らせて下され、んな嬉しい事はありませんから決してにくいとは思いません、早く苦痛のないようにして上げい」

 と云いながらうしろをふりかえると、音助はブル〳〵して腰も立たないように成って居ました。

 宗「おとっさんや兄さん姉さんの敵は知れたが、小金原の観音堂でおっかさんを殺した敵はいまだに分らないが、悪い事をする奴の末始終は皆ういう事に成りましょう」

 というのを最前から聞いていましたお熊比丘は、袖もて涙をぬぐいながら宗觀の前へ来て、

 尼「誠に思い掛けない、宗觀さんまいさんかえ」

 宗「へえ」

 尼「忘れもしない三年跡の七月小金原の観音堂でおまいさんのお母さんをくびり殺し、百二十両と云う金を取ったは此のお熊比丘尼でございますよ」

 宗「エヽこれは」

 と宗觀も音助もびっくり致しました。絶え〴〵に成っていました新吉はのりに染った手を突き、耳をたって聞いております。

 尼「私も種々いろ〳〵悪い事をした揚句、一度出家はしたが路銀に困っている処へ通り合せた親子連の旅人りょじん小金原の観音堂で病に苦しんで居る様子だから、此の宗觀さんをだまして薬を買いに遣った跡で、お母様ふくろさん縊殺くびりころしたは此のお熊、私はお前さんのお母様っかさんの敵だから私の首を斬って下さい」

 と新吉が持っていました鎌を取って、お熊比丘尼は喉を掻切って相果てました。其の内村の者も参り、観音寺の和尚様も来て、何しろすてては置かれないと早速此のよしを名主から代官へ訴え検死済の上、三人の死骸は観音堂のわきへ穴を掘って埋め、大きな墓標はかじるしを立てました。是が今世に残っておりまする因果塚で、此の血に染った鎌は藤心村の観音寺に納まりました。さて宗觀は敵の行方が知れた処から、還俗げんぞくして花車を頼み、敵討が仕度したいと和尚に無理頼みをして観音寺を出立するという、是から敵討に成ります。


九十四


 塚前村観音堂へ因果塚を建立致し、観音寺の和尚道恩どうおんことごとく此の因縁を説いて回向を致しましたから、村方の者が寄集まって餅を搗き、大した施餓鬼せがきが納まりました。くて八月十八日施餓鬼まつりを致しますと、観音寺の弟子宗觀が方丈の前へ参りまして、

 宗「旦那様」

 道「いや宗觀か、なんじゃ」

 宗「私はお願いがありますが、旦那さまには永々なが〳〵御厄介に相成りましたが、私は羽生村へ帰りうございます」

 道「ウン、どうも貴様は剃髪ていはつする時も厭がったが、出家になる因縁が無いと見える、何故羽生村へ帰りいか、帰った処が親も兄弟もないし、別に知るものもない哀れな身の上じゃないか、よし帰った処が農夫ひゃくしょうになるだけの事、じつうしても出家はげられんか」

 宗「はい私は兄と姉の敵が討ちとうございます」

 道「これ、此間こないだもちらりと其の事も聞いたから、音助にもう宗觀にいうてくれと言附けて置いたが、敵討という心は悪い心じゃ、其の念をらんければいかん、執念して飽くまでもむこうを怨むには及ばん、貴様の親父を殺した新吉夫婦と母親おふくろを殺したお熊比丘尼は永らく出家を遂げて改心したが、人を殺した悪事の報いは自滅するから討つがものは無い、おのれと死ぬものじゃから其の念を断つ処が出家の修行で、飽く迄も怨む執念をらんければいかん、それに貴様は幾歳いくつじゃ、十二や十三の小坊主が、敵手あいては剣術遣じゃないか、みす〳〵返り討になるは知れてある、出家を遂げれば其の返り討になる因縁をのがれて、亡なられた両親やまた兄あによめの菩提を吊うが死なれた人の為じゃ、え」

 宗「ハイ毎度方丈さんから御意見を伺っておりまするが、此の頃は毎晩〳〵あにさんやあねさんの夢ばかり見ております、昨夜ゆうべも兄さんと姉さんが私の枕元へ来まして、新吉が敵の隠家かくれがを教えて知っているに、お前がう遣ってべん〴〵と寺にいてはならん、兄さん姉さんも草葉の蔭で成仏する事が出来ないから敵を討って浮ばして呉れろと、あり〳〵と枕元へ来て申しました、実に夢とは思われません、してみると兄様あにさん姉様あねさんも迷っていると思いますから、敵を討って罪作りを致しますようでございますけれども、どうか両人ふたりの怨みを晴して遣りうございます」

 道「それがいかん、それは貴様の念がれんからじゃ、平常ふだん敵を討ちい、兄さんは怨んではせんか、姉さんも怨んではせんか、と思う念が重なるに依って夢に見るのじゃ、それを仏書に睡眠と説いて有る、睡はうつゝ眠はねむるてまいねむってばかり居るから夢に見るのじゃ、敵討の事ばかり思うているから、迷いの眠りじゃ、それを避ける処が仏の説かれたかねていう教えじゃ、元は何も有りはせんものじゃ、真言の阿字を考えたらかろう、此の寺に居て其の位な事を知らん筈は無いから諦めえ」

 宗「ハイ、うしても諦められません、永らく御厄介に成りまして誠に相済みません、敵討を致した上は出家に成りませんでも屹度きっと御恩報じを致しますから、どうかお遣んなすって下さいまし、って遣って下さいませんければお寺を逃出し黙って羽生村へ帰ります」

 道「いや〳〵そんならば無理に止めやせん、皆因縁じゃからそれも宜かろう、やるが宜かろうが、しっかりした助太刀を頼むが宜い、先方さきは立派な剣術遣い、ことに同類も有ろうから」

 宗「はい親父の時に奉公をしたもので、今江戸で花車という強いお相撲さんが有りますから。其の人を頼みます積りで」

 道「し其の花車が死んでいたらうする、人間は老少不定ろうしょうふじょうじゃから、昨日きのう死にましたといわれたら何うする、人間の命は果敢はかないものじゃが、あゝ仕方がない、くなら往けじゃが、首尾好く本懐を遂げて念がれたらまた会いに来てくれ」

 と実子のような心持で親切に申しまする。

 宗「これがお別れとなるかも知れません、誠にお言葉を背きまして相済みません」

 道「いや〳〵念がれんとかえって罪障つみになる、これは小遣に遣るから持ってけ」

 と、三年此の方世話をしたものゆえ実子のように思いまして、和尚は遣りともながるのを、ってというので、音助に言付け万事出立の用意が整いましたから立たせて遣り、ようやく五日目に羽生村へちゃく致しましたが、聞けば家宅うち空屋あきやに成ってしまい、作右衞門という老人としよりが名主役を勤めており、多助は北阪きたさかの村はずれの堤下どてした独身活計ひとりぐらしをしているというから遣って参り、

 宗「多助さん〳〵、多助じいやア」

 多「あい、なんだ坊様か、今日はとべえ志が有るから、銭い呉れるから此方こっち這入へえんな」

 宗「修行に来たんじゃアない、お前は何時いつも達者で誠に嬉しいね」

 多「誰だ〳〵」

 宗「はいお前忘れたかえ、わしは惣吉だアね、お前の世話に成った惣右衞門の忰の惣吉だよ」


九十五


 多「おい成程えかくなったねえ、まア、坊様に成ったアもんだからちっとも知んねえだ、能くまア来たあねえ」

 と嬉し涙に泣き沈み漸々よう〳〵涙を拭いながら、

 多「あゝ三年前にお前さまがうちを出てく時はせつなかったが、敵討だというから仕方がねえと思って出して上げたがあとで思え出しては泣いてばかりいたが、作右衞門様の世話でもって、うやらうやら取附いて此処こゝにいやすが、お前様を訪ねてえっても訪ねられねえだが、お母様ふくろさんは小金原で殺されてからお前様が坊様に成ったという事ア聞いたから、チョックラ往きてえと思っても出られねえので無沙汰アしやしたが、能くまア来て下せえやした、本当に見違えるようなでかく成ったね」

 惣「じいやア、私は和尚様に願い無理にひまを戴いて、兄さんや姉さんの敵が討ちたくって来たが、お父様とっさん母様っかさんの敵は知れました」

 とお熊比丘尼の懺悔をば新吉夫婦がこまやかに聞き、遂に三人共自殺した処から、村方の者が寄集まって因果塚を建立した事までを話すと、多助も不思議の思いをなして、是から作右衞門にも相談の上敵討に出ましたが、そういう処に隠れて泥坊をしているからには同類も有ろうから、私とお前さんと江戸へ往って、花車関を頼もうとやがて多助と惣吉は江戸へ遣って参り、花車を便たよりて此の話を致して頼みました。此の花車という人は追々おい〳〵出世をして今では二段目の中央なかばまで来ているから、師匠の源氏山も出したがりませんのを、義によっておいとまを下さいまし、前に私が奉公をした主人の惣右衞門様の敵討をするのでございますからと、義に依っての頼みに、源氏山も得心して芽出度めでたく出立いたし、日を経ての五助街道へ掛りましたのが十月中旬なかば過ぎた頃もう日暮れ近く空合そらあいはドンヨリと曇っておりまする。三人はトットと急いで藤ヶ谷の明神山を段々なだれに登って参りますると、樹本生茂おいしげり、昼でさえ薄暗い処ことには曇っておりまするから漸々よう〳〵足元が見えるくらい、落葉おちばうずもれている上をザク〳〵踏みながら花車が先へ立ってむこうを見ると、れ果てたる社殿が有ってズーッと石の玉垣が見え、五六本の高いの有る処でポッポと焚火たきびをしている様子ゆえ、彼処あすこらが隠れ家ではないかと思いながらわきの方を見ると、白いものが動いておりまするが、なんだか遠くでしかと解りません。

 花「多助さんしっかりしなせえ」

 多「もうめえったかねえ、わしはね剣術もなんにも知んねえが此の坊様に怪我アさせくねえと思うから一生懸命に遣るが、あんたア確かり遣って下せえ」

 花「わし神明様しんめいさんや明神さんちかいを立てゝるから、私が殺されても構わねえが、坊様に怪我アさせたくねえ心持だから、お前度胸をえなければいかんぜ」

 多「度胸据えてる心持だアけんども、ひとりでに足がブル〳〵ふるえるよ」

 花「気を沈着おちつけたがえ」

 多「気イ沈着ける心持で力ア入れて踏張ふんばれば踏張る程足イ顫えるが、ういうもんだろう、わしんなに身体顫った事アねえ、四年前におこりイふるった事が有ったがね、其の時は幾ら上から布団をかけても顫ったが、丁度其の時のように身体が動くだ」

 花「ハテナ、白い物が此方こっちへころがって来るようだがなんだろう、多助さん先へ立って往きなよ」

 多「冗談いっちゃアいけねえ、あの林のとこ悪漢わるものが隠れているかも知れねえから、おめえさん先へ往ってくんねえ」

 と云いながら、やがて三人がの白い物のとこへ近附いて見ると、大杉の根元のところに一人の僧が素裸体すっぱだかにされて縛られていまして、わきの方に笠が投げ出して有ります。


九十六


 花「おい多助さん」

 多「え」

 花「憫然かわいそうに、坊様だが泥坊に縛られて災難にあわしゃッたと見え素裸体だ」

 多「なにしても足がふるえて困る」

 花「そう顫えてはいけねえ」

 と云いながらの僧に近づき、

 花「お前さん〳〵泥坊のために素裸体にされたのですか」

 僧「はい、災難に逢いました、木颪きおろしまで参りまする途中でもって馬方が此道こゝが近いからと云うて此処こゝを抜けて参りますと、悪漢わるものが出ましたものじゃから、馬方は馬を放り出した儘逃げてしまうと、私は大勢に取巻かれて衣服きものがれ、ぐ逃がして遣ると此方こっちの勝手が悪い、おいら達が逃げる間此処に辛抱していろと申して、私は此の木の根方へ縛り附けられ、うもうも寒くって成りません、お前さんたちも先へ往くと大勢で剥がれるから、あとへお返りなさい」

 花「なにしろ縄を解いて上げましょう、貴僧あなた何処どこの人だえ」

 僧「有難うございます、私は藤心村の観音寺の道恩というものです」

 と聞くより惣吉は打驚き駈けて参り、

 惣「え、旦那様か、飛んだ目にお逢いなされました」

 道「おゝ〳〵宗觀か、お前此の山へ敵討に来たか」

 惣「はいお言葉に背いて参りました、多助や、私が御恩に成った観音寺の方丈様だよ」

 多「え、それはマア飛んだ目にお逢いなせえやしたね」

 道「ひどい事をする、人の手は折れようと儘、酷く縛って、あゝ痛い」

 と両腕をさすりながら、

 道「中々同類が多勢おおぜいる様子じゃから帰るがい」

 花「なにしても風を引くといけないから、それじゃアうと、私の合羽に多助さんお前の羽織を和尚さまにお貸し申そう、さア和尚様、これをお着なさい、それから多助さん此処こゝりて人家のある処まで和尚さんを送ってお上げなさい」

 多「己此処まで惣吉さんの供をして、今坊さまを連れて山を下りては四年五年心配しんぺえった甲斐けえがねえ」

 花「惣吉さまが永らく御厄介に成った方丈様だから連れてって上げなさいな」

 多「敵もたねえで、己山を下りるという理合りえゝはねえからおらア往かねえ、坊様に怪我アさせてはなんねえから」

 花「そんな事をいわずに往っておくんなせえ」

 惣「じいやア、どうか和尚様をお送り申してお呉れ、お前が往かなけりゃア私が送り申さなければならないのだから、往っておくれな」

 多「じゃアうしても往くか、己此処まで来て敵もたずにあとへ引返すのか、なんだッて此の坊様はおっちばられて居たんだナア」

 とブツ〳〵いいながら道恩和尚の手を引いて段々山を下り、影が見えなくなると樹立こだちの間から二人の悪漢わるものが出て参り、

 甲「手前てめえたちはなんだ」

 花「はい私共は安田一角先生しぇんしぇい此方こちらにおいでなさると聞きまして、お目にかゝりく出ましたもので」

 乙「一角先生などという方はおいでではないワ」

 花「私共はおいでの事を知って参りましたものですが、一寸お目にかゝりうございます」

 乙「少し控えて居ろ」

 と二人の悪漢は、互に顔を見合せ耳こすりして、林の中へ這入って、一角に此の由を告げると、一角は心のうちにて、己の名を知っているのは何奴なにやつか、事に依ったら、花車が来たかも知れないと思うから、油断は致しませんで、大刀だいとうの目釘をしめし、遠くに様子を伺って居りますと、子分がそれへ出て、

 甲「やい手前てめえは何者だ」


九十七


 花「いえわしは花車重吉という相撲取でございますが、先生しぇんしぇいは立派なお侍さんだから、逃げ隠れはなさるまい、たしかに此処こゝにいなさる事を聞いて来たんだから、尋常に此の惣吉様のあにさんの敵と名のって下せい、討つ人は十二三の小坊主さんだ、私は義に依って助太刀をしに参ったものだから、何十人でも相手になるから出てお呉んなせい」

 といわれ、悪漢わるものどもは、あゝかねて先生から話のあった相撲取は此奴こいつだなと思いましたから、すぐに一角の前へ行きまして此の事を告げました。一角も最早観念いたしておりまするから、

 安「そうか、よい〳〵、手前達先へ出て腕前を見せてやれ」

 といわれ、悪漢どもも相撲取だから力は強かろうが、剣術は知るめえから引包ひっつゝんで餓鬼諸共打ってしまえ、とまず四人ばかり其処そこへ出ましたが、怖いと見えまして、

 甲「尊公そんこう先へ出ろ」

 乙「尊公から先へ」

 丙「相撲取だから無闇にそういう訳にもいかない、中々油断がならない、尊公から先へ」

 丁「じゃア四人一緒に出よう」

 と四人ひとしく刀を抜きつれ切ってかゝる、花車はかたわらった手頃の杉のを抱えて、総身そうしんに力を入れ、ウーンとゆすりました、人間が一生懸命になる時は鉄門でも破ると申すことがございます。花車は手頃の杉の樹をモリ〳〵〳〵とねじり切って取直し、満面朱をそゝぎ、掴み殺さんず勢いにて、

 花「此の野郎ども」

 といいながら杉の幹を振上げた勇気に恐れ、皆近寄る事が出来ません。花車は力にまかせ杉の幹をビュウ〳〵振廻し、二人を叩き倒す、一人が逃げにかゝる処を飛込んで打倒ぶちたおし、一人が急いで林の中へ逃げ込みますから、跡を追って参ると、安田一角が野袴のばかまを穿き、長い大小を差し、長髪に撫で附け、片手に種ヶ島の短銃たんづゝに火縄を巻き附けたのを持って、

 安「近寄れば撃ってしまうぞ、すみやかに刀を投出して恐れ入るか、手前てめえは力が強くても此れでは仕方があるめえ」

 と鼻の先へ飛道具を突き附けられ、花車はギョッとしたが、惣吉をうしろへ囲んで前への杉の幹を立てたなりで、

 花「卑怯だ〳〵」

 と相撲取が一生懸命に呶鳴る声だから木霊こだま致してピーンと山間やまあいに響きました。

 花「手前てめえも立派な侍じゃアねえか、斬り合うとも打合うともせえ、飛道具を持つとは卑怯だ、飛道具を置いて斬合うとも打合うともせえ」

 一角もうっかり引金を引く事が出来ませんからおどしの為に花車の鼻の先へねらいを附けておりますから、何程力があっても仕様がありません、進むも退くも出来ず、進退きわまって花車は只ウーン〳〵とうなっておりまする。多助はの道恩を送っていきせき帰って来ましたが、此のていを見て驚きましてブル〳〵顫えております。すると天のたすけでございますか、時雨空しぐれぞらの癖として、今までれていたのがにわかにドットと車軸を流すばかりの雨に成りました。そう致しますと生茂おいしげった木葉このはに溜った雨水が固まってダラ〳〵とおちて参って、一角の持っていた火縄に当って火が消えたから、一角は驚いて逃げにかゝる処を、花車は火が消えればもう百人力と、飛び込んで無茶苦茶に安田一角を打据うちすえました、これを見た悪漢わるものどもは「それ先生が」と駈出して来ましたが側へ進みません、花車はかたえを見向き、

 花「此の野郎共そばへ来やアがるとひねり潰すぞ」

 という勢いに驚いて樹立こだちの間へ逃げ込んで仕舞いました。

 花「サア惣吉さん遣ってお仕舞いなせえ、多助さん、お前助太刀じゃアねえかしっかりしなせえ」

 惣吉は走り寄り、

 惣「関取誠に有難う、此の安田一角めあにさんあねさんの敵思い知ったか」

 多「此の野郎助太刀だぞ」

 と惣吉と両人ふたりで無茶苦茶に突くばかり、其のうち一角の息が止ると、二人共がっかりしてペタ〳〵と坐って暫らくは口が利けません。花車は安田一角のたぶさを取り、拳を固めてポカ〳〵打ち、

 花「よくもわれは恩人の旦那様を斬りやアがった、お隅さん返討かえりうちにしやアがったな此の野郎」

 といいながらびんの毛を引抜きました。同類は皆ちり〴〵に逃げてしまったから、其の村方の名主へ訴え、名主からまたそれ〴〵へ訴え、だん〳〵取調べになると、全くあにあね仇討かたきうちに相違ないことが分り、花車は再び江戸へ引返し、惣吉は十六歳の時に名主役となり、惣右衞門の名を相続いたし、多助を後見といたしました。花車が手玉にいたしました石へ花車と彫り附け、之を花車石と申しまして今に下総の法恩寺ちゅうに残りおりまする。是でずお芽出度めでたく累ヶ淵のお話は終りました。

(拠小相英太郎速記)

底本:「定本 圓朝全集 巻の一」近代文芸・資料複刻叢書、世界文庫

   1963(昭和38)年610日発行

底本の親本:「圓朝全集卷の一」春陽堂

   1926(大正15)年93日発行

※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。

ただし、話芸の速記を元にした底本の特徴を残すために、繰り返し記号は原則としてそのまま用いました。同の字点「々」と同様に用いられている二の字点(漢数字の「二」を一筆書きにしたような形の繰り返し記号)は、「々」にかえました。

また、総ルビの底本から、振り仮名の一部を省きました。

底本中ではばらばらに用いられている、「其の」と「其」、「此の」と「此」、「の」と「あの」は、それぞれ「其の」「此の」「彼の」に統一しました。

また、底本中では改行されていませんが、会話文の前後で段落をあらため、会話文の終わりを示す句読点は、受けのかぎ括弧にかえました。

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※「*」は注釈記号です。その内容は底本では上部欄外に書かれています。

※表題は底本では、「真景しんけいかさねふち」となっています。

入力:小林繁雄

校正:かとうかおり

2000年418日公開

2016年421日修正

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