若き僚友に
宮本百合子
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三年前の五月、学生祭の日、この講堂は、甦った青春のエネルギーにみちあふれた数千の男女学生によって埋められました。
三年のちのこんにち、ふたたびここは、数千の男女学生によってみたされています。きょうここに参集した、われらの若き僚友たちは、この三年の間、自身の生活とたたかい、日本の学問の自立のために、日本の人民の理性の擁護のために思索し、行動して、少からぬ経験によって成長した人々です。
敗戦以来こんにちまで、日本の学生が、純真な力を傾けて発言し、行動して来たどの一つをとってみても、それはポツダム宣言と日本の憲法が、いつわりのものでないことの証明を求める熱意のあらわれでした。大学法案に反対して、日本の学問と大学の自主をまもりとおした学生の意欲。日本の愚民教育に反対する世論を、全日本的な発言として組織した情熱。そしていま、日本から理性の存在そのものをつみ取ろうとするレッド・パージに対する反対。一つとして、われわれすべて、良心と理性あるものの要求でないものはなかった。それだからこそ学生の運動の列伍の周囲には、常に労働者階級をはじめ、あらゆる人々のもっている日本の善意が篝火となって結集して行かずにいかなかったのであると信じます。
支配階級は、すでにこんにち、人民の理性の声にたえ得なくなって来ています。さもないならば、どうして、日本の社会生活のあらゆる場面から、こんな大規模な理性の狩りたてを行う必要があるでしょう。レッド・パージとそれに反対する学生の大量な処分は、全く中世的な方法であり、みせしめのためのはりつけ同然です。この演出では、観衆の錯覚がたくみに利用されている。すなわち、警官隊の野蛮な襲撃や、検挙された学生が数百名にのぼることを、さも日本の学生が兇暴なものになってしまいでもしたように世界を偽瞞するための宣伝に使用しています。
われわれを、こんにち、心からいきどおらせているのは、権力機関のすべてを動員して行われているこの「作られた真実」の偽瞞性です。若いエネルギーの鬱積があふれて、彼らの教室からはみだしたとき、大衆的な行動のなかには、「喧嘩両成敗」というべき事態のおこることもあるでしょう。行きすぎとか誤解とか、ことのはずみ、というものは社会生活のどこにもありがちなことです。若い世代に対する糺弾者であり、われわれ自身の老いることを欲しない良心の蹂躙者である権力に向って、わたしは心から次の質問をします。学問の自由、良心の自由、理性の自由をまもろうという動機に立つ学生の運動を、ノン・ポリティカルであるべしと宣伝する人々自体が、なぜ、現実の学生の動きに対しては、このようにも極度に政治的であるのか、と。こんにち、学生運動に集中されている攻撃の性質は、ことしの四月六日、菅季治氏を死なせた衆議院の特別調査委員会をホーフツさせます。
「要請」という一つの文字の解釈のワナにかかって生命を絶たなければならなかった菅季治氏の悲劇を、ただ、彼の性格の弱さであると見るのは、浅薄ではないでしょうか。
菅氏の性格は相当粘りづよくあったようだし、意志が普通よりもよわかったとも思われない。彼を生き難くさせたのは、彼が理性と真実とについて抱いていた観念の内容と構成とが、権力の動員した、権謀の詭弁との格闘に堪えなかったからでありました。
四月二十三日の週刊朝日「菅証人はなぜ自殺したか」という記事は、特別調査委員会における速記録の一部をのせて、この悲劇の核心を照し出しています。
委員たちが、菅氏にしつこく、くい下った質問は、どれも常識をはずれたいいがかりと、威脅でした。ひとこと、ひとことが、菅氏を予定のワナに近づけるための政治的挑発でした。菅氏も、それは感じていた。しかし、彼はその悪辣さと非条理とがあからさまな質問に対して、一歩も彼のホーム・グラウンドから進撃することが出来ませんでした。すなわち、菅氏は、形而上学によって整理・構成されている自分の理性、過去の形式論理にしたがって操作される自身の理性の機能を、たたかいの現実にしたがって拡大することも出来なかったし、縮小させることも出来なかったのでした。
自由党の委員篠田が、問題の「ナデーエッツァ」という言葉にからんで、この言葉を要請と訳すことは、ロシア語としてできませんかと質問したとき、菅氏の答えた答えこそ、彼の悲劇の本質を示しています。菅氏は通訳として、その限度の中での証人として、証人台に立ったのです。菅氏は、ロシア語の実際として、要請には、プロシェーニェという別の言葉があり、よりつよい意味での要請──ことわりにくいほど命令のニュアンスがふくまれた要請の場合には、はっきりとトゥレヴォワーチというもう一つの言葉があることを、彼らが執拗であると同じ根気づよさで、率直にくりかえし主張してよかったのではないでしょうか。
ところが、彼は答えました。「要請というのは哲学で云えばカントの実践理性の要請という特別の言葉であって」云々と。粗暴な狼たちは、このアキレス腱めがけて、菅氏にとびかかり、かんでかんで、遂に彼の勇気を、かみちぎってしまいました。
不幸な菅氏は、その良心と正義感と、勇気にかかわらず、自身が客観的なよりどころとし得る単純明白なリアリティーの上に、しっかりと脚をかためて立つ、たたかいの技術を知っていませんでした。彼がたたかわなければならなかった、社会の現実と、彼の理性と真実の観念的な運営法との間に、ギャップがあったのでした。
菅氏の意味ふかい生のたたかいと死によって、ある人々は、長いものにはまかれろ、という屈従の倫理を思いおこしたかもしれません。けれども、より多くの人たちは、自身の良心と理性の問題として、それはいかに表現され、いかにたたかわれてゆくべきかについて考えさせられました。
現代は、万事がおそろしいほど政治的にとり扱われる時代である。これは、現代における世界的な実感の一つです。二つの世界大戦を経て、地球上には、より新しい民主勢力が拡大し、人類の理性は、ますます苛烈な実践をもとめられ試煉を経つつあります。
人類の理性の集積は、精煉に精煉を重ねて、つみあげられてゆくものです。理性が理性であることを証明するためには、あらゆる歴史の世代が、当面する非理性的な力、無知と権力の暴力とたたかって来ました。そして、それらの暴力はいかに兇暴であるようでも、歴史の長い過程においては、遂に一時的なものでしかあり得ないことを実証しています。
だからこそ、ヒューマニティーによる、理性の不屈従に、高貴な行動的意義があります。不滅の勝利があります。
二十世紀の現代においては、理性がいかに永続的に、且つ現実的に操作されうるかという能力にこそ、歴史の勝敗がかかっている。理性擁護の行動そのものがもし万一にも性急で持久性を欠くならば、そのような行動の方式は、理性の本質にとって適切でないというリアリティーによって、われわれは思いしらされなければならないでしょう。
幾千の若い僚友よ
わたくしは、こんにち病気のために、ここに立って、親しく話すことのできないのを残念に思います。しかし、日本の良心のため、学問の自由のため、そして、日本の理性をまもるために、わたしたちはこんにちまでともに何事もして来なかったと云えるでしょうか。
文学が、ヒューマニティーに立つものであり、歴史の発展とともに歩むものであることを知っているすべての良心ある文学者たちは、たとえ、その人々の発言が、こんにちここできかれないとしても、日本の理性の守りのためには、常に諸君とともにあります。
底本:「宮本百合子全集 第十六巻」新日本出版社
1980(昭和55)年6月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十二巻」河出書房
1952(昭和27)年1月発行
初出:「学生評論」
1951(昭和26)年3月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月14日作成
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