ふたつの教訓
宮本百合子
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三鷹、松川事件、どちらも労働者階級の闘いの歴史にとってきわめて重大な教訓をしめしていると思います。事件の具体的な内容についてはどちらもすべて明らかになってきています。
私たちが真剣に学びとらなければならないことは、これらの事件がどちらも労働者としての生死にかかわる生存のためのたたかいの慾求に出発していることと、それにたいして労働組合の闘争の方向、テンポが、かならずしもそのひとたちを十分指導しきらない点をもっていて、このさけ目が敵の謀略に乗ぜられたという点、三鷹事件も、松川事件もこの点では共通の動機をもっていたようだし、この点が同時に敵に着目され、全く組織的にちょう発を準備されたと思います。
大衆の要求を正しくみちびくことになにかの不足が生じている場合、または大衆の革命的行動の理論が客観的正当さを欠いている場合、つねに敵のちょう発がその弱点にくいこむということをハッキリ教えています。
私は素直にいって一つどうしても不思議なことがあります。それは三鷹事件でも松川事件でも、敵が目をつけるぐらいの職場の積極分子である労働者たるものが、どうしてやりもしないことを「自白」したかということです。
世間普通の人間でも、すこししっかりしたものならぬすまないものはぬすまないと頑張ります。知らないことは知らないといいます。両事件の「自白」したひとたちは、公判にでもでればすべて明らかになると信じて「一応自白」したのかも知れませんが、一般の人々はもっとしっかりしていたたよりになる指導者だとおもっていた労働者が、やりもしないことを「自白」したという態度そのものに疑問を感じたのは当然です。だれがみても階級的によわい態度です。
弾圧というものはどうせデッチあげと、ちょう発、偽証をともないます。密告をともないます。ウソからまことをつくろうとされます。その第一歩から正直な労働者、正直な階級人、正直な市民の権利にたってたたかうべきです。
これから情勢はむずかしくなって、ますますおもいもかけない事件がつくり出される機会がふえます。もしすべての人が「一応自白」しても恥じないという考えをもってしまったら、どこに労働者が自分の階級の正義をまもり、自分の人権をまもるという信念のよりどころが残るでしょうか。
松川事件のごときは、なにもしない人が「自白」しているばかりにあるいは死刑にされるかも知れない。このことについてすべての人は胆に銘じて考えなければならない。真実を真実として主張することはわれわれの基本的態度です。そのつよさがあってはじめてすべてのちょう発と、虚偽をうちやぶることができるのです。
底本:「宮本百合子全集 第十六巻」新日本出版社
1980(昭和55)年6月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
初出:日本共産党福島県委員会発行のタブロイド版新聞特集号
発行日不明(1950(昭和25)年9月中旬~10月初旬頃)
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月14日作成
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