文七元結
三遊亭圓朝
鈴木行三校訂
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さてお短いもので、文七元結の由来という、ちとお古い処のお話を申上げますが、只今と徳川家時分とは余程様子の違いました事で、昔は遊び人というものがございましたが、只遊んで暮して居ります。よく遊んで喰って往かれたものでございます。何うして遊んでて暮しがついたものかというと、天下御禁制の事を致しました。只今ではお厳しい事でございまして、中々隠れて致す事も出来んほどお厳しいかと思いますと、麗々と看板を掛けまして、何か火入れの賽がぶら下って、花牌が並んで出ています、これを買って店頭で公然に致しておりましても、楽みを妨げる訳はないから、少しもお咎めはない事で、隠れて致し、金を賭けて大きな事をなさり、金は沢山あるが退屈で仕方がない、負けても勝っても何うでも宜いと、退屈しのぎにあれをして遊んで暮そうという身分のお方には宜しゅうございますが、其の日暮しの者で、自分が働きに出なければ、喰う事が出来ないような者がやりますと、自然商売が疎になります。慾徳ずくゆえ、倦きが来ませんから勝負を致し、今日で三日続けて商売に出ないなどということで、何うも障りになりますから、厳しゅう仰しゃる訳で、併し賭博を致しましたり、酒を飲んで怠惰者で仕方がないというような者は、何うかすると良い職人などにあるもので、仕事を精出して為さえすれば、大して金が取れて立派に暮しの出来る人だが、惜い事には怠惰者だと云うは腕の好い人にございますもので、本所の達磨横町に左官の長兵衞という人がございまして、二人前の仕事を致し、早くって手際が好くって、塵際などもすっきりして、落雁肌にむらのないように塗る左官は少ないもので、戸前口をこの人が塗れば、必ず火の這入るような事はないというので、何んな職人が蔵を拵えましても、戸前口だけは長兵衞さんに頼むというほど腕は良いが、誠に怠惰ものでございます。昔は、賭博に負けると裸体で歩いたもので、只今はお厳しいから裸体どころか股引も脱る事が出来ませんけれども、其の頃は素裸体で、赤合羽などを着て、「昨夜はからどうもすっぱり剥れた」と自慢に為ているとは馬鹿気た事でございます。今長兵衞は着物まで取られてしまい、仕方なく十一になる女の子の半纒を借りて着たが、余程短く、下帯の結び目が出ていますが、平気な顔をして日暮にぼんやり我家へ帰って参り、
長「おう今帰ったよ、お兼……おい何うしたんだ、真暗に為て置いて、燈火でも点けねえか……おい何処へ往ってるんだ、燈火を点けやアな、おい何処……其処にいるじゃアねえか」
兼「あゝ此処にいるよ」
長「真暗だから見えねえや、鼻ア撮まれるのも知れねえ暗え処にぶっ坐ッてねえで、燈火でも点けねえ、縁起が悪いや、お燈明でも上げろ」
兼「お燈明どこじゃアないよ、私は今帰ったばっかりだよ、深川の一の鳥居まで往って来たんだよ、何処まで往ったって知れやアしないんだよ、今朝宅のお久が出たっきり帰らねえんだよ」
長「エヽお久が、何処え往ったんだ」
兼「何処へ往ったか解らないから方々探して歩いたが、見えねえんだよ、朝御飯を喰べて出たが、それっきり居なくなってしまって、本当に心配だから方々探したが、いまだに帰らねえから私はぼんやりして草臥れけえって此処にいるんだアね」
長「ナ…ナニ知れねえ、年頃の娘だ、え、おう、いくら温順しいたってからに悪い奴にでもくっついて、え、おう、智慧え附けられて好い気になって、其の男に誘われてプイと遠くへ往くめえもんでも無え、手前はその為に留守居をしているんじゃアねえか、気を附けてくれなくっちゃア困るじゃアねえか」
かね「留守居をして居るったッて、斯んな貧乏世帯を張ってるから、使いに出す度一緒に附いては往かれませんよ、だが浮気をして情夫を連れて逃げるような娘じゃアありません、親に愛想が尽きて仕舞ったに違いないんだよ、十人並の器量を持ってゝ、世間では温順しい親孝行者だといわれてるのに、お前が三年越し道楽ばかり為て借金だらけにしてしまい、家を仕舞うの夫婦別れをするのという事を聞けば、あの娘だって心配して、あゝ馬鹿〴〵しい、何時までも親のそばに喰附いてれば生涯うだつはあがらないから、何処へか奉公でもするか、何んな亭主でも持つ方が、襤褸を着てこんな真似をしてこんな親に附いて居ようより、一層の事好い処へ往って仕舞おうとお前に愛想が尽きて出たのに違いない、あの娘が居ればこそ永い間貧乏世帯を張って苦労をしながらこう遣っていたが、お久が居ないくらいなら私は直に出て往っちまうよ」
長「お久が居なけりゃア此方も出て往っちまわアな、だからよう、己が悪いから連れて来て呉んな、父が悪いッて是から辛抱するから、え、おい、お願えだ、己だってポカリと好い目が出れば、又取返して、子供に着物の一枚も着せてえと思って、ツイ追目に掛ったんだが、向後もうふッつり賭博はしねえで、仕事を精出すから、何処へか往ってお久をめっけて来てくんナ」
かね「めっけて来いたっていないよ」
長「いねえ〳〵と云ったって何処か居る処え往ってめっけて来やアな」
かね「居る処が知れてるくらいなら斯様なに心配はしやアしない、お戯けでないよ、私もお前のような人の傍には居られないよ」
長「居られねえたって……えゝ、おい、お久を何うかして……」
かね「何う探しても居ないんだ」
長「居ねえって……え、おい」
かね「お前の形は何んだね、子供の着物なんぞを着てさ、見っともないじゃアないか」
長「見っともねえったって、竹ン処のみい坊の半纏を借りて来たんだ」
かね「お尻がまるで出て居るよ、子供の半纒なぞを着て、好い気になって戸外をノソ〳〵歩いてゝさ」
とグズ〳〵云って居ると、表の戸をトン〳〵叩き、
男「御免ください」
かね「はい只今開けます……誰か来たよ、お前隠れ場が……仕様がないねえ」
男「どうか開けておくんなさい、御免なさいまし……えゝ誠に暫く、何時もお達者で」
長「へえ…誰だっけ忘れちまった、何方でしたかえ」
男「エヽ私は角海老の藤助でございます」
と云われて長兵衞は手を打ち、
長「おう、違えねえ、こりゃアどうも、すっかり忘れちまッた、カラどうも大御無沙汰になっちまって体裁が悪いんでね、こんな処え来てしまったんで、誠にどうもツイ…」
藤「お内儀さんが、一寸長兵衞さんに御相談申したい事があるから、直に一緒に来るようにという事で」
長「お前さんの処は余り御無沙汰になって敷居が鴨居で往かれねえから、何れ春永に往きます、暮の内は少々へまになってゝ往かれねえから何れ…」
藤「兎や角う仰しゃるだろうが、直にお連れ申して来いと、お内儀さんが仰しゃるので」
長「直にったって大騒ぎなんで、家内に少し取込があるんで、年頃の一人娘のあまっちょが今朝出たっきり帰らねえので、内の女房も心配してえるんでね」
藤「お宅の姉さんのお久さんは宅へ来ておいでなさいますよ、其の事に就いてお内儀さんが貴方に御相談があるので」
長「エヽ…お久がお前処に往ってるとえ」
かね「あらまア本当に有難う存じます、何処へ参りましたかと存じて心配して居ましたが、御親切に有難う存じます…お前さん直に往って連れて来ておくれよ」
長「じゃアまアなんだ……直に後から往きますからお内儀さんへ宜しく」
藤「直に御同道しろと申しましたから」
長「直にったって何んですから、直に後から参ります、左様なら宜しく」
かね「何んだよお前、御親切に知らせて下すったのに何故直に往かないんだよ」
長「なぜったって此の形じゃア往かれねえ……手前のを貸しねえ」
かね「いやだよ私の着物がありゃアしないよ」
長「手前は宅に居るんだからこの半纒を着て居やアな」
かね「そんなものを着ては居られません、お尻がまるで出てしまうよ」
長「湯巻を締めてりゃア知れないよ」
かね「人が来ても挨拶が出来ないよ」
長「面と向って話をして、後へ退る時に立てなければ後びっしゃりをすればいゝ」
かね「おふざけでないよ」
長「そんな事を云わねえで貸しな」
と無理やりに女房の着物を引剥いでこれを着て出掛けました。
左官の長兵衞は、吉原土手から大門を這入りまして、京町一丁目の角海老楼の前まで来たが、馴染の家でも少し極りが悪く、敷居が高いから怯えながら這入って参り、窮屈そうに固まって隅の方へ坐ってお辞義をして、
長「お内儀さん、誠に大御無沙汰をして極りがわるくって、何んだか何うもね……先刻藤助どんにも然う申しやしたんですが、余り御無沙汰になったんで、お見違れ申すくれえでごぜえやすが、何時も御繁昌のことは蔭ながら聞いておりやす、誠に何んとも何うもお忙がしい中をわざ〳〵お知らせ下すって誠に有難うござえやす……お久ア此処に打ッ坐ってゝ、宅の者に心配を掛けて本当に困るじゃアねえか、阿母アはお前を探しに一の鳥居まで往ったぜ、親の心配は一通りじゃアねえ、年頃の娘がぴょこ〳〵出歩いちゃアいけねえぜ、何んで此方様へ来てえるんだ、こういう御商売柄の中へ」
内儀「それ処じゃアないよ、こうしてお前の事を心配して来たのだ、這入りにくがって門口をうろ〳〵していたが、切羽詰りになって這入って来たんだが、私も忘れちまったあね、お前が仕事に来る時分、蝶々髷に結ってお弁当を持って来たっきり、久しく会わないから、私も忘れてしまったが、此処へ来て、此の娘がおい〳〵泣いて口が利けないんだよ、それからまアどうしたんだ、何か心配事でも出来たのかというと、此の娘が親の恥を申しまして済みませんけれども、親父がまだ道楽が止みませんで、宅へも帰らず、賭博ばかり烈しく致して居りますが、あすが日、親父の腰へ縄でも附きますような事がありますと、私も見てはいられませんが、漸々借財が出来まして、何うしても此の暮が行立たず、夫婦別れを為ようか、世帯をしまおうかというのを、傍で聞いて居りますと、私も子供じゃアありませんから、聞き捨にもなりませんので、誠に申し兼ねましたが、お役には立ちますまいけれど、私の身体を此方さまへ、何年でも御奉公致しますから、親父をお呼びなすって私の身の代を遣って、借財の方が付いて、両親交情好く暮しの附きますように為てやりとうございます、私がこういう処へつとめをしていますれば、よもや親父も私への義理で、道楽も止もうかと存じます、左様なれば親父への意見にもなりますから、どうぞ私の身体をお買いなすって下さいと、手を突いて私へ頼むから、私も恟りしたんだよ、本当に感心な事だって、当家にも斯うやって沢山抱の娘もあるが、年頃になって売られて来るものは大概淫奔か何か悪い事を仕て来るものが多いんだのに、親の為に自分から駈込んで来て身を売るというような者が又とある訳のものじゃアないよ、本当にこんな親孝行者に苦労をさせて好い気になってちゃア済まないよ、お前幾歳におなりだ、四十の坂を越して、何うしたんだねまア、此の娘に不孝だよ」
長「えゝ……誠にどうも面目次第もごぜえやせん、そんな事と知らねえもんですからね、年頃にもなってやすから、ひょッと又悪い者が附いて意地でも附けて遠くへ往っちまったかと思って、嬶アも驚きやして、方々探して歩いた訳なんで、へえ、お久堪忍してくれ、誠に面目次第もねえ、汝にまでおれは苦労をさせて」
と云いさして涙を浮め、声を曇らし、
長「実は己アお内儀さんの前だが、汝に手を突いて謝るくれえ親の方が悪いんだが、汝の知ってる通り、此の暮は何うしても行立たねえ訳になっちまったんだけれども、たった一人の娘を女郎に売りたくもねえし、世間へ対しても済まねえ訳だ、又本意でもねえから、然んな事を為たくもねえが、何うでも斯うでも此の暮が行立たねえから、お久、親が手を突いて頼むが、何うかまア他家さまなら願え難いが、此方さまだから悪くもして下さるめえから、此方さまへ奉公して、二年か三年辛抱してくれゝば、汝の身の代だけは一旦借金の方せえ付けてしまえば、己がまたどんなにでも働えて、汝の処は何んとかするが、然うしてくれゝば己への良い意見だから、向後ふっつりもう賭博のばの字も断って、元々通り仕事を稼いで、直に汝の身受を為に来るから、それまで汝奉公してえてくれ」
久「私は、固より覚悟をして来た事だから、何時までも奉公しますけれど、お前また私の身の代を持ってってしまって、いつものように賭博に引掛ってお金を失してしまうと、お母がまたあゝいう気象だからお前に逆らって、何んだ彼んだというとお前が又癇癪を起して喧嘩を始めて、手暴い事でもして、お母の血の道を起すか癪でも起ったりすると、私がいればお医者を呼びに往ったり、お薬を飲ましたりして看病する事も出来ますが、私がいないと、お母を介抱する人がないのだから、後生お願いだが、私は幾年でも辛抱するからお前お母と交情好く何卒辛抱して稼いでおくんなさいよ、よ」
長「あいよ………あいよ……誠に何うもカラどうも面目次第もごぜえやせんで、何んともはや、何うも、はア後悔しやした」
内儀「御覧よ、こういう心だもの、実に私も此の娘には感心してしまったが、お前幾干お金があったら此の暮が行立つんだよ」
長「へえ私共の身の上でごぜえやすから百両もあればすっかり綺麗さっぱりになるんで」
内儀「百両で宜いのかえ」
長「へえ…」
内儀「それではお前に百両のお金を上げるが、それというのも此の娘の親孝行に免じて上げるのだよ、お前持って往って又うっかり使ってしまっては往けないよ、今度のお金ばかりは一生懸命にお前が持って往くんだよ、よ、いゝかえ、此の娘の事だから私も店へは出し度くもない、というは又悪い病でも受けて、床にでも着かれると可哀そうだから、斯う云う真実の娘ゆえ、私の塩梅の悪い時に手許へ置いて、看病がさせ度いが、私の手許へ置くと思うと、お前に油断が出るといけないから、精出して稼いで、この娘を請出しに来るが宜いよ」
長「へえ私も一生懸命になって稼ぎやすが、何うぞ一年か二年と思って下せえまし」
内儀「それでは二年経って身請に来ないと、お気の毒だが店へ出すよ、店へ出して悪い病でも出ると、お前この娘の罰は当らないでも神様の罰が当るよ」
長「えゝそれは当ります、へえ有難うござえやす、貧乏世帯を張ってるもんですから、母親と一緒に苦労して借金取のとけえ自分で言訳に往って詫ごとをしてくれるんです……へえ、其の代りお役には立ちやすめえから、一々小言を仰しゃって下せえやし、お久、お内儀さんも斯う仰しゃって下さるから何だが、店へ出てお客の機嫌気褄の取れる人間じゃアねえが、其の中にゃア様子も解るだろうから……己は早く家へ帰ってお母にも悦ばせ、借金方を付けて、質を受けて、汝の着物も持って来るから」
内儀「そんな事は宜いよ、江戸行の時に取りに遣るから……お前財布があるまい、お金も丁度他家から来たのがあるから財布ぐるみ百両貸して上げるよ、さア持っておいで」
長「へえ、誠に何うも、有難うござえやす、じゃアお内儀さん直にお暇しやす」
内儀「早く家へ往ってお内儀さんに安心させてお上げよ」
長「じゃアお久、宜いか」
久「お母さんによくいっておくれよ」
長「あい、あい」
と戸外へ出たが、掌の内の玉を取られたような心持で腕組を為ながら、気抜の為たように仲の町をぶら〳〵参り、大門を出て土手へ掛り、山の宿から花川戸へ参り、今吾妻橋を渡りに掛ると、空は一面に曇って雪模様、風は少し北風が強く、ドブン〳〵と橋間へ打ち附ける浪の音、真暗でございます。今長兵衞が橋の中央まで来ると、上手に向って欄干へ手を掛け、片足踏み掛けているは年頃二十二三の若い男で、腰に大きな矢立を差した、お店者風体な男が飛び込もうとしていますから、慌てゝ後から抱き止め、
長「おい、おい」
男「へゝへえ」
長「気味の悪い、何んだ」
男「へえ…真平御免なさいまし」
長「何んだお前は、足を欄干へ踏掛けて何うするんだ」
男「へえ」
長「身投げじゃアねえか、え、おう」
男「なに宜しゅうございます」
長「なに宜い事があるもんか、何んだ若え身空アして……お店風だが、軽はずみな事をして親に歎きを掛けちゃアいけねえよ、ポカリときめちまってガブ〳〵騒いだってお前助かりゃアしねえぜ、え、おい、何で身を投げるんだえ」
男「御親切に有難うございます、私も身を投げる気はございませんが、迚も行立ちません、もう思案も分別も仕尽しました暁に覚悟を極めたので、中々容易な事ではございませんから、お構いなく往らしって下さいまし」
長「お構いなくったって、お構いなく往かれるかえ、人情としてお前の飛び込むのを見て、アヽ然うかといって往かれねえじゃアねえか何んで死ぬんだよ、店者だから大方女郎のつかい込みで、金が足らなくって主人に済まねえって………極ってらア、然うだろう」
男「いえなに然んな訳じゃアないが、なに宜しゅうございます」
長「宜しくねえよ、冗談じゃアねえぜ、え、おう」
男「御親切は有難う存じます、私は白銀町三丁目の近卯と申します鼈甲問屋の若い者ですが、小梅の水戸様へ参ってお払いを百金戴き、首へ掛けて枕橋まで参りますると、ポカリと胡散な奴が突き当りましたから、はっと思ってると、私の懐へ手を入れて逃げて行きましたから、何を為やアがると云って、後で見ますと金が有りませんから、小僧の使ではなし、金を泥坊に奪れたといって帰られもせず、と云って何処へ往って相談致すという処もございませんから、身を投げるんで、大金の事でございますから何んな処へ参りまして相談を致しても無駄でございますから身を投げるのでございます、何うぞお構いなく往らしって」
長「百両奪られちまッたのかえ、何うも為ょうがねえなア、冗談じゃアねえぜ、大店なんてえもなアおおまかだなア、己ッちの身の上では百両の金で借金を残らず払って、好い正月が出来るんだが、本当に、大金を奪られるような者に払いを取りに遣るとはおおまかなもんだなア、お前もまた間抜じゃアねえか、胴巻へ入れて確り懐へ入れて置けば宜いのに、百両といえば重え金額だ、本当に冗談じゃアねえぜ、だがの……金で生命は買えねえや、え、おう、何処へ相談しに往きねえな、旦那に逢って然う云いねえ、泥坊に奪られて誠に面目次第もござえやせん、全く奪られたに違え有りやせんて、え、おう何処へ往って相談して見ねえな」
男「へえ、相談したくも親も兄弟も無い身の上で、主人も手前ばかりは身寄頼りのない身の上だから、辛抱次第で行々は暖簾を分けて遣る、其の代り辛抱をしろ、苟にも曲った心を出すなと熟々御意見下すって、余り私を贔屓になすって下さいますもんだから、番頭さんが嫉んで忌な事を致しますから、相談も出来ませんが、何うしても私が女郎買でも為て使い込んだとしきゃア思われませんから、面目なくって旦那さまに合す顔はございません、なに宜しゅうございますからお構いなく往らしって」
長「いけねえなア、何うしてもお前死なくッちゃアいけねえのか………じゃア仕方がねえ、金ずくで人の命は買えねえ、己も無くッちゃアならねえ金だが、お前に出会したのが此方の災難だから、これをお前に………だが、何うか死なねえようにしてくんなナ、え、おう」
男「ヘエ、死なないように致しますから、お構いなく往らしって下さいまし」
長「お構えなくッたって……じゃア往くから屹度死なねえとはっきり極りをつけてくんなよ」
男「宜しゅうございます、死にません、〳〵、へえ」
長「冗談じゃアねえぜ、往くよ宜いか」
と云いながらバタ〳〵〳〵と二十歩ばかり駈けて来たが、何うも気に成るから振り返て見ると、其の若い者がバタ〳〵〳〵と下手の欄干の側へ参り、又片足を踏掛けて飛び込もうとする様子ゆえ、驚いて引返して抱き留め、
長「まア待ちなよ、待ちなてえに……それじゃア何うしても金が無けりゃア生きて居られねえのか、仕様がねえなア、さア己がこれを……だが何うか死なねえような工夫はねえかなア……じゃアまア仕方がねえ……困るなア」
男「お構いなく往らッして、御親切は解りましたから」
長「じゃア往くよ」
とバラ〳〵〳〵と往きに掛ったが、又飛び込もうとするから、
長「仕様がねえなア此の人は、冗談じゃアねえぜ、金が無くッちゃア何うしてもいけねえのか」
男「へえ、有難う存じますが」
とさめ〴〵と泣き沈み、涙声で、
男「私だッて死に度はございませんけれども、よんどころない訳でございますから、何うぞお構いなく往らしって、もう宜しゅうございます」
長「お構いなくったって往けねえやな、仕方がねえ、じゃア己が此の金を遣ろう」
長「実は此処に百両持ってるが、これはお前のを奪ったんじゃアねえぜ、己は斯んな嬶の着物を着て歩く位の貧乏世帯の者が百両なんてえ大金を持ってる気遣はねえけれど、己に親孝行な娘が一人有っての、今年十七になるお久てえ者だが、今日吉原の角海老へ駆込んでって、親父が行立ちませんから何うか私の身体を買っておくんなさい、親父への意見にもなりましょうからって、娘が身を売って呉れた金が此処に在るんだが、其の身の代をそっくりお前に遣るんだ、己ん処の娘は、泥水へ沈んだッて死ぬんじゃアねえが、お前は此処から飛び込んで本当に死ぬんだから、此れを遣っちまうんだ、其の代り己は仕事を為て、段々借金を返して往った処が、三年かゝるか、五年掛るか知れねえが、悉皆り借金を返し切って又三年でも五年でも稼がなけりゃア、百両の金を持って、娘の身請を為に往く事が出来ねえ、あゝ何んでも斯んでも娘を女郎にするのだ、仕方がねえ、其の代り己の娘が悪い病を引受けませんよう、朝晩凶事なく達者で年期の明くまで勤めますようにと、お前心に掛けて、ふだん信心する不動様でも、お祖師様でも、何様へでも一生懸命に信心して遣っておくれ」
男「何う致しまして左様な金子は要りません」
長「己だってさ遣りたくも無えけれどお前が死ぬというから遣るてえのに、人の親切を無にするのけえ」
と云いながら放り付けて往きました。
男「やい何を為やアがるんだ、斯んなものを打附けやアがって、畜生め、財布の中へ礫か何か入れて置いて、人の頭へ叩き附けて、ざまア見やアがれ、彼様な汚ない形を為ていながら、百両なんてえ金を持ってる気遣えはねえ、彼様な奴が盗賊だか何んだか知れやアしない、此様な大きな石を入れて置きやアがって」
と撫て見ると訝しな手障だから財布の中へ手を入れて引出して見ると、封金で百両有りましたから恟りして橋の袂まで追駆けて参り、
男「もしお前さん、今のお方もし……アヽもう見えなくなっちまった……有難う存じます、此の御恩は死んでも忘れやア致しません、左様なお方とも存じませんで悪口を吐きまして済みません、誠に有難う存じます、必ず一度は此の御恩をお返し申します、有難う存じます」
と生返ったような心持になりましたから、取急いで白銀町三丁目の店へ帰って参りましたが、御主人は使いの帰りが遅いから心配でございます。
主人「平助どん、未だ帰りませんか文七は」
平「へえ、まだ帰りません、使いに出すと永いのが彼の癖で、お払い金などを取りにお遣りなさるのは宜しくない事で、誠に困りましたな」
主「帰ったら能く小言をいいましょう」
と心配して居る処へ表の戸をトン〳〵〳〵、
文「番頭さんトン〳〵〳〵……番頭さん文七でございます、只今帰りました」
平「旦那、文七が帰りました」
主「よく然ういってくんな」
平「今開けるよ……何う云うもんだなア、余り遅いじゃアないか掛廻りに往った時などは早く帰って来てくれないと、旦那のお小言が私の方へ来るから本当に迷惑だ、冗談じゃアないぜ」
文「誠に遅くなりました、つい高橋様のお相手を為て居りまして、御機嫌を取り〳〵種々お話しになりましたので、大きに遅くなりまして誠に相済みません」
平「旦那文七が帰りました」
主「さア〳〵此方へ遣しておくれ、実に困ります」
文「旦那只今、高橋様で種々世の中のお話が有りまして、又碁のお相手を致したものですから大きに遅くなりました、えゝそれから高橋様が此方から持って参りました革の財布を御覧なさいまして、商人は妙な財布を持つ、少し借り度い、其の代り此方の縞の財布を貸して遣ると仰しゃって、是を拝借致しまして、金子は慥に百両受取って参りましたから、お改めなすってお受け取り下さいますように」
主「なに金を……何を云うんだな、変な人だな、実に、文七は使に出せないね、本当に」
主人「お得意先へ掛け廻りに往って、其処でお相手をするったって碁を打つという事はありませんよ、お前は碁にかゝるとカラ夢中だから困る、お前が帰って仕舞った後を見ると碁盤の下に財布の中へ百両入ったなり有ったから、高橋様がお驚きなすって、さぞ案じて居るだろうから早く知らせて遣れと仰しゃって、彼方の御家来が二人で提灯を点けて先刻金子は届けて下すったのに、虚言を吐いて……革財布は彼方で入用とはなんだ、ちゃんと此処に百金届いていますよ……其の百両の金は何処から持って来たんだ」
文「ヘエ……それは大変」
主「なに」
文「それは何うも、大変な事で」
主「何んだ」
文「ヘエ………それじゃア私ゃ奪られなかったんだ」
主「何んだ、お前はどうも訳の解らん事を云うからしょうがない、平助どん、此の金の出所を調べておくれ、イエサ、未だ二十二や三になるものに、百両という大金を自由にされるような事は有るまい、お前へ店を預けて置くのに、またこれがどう云う融通をして、何処に金を預けて置くか知れねえから此の百両の出所を調べてくんな」
平「ヘエ……おい、お前私が迷惑するよ、冗談じゃアない、困るよ、疾うに金は届いてる処へ又百両持って来るてえのは訝しいじゃアないか」
文「ヘエ〳〵、誠に粗忽千万な事を致しました、何んとも何うも申訳はございませんが、実は慥かに懐へ入れてお邸を出た了簡でございまして、枕橋まで参ると怪しい奴が私に突き当りながら、グッと手を私の懐の中へ入れました時に奪られたに違いないと思い、小僧の使じゃアなし、旦那様に申訳がない、百両の金子を奪られては済まんと存じまして、吾妻橋から身を投げようと致す所へ通り掛ったお職人体の方が私を抱き止めて、何ういう訳で死ぬかと尋ねましたから、これ〳〵と申すと、それは気の毒だ、此処に百両有る、これを汝に遣るから泥坊に奪られない積りで主人の処へ往くが宜い、併しそれは尋常の金じゃない、たった一人の娘が身を売った身の代金だけれども、これを汝に遣るからと仰しゃって、御親切なお方に戴いて参りましたのでございます」
主「イヤハヤ何うも呆れちまった、何うだろう、其のお方が通らんければドブリと飛び込んで仕舞い、土左衛門になっちまったんだ、アヽ危い処だ、ムヽ、其のお方はお前の命の親だ、御真実なお人だの、何うも百金と云う金を直ぐに恵んで下さるとは有難いお方だ、その何は何処のお方で何んと云うお方様だ」
文「ヘエ……何んてえお方だか存じません」
主「馬鹿だねお前何うもコレ百両という大金を戴きながら、其のお方のお名前も宿所も聞かんてえ事はありませんよ」
文「お名前も所もお聞き申す間もないので、アレ〳〵といってる中に、ポンと金を打ッ附けて逃げて往きました」
主「金を人に投げ附けて逃げて行く奴があるものか、お名前が知れんじゃアお礼の為ようもなし、本当に困るじゃアねえか」
文「ヘエ、誠に何うも済みませんで」
主「ムー……娘を売った金とかいったな」
文「ヘエ、その今年十七になるお久さんという娘の身を角海老へ売った金が百両あるから、これをお前に遣るが、娘は女郎にならなけりゃアならない、悪い病を受けて死ぬかも知れないから、明暮凶事のないように、平常信心する不動様へでも何んでも、お線香を上げてくれと、男泣きに泣きながら頼みましたが、旦那さまえ、何うか店の傍へ不動様を一つお拵えなすッて」
主「何んだ馬鹿ア云って……コーと角海老というのは女郎屋さんだ、其処へ往ってお久さんという十七になる娘が身を売ったかと聞けば、それから知れるが、私は頓と吉原へ往った事がないのだ、斯ういう時には誠に困る、店のものも余り堅いのは斯ういう時に困るな、吉原へは皆な往った事がないからのう、平助どんなぞも堅いから吉原は知るまい」
平「エヽ角海老てえ女郎屋は京町の角店で立派なもんです」
主「お前吉原へ往ったのかえ」
平「此間三人で…イエ何にソノ」
主「ごまかして時々出掛けるね、併し今夜は小言を云いません、夜更の事だから、向後たしなみませんといけませんよ」
と別に小言もなく引けました。
翌朝主人は番頭を呼んで何かコソ〳〵話を致しましたが、やがて番頭の平助は何れへか飛んで往き、暫く経って帰って来まして、またコソ〳〵話をしましたが、解ったと見えまして、
主人「羽織を出してくんナ……文七や供だよ」
文「ヘエ」
と文七が包を持って旦那の後へ随いて観音様へ参詣を致し、彼れから吾妻橋へ掛りました時に文七は「あゝ昨夜此処ン処で飛び込もうとしたかと思うと悚然とするね」と云いながら橋を渡って参りました。
主人「本所達磨横町というのは何処だえ、慥か此所らかと思うが、あの酒屋さんで聞いて見な左官の長兵衞さんというお方がございますかッて」
文「ヘエ……少々物を承ります、エヽ御近所に左官の長兵衞さんて方がございますか」
番頭「それはね、彼処の魚屋の裏へ這入ると、一番奥の家で、前に掃溜と便所が並んでますから直に知れますよ」
主人「大きに有難う存じます、それから五升の切手を頂戴致します、柄樽を拝借致します、樽は此方で持って参りますから」
と代を払って魚屋の路地へ這入って参ります。此方は長兵衞の家は昨夜からの騒ぎでございます。
兼「何うするんだよ、何処へお金を遣ったんだよ」
長「何処へって遣っちまったよ」
兼「お金を預けた処をお云いな」
長「預けたんじゃアねえよ、遣っちまったんだてえに、解らねえ、昨夜から終夜責めてやアがって些とも寝られやアしねえ、己だって遣りたくはねえが、人が死ぬってえんだ、人の命に換えられるけえ」
兼「ふん、人を助けるなんてえのは立派な大家の旦那様のする事だよ、娘が身を売ってお前の為に百両拵えてくれたものを、ムザ〳〵他人に遣っちまうてえ奴があるかえ本当に、何処かへ金を預けて置いて、又賭博の資本にしようと思って、本当に其の金はどうしたんだよ、何処へ遣ったんだよう」
長「己だって遣り度くはねえ、余り見兼たから助けたんだ」
兼「ふん、見兼て助ける風かえ、足を掬って放り込むだろう」
長「誰が放り込む奴があるものか」
とグズ〳〵いつている処へ、
主人「ハイ御免下さいまし」
長「おゝ、無闇に開けちゃアいけねえよ……見っともねえ、そんな形をして、人が来たんだよ、己が挨拶をするまで其処に隠れていねえ」
兼「見っともないたッて誰が斯んな形に仕たんだよ」
長「えゝ大きな声をするな、見っともねえから二枚折の屏風の後へ引込んでな、え、もう開けても宜うがす」
主人「御免下さいまし、長兵衞さんと仰しゃる棟梁さんのお宅は此方で」
長「えゝ何に棟梁でも何んでもねえんで、ヘヽヽ縮屋さんかえ」
主人「イエ私は白銀町三丁目近江屋卯兵衞と申しまして鼈甲渡世を致すもので、此者をお見覚えがございますか……何うかよく此の奉公人の顔を御覧なすって……文七此方へ出て此のお方のお顔を見な」
文「ヘエ〳〵、此のお方……アヽ、此のお方でございます、昨晩は誠に有難う存じます………旦那様此のお方が私を助けて下すったに違いないので」
長「おゝ此の人だ、お前だ、何うもまア宜かった、お前に金を遣ったに違えねえね……賭博の資本に他へ預けたんじゃアねえ、チャンと証拠があるんだが、まア宜かったノ」
文「ヘエ、何うも、是は何うも、昨夜は暗くって碌にお顔も見えませんでしたが、お蔭様で助かりまして有難う存じます」
主人「其の折はまた此者が不調法な詰らん事を申し貴方に御苦労を掛けまして、何とも何うもお礼の申上げようがございません、まったくは此者が泥坊に奪られたのではございません、お屋敷へ忘れて参りましたので、此の者が宅へ帰らんうちに金子はお屋敷から届けて参りましたから、何うしたのかと案じて居りまする処へ此者が帰って参りまして、金子を出しましたから、不思議に思いまして、段々調べて見ますると、まったくは賊に奪られたと心得て、吾妻橋から身を投げようとする処へ、これ〳〵のお方が通ってお助けなすったという事ゆえ、取敢ずお礼に出ましたが、何んとも何うも恐入りました、有難う存じます」
主人「私共も随分大火災でもございますと、五十両百両と施を出した事もありますが、一軒前一分か二朱にしきゃア当りませんで、それは名聞、貴方は見ず知らずの者へ、おいそれと百両の金子を下すって、お助けなさるという其のお志というものは、実に尊い神様のようなお方だッて、昨夜もね番頭と貴方のお噂を致しましたなれども、お名前が知れず、誠に心配致しておりましたが、ようやくの事で解りましたから、御返金に参りましたが、慥か此れは角海老さんとかで御拝借の財布だそうで、封金のまゝ持って参りましたから、そっくりお手許へお返し申します。」
長「えゝ」
と手に取上げて考え、
長「金子が出たんですか」
主「ヘエ、金子は奪られは致しません、此者より先きに宅へ届いて居りましたから二重でございます」
長「ムヽ…じゃア此の人は奪られねえのかえ、冗談じゃアねえぜ、え、おう、己アお前のお蔭で夜ぴて嬶に責められた……旦那ア間違だって程があらア」
主人「此者も全く奪られたと思ったので、誠に何うも何んともお礼の申し上げようはございませんが、金子は其の儘お受取りを願います」
長「だがね、これを私が貰うのは極りが悪いや一旦此の人に遣っちまったんだから取返すのは極りが悪いから、此の人に遣っちまおう、私は貧乏人で金が性に合わねえんだ、授からねえんだろうから、此の人が店でも出す時の足にして下さえ、一旦此の人に授かった金だから、何うか遣っておくんねえ」
主人「イエ〳〵どう致しまして、奪られたら戴きます、御気象は解りましたから、併し全く二重に金を私が戴く訳で」
長「だがね、何うも……だからよ、貰って置くから宜いじゃアねえか……誠にどうも旦那ア、極りが悪いけれど、私も貧乏世帯を張ってやすから此の金はお貰れえ申しやしょう」
主人「それは誠に有難い事で、就きましては貴方のような御侠客のお方と御懇意に致していますれば、此方の曲った心も直ろうかと存じますので、押附けた事を願って誠に恐入りますが、今日から親類になって下さるように、私は兄弟と云う者がない身の上でございますゆえ、今年からお供の取遣りを致します、明日あたり餅搗きを致しますから、直にお供をお届け申しますが、何うぞ幾久しく御交際を願います」
長「冗談いっちゃアいけやせん、私のような貧乏人が親類になろうもんなら、番ごと借りにばかり往って仕ようがねえ」
主人「イエ〳〵何うか願います、それに又此の文七は親も兄弟もないもので、私どもへ奉公に参った翌年に親父がなくなりましたが、実に正道潔白な人間ですが、如何にも弱い方で店でも出して遣りたいが、然るべき後見人が無ければ出して遣れんと思っておりましたが、貴方のようなお方が後見になって下されば私は直に暖簾を分けて遣るつもりで、命の親という縁もございますから、親兄弟の無いものゆえ、此者を貴方の子にして遣って下さいまし、文七も願いな」
文「何うか貴方、然うでもして下さいませんと、私は貴方に御恩返しの仕方がございません、不束でございますが、私を貴方の子にして下されば、どんなにでも御恩返しに御孝行を尽します」
長「ヘエ、どうも旦那ア妙ですナ、へんてこですな」
主人「イエも何う致しまして、親子兄弟固めの献酬を致しましょう…先刻の酒を、その柄樽を文七」
文「ヘエお肴が」
主人「イエサもう来ているだろう」
と云いながら腰障子を開けると、其の頃の事ゆえ、四ツ手駕籠で、刺青だらけの舁夫が三枚で飛ばして参り、路地口へ駕籠を下し、あおりを揚げると中から出たのはお久で、昨日に変る今日の出立ち、立派になって駕籠の中より出ながら、
久「お父さん帰って来たよ」
長「ムーンお久……どうして来た」
久「あの此処にいらっしゃる鼈甲屋の旦那様に請出されて帰って来たよ」
兼「オヤお久、帰ったかえ」
と云いながら起つと、間が悪いからクルリと廻って屏風の裡へ隠れました。さて是から文七とお久を夫婦に致し、主人が暖簾を分けて、麹町六丁目へ文七元結の店を開いたというお芽出度いお話でございます。
底本:「定本 圓朝全集 巻の一」近代文芸・資料複刻叢書、世界文庫
1963(昭和38)年6月10日発行
底本の親本:「圓朝全集卷の一」春陽堂
1926(大正15)年9月3日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
ただし、話芸の速記を元にした底本の特徴を残すために、繰り返し記号はそのまま用いました。
また、総ルビの底本から、振り仮名の一部を省きました。
底本中ではばらばらに用いられている、「其の」と「其」、「此の」と「此」は、それぞれ「其の」と「此の」に統一しました。
また、底本中では改行されていませんが、会話文の前後で段落をあらため、会話文の終わりを示す句読点は、受けのかぎ括弧にかえました。
※表題は底本では、「文七元結」となっています。
入力:小林 繁雄
校正:かとうかおり
2000年5月8日公開
2016年4月21日修正
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