ファシズムは生きている
宮本百合子



 林米子さんへ。

 お手紙ありがとう。十二月二十五日の晩は、かえりにおつれがあったから助かりましたが、本郷の通りで、走っていたバスが急停車したとき、ステップのわきの金棒につかまって立っていたわたしのからだが、ブーンとひとまわりふられて、もし、手がはなれたらそのままふりおとされるところでした。わきにいたちゑ子さんが、「あらあ、おっかなかった」といいました。

 あの講演会から病気がわるくなって、いまも床の上です。口述していただいて返事をかきます。あの講演会でもわかるように、この頃だんだんいろいろな作家がファシズムに反対し、日本の独立と平和とを守るためには一致した気持で集りもするようになってきたことは、実にプラスだと思います。東條の家族が、「父は生きたのです」といった十二月二十三日の次の日、わたしたちはA級戦犯容疑者十七名が釈放された記事と写真とをみました。

 釈放された人のなかに、安倍源基という名があります。昭和のはじめ、日本の天皇制が侵略戦争をはじめたにつれて、治安維持法がしだいに殺人的な悪法となってゆきました。安倍源基は、警視庁の特高部長でした。それから人民抑圧の手柄によって、警視総監となり、内務大臣となり、さいごに企画院にゆきました。彼の出世の一段階ごとに治安維持法の血がこくしたたっています。小林多喜二を拷問で殺したのも、安倍源基とその部下の仕事です。岩田義道を殺したのも、上田茂樹をとうとう行方不明のままほうむり去ってしまったのも、彼の立身の一段でした。その頃非合法におかれていた共産党の中央委員のなかに、大泉兼蔵、小畑某というスパイをいれ、大森のギャング事件、川崎の暴力メーデーと、大衆から人民の党を嫌わせるような事件を挑発させたのも、安倍源基とその一味でした。スパイは、日本全国の党組織に入りこんでいて、金、女のことで世間の人が誰しもよくないことと思わずにいられないような行動をする一方、次から次へと組織を売りわたしてこわしてゆきました。治安維持法の犠牲者は、全国に二十万人ほどあります。その三分の二の人びとにとって、安倍源基の名は決して忘れられません。昭和七年から終戦まで、そして今日わたしが床の上でこの手紙をひとに書いてもらわなければならないような健康状態におかれるようになった十数年間のすべての治安維持法関係の書類のかげには、安倍源基の名が関係しています。

 表面上ファシスト団体が解散を命ぜられたといっても、それはちょうど尾津組その他の暴力団が組という組織を変えて近代的な株式会社になり、ますます一般の目からはみわけにくい形で活動をつづけるのと同じような道をたどっています。そのファシスト団体の首領である児玉誉士夫、葛生能久たちが自由市民の生活にまぎれこんできました。

 こういうふうに、国際的に侵略戦争の煽動者であり、ファシズム思想の組織者であったと認められた人びとが、わたしたちの生活にたちまじってきたことについて、どう判断していいのでしょう。わたしは思います。このことは日本のわたしたちの民主主義への努力がどのくらい真に人民の意志の表現であり、その行動であるかをためすものであると。したがって、民主主義をそこなうための勢力に対して正当な批判をおこない、行動によって民主主義の道をえらび、平和のための戦争挑発と戦ってこそ、人民の権利はいよいよ実際的に守られてゆくべきであるということです。

 あの講演会で、ファシズムは生きていると申しましたけれど、生きているどころか輪をもってかけずりまわっているわ。一月六日の時事新報二面のトップに「五・一五事件山岸中尉の新生」という見出しの写真入り記事があったのをごらんでしたろう。昭和七年五月十五日に永田町の首相官邸で当時の首相であった犬養毅を射殺した一団のテロリスト将校がありました。前年にいわゆる満州事変がおこって日本の陸軍が侵略戦争へさかおとしになってゆく一歩がひらかれたときでした。そのとき、将校にとりまかれた首相が、「話せばわかる」というのに対して「問答無用、射てッ」と命令して老首相を倒した海軍中尉が山岸宏でした。十七年の歳月がすぎ、山岸宏の名は山岸敬明とあらためられました。自宅の仏壇に犬養毅の写真が飾ってあり、毎月回向をかかさないそうです。そして、今の民主党の中心的活動家である犬養健(犬養首相の息子)に対面する日を楽しみにしているそうです。その山岸敬明が経営しているのが深川新大橋にある互幸輪タク会社です。この輪タクは「宮様輪タク」とよばれています。それはどうしてでしょう。山岸敬明が輪タクを開業するとき十万円ほどの資本を出して株主となったのがもとの賀陽宮、いまの賀陽恒憲だったそうです。

 荒物店でもひらくなら十万円という金はもとの千円として何かの役にたつでしょう。けれども輪タク一台いくらすると思って? 田舎の輪タク屋がわたしにいったことがあります。こんなものが造るとなれば一台二万円はかかるんですから、どうしたって料金も高くついてしまいますと。十万円で輪タク五台ですよ。ところがね、記事によると山岸敬明という人は事業家なのです。この人は、犬養首相を射殺して禁固十年の判決をうけ、七年たった昭和十三年に仮出獄したそうです。それからまた不敬罪によって三年間未決にいたときに終戦となりました。その後、故郷の新潟県関山でもと陸軍の演習地であった四十町歩の土地の開墾をはじめ、製粉、製塩事業の関山農場をやっているのだそうです。四十町歩の陸軍演習地を海軍のなかでも、特別な政治テロリストであった山岸中尉が手に入れたということは、そこに諒解があったわけでしょう。この仕事に組織されたのは関山の中学や小学校の後輩二〇名だそうです。新聞記事は、これらの人びとを同志とかいています。いわゆる五・一五事件当時から山岸敬明と妻君のあや子という人の間には、新聞口調でいえば、灼熱のロマンスがひめられていたそうです。このあやさんが賀陽氏のいとこなのだそうです。

 だいたい生活能力のあたえられずに生きてきた皇族の今日の生活は、実際ひどいものであると思います。その生活能力のないという現実と、同時に日本の人びとの感情のなかにまだまぼろしをのこしている「宮様」のありがたさに対する利用価値とが、からみあって、いつも右翼の財力にひっかかっています。いつか平民になった皇族たちの職業しらべがでていましたが、ほとんど大部分が「何々の宮」という看板を貸して、かげの闇めいた儲けでやしなわれている状態でした。

 天皇制についての研究は、この際あらためて、わたしたちの重大な問題です。なぜなら、いまの憲法は、本極りのものではなくて、このごろ対日理事会で再審査されはじめています。日本の政府は狡猾で、新憲法発布のおまつりさわぎをしたりして、さも、いまの憲法がもうきまってしまったようにみせかけました。

 ところが、そうでないことは、おまつりの最中にだってわかっていたのです。天皇がたとえ言葉の上で「シムボル」だといわれたにしろ、シムボルというものはそれによって象徴される実体があることの証拠です。極東裁判によって天皇が戦争に責任ないということを決められました。これにはずいぶんみんなが驚きました。そして反語的にいえば悲しみました。それほど一人の人間として、男として無能力者が日本の絶対者としての天皇だったということは、日本中に強烈な印象を与えています。世界がもし、日本の天皇を本当の元首とよぶにふさわしい人格をもった大人であると認めたなら、法律上の責任はともかく、人道上の責任について糺弾しなかったことはありません。そのひと個人の上に悲劇をもとめる心持はないけれども、人民に対して一軍人ほどの責任さえも負うにたえない人物であったということが証明されたことは、天皇制そのものがどんな形においても民主的日本には、もう必要がないことを明らかにしたことです。

 天皇が戦争責任を負うにたえない人物であることが証明され、彼の一族である皇族が生活の経済的基盤を闇屋に負っている実情と、ファシストやテロリストであった者が、「建設期に入ったから」と、それなりの「建設活動」を進行させている事実とを眺めわたしたとき、人民の権利というものについて無量の思いがあります。ファシズムに反対するというような言葉の上での決議や、戦争挑発にだまされないという小さな決意ぐらいでは、古い大組織をもち、国際的な旧勢力と無関係でない人民生活の破壊力に対して、決して具体的に抵抗できるものではありません。わたしたちは、あらゆる場所で、あらゆる場面で千差万別の形であらわれてくる、反人民的勢力のすべてと戦ってゆかなければならないと信じます。なんぞというと、このごろは恋愛談議がはやっているけれども、恋愛にだってまっさきに問題になるのはこの反人民的な勢力が、恋愛や結婚の上にどうあらわれるかということについての現実的な判断が必要なのです。この山岸敬明をみてごらんなさい。あや夫人は、けっしてただ賀陽のいとこで、おじさんにどこか似た京都風な顔をしているばかりではありません。テロリストであった山岸宏との間に、事件当時から灼熱のロマンスがあったのです。十三年に結婚してのち、山岸はふたたび不敬罪にとわれ、入獄している。そのあいだ、彼女は彼の支持者でした。こういう恋愛と結婚とに思想と感情の一致がないということはありません。山岸宏の姉妹の一人は、中国への侵略戦争の当時、男装して軍と行動をともにして一冊の本をかきました。兄妹の情愛にファシストとしてながれる思想がつらぬかれていたわけです。

 現実の社会はあまくありません。ファシストとよばれる人びとのなかにやはりその思想でむすばれた恋愛・夫婦・協力した活動が実在することは、山岸ロマンスの実例がまざまざと語っています。

 わたしたちの人生でどんなひとの幸福も平和も、それをうばう力との闘いなしにわがものとならないことは、あんまりはっきりしていると思います。あなたの職場へわたしがいった頃あそこにいた人たちに、どうかくれぐれもよろしく。そしてわたしのこの手紙をよませてあげてください。

〔一九四九年二月〕

底本:「宮本百合子全集 第十六巻」新日本出版社

   1980(昭和55)年620日初版発行

   1986(昭和61)年320日第4刷発行

底本の親本:「宮本百合子全集 第十二巻」河出書房

   1952(昭和27)年1月発行

初出:「われらの仲間」第六号

   1949(昭和24)年225日発行

入力:柴田卓治

校正:磐余彦

2003年914日作成

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