今日の日本の文化問題
宮本百合子
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序論 三つの段階
Ⅰ 新聞・通信・ラジオ
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書籍
Ⅱ 教育
国字・国語
宗教
科学
Ⅲ 文学
映画・演劇
音楽
舞踊
美術
スポーツ
文化組織
国際文化組織
序論 三つの段階
一九四五年八月十五日から今日まで二年数ヵ月の間に、日本が経験した社会生活と文化の変化は、歴史に未曾有なものであった。今日の日本の文化を語る時、私達はこの二年数ヵ月の間に経験された日本民主化のいくつかの段階の推移と、その推移の間に現われた極めて日本らしい特徴をもったそれぞれのニュアンスについての理解を必要とする。
第一期 一九四五年八月十五日──一九四六年三月頃まで。
第二期 一九四六年四月──一九四七年三月まで。
第三期 一九四七年四月──一九四八年三月頃まで。
第一期 日本の絶対主義的軍事政府が、根本的敗北を認め、ポツダム宣言を受諾した後に引続き、日本全土に起った混乱の時期であった。同時に極めて活溌な日本民主化の端緒があらわれた時期である。一九四五年十月「政治信教ならびに民権の自由に対する制限の撤廃」に関する連合軍からの覚書が発表されたことは、過去三十年近く日本の全人民の良心と言論・出版の自由を抑圧していた悪法、治安維持法の撤廃をもたらした。治安維持法の撤廃によって共産党員をはじめとする民主的進歩主義者および真面目なキリスト教徒に至るまで何万人かの罪人が解放された。日本における治安維持法の撤廃は、ヨーロッパ諸国の文化人が想像もできないほど日本の民主化と平和的再建のために決定的な意味をもっている。何故ならば、日本の絶対主義的な天皇制と侵略的な軍事権力とは過去二十六年間この治安維持法によって日本のあらゆる民主的、平和的発言とそのための運動とを弾圧してきたのであるから。彼等が満州侵略を拡大して中国に及び、遂に太平洋戦争にまで日本人民を駆りたて、今日の破滅に導くことができたのは、天皇制と治安維持法のおかげであった。
第一の時期に行われた主要な日本の民主化のための努力は左のようである。
1 治安維持法の撤廃および陸海軍刑法の撤廃。戦時特別法の撤廃。
2 主要戦犯容疑者の大量逮捕。
3 憲法改正。
4 民法改正。
5 刑法改正。
6 選挙法改正。
7 宗教団体法廃止。
8 全外交機関の引渡し。
9 財閥解体。
10 農民の徹底解放指令。
11 神道と国家権力との分離。
12 ラジオ、映画、演劇、新聞、郵便通信、宗教、教育等の戦時的統制からの解放。
13 軍国主義的教育の禁止と軍国主義的教育者の追放。軍国主義的修身・地理・歴史教育の禁止。軍事教練の廃止。軍国主義的体育(柔道、剣道)の正科禁止。
第二期 一九四六年一月一日に天皇が「元旦詔書」を発表して、天皇自身従来絶対主権者として己れに附されていた神性を否定し、所謂シムボルとしての天皇の性格を明らかにした。このことは、日本の民主化の発展にとって旧権力が発明した一つの狡猾な政治的ゼスチュアであった。ポツダム宣言受諾以来、日本国内および国外で天皇の戦争責任の有無と天皇制存続の可否論は重大な関心をもって討議されつつあった。国内の民主的見解は、天皇が戦争の責任を問われるべきものと判断した。宣戦の詔勅に署名したのはほかならぬ天皇であり、天皇の名においてすべての軍事行動はなされたのであった。
絶対主義的な天皇制の教育による社会慣習のために従来の日本人民は、人民を隷従させる諸命令、諸法律を無条件に受け入れてきた。天皇制が封建制と近代資本主義的帝国主義の悪質な統一においてファシズム化し、絶対権力をもっているからこそ、長年の戦争行為を行いえたのである。ポツダム宣言の正直な履行、日本の民主化と平和のために、反動の伝統的温床となる天皇制は廃止さるべきであるという見解は、強力な国内の民主的輿論の一面であった。
第一期を通じて国民的討論の中心におかれた天皇制問題は、天皇および旧支配階級に深い脅威となっていた。そこで彼等は人民の社会的感覚があまり民主化されないうちに、すなわち人民の人間的権利についての自覚は目覚めつつあるが、習慣に根ざした隷属性や迷信が、あまり見事に払拭されてしまわないうちに、天皇および天皇制を妥協的な形で再確立するのが賢明であると考えた。「元旦詔書」はその手はじめとして決して不成功ではなかった。一月三日の夜、NHKの報道放送で文学博士和辻哲郎は、天皇制護持の哲学上の基礎づけを行った。文相安倍能成は二月十一日、日本の建国記念日とされている日に、大和民族の優秀性を意味し天皇制の伝説の発祥である建国神話の再認識を求めた。岩波書店出版の雑誌『世界』三・四月号に文学博士津田左右吉の天皇制護持の立場からする皇室論があらわれた。当時の教育局長田中耕太郎は教育勅語を自然法的なものとして、この勅語が国民教育の基準となり得ることを主張した。戦時中は中立的立場に立っていた学者、または津田左右吉のように日本歴史の解釈において治安維持法に触れそうになり著書の発売を禁止されていたような学者が、天皇制護持のための活動を行ったことは、天皇制に対する意見の動揺している一般市民、学生、知識人にとって、その判断のはかりを天皇制承認に傾かせるおもりとなった。
政府はこのようにして準備した社会的雰囲気の中でとり急ぎ第一次憲法草案を発表した。この憲法草案の特徴は依然として天皇の特権を主張しているところにあった。
畸型的な民主化憲法が草案として討論されている間に、天皇は自身と旧勢力のための選挙運動をはじめた。東京都下その他各地方への巡幸がはじまった。これまでの神としての天皇から人間天皇への困難な転換をおかしながら。
この期間もっとも進歩的な民主的見解を代表する日本共産党は、天皇制の廃止を主張した。しかし天皇およびその一族の処置の問題は今後の全日本人民の意嚮によるものとした。ポツダム宣言受諾後最初に行われた四月初旬の総選挙に当って保守的政党のすべてが団体の大小を問わず、その政策として主食の配給改善とインフレーション防止と天皇制護持とを掲げた。日本社会党も即時社会主義実現と並行して天皇制護持を綱領とした。はじめて政治の舞台に登場しようとする婦人代議士立候補者たちも婦人の問題は婦人の手でというスローガンとともに天皇制を護持した。日本中に数百万の未亡人を出し、孤児を出し、家庭を崩壊させたのが天皇の宣戦詔勅であったのに。
このようにしてきわめて短期間に、日本の民主化の純粋性は失われはじめた。本質的に保守と反動の政策が民主化の道へ大幅に流れ出したのはどういう原因からであったろうか。このことはもちろん国内の根強い封建的伝統を決定的な理由としている。同時に金の匙から食べていた者は何時になっても彼等の金の匙を捨てようとは欲しない。これは世界共通の現象である。その上、七十年以上封建的な絶対主義と軍国主義に馴致され、最近数年は半狂乱の戦争熱であおられていた日本の人民にポツダム宣言を受け入れさせ、軍隊を解散し、敗戦を認めさせるためにはその半封建制そのものに利用価値があると考えられたのであろう。天皇がラジオを通じて敗戦を認めポツダム宣言受諾を宣言したことは、その一つのあらわれであった。一九四五年八月以後の混乱期に東久邇宮を内閣の首班としたのもこの方法の一つであったろう。日本の民主化と国際平和のために、日本における天皇制の利用がなお真実な価値をもっているであろうか。このことは、今日において、世界の良心的なすべての民主主義者にとって正しく判断されるべき課題である。民主的な占領政策の実現と日本の民主化を実現するために天皇制が最後の奉仕を行い得る限界はすでにすぎている。日本国内の旧支配権力は天皇に対する連合国側のこの利用的譲歩の技術に乗じて全くそれを悪用している。彼等は一九四五年八月以来、公職から追放された政治的・軍事的有力者の利害を結集して裏面に反動的支配勢力を組織した。
人民の眼からかくされている上層部の裏面的な政治勢力は、内閣および議会をかいらいとして表面上は財閥解体令を受け入れながら緊急金融措置令によって新円切換えを行い、さらに半年のうちに第二回の金融措置(一般に預金封鎖とよばれた)を行って特権的階級に手厚い保護を与えた。財産税の処理方法は多額納入者により便宜な支払方法を決められた。その上、財産税の用途には軍需生産業者の損失に対する国家の補償が含められた。
一九四六年三月以降第一回金融措置令以後インフレーションは急に上昇した。物価は目立って高くなった。税率が引き上げられた。これらすべての事情は、戦争によって経済的支柱を失った多くの家庭をはじめとして全人口がそれぞれの角度から戦災者である勤労階級の生活をますます急迫させた。一九四六年から四七年の二月に至るまでの時期、日本全国に待遇改善、賃金値上げ、職場の民主化等を主眼とする労働争議が続発した。その中心に合法的な活動を認められるようになった労働組合が立った。人民の創意から食糧事情の改善を政府に要求する大示威運動も行われた。
吉田内閣は人民が生活危機によって激昂している時局を収拾するために、GHQのあっせんによってアメリカからの食糧輸入を求めた。同時に社会秩序保持の声明を行った。読売新聞社の争議が社長馬場恒吾と政府との協定によって弾圧され、食糧メーデーの時使用されたプラカードの天皇諷刺の字句を理由として、それを書いた労働者が不敬罪で起訴された。当時吉田首相が一記者に語った言葉は深刻に日本の民主化の逆流現象を反映している。彼はインターヴィウにおいて、次のように語った。「占領第一年を回顧するときわれわれ老保守主義者は民主主義の一大進歩を認める。余は昨秋外相に就任した際は連合軍の政策に対しある程度の疑念を抱いていたが、現在ではわれわれは民主主義を当時より安易な気持で受入れることが出来る」(『日本経済新聞』九月七日号)
労働法における勤労階級の権利を、資本家とその権力の利害と妥協させる一機関として中央労働委員会が組織された。労働者の争議に対して経済者は暴力団を使用した。表面上解体された特高警察はより陰険な謀諜網をもって秘密に再組織されている。GHQの三字は支配階級によって自身の官僚主義を拡大強化する便宜に使われている。
一九四七年二月一日を期して行われようとした全官公労働組合中心のゼネストは、その現実的原因を生み出した日本の支配者の失政をより少く追求ししつつ勤労者の労働運動の自由の範囲を縮少して限定した声明によって抑えられた。敗戦国である日本において労働運動の自由が認められて一年半を経過したとき、労働者のゼネスト権が否定されたことは国内および国際的に資本主義の経済事情が急速に危機に向っていることを証明している。
この間に、議会では憲法改正案の審議を進めつつあった。一方に天皇制を護持しつつ、民主的憲法を制定するという矛盾した仕事のために、様々の紛糾を重ねた。衆議院では、この憲法改正案審議について、滑稽な幕間劇が行われた。日本社会党は、社会主義とともに天皇制護持を強調して来ていたところ、思いがけなく、改正憲法の基本的性格として「主権在民」の規定をするべきことを、保守党である進歩党によって提案された。社会党は、不意うちをうけた。「主権在民」を基本的性格とする憲法改正案は、このような幕間劇をもって十月貴族院本会議を通過し、翌十一月三日公布、一九四七年五月三日に施行されることになった。「主権在民」の新憲法は、日本にはじめて基本的人権の確立に関する諸項をもってあらわれた。男女平等も承認され、良心の自由も明記されている。しかしながら、この「主権在民」には余りに日本的特徴がつよくあらわれていて、国内の民主的な有識人および国外の有識人をおどろかした。それは、この改正憲法中になお天皇に関する特別な数箇条がふくまれていることである。その数箇条において天皇の世襲的な地位、それによってもたらされる身分の差・経済基礎が確保されており、少くない命令、決定の権利が天皇に掌握されている。一定の国の人民が天皇によって召集される議会をもつ、ということは、議会へ天皇も出席するということとは、本質的に別のことである。一九四六年に日本の人民は、このようにして換骨脱胎させられた「主権在民」憲法をもつに至った。
第三期 この時期の特徴はインフレーションの進行につれて生計費の高騰のために、人民が一層の生活困難におちいった事実である。一九四七年四月に行われた第二回総選挙の結果、社会党が第一党となった。社会党首班の内閣を組織するについては保守政党との間に幾多の紆余曲折があった。日本における大財閥を背景とする自由党は社会党が総選挙で勝利したことを日本における勤労大衆の急進勢力の進出であるとみて、吉田自由党総裁は選挙直後、組閣行き悩みの際に公然と反共声明を行った。前項に引用した記者との会見談の内容をみれば、自由党が日本の民主化の停頓や逸脱を決して悲しんでいないことは明瞭である。自由党のこの反共声明は社会党左派といわれていた同党内のより少い反動主義者のグループの一部のものに極めて注目すべき喜劇を演じさせた。内閣の椅子を占めることに対して情熱を感じた左派のグループ中、加藤勘十と鈴木茂三郎等が中心となって外国記者団を引見し、社会党左派が共産党に接触を保ってきたのは、勤労大衆を同党の組合総同盟に獲得するためであった。今日この目的はほぼ達せられたから今後共産党とは絶縁するという意味の声明を行った。この声明はただちに日本国内にも反映し、社会党左派の一部がとったその態度は保守的政党の嘲笑を買ったばかりでなく、社会党左派そのものの内部から激しい批判を受けた。
片山哲を首班とする三党連立内閣はこのような悲喜劇のうちに成立した。自由党は野党になった。彼等の目的は野党として大衆の間の保守勢力を拡大するところにある。
日本の民主化の現実の過程では人民的な基礎に立つ民主戦線の結成を拒否し勤労大衆の急進化を恐れつつ、その反面には自党の政策として社会主義的建設をかかげている片山内閣が、吉田内閣の悪政の結果、山積している重大課題をどう解決したろうか。
日本ではじめてクリスチャンであることを政治家の人間的プラスの面としておしだしたのは片山首相であり、その何人かの閣僚たちであった。クリスチャン首相が第一声としてインフレーションに苦しむ勤労大衆に要求したのは耐乏生活であった。つづいて六月十一日に八項目から成る「経済緊急対策」を発表、同十九日に業種別平均賃銀千八百円ベースを公表した。森戸文相と笹森国務相によってとり急ぎ「新日本建設国民運動要領案」が発表され民間各方面の代表者に協力を求めた。七月には経済安定本部の「経済実相報告書」を発表した。引き続き生活必需品の流通を適正化するために公定価格の引きあげが行われた。
千八百円ベースは四・二人世帯の家族を基準としてすべてを公定価格で算出した数字である。現実に公定価格の配給食料で生命が保てるのは辛じて三分の一ヵ月である。しかも日常消耗品のすべては配給では間に合わない。せっけん、紙に至るまで。配給を円滑にするためとして行われた公定価格つり上げは、日常生活に大きい部分を占めているヤミ物価の上昇をもたらした。千八百円ベースというものがインフレーションの現実の中でどんなに非実際的な数字であるかということは一九四六年六月頃までの世界の生計費指数の統計をみても分る。
世界生計費指数(国際連合調)一九三九・一─六=一〇〇
年月
アメリカ イタリー 日本 フランス
綜合 食糧 綜合 食糧 綜合 食糧 綜合 食糧
一九三八年平均 一〇二 一〇三 一〇〇 一〇〇 一一一 一一一 …… 九三
一九四一年平均 一一八 一三一 …… …… 一五二 一五七 …… 一三九
一九四五年平均 一三〇 一四七 …… …… …… …… …… 三五一
一九四六年三月 一三一 一四八 二、三〇六 三、二四七 三、五九〇 四、五〇〇 …… 四四八
六月 一三五 一五四 二、三二四 三、三三七 四、〇〇〇 五、一三〇 …… 五三八
東京の自由およびヤミ物価指数を調べてみると次表の通りになる。
東京物価指数(東京商工会議所調)
昭和二〇年一一月六日=一〇〇
食糧 衣料および日用品
一九四五・一二月 九八・二 九七・六
一九四六・七月 一六五・二 一三七・八
一九四七・六月 三四八・七 三二五・四
ナチスの侵略によって民族生活を破壊されたフランスにおいてさえ一九四六年の六月の食料品指数は六倍弱の高騰であり、ファシズムの犠牲となったイタリーにおいて食料は三〇倍弱であるのに、日本は五〇倍弱に騰っている。以来今日まで日本の物価指数は三つ四つの段階を経てとびあがりつづけている。
一九四七年九月の予定的な計算でも千八百円基準の生計費は一ヵ月の公定価格による支出一、三五一円九八銭、自由購入による支出一、六八一円一二銭となって合計三、〇三三円一〇銭となる。したがって家計失調は日本において全般的な状態で、この事情は業種別勤労者賃銀表と見くらべると深刻な日本の全人民層の生活難を語っている。一九四七年七月統計局調査によればもっとも収入の高い軌道労務者男子一ヵ月三、七二六円五、婦人一、九七八円であり、婦人勤労者のもっとも多い紡績工業においては男子労務者一ヵ月一、四五五円六、婦人六〇九円である。職員は待遇が差別されていて幾分か増額されているけれども男子労務者と婦人労務者との間にある殆ど二対一のひらきは総ゆる生産場面の男女差別待遇としてあらわれている。日本では戦争によって全人口中三百万人の女子人口過剰を来している。過去のあらゆる時代に経験されなかったほど婦人の経済的独立の必要はつよく一家の経済的責任の負担が増大されている。改正憲法の上で男女平等がいわれ、平等の選挙権を持ち、半封建的な民法が改正されたとしても、社会生活の基礎である勤労とその経済関係で婦人が男子の二分の一の待遇におかれている事実は注目すべき社会現象である。労働省の中に婦人局が設けられた。これはアメリカの〝Woman's Bureau〟を模倣したものであるが、日本の官僚主義は婦人局の活動第一歩において婦人局長たちに、予算の不足をすべての不活動の理由とさせている。
片山内閣が七月初旬に経済安定本部から発表した「経済実相報告書」は明からさまに日本の国民経済の破滅を告白したものであった。この報告は「経済白書」とよばれた。「白書」は一方に外資導入について、それがさけがたいというおおざっぱな諦めを持たせ、中小工業の破産を止むを得ざる事態と認めさせ、公定価格つりあげの基盤としても役立てられた。閣議によって全国の飲食店営業停止を行い、ヤミ市をとり締り、各駅でヤミ買いの厳重な監視が行われた。しかし「白書」は物価騰貴の顕著な一つのスプリング・ボードであった。新聞の多くの漫画は小さなヤミ買出し人が背中の荷物で警官にきびしく調べられている横を隠退蔵物資のトラックが堂々と走って行く光景を諷刺した。運輸大臣であった苫米地は地方にいる息子から不正な大量物資輸送を受けて辞職し、息子は収監された。世情を騒がし全国的な連累関係をもっている「世耕事件」が起った。この軍需品払下問題にからむ大規模な詐欺横領事件は経済問題から保守政党の党費にからむ政治問題になった。宇都宮の「狸御殿」事件も大規模な詐欺横領であった。食糧買出しに狂奔する婦人がさまざまのヤミ取引の間に道徳的堕落に誘われたばかりでなく「小平事件」のように米をきっかけに若い娘に対する殺人事件もあらわれた。
犯罪数の増加と方法の残酷さとは市民生活を絶えず不安におとしいれているし、「夜の女」と浮浪児の生活救済について政府は全く無力である。それどころか一九四七年の夏には浮浪児収容所の監督者が逃亡しようとした少年を拷問虐殺した事件も起った。
片山内閣は思いがけないエネルギーを発揮して、日本の半封建的社会の伝統として存在していた博徒の大親分関東尾津組の親分をはじめとして大小の親分を検挙した。ヤミ市の元締であり新興マーケットの元締であり恐喝常習の暴力団であるこれらの徒党の検挙と団体の解散は、一般市民に好感をもってみられた。関根親分の検挙にからんで元行刑局長正木亮がその法律顧問をしていたことが明らかとなった。また篠原組親分の実質的協力者は塩野前司法大臣であったこともしられた。或る者は皇族の一家と関係をもっており、或る者は自由党に関係があった。輿論は自由党の経済的毛細管であり、動員網であるヤミ市の繩張り顔役の勢力に、社会党が一撃を加えたものと認めた。
同時に一般市民は片山内閣そのものの腐敗した構成にも驚かされた。苫米地の事件をはじめとして平野元農相の資格失墜問題、西尾官房長官の資格についての疑点等が党内の勢力争いとともに公表された。
片山内閣のこのような弱点に人民の不信頼が向けられるようになったのは、経済再建に示された無力さと同時に前年以来日本の国内にきわめて確実に拡がってきた軍国主義的反民主的底潮に対する警戒からである。戦争責任の追求は政府によって実に申訳的に行われている。パージからのがれるためにさまざまの手段が用いられ、その効力があるような余地が残されている。急進的な勤労人民の民主化を防ぐため、いわゆる力の均衡を保つため秘密のうちに旧陸軍将校、憲兵、ファシストを中心とする反動勢力が培養されている。一九四七年の秋一斉に新聞に特ダネを与えた「地下政府」の存在を片山首相は否定したけれども諸外国はその実在を知っている。日本を愛し民族の自立を期待し徹底的な日本の民主化によって世界の平和的な再建に参与したいと希望している真面目な日本人は、反動勢力の意識的な培養について心痛している。印度においてもアラビヤにおいても培養された反動勢力は、その国の平和的民主化をかきみだす役目につかわれている。その民族を衰退させるための出血に役立てられている。そして、それはとりも直さず世界平和の不安定をもたらしている。東條を中心とする戦争犯罪者の公判のために前年から開かれている東京裁判の陳述を見ると、被告の殆ど全部が侵略戦争に対する人道上の責任を自覚していない。その上被告のための日本側弁護人法学博士清瀬一郎は被告たちの無良心を彼の厚かましい弁舌によって世界の正義からいいくるめようとした。戦時中戦争協力者であった清瀬一郎弁護士が日本側弁護人首席として登場したことに日本の民主的市民は驚いたのであった。元元老たち、その中には米内元海軍大将を含む四人が、シャンパンの盃をあげている写真が新聞に出た意味も、それが民主化とどう関係するのか理解しがたかった。日本のファシストとして大活躍をした反動者を含む二十人の戦犯人がA級戦犯被告としてとりのぞかれた事実も耳目をあつめた。特に、このグループの間に安倍源基のいることは、日本の治安維持法がどんな惨虐を行ったかを知っているすべての人々の注目の的である。安倍源基は、一九二八年以来、日本の人民の良心を奪い自由を抑圧して来た治安維持法そのものの、人格化された存在であるとさえいい得る。彼は、警視庁特高部長、警保局長、警視総監、という着実な一歩一歩を、自身の経歴に重ねた。安倍源基の閲歴そのものが、日本のファシズム強化の具体的表現であり、戦争拡大の地図である。彼の一歩一歩の立身は、彼の指揮する弾圧によって殺された人々の血にみたされている。そしてこれは決して誇張ではない。日本の治安維持法は十万──人の犠牲者を出しているのである。
日本に治安維持法があったということと、その法の適用にあたってあらゆる残虐・虐殺が行われてもよかった、ということとは別である。もしこの二つの別なことが一つのこととして理解されてよいならば、現在東京裁判が、捕虜に対する残虐行為者を公判していることはその人道上のモラルを失うだろう。
日本の人民の悲劇のなかにファシストと治安維持法の演じた役割は中世的流血をもって彩られている。今日、日本の誰が、ファシストを必要としているのであるか、今日、誰が、治安維持法の改悪の諸段階を一身の閲歴としている人物を必要としているのであるか。
日本民主化は四七年度において欺瞞の度を強めた。反動と保守が政府の政策のたて糸であった。一九四七年末から四八年初頭にかけてすべての日本人民は巨額な納税の負担に苦しんでいる。インフレーションはとめどがない。千八百円ベースは保ちきれなくなって、二千四百円ベース案を政府は提出しているが、勤労人民は、それをうけ入れかねている。千八百円ベースに、家族手当や残業手当その他の給与を加えて、今日どうやら実収二千円以上に近い程度の大多数の勤労者は、二千四百円ベースになると、却って実収は現在より減少する。勤労所得税がより高率にかけられることと二千四百円ベースには今日の諸手当が全部合算されてしまうからである。勤労人民が生活安定を求めて団結する力を扱いやすい形に分裂させるため、組合民主化運動と称する分裂運動が盛に行われている。この運動は、その本質にふさわしく買収の方法もとっている。一般市民の過重な課税に対する抗議と官公庁勤務者たちの生活安定のためのたたかいとは互に共通な生活擁護の必然を理解しあっている。
片山内閣は難航の末、一九四八年二月十日総辞職をした。すべてのジャーナリズムを動員して吉田の自由党支持の世論をまとめようとした。しかし一ヵ月後に辛うじて形成されたのは芦田内閣である。芦田内閣は、その第一歩において二千四百円ベースの問題で波瀾に面し、その反面では、西ヨーロッパにおけると同様に日本に対する集中排除法の緩和に関するドレーパー次官との折衝に尽力している。
日本政府は追放に関する諸機関の任務が遂行されたものとして一九四八年五月十日までに審議終了、廃止することを公表した。一九四六年一月の追放令発表以来、今日まで審査件数約百万。追放該当者二十万人であった。
日本の社会および文化問題として、この追放該当者の行方が問題である。日本の民主化に関係をもって、日本の「民間人」の素質を検討することがきわめて重大な課題である。元陸海軍軍人の上級者が軍需物資を持参金として民間会社社長その他に転化した事実について知らないものはない。追放に該当したファシストたちが、「民間の塾」を開いたり、「民間のジャーナリスト」になったり、開拓者になったりしている例は少くない。一九四七年の夏、軍事的半封建的なシステムをもって運営されていた町会が解散されたと同時に、各町会役員の変形した活動舞台である「文化会」がその町の顔役やボスによって組織された。日本の「民間的」諸企画は周密にその本質をしらべられる必要がある。
一九四八年三月に、右翼反動団体の財産否定に関する指令と、農場開拓に関する制限の指令がGHQから出されたことは日本の現実における「民間」の複雑性に対応する処置であると認められる。
日本の人民にとってこの世紀の基本的課題は、真に民主的な本質における民主主義によって徹底した社会を確立することである。文化の全問題はこの基本的な課題の線にそって検討されるものである。
Ⅰ 新聞・通信・ラジオ 出版 雑誌 書籍
1 新聞・通信・ラジオ
A 新聞
戦争中日本人民は正確な言葉の意味においては「新聞」をもたなかった。あらゆる日本の新聞は戦争遂行のための宣伝機関紙であった。国民は毎日二頁の軍事官報を読まされていた。一九四五年八月十五日以後に全人民はこれまでよまされていた大本営発表がほとんどすべて虚偽であったことを知って驚いた。
第一期 治安維持法をはじめ言論・出版の自由を抑圧していた法令が撤廃されると同時に、新聞民主化の動きは経営者側からというよりもむしろ読者と編集者たちとの間からたかまった。読者のための新聞、日本の民主化にふさわしい新聞の編集という要求によって紙面の刷新が行われた。社説は輿論の中心題目であった天皇制の問題、農地改革と日本の農村民主化の問題、労働人権擁護問題、憲法改正問題、総選挙について活溌にとりあげた。封建性に対する批判、官僚主義の批判、金融財閥に対する批判、戦争責任追求についても積極的であった。各新聞が投書欄を拡大し調査機関を再建した。新聞が勤労階級の民主化に助力する可能を多くするために漢字制限を行った。戦時中日本全国に日刊新聞社五十四社があって、大体一県一紙主義で統制されていた。そして数年来新聞の共同販売制が実行されていたため各社間の競争がなくなり、読者は受身に配給される新聞にあまんじた。各紙とも低調におちいった。一九四五年以後言論の自由と出版の自由とのために全国に日刊紙が続々と発刊されはじめた。そして一年後に、新しく生れた新聞社は百数十社を数える。
各政党は何らかの形で自党の新聞発刊を計画した。日本共産党は機関紙として『アカハタ』を発刊した。日本社会党は『社会新聞』を発行している。自由党、民主党その他の政党は自由党が読売新聞を操縦しているようにそれぞれの新聞との間に経済的政治的関係を保っている。
第二期 新聞が軍事的官報でなくなることを強力に宣伝することが戦後の新聞経営者の繁栄のために必要な仕事であった。第一期間、経営者が新聞の自主的な民主化や従業員の組合活動の自由を受け入れていたのはこの理由によった。第二期においては経営者のおそれた新聞経営事業の前途は比較的安全であるという見通しがついた。新聞関係の戦争責任追及も彼等が心配したほど徹底的には行われなかった。用紙不足は全国的現象であるが割当は紙の全消費量の八〇パーセントを与えられている。同時に吉田内閣の反民主的政策の現れとして全般的に勤労者の自主的民主化運動への反撃が開始されたために、紙面が沈滞の傾向をたどり、経営者が発言権を回復した。読売新聞社の第二次の争議勃発とその結末とはこの時期の新聞界の波のさしひきを代表的に示している。特筆すべきことはこの期間に各種労働組合の機関紙が発刊されはじめたことである。
これまでの日本にはなかった文化新聞も発刊されはじめた。日本民主主義文化連盟発行の『文化タイムズ』、人民新聞社『人民しんぶん』、青年新聞社『青年新聞』、YWCAの機関紙『女性新聞』。
婦人のための新聞が発行されはじめたことは婦人の参政権獲得と婦人の生活の民主化のために注目されなければならない。やや保守的な傾向のもとに編集されている『日本婦人新聞』のほか日本の民主化にひろく貢献するために発行されている『婦人民主新聞』がある。
盲人のための点字新聞は戦盲者のために重要な必要があるが、これは毎日新聞社発行の一種類しかない。
子供のための新聞は『子ども朝日』、『学童新聞』、『こどもの声』『少年少女新聞』等が発行されている。
グラフィックが流行していることも注目される。『サン・ニュース』はその一つである。
第三期 各新聞社は確実な営利事業である経済的利益を守るために、第一期の活溌な民主化への協力的態度をすてて意識的に保守勢力に追随し後退した。一九四五年九月に発表された日本への「新聞紙法」─プレス・コードは日本のすべての新聞に報道の真実を守り民主的な新聞の責任を示した十箇条から成りたっていた。第三期に入ってからプレス・コードは日本政府の微妙な形での統制と、その時どきの政権にとって有利の方向へ輿論をおしながしてゆく便宜のために利用される傾きが明らかに見られるようになった。各新聞は、国際政経記事において貧弱である。諸外国の新聞の報道に遅れていることはもとより、報道そのものが往々「報道の真実」である客観的な国際現実をゆがめていることもある。戦争中の御用新聞であったときの習慣である卑屈さと、半封建的な権力への屈従の因習が清算されていない。そのために、民主国の大統領の写真や言説が、最近まで天皇を扱ったような時代錯誤的な取扱いをされたり、日本における連合軍の首脳者が、天皇のような半封建的空気につつまれて新聞紙上に扱われたりする場合もある。このような現象は、日本の新聞人の神経が外国の新聞読者にみられない屈従の習慣をもっていることを示すと同時に、その対象となる個人の社会的利益のために少くないマイナスであると思われる。何故ならば、一人の民主的な社会活動家が、進駐先の諸新聞に半封建的な権威をもって扱われているのをみれば、本国の民主的有識者はそのような状況に対して批評なしにはいられないであろうから。日本の新聞人は、世界の新聞人の精神的確固性にまで解放される必要がある。
今日の日本人民は英字新聞『ニッポン・タイムズ』や、もし事情が許すならば『スターズ・アンド・ストライプス』などを併読しなければ自分の国の事情についても充分に知ることは出来ない。しかし人口の過半数は英語のよめない人々である。日本の民主化の困難はここにもある。
労働組合が組合新聞を発行するようになったことも日本では新しい民主的な現象である。産別機関紙『労働戦線』、総同盟機関紙『労働』その他多くが発刊されている。
従来日本の専門学校および大学で新聞学科の学生が中心となって編集した新聞を発行し、それは学内ばかりでなく一般に読まれていた。『帝大新聞』、『三田新聞』、『法政大学新聞』、『関西学院新聞』、商大の『一橋新聞』等は代表的なものであった。ところが戦争がすすむにつれ若い有識人を戦争に対する非協力な精神状態から極力戦争へ動員するために、また残酷な学徒動員のシステムを青春のヒロイズムにすりかえるために大学新聞は次第に官報的統制におかれた。学生新聞として本質的な理性の声が封じられた。そして太平洋戦争に入る頃から学生新聞は全般的に廃刊された。
一九四六年の中頃から学生新聞の再刊に着手された。今日では従来代表的であった諸新聞のほかに他の学校でも用紙の許すかぎり自分達の学生新聞を発刊しつつある。
児童のための新聞として次のようなものがある。日本教員組合が発行している『こどもの声』のほか『学童新聞』、『少年少女新聞』、中等学校初級向きの『ジュニア・タイムス』その他がある。
現在日本で発行されている外国人経営の新聞は左の通りである。
『スターズ・アンド・ストライプス』(GHQ)、『ビーコン』(英連邦占領軍)、『中華日報』(中国人経営日本語版)、『国際タイムス』(朝鮮人経営日本語版)、(朝鮮人経営朝鮮語版)、『国際新聞』(中国人経営)、『自由日報』(同上)
在日特派員クラブは現在六十一名の会員をもっている。
新聞用紙不足は一九四七年に入ってますます悪化した。各社は二月から五月までの間に二十四回タブロイド版の新聞を発行した。
新聞の定価は次のように高くなった。
四六年八月(一ヵ月)八円
四七年五月(一ヵ月)十二円五十銭
四七年十月(一ヵ月)二十円
ヤミ新聞 新聞用紙の正当な割当配給を受けないで発行されているヤミ新聞は大体八七三紙に及んでいる。各紙とも一部一円または二円で売られ、最大発行部数が週五、〇〇〇部位である。ヤミ新聞は多く強制的な広告集めや寄附強要などによって経営され反民主的な政争にきたない役割をもっている。一九四七年八月十一日民間情報教育局新聞課長インボデン少佐の名によって絶滅の方向が示された。
B 通信
新聞を軍事的官報とした旧支配者は日本にただ一つ官製の通信社として同盟通信社の存在を許していた。同盟通信社はそういう本質からきわめて積極的に戦争協力をせざるをえなかった。一九四五年八月以後同盟通信社の再編成が試みられ、同盟通信の業務を二分して共同通信と時事通信の二つの社に分れた。共同通信社は東京および地方の有力紙十四社が設立に参加した。この社は同盟通信社の純通信事務を受け継いだ。時事通信社は同盟通信社時代の全職員を株主として合作社の組織をもった。時事通信社は新聞社以外の個人・団体を目標とする日刊新聞社である。この再編成は一九四五年十一月に行われた。
一年のちには社会通信社、労農通信社その他合計十二の通信社がつくられた。
新聞の活動が第三期に入ってからは、各種通信社の自然淘汰が見られ始めた。
C ラジオ
一九四五年三月日本全国のラジオ聴取者は七、四七三、六八八戸あった。四七年七月には五、八六一、六三四戸(内無料九五、〇九六)に減少している。戦災が彼らの家とともに受信機を焼いた。ラジオ機械の生産能率はまだ非常に低い。二百万台の受信機の生産と二百万台の修理をしなければ七百万人の聴取者の要求を満しえない。ラジオ受信機の価格は現在一台戦前の四十倍になっている。
聴取料は四六年四月の二円五〇銭が四六年九月には五円、四七年九月には十七円五〇銭と上っている。
日本の放送事業は財団法人日本放送協会の独占的事業である。半官半民の形態はとっていても、本質的には逓信省の古い官僚の溜り場である日本放送協会は戦前既にプログラムの低調なことで非難を受けていた。戦時中日本の放送は、新聞よりも一層直接な戦争煽動と宣伝の役割を果した。戦争の数年間にラジオが放送した唯一の真実のことは一九四五年八月十五日降伏の宣言であった。すべて虚偽の大本営発表によって日本人民はたぶらかされてきた。
一九四五年八月以後、日本におけるラジオの民主化の問題はきわめて重大な意味をもった。一九四六年一月、GHQはラジオ民主化のために特別な覚書をもって、民間の進歩的学識専門家十数名からなる放送委員会の設立を助けた。放送委員会は日本放送協会から独立した存在である。委員会は官僚的な独占事業である放送事業を民主化するために、第一に必要な機構改革に着手し、従来の戦犯の会長と旧首脳部が退陣したのちに、新しい会長高野岩三郎博士を選んだ。高野博士は、もと東大教授であり、大原社会問題研究所の所長であり、共和主義者と信じられていた。
放送委員会は、新会長の選出にひきつづきプログラム編成上の改善、放送技術の向上および協会内に巣喰う情実のくもの巣をはらって、放送現状の各機構が民主化されることを希望したが、協会内の旧勢力は、表面上退陣したのちもさまざまな形に変ってその影響を新首脳部の日和見的な打算と結合させた。放送委員会は、新会長までがあらゆる場合に民主的な判断とそれに従う行動とをとらないことを遺憾とした。
NHKは力をつくして変らないことのために努力しつづけてきている。この事実は、目下審議中の放送事業法案の草案作製の過程にもあらわれている。この法案の草案は、放送委員会案、従業員組合案、逓信省案、放送協会案、以上四通りの草案が審議されつつある。協会案は実質上の現状維持を主張している。放送委員会案は、日本の放送事業が官僚統制と無良心な商業主義の支配からまもられるために、民間の専門学識者による委員会によって管理されることを主要な論点としている。そして日本の民主化と世界の平和のために、特定のあらゆる権力に従えさせられることのない公器としてのラジオ放送事業をのぞんでいる。他の二つの案も、ある点ではこの委員会案に一致している。しかし放送協会は猛烈な舞台裏工作を行って、現状維持に努めている。適当な時期にこの法案に関する公聴会がもたれることが適切であろう。
放送プログラムは四五年八月以後、軍国主義的宣伝を根絶するとともに民主化の方向へ急速に動いた。出演者の顔ぶれも範囲を広められ、放送内容もある程度までは民主的になった。日常のプログラムでは社会層別のプログラムまたは職場向きのプログラムが新しく考慮されるようになった。婦人、子供、学校、教師、学生のための時間および勤労者、農民、炭礦および引揚者の時間があり、東京裁判録音は裁判の開始と同時に放送されている。
NHK(日本放送協会)では、一九四七年四月の地方長官選挙にはじまる各種の選挙に対して全国四五局のマイクを解放して前年の総選挙同様各候補者の政見発表を放送した。全立候補者の四四・一%が放送し、これに九一八時間三五分三〇秒が使用された。
ラジオの民主化の段階も新聞とともにはっきり日本の民主化の三つの段階を反映している。一九四六年の総選挙のとき、明らかな積極性をもって日本の最初の民主的選挙に協力した放送協会は四七年度の選挙においてはラジオの公器性の必要とする範囲に活動を消極化した。さらに、四八年に入ってから地方の補欠選挙において地方放送局のある所では、民主的立候補者のために不利な差別的扱いをした例がある。こういうような場合、日本の保守的な官僚は必ずその責任をその土地の軍政部の責任に転嫁する。この日本官僚の悪習は、いたるところにあらゆる形でみられる。電力飢饉に関連して、いわゆる「進駐軍の命令」が悪用された例をみてもわかる。
プログラムの新企画として、「先週の国会から」、「放送討論会」、「街頭録音」、「ラジオ探訪」などが行われている。
街頭録音は一般人に自分の思っていることを発表する習慣をつけるために、民主的な発言の習慣をつけるために役立ちつつある。マイクが近寄ると逃げていた人々が自分からマイクに向って話すことをのぞむ率が増えた。年寄と若い婦人がより多く発言するようになったことは注目されている。しかし街頭録音はアナウンサーの指導や暗示や整理によって発言の総和が特定の方向にまとめられる弊害が顕著である。放送委員会はこの点に注目して世論委員会を設け、輿論がつくられることを防ぐ責任を明らかにした。街頭録音の場合アナウンサーが自分の見解によって発言者の言葉を中断したり、カットしたり、モンタージュしたりすることは事実上一種の言論統制であるとして注意を促した。
放送討論会は第一回総選挙を機会として開始された。五大政党の政策についての討論から始められ次第にテーマを拡大した。婦人代議士はじめ各界の婦人も登場した。これも昨今は、はじめの素朴さを失った。特に供出に関する討論会などは、自然で単純な大衆的ディスカッションではなかった。地方で行われた供出に関する討論会は、政府の強制供出方針の宣伝的討論であった。最近行われた日本の新しい祭日を決める討論会においては、衆議院議員馬場秀雄、民主的な立場をもつ歴史家羽仁五郎と、シントーイストであって出雲大社東京分祠長千家尊宜等が登壇し、大衆の中に少くない数の学生が見られた。この学生たちは、千家尊宜が軍国的建国記念日としての伝統をもっている日本の紀元節を国祭日として主張するとき拍手を送った。彼等は羽仁五郎が日本紀元は歴史上の正確さを欠いているという議論をしたとき、やかましくヤジをとばした。この討論会においてアナウンサーが自分の感情と見解から思いついた質問を羽仁五郎に向って与え、アナウンサーとしての義務の範囲を超えた態度を示したことも注目された。
娯楽放送は、一方において急速にアメリカの娯楽放送プログラムを模倣している。「二十の扉」のように好評をうけているものもある。しかし音楽放送における軽音楽、流行歌等のプログラムは相変らず大衆の趣味の最低水準に追随する傾向がある。映画会社とレコード会社の影響から自由になって、軍歌ばかりをつぎこまれていた日本人の歌のこころに、新しい瑞々しい歌と舞踊のメロディーが送られることを、一般聴取者は希望している。「名曲鑑賞」は、レコードを焼失した日本の洋楽愛好家にとって愛されているプログラムの一つである。
勤労者および農村に送るプログラムは、昨今質の低下に苦しんでいる。一九四六年に、農村むけ放送プログラム編成のために民主的な農業問題専門家による小委員会がつくられていた。ところが政府の農業政策が、農村の現実と齟齬する程度が増すにつれてこの委員会の活動は不活溌にされ、現在は解体している。勤労者の生活不安が切迫しており、勤労者の自主的な生産復興が阻害されているとき、真面目な勤労者は彼等の努力と現実にふれない空虚なプログラムを愛しにくいことは自然である。
日本人民は戦争中短波放送の受信を禁止された。短波受信機は警察によって調査され使用している者は罰せられた。一九四五年八月以後この禁止は解かれた。日本には一台でも多くの短波受信機が増えなければならない。そして日本人は世界における日本のあり方について現実的な認識をもたなければならない。
テレビジョンの研究は非常に遅れている。戦争中中絶されていたこの研究は四六年五月戦争目的以外の研究は許可されることになって再出発をした。日本放送協会技術研究所および浜松市の高等工業学校でテレビジョンの研究がつづけられている。
諸外国の日本向け日本語放送は、「ヴォイス・オブ・アメリカ」にせよ、ハバロフスク中継のモスクワ放送にせよ、短波受信機でなくても中波程度の受信機で割合容易に聴けるが、世界の動きに特に関心をもつ人々以外は一般に余り注意されていない現状である。戦争中軍部のために短波受信をしていた人々が、戦後は外国の放送を受信して通信を発行している例もある。
2 出版
戦争中日本の出版界は情報局によって徹底的な軍事統制を行われていた。編集の自由は失われ執筆者の選択は軍事目的に従えられた。情報局は日本出版文化協会および日本出版会によって統制を行い、書籍発行の許可制を実施した。三、八八六の業者は三四三に淘汰され軍事的反動出版ばかりが横行した。四五年八月十五日は出版界のこの状態を一変させた。日本政府による検閲制度の廃止(九月二十四日)、言論に関する戦時取締法規の廃止(九月二十九日)、検閲取締機関の全廃(十月四日)、出版会の解散(十月十日)、日本出版文化協会による用紙統制の撤廃(十月二十七日)、情報局の廃止(十二月三十一日)等が実施された。そして新しく民間団体として出版業者の日本出版協会が発足した(十月十日)。
日本出版協会はその機構の内部に戦時の日本出版文化協会および日本出版会の役員を包括している上に、出版業者中に講談社、主婦之友社その他もっとも活溌に戦争協力をした出版社がそのまま巨大な資力をもって参加していた。陸海軍が蓄積していた用紙が不正に旧軍御用出版社に分与された事実もあった。民主的な出版事業の確立という点から民主的な出版業者から出版業界の民主化運動が起った。四五年十二月民主主義出版同志会が結成された。この運動は四六年一月にひらかれた日本出版協会臨時総会に反映して協会内に出版粛正委員会が設けられた。粛正委員会は第一次に粛正されるべき出版社として講談社、第一公論社、主婦之友社、旺文社、家の光協会、日本社、山海堂の七社を指名し、社内民主化への条件を示し謹慎の条項が示された。第二次に他の十二社が審議されていた時に講談社、主婦之友社、旺文社、博文館が中心になって日本自由出版協会を組織した。顕著な戦犯出版業者をかりあつめ、従って巨大な資本をもつ自由出版協会は、次第に深刻になる用紙不足の事情に対して金に物をいわせた用紙獲得を行った。同時に旧情報局関係者、内務省関係者の協力を得て出版の民主化阻止の方向に活躍した。これらの行動は日本の出版民主化への方向と対立し、その後用紙融通の魅力によって八十数社を加えている。この自由出版協会が組織され主な戦犯出版社が金力をもってその中心勢力となっていることは日本民主化の途上における一大注目事である。四六年十一月に発表された言論界追放B項該当者および四七年六月に指名をされた二二五社の中に多くの自由出版協会のメムバーをもっている。形式的な責任者の追放や機構の改正などが行われたにしろ、本質的な傾向において民主的になっていない出版社の方が多い。
例えば日本の代表的な綜合雑誌の一つとして数えられるある社では、編集者が社内の民主化と編集の改善を要求したとき、社長は経営者である自身に編集権があるということを主張して編集者の権能を制限した。ところがその社長が言論界追放の該当者に指名されたとき、社長はその編集上の責任を回避して会計関係の責任者をもって身代りにした事実がある。その社長は経営者に編集権があるということを主張する場合には、インボデン少佐の解釈によるものだということを自分の主張につけ加えるのを忘れなかった。
用紙の不足は四六年下半期において割当用紙さえも配給難におちいった。用紙のヤミ取引は公然化した。講談社を含む一部の出版業者は石炭その他の生産資材を製紙業者に提供して用紙を買う物交手段に訴えるようになった。この方法は無制限に紙のヤミ値をつりあげ、非民主的な出版を拡大することになって各方面からきびしく批判されはじめた。極端な物交によって用紙配給のシステムを乱した出版社からは刑事上の責任者を出した。
用紙の危機は、用紙割当の業務を、従来の担当者であった商工省から内閣に移管するモメントとしてとらえられた。その理由は、用紙を生産品としてだけみて商工省に割当をまかせることは不適当である、用紙は文化資材であるから内閣が直接割当てるべきであるという見解である。用紙割当の内閣移管についても旧情報局関係者の活動があった。自由出版協会も積極的であった。長年の言論出版統制に苦しんできた日本の各界は、用紙割当の内閣移管は、政府の言論出版統制に具体的根拠を与えるものとしてつよく反対した。けれども一九四六年にこの提案は実現した。出版協会の公的存在を認めることと、言論出版の自由を認めることを条件としている。この結果出版社のあるものは、内閣用紙割当委員会にだけ割当申請を出している。内閣の用紙割当委員会が最近の選挙において、過去の業績において文化的価値の認められにくい出版社の多くを委員としたことは、将来内閣がどの程度まで出版の自由に関する公約を実現しうるかという観点から注目されている。
一九四七年二月用紙入手のための物交が禁止されてから雑誌の大多数が休刊した。用紙割当委員会はこの状況を改善するために次のような声明を発表した。(一)割当外の用紙使用禁止。(二)割当は文化的価値判断を基礎として厳選による。(三)新しい雑誌の創刊および全集や講義録のような長期出版物への割当中止。
各雑誌が一様に六十四頁に限定された。しかし書籍出版の部面では粗悪な仙花紙の使用がますます多くなっている。仙花紙は統制外品である。
日本の出版業は一つの特徴をもっている。それは、極めて小資本の出版社が群立していることである。この現象は日本の資本主義経済の弱体を反映している。出版は自身の設備を所有しないでよいこと、使用人を多く必要としないことなどによって、軍需産業で小資本家となった連中が出版事業に流れこんだ。彼等は文化的責任を知らない。民衆の文化水準の低さと文筆家のインフレーションによる生活苦との間に、ブローカー的に存在して彼等の利潤を追っている。日本の小銀行の多かったこと、小新聞の多いこと、小売商の多すぎることなどと共通の現象である。
3 雑誌
用紙の最悪な事情にかかわらず一九四六年以来雑誌の企画申請は増大する一方であり、一九四七年末には三、〇〇〇種となっている。実際に割当をうけるものは一、八〇〇種に抑えられている。これに対して三百万ポンドが配給されている。しかし売れ行の多い雑誌社では仙花紙を使って発行部数の不足を補っている。
定価 印刷費、用紙の値上げその他物価の高騰につれて雑誌の定価も上昇をつづけた。一九四六年九月五円程度のものが四七年五月頃には十五円から二十五円になった。定価は大たいここでおさまっている。しかし六四頁といううすさを考えれば日本の雑誌の実価は非常に高い。
傾向 一九四五年八月以後戦時中緘口令をしかれていた綜合雑誌が急速に創刊、再刊された。民主的立場を明らかにした諸雑誌の他に共産党は理論機関紙として『前衛』を創刊し、社会党は『社会思潮』を発刊した。
『新生』という雑誌がもっとも早く創刊されたが、この雑誌の特徴は評論面においてはにわかに忙しくなった民主主義の諸問題について編集しながら、文芸欄では永井荷風などの作品をのせ、伝統的な老大家の名声とその作品の万人向きなエロティシズムで広汎な読者を誘い寄せた。このような編集ぶりはその後一年以上つづいて営利的な雑誌業者の利用するところであった。同時に娯楽雑誌という名目で卑猥な内容を中心とする赤本雑誌が横行した。戦争中あまり人間性を否定された反動として出版物に現われた官能的な娯楽への傾向は、高まるインフレーションと生活不安と戦争による家庭崩壊とによって、ヤミ屋と街の女と浮浪児とが増大する率に正比例した。
綜合雑誌は日本の民主化の複雑な曲折につれて、次第に自由活溌な政治、経済、国際問題のとりあつかいをせばめられてきている。それに比べて娯楽、婦人、文芸雑誌は多すぎる。太平洋戦争中その雑誌の一頁毎に「米鬼を殺せ」と印刷していた『主婦之友』が今日でも婦人雑誌の第一位を占めている。『働く婦人』、『婦人』、『女性改造』などはそれぞれ特色をもった進歩的編集をしているが、他のどっさりの婦人雑誌はどれもこれも似たような内容である。言い合せたように現実には用布もなければそれを着こなす肉体も場面もないような外国のモードをのせている。
出版協会の文化委員会および有識人の多くはこのような婦人雑誌の氾濫を婦人に対する悪資本の文化的搾取とみている。
学術雑誌は営利を目的としないために用紙面でつねに困難に面している。数も少く発行部数も少く発行もおくれがちである。
技術指導雑誌は有益なものは『科学と技術』そのほか一、二種にすぎない。農村のために直接役立つ雑誌も少い。戦争に協力した「家の光」社がこの隙間を縫って三種類の雑誌をだしている。講談社が従来通り幾種類もの低級な大衆、婦人、子供の雑誌を出しつづけていることも日本の民主化の欺瞞性を表している。最近では一応民主的らしい編集をしながらトップの記事に天皇や皇太子の日常生活を大きく取扱って、戦時中の「国体護持精神」のヴァリエイションを流布させている『民衆大学』や『世界少年』のような雑誌もある。『民衆大学』は、ある種の編集方法において一つの典型を示している。この編集者は非常に多くリーダーズ・ダイジェストから学ぼうとしているらしく見受けられる。この雑誌は、四七年十一月号ではエマソンの自由と独立に関する言葉を巻頭言にひいて、民主主義を題目として編集をしている。翌月号は「天皇陛下の御日常」というトップ記事をのせ、その次の号には、三笠宮崇仁親王と閑院春仁氏の対談「皇室と国民を語る」をのせている。同時に、この号にはローザ・アイケルバーガーの『人民が、人民による、人民のために』という著書からの抜萃をのせている。
少年少女のための雑誌としては概して、幼年向きのものの方が、幾分注意ぶかく編輯されているが、初等中学程度の少年雑誌はおどろくようにその場かぎりの編輯が多い。全般からみて大人の雑誌がそうであるように子供の雑誌も日本の民主化の方向と保守的・封建的な要素とが一冊の雑誌の中でかち合っている。近代の軍事的物語はのせられないでも、日本の「武士」の物語がルパンばりの探偵小説や無意味な漫画といりまじっている。子供のための科学雑誌には『子供の科学』などがある。
雑誌の輸出 日本からホノルル、ソルト・レークなどにいる在米邦人を対象として十九点約五千冊の輸出が正式許可された。十九点のうち『主婦之友』や『婦人倶楽部』、『苦楽』、『キング』等のもと戦犯出版社であり現在保守的編集方向をもっている雑誌が多く選ばれていることは在米邦人の文化水準を示すものとして注目されている。
日本で発行されている外国雑誌は大体次の通りである。
タイム(極東海外版──英語)、ニューズ・ウイーク(パシフィック・エディション──英語)、ライフ、リーダーズ・ダイジェスト(日本語版)、ポピュラー・サイエンス(日本語版)、民主朝鮮(日本語)
4 書籍
一九四五年以後、言論と出版に対する制限の緩和によって書籍出版はおびただしい数にのぼった。四六年一年間の書籍出版用紙割当は一千九百万ポンドであったが、実際に使用された出版用紙は一億三千万ポンドにのぼっている。インフレーションのために起った異常な購買力がこれらの書籍を消化したのであったが、四七年夏千八百円ベース決定以後購買力は著しく低下した。一九四八年に入ってはますます悪化する経済事情とともに書籍の消費量は減り、出版社の淘汰と書籍の淘汰とが起っている。
現在日本がおかれている国際的・国内的事情の厳粛さを思う人は日本の書籍出版において文芸ものが第一位を占めていることについて関心をひかれている。文芸ものも、すでに一定の読者を獲得している大家の作品集や戦災で紙型の焼けなかったドストエフスキイやジイド、ツルゲーネフなどの翻訳が重版されていることに注目される。さもなければ戦後の社会的疾病としてあらわれたエロティシズムの作品などが多くの部数を発行されている。書籍出版のこのような不健全な状態は識者の間に問題となっていたが、一九四七年毎日新聞社主催で出版向上のための出版文化賞の選定がされた。一九四七年度毎日文化賞として左の書籍の著者及び出版社が受賞した。
受賞図書 著者 出版元
入会の研究 戒能通孝 日本評論社
近代欧洲経済史序説 大塚久雄 日本評論社
懺悔道としての哲学 田辺元 岩波書店
気胸と成形 宮本忍 真善美社
(ゴム弾性)
久保亮五
(液体理論)
物理学集書 戸田盛和 河出書房
(既刊三冊) (真空管の物理)
小島昌治
風知草 宮本百合子 文芸春秋新社
播州平野 宮本百合子 河出書房
細雪 谷崎潤一郎 中央公論社
大和絵史論 小林太市郎 全国書房
自叙伝 河上肇 世界評論社
みんなも科学を 緒方富雄 朝日新聞社
教科書の不足は重大な問題である。国定教科書から上る利益は無責任な単行本出版から上る利益よりも遙かに低い。用紙と印刷工程の値上りと文部省の教科書関係の官吏がそれとなく期待している利益の率を合算すると教科書出版は儲けが少い。この事実のために日本の子供たちは新しい六・三制のもとで一九四七年の春には到る所で教科書なしの目にあった。教科書を必要なだけ出版することは日本の出版界に課せられた義務である。
著作権擁護の動きが目立った。幾つかの雑誌で原稿改作訂正、無断掲載、偽作等の事件があって、著作家組合(一九四六年十月発足)に提訴された。一九四七年八月には夏目漱石の遺族が漱石の全著作に対する商標権の登録申請を行って出版のみならず文化分野全体にショックを与えた。著者の死後二五年で遺族の版権所有が消滅するので夏目家は彼等をこれまで養ってきたその権利を新しい形で確保しつづけようとした。これらを機会として国会文化委員会では出版文化に関する小委員会を設け著作権法および出版権法の審議をはじめた。
翻訳権 日本政府は戦時中情報局、外務省その他の役所が先頭に立ってナチズム、ファシズム宣伝のために国際的な翻訳権の協定を無視した翻訳出版を行った。同時に民間にも正式手続を経ない翻訳の悪風があった。音楽に関する翻訳権問題は数年前の「プラーゲ旋風」の時に一応の国際基準がたてられた筈であった。一九四六年、日米間にあった翻訳自由の条約無効が言い渡されてから、まだ日本は各国との間に翻訳権の原則的とりきめが行われていない。現在は著作権が既に消滅している著者のもの、および原著者から翻訳発行の許可があってGHQの民間情報教育局がそれを承認したものに限られている。この事情はたださえ長年の封鎖状態におかれた日本の文化と民主化のために重大な遺憾事である。日本の真面目な学者、専門家および文化人は、日本と各国間の翻訳権問題が一日も早く原則的解決をみることを待望している。
Ⅱ 教育 国字・国語 宗教 科学
1 教育
日本の教育問題はきわめて重要な数個の課題をもっている。第一は根強くはびこっている絶対主義的軍国主義教育を根底から払拭すること。第二に保守的反民主的教育精神の伝統を打ちやぶること。第三には封建的な教育思想を打破するとともにポツダム宣言に明示されている通り人民的な民主主義による民族自立の精神を養成して世界的な規模で平和建設に参与しうる次の世代を育てることなどである。第一の軍国主義教育の払拭のためには一九四五年十月二十二日連合軍総司令部から教育の民主化に関する指令が発表された。その内容は大体次の通りである。教育内容の訂正、軍事教練の絶対的廃止。軍国主義的体育の廃止(正課としての柔道、剣道等を含む)。職業軍人、軍国主義者、占領政策反対者の罷免、自由主義教育者の復帰、教育課程の改訂。さらにつづいて一般復員軍人の教職への新規採用に関する日本教育非適格者追放指令が発せられた。一九四五年十二月には国家権力と神道との分離に関する指令が出された。続いて封建的な絶対主義と軍国主義的な服従を強いてきた修身の授業停止、侵略的な地理と天皇一族の絶対性・日本民族の架空な優位性を教える日本歴史の授業が停止された。
第二の教育の民主化のために一九四七年のはじめスタッダード博士を団長とするアメリカ教育使節団が来朝して、短期間であったが、有益な見学調査を行ってその報告書が世界に発表された。この教育使節団の報告にもとづいて軍国主義的日本の教育が特に長い戦争中殆ど教育らしい教育を行ってきていなかった実情が暴露された。六年間の国民義務教育を終った日本の人民がその実力は僅か四年間学校へ通った者と等しく、高等学校の学生の実力は中学の三、四年生に匹敵し、したがって大学卒業生の実力もきわめて低下していることが証明された。戦争中、国民学校上級生から中学、専門高校の男女学生が戦争遂行のために様々の形で動員され一週間に学習する日は一日二日あるかなしの有様であったことを思えば全体の学力低下はさけられない結果であった。
教育使節団の調査にもとづいて日本の教育制度の中央集権的悪弊──文部省の絶対的支配──を除くために教育権の地方移譲、九年制の無料義務教育の施行、ローマ字の採用、教科書の民主化等の目標が示された。
軍国主義的教育方針の変更を立証するために文部省はその時までに不適格教員六五〇名を追放した。そしてまず新しい日本歴史教科書の編纂に着手し、教育課程の更新の研究をはじめた。
戦争中軍事目的のための科学技術者速成のためにさまざまの形で特別科学教育を行っていた。婦人のためにも行われていた。中等学校にも行われていた。この軍国主義的教育は四六年十一月廃止された。
日本の封建的伝統である官学崇拝の悪風を排除するために私学の独自的教育振興を目標とする日本私学団体総連合会が結成された(四六年十二月)。組織は私立大学連合会三九校、私立専門学校協会一七九校、私立中等学校連合会および私立青年学校連合会一、一五一校、私立初等学校・私立幼稚園総連合二七校によって構成されている。私学総連合会は、大学設定基準に関する全大学協議会をもって私立大学設立基準の研究をはじめた。このことは特に女子教育の向上のために重大な関係をもっている。二つの私立の女子大学、数多い私立の女子専門学校等は従来男子の受ける教育水準よりも常に低い水準によって教育されてきた。科学、人文各面における男女教育の差別は、社会人および職業人としての男女の間にはっきり実力の相違をもたらしてきた。そのために職業上の地位は婦人のために経済条件とともに常に不利であった。僅かに官立大学の一部が女子学生を入学させていたが、それは実質的に日本婦人全般の教育水準と社会的地位の向上のために役立つほど広範な影響をもたなかった。私学総連合会は私学振興の財政的基礎を確立するために教育金庫法案を各党協同で一九四七年七月国会に提出した。
私立大学の昇格申請が最近においてなされたが、注目すべきことは申請の全部が文科系統の学校であることである。これは大学として要求される設備が、理科系統の学習のために必要を満しえないという内容の貧困さからきている。
同時に、官立大学の地方自治体への委譲の問題も地方自治体の経済能力の低さから困難に面している。日本の一つの県の経済的、文化的単位は、アメリカにおける一つの州のもつ単位としての可能性と全く異っている。
日本教育会は、従来文部省官僚と一部の教育家の中央集権的保守団体で、戦時中軍事目的のために強力に奉仕した。連合軍司令部からの勧告によって新しく全国府県支部に七〇〇名の協議員を選挙するように指令を発したけれども、日本教員組合は反対声明して教育会解散要求をだした。
教員再教育のために、文部省は四六年十月から四七年三月まで全国視学官、市視学およそ一、〇〇〇名を行政区別に分けて教員の再教育を実施した。教師の質の向上のために、従来の師範学校教育および高等師範教育の批判が起った。四年制の教育大学設置案が全国師範学校長会議と全国教育学生同盟大会で決議された。
一九四六年二月、文部省は高等学校令を改正、女子も高等学校に入学出来ることとし入学資格その他詳細を発表した。男女共学制は四七年四月から発足した新制中学にも適用され、指定校は男女共学制を行っている。
一九四五年八月以後、すべての学校では学内の民主化運動が活溌に起った。東大をはじめ多くの大学、専門学校で戦争中教壇から追われていた進歩的な学者の復帰が行われた。反動的な学内の諸習慣、制度について学生は自主的な改善を求め研究の自由を確立しはじめた。
天皇および皇族、華族の憲法上における地位の変化は学習院および女子学習院の貴族的な運営法に根本的な変革を起した。両学習院は宮内省の管理を離れた。財団法人として、新設の大学部を併せ六・三・三・四の新学制で出発した。四七年四月、一〇一年の伝統を捨てて広く一般に開放された。しかし現実に新しい学習院へ入学する子供たちは決して「一般人」の子供ではない。その富が戦争中のどういう非人道的な行為によって溜められたにせよ、新しい富豪として現れている階級の子供たちであり、宮様と同じ学校というところに虚栄心が満足させられている。
学校の民主化に関する学校争議は一九四六年から七年にかけて全国のあちらこちらで起った。女学校の小さい女生徒も学内の民主化を要求する彼女たちの若い声で教師と父兄を驚かせた。
日本の教育者の待遇は小学校教師から大学教授に至るまできわめて薄給である。教育者の給料における男女差別も大きい。もっとも生活の苦しい小学校の教師が積極的に動いて一九四五年につくられた民主的な全日本教員組合と時を同じくして、文部省ならびに日本教育会の方針に従う保守的な日本教育者組合が組織された。この二つの組合は約一年の間その進歩性と保守性との間に種々の摩擦を経たが、一九四七年はじめ頃から合同への機運が動き、四月に二つの組合と、大学・高等専門学校教員組合の合同が実現されることになった。五十万人の全国教職員の希望していた教員組合の単一化が行われ、日本教職員組合が誕生した。元来、民主的な全教組の活動を妨げるために文部省と日本教育会が組織した日本教育者組合が、全教組と合同してさらにより大きい単一の教職員組合を持つに至った動機はきわめて興味がある。文部省によって組織されている教育刷新委員会が四七年四月、議会に教員組合の団体協約を破棄しようとする建議を行ったことに対し、その点については利害を一にする二つの組合は文部省に対して共同声明を行った。つづいて日本教育会の二度目の組織変えに対し、また教育刷新委員会のもくろんでいる保守的な教育者組織に対する反対のために二つの組合は共同声明を行った。政府と文部省とは手づくりの組合の基礎の上に立って全日本の教育者と教育の方針とを再び保守にねじむけようとした。その努力がかえって二つの組合を発展的に結合させた。
この興味ある事実が語っているように、政府と文部省とは表面日本教育の民主化を試みているような振りをしながら、事実上何とかして、封建的ではないまでも、余り民主的でない範囲に人民を保つ程度の教育を行おうと努力しつづけている。この事実は一九四六年一月の天皇の放送した「元旦詔書」につづいて文学博士和辻哲郎が行った「哲学的天皇制護持」の講話、安倍能成の二月十一日に行った「建国神話擁護」、東大総長南原繁の行った「大学生の社会活動抑制」の演説、文部省教学課長会議における当時の学校教育局長田中耕太郎の「教育勅語護持の言明」、さらに三月上旬新憲法草案の公表に乗じた「新教育勅語」発布奏請の計画など一歩一歩の足どりは組織的に教育民主化の発展をはばんでいる。アメリカ教育使節団がきた時文部省は用心深いもてなしの計画をたてていて、儀礼的な歓待に時間をつぶさせて極力日本教育の現状から眼をそらさせようとした。真の意味で民主的な文化人や団体ではこの使節団に会う機会をもたなかった。「全教組」を中心として民主的勢力は協力して八項目にわたる「日本教育の現状」という報告書を手交し、建設的な意見を伝えた。
吉田内閣の時代に入って全政策が反民主的方向をとるにつれ、前内閣のときその保守性で着目された田中耕太郎が文相に立身した。田中耕太郎は当時の方針を教育に生かして、「教育権」の独立を主張した。教育の政治からの独立という主張において、彼の政治的立場を明瞭にした。同時に田中文相は宗教教育を主張した。政府は議会で教育再建に関する決議六項目を発表したがそれは具体的に教育民主化を推進するようなものではなかった。四七年八月十五日に進歩党が提案した宗教情操教育に関する決議案は、田中文相の宗教護持説をただ卑俗化したものにすぎず一般の不評を買った。吉田内閣は自分の文部省の手で文教改革の骨組を決めてしまうことに努力した。きわめて保守的な教育刷新委員会が出来たのもこの結果であるし、人文科学振興委員会が設けられたのもこの意味にほかならない。
公民館運動も全国に起された。外見は全国的に文化センターをこしらえる運動のように見うけられた公民館の「設置運営のしおり」をみると、この本質が民主的とはいえない文化統制を意図したことは明瞭であった。公民館が協力者として連絡をもつべきものとされている三〇ばかりの文化事業団体のほとんどすべてが戦犯的な団体であった。
同じく文部省が編纂発行した『新教育指針』二冊は教師のためのガイド・ブックと予告されていた。しかしその内容は必ずしも民主的な方向を明示しているとはいいがたいことが一般に指摘されている。
文部省の「民主化計画」はこのようにして進められていたが、一方に教師の生活難から引き起こされた待遇改善の要求運動は四六年秋から次第にたかまってきた。この要求運動は全国に高まり四七年十二月には全国父兄大会まで持たれた。そして教育民主協議会(K・M・K)が組織された。待遇改善要求の期間を通じて田中文相の演じた役割は非常に不成功であった。彼は保守性をおおいかくす宗教的なゼスチュアさえも失った。一九四七年一月吉田内閣が補強政策を行ったとき、田中耕太郎は罷めさせられた。英国経済史の専門家で慶大教授・経済学博士高橋誠一郎が文相となった。
高橋文相は四月総選挙の結果吉田内閣が総辞職するまでの僅か数ヵ月の文相であった。この間に教育に関する二大法案「教育基本法」および「学校教育法」が議会を通過した。別に極東委員会の「日本教育制度の改革に関する指令」の内容が明らかにされた。それは一、教育の機会均等、二、教師の社会的重要性、三、教育行政における地方分権の実施要請等を骨子としている。
世界労連の代表が日本へ来たことは、日本の教育の実状が側面から具体的に観察される機会となった。
「少年の町」の父として有名なフラナガン神父の来朝したことは、日本の浮浪児救済事業が全く未開発であることを世界に知らせた。同時に政府にとっては、自身の無力に対する非難をフラナガン神父に集まる民衆の好意に方向転換する好機となった。
アメリカの人権擁護協会理事ボールドウィン氏が来朝したことも、日本の民主化の現実を世界に知らす上に役立った。日本において言論の自由が案外抑制されている事実、報道の全面的自由は失われていること、出版に関する種々な抑制的条件のあることも世界に知らされた。基本的人権の尊重に関するこれらの問題とともに、教育の面にあらわれている基本的人権の尊重の実際について大きな示唆を与えた。
選挙と教育者 一九四七年四月の選挙に教育者関係の当選者は衆議院では二〇名が当選し、その中一七名が前代議士であった。参議院には民主的教育者三名が全国区から当選、地方区で三名が当選している。四六年度の選挙で注目されたことは、意外に多数の教育者が立候補したことと、その中のある者は最高点を得ているけれども、半面に教育者の立場を選挙運動のために悪用した候補者の例も挙げられた。四六年度の選挙ではこの点の批難がおおいかくせなかったほどであったが、第二回の選挙には少くとも参議院には民主的教育者が当選したことで、いくらか一般人の教育の将来に対する見通しを明るくしている。
一九四七年六月社会党を首班とする内閣が生れた。文相は森戸辰男になった。現在一千万名いる学童に対する六・三・三制の実施のために必要な財政的基礎を政府予算の中に確保出来ないことが、この一ヵ年間森戸文相の面している最大の困難である。日本の政府予算の歴史的性格の一つは厚生および文化のために予算ともいえない程の予算しかもってこなかったことである。戦時中予算のこの部分はすべて軍事費にくわれていた。一九四六年における議会でも、教員組合は勿論、文部省および一般の父兄たちは四七年四月から実行される六・三制のためにどれほどの予算がとられるかということに重大な関心を向けていた。大蔵省は終戦処理費の尨大なことを理由に文部予算を要求額の約一割、僅か八億円ほどに削減した。その後文部省は一九四七年度追加予算に四九億三〇〇〇万円を要求し、教員組合はヤミ利得者への高率課税による一二〇億円の支出を要求した。ところが大蔵省はこれをただの五億円に削減した。このことは各方面に重大なショックを与えた。森戸文相はあらゆる民主的団体および八〇万人に及ぶ一般両親、K・M・Kその他理解ある議員達の鼓舞激励によって大蔵省と根気強い交渉をつづけた。そして四七年七月の臨時閣議で文部省の最低要求額たる三一億二〇〇〇万円を承認させた。これによって一九四八年度にどうしてもなくてはならない教室一万四千をなんとか補充する可能性が出来た。
しかしながら日本の子供にとって校舎不足は、最悪の状態に立ち至った。現在学級の法定基準、一学級五〇名を超えているすしづめの学級は、全国の四〇パーセント以上を占めている。一六〇万人の子供が自分たちの教室を持たず、二部教授で苦しんでいる。
新制中学は小学校から三万以上の教室をかりている。今日五〇〇万人ほどいる中学生は、明年度は約七万人も増加するであろう。これらの新制中学生のために、約四万五千学級が新設されなければならない。五一万人の生徒が二部教授または借教室で苦しんでいる。小学校では、一七万人の教師が足りない。そのために一人の教師は、二倍の働きを余儀なくされている。中学校では、七万人の教師が早速補充されなければならない。しかし貧弱という水準にまでも達していない教育予算の中から、教員の生活を保証するだけの俸給に引きあげることは、不可能である。六・三制は、一九四九年度において全く混乱におちいることが予想される。
校舎不足のために地方では苦しまぎれに町村民に校舎増築費の寄附をさせているところが多い。その場合、地方のボスが多額の寄附をして、地方行政に対する自身の発言権を確保する実例が多い。そしておくれた地方の民主化が一層おくれさせられている。
教師不足はアルバイトを求める男女学生のために一つの職場を提供している。けれども学生たちは、この職場に対して疑問を持っている。同時に、やや年をとった女教師から不安をもってみられている。若くて代用教員であって、しかも英語の教えられる学生教師は、学校当局がより安い俸給を支払ってよいことになる。年をとった女教師は、こういう学生教師によって失業する危険におかれている。
これらの困難に加えて六・三制は全額国庫負担の義務教育として実行されていない。両親たちが子供の教育のために支払わなければならない金は、事実上六年間からさらに三年間を追加されたことになった。そのためインフレーションで苦しむ両親たちは労働基準法の網目をくぐって、六年を終了した子供が何んかの形で収入をもつことを希望している。この頃ブリキ屋、大工その他の職人が小さい弟子を連れて働いているのをよく見かける。小さい弟子たちの年齢は十三、四である。彼等は六・三制の三の部をブリキを叩いているのである。文部省は六・三制の三の部は、通信教授を受けることで完うしたものと認めるということを法文化そうとして一般の批判をうけた。少年労働が日本の繊維産業の基本的労働力である。すべての繊維工場へ行ってみればそこには十五、六の娘が圧倒的多数を占めている。何も知らない田舎の娘たちは花壇のある洋風まがいの寄宿舎にとじこめられて十一時間から十三時間の労働をしてきた。彼女たちの寄宿舎には「女学校」と称するものがあって普通の女学校へ行けない娘たちの渇望に答えるために裁縫、生花、ちょっとした講習会などを行っている。六・三制というものはこの多数の娘達にとって全くゆがめられた形で与えられている。
一九四八年に入って六・三制の現実は再び予算問題に苦しんでいる。同時に新学期を控えて新制中学へ進む子供たちの内申書問題が重大化した。小学校から私立の新制中学へ進む子供たちのために、小学校からその中学へ向って内申書を提出するその内容が問題になった。義務教育の延長である中学入学に内申書は不必要である上に、問題の眼目は実際に等級をつけて査定していない子供達の成績をどう申告するかということと、両親たちの経済能力を申告するという点が重大な波紋をまきおこした。今日両親たちの経済能力というものは人口の八割五分までが千八百円ベースでしぼられている。収入の七〇%以上は非配給物資の購入費にあてられて育児教育費は労働者三・九%、職員三・九%である。現在帳面一冊十円する。僅か七〇円二銭の教育費で中等学校の月謝七〇──二五〇円さえ普通の手段で支払えないことは明瞭である。数学上成り立たぬ生計費でやりくりしているのが正直な親の現実である。もし内申書に親たちの経済能力を記入しなければならないとすれば、私立中学校の経営者を安心させその子供を入学させるのはすべてヤミ成金の特権者だけになるであろう。内申書問題が重大な波紋を画いた理由がここにある。二月下旬になって内申書に成績と両親の経済状態は記入しないでもよいという結論になってこの問題も落着した。しかし設備と教師のそろっている私立中等学校への入学志望者は殺到して、そのために情実入学の事実は昨今(一九四八年三月初旬)の新聞に具体的に報道されている。
日本の中等学校入学難は中等学校の数の少いことと私立中等学校の質の悪かったことなどを原因として殆ど伝統的になっている。小さい子供たちの中等学校入学試験があまりむずかしく競争が激しいので、その緩和策として内申の制度が出来たのが数年前であった。ところが内申制は競争試験よりも教師と両親と子供たちを腐敗させた。子供たちは先生の気に入るか入らないかということについて神経を働らかせるようになった。親たちは子供の内申書をよい条件で書いて貰おうとして学年のあらたまるごとに先生への心づかいを出来る限り物質的に表現した。ついさき頃の新聞でさえ内申書問題にからんで教員の投書をのせていた。それには日頃乏しい生活をしている教師が学年末になってきたらたばこからウィスキーまで不自由しない状態になってきたことを告げていた。
内申制は高等学校・専門学校入学に際しても中等学校から出された。ここでも、もっと大規模の形であれこれのいきさつが生じている。私立医科大学への入学は入学志望者の学校への寄附額で成績順が決まるといわれている。内申制に関するこれらのスキャンダルは、学制の適宜な運用と、設備の完備と教職員の生活の安定によって根絶されなければならない。私立の幼稚園から高等科までを包括する学校は東京・大阪その他に何箇所かある。これらの学校は子供の才能に従って自由な教育を与えるという主張によって、有資産階級の子供たちを集めている。こういう学校では両親の富の程度が入学資格を決定する一つの大きい条件となっている。親に金がなければ社会的に大きい声望が子供の入学資格に期待されている。
日本に真の民主的教育を普及させ、憲法の第二十三条(「学問の自由は、これを保障する」)、第二十六条(「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。……」)を欺瞞的でないものにするためには六・三・三制の文字通りの国庫負担による教育が実施されなければならない。
今日まで日本の教育行政は全く官僚統制でしめつけられてきている。文部省、内務省、知事、学務部長、視学、学校長等官僚体制が確立している。教育の民主化は軍国主義教育と絶対主義の精神で一貫しているこの体制を打ち破らなくては実現しない。教員組合の活動と平行してK・M・Kの努力が期待される。日本に初めて学校の運営法にまで関係する親たちの組織としてP・T・Aがつくられた。民主化を希望する進歩的な教師と見識のある親たちの協力は教育民主化のために貢献するところがあるだろう。しかし保守的な教育の官僚たちはP・T・Aを眠りこませることに努力している。組織の決定的な部分に古い官僚をはめこむことに成功している。だんだん両親たちの自覚がたかまりP・T・Aの機能を麻痺させようとする古い要素の更新がなされなければならない。
教科書の問題 軍国主義的なそして絶対主義的な教育の中心となっていた日本歴史教科書がまず改正され『くにのあゆみ』が新しく編纂発行された(一九四七年三月)。この『くにのあゆみ』は真面目に研究批判されなければならない種類の教科書である。何故なら従来の軍国調と絶対主義を捨てるように見せながら、あらゆる歴史上のテーマの扱い方の底にやはり過去の思想を保存しようとしているからである。この傾向は一九四七年以来日本民主化の全面に表われた注目すべき特徴である。例えば『くにのあゆみ』で日本の建国神話を科学的な事実として認められないといいながら「つまり神話は歴史をつくるもとの力になっている」と実例ぬきに結論している。この部分は東京文理大の和歌森太郎助教授が書いたものである。また日本の社会発展の全時期を通じて勤労階級のおかれていた生産事情の現実、身分関係、隷属と反抗などの現実がとらえられていない。歴史の人間的な内容である発展のための矛盾摩擦の現実が伝えられていない。支配的な権力と人民との一致しまた相反する利害の関係も描かれていない。すべての事件が非常に表面的になめらかに扱われている。まるで春、草が芽ばえて悪天候に害されもせずのびていくような筆致で歴史が書かれている。
軍国主義精神を歴史観から排除するということは一つの国の社会発展の歴史の現実をゆがめて対立や矛盾のなかったような作りばなしをすることではない。民主的精神が教科書作製者によって取りちがえられている。人民の生活の消長について現実的な記録を支えない民主主義教育というものは存在しないわけである。『くにのあゆみ』が一般識者達から批判をうけはじめたとき、文部省関係者の間には次のようなデマゴギーが行われた。『くにのあゆみ』はGHQで承認された唯一の歴史教科書であるからそれを批判することは許されない、と。これは事実と違っている。文部省は『くにのあゆみ』をつかって新しい歴史教育をするのだといっている。『くにのあゆみ』を教えるとはいっていない。歴史教科書は早い機会に改訂される必要がある。
対日理事会において中国代表が『くにのあゆみ』について一九二九年以来の日本軍部の満州中国への侵略を偽瞞的な満州事変、中日事変などという項目で扱っていることについて抗議した。『くにのあゆみ』において満州事変以後の取扱いは虚偽的なほど皮相的に扱われている。「軍部の力が政治や経済の上にはびこって五・一五事件や二・二六事件がつづき」その結果東洋の平和が乱れたというふうに書かれている。しかし現実はこのように簡単でないことは世界周知の事実である。明治以来侵略的な軍事力で資本主義を保ってきた日本の悲劇は上述のような説明では片づかない。平和を愛する情熱を若い世代がその感情の中に持つために『くにのあゆみ』は民主的人民生活の発酵力を全く欠いている。
学生生活の危機 戦争によって家庭の経済的安定を失った日本の中産階級は、驚くべき早さで貧困化しつつある。従来中産階級の家庭から出身している専門学校および大学の男女学生の生活は、深刻な経済的困難に面している。東大の調査によると、全学生の九六パーセントが働きながら学ぶことを必要としている。これらの学生の三二パーセントが、全生活費を自力でまかなわなければならない。学生の生計調査によれば、全費用の六〇パーセントが食費に支出されなければならず、二二パーセントの書籍代は今日の日本で四、五冊の本を買うだけの金である。学生らしい娯楽のために──スポーツ、映画、音楽、演劇などのためについやし得る金は、五パーセントにすぎない。すべての学生は、最低五〇〇円から一、〇〇〇円の収入を得ようと努力している。このために、学生たちに与えられる職業はどんな種類のものがあるだろうか。家庭教師、通訳、翻訳その他の知的労働の範囲から、生活の必要は学生たちを肉体労働へ追いたてている。東大の職業を求めている学生の三六パーセントは、肉体労働をもいとわぬとしている。女子学生は、知的労働のほかに進駐軍女子寄宿舎の徹夜夜警、洗濯婦等に働くほか、街の小工場の臨時女工として家内的な工業に働いたりしている。学生たちが苦痛とするところは、これらの労働が安定性をもたないことである。半年以上つづく可能性があり、それによって学生の精神的安定も保たれる労働をみつけているものは全体の五〇パーセントにすぎない。
男女学生は、自分たちの労働の必要を安価な労働力として利用しようとする政府の方針に抗議している。たとえば、一九四七年の十月末に、逓信省は東大に一五〇名以上何人でも働きたい学生を要求してきた。四時間労働で三〇円、中央郵便局における事務という名目であった。学生たちは午後四時から四時間労働で三〇円とるということに誘われて応募した。そしたらば、一日おいて全逓のワイルド・キャットが始った。学生たちは非常におどろいた。彼等は自分たちが労働者の生活権侵害者になったことを恥じた。そして政府の目的を発見したのであった。さらに学生たちは、四時間三〇円という賃銀が労働力のダンピングであったことも発見した。日傭労働は一日二五〇円であったから。
新制中学における学生の代用教員が、やはり同じように教員の生活の脅威となったことについて悲しんでいる。彼等は文相がどんなに学生の政治的意識を打破しようとしていても、このような彼らの日々の経験から深い社会教育を受けつつある。すべての学生は、学生生活の危機がとりもなおさず広汎な勤労人民の生活危機であることを自覚した。学生たちは学校の門とヤミ商売の門とをきわめて近い距離において発見した。したがって、これらの若い良心が資本主義社会のモラルについて、辛辣なそして真実な批判をもっていることは当然である。
経済的困難から退学した学生たちは、たいてい数人の家族をかかえて悪戦苦闘している。次のような手紙の一節は無限の訴えをもっている。「国家の大学が国家の名において文科系学生のみを戦線に配置した、そのあと始末を全く省りみないのは、矛盾ではなかろうかと思います。我々はあの当時どんなに無限の感慨をもってあの時計台をふりかえりふりかえり屠所にひかれて行ったでしょう」。今日の働かなければならない学生たちは、はっきりと「働きながら学べる大学」を求めている。そしてこの希望は、日本の民主化された経済再建の具体的なコースの中の一部分であり、労働者の生活安定のための諸闘争こそ学生のチープ・レーバーを救い、働きつつ学ぶ社会をもたらすものと理解しはじめている。学生たちは、日本の勤労人民の一部として、自分たちの運命を開拓するために必要なみちを発見しつつある。
幼稚園教育 戦争中日本の幼稚園教育は殆ど潰滅した。現在大都市を中心として極めて僅かの幼稚園が復活しているだけである。一般主婦は子供を幼稚園にやって時間の余裕をつくり何かの内職をして千八百円ベースの困難な生計を補いたいと希望している。しかし幼稚園がかりに近所にあったとしても多くの親たちはそれを利用する余裕がない。昨年(一九四七年)四月一ヵ月三〇〇円費用がかかった。さらに母達の困難は子供の衣服の問題である。
盲聾教育義務制 日本に推定一一万二〇〇〇名の盲聾児がある。百数十万人の近親者がある。一九二二年勅令で盲聾学校令が公布されて各府県毎に一校以上の盲聾学校を設置する義務を明らかにした。二六年を経過した今日、東京、北海道はその義務を果していない。少数の民間人の努力によって現在全国に一四九校、教職員一、二〇〇名を持つばかりである。これは日本の教育が人類的福祉の見地に立たず富国強兵政策によっていたからであった。一九四六年に盲聾義務教育制の問題がとりあげられた。しかし何の実際的進行もみないで一九四七年が経過し本年四月からようやく第一学年が発足されることになった。大蔵省は一億円にも足りない予算をまだ決定しない。文部省は準備会をもったばかりである。もし現実に不幸な子供のための義務教育を実現するならば最小限度八〇の教室と教員七〇〇名が補充されなければならず、それだけで予算はいっぱいである。
耳のきこえない子供の教育方法としてヨーロッパ風の読唇法に加えて日本語の特色を科学的に研究した口話法が発明されている。しかし未だに旧式な手真似教育(手話法)が行われていて、これでは日常の最低生活を満すだけでとても精神的な文化には触れられない。アメリカからヘレン・ケラー女史が来朝することが伝えられている。関係者たちは彼女の来朝が文部省と一般人の心を目ざめさせて、日本に生きている不運な子供たちの運命をより明るくすることに役立つことを願っている。
成人教育 文部省社会教育局は各都府県の社会教育課と連絡をもっていろいろの講習会、公民館運動、リクリエーション運動などに努力してきている。婦人の民主化のための努力もされてきている。しかし全般的傾向をみると、すべてこれらの成人社会教育の方向はいってみれば人民の自主的な民主的発展に対して一定の柵をこしらえる任務をもっている。リクリエーション運動の指導は地方警察と連絡すべしというような反民主的な本質をもっている。
片山内閣は吉田内閣から引きつづいた非民主的社会教育方針に加えて耐乏生活、挙国一致、生産復興等を中心とする新日本建設国民運動や新生活国民運動などを官僚行政の線を通して行おうとした。新日本建設国民運動の提案懇談会の際、「民間人」と称する代表者の中に元治安維持法関係の役人が参加していたことは会の本質を語るものとして注目された。片山内閣はこれらの統制的な社会成人教育の方向を示しただけで総辞職した。
政府の関心は思想としての社会成人教育にあって戦争による不具者の職業的再教育は放棄している。復員軍人、引揚者の職業再教育が全くみすてられていて社会悪の発源地となっているとおり、戦争による不具者の人間的再起がみすてられていることは日本の反面の限りない暗さである。戦争未亡人の職業補導としての成人教育も殆ど行われていない。浮浪児の再教育は現在の段階ではその必要の千分の一にも及んでいない。当局はこれらの子供の教育と収監との間にある本質的な区別を理解していないようである。このことは生活難から売笑婦になった若い娘の再教育の場合についてもいわれる。日本のこの種の再教育がいつも冷酷であり囚人扱いであり、従って効果をあげないのは日本の封建的なまた儒教的な形式道徳観が、指導者の心情に残っているからである。
自由大学 一九四六年以来各大学、専門学校などではさまざまの形で自由大学を開いた。東大、早稲田、慶応その他の大学が学生と教授の協力によって一般の聴講者を集めて政経、文学、美術、自然科学、技術等についての連続講演を行った。夏期休暇中帰省する学生、教師などと協力して各地方でも夏期大学や農村講座がもたれた。労働組合では、特に婦人部を中心とした啓蒙的な講演会をしばしば持ち、各学校も中等学校をはじめとして校外から講師を招いて文化的講演会を催した。
民主的な専門研究団体は自身の連続講座または公開研究会を開いている。この数は非常に多い。そして学問上の利益も少くない。
2 国字・国語
日本の国字の問題は従来使われていた漢字をどのように制限して簡単な文字を使った文章を書けるようにするかという点にある。漢字を覚えるために義務教育の多くの時間がついやされてきた。従来、天皇が発表するすべての文書はもっともむずかしい漢字を使って書かれ、普通の教養をもった者では読めない文章によって書かれていた。このことは古代の中国人が漢字で文盲の民衆を支配してきたのと同じ効果を絶対主義下の日本人民に与えてきた。思想は支配権力に属し、その表現は何時も半分は神秘的な感じで行われてきた。日本は、その野蛮さからぬけなければならない。一般人が社会生活を営み言葉をもって自分の意志を表明している以上、そのままの文章が役に立つような民主化が行われなければならない。一九四七年に新聞その他に使用される漢字が制限された(四六年十一月五日文部省国語審議会総会)。
日本語は漢字のほかに、複雑な仮名づかいをもっている。書かれている仮名文字と発音とが別々で、書かれている字の通りに読んだのでは意味が分らない場合が少くなかった。たとえば「蝶々」という仮名は、「てふてふ」と書かれた。それだのにこの「てふてふ」は「ちょうちょう」とよまなければならなかった。こういう不便がとりのぞかれねばならない。最近では新しい仮名づかいが試用され始めている。そしてこのふるい困難から日本語を解放しようとしている。
ローマ字は急速にひろまっている。戦争中文部省は敵性語として外国語を初等中等学校の教育課目の中から削った。蓄音器の「レコード」さえ「音盤」といいなおさせた。ラジオの「ニュース」という言葉は「報道」とされた。一、二年前に地方の女学校を出た娘は翻訳文学書をよむことは敵性文学であるから悪いことと信じこまされてきた。ローマ字は小さい子供から大人の興味をひきつけている。日本語がすべてローマ字で書かれる時が来ることはまだ遠いにしろ、昨今のローマ字流行によって、戦時中強く植えこまれた人種的偏見がうち破られてゆきつつあることはよろこばしい。
日本の国語 日本の国語の悲劇は言葉の使い方の中に著しく封建制を残していることである。市民社会を経てブルジョア文化を発展させた諸外国の言葉の使い方をもっては想像されないように男女の別と身分の別とが日本語の使用法、特に敬語の使い方に現われている。天皇の一家は彼らだけの間に理解されている名詞や動詞をもっていた。あらゆる家庭の中に主人に対する妻子の言葉遣い、召使の主人に対する言葉遣い、他人に対して自分に関することを話す場合の卑下の表現がある。会社や役所では上役から下役への表現があり、地主と小作の間には平等な言葉遣いが存在しない。
憲法が改正され民法が改正された。しかしまだまだ日本の生きた言葉はこの複雑な封建性から解放されるためにみじかくない時間を要するであろう。日本語の封建性は日本の人民の実質的な民主化の水準を示すものである。
今日の日本語は非常に混乱している。長い戦争中軍隊生活を強いられた人々の間にまだ軍隊口調が残っている。方言やなまりによって標準語が乱されている。これは子供たちが戦争中疎開してさまざまの地方で生活した結果である。戦争中極端に外国語をシャット・アウトした反動で、この頃の日本語の中へはさまざまな外国語や片言がなまっておりまぜられてきた。模倣的な軽音楽の流行歌が一つの役割をもっている。
中国人の話す英語があるように日本では日本人英語が出来かかっている。言葉の国際的隷属について日本の有識者は楽観的見解はもっていない。
3 宗教
ポツダム宣言は「言論宗教および思想の自由」が確立されることを規定している。日本管理政策も「政治的社会的宗教的自由に対する制限除去」を指令した。「宗教団体法」は治安維持法とともに廃止された。一九四五年十二月に国家権力と神道との完全分離を指令された。明治以来支配権力が公的な資格で神道を後援・宣伝してきた伝統はたち切られた。権力と神道の結合こそ日本のファシズムの根源であった。軍国主義の精神形態であった。国家権力と神道が分離されたことは神祇院の廃止となった。官公吏の公的資格での神社参拝、儀式祭典参列は禁じられた。伊勢の皇大神宮その他に関する管理法制も廃止され、特別な服装と特別な教育で仕立て上げられていた神官たちは官吏であることを止めた。官公立の神道教育施設は廃止されて公的補助を受ける教育機関が神道の宣伝をすることは止められた。
国家権力と神道とが分離されたことは、天皇を「あらひと神」から人間にもどした。新憲法は十九条に「思想および良心の自由」、二十条に「信教の自由、政教の分離」、八十九条に「公の財産は宗教上の」団体などのために利用されてはならないことを規定した。
これらのことは近代社会と民主国家の常識である。けれども保守的な日本官僚はあらゆる形であらゆる機会に伝統的神国精神を保守しようとしている。このやり方は戦争協力者の公職からの追放を出来るだけサボタージュして数において最小限に、時間において最大限にひっぱっている。政府は一九四六年十二月になってやっと内務、文部次官通牒として慰霊祭の停止、学校からの忠霊塔の撤廃などについて命令した。
宗教団体法が廃止され、宗教法人令によって宗教団体の設立はやさしくなった。「信教の自由」という言葉は失業しかかった神官たちに救いの綱となった。彼等は保守的な反民主勢力と結びついて「神ながらの道」によって人心の安定をはかるとして一九四六年十二月「神社本庁」を設立した。八五、二九四の神社が組織されている。
仏教は海外の日本植民地にも進出していたことは、アメリカにおける日本人移民の間における僧侶の活動をみても分る。戦争中、寺は神社とともに人民の血と涙の上に繁栄した。一九四五年八月以後仏教の魅力も当然変化した。しかし教団設立の自由を得て、戦争中は宗派別を無視して戦争協力させられていた各宗派の間に独立の運動が盛となった。一九四七年六月には七〇の教団が設立された。
天理教その他 天理教は一種の私有財産否定と政治権力の否定を教義の中に持っているために戦争中弾圧されてきた。この天理教も信教の自由によって息をついたし、このたび文筆家の公職追放リストにのっている谷口雅春を組織者とする「人の道」はP・L教団として組織された。大本教として政府要路の人々の家庭にまで侵入していた一種の宗教は「愛善苑」として再出発し、原始的な太陽崇拝に結びついた宗教類似団体から新たに教団を組織したものもある。
邪教と「まじない」 戦争中日本のすべての人民は科学的なものの考え方から閉め出されていた。長年の愚民教育と戦争によるさまざまな悲しみ、戦後の混乱と建設的な民主革命が停滞させられて生活不安が慢性になってきていることなどから、一種の「神だのみ」の傾向が強くあらわれている。栄養障害から起った病気の手当に「まじない」を行う者や、インフレーションによる生活不安と動揺とを人相見の意見や手相見の判断で落ち着こうとする者が少くない。カメラは浮浪児や夜の女やヤミ屋の若者のえがき出す街頭風景の中に占者の店をとらえている。
政府が一方で賭博を禁止しながら「宝くじ」の百万円の夢で人々のポケットから金を捲きあげた。投機的な気分が現世的利益の邪教に導びかれるのは当然である。一九四七年一月にジャーナリズムを賑わした「璽光尊」の出現は、その悲喜劇的面でよくこの間の事情をあらわしている。この巫女を中心とする璽宇教に、もっとも理性的な遊戯とされている「碁」の天才的チャムピオン呉清源が熱心な信者の一人になっていることも世人の注目をひいたし、日本の理智的な角力として有名だった双葉山がとりこになっていることも人々に意外の思いをさせた。
キリスト教 第一次ヨーロッパ大戦を世界のキリスト教徒は防ぐことが出来なかった。第二次ヨーロッパ大戦に際しても、キリスト教は悲惨をさけるために決定的な力を発揮しなかった。日本におけるキリスト教徒は戦争中極く少数の人々が戦争反対によって投獄されたり、活動の自由を奪われたりしていただけで、一般人民となんのちがいもなく戦争に協力さえしていた。一九四五年八月以後キリスト教は他の宗教とともに、人々の信仰の自由に向って解放された。ミッションの活動は活溌となり経済的、人的に国際的援助がめざましくなってきた。その団体に「軍」という字がついていることが悪いといって弾圧された日本救世軍も、戦後は本来の名称と活動をとり戻しつつある。プロテスタントの大部分を統一している日本キリスト教団は「日本再建伝道」カンパニヤを起している。議会内にもキリスト教徒の進出は積極的で衆議院、参議院に二九名の議員がある。これは社会党内にキリスト教徒が多い結果であった。社会主義とキリスト教との結合をもって、インフレーションその他の政局危機をのりこえてゆく可能が想像されていたようである。けれども、大衆は常に愚鈍であるとはいえない。戦争中はその人がキリスト教徒であるというキの字も人に知られないで暮していた人々が、首相や大臣になる時期が来たら、にわかにキリスト教諸外国に向って自身のキリスト教徒であることを言明し、神に感謝しはじめたことについて、むしろ皮肉を感じた。片山内閣の諸政策は、首相の信仰にかかわらず困難な現実の前に無力であったから、一般の人々は今後も政治的実力と信仰問題は別個のものであると理解すべきことを学んだ。
現在の日本の生活難が原因になって、一部には英語とキリスト教を処世上の一便宜として考える人々があらわれている。ララの物資がキリスト教関係にはゆき渡ることを計算してその方向へ合致しようとしている人々が少くない。また思いがけない南京豆加工という小事業のようなものが、教団関係によって利益を保っている例もある。
物質的・精神的混乱の今日の現実に対して、それを解決してゆく真に民主的な人民の実行力がまだ充分高まっていないために、その隙間を縫って偽瞞的な宗教教育や平和運動が起されている。たとえば仏教の一派であって、もっとも侵略的な闘争主義を精神の中にもっている日蓮宗は、戦争中まっさきに超国家主義と日本の世界制覇を激励した。軍人、ファシスト、街の親分たちの間に信者を多く持っていた。その日蓮宗が一九四七年には「永世平和運動」を提唱し、永世平和学会を組織し、世界に向って一大平和会議を提唱するという計画を発表した。
日本宗教連盟と宗教文化協会とが主催で東京築地本願寺で宗教平和会議を催し、宗教学校の生徒を動員して行進を行わせた。その「宗教平和宣言」は自分たちの戦争協力責任については一言もふれず、宗教は平和を本領とするというようなことが強調されているだけであった。
日本の保守的な権力および暗黙のうちに再び活動する機会をうかがっているファシスト連は、日本の民主的発展の阻害物としてのこれらの運動に喜びを感じている。国際的にも左翼の進出をチェックするためにさまざまの宗教運動やファシストの地下勢力を容認する考え方もあり得る。しかし日本においては過去の何時の時代においても、キリスト教が仏教その他の伝統的信仰をリードしたことはなかった。日本の伝統的信仰は信仰の形態そのものが封建的であって、イデオロギーとしては絶対主義やファシズムに直結するかたむきがある。
日本の人民生活は自主的な政治的訓練を経ていない。ヨーロッパの市民社会ではそれがはっきりした一つの政治的見解として自覚されるような判断も、これまでの日本の一般感情のなかでは何んとなし一種の信仰めいた感情としてきわめて原始的に感覚されてきた。日本における天皇制の問題がこれをよくあらわしている。天皇制の効用が国際的に注目されたゆえんもここにある。労働者、一般有識人、学生などの間には日本の民主化は、この生活感情のうちに植えこまれた封建的礼拝観念の克服が必要であることが自覚されてきている。礼拝の対象が天皇でなければ、どんな名を持ったものでも最高権力者と思われるものに膝をかがめる封建的卑屈がなくなることこそ民主化であることを考え始めている。
世界と日本に必要なのは、理性のあかるく常識に富んだ人間性ゆたかな近代的市民である。それにもかかわらず一部の人々が、封建的な頭脳の暗さの上に「情操教育」と称して宗教的要素を多分にそそぎ込もうとしていることは世界のどのような利害に対しても有益ではない。
4 科学
戦争中あらゆる日本の学術は戦争遂行のために動員された。学者の少くない数が戦争協力者として動員され、多くの研究室が閉鎖され、研究を放棄した学徒たちが前線に死んだ。日本の科学は戦争によって甚大な被害を受けた。
一九四五年八月以後、日本の科学を平和建設の学問として建て直すために努力が開始された。日本における新しい学術の再建は、学術分野における半封建的官僚統制を排除することなしには可能でない。殆どギルド的な学閥を打破しなくてはならない。各学問分野の間に横たわる封建的な割拠主義──セクショナリズムの癌がいやされなければならない。これらの原因となっている大学の講座制度、先生と弟子との間の徒弟制度的な研究室の制度などから学問は自由に解放されなければならない。
これらの弱点を改革しようとする学界からの希望と文部省が微温的に改革を遂行しようとする意図が合致して一九四六年吉田内閣当時に学術組織改組準備委員会がつくられた。日本の官学学術機関である帝国学士院、学術研究会議、日本学術振興会などの長老組織を改組する目的で一五名の委員が選ばれたが、学界一般の輿論を反映するものでなかったので一九四六年十二月この委員会は解散した。
一九四七年に入ってから民主的な学術研究組織を持つための運動が起り文部省科学教育局長の肝入りで「学術研究体制世話人会」がつくられた。世話人会は理、工、医、農、法、文、経の七部門からえらばれた四四人の世話人で組織されている。そして(一)新しい学術研究体制を確立する準備として全国的な審議会を組織する。日本の新しい綜合的学術研究体制の企画立案はすべてこの審議会で行う。(二)審議会の委員は研究者の中から民主的に選出する。
このプランに従って上述の七部門および綜合一部門を加えて八部門からそれぞれの関係する学界、協会を選挙母体として一〇八名の刷新委員が決定した。
一〇八名の刷新委員の分布をみると、あらゆる部分で東大が圧倒的多数を占めている。例えば法学部では東大教授一〇人に対して各大学研究所から僅か五人の委員が選出されているばかりである。工学部門も理学部門にも同じ現象があらわれている。世話人会は解散し、第一回学術体制刷新委員会が一九四七年八月首相官邸で開かれた。第二回総会では運営の方法、地方との連絡、体制に対する提案の処理などについて討議が始められた。
このようにして学術体制刷新委員会は発足した。しかしこの委員会が学術の民主化のためにどれだけ積極的な熱意を示すかということについては一般からするどい監視を受けている。何故ならばこの委員会も従来の学閥ギルドそのままの選挙母体から選出されているからである。経済部門ではいくらか具体的に民主化が行われて民主主義科学者協会から選出されている人もあるが、法学でも歴史、哲学の分野においても古い長老教授が重要な位地を占めている。民間の新しい有能な研究者、私学の優秀な学者などは無視されている。官僚統制風なこの長老的ギルド的委員会を内外の力によって民主的な本質におきかえてゆくことが重大な課題である。
この委員会が日本における学問研究の自由と思想の自由のために何処まで実力ある刷新を行うかということも注目されている。吉田内閣の反民主的政策のあとを受けて日本の学問の自由と思想の自由とはかならずしも前進していない。たとえば早稲田大学では新進有能な日本歴史家の講義を中止したし、法政大学、関西学院などにおいても研究の自由と思想の自由とは、また再び民主化の方向からそらされようとしている。これらの現象に対して委員会のどのような発言が行われるであろうか。
日本の官学ギルドは、その封建性によって主観的な見識は非常に高いけれども生きた社会性に乏しく、このことが逆作用して戦時中日本の学者は客観的な真理への不屈さを失った。日本の官僚性の本質として日本の学者の経済的条件はきわめて悪い。教授たちの月給はインフレーションのもとにおいて一家の生活を支えかねる。そのために最近九州大学の皮膚科の権威である一人の博士が大学を辞職した。それより僅か前に東大の工学部のある教授がX線の照射による米の増収とか、宝石の質変化とかいう化学的根拠の確かでない研究を民間会社の利害とむすびつけて問題を起した。多くの研究所は資金難に悩んでいる。また実験用の資材の欠乏にも悩んでいる、最近東京の市民は配給の大豆粉中毒に苦しんだが、その毒素の研究のために必要な猫が十分手に入らないために研究がはかどらないという事実さえもある。大学研究室の助手は彼等が博士論文のために主任教授から指導を受け研究を続けている期間、殆ど月給がないに等しい状態であった。最近研究室助手の報酬がとりきめられた。
日本の学術がその学閥ギルドから放たれて発展するためには、民間の諸会社、諸事業と結合することが予想されている。大学実験室と工場の研究室とが協力することがのぞまれている。しかしこれまでは自然科学者たちが民間会社と結合した場合、彼等のもっている官僚的習慣の裏返しの現象が起った。即ち彼等は科学者でなくなって科学的な技術使用人の立場に自分たちをおく傾向があった。そして日本の科学の重大な弱点である科学原則の小器用な実利的な応用を行った。科学の原理は外国において発展させて貰いつつ。
日本における社会科学の研究史は、悲惨な歴史をもっている。近代国家の発生を、経済発達史の基礎の上に立って現実的に研究することは、日本の天皇制の絶対主義に抵触することであった。社会が科学的研究の対象であるということを日本の権力は認めたがらなかった。そして事あるごとに社会科学研究団体および社会科学者を弾圧した。偏見の世界的シムボルである「赤」という言葉が、もっとも適用されたのは、科学のこの分野である。社会科学関係の研究所、調査機関などは新しい日本の建設のために、社会についての理性的な理解のために、日本では特に重要な意味を持っている。経済的悪条件は、長年困難な立場におかれていたこれらの研究所、調査所の運営を今日苦境に陥しいれている。この事情はすべての文化活動家の協力によって一日も早く改善されなければならない。
日本の学術を民主的に解放し日本の民主化と再建に現実的な動力となろうとして民主的な自然科学者、人文科学者を包括した「日本民主主義科学者協会」が一九四六年に結成された。協会に優秀な物理学者であり原子論の研究家である学者や、結核治療に関して卓抜な技術を示している研究者、進歩的な哲学者、学問としての歴史を日本に建設しようとする歴史家、生物学者、数学者等、将来日本の科学において多くの部門を指導し得る研究家たち凡そ二千名ばかりを網羅している。
学会・研究所 京大附属食料科学研究所(一九四六年十月設立)は、とくに不良なる環境における作物の研究を行っている。
財団法人日本ペニシリン学術協議会(一九四六年九月設立)。GHQからの指令に基づいて戦争中のペニシリン委員会は解散された。新しい協議会は各専門家の綜合研究のために八専門部を設けペニシリンその他抗菌性物質の綜合研究と調査に着手している。
財団法人遺伝研究所(一九四七年四月設立)
栄養食料学会(一九四七年五月設立)
国立栄養研究所(一九四七年五月)は厚生省公衆衛生院の国民栄養部を分離拡張したもので、これに試験所、相談所が附属している。
一九四六年以後久しく行われなかった学会、研究発表会などが各専門分野で盛んに行われ始めた。
日本医学会第十二回総会が一九四七年四月、五日間大阪でひらかれた。この学会で注目されたのは原子爆弾症の報告であった。GHQのサムス、ハウ、バーレ各大佐の特別講演があった。
日本物理学会の一九四七年度大会は東大でもたれた。その研究発表は約二四〇題目であった。
日本薬学会が四七年五月に、金沢医大でもたれた。研究発表は約六〇題目であった。
連合国の科学者たちが来朝した機会にもたれた講演会は次のようなものである。
レーニン大学数学教授マジャーエフ博士の「ソ連科学について」(四六年九月三日、東大)
米国原子爆弾調査団員P・H・ヘンスホー博士の「科学者の国際的責任」、同S・ブルース博士の「原子核発展に関して国際連合で討議されている問題」(四七年一月九日、東大)
米国学術使節団員のW・V・ハウストン博士の「結晶体の正常振幅」なる講演が八月二十二日、またR・W・ソレンセン博士およびW・D・クーリッジ博士の講演会が八月二十三日、いずれも東大で行われた。
科学技術 日本の科学技術界は現在主として資金と資材の困難から深刻な危機に面している。民間の研究機関は財閥解体と賠償によって全く活動を停止された。この困難を打開するために各種渉外連絡会が設立されている。連合国総司令部との連絡をはかり物質的、精神的な援助を得るために科学渉外連絡会が設立された(四六年六月)。同じ主旨のもとに工業、農業(四六年十月)、医学(四七年五月)がそれぞれ連絡会を組織した。
大学附属研究所長会議(一九四六年十一月)。自然科学者技術者の経歴調査(一九四七年三月GHQの覚書による)等が行われた。文部省では四七年度科学試験研究費一五〇〇万円を適正配分するために科学試験研究協議会を開き、一九三件の重要題目に研究費の配分を決定した。この研究費予算と配分状況はまざまざと今日の日本の科学技術のおかれている窮状を語っている。
発明奨励委員会や研究復興会議の設立などは何れも研究機関と研究者の窮状を救って平和日本の建設のために活動し得る条件をつくり出そうとして着手されたものである。
全日本農業技術者連盟(四七年七月)が結成された。これまでの日本の農業がすべて国立試験場、農林省、農業会などという官僚でおさえられていて農民が自主的に農業技術をたかめ農業科学を向上させてゆくという可能が失われていた。この農業における官僚主義は農業収穫の供出に関する官僚制ともなってあらわれる。この新しい連盟が日本農業のこの弱点を改めてゆくことが出来れば幸である。
アメリカ学術使節団は一九四七年七月日本に来朝した。六名の団員はそれぞれ専門の分野において日本の学界の再建に助言を与えた。
Ⅲ 文学 映画・演劇 音楽 舞踊 美術
スポーツ 文化組織 国際文化組織
1 文学
戦争は日本の現代文学を殺した。軍部は、ほとんどすべての作家を戦争目的のために動員して、強固に民主的立場を保ち戦争反対の見解をもっていると目された作家、思想家を投獄した。
一九四六年一月、ジャーナリズムが戦時色を払拭して再発足をはじめたとき、そこに面白い現象が現われた。編集者たちは、戦争協力者でない作家を発見することに非常に困難した。同時に治安維持法廃止以前のプランにおいては民主的作家の作品を載せる自信もなかった。苦しまぎれの一策として一斉に老大家である永井荷風や正宗白鳥などの作品を載せた。これらの人々の作品は、民主的要素をもっているともいえなかったけれども、軍国的でないことは明瞭であった。
永井荷風は、フランス文学の流れにたち、一九〇〇年代初頭の日本の半封建的な社会的空気に反撥しつつ、彼の抗議をデカダンスと孤独の中にとかしこんでしまった老作家である。正宗白鳥は自然主義作家として出発し、人間の醜悪さを暴露する作品を書きつつ、その人間の醜悪の社会的要因を探求しようとしなかった。彼は対社会的にはニヒリスティックであり、無感興な表情を保ちながら自分個人の生活を楽しむことについては卓抜な老作家である。永井荷風と正宗白鳥の上には、日本に芽生えた近代の精神が、あまり重すぎた半封建的社会の力にむしばまれて、旦那の気むずかしさに定着してしまった悲劇がみられる。ジャーナリズムが途方にくれたようなこの時期を貫いて、日本には民主主義文学運動の強い流れと、それに並行して日本の重くるしい封建の伝統に対して闘おうとする文学の潮流があらわれた。
民主主義文学運動の中心は、新日本文学会であり、機関誌『新日本文学』のほかに四つの文学的刊行物を出している。新日本文学会は日本現代文学の進歩的な卓越した作家を少からずその会員としている。評論家として蔵原惟人そのほか活溌な数人の活動家・作家としての中野重治・徳永直・佐多稲子・宮本百合子・豊島与志雄、詩人では壺井繁治・岡本潤、その他戦後に活動しはじめた若い作家、評論家、詩人の多数がある。一九四七年度の注目すべき民主的作品のほとんど全部は、この会のメムバーである作家・評論家・詩人たちによって生れた。新日本文学会は、専門家のために多方面な研究会をもっているほかに、一年に数度文芸講演会を開き、地方の支部を中心に文学巡回講演も行っている。演劇、音楽のグループなどと共に勤労者の間に、文学のグループもどっさり出来ている。この文学グループの全国的な協議会は、雑誌『文学サークル』を発刊し、職場の新人を養成している。必要な場合には新日本文学会の指導を受けている。
民主主義文学運動と並行してあらわれた反封建の精神にたつ文学は、若干の原因から非常に混乱している。まず第一に、日本の封建的精神と習慣の中心をなす形式的な道徳律に対する反抗が、この傾向の作家たちを一貫している。同時に、戦争中人間の肉体的存在が極端に軽視された反動として、人間の実在感を肉体においてだけ確認しようとする傾向がつよくあらわれている。この肉体の実在を主張する傾向は、封建思想が人間の精神と肉体とを対立させて、肉体をより価値ないものとし、肉体の欲望を満すことは下劣なことであるかのように扱ってきた習俗への反抗ともなっている。これらの作家は、以上のような理論を彼等の文学作品のうしろだてとしているけれども、作品の現実では、さまざまのニュアンスにあるエロティシズムと露悪趣味とフィクションに終っている。このグループに属する作家たちの多くは、前線に送られた経験をもっており、日本の封建的道徳の憎むべき偽瞞を目撃してきている。日本の無条件降伏は、彼等が内心軽蔑しながら服従を強いられてきた権威の失墜を実感させたと同時に、それにつづく国内の混乱状態はこれらの作家に人間的社会的モラルの発展的なよりどころを失わせた。小市民的な生活経験をもつこれらの作家たちは、日本の悲劇を世界歴史の上に判断し、国内の状態を日本社会史の波乱として把握する能力をもっていない。従ってこれらの作家は、最も素朴な存在の主観的よりどころとして肉体にすがるしか方法がない。日本の支配階級の愚民教育は、文学者の社会感覚をさえ、そのように狭小なものにしてしまった。彼等は肉体の実感を人間的に昇華した表現で感覚せず、粗野な性的行動の病的な誇張と肯定においている。日本の文学に昨今ほど売笑婦の登場している時期はかつてなかった。彼等は、日本の軍国主義が人民の生活の安定と生命を無視してきたことへの復讐であるかのように「身体で生きる」売笑婦の生活を描いている。この社会悪と悲惨を解決する方向にみないで、かびの花の色どりの奇怪さばかりを現実として描き出している。舟橋聖一・田村泰次郎・坂口安吾を代表として、多くの群小作家がこの溝にはまっている。このグループの作家たちの作品は、次第に、文学作品としての価値よりも、好色雑誌のための商品としてより多く需要されてきている。この種の作家の小説には、常に美術以前の煽情的插画が載っている。
一九四六年一月から文学雑誌『近代文学』が発刊された。『近代文学』は、三〇歳前後のインテリゲンチャ作家、評論家を集めたグループである。彼等の主張は、日本の現代にはまだ半封建的要素が非常に濃く残っているから、ヨーロッパ的の意味での「近代」を日本の社会的精神と感覚にもたらさなければならないという点にある。この主張は、このグループの人々の文学活動が「自我の確立」を中心課題とすることによって表現されている。日本の社会は、言葉の完全な意味でのブルジョア革命を経ていないという一応は尤もな理由から、このグループの「近代」の主張はある程度の共鳴者をもっている。しかし、このグループの致命的欠陥は、一九四五年の秋にそこを足がかりとして出発した「近代」と「自我」の探求を、その後の二年間に社会史的に発展させえない点である。『近代文学』の多くの人々は、日本の当面している民主主義の性格がブルジョア民主主義革命の遂行とともに、そのステップが人民的な民主主義にまでのばされなければならないものであるということを理解しない。日本のブルジョアジーは、その階級の高揚期に向う明治においてさえもブルジョア革命を完成する能力をもっていなかった。それが必然の原因となって、今日日本のブルジョア民主革命は勤労階級の推進力を中心にふくまなければ、ブルジョア革命さえ進行しなくなっている。『近代文学』の「近代」と「自我」は、世界歴史におけるこの日本の進みゆく現実との有機性で自身の課題の前髪をつかんでゆくようなダイナミックな知力を欠いている。彼等の「近代」は、現代からとり残されつつあり、「自我」は、既にヨーロッパでも東洋でもその破産が歴然としているブルジョア個人主義との区別を失いかけている。軍国主義は日本の知性を未発育のままひねこびさせた。『近代文学』には、その精神上の「戦争の子供」の根跡が強く残されている。このグループの若い作家、評論家たちは自身の社会的文学的活動と成長のための努力を、ジャーナリズムの上での流行児的存在にすりかえつつある。そしてもっとも危険なことは、彼等のおかれているこの時代的危険を、危険として自覚していないように見えることである。
『近代文学』のグループの人々と、それをとりまく一部のインテリゲンチャは、彼等の社会的文学的流浪の旅に、プロテスタンティズムの「内なる神」の観念を道づれとしたり、サルトルの実存主義を加工した無の哲学を彼らの頭飾りとしたりしている。このグループの間では、まだ逆説や詭弁が好まれ評価されている。逆説と詭弁は、ある意味では屈従者の表現手法であるということについては余り重大に考慮されていないように見える。
一九四七年に入って日本の文学界には、一つの驚くべき現象が起った。それは、林房雄・尾崎士郎・火野葦平・石川達三その他、軍の特派員として前線に活動したばかりでなく、戦争煽動のために一〇〇パーセント活躍した作家たちが、殆どすべて再び執筆しはじめたことである。諸雑誌にのる短篇と新聞の連載小説が、これらの戦争協力者の作品でうずめられはじめた。林房雄は露骨なエロティシズムをもって、尾崎士郎は風俗的小説をもって、火野葦平は彼独特の神秘主義と病的な心情をもって、石川達三はインフレーション日本の崩壊した社会面を描くことで。
一九四七年度に起ったこの文学上の戦争協力者の復活は、日本政府が戦争責任追求に対して決して積極的でないという確信が彼等に与えられたことを動機としている。林房雄を中心とする戦争協力作家は、雑誌『文学界』を創刊した。石川達三は「時代の認識と反省」という文章の中で「私は後悔しない。日本がもう一度戦うと仮定すれば私はもう一度同じあやまちをくりかえすだろう」と公言しながら、日本の民主化という重大な課題に嘲笑を向けている。吉田内閣の時からは、政府ははっきり反民主的方向を示しはじめた。片山内閣は、文相として森戸辰男を任用した。森戸辰男が戦時中著した『戦争と文化』が、戦争協力の書籍でないというためには自然でない努力を要する。そのような文筆活動をした人が文相とされている以上、政府の意図はこれらの戦争協力作家にあまりにも明らかによみとられた。石川達三は、四国地方の反動組織の出版している雑誌に巻頭言をかいた。九州の反動組織の出版物は、喜んで林房雄の文章を引用している。日本政府は、開拓団などに名をかりながら全国に秘密に組織されている旧軍人将校などを中心とする反動組織の存在を、議会では否定している。しかし、世界はその否定を信じているだろうか? 日本政府は否定が信じられていないことを知らずに否定しているのではない。これらすべてのことが、戦争協力作家の活動を促したてた。
一九四八年二月二十八日、中央公職適否審査委員会は、文筆家の具体的資格審査をはじめることを発表した。しかし「公職」という観念が、文筆活動そのものを内容としないかぎり、これらの戦争協力作家のいなおった民主化攪乱作業はつづけられるであろう。
今日の日本の文学運動の中には、日本の現代小説の伝統であった「私小説」からの脱却の課題があらわれている。日本の「私小説」はドイツの二十世紀はじまりに現われた「私小説」とは違った過程をもった。日本の社会が、封建的絶対主義につつまれてきていたために、「私小説」は個性の完成に伴う、より広くゆたかな社会的生存と、そこに集積されてゆく人間的経験の文学表現とはなり得なかった。官尊民卑の日本の社会で、文学者は一種の「よけい者」であった。文学者の生活環境は、孤立していて、政治にも実業にも、文化一般の活動にさえも参加しなかった。こういう社会性の狭さの一方に、重く息苦しい家族制度によって個人生活をしばられて、日本の「私小説」は、社会小説に発展する戸口をふさがれていた。民主的な文学者が、僅かに日本文学における社会性の欠如について関心を示してきた。今日「私小説」は、ようやくより広い社会環境に向って解放される可能を見出した。民主主義文学運動の展望におけるもっともプロスペラスな期待は、近い将来において民族的であるとともに、世界的である一定の社会生活の芸術的表現として日本文学を成長させるであろうという点にある。民主主義文学の広汎な運動は、新しく生れ出る作家の社会的基盤をこれまでの中産階級から勤労階級の間に拡げつつある。日本の作家は孤立した社会階層の環の間に封じこまれた人々ではなくなるであろう。新しい作家は、彼等の文学的能力をもって議会の中に、役所の中に、工場の中に──即ち社会生活の全有機的活動の網目の中におりこまれつつ、生きつつ、たたかいつつ、新しい日本のよりひろい人間性と社会性にたつ文学を生むであろう。日本文学のリアリティは、このようにして新しい表現と多彩な内容とを持つであろう。
「私小説」否定の問題について、丹羽文雄によって独特な説明と文学実践が行われている。戦争中海軍の特派員に動員されて「海戦」などを書いた丹羽文雄は、最近「社会小説」という問題を提起している。彼は日本の社会の条件が、一人一人の人をどのような関係でとりまいているかを、「客観的」に描き出す「社会小説」が日本の古い「私小説」をより広い性質に発展させるといっている。彼のこの文学理論は、彼の作品との関係で研究されるとき、興味あるヒントを読者に与える。丹羽の「社会小説」論においては、「客観的」ということが彼独特に扱われている。即ち彼における「客観」は、作者がただ一つのレンズにすぎないということを意味している。作家自身がどのような角度で今日の日本の歴史的条件にタッチし責任をもっているかということは、この作者にとって人間的追求の問題の外におかれている。丹羽のこの「客観」主義こそ、彼の戦争協力の正当の理論である。もし一人の作家が、歴史に対する自主的な社会的立場を自分に向って要求しないで、一つのレンズにすぎないものと認めるなら、軍部の力によって何処へその作家が送られようとその行動に責任はないことになるだろう。何を見せられようとも、また見せられた現象を皮相的にレンズにうつしたとしても、それが人道上文学上、恥ずべきことであると考えられるだろうか。彼の「客観」の理論の底には、このような心理的な人間的責任回避の動機をひそめている。読者は彼の「社会小説」を、ある時は興味をもって読みつつ、その自然主義的な「客観」に批判を抱いている。
詩 日本の現代詩は、主としてフランスの象徴派の影響のもとに出発している。アメリカのホイットマンの影響も民主的詩人の間には生かされている。
戦争中詩人たちの多くは、ミューズと一緒に活動するよりもマースと一しょに活動した。女詩人で熱心にファシズムを讚美した人もある。高村光太郎その他、その才能を人々に愛されていた詩人たちが、戦争に協力し絶対主義を謳歌したことは、悲しいみものであった。フランスのシンボリズムの上薬ははげた。そして日本の暗い封建の生地をあらわした。
この痛手から詩人が自分をだまさないで回復することはむずかしい。詩人たちには、時間の余裕が与えられる必要がある。
戦争に協力するにはあまり若すぎた詩人たちが、いま活動を開始している。彼等の間に二つの傾向がある。一方は、フランスのシュール・リアリズムを踏襲している。これらの詩はテーマが観念的であるばかりでなく、日本の詩には字づらで一種の絵画的効果をあらわす漢字が利用されるために、この流派の詩人の作品は一層難解にされている。彼らが模倣からぬけだすときは、彼らの生活経験がその手法を役に立たないものと思わせるときであろう。他の一方には、いわゆる「詩的」な言葉をえらんでそれをならべる努力とは別のところに、生きた詩精神を認めようとする詩人たちがある。その人々はゲーテがドイツ語を単純に美しく生かしたように、プーシュキンが日常のロシヤ語を芸術の言葉として生かしたように、日常的な日本の言葉で現在のすべての日本人が生きている破壊と建設とを歌い、民主的社会への抑えることの出来ない情熱を表現しようとしている。民主的な詩人たちは、数において多いし生活力にも富んでいて題材も豊富である。長い製作の経験をもつ民主的詩人壺井繁治、中国における新しい人民の建設事業にふれてユニークな題材を歌っている坂井徳三その他の人々がある。これらの詩人たちは、自身の新しい詩をつくってゆくかたわら、新日本文学会の詩の部門の担当者として日本の人民が彼等自身の詩を書くようになるために熱心な指導をしている。国鉄の職場に詩人グループがあって「国鉄詩人」とよばれている。彼等は職場で協力しているとおり、詩作においても共同製作を行っている。一九四七年のメーデーに歌われた新しいメーデー歌は、「国鉄詩人」によって作詩された。その詩に明るいメロディアスな作曲をつけたのは、詩人坂井徳三の妻である一人の家庭婦人──坂井照子であった。国鉄詩人のほかに多くの職場に詩愛好家のグループができている。
最近新日本文学会から民主的詩人の作品集が出版されようとしている。
評論 厳密にいうと日本では、一九三三年以来文学に関する理論、評論活動は中断されていたといえる。侵略戦争が拡大するにつれて日本の天皇制のファシズムは、思想と言論の自由を奪い、やがては人民の理性そのものさえも否定した。社会の現実を正視することを許さない権力のもとでは、その社会がするどい階級対立を含みつつ戦争にかりたてられている現実から生れ出る文芸作品の存在が許されなかった。従って文学作品を社会とのなまなましい関係でみる民主的な文学理論が展開されず、民主的評論が存在させられなかったのは当然である。一九三三年以来ジャーナリズムの上に活動する余地をのこされていた日本の文学評論は、最低のヒューマニティーを守ろうとする努力をつづけながらも実際においては、世界の歴史に対して目をつぶり、現実から遊離し、権力への抗議をさけて、いわゆる純芸術的評論におちいった。現代の世界文学において、評論の基準とされている客観的評価はかげをひそめ、一九二〇年代以前の主観的随筆的評論が横行した。
一九四六年は、このようにして殺されていた日本の文学評論のよみがえりの時期であった。日本の進歩的文学理論の発展に対して、価値ある貢献をしつづけた蔵原惟人をはじめ、長い沈黙の間に活動の日を待っていた岩上順一その他の若い評論家が、こぞって日本の民主的文学の本質と方向についての検討をはじめた。
一九四七年には、蔵原惟人の「文化革命の基本的任務」その他これらの新しい民主的文学の評論家たちの活動がそれぞれの著作集としてまとめられた。これらの時期には小説その他の創作よりもむしろ評論活動の方が活溌であるように見受けられた。しかしその実質について研究すると、ここにも戦争の与えた深い傷がみられた。第一、今日の若い民主的評論家たちは、彼らの青春時代をきりきざんだ日本のファシズムの暴力に対して忘れられない恨みを抱いている。一人一人の運命が、軍部からの葉書一本で左右されたことに対して感じた憤りを忘れていない。日本の人民とその文化が、そのようにみじめであったことについて、今日は猛烈に近代的個性の確立と自由とを主張する精神をもっている。このやきつくような欲望に対して、これらの若い評論家たちは必ずしも完備した思想的設備をもっているとはいえない。ここに戦争の傷があらわれている。彼らのある人は、きわめて客観的な日本の民主化の歴史的本質を、きわめて主観的な自身のエレジーをモティーフとして理解し、それを固執している。また、長い年月の間日本の民主的思想とその運動の実際からきりはなされ、一九三三年以前の民主的文学評論の正統的な文献さえもみることの出来なかった人々は、今日でも彼等が自覚するよりも遙かに多く官製の逆宣伝文書に影響されている。これらの人々は、自我の解放を熱望しつつ、半封建に圧せられていた自我を解放するためには必然である民主的権威を認めることにさえ、猜疑を抱いている。民主的、人民的権威がとりも直さず彼自身の人間的尊厳に通ずるものであるにかかわらず。最悪の場合においては、人権と文化を抑圧しつづけた治安維持法への抗議を忘れて、その抑圧のために生じた人民的組織──たとえば日本共産党やプロレタリア文化・文学団体──の活動に見られた不十分さだけを、必死に追究した人々もある。
一九四七年秋以後、民主的評論家の陣営内の混乱は、一応整理された。若い評論家たちは、多面的な彼等の活動を通じて急速に、確実に成長しつつある。
一九四七年に入ってから、支配権力の民主化サボタージュにつれて、文学評論の面にも反民主的活動家が現れはじめた。今日彼等は表面上はファシスト文化理論は語らない。しかし日本の民主的文学運動とその創造活動に対して、勤労階級とインテリゲンチャとの分離を宿命的なものに描いてみせる。民主主義の本質を反社会的個人主義にすりかえて示す。民主的作家の善意を嘲弄的に批評したりすることで、日本の人民の民主化の希望とその可能性をあやぶませる目的を達している。一段と素朴な形で民主的文学を無価値なもののように思わせようと努力している人々に、林房雄、石川達三、その他の作家の自己擁護の放談がある。
青野季吉は、一九二〇年代の末には、日本の進歩的な文学評論の活動家の一人であった。ところが当時の野蛮な力に屈服してから、今日になっても彼の民主的活力を回復しない。最近の彼の文学に関する発言のすべてが、今日の民主的文学に決して触れないのは注目すべきことである。
民主的文学の陣営に属さぬ人々が、「かえりみて他をいう」という態度で、主として自然主義時代の作家や日本の明日にとっては、昨日の作家である人々についてばかり多く語りはじめていることも注目される。彼らの健忘症はおどろくべきものである。一九三三年に日本の民主的文学運動から、保身のために自分たちをきりはなし、対立者として自分を表明した作家、評論家がその後みじかい数年の間にどんなめにあったかを忘れたらしい。彼らにとってもその人間的存在と文学との守りてであり、ファシズムに対する抗議者であった民主的文学者に弾圧を集中させることで、彼らの得た利益は一つもなかった。彼らの市民的自由も思想も文学も無抵抗に殺戮されたばかりであった。
勤労者ばかりの文学グループに、理論・評論のグループは少い。今日はまだ勤労階級の文化は、評論活動をたやすく行うほど文学的な専門知識を蓄積していない。しかし近い将来に必ず生活的、文学的な民主的評論家が勤労者の間から生れるだろう。彼らは腐敗したジャーナリズム文学に毒されながらも、その一面には生活の現実に基礎をおいた強い判断力をもっている。今日これらの人々は、勤労人民として自然な自分たちの文学に対する判断と、いわゆる専門批評家の、時にはむしろ混乱した饒舌との間で当惑している。もっとも代表的な民主的文学理論雑誌は蔵原惟人編輯の『文学前衛』である。
戯曲 今日日本の新しい演劇運動は、もっとも専門的な劇団から自立劇団に至るまで、新作戯曲の不足に悩んでいる。戯曲は小説よりも少くしか書かれていない。一九四五年十二月から四七年春まで職業劇団によって上演された戯曲の多くは翻訳劇であった。こんにち一般に日本人の生活を描いた戯曲が上演されることを熱望しているのに、戯曲がそれほど不足しているのは何故であろうか。歌舞伎や新派は自分たちの座つき作者をもっている。戯曲家として大舞台の上演にふさわしい作品を書く人は、従来少なかった。最近死去した真山青果のほか、中村吉蔵、参議院議員となった山本有三などのほかには、若い戯曲家は、主として小劇場の舞台のために書いていた。小劇場は殆ど焼失した。同時にこれらの戯曲家の生活をこめて社会事情は急に変化した。にわかに複雑になった社会現象は、これらの戯曲家の創作を困難にしている。雰囲気をおもんじ、比較的テーマの社会性の弱い戯曲を書いていた人々は、現在の荒っぽい現実を彼らの小規模でみがきのかかった過去の技術の中にもりきれずにいるといえる。
新劇の流れの中に成長した戯曲家は、まだ彼らの過去の業績をしのぐような作品を送り出していない。意力的な構成力をもっている久保栄の「火山灰地」は新劇レパートリー中の古典であるが、一九四七年に上演された同じ作家の「林檎園日記」は、「火山灰地」に及ばないものとしてみられた。
東京自立劇団協議会に組織されている東京附近の三五劇団は、上演創作劇四三の中、二〇ちかく勤労者自身の手になる戯曲を上演している。これらの戯曲は、過去の新劇や軽演劇の影響ももっており、一面に保守的趣味さえ示している。しかし日本製靴労働組合の服部重信の「蒼い底」、「労働者の子」、日立亀有の堀田清美「運転工の息子」、大日本印刷鈴木正男「落日」などは、注目すべき新鮮さをもっていると批評されている。
短歌・俳句 ヨーロッパ文学のジャンルにはない短詩の形式としての日本の短歌および俳句は、伝統的な形式の骨格を保ちながらもその表現の手法やテーマにおいて、より生活的に社会的に変化しつつある。
短歌の古い指導者たちは、ギルド的な自分の流派をしたがえて戦争中軍国主義の短歌をつくった。
新しい短歌グループは、『人民短歌』を機関誌として、短歌の三十一字の形式の中に、今日の市民生活のさまざまの場面と情感をうつし出し始めている。反戦的な短歌が少くない。これは日本の一般人の文学的形式として親しまれてきた短歌のこころが、さまざまの階層の人々の軍服の胸の下に隠されて前線に運ばれ、そこで苦しんだ刻々の心を表現しているからである。兵士たちは、彼等の日記その他貴重な人間記録を焼き捨てさせられた。この事実が小説やルポルタージュに反戦文学の少いことの一つの理由である。彼等はマテリアルも失っている。しかし、三十一字で構成される短歌は、作者によって暗記され易かった。そして、そのいくつかの作品がいま印刷されている。
俳句は、十七字を詩形としている。俳句が伝統とした文学精神は、現実からの逃避であった。しかし今日だれが現実から逃げることができよう。よしんば彼のもつ文学表現の形式が十七字であろうと、二〇〇〇字であろうと──。俳句にも生活派の俳句があらわれた。生活的な俳句の指導者は、生活的な短歌の指導者と同じに戦争中はきびしく監視された。このように、二つの伝統的な文学のジャンルにも新しい風が吹きはじめている。
反戦的な文学 一九四七年の後半になって、やっと少しずつ日本の侵略戦争に対する批判を表現した文学作品があらわれはじめた。
梅崎春生の小説「日の果て」はいくらか通俗小説の傾向があるが、脱走兵のあわれな最後を克明に描いている。宮内寒彌の小説「艦隊葬送曲」、「憂うつなる水兵」等は、報道班員丹羽文雄の「海戦」には描かれなかった水兵の運命を描いた。野間宏の「二九号」は、軍事刑務所の生活を描いた。民主主義文学運動に参加している文学グループの中から新しく小説を書き出している若い人々の中から、短篇であるが「古川一等兵の死」のような兵士の悲惨な運命を描いた作品もあらわれた。
東大の学生が編輯した東大戦歿学生の書簡集『はるかなる山河に』一巻は、文学作品ではないが、深い感銘を読者に与える。日本の軍部は前線から故郷に送る兵士の手紙をすべて検閲した。軍機の秘密に属さないことでも、前線の生活事情と強いられた環境の中での心もちとを率直にあらわした手紙は許可しなかった。明日は戦死しなければならない前夜に、許されて手紙を書くときでさえも、日本の兵士たちは、「滅私奉公します」と書いた。あわれなこの事情の中から、軍隊内でやや階級のよかった若い学徒兵士が、いくらか人間的な心情を家族や友人に伝えることが出来た。『はるかなる山河に』は、昨今流行している第三次世界戦争への挑発に対して、きびしい抗議の一つとして存在している。
外国文学 日本在住の朝鮮人作家が『民主朝鮮』という雑誌をもっている。過去の朝鮮人作家で日本語の書けた人は、舞踊におけるサイ・ショウキのように自分の民族性を売りものにした。しかし日本語で小説を書いている進歩的な朝鮮人作家は、民族と自立と解放の線に立って創作している。
戦争中日本の読者は、外国文学に接する機会を奪われていた。ナチス文学が僅かに輸入されただけであった。ファシズムとナチズムの侵略に対して、フランスその他の国の人々がどのように戦い、誇りある民族の文化を守りつつあったかということは知らされなかった。アメリカの国内で民主的な力は、どのように結集してファシズムと対抗しつつあるかということを知らされなかった。日本へ帰って住むようになったアメリカ通の人々は鶴見祐輔をはじめむしろアメリカを誹謗した。
一九四五年以後の日本のすべての読者は、新しい外国文学に触れることを渇望している。僅かのソヴェト文学、フランス文学、ドイツ文学などが翻訳されたが、翻訳権の問題のために外国文学の輸入は全般的に困難におちいった。
このことは日本においてただ、翻訳上の不便を来しているばかりではない。たとえば、フランス文学の広汎な移入が不可能であるために、偶然一、二冊の本が誰かの手に入ったサルトルなどが、不自然に重大に扱われる悪傾向を生み出している。サルトルの局部的なジャーナリスティックな紹介は、日本の文化の混乱を一層混乱させている。アメリカの真に民主的な精神を伝える文学作品が翻訳されないことも、アメリカの民主主義の世界的な名声の実体を把握しにくくさせている。
中国文学に対して、日本の読者は健全な理解を欠いていた。一部の真面目な中国文学研究者によって現代中国文学は、だんだん日本の読者にも理解されるようになってきた。最近中国文学に対してこれまでにない文学の純粋な興味と愛好とが示されてきた。ここにも翻訳権の壁がある。
翻訳権の問題は、民主主義文化の本質を決定する国際間の問題である。キュリー夫妻がラジウムの特許を公開して自身に独占しなかったことは、人類の科学の歴史に一つの大きな輝きである。文化は人類の富ではないであろうか。商品以外の価値をもつものならば、それにふさわしい人類的処理が期待されてよいと信じる。
文芸家協会や日本ペンクラブの活動は、今の日本の文学全体を推進させるために必しも有効に働いていない。戦争中、文学報国会として戦争協力した文芸家協会は、再出発後も理事会を目下エロティックな文学で活躍している数名の通俗作家によって独占されている。先般、森戸辰男の文部大臣賞の選を文芸家協会がひきうけるかどうかということについても、理事会は広汎な輿論に計らず、良心的な作家が辞任した。日本ペンクラブは国際的文化組織の中でふれているとおり、クラブ資金調達のための現代日本文学作品集から、中野重治、徳永直、宮本百合子の作品をオミットした。民主的な婦人作家佐多稲子は、「現代文学の紹介という点からあんまり不自然に思えるから」という理由によって、自身の作品の収録されることを留保した。
2 映画・演劇
日本映画 日本の映画政策はフィルムの生産状態が悪いために根本的な阻害を受けている。
映画製作会社は一社の最低量七〇万フィートの三分の一にも足りないフィルムを、出来るだけ収入の多い方法で使用しようとしている。そのために各社とも儲の多い劇映画の製作に熱中している。その劇映画も日本映画の芸術的水準を引きあげてゆこうとする努力は僅かに東宝の製作品の一部で試みているだけである。他の会社は一般の趣向の最低を狙って入場券の多く売れることだけを考えている。
このフィルム欠乏状態はよい芸術映画製作をはばんでいるばかりでなく、日本の民主化にとって最も必要な啓蒙的文化映画の製作をほとんど不可能にしている。新しい教育のために子供たちのために利用されなければならない教育映画など殆ど作られる余地がない。真面目な日本人のすべては特にこの点について心配している。
フィルムの欠乏と興業資本の掣肘にかかわらず日本映画の水準を高め、その独自性を確立することについて真面目な製作者たちは熱心な努力をはじめている。これは外国映画の輸入につれて起った当然な現象である。一九四六年度の記念的作品は、日本ニュース社で製作された「君たちは話すことが出来る」であった。この映画を見た人は、すべての日本人が口かせをはめられ、手かせ足かせをはめられ、生命さえおびやかされていた治安維持法というものが廃止されたことを、どんなに心から喜んだかという感動すべき印象を与えられた。日本人は、一九四六年の始め頃には、本当に言論と出版と思想の自由が日本にもたらされたものと信じた。そのナイーヴな歓喜の記念としてこの一巻のフィルムは日本人に永く記念されるであろう。亀井文夫は一九四六年「日本の悲劇」を製作した。これは一つの新しい方法で戦争中のニュース映画をモンタージュしたものであった。日本の軍部が侵略戦争を強行し、拡大して行った諸段階に応じて日本の全人民がどのように戦争にかりたてられ、生活の安定を失い、破滅にのぞんだかということを強く訴える作品であった。しかし興業者たちはそのフィルムを買うことを拒絶した。口実は、観客に受けないという理由であった。しかし興業者にこういう拒絶を可能にさせる一つの圧力があったわけで、この圧力こそ今日でもまだ日本人民に戦争の犯罪性を自覚させまいとしている。四十七年度の日本映画の傑作は次の諸作品であった。東宝「今ひとたびの」(製作者五所平之助)、「四つの恋の物語」(製作者衣笠貞之助)、「戦争と平和」(製作者亀井文夫)、「安城家の舞踏会」(製作者吉村公三郎)、「わが青春に悔なし」(製作者黒沢明)、「女優」(製作者衣笠貞之助)その他、「素晴らしき日曜日」、「花咲く家族」、「長屋紳士録」等も明るいユーモアとペーソスとをもって愛された。最近東宝の経営者は、近代的経営者としての貫禄をとわれる問題に面している。それは「焔の男」の撮影中止問題である。「焔の男」は国鉄労働者の作業現場を中心とする勤労生活映画であり、東宝企画審議会(会社側・芸術家・労組各代表から成る)の提案による製作であった。東宝の経営者は、これもまた商業的価値がないことを理由に製作中止した。国鉄は日本全国に五十四万人の組合員をもっている。これは東宝にとって少い観客であるといえるであろうか。
松竹と大映両社はよい作品を製作するよりもしばしば悪趣味の作品を送り出した。アメリカ映画の貧弱な真似をすることを止めない限り日本映画の芸術的な独自性は育てられないという事実をこれらの社も自覚しはじめた。
洋画 輸入公開されている外国映画のトップはアメリカ映画である。四六年十月から四七年十月までに四五本の作品が公開された。東京に「スバル座」を始めとして幾つかのアメリカ映画館がつくられた。
フランス映画は最近になって少しずつ公開されはじめた。「美女と野獣」、「悲恋」などは多くの観衆をあつめた。
英国映画の公開も「七つのヴェール」をもってはじめられた。
ソヴェト映画は「モスクヴァの音楽娘」が公開され、天然色映画「石の花」はテクニカラーの技術上の優秀なことで注目をひいた。
アメリカ以外の外国映画の輸入はGHQによって免許制で行われている。
輸出映画 一九四七年八月、民間貿易の再開につれアメリカ在住の貿易商松竹商会は一年間に百本までの日本映画買つけを発表した。これよりさき貿易公団では第一回輸出映画を選定し東宝製作の「東京五人男」を輸出した。この選定は必ずしも映画製作者の評価を裏づけとしているものではなかった。
演劇 日本の演劇は、伝統的な「歌舞伎」と日本的な「新派」と一九二〇年代に入ってから日本に発展した「新劇」とがある。「歌舞伎」以外のすべての劇団は、劇場を失って困難している。日本の物資の事情では、新しい劇場の建築を不可能にしている。同時に、舞台装置、照明、衣裳等の物資的困難と闘っている。また、全般的にみて劇場関係者の生計は不安であり、観客は百パーセントの税に苦しんでいる。
「歌舞伎」は脚本のテーマを全く封建社会の悲劇の中にもっている。演劇として歌舞伎が持っている今日の生命は、古典として完成されている舞台の諸様式、古典的舞踊と歌曲とが演技の中に独特な調和をもっておりこまれていることなどである。歌舞伎の代表的ドラマの一つである「忠臣蔵」は、封建君主とその臣下の復讐の物語であり、日本の「武士道」の典型とされてきた。一九四五年八月以後この武士道ドラマはGHQによって上演禁止をされていた。ところが一九四七年歌舞伎座でこの「忠臣蔵」が公演された。そして特に皇后の一行がそれを観た。
歌舞伎は今日の日本人の生活感情にとって主として絵画的な舞台の珍らしさで魅力をもっている。ドラマのテーマがあまり封建的であることは、まだ多くの封建的要素をのこしている一般人にも自覚されてきた。たとえばいい着物を着て歌舞伎を観ることをよろこんでいる若い女性も、徳川時代の男女が彼等の恋愛を死によって完結させようとした「心中もの」には批判を抱いている。
新派 は、歌舞伎よりは新しくしかし新劇よりは古いという中間的な立場から、新しく発展することが非常に困難になってきている。新派は十九世紀の終りの日本に歌舞伎にあきたりない川上音二郎一派によって創立された。新派の俳優たちは、彼等の常套な演技と封建的な内容をもつ脚本の選択をもっていて、主として日本の小市民層を観客としていた。戦争を経過して日本の小市民層の経済状態が変化した。彼等の生活感情が変った。今日の小市民層にアッピールする軽演劇、映画その他の種類が殖え、興味の角度が複雑になった。新派の衰退はこういう社会的原因をもっている。
この困難を征服するために「前進座」は新しい企画を試みている。彼等はユーゴーの「レ・ミゼラブル」、シェークスピアの「ヴェニスの商人」などを東京および各地の学校講堂や学校劇場で巡回上演している。
一九四六年頃から青年男女の間に演劇熱が盛んに起った。その潮流に乗じて前進座は、この企画をある程度まで成功させている。しかし演劇の新発展を期待している人々は、一種の癖をもった新派の演技が、素直な若い世代の演劇趣味に、のぞましくない型をはめることを憂慮している。新派の演技には、小説でいう文学的に高くないフィクションの誇張と卑俗性がつきまとっている。
新劇 日本の新劇は戦争中全くつぶされていた。新劇にはヒューマニズムと理性がある。それは軍部が絶対に好まないものであった。新劇の俳優たちは、何年間も自分たちの舞台を持たなかった。新派と合同したり、あるいは映画に出演したりして苦しい彼等の生存をつづけた。
新劇が蒙むったこの傷は、新劇に理性があり人間性があるだけに深い影響を持った。そしてその傷はまだ治っていない。
その上、興業資本がこれらの新劇人たちの舞台を制約している。彼等は自身の小劇場を焼かれてしまったから。日本の新劇にとって、伝統の受けつぎ手である演出者土方与志は、新劇復活の第一歩としてイプセンの「ノラ」を上演した。つづいて、オール東宝の音楽・舞踊を綜合的に活用して、シェークスピアの「真夏の夜の夢」を上演した。これは、変化に富んだ楽しませる舞台効果によって商業的にも成功した。
新協劇団が公演したトルストイの「復活」、村山知義の監督による「破戒」なども経営的には成功した。しかし演劇的見地からはそれぞれに問題を残している。
青年演劇人連盟が上演したドストイェフスキイの「罪と罰」、俳優座の公演「中橋公館」(真船豊作)、文学座の「女の一生」(森本薫作)などは一九四七年度の注目すべき仕事とされている。四八年の始めに期待されているのは久保栄作「火山灰地」の公演である。「火山灰地」は新劇の上演目録中最も優れた脚本の一つである。この脚本は戦争の長い期間上演されなかった。
日本の演劇に喜劇が発達していないことは注目されなければならない。歌舞伎に喜劇がない。新派にも新劇にも諷刺と笑いとが欠けている。日本の封建性を語るとき、日本文化の中に「笑い」はどのように存在しているかということは研究されなくてはならない。
芸術祭 日本の政府は、本質的な意味ではファシズムと反民主精神とを温存していながら、外面的には日本を文化国家として内外に信じさせようとして努力している。日本の民主化を第一歩においてゆがめた権力が、熱心に美術展覧会を開こうとしたことや、年々「芸術祭」というものを行ってその実行を各芸能団体に要求していることもこのあらわれである。一九四七年度の芸術祭の内容は、極く少数を除いてお義理的な空虚なものであった。一般人は政府仕立の芸術祭プログラムよりも、自分の財布と自分たちが観ようとするものの実質を検査してからでなければ、切符を買わなくなってきている。森戸前文相は国立劇場の設立計画を持って各方面から委員を集めたが、準備会が組織されただけで内閣は更迭した。「文部大臣賞」が芸術祭に参加した団体や個人に与えられた。
日映演 という名をもって映画、演劇人の労働組合が組織されたことは、日本の将来の演劇、映画の発展のために、期待すべきこととされている。
日映演を中心とする労映協議会は国鉄労組との協力によって新しい作品を作ろうとしており、電産労組との協力で「われら電気労働者」などを製作しようとしている。
自立劇団 一九四六年以後、各労働組合や職場などで盛んに演劇運動が起った。農村の青年男女も芝居に熱中した。極く初歩的であったこの要求が、だんだん組織され技術的にも高まって、今日では自立音楽団と匹敵するほど自立劇団が生れている。自立劇団は多く新劇の系統に立ち、日映演の組合員に指導されている。自立劇団は、将来において今日の新劇がゆきづまっている一種のマンネリズムを打破して、民主的な演劇運動の母体となる可能性を示している。現在日本の人民は、あらゆる種類の大衆課税に苦しんでいる。書籍に課せられている税、スポーツ用具に課せられている税、特に観覧税は入場税の一〇〇パーセントをとられる。自立劇団の活動はこの困難を救うためにも要求されている。
組合や職場の演劇に対して経営者は、その費用を出すことで経営者側の好む芝居を上演する劇団にしようとしている。この計画はあまり成功しない。何故なら、観客がとりもなおさず働く人々であるから、自然働く人々の生活的な判断力でその芝居を批判するから。
3 音楽
戦争中正常な意味での音楽は日本の人民の生活から奪われた。演奏会曲目にはドイツ音楽だけが許された。レコードでさえアメリカやイギリスの音楽は禁じられ、子供の唱歌は兵士の歌う軍歌と同じものにされた。演奏会は常に何かの形で、軍関係に義捐の催しでなければならなかった。オーケストラ部員は白と黒との服装を捨ててカーキ色の国民服というものを着た。すべての音楽家は広い戦線のあちこちに慰安隊として動員された。三浦環のような歌手さえ満州へ行かなければならなかった。小学校の音楽教育は急にドレミファからハニホヘトに変えられた。そして軍事的な目的で音感教育がやかましくいわれた。しかもこの子供達が歌う歌は軍歌しかなかった。
このようなおそろしい状態からやっと日本で音楽がよみがえろうとしている。楽器の不足は各家庭や学校の無邪気な音楽愛好心を悲しませている。音楽会場の不足はいろいろの音楽的催しに不便を与えている。軍歌に変って流行歌があらわれ、それは映画の主題歌から最近ではアメリカ流行のブギウギの真似までがある。しかし健全な家庭で親も子供も歌ってよろこぶようなホーム・ソングは生れていない。その場所をうずめているのはフォスターなどの古典歌謡である。
ラジオは古典音楽鑑賞の他に歌謡指導をしたり、職場の音楽紹介を行ったりしているが、日本の作曲の水準が低いために新しいいい音楽の発生は困難である。
戦争中洋楽の日本化が求められて作曲家たちはそのために苦心した。日本の宮廷音楽の主なものであった雅楽のメロディーを応用したり、日本の民謡のテムポを生かそうと試みられたが成功しなかった。雅楽は元来が蒙古のラマの舞踊音楽から転化してきた原始的なものであるし、日本民謡のメロディーは今日の日本人の感覚のダイナミックな要素を満足させない。官立の音楽学校の傾向は長年ドイツ音楽の系統に属していた。フランス音楽は概して官立の音楽教育から閉め出されていた。一九四六年に音楽学校長は小宮豊隆に変った。日本の近代古典として有名な小説家夏目漱石の門下であって多方面な趣味と教養をもっているこの新校長は、音楽教育の革新を決心している。彼は政府の勲章を貰って音楽を忘れているような古い教授をやめさせた。そのかわりに本当に音楽家であるヴァイオリニスト巖本真理のような若々しい才能者を教師として迎えた。音楽学校は各国の音楽に向って関心を示し始めた。この反面に今日の音楽学生は深刻な経済困難にさらされている。多くの学生はキャバレーやダンス・ホールで働いている。そこで彼等は割合によく金を儲けることが出来る。しかし音楽学生の真面目な研究心は損われつつある。音楽教育の民主化の問題はこのような矛盾の解決をも課題としている。
純音楽 日本の指導的なオーケストラは二〇年の歴史を持っている日本交響楽団がある。このオーケストラは一二〇人の楽団員をもち三人の日本人指揮者によって指揮され、毎週二回のラジオ放送と月二回の定期演奏会を行っている。この日響が行ったブラームスの五〇年記念演奏会は注目すべき演奏会であった。
一九四七年に東宝オーケストラが組織された。このオーケストラは劇場づきオーケストラの性格をもっているために、しばしばオペラやバレーに出演している。第一期の定期演奏会には、ベートーヴェンの作品を作品番号順に連続演奏をした。その他に四七年度の主な演奏会としてジョージ・ガーシュイン十年記念演奏会を行った。
東京フィルハーモニー・オーケストラはアーニー・パイル交響楽団となった。アーニー・パイル交響楽団はアメリカの許可によって第一回公開演奏会を行った。
日本人は長い間オペラを理解しなかった。自分たちで創作したオペラをもっていない。四七年度に入ってオペラとオペレッタへの関心がたかまった。いままで日本に唯一のオペラ団であった藤原義江の団体が「ラ・ボエーム」と「タンホイザー」などを上演したほかソプラノの歌手長門美保歌劇研究所が新しく組織されて活動を始めた。第一回公演の「ミカド」は始めて日本で上演され、外国舞台にない魅力で好評を博した。
軽音楽 ダンス・ホール、キャバレー、ショウ、アトラクションなどとしての軽音楽は大流行で、無数の小軽音楽団体が出来ている。日本の軽音楽は主としてアメリカの軽音楽に追随している。この追随は一面的で日本の洋楽の低俗な感覚で受け入れ易い面だけを誇張している。
日本音楽 琴、三味線などを中心とする伝統的な日本音楽はその復活の努力に二つの面を表している。一方はどこまでも古典的なままに日本音楽の伝統を生かそうとする努力である。他の一方は今日の日本の社会生活の現実感情に近づいたリズムやメロディーで新しい日本音楽を創造してゆこうとする努力である。琴においてこの努力をしつつある人々は、洋楽の音階を琴の絃にあてはめている。琴の弾音を利用してピアノまたはギターの効果を求め、一方でハープのやさしいひびきを出そうとしている。このような努力をしている人々によって試みられている新曲やエチュードは小規模なものではあるが今日の日本人に親しい感覚を与える。
三味線のオーケストラが試みられている。三本の絃をはった小さい軽い楽器の伝統的な大きさを自由にしてセロのような低音のハーモニーを見出そうとしている。新しい琴と三味線と横笛との演奏は、単調で憂鬱な昔の「三曲合奏」に全く新しい感情をつぎこんでいる。
能楽 日本の能楽は音楽とはいえない。一種の朗読法である。能楽は楽器を伴った朗読につれてそれぞれの性格を現す「能の面」(マスク)をつけた二人三人の登場人物が、動作のきわめて圧縮されたシムボリックな舞を舞う。日本の伝統的芸術の一つとして「茶道」と「華道」「歌舞伎」などとともに外国によく知られている。しかしこの封建時代の貴族と武士の娯楽であった能は今日の日本人の大多数の生活から全くかけはなれている。能の家元のきびしい封建的な権力争い、能役者の封建的養成法などは能の古典的存在さえ危くしている。この封建的芸術の領域では婦人の能役者というものは認められていない。
日本には音楽の領域に入れられていながら、実は朗読法であり、物語りの一つの方法であるようなものがいくつかある。浄瑠璃がその一つである。これは人形芝居とともにきかれる。浪花節がそれである。浪花節はもっとも教養の低い日本の階層の慰みとして今日も多くきかれている、三味線の伴奏を伴った節つきの物語法である。能はそのテーマの多くを仏教思想によっている。浪花節のテーマは、封建的な武士が絶対権力を振った社会で一種の反抗精神を示していた博徒の世界を多く取り扱っている。このセンチメンタルであって同時に封建的な物語法が日本の民衆の趣味の中に残されている間は、日本民主化の現実が何処にか封建の影をもっていることを証拠だてる。
外国人は外国の所謂「伝統的」音楽、舞踊、絵画などを理解しようとする場合、自身のエキゾチシズムを満足させる習慣がある。あらゆる国々の文化人の間に今日まで残っているこのような習慣は、世界文化に対する相互的な高さよりもむしろその低さをあらわす場合が多い。日本の伝統的音楽などに対しても、日本人が自分たちの歴史の発展の過程で、自分たちの民族文化をどのように健康に発展させようとしているかという方向から注目されなければならない。
新しい音楽の源泉は今日一般人民の生活の中から少しずつ生れはじめた。各労働組合の文化部はブラス・バンドや合唱隊、軽音楽団などを持ちはじめた。学校のコーラス団も発達しはじめた。ベートーヴェンの第九シムフォニーのコーラスには専門学校の男女合唱団がしばしば参加する。いろいろな地域の自主的な文化団体でも音楽のグループは活溌である。一九四七年のメーデーに日本の労働者六〇万人は彼等の新しいメーデーの歌を持った。歌詞は国鉄従業員の組織している「国鉄詩人」の共同作品であった。作曲は民主主義文化連盟が募集して当選した一人のつつましい家庭の主婦の作曲であった。この歌は明るさと親しみ深さと元気とで専門家の間にも好評である。こういう自主的な音楽運動は主として「日本現代音楽協会」が指導している。保守的な音楽団体として「日本音楽連盟」があり、この連盟は八つの職能組合を組織している。
4 舞踊
伝統的な日本舞踊は物質的困難から停滞している。日本舞踊はその基礎の大部分を日本の花柳界においていた。伝統的な花柳界の崩壊とそれにつながる封建的な上層商人の経済事情が変ったことは日本舞踊の決定的打撃となった。古典的な舞踊の流派は藤間、西川、井上、若柳、花柳等それぞれのリサイタルをひらいている。形式の固定した日本舞踊により広いヒューマニスティックな情感を加えて新しい発展を試みている人に西崎緑がある。この婦人は教養の高い上流人で、彼女のより広い趣味から新しい日本舞踊が研究されている。
バレー は戦争からの解放を喜ぶ若い日本人の感情から急速に流行している。解放の感情を肉体で表現しようとする素朴な要求によってバレーは人気がある。同時にこれまで真面目な音楽や芝居にふれる機会のない生活をしてきた今日のヤミ屋の金持たちは、彼等の芸術への興味をバレーに見出しているともいえる。
ダンスやバレーは労働組合の人々の楽しみのプログラムの中へも入ってきている。組合によっては自身の小さい舞踊団をもっている。
5 美術
日本の軍部は文学者を戦争宣伝に動員したとおり画家も戦争目的に隷属させた。ほとんどすべての有能な画家が戦争宣伝の絵をかいた。もっとも積極的であった画家として向井潤吉があげられる。世界にしられている藤田嗣治もこの奉仕からまぬがれなかった。日本の洋画家で戦争に比較的動員されなかった人たちは洋画界の大御所である梅原龍三郎や安井曾太郎および軍部にとってまだ利用価値のなかった若い画家たちばかりである。
文部省は一九四五年の十月帝国芸術院会員の名によって翌年の三月に文部省主催の展覧会復活第一回展をひらくことを声明した。学界ばかりでなく美術さえも官僚統制におかれていることに不満な美術家たちは文部省の形式的な文化行事に対して強い反対の感情を抱いた。第一回の「文展」はきわめて貧弱であった。画家たちは戦争を謳歌した彼等のブラッシで何をえがいたらよいかととまどいしていた。
美術の官僚統制に反撥する若い画家たちによって「日本美術会」が結成された(一九四六年四月)。
文部省は「文展」の組織を少し変更させて名称を「日本美術展覧会」と改め、四六年の十月に再び展覧会を開いた。この展覧会に文部省はまた老大家に対する無鑑査出品制を復活した。新進の画家たちの運動に対抗して旧勢力の保存の傾向があまり明らかであったから、日本の洋画において指導的な実力をもっている二科会、独立美術協会、新制作派、春陽会等はこの展覧会に不参加を決定した。
洋画の材料が配給制になっている。これは戦争中情報局によって考え出された悪辣な方法である。画家は軍部へ奉仕しなければ職能的存在を抹殺されて、えのぐやキャンバスの配給を受けられないようにした。配給は老大家にたっぷりあり、経済的に困難な新進に少量である。これらのことも画壇の民主化を要求させる原因となっている。
ヨーロッパ名画展覧会は新しい出発に困難を感じている洋画界に大きい刺戟となった。四七年三月、読売新聞社主催で、日本にあるヨーロッパ名画展がひらかれた。朝日新聞社が五月さらに優れた作品とロダンの彫刻数点までを加えた展覧会を行った。長年の間眠っていたような国立博物館では館長が代って、もと文相であった安倍能成が就任した。新しい館長は四七年七月に「近代日本洋画展覧会」をひらいてやや活溌な仕事に着手した。この展覧会は日本の洋画の基礎となった明治初期の油絵画家の作品から近代日本洋画の古典となった作家たちの作品をあつめたものであった。
この他しばしば催されるようになったヨーロッパ名画の複製展、中国の版画展、中国の元・宋時代の名作展などは専門家ばかりでなく、美術を愛する一般の人々に喜びをもって迎えられている。
日本画の中心的組織は「日本美術院」である。日本画壇は画商と連帯をもった強固なスター・システムでかためられている。日本画家の生活の全面が封建的であり、きびしい閥がある。日本画家は多くの場合すでに注文主のある絵を仕上げて展覧会に出す。有名な画家の作品はたちまち金持の所有として一般の眼からかくされてしまう。有名な日本画家の作品はヤミ屋の親方によっても財産の一種として買い込まれている。日本画の領域にははっきりした民主化運動が起らないほど封建的習慣がしみついている。
日本画の技法にはさまざまの芸術上の問題が含まれているけれども、それはあまり画家たちの良心を苦しめる問題ではなくなりかけている。何故ならば日本の洋画は輸出品にはならないが、日本画は比較的拙劣な作品でも「日本風」ということでいろいろの海外向け販路がひらけ始めてきたから。
日本画の一つのジャンルである「浮世絵」は昨今新たに注目されはじめた。日本の「浮世絵」は悲劇的な歴史をもっている。明治維新当時、美術を理解しない政府の方針で日本の浮世絵は紙屑のように扱われた。優れた「浮世絵」の多くがボストン・ミュージィアムに集められた理由もここにあった。日本画の価値を正当に判断して日本人に理解させたのはフェノロサであった。今日浮世絵は再び歴史的な立場に立たされている。「観光日本」を考えている人はそのつけたりとしてのように日本浮世絵を扱う傾向があらわれている。あちらこちらで浮世絵展覧会が開かれている動機はすべて美術的見地にたっているとばかりはいえない。
日本政府が高率に課した財産税の目録の中には美術品も包括されている。優れた美術品を所蔵している人々の経済は戦争によって著しく変化した。このために旧家の所蔵していた美術品は財産税をモメントとして軍需成金の変型した新興成金の所蔵に移りつつある。
6 スポーツ
日本のスポーツは、戦争中全く日常生活から抹殺されていた。一九四七年になって、やっと日本の各種スポーツは、戦前のレベルまですすんだ。特に野球は、新しい情熱をもって全国的に普及した。小学生も熱心な野球ファンになった。学生野球は、文部省の監督をはなれて、学生野球協会によって運営されることになり、全日本学生選手権制度を確立した。
職業野球は四七年度の公式リーグ戦において試合総数四七六試合という長期戦を展開した。東京後楽園は、日曜日と祭日に二万から三万の観衆を集めた。しかし収支バランス不調と実業球界の隆盛に選手の補充が十分でなく、一、二のチームを除いてはみるべきものがない。
水上競技では、日本大学学生古橋広之進が四〇〇メートル自由型で四分三八秒四の世界新記録をつくった。
陸上競技では山内リエが、走り幅とびで日本記録六メートル〇七を出して、オランダのブランカース・オーエンの女子世界記録六メートル二五に迫った。
この二人は日本のオリムピック・ホープとして現れたが、一九四七年六月ストックホルムで開かれた国際オリムピック委員会総会の決議によって、日本はドイツとともに一九四八年のオリムピック・ロンドン大会に参加を許されなかった。
スポーツ資材の不足は小さい子供から大人までを嘆かせている。子供に八〇〇円もするミットを買ってくれといわれた時の母親の苦痛は日本全国に共通である。
7 文化組織
文化的な団体として次のようなものがある。
自由法曹団、日本民主主義文化連盟、日ソ文化連絡協会、日本移動映画連盟、日本新聞協会、日本放送協会、農山漁村文化協会、婦人民主クラブ、自由懇話会、新協友の会、日本文芸家協会、日本著作家組合、日本出版協会、新日本医師連盟、綜合アメリカ研究所、中国研究所、新演劇人協会、現代日本音楽協会、教育民主化協議会、児童文化協議会、日本美術会、新俳句人連盟、新日本建築家集団、民主保育連盟、職場美術協議会、自立演劇協議会、自立楽団協議会、文化サークル協議会。
現代日本にある文化団体や学校を種類別にみると次の通りである。学術団体(六三)、芸術団体(文学三八、美術四四、音楽三一、演劇三四、映画四〇)、宗教連合団体(五)、研究調査所(一一七)、小学校(官公立二〇、五三六、私立九五)、青年学校(官公立九、六一五、私立一、二一八)、中学校(官公立六〇四、私立二〇五)、女学校(官公立九八二、私立四一四)、実業学校(官公立一、〇四四、私立三三五)、高等学校(官公立二八、私立四)、専門学校(官公立一五一、私立一八一)、大学(官公立二二、私立三六)、教員養成諸学校(高等師範七、師範五五、青年師範四六、臨時教員養成所その他三三)。教員養成諸学校において、男子卒業者一五、一一四に対し、女子卒業者が僅か八七一であることは注目される(一九四六年)。
育英事業 インフレーションによる学生生活の困難は、大半の学生に校外勤労による学費の補充をよぎなくさせている。同時に奨学資金の貸与額は飛躍的に膨張した。一九四六年度一〇、五六六人の学生が奨学金を受けた。一九四七年八月までに一三、四九五人となり、八月の調査では二八、七六一人に増大した。奨学金貸与月額は四、三一六、七七〇円にのぼっている。
8 国際文化組織
日本ペンクラブ 国際ペンクラブの日本支部として組織されたペンクラブは、一九三六年のヴェノスアイレスの会議を最後として国際的連関をたった。ドイツにおけるファシズムの擡頭に対してヨーロッパおよびアメリカの文化界には、ファシズムに反対する人民戦争の共同活動がはじまった。既に満州や中国への侵略戦争に着手していて、ドイツのナチスとの提携を考えていた日本の軍事的権力は、日本ペンクラブが反ナチスの線で国際的に結ばれることを嫌った。ヴェノスアイレスに日本代表として出かけた作家故島崎藤村は、政府のこの意志をよく理解していた。各国の反ナチス決議に対して曖昧な、儀礼的な態度を示しただけで帰国した。その後ペンクラブは特に「日本ペンクラブ」と改称した。戦争と侵略とにとって邪魔にならないものにしようとした。それでさえも戦争が進行するにつれて存在が許されなくなって解散した。
一九四七年二月に、「日本ペンクラブ」は再建した。第二次ヨーロッパ大戦後における第一回国際ペンクラブの大会が、一九四六年の夏、ストックホルムで開かれた。それに刺戟されて日本ペンクラブも活動を開始した。日本ペンクラブは、「ペン」による国際親善運動を目的とし、国際ペンクラブへ正式加入して日本支部設立を計画している。事業として、現代日本文学の海外への紹介を計画している。
けれども、現在の日本ペンクラブの性格は、各方面から疑問をもってみられている。何故なら、再建された日本ペンクラブは、国際ペンクラブの基本的精神から遠くそれていることが認められるから。国際ペンクラブは一九三四年に、ドイツ・ペンクラブがヒットラーの焚書事件に対して抗議しなかったという理由で、国際組織からドイツ・ペンクラブを除名している。一九四六年の第一回大会においては、オランダ代表が提供した「対独協力作家の追放問題」が圧倒的多数で大会決議として採択され、ドイツ・ペンクラブの国際ペンクラブへの復帰は留保された。翌年の第二回大会で、ドイツの国際ペンクラブへの参加が可決されたのは、ドイツの民主的再建のために献身するドイツ文学者の実力が認められたからであろう。
日本ペンクラブは除名されるよりも早く、自分から国際ペンクラブを逃げたということで、対独協力の責任をまぬがれてよいものだろうか。侵略戦争協力の責任によって最近パージにかかった林房雄、その他の作家を組織員としていることが、国際ペンクラブへの正式加入にふさわしい条件であろうか。海外へ紹介する日本の現代文学作品集の中から、戦争反対の立場を守りつづけた民主主義作家の作品をオミットして、戦争協力作家の作品を網羅していることが、正当な文化の国際連携を可能とし、海外の読者の知性を尊重する態度であろうか。ましてオミットされた作家たちが今日の日本文学の代表的作品をかいている場合。日本の文化界の世論は、日本ペンクラブでの奇妙なセクショナリズムについて注目を向けている。
ユネスコ 日本においてユネスコに対する関心がよびさまされたのは、一九四六年十一月のパリ会議以後である。国際ペンクラブの第二回大会はその決議の一つとして各国のペンクラブがユネスコに対して積極的に協力することを決議した。日本においても日本ペンクラブが、ユネスコに対する関心をよびさましたのであるが、ペンクラブが日本において一種独特な反民主的傾向をもっているように、ユネスコ運動もきわめて官製品の臭気をもって出発した。
一九四七年メキシコにひらかれた第二回総会に対して、日本からもとり急いでメッセージを送るためという理由で、日本におけるユネスコ運動者たちは、一部学生を動員して日比谷で第一回のユネスコ大会を開いた。このニュースは、事後承諾の形で新聞にあらわれた。そして一般の人々を驚かした。日本の平和と自由と独立とを愛するすべての人は、ユネスコ運動者が、侵略戦争の積極的な準備者の一人として活躍していた貴族や「もう一度日本が戦うと仮定すれば、私はもう一度同じあやまちを繰返すであろう」と公言している石川達三を演壇に立たせることに対して、驚きと不快の心もちを抑えることが出来なかった。この異様なユネスコ憲章を愚弄したような第一回集会に、森戸文相は祝辞を与えた。
ユネスコ運動者の第一回の試みは、彼等が予想したよりも一般からのきびしい批難を蒙った。第一回の会合のために組織されたグループは、表面上一応解体したと告げられた。新しく東北地方の大学教授を中心とするユネスコ協力会が仙台に生れた。そして全く新しい構想で東京においてもユネスコ協力会を組織するということで、一九四八年のはじめ準備会が開かれた。準備会に出席した人々は、何処かでこしらえあげられていた委員の名前が読みあげられた時、意外の感に打たれた。委員の中には、もと外交官、商人などのほかに、また例の貴族と石川達三が加えられていた。そしてユネスコ憲章は、原則として団体加入であるのに、日本のユネスコ運動者たちは、理解されにくい彼等独特の理由をもっているかのようにがんこに民主的団体の団体加入を拒絶している。
今日までの経過をみると、日本におけるユネスコ運動は、一般の人々に希望よりも心配を与えている。人々は自分たちがよく選んで健康な種子をまこうと思っていた畠に、何時の間にか誰かの手で消毒されていない古い種子がまかれてしまっているのを発見した農夫のような苦痛を感じている。すべての国で農夫は、虫の喰っている種子を嫌う。文化運動についてもこれは同じことである。非民主的な日本の政府は、日本におけるユネスコ運動が、人民のアクティヴィティの一つとして表現されることを極端に嫌っている。日本の一般人が、国際組織について十分知らされていず、はっきりした定見を持たないうちは、文部省ユネスコで日本の文化運動を統一しようとしている。即ちユネスコの名をかりて文化統制を行おうとしている。
パリ総会における討論の内容を検討すると、そこに暗示的なさまざまの問題がある。国際文化提携の組織として、ユネスコがもし一つのある思想や文化によって国際的統一を結果するような方向になれば、ユネスコの本来の人道的理想は根柢からくつがえるであろう。人類の文化的富は、地球上の各民族がそれぞれの社会的条件と歴史によって、ますますゆたかに生み出す独自的な文化の総和でなければならない。一国内におけるユネスコ運動は、その国の内部にある反野蛮的なファシスト的なすべての文化的善意をたすけ、その活動を高める作用を持たなければならない。文部省のユネスコ運動を真に民主的で自主的な、人類の国際文化運動にまで改善してゆくことは日本における民主的な文化活動の義務である。
追記
この「今日の日本の文化問題」が、書き終えられたのは一九四八年三月下旬であった。それから後こんにちまで五ヵ月ほどの間に、日本の社会情勢と、文化の状況とは一つの新しい段階に入った。したがってこの報告がより完全なものとなるために、以下の追記を必要とする。
本年度の国庫予算は六月下旬に議会を通過した。総額三、九九三億円である。前年度の予算総額は二、一四三億円であった。ほとんど倍額に近いこの予算総額は、最近における日本のインフレーションのすくいがたい悪化を物語っており、同時に一般人民の極度な経済的困窮を示している。あらゆる形で大衆課税がとりたてられ、たとえ所得税の税率がいくらか引き下げられたとしても、汽車賃の二倍半までの増額、公定価格の七割ほどの引上げ、通信料の四倍、煙草の二割から八割の値上げは、あらゆる家計を破綻させている。とくに本年度の悪質大衆課税として批難をうけながらついに国会を通過した物品取引税は、総額二七〇億円の収入を予定されていて、この取引税が時計の修繕にも靴の底なおしにも、映画や芝居をみるときにさえも消費者の負担となってくる。各取引ごとに一パーセントとされているこの税も一年間の負担を通算すれば、各人四パーセントから五パーセントの支出となる。赤字家計は三千七百円ベースでは支えきれない。文化面で一冊の書籍は、これまでの定価になかった五パーセントの取引税を読者のポケットから取ってゆくことになった。
一、以上に述べたような経済事情の悪化は、小規模な出版業者の没落と、没落しまいとするもがきから一層粗悪なエロ・グロ出版を行わせる結果になった。日本出版協会は、日本民主化のために有益な出版を鼓舞しようとするたてまえから、さる六月エロ・グロ出版物追放の仕事に着手した。この仕事は、一応すべての人の常識にうけ入れられる性質をもっている。エロ・グロ出版物の数が減ってより良書が一冊でも多く売り出されることは必要である。しかしエロ・グロ出版物追放に関連して一部に出版取締法のようなものを再び日本につくろうとする動きがある。刑法は猥褻罪を規定しているから猥褻な本の取締りのためには、刑法のその条項を適宜に運用すべきである。もしかりに、漠然と公安を乱すおそれがある出版物はとりしまるというような新取締法をつくったならば、政府はよろこび勇んで、政府を批判し彼らの良心を眼覚めさすすべての出版物を禁止しはじめるであろう。情報局が戦時中すべての戦争反対の言論を禁止したように。
二、日本の文化の民主化を口実として、あらゆる機会に文化の官僚統制をもくろんでいる政府は、用紙割当事務庁案を具体化しようとしている。用紙の不足とそれにからむ不正取引摘発を機会に、内閣直属の用紙割当委員会を組織した。一九四六年に用紙割当事務の内閣移管が行われたとき、政府は日本出版協会の公的存在を認めること、言論出版の自由を認めることを条件とした。ところが行政機構の変革をチャンスとして政府は従来の用紙割当委員会さえも無視して、ただ一人の長官が決定権をもつ用紙割当事務庁というものを創設しようとしている。世論は当然反対し、ひとまず現在の内閣直属の用紙割当委員会の自主的権限を認めるところまで譲歩させた。しかしここに奇妙なことがある。日本出版協会は、内閣直属の用紙割当委員会ができるとき、出版協会の文化委員会を総動員して反対運動にたった。ところが出版統制のよりすすんだ段階を示すこのたびの用紙割当事務庁創設案に関しては、文化委員会から質問のでるまで自発的説明を与えなかった。またひろく文化界によびかけて民主的出版を守るために、イニシアティブを発揮しようともしなかった。このことは日本出版協会という業者の組織が、その機構の内部に戦時中からの役員を包括していることを我々に思い起させる。日本出版協会が今後民主的出版を守るために果してどのように行動するかは、きびしい監視を必要とする。
三、ラジオの民主化が日本の民主化における重要な課題であることは、すでにのべたとおりである。日本のラジオの民主化のために、一九四六年に、民間有識人をあつめた放送委員会が組織された。しかし日本放送協会は、手段をつくして放送委員会をボイコットしようとし、一九四七年には組合を分裂させることにも成功した。そしてラジオの民主化が、意識的に停滞させられているうちに、さる六月逓信省は放送事業法案を国会に上程した。
この法案は日本のラジオの自由と健全な発展を期するために立案されたものであるとして公表された。しかし一般にこの法案が日本のラジオの民主化と自由な発展のために果して適当な性格をもっているかどうかということについてきびしい批判がおこっている。
政府の法案は日本のラジオを全面的に支配する力として放送委員会を規定している(法案第二章)。政府の考えによると放送委員会は総理庁の外局として独立してその権限を行うものとされている。放送委員は公共の利益を理解し公正な判断をもっている三十五歳以上のもののうちから五人を両院の承認をへて総理大臣がこれを任命するとされている。一般の不信と疑問はこの委員選出法に集中されている。なぜならば、我々は現在の政府が一般の信頼をかちえない人物を網羅していて政府閣僚は最近の新聞に報道されるどっさりの不正利得に関する事件および涜職事件に関係のない者はいないほどの有様である。現閣僚はスキャンダルにつつまれている。当分の間日本の人民は、清廉潔白な内閣をもつことは困難であろうと予測している。日本の独占資本がより強力な独占資本の庇護のもとに自身の存在を維持しようとしているとき、その利益を代表する政権が、真に民主的であり得ないことは明瞭である。すべての悪質な大衆課税を通過させた両院が承認する五人の放送委員が、真に公共の利益のためにたたかい、言論の自由のために奮闘する人物であろうということは、こんにちの常識において最もあり得ない仮定の一つである。
放送委員会がそのように期待できない五人の少数委員によって構成され、その委員会が直接総理庁の外局であるとき、自由なラジオの健全な発展は望む方がむしろ不自然ではなかろうか。日本のラジオはこの少数委員会のもつ非常に大きな権限と電波庁との統制をうけることになる。一般の人々が政府案をラジオの官僚統制案とみていることはさけがたい必然である。政府案第十二条は、この五人の委員が「任命後最高裁判所長の面前に於て正規の宣誓書に署名してからでなければその職務を行ってはならない」としている。正規の宣誓書の内容は一般に知らされていない。五人の委員はなにを誓わせられるのだろう。これまで日本の民衆はさまざまの奇妙独善的な人権蹂躙的な誓いをたてさせられてきた。こんにち民衆が自分の未来のためにもっている誓いはただ一つしかない。それは欺瞞のない日本の民主化と自主自立の民族生活をもつことである。新しい五人の放送委員はあらためてそのような誓いをするわけなのだろうか。
なお放送委員会はその職責をはたすために商業、工業、金融、労働、農業、教育、地方自治などの団体代表の意見を徴するようにつとめなければならないとされている。この諸団体のなかに民主的な文化団体があげられていないのはなぜだろうか。一九四六年にはあのように日本民主化のキー・ポイントとして内外から注視された婦人の団体があげられていないのはどうしたわけであろう。日本の青年のこんにちの生活内容は日本の民主化と世界平和のために、彼らに豊富な発言の要求を感じさせている。その青年団体が放送委員会の関心からとりおとされていることは不可解である。
委員の欠格条件のなかにも民主的委員を選出する必要以上の制限を加えているとみなされるものがある。
政府の放送事業法案をめぐって加えられている批難の中心点は、ラジオの官僚統制による言論抑圧の方向である。この批難にたいして政府はむしろ弁解困難な立場にある。言論・出版の自由をおびやかす用紙割当庁法案と並行するラジオ法案がより広く民衆の声を反映する性格をもっていないことはあまりに明瞭である。政府は一方において労働法の改悪、公務員法案の改正、軽犯罪法の制定、教育の民主化をあやうくする教育委員会法案などをすすめている。これらすべては政権の買弁的性質の増大とともに一般の批判にさらされる立場におかれている。日本の人民は今日においてはじめて憲法に規定されている言論の自由と良心の自由とを行動のうえに発揮する必要にせまられている。戦争挑発と日本の軍国主義の再燃にたいして青年と婦人とは胸にいっぱいの抗議をいだいている。ラジオはその時の政府によって官僚統制され、また天降りの独裁放送を行うことを思えば、政府の放送事業法案に対する反対はきわめて強い現実的な根拠をもっている。
一九四六年に組織された現在の放送委員会は日本のラジオの民主化にたいして負わされた責任において、慎重に政府案を検討した。公聴会も開いた。そして政府の放送事業法案にたいして、より具体的にラジオ民主化の可能性をもった放送委員会法要綱を作成した。
現放送委員会の放送委員会要綱は、原則として、国民生活の各面を代表する男女三十名から三十五名をもって構成する。さらにこの多数制の委員のなかから直接な運営委員会を選出し(五名ないし七名の男女)運営委員会はその業務内容を放送委員会に報告すべきものとされる。三十名ないし三十五名の放送委員は公民権を有する国民各層のなかから、最も適当な民主的方法をもって選出されるものとする。以上は放送委員会案の骨子であり、放送委員会は目下精力的に法案の作成に着手している。来る八月初旬に再び大規模の公聴会がひらかれるであろう。
四、東宝のその後。
日本の民主化とともに最も積極的に従業員組合を組織し、文化的に娯楽的に優秀な映画を製作してきた東宝第一組合が「焔の男」製作企画について経営者側と対立したことは前に述べた。その後東宝経営者は、興業資本の利潤追及の方向を強化して、保守的な文化性の低いスター中心に作った第二組合に、安価なエロ・グロ・剣劇映画を作らせ(渡辺銕蔵社長の宣言)第一組合を無活動におとしいれ数百名のくびきりを行った。
輸入映画が国外の興業資本によって日本の文化に植民地的な影響を深めつつあるとき、日本の心あるすべての人々は、日本の人民生活の実感を芸術化した日本の映画の発展を熱望している。放送討論会でも日本映画の将来については大衆の熱心で支持的な発言があった。おくれた日本の映画製作の諸条件は、これからやっと正常な軌道にのせられるはずであるのに、東宝を先頭とする経営者たちは日本文化の課題としての映画製作事業の本質を全然理解しない。軍需会社で儲けたとおりの利率で儲けようとこころみている。この欲望は、非民主的な娯楽の愚民政策と一致している。
最近の二年間に多くの自立劇団、美術、音楽、詩、小説、科学のグループをもちはじめた日本の労働組合員は、彼らの休日の大きい楽しみである映画が、輸入ものかさもなければ愚劣な日本ものしかなくなるということについて、重大な関心を示している。映画製作が簡単な職場の自立製作によっては不可能であるという本質は、勤労階級の映画愛好と正比例して東宝問題の重要性を理解させた。文化における資本主義の害悪を具体的に感じたすべてのものは、日本の人民の自主的な文化を守り、それを発展させることが、経済と政治の面における人権確立にともなう実際的な一つの要素であることを自覚した。産別、総同盟をふくむ労働組合と民主的文化団体の総連合による「日本文化を守る会」が結成された。日本文化を守る会は、その会の本質として出版、ラジオ、教育などに関するすべての問題に関心を示している。必要に応じて日本の文化を守る会の調査団が派遣される。発足したばかりの会ではあるが、日本の民主的文化の確立と平和のためにこの会の活動が期待される部面は広汎である。
五、学生の抗議。
今議会ですべての公定価格を七割値上げした政府は官立専門学校大学の月謝を三倍の値上げに決定した。月謝値上げはアルバイトによってやっと学問をつづけているこんにちの日本の学生にとっては、学問の自由をうばわれることにひとしい。男女学生は月謝値上げに反対である。月謝値上げによって学問の機会をうばわれる一方に、理事会案は学問と学内の自主をそこなう危険をもってあらわれた。学問の自由と日本の学問の自主性のために全国の高等学校、専門学校、大学、一一八校の学生たちは去る六月二十六日を期して学生ストライキに入った。
日本にはこれまでもさまざまの理由から行われた学生ストライキが経験されている。しかし今回のように全日本的規模において学問の自主性のために休業が行われたことはなかった。この現象はこんにちの社会生活のあらゆる面で、さほど進歩的でない学生にさえも、民主的な民族自主の必要がどのように切実に実感されているかという事実を語っている。
日本文化を守る会が結成されたこと、このように広汎な全日本にわたって男女学生の自主的文化学問への要求が表明されていること、また各方面に日本の軍国主義とファシズムの再燃にたいしてたたかい、平和の擁護のために働こうとする人々のグループが結成されたことなどは、日本の人民が日本の運命の現実について次第に真面目な自覚をもちはじめたことを物語っている。最近のジャーナリズムにファシズムにたいするたたかいをテーマとした論策が少くないのをみても、甘やかされていない日本の民主化の現実が諒解されるであろう。
一九四六年以来文化の各方面に各種の委員会がもたれてきた。これらの委員会は民間人によって組織され、日本の過去の反民主的な文化伝統と統制とを打破する目的を与えられていた。現在でも政府の言論官僚統制として批判されている放送事業法案が委員制をもっているように、委員会のモードはすたれていない。ところがこんど制定される行政施行法によれば、すべて委員会と名のつくものは政府の統轄のもとにおかれなければならないことになる。政府にたいして独立の発言権をもてばこそ、たとえば労働委員会にしても勤労大衆の福祉のためになにかのプラスを加えることが可能である場合が多い。それが委員会であるから行政施行法によって政府の掣肘をうけなければならないとすれば、委員会本来の性格は失われる。教育委員会法にしろその規定に従えば、現在決して民主的ではない官庁の支店にすぎないことになる。日本の一般人は、権力者たちが考え出したこの狡猾な委員会の性格のすりかえにたいして注目している。彼らは対日理事会その他のアドヴァイスによって日本民主化のための各種委員会を組織しなければならなかった。やむをえず組織した委員会は表面的な日本の民主化の看板としてかかげておきながら、時をへだてて行政施行法のなかにあらゆる委員会を統制下におく方法を発明している。このような民主化のすりかえは、最近にいたってますます巧妙悪質になってきている。この場合にも彼らの利用するのは種々の弾圧力である。日本の人民は自分たちの政治的無経験がどんなに悪用されているかということについて目を覚ましはじめている。このようにして日本の民主化とその文化建設の段階は、より複雑なより自覚的な新しい第四の時期に入った。
底本:「宮本百合子全集 第十六巻」新日本出版社
1980(昭和55)年6月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十一巻」河出書房
1952(昭和27)年5月発行
初出:「思想と科学」臨時増刊号
1949(昭和24)年1月発行
※「世界生計費指数」「東京物価指数」の表中の項目は、タブで区切りました。
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月14日作成
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