『くにのあゆみ』について
宮本百合子
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去年の八月からきょうまで、十四ヵ月ほどの間、日本じゅう幾百万の国民学校の上級児童は、日本の歴史教科書というものを失っていた。
小学校令が行われ、国定教科書で教えるという方法がきまったのは明治何年であったか知らない。けれども、日本の子どもが歴史の教科書をもたなかったことはかつて無かったことなのであった。
その異常な経験におかれた日本のこどもがやっと新しい『くにのあゆみ』を持つことになった。各新聞に、その梗概がのせられている。政府は、新しい民主憲法を、何故か世界民主国人民の祭日である五月一日に実効発生することをきらって、十一月三日に発布することにきめた。文部省は一億円という尨大な予算を憲法祭のためにとった。新歴史教科書もその関係で発表されたのであろう。
考えてみると、このようにして日本の児童が新歴史教科書をもつようになった事実は、決してただ国民学校の一課目の教科書が新しく制定されたというだけの意味ではない。全日本の私たち、すべての人間が、これまでいく久しい歳月の間、民主日本の発足とともに、子供に話してやることさえも出来ないような片手落ちに書かれた日本歴史で養われて来ていたのであったという深刻な反省をもとめられるのである。
かえりみれば、これまで私たち日本人が教えこまれていた日本の歴史は、むきになって強調されていた上代の神話と、後代の内国戦の物語、近代日本の支那・ロシア・朝鮮・満州などにおける侵略戦争とその植民地化との物語であった。その時代時代の軍事上の覇者たちが英雄権力者として扱われていた。庶民の日々の営みとその生産の発展などにつき、これまで、日本歴史は眼をくれなかった。幼ごころのそもそもから、軍事的であり侵略を勝利として扱ったものの考えかたで養われてきた正直な幾千万日本人が、今回の第二次大戦で支配者に万事をあやまられしかもなおそれを十分自覚していないようなのも、さけ難いことであった。
『くにのあゆみ』が、従来のように東洋における覇権の争奪者としての日本を描き出す態度をすてて、平静に、われらが生国日本における民族生活の推移と、諸外国との関係を扱っているのは当然である。新制『くにのあゆみ』は、その点に特別の配慮がされていて、物語る口調そのものの平らかさにまで随分気がくばられている。
抗争摩擦の面をさけてなるべく平和にと心がけられた結果、その努力は一面の成功と同時に、あんまり歴史がすべすべで民族自体の気力を感じさせる溌剌さを欠いている。それは、これまでの調子から離れようとしているときのさけがたいあらわれかもしれない。何年かさきに、必ずもう一度日本の歴史教科書は書き直されるべき見とおしに立っている。
もう一遍かき直されたとき、はじめて日本民族は、自分たちの祖先が、世界進歩の波瀾の間にどんな失敗をし、どんな功献、建設をしたかということを率直具体的に知ることが出来るだろう。真に自主日本の物語をもつに到るであろう。『くにのあゆみ』が日本の歴史学的な根拠もとぼしい皇紀をやめて、西暦に統一して書かれたことは、この将来の展望の上からも妥当である。
底本:「宮本百合子全集 第十六巻」新日本出版社
1980(昭和55)年6月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
初出:「婦人民主新聞」
1946(昭和21)年10月31日号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月14日作成
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