メーデーぎらい
宮本百合子
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憲法が改正された。すべての日本人は、男女、身分の差別なく法律の前には平等であるという立て前による憲法が出来た。民主憲法といわれる根拠は、その前文に、主権は人民に在る、といわれていることである。すべての人民は働く権利をもっている。そしてまたすべての人民は教育をうける権利をもっているとも明示されている。政府は、この民主憲法を、世界人民の祭日である五月一日のメーデーに実効を持つようになるのはいやだから、十一月に入ってから、五月一日をさける日どりで発布すると、新聞に発表した。そのときは大した金をかけて、憲法祭をやるという計画も発表している。
日本の人民の九割五分は勤労する人々である。今年のメーデーによろこんで行進した人々の数は、世界第二位であった。民主憲法というならば、戦争の終ったこと、野蛮な軍事権力の崩れたことをよろこんで、雨の日のなかを、ああやって行進した日本人の九割五分の人々の嬉しい日、五月一日こそ、愉快な一致として、憲法が効力を発生する日になって一向さしつかえないと思われる。そうだったら、どんな人も決して新憲法の働き出した記念日を忘れることはないだろう。しかし、政府は、それをいやに思った。はっきり新聞で、人民のよろこびの日と、憲法が働き出す日とは同じであることを拒んだ。人々は、このことをも忘れないであろう。こういう政府の感情というものは実に雄弁に、今日の政府が民主的なすべての行為に対して抱いているこころもちを語っている、はらのなかから、本当に新しい日本の建設に歓喜したりしていない、ということをはっきり語っているのである。
放送の国家管理という不手際で高びしゃなやりかたや、新聞のゼネストをこわすために暴力をふるったことなどは、目にまざまざと見える「五月一日ぎらい」のあらわれである。
文化の面にも同じ気分が支配していて、学生の政治行動を禁じている。今日の学生は、窮屈な資金の枠内で、すべての市民と同じ食糧難、書籍難、交通難に苦しんでいる。どっさりの勤労経験を与えられた学生、復員学生がある。生死を賭して、若い命を最も真面目な経験にさらして帰った学生はおびただしい。これらの青年が、自分たちの経験から新しい日本の建設について本気に考えているのは当然である。今日学生の本分が、教室での勉強にあるというならば、政府は、校門から数十万の学徒出征をさせたあの事実を、それらの青年たちに向って何と説明するつもりだろう。一人の人間が、政府の都合で勇敢な一人前の男にされたり、半人前の学生ときめられたりすることは迷惑に思うのである。基本的人権というものは、政府の都合で伸縮する「天狗の鼻」のおもちゃではないのである。
底本:「宮本百合子全集 第十六巻」新日本出版社
1980(昭和55)年6月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十二巻」河出書房
1952(昭和27)年1月発行
初出:「アカハタ」
1946(昭和21)年10月16日号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月14日作成
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