行為の価値
宮本百合子



 オーストリイのウィーン市のはずれに公園のように美しい墓地がある。そこに、ベートーヴェンの墓やモーツァルトの墓があった。偉大な音楽家の生涯にふさわしく、心をこめて意匠された墓が、晩春の花にかこまれてあるのを見た。

 ポーランドのワルシャワ市はポーランド人が自由を求めて幾度の行進した町だが、そこの公園に美しいショパンの記念像がある。大理石の浮彫のその彫像は、五月の若葉のかげにまことに印象深かった。

 モスクワの街々にプーシュキンやオストロフスキー、グリボエードフなど文学者の記念像が立っていることは、ひろく知られている。日本の、どの街に、どんな音楽家の像が立てられているだろうか。どんな学者の姿が見られるだろうか。今日まで日本を支配して来た権力は、文化を理解する能力をもたなかった。人間の智慧がこしらえられるものは、武器と牢獄とであり、人々の間に響く声といえば号令だとしか考えなかった。ましてや、人民解放のために生涯を捧げた解放者の像などはない。

 明治末期から大正にかけて、日本のブルジョア・インテリゲンツィアの文学の一つを代表した作家夏目漱石は、文学的生涯の終りに、自分のリアリズムにゆきづまって、東洋風な現実からの逃避の欲望と、近代的な現実探究の態度との間に宙ぶらりんとなって、苦しんだ。最後の作「明暗」は、ただ現象ばかり追っかけるリアリズムでは現実を芸術として再現することさえ不可能であるということを示している。

 漱石は、今日の歴史から顧みれば、多くの限界の見える作家であるが、知識人の独立性、自主性を主張することにおいては、なかなか強情であった。官僚にこびたりすることは、文学者のするべきことでないという態度をもっていた。東京帝大教授として、文部省の愚劣さを知りぬいていたから、そういうところからくれる博士号などは欲しくないと云って、ことわった。

 同じ時、三宅雪嶺という哲学者が博士号をもらってうけた。ことわるほどのものでもなかろう、と笑って受けて、腹が大きいとかほめたものもあった。この雪嶺は、国粋主義者で、中野正剛を婿にした。これもことわるほどの者でもなかろう、というわけだったのかもしれない。誰かから、立派な邸宅をおくられた。ことわるほどのものでもなかったと見えて、それもうけとった。

 漱石の妻君の弟に、建築家があった。その人は、建築家仲間がその姓名のゴロを合わせて、「アドヴァンテージ」(利益)というあだ名で呼ぶような人柄であった。漱石は、その人をすかなかった。親類でも、いやな奴はいやな奴として表現する。それが漱石であった。

 漱石が死去して、門人たちは出来るだけこの文学者の趣向に合った墓をこしらえてあげたく思った。ところが、アドヴァンテージが墓をつくった。石づくりの、でっちりとした重苦しい墓で、それは漱石の心に反した。心ある人々は、死んで、抗議の云えない人の墓を、生前好かれていなかったと知っている者が、今こそと自分の生得の力をふるってこしらえた心根をいやしんだ。そして、漱石を気の毒に思った。その墓は、まるで、どうだ、何か云えるなら云ってみろ、と立っているようである。

 日本の治安維持法は十七年間に十万人の犠牲を出して、一九四五年の秋、その血なまぐさい歴史を表面上まきおさめた。

 この悪法が撤廃され、獄中の人々が解放された時、日本は一種の昂奮した状態におかれた。悪法犠牲者が、そのとき英雄と見られた。まして、もう少しで自由になれるとき、獄死した共産主義者たちに対して、尽しきれない遺憾が表明された。それは、自然で、真実の心であった。

 入獄していた三木清氏が、解放の日を待たず死去された。戸坂潤氏も、死去された。三木清という哲学者は、西田幾多郎の哲学の解説者であり、戦争中は南方に出かけたりしていた。最も進歩的な階級の哲学である唯物弁証法の哲学に対して、日本で一時大流行をした西田哲学というものは一種の観念的哲学であり、自然と社会に対する進歩的な認識を助けるというよりも、それを混乱させる役割をもった。それが、西田哲学の歴史における性格である。

 三木清氏に、一人の娘さんがある。やっと女学校ぐらいの年頃で、父親の入獄中、疎開先の埼玉県の農家に一人で留守していた。夫人は早く死去されたとかきいた。さし入れ、その他の世話は、娘さんの稚い心くばりを、東京市内の某書店につとめていた或る人が扶けて、行っているという話をきいた。三木氏の義理の兄弟で帝大農学部教授がある。どうして、その人が、小さい娘一人をかばって世話をひきうけられないのだろう。おどろいて、不思議に思った。「やっぱり、こんな時勢だからでしょうね」と話した人は語った。

 一九四五年十月という、日本にとって歴史的な月がすぎて、記念に、三木清賞の会が組織された。そしたら、その発起人の第一に、義理の兄弟である教授が名前を出していた。

 云うに云えないこころもちでそれを眺めたのは、私一人だけだったろうか。こういう名流人たちの保身上の「都合」というものはいろいろはたから分らない事情があるのだろう。無力で小さい娘と、名をかくして親切をしてくれる人々に「英雄」が生きて苦しんでいたときの世話をゆだねたのなら、安心して、その身近い者であることを寧ろ誇れる時となって、死者をそのようにとりまくことは、妙に思える。親切や尊敬は、それが最も必要なときに示されてこそ、真実の意味がある。

 獄中で死んだ国領五一郎氏のために、またその他の同志のために、無言で何年も何年も差入れその他の世話をして来た一人の女性を知っている。その婦人はそういう親切を咎められて検挙もされた。今日そのひとは、どんな記念賞の晴れ役にもならず混雑した室の小さい机に向って地味に民衆のために働いているのである。

〔一九四六年八月〕

底本:「宮本百合子全集 第十六巻」新日本出版社

   1980(昭和55)年620日初版発行

   1986(昭和61)年320日第4刷発行

底本の親本:「宮本百合子全集 第十二巻」河出書房

   1952(昭和27)年1月発行

初出:「青年ノ旗」

   1946(昭和21)年830日号

入力:柴田卓治

校正:磐余彦

2003年914日作成

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